蒼空の果てに

特攻基地串良

串良基地は沖縄作戦の際に、艦上攻撃機の出撃基地として使用された。特攻出撃や夜間 雷撃と数多くの艦上攻撃機がここから発進し、沖縄周辺の敵艦船攻撃に向かったのである。 串良基地から発進して戦死した同期生は次の十柱である。 昭和二十年四月六日 神風特別攻撃隊菊水天山隊 田中 和夫(石 川・十七歳) 一三一空攻撃二五六飛行隊 同 望月九州男(大 分・十七歳) 一三一空攻撃二五四飛行隊 神風特別攻撃隊八幡護皇隊 松木 昭義(愛 媛・十八歳) 宇佐航空隊 昭和二十年四月十二日 神風特別攻撃隊八幡護皇隊 堤 昭(福 岡・十八歳) 宇佐航空隊 昭和二十年四月十六日 神風特別攻撃隊八幡護皇隊 小河 義光(福 岡・十七歳) 宇佐航空隊 昭和二十年四月二十八日 神風特別攻撃隊第一正気隊 弥永 光男(福 岡・十八歳) 百里原航空隊 神風特別攻撃隊八幡神忠隊 犬童憲太郎(鹿児島・十八歳) 宇佐航空隊 昭和二十年五月十一日 神風特別攻撃隊菊水雷桜隊 小野 静雄(佐 賀・十七歳) 九五三空攻撃二五一飛行隊 同 山岡 智明(高 知・十八歳) 同 昭和二十年七月二十二日 雷風雷撃隊 穂坂 信也(福 岡・十八歳) 九三一航空隊
 
               穂坂信也君遺影。
穂坂信也一飛曹は福岡県嘉穂郡の出身である。鹿児島空の予科練から谷田部空の中練、 そして百里原空の艦上攻撃機での実用機教程まで、筆者と同じ道を進んだ。飛練卒業後は 一三一空の攻撃二五四飛行隊に所属、天山艦攻による練成訓練を終了して串良基地へ進出 した。そして、沖縄周辺の敵艦船群に対して夜間雷撃を繰り返していた。 その間、「特攻隊」として串良基地から出撃した、百里原空時代の教官や教員それに同 期生を、断腸の思いで見送ったのである。沖縄作戦の終了にともない、攻撃二五四飛行隊 は香取基地へ移動した。だが彼は、串良基地所在の九三一空に転属となり、引き続き沖縄 周辺の敵艦船に対する夜間雷撃に出撃していた。
          攻撃254飛行隊 慰霊碑
昭和二十年七月二十一日、その日の出撃は四機であった。この出撃を同期の宮本一飛曹 が見送っていた。操縦員穂坂信也一飛曹、偵察員湯川保郎中尉、電信員浅野義夫一飛曹、 これは攻撃二五四飛行隊が串良基地へ進出して以来の固有のペアである。 二二三〇、彼らは最後に離陸した。離陸の際《パンパンパン……》と排気管から異常な 音を発していた。エンジンの調子がおかしい様子であった。先に離陸した三機が左に旋回 したのに、 彼だけは右旋回をはじめたので、引き返してくるものと思っていた。 ところが、彼の機はそのまま低く垂れ込めた暗雲の中へ爆音を残しながら、志布志湾の 方向へ姿を消し去ったのである。そして翌朝、彼の飛行機だけは帰投時刻を過ぎてもつい に帰還しなかった。彼もまた、教官や教員それに数多くの同期生の後を追うようにして、 沖縄の海に消え去ったのである。 福岡県護国神社で例年行われている慰霊祭に、穂坂君の母親が彼のお姉さんを介添えに 参加された。その時の話に、「偉い人はあの時期、 戦争が終わることはわかっていたはず、 無理に命令を出さなくてもよかったのに……」と、慨嘆された。 命令を下す者。命令を受けて何のためらいもなく、危険を承知で攻撃に向かう者。人そ れぞれの運命というべきであろう。最愛の息子を亡くされた母親の嘆きは、日時の経過で 薄れるものではない。何とお慰めすればよいのか、その言葉はみつからなかった。 鹿児島県串良町は、 旧串良航空基地の跡地の一部を整備して「平和公園」とした。更に、 昭和四十四年十月、ここ串良基地より飛び立って、祖国防衛のため散華された、若桜四百 有余柱の英霊を弔うとともに、この事績を後世に伝えるため、慰霊碑を建立した。そして、 毎年十月に追悼式を行っている。

今出撃せんとす      
  何も思い残すことなし        
父母兄姉よ幸福であれ        
  心爽やかにして大空の如し         
こうしているのもあとしばらくです  
                     さようなら    
                                             
太平洋戦争末期斯くして串良    
航空基地より飛立ち 肉弾となりて      
帰らざりし三百有余の御霊よ            
                     安らかれ                
必ずや平和のいしずえとならん  

  昭和四十四年十月十一日          
   旧串良海軍航空隊基地出撃戦没者 
    慰霊塔建設期成会々長
           串良町長  佐  枝    潔

串良基地跡慰霊塔。


平和公園慰霊塔碑銘。
平和公園

全機突入
                     ある整備兵曹の回想(百里会々報に寄稿)  昭和二十年三月下旬から四月初旬にかけて、「菊水一号作戦」参加のため、練習航空隊 で編成された特別攻撃隊が串良基地に進出してきた。その使用機は九七式艦上攻撃機で、 出撃予定日は四月六日である。第一陣は姫路航空隊。そして第二陣の宇佐航空隊は早々に 到着した。直ちに、垂水航空隊から派遣された魚雷調整班員の手によって魚雷投下器の整 備が施された。あとの一隊である百里原航空隊の進出日は、四月四日とされていた。  その日、天山艦攻担当の整備員は一般の雷撃隊出撃に備え、その整備点検・雷装作業に 従事していた。当日薄暮の作業予定としては、百里原空より到着する九七艦攻を掩体壕に 収容した後、直ちに出撃する天山艦攻の列線を敷くことになっていた。  陽春の昼下がりは何となく眠気を催す。作業を一段落した整備員たちは、それぞれの掩 体壕で休息をとっていた。そのとき百里原空の進出機から、「発動機不調のため、不時着 指定飛行場である宇佐基地に着陸する……」との電報を基地通信室が受信した。  他隊に遅れて串良基地に到着した、 百里原空の各搭乗員の面持ちには、「菊水一号作戦 の参加に遅れをとってなるものか……」との強い気魄に満ちあふれ、出迎えの整備員たち は思わず目を見張った。  使用機である九七艦攻は、晴化粧をしたばかりなので、一見したかぎりでは逞しく感じ られた。しかし、飛行科事務室の係員が、その来歴簿から判断したところによれば、 「まさにスクラップ寸前のしろもの」だとのことであった。  機体・発動機・プロペラそれぞれ別葉に備えられた来歴簿は、海軍軍人の考課表に相当 するものである。それには、製造会社名・製造番号・製造年月日・飛行時間・整備記録そ の他の必要事項が細大漏らさず記録されていて、飛行機と共に移動することになっている。  艦攻担当の整備員が百里原空所属の機体のそばに近寄り、それに触れながらしみじみと 語った。「昔の老武士が、白髪を染めて戦場に赴く姿にも似ている……」と。
百里原航空隊の九七艦攻
死に化粧を施して出撃した百里原空の九七艦攻。
 四月六日、「菊水一号作戦」発動。串良基地から最初の特攻出撃が敢行された。当日、
在鹿屋基地の第五航空艦隊司令部から、金ピカのお偉方をはじめ、金モールの参謀や報道
班員たちが、乗用車とバスを連ねて続々と来訪してきた。そして形ばかりの出陣式を済ま
せるや、さっさと引き揚げてしまった。

 この日、なぜか百里原空の九七艦攻には出撃の命令が出なかった。そのことについて、
整備員たちは例によっていろいろと憶測した。上層部にしてみれば「ポンコツ機」に雷装
は不適当だと判断した上でのことかもしれない。だが、あれほど特攻の先陣(九七艦攻隊
での)を承りたいと願っていた百里原空の搭乗員たちは、その旨を告げられたときには、
どんなにか悔しかったことだろう。

 当時、「ガソリンの一滴は血の一滴に匹敵する」と、燃料使用は厳しく監督されていた。 
しかし、その厳しい中にも燃料担当の掌整備長からは、「搭乗員には決して燃料の心配は
させるな、必要とあらば惜しみなく使用せよ」と、 申し渡されていた。

 そのような話し合いができているところに、百里原空の中西中尉(海兵七十二期)から、
「基地の燃料供給並びに使用状況」についての質問を受けた。彼はすでに、基地の飛行長 
や整備長から大体のことを聞かされていたのであろうが、練習航空隊で燃料の厳しい使用
制限を受けていた体験から、基地の燃料係から直接に実情を聞き知っておきたかったので
あろう。

 私は掌整備長からの指示もあったので、「在庫は充分にありますから、いくらでも使用  
してください」と答えた。この時、中西中尉には春原上飛曹が付き添っていた。この先任
搭乗員は、南方戦域の経験が多く、戦闘体験のない列機の若鷲たちに、「基地外体験談」
を面白おかしく物語り、彼らの心に安らぎを与えていた。

 出撃の日(菊水二号作戦)、燃料作業員が燃料の搭載作業を終えて、 飛行機から燃料車
に移ったとき、春原上飛曹は彼ら作業員に向かって、「有難う、有難う」と礼を言った。
彼はなにげなく言ったのかもしれないが、作業員にしてみれば、燃料を積んだことで礼を
言われることなど、初めてのことだったので、少なからず感激していた。 
         
 この日も、串良基地総員が見送りの位置についた。ヒレのない特攻専用の爆弾を抱いた、
「老朽機九七艦攻」は短い滑走路を一杯につかい、少しばかりヨタヨタしながらも雄々し
く飛び立って行った。とかく思い出は遠ざかるものだが、この時の「帽振れ!」の別離の
感傷は今も忘れられない。
                                     
 百里原空の出撃機は、二段、三段に構えたグラマンの警戒線を突破し、外周に配備され
ている見張りの小型艦艇などには目もくれず、見事敵の本陣に向かって全機突入を果たし
た。さすがに経験豊富な教官や教員を主体にして編成しただけのことはある。その様子は
戦果確認機によってつぶさに報告された。
                       
 串良基地に於いて、出撃全機が突入を果たしたのは、百里原空(常磐忠華隊)が初めて  
であった。また、魚雷を改装した特攻専用爆弾使用の「爆装攻撃」も最初であった。ただ
惜しむらくは、使用機が余りにも老朽すぎた。

 常磐忠華隊員の中で、ただ一人海兵出身の中西中尉。彼のことを基地のお偉方は、「海
兵精神の権化」と口にしながら連日祝杯? をあげていた。そして、「百里原空に続け!
百里原空を見習え!」と、口癖のように発言された。

 一方、基地に展開した各飛行隊の若鷲たちは、お偉いさんの、おざなりのつぶやきなど
意に介することなく、「百里原空に負けるな!」を合言葉にして、勇躍敵機動部隊へ捨て
身の殴り込みをかけたのである。

串良基地から出撃した特攻隊員の絶筆。氏名の判読できた方の所属及び出身県。
常磐忠華隊(百里原空) 増子定正上飛曹(福島)は百里原空時代われわれの教員であった。
第二護皇白鷺隊(姫路空) 野元純候補生(長崎)・菅田三喜雄候補生(岩手)・福田茂男候補生(岡山)・森久2飛曹(香川) 古谷純男候補生(神奈川)・沢田久男2飛曹(大阪)・田中謙四郎2飛曹(東京)・加藤昭夫2飛曹(大阪)
第三護皇白鷺隊(姫路空)  粟村敏夫候補生(広島)・原正候補生(千葉)・大谷康佳2飛曹(香川)・羽生国明2飛曹(茨城) 入江義夫2飛曹(島根)
白鷺赤忠隊(姫路空) 山田又市候補生(静岡)・後藤惇候補生(和歌山)
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