♪雷撃隊の歌♪

蒼空の果てに

     雷撃隊出動

     第五航空艦隊の司令部が置かれていた鹿屋基地は、鹿児島県大隅半島の中央部にある。 その東方志布志湾に面して串良基地があった。ここは沖縄決戦に際して、艦上攻撃機の出 撃基地として使用され、特攻に雷撃にと数多くの艦上攻撃機がここを基地として戦った。  その当時、戦闘機は第一国分基地、艦上爆撃機は第二国分基地、銀河は宮崎基地そして 鹿屋基地は陸上攻撃機というように、出撃基地が指定されていた。作戦参加を命ぜられた 各航空隊の艦上攻撃機はこの串良基地に進出し、第五航空艦隊の指揮下に入り、沖縄周辺 の敵艦船に対して雷撃及び爆撃を敢行していた。  神風特別攻撃隊の編成を命ぜられた、第十航空艦隊隷下の宇佐空・姫路空・名古屋空・ 里原空所属の九七艦攻も、ここ串良基地から次々に発進した。また、特攻出撃を命ぜられ、 一三一空で編成された菊水部隊天山隊も、ここを出撃基地として、沖縄周辺の敵機動部隊 に対して還らざる攻撃に飛び立ったのである。
雷装した天山艦攻
雷装した天山。
                           
 「特攻機」として沖縄作戦に使用された天山艦攻は三十九機(突入確実と認められたも
の二十八機)である。零式戦闘機の六百三十機や彗星艦爆の百二十機に比較すれば極端に
少ない。これは夜間雷撃や黎明薄暮に肉薄雷撃を反復実施することで、「体当たり攻撃」
以上の戦果が期待されていたからである。

 ところが、レーダーに誘導された敵夜間戦闘機の襲撃や、猛烈なる対空砲火による被害
は甚大で、無事に帰還できる確率はきわめて少なかった。だから、体当たり攻撃にも劣ら
ぬ二百機を越える未帰還機をだしたのである。

 このような状況下で、沖縄作戦に参加した艦上攻撃機の搭乗員は、日時に多少のずれが
あったが、大部分の者がここ串良基地に展開して戦った。一三一空攻撃二五四飛行隊には、
穂坂信也・上原俊一・福迫満の各二飛曹が所属し、この基地から魚雷を抱いて出撃を重ね
ていた。

 また、一三一空攻撃二五六飛行隊では、平岡健哉・出直敏・石川繁・島原芳高・田中和
夫・酒井知通の各二飛曹がそれぞれ練成訓練を終了し、 やはり串良基地に進出して戦った
のである。彼らはいずれも、百里原空で艦上攻撃機の実用機教程を筆者と一緒に卒業した
同期生である。
      
 四月下旬のある日、攻撃二五四飛行隊の穂坂二飛曹が夜間雷撃の命令を受け、 早めの夕
食を済ませて掩体壕に向かっていた。すると、懐かしい九七艦攻が駐機している。尾翼の
マークを見れば、間違いなく百里原空所属の機体である。

 使い古したはずの飛行機なのに新造機と見違えるようにきれいに塗装されている。源平
合戦の昔、討ち死にを覚悟して出陣した平家の老将、斎藤別当実盛が、白髪を染めて戦場
に赴いた故事に倣い、整備の連中が徹夜で化粧を施したものであろう。

 穂坂二飛曹は去る四月十二日、飛行術練習生時代に飛行訓練に使用していた九七艦攻に、
西森大尉を指揮官として中西中尉や先任教員横山上飛曹をはじめ、春原上飛曹、高尾上飛
曹それに増子上飛曹らの教官や教員が乗り組んで、魚雷を改造した、 特攻機専用の爆雷を
抱えて、次々に出撃するのを断腸の思いで見送ったばかりである。

  引き続き四月十六日には、吉池上飛曹が皆の後を追うようにして出撃した。今度はだれ
が出撃するのだろう。待機している搭乗員の中に知った顔はいないかと探した。すると、
桐畑上飛曹がいた。そしてその横には、同期で福岡県出身の弥永光男二飛曹と千葉県出身
の菅沢健二飛曹が控えていた。

  半年前まで教員として雛鷲を手取り足取り教え育てた親鷲が、いよいよ死期を迎えよう
としているのだ。巣立ったばかりの若鷲が、新鋭機天山艦攻で雷撃を繰り返しているのに、   
経験豊富な教官や教員に、使い古しの九七艦攻で一回限りの体当たり攻撃を実施させると
は矛盾も甚だしいと思う。

 その後の百里原空の様子など、聞きたいことや話したいことが山ほどありながら、いた
たまれない気持ちになって早々とその場を離れた。

 神風特別攻撃隊第一正気隊、海軍上等飛行兵曹桐畑小太郎(大分県国東郡国見町出身)
氏の遺書を紹介させていただく。桐畑上飛曹は、百里原空の操縦教員として、 われわれの
操縦訓練を担当していた。そして、われわれが飛練を卒業した後、「特攻隊」に編入され、
串良基地へ進出、昭和二十年四月二十八日一六〇〇、沖縄に向かって出撃したのである。


戦場へ臨む前に一筆書残す
生を享けてより二十五年 過去何の孝行も為さず 誠に申訳ありません
然し 小生帝国海軍の軍人として 立派に敵艦を屠ることが出来て         
皇国の為めに死す事が出来たら 小生は本望です
最後に臨んで くよく詳しく言ふ事はありませんが
御国の為めには にっこり笑って自爆した事を お察し下さい 
尚幼い弟等へも良く小生の意志をつぐ様 言ひきかせ下さい
最後に 母上を始め皆々様の御健闘を祈る では御機嫌よう        
 二伸 遺品は後程整理される筈ず 近所の方によろしく
    もう一つ 之が届いたら 大上先生へよろしく
   四月二十一日               小 太 郎 拝
 母上様    
     返信無用  

桐畑小太郎上飛曹。

昭和20年5月3日朝日新聞。(大分県国東郡国見町 桐畑正寿氏保存)
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