縁(えにし)の糸
拝啓 突然お手紙を差しあげる失礼をお許しください。
私は神風特攻隊員だった、弥永光男の姪にあたる者でございます。
去る八月十五日の夕方のことだったと思います。見るともなくつけ放しにしていたテレビ
から特攻隊という言葉が聞こえて思わずテレビをみつめました。
父の弟が特攻隊員であったことから、幼いときから特攻隊と聞くだけで敏感になっており
ました。
画面に永末様の年齢が七十歳と出ておりましたので、「あゝ光男さんも生きておられたら
ちょうど同じ七十歳だなあ」と思いながら見ておりました。
ところが次の瞬間、弥永光男と書いた遺書が画面に映り、私はあっと息をのみました。
光男さんは私の父の末弟です(三男で末っ子)。
私たち兄妹にとりましては叔父にあたりますが、四人兄妹のうち昭和十三年生まれの兄と
十五年生まれの私だけはその面影を覚えており、「お兄ちゃん」と呼んでいた気がします。
私たちは光男さんのことを、「叔父さん」ではなく、「てるおさん」と呼んで、その生涯
を話したりしてその若い遺影をしのんでいました。
八月二十五日に西鉄久留米駅の書店で御著書、 「かえらざる翼」を買い求め、二十九日の
深夜読み終えました。その間、いくたびか訓練の苛酷さを思い涙をふいたことでしょう。
志願なんかされなかったらよかったのに……。
いっそ試験に合格などされなかったらよかったのに……。
病気にでもなって帰郷されていたらよかったのに……。
そんなことが何度も私の胸裡をよぎりました。
入隊から最期の日までの歳月、何か楽しいことのひとつもあっただろうかと思うのです。
光男さんの遺書は、どのような経路で届いたのか、幼少であった私にはわかりませんが、
三井郡山本村の生家にたしかに届いておりました。
母親ハルエにとりましては覚悟をしていたとはいえ、目に入れても痛くない末の男の子の
戦死は、どんなにかつらかったでありましょう。長男である私たちの父もまた、それまで
妻子と共に台湾にあり、精糖会社に勤務しておりましたが、昭和十八年召集により出征し
ました。
母は五才の兄と三才の私をつれて、はるばる台湾から引き揚げてきて父の生家に落ちつき
ました。祖母と母と私たち幼い兄妹という、いわゆる女子供だけの明け暮れの続くなかに、
光男さんの戦死の公報が入ったのでした。
昭和十九年二月、休暇帰省中の弥永君。
父が光男さんの戦死を知ったのは、昭和二十二年、ジャワ島から復員してのことでした。
長兄である父は、年齢の離れた弟光男さんが可愛いくて、またふびんでならなかったので
しょう。ことあるごとに特攻隊の記事があれば切り抜いて保存したり、また本を買ってき
ては光男さんを偲んでおりました。光男さんの話になると胸が塞がる様子でした。その父
は昭和五十六年、他界いたしました。
母もまた、「光男さんはほんとに愛らしい顔をしてあったのよ」と、よく私たちに話をし
ました。光男さんの遺書は祖母亡きあと母が大事に保管し、またいろいろな資料をアルバ
ムに整理したりして今も山本の生家にあります。その母も、光男さんの五十年忌の法要を
ねんごろに営ました二年後の平成七年に八十歳の生涯を閉じました。
三井郡山本村であった村は、昭和三十三年に久留米市に合併して、今は久留米市山本町と
なっています。
両親なき後の生家は現在兄が守っていますが、ふだんは福岡市に在住のため、週末を山本
に来て過ごすという往ったり来たりをくりかえしています。私は小郡市に住み、主人と娘
と私の三人家族の生活です。すぐ隣りの太刀洗町は、昔太刀洗飛行場があった所です。
JR基山駅から甘木市まで、第三セクターによる甘木鉄道にはレールバスが走っていて、
いつも利用する松崎駅から三つ先の太刀洗駅に平和記念館があります。
まだ一度も行ったことがありませんのでこの機会に行ってみょうと思います。
永末様「かえらざる翼」を出してくださってほんとうにありがとうございました。
またあの日のテレビ放送にも感謝の念でいっぱいです。あの放送を見なかったら、御著書
に出合えることもなく、光男さんの飛行機が発進した串良基地のことも、また現在平和公
園となったその地に、昭和四十四年に戦没者慰霊塔が建立され、毎年十月十五日に追悼式
が行われていることも、全く知らずじまいになるところでした。
知らなかったとはいえ、長い間身内の者の訪れもなく、光男さんはどんなに淋しかったで
しょう。旅なれない私ではありますが、お教えいただいてぜひその地を訪れたく存じます。
本文を読んで涙し、またあとがきに「長い歳月の流れに拘わらず若くして大空の彼方に消
えた同期生の面影が事ある毎に今も眼前に彷彿とする」とお書きになった永末様のお心を
思い涙がとまりませんでした。
私ごとを長々と書きそのうえ悪筆にてわずらわしかったと思いますが、どうしてもお便り
を差しあげたく、出版社に電話してご住所を教えていただきました。
失礼の段はどうぞお許しくださいませ。
永末様におかれましては御身をたいせつにくれぐれもお元気にお暮らしのほど切にお祈り
申しあげます。 敬 具
平成九年九月一日
楢 崎 マ サ 子
平成九年八月十五日、私の特攻隊時代の体験談が、「終戦特別番組」としてテレビで放
映された。楢崎様はたまたまこれを見られてお手紙を書かれたと言われる。それにしても、
単なる偶然とは思われないものを感じた。
このお手紙を受け取った私は、 九月二十八日に「甲飛十二期生第十八回慰霊祭及び全国
同期生会」を別府市で実施することになっていたので、早速この会の幹事役である別府市
の鈴木克美君に連絡して、楢崎マサ子様を同期生会にご案内するように手配した。
そして大会当日、鹿児島空や上海空それに百里原空で、弥永光男君と同じ部隊で勤務し
ていた、西部博俊君(福岡)や同じ中学校から一緒に予科練に入隊し、鹿児島空や上海空
で行動を共にした、筒井義春君(佐賀)を紹介した。
また、串良基地主催の平和公園での追悼式にも出席したいとのご意向を受け、東串良町
に在住され献身的にご遺族のお世話をなされている、中西スミ子様を通じて追悼式案内状
の発送を串良町に依頼した。そして、鹿屋市在住の同期生内山勇雄君には、追悼式当日の
案内役をお願いした。
拝啓
行く秋の風の冷たさが身にしむ候となりました。その後お変わりなくお過ごしでしょうか。
別府の同期生大会から串良の追悼式への出席まで、いろいろとお気づかいいただきました
こと、心からお礼申しあげます。
おかげさまで、戦後五十二年にして初めて、叔父弥永光男の出撃の地、串良の戦没者追
悼式に参列することができました。会場にて、中西スミ子さんとお会いし、私が式に来ら
れたことを自分のことのように喜んでくださいました。中西さんはとてもお元気でした。
また、同期の佐藤千年氏が「弥永君とは予科練で班が一緒でした」と、声をかけてくだ
さいました。犬童憲太郎さんのお妹様夫妻ともお会いしました。いくつもの花輪のなかに、
元正気隊員の方からのものがあり嬉しく思いました。
懇親会では、はじめての出席なので誰も知っている方はいないだろうと思っていました
ら、「楢崎さんいらっしゃいますか」と、四人連れの男の方が名簿を頼りに私をさがして
おられ、「よかったらこちらの席へどうぞ」と、招かたのでした。正気隊員だった江名氏
と加藤氏それに前田氏。また百里原で皆と一緒だった小林氏、みんな光男叔父を知る方々
で、結局この方々が花輪をあげてくださったのでした。いろいろ資料をいただきました。
翌日、内山氏にホテルまで車で迎えに来ていただき、鹿屋の慰霊塔に行ったところ、こ
こで、江名氏、小林氏に出会いました。内山氏が「よかったらご一緒にどうぞ」とお二人
を誘い、鹿屋航空基地史料館や、桜花の碑などゆっくり時間をかけて見学することができ
ました。内山氏には二日間すっかりお世話になったうえに、帰りにはおみやげまでいただ
いてきた次第です。
永末様とのご縁をきっかけに同期生の方々には、大変親切にしていただき感謝していま
す。このことは、光男叔父にも必ずや通じたことと思います。戦後五十二年、膨大な月日
の流れにかかわらず、またこの世去りし人とは、十万億土へだたり住むにかかわらず、縁
の糸は切れてはいなかった。そういうことを痛感した秋でした。
いろいろのご配慮ありがとうございました。寒さきびしくなる折から、ご健康にお過ご
しになりますよう、お祈り申しあげます。 敬 具
平成九年十月二十八日
楢 崎 拝
追伸 今日夕方、別府大会の写真が届きました。
大変ゆき届いた会で心あたたまる思いがいたしました。
平和公園と慰霊塔。
追悼式に参列された楢崎様。
背景は弥永君の氏名が刻まれた碑銘。
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