古里の空へ
私は二度も「特攻隊」に編入されたが、遺書を書いた記憶はない。ただ、 特攻隊編成に
際して写してもらった写真の裏に、拙い一首を辞世代わりにしたためたのを、面会に来た
父親に渡していた。
しかし、これで立派な覚悟ができていたわけではない。人並み以上に生への執着もあり、
死に対する不安を持っていた。ところが、われわれ下士官兵は、自分の心情を親や兄弟な
どの肉親に伝える手段を持たなかったのである。
あの当時、死を目前にしたわれわれは、遺書とはどのように書いたらよいのかその内容
に悩んでいた。それと同時に、どうすれば他人に見られずに直接肉親に手渡すことができ
るのか、その方法を求めて苦労していたのである。
故海軍少尉松木学君は、宇佐空で艦上爆撃機の飛練を卒業し、同期の江藤君や古小路君
などと一緒に出水基地所在の七六二空に配属された。ここで、最新鋭爆撃機銀河による錬
成訓練を開始した。ところが、南九州地区が敵機動部隊やB29の空襲を頻繁に受けるよう
になったため、飛行隊は原隊を離れて美保基地に移動して錬成訓練を行うことになった。
訓練終了とともに彼らは「特攻隊」に編入され、出撃基地である宮崎に移動することに
なった。彼は、その移動途中に規則を無視し、編隊を離れて懐かしい生家の上空へ飛んだ。
そして、母親に宛てた遺書をマフラーに包んで投下するという非常手段をとったのである。
終戦後聞いた話である。昭和二十年五月十日、愛媛県宇摩郡長津村の上空に突然双発の
飛行機が一機飛来して低空を旋回しはじめた。そして、白い布に包んだ物を投下して翼を
振りながら南西の空へと飛び去った。これを見ていた松木トキさんは、直感的にわが子が
最期の別れを告げに来たのだと確信した。だから、この包みを拾って駐在所に届けたうえ、
警察官に立ち会ってもらいその包みを開けた。
謹みて生前の御礼申上候
今は此の感激が何にか譬へられず候
大日本帝国の繁栄を神仏賭けて御祈願申上候
誰の手に 手折られけんか桜花
ただ知るのみは 醜の御盾と
攻撃四〇六飛行隊
海軍一等飛行兵曹 松 木 学
母上様