祖国を敵として
南新保君(写真前列向かって左端)の波乱の人生を紹介する。彼は日系二世であった。
ご両親の勧めで来日し、鹿児島県加治木中学(旧制)に学んだ。ところが、大東亜戦争の
勃発により彼の苦難の人生が始まった。ご両親との文通が断たれ、 お互いが消息不明の状
態となったのである。
彼は、大和民族としての誇りに殉じようと、父母の国と戦うことを承知で、海軍甲種飛
行予科練習生を志願したのである。鹿児島航空隊から谷田部航空隊そして筑波航空隊と厳
しい訓練を耐え抜いた彼は、零式戦闘機の搭乗員として戦闘に参加した。しかし、武運つ
たなく負傷不時着した。だが、戦死は免れることができた。
南新 保 一飛曹。
その間の彼の胸中は察するに余りある。当時彼は自分の身上を秘していた。だからわれ
われ同じ班に居た者も、戦後始めて知り得たのである。そのため、人知れずに悩んだこと
も多々あったものと推察する。戦争が終わっても直ぐには帰国することができず、悶々の
日を送った。
それは同じ日系二世でありながら、ヨーロッパ戦線に派遣され抜群の戦功を挙げて凱旋
し、その栄誉を称えられたあの「二世部隊」とは違って、彼の場合は祖国を相手に戦った
からである。
そのため大変な苦労を重ねた様子である。紆余曲折を経て、ようやく帰国が叶い、現在
はホノルルで余生を送っている。幸運にも彼が戦死を免れた裏には、わが子の無事を願う
ご両親の祈りが、国境を越えて通じていたものと思われる。
梓特別攻撃隊
山村輝夫君や後藤義治君(別府中央病院にて療養中)は予科練で筆者と同じ二十二分隊
の五班で訓練を受けた仲である。彼らは谷田部空で中間練習機教程を終了し、実用機教程
は豊橋空で陸上攻撃機を専修した。飛練卒業後は七六二空攻撃四○六飛行隊(出水基地)
所属となり、大分県出身の島津一達君などと一緒に赴任した。
搭乗機は銀河である。ここで、宇佐空で艦上爆撃機の実用機教程を卒業した、古小路裕
君や江藤賢助君それに松木学君らと合流した。またこの航空隊には、 偵察専修の飛練を卒
業した同期生、岡田武教君や山根三男君それに橋本守君などが所属していた。
山村君は後藤君や島津君たちと、新造の銀河を受領するため、鹿屋基地に派遣された。
そこで、ウルシー泊地攻撃に出撃する「梓特別攻撃隊」の、林栄一君(愛知・十九歳)や
葛佐直人君(徳島・十八歳)それに原田照和君(佐賀・十八歳)らの同期生に偶然行き合
わせ、最後の言葉を交わしている。彼らはそれぞれ次の辞世を残し、従容と死地に赴いた。
命下り振り返れば桜島 別れ惜しむか煙り棚引く 林 栄一
大君に召されしわが家誉れあれ 春きたらむと祈りつつ征く 葛佐 真夫
御国のため楯になりしか若桜 散りにし後に誰かおしまむ 原田 照和
梓特別攻撃隊23号機ペア。
左から(操)原田二飛曹・(電)葛佐二飛曹・(偵)松井飛長。
その後攻撃四○六飛行隊では、「神風特別攻撃隊」が次々に編成されて出撃して征った。
「第七銀河隊」には江藤賢助君(福岡・十八歳)と岡田武教君(大分・十七歳)が編入さ
れた。昭和二十年四月十六日○七○五、勇躍出水基地を発進した「第七銀河隊」は、喜界
島一五五度五○浬の敵機動部隊に対し、壮烈なる「体当たり攻撃」を敢行した。
その前夜、出撃する彼らを囲んで山村君や島津君などの同期生が一緒になって、夜遅く
まで別離の杯を交わしたそうである。彼らは次の辞世を残して悠久の大義に殉じた。
大君に召されし我が身国のため 起死回生の特攻たらむ 江藤 賢助
命下り楯にならむと我はゆく 祈る心は長閑な春を 岡田 武教
昭和二十年四月十七日、出水基地の攻撃四○六飛行隊では前日の「第七銀河隊」に続き、
「第八銀河隊」を編成した。ところが出撃準備中に《空襲警報》が発令さ、全機空中退避
が指示された。後藤君は対馬から済州島上空まで飛び、もうよかろうと、見張りを厳重に
しながら着陸した。整備員の話によると空襲はB29ではなく、艦上機の来襲だったそうで
ある。
この空襲で、同期生橋本守二飛曹(福岡)は空中退避が間に合わなかったらしく、地上
で奮戦中に戦死した。享年十七歳。
彼は特攻出撃を前にして、次の辞世を同期生の島津ニ飛曹に託していた。
御國のため若輩なれど我征かむ 永久に報國の志はかたし 橋本 守
翌十八日、攻撃四〇六飛行隊は訓練基地として鳥取県の美保基地に移動した。ここでは
空襲の心配もなく、訓練に明け暮れていた。ところが五月八日、同じ基地で訓練を行って
いた、七○一空攻撃一○五飛行隊に着任して間もない大分県出身の、江嶋春生一飛曹が殉
職した。彼は、美保基地の指揮所を目標に、彗星艦爆で急降下爆撃の訓練中に、抵抗板不
良のため操縦不能となり墜落したのである。
沖縄戦の激化にともない、九州南部の各基地はB29や艦載機による空襲が頻繁に行われ
るようになった。そのため、美保基地に移動して錬成訓練を続けていた攻撃四○六飛行隊
に、沖縄周辺の敵艦船群に対する雷撃命令が下った。
昭和二十年五月十七日、美保基地を離陸して一路出撃基地である宮崎へ移動した。ここ
で燃料と魚雷を搭載し、準備万端の後藤一飛曹(五月一日進級)たちは、慶良間列島付近
に游弋する、敵艦船群に対し夜間雷撃を敢行するため勇躍基地を発進した。
この攻撃で敵夜間戦闘機の攻撃からは逃れることができたものの、猛烈なる対空砲火に
さらされ、偵察員佐藤正義一飛曹(神奈川)は機上で戦死した。後藤一飛曹も負傷したが、
薩摩半島沖まで帰り着き、枕崎の海岸に不時着して九死に一生を得ることができた。
攻撃四○六飛行隊では、特攻作戦に参加して「体当たり攻撃」を敢行するのと並行して
夜間雷撃をも実施していた。山村輝夫一飛曹(山口・十八歳)は昭和二十年六月五日夕刻、
沖縄周辺の敵艦船に対する夜間雷撃の命を受け宮崎基地を発進した。
偵察員関豊一飛曹、電信員福井弘一飛曹、何れも甲飛十二期生のペアであった。彼らは
悪天候を突破し、敵夜間戦闘機の追撃をかわして雷撃を敢行せる模様なるも、以後消息を
断ち、帰投時刻を過ぎてもついに帰還しなかった。
引き続き六月二十五日、島津一達一飛曹(大分・十七歳)が夜間雷撃のため、宮崎基地
を発進した。しかし、二十六日○○一七以降交信が途絶え、ついに未帰還となった。彼ら
も江藤君や岡田君らのあとを追うようにして、 沖縄の海に消え去ったのである。
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