蒼空の果てに
小坂分隊長の弔慰文 拝啓 暑さ厳しき折から尊家ご一同いかがおすごしでございますかお伺い申し上げます。 私は典郎君が上海航空隊飛行術練習生当時の分隊長でありました。 典郎君ら同期生は鹿児島航空隊から上海に参りました。私は新任の中尉の頃で、分隊長勤 務は初めてで、百四拾余名の練習生一人一人の名前と顔を覚えるのに一週間かかりました。 優秀なる練習生、茶目な練習生、いろいろな性格の持主で主として九州地方出身で、初め の頃は時々わからない言葉もありましたが、何といっても最初で私としては最後の教官生 活ですから大変印象にあります。 典郎君は大変な頑張り屋でした。勉強にもスポーツにも熱心でした。私は末弟が昭和六年 生まれで、当時中学生でしたので、丁度弟を見るようで皆可愛く思いました。 上海には四個分隊きていましたが、幸い私の分隊はスポーツでも飛行訓練でも常にトップ の成績でした。 私も最初の勤務で、士官室での起居よりも練習生の兵舎での時間が多く、それこそ朝から 晩まで二十四時間生活を共にしました。 卒業して特に温厚なる優秀者を、後輩指導の教員として数名指名致しました。 典郎君はその中の一名に選ばれました。練習生時代に引続き、今後は教官教員の同僚とし て、同じ航空隊につとめることになりました。 戦局が推移して次々と実戦部隊に転勤になりました。 典郎君が当時海軍の最新鋭機銀河の搭乗員となりました。弱冠十七歳、花と散ったことは 国の為とはいえ私は現在、ご家族の方々に何と申してよいのかその言葉も容易に見出せま せん。只々ご冥福をお祈り申しあげます。 先の神戸での慰霊祭の当日、混雑にとりまぎれお会いできなかった事は、かえすがえすも 残念に思います。 次回は昭和四十七年夏との事であります。どうぞご自愛され、名古屋大会にておあい致す ことが出来ることを祈っております。 敬 具 昭和四十五年八月六日 小 坂 美 智 雄 西 山 巽 様