蒼空の果てに

     再び大井航空隊ヘ

   沖縄を占領したアメリカ軍は、次の目標として、本土上陸を画策するであろう。状況は 更に逼迫してきた様子である。七月下旬、われわれが担当していた、偵察員に対する錬成 訓練は中止された。そして、再び「特攻隊」の編成を命じられた。  急きょ大井航空隊へ帰還するため、身の周りの整理をしていると、空襲警報が発令され た。B29による夜間爆撃である。飛行場に出て、いつでも退避できるようにと、防空壕の 端から空を見あげた。  すると、四日市の上空と思われる方向でB29の編隊から次々に投下される焼夷弾が大空 を彩っている。火花が滝のように降り注いでいる。怖いという感じよりも、不謹慎だが、 打ち上げ花火のように美しいと形容したい光景であった。  悪夢のような一夜が明けた。飛行場には直接の被害はなかったが、終夜の空襲で寝不足 である。手荷物をまとめて、トラックに乗り亀山駅まで送ってもらった。昨夜の空襲は、 四日市だけではなかった。亀山の町も焼夷弾で焼かれ、あちこちにまだ煙が上がっていた。 また、道路の端には牛の死骸が放置されたままで、地獄を思わせる風景であった。  汽車に乗り、四日市、名古屋、浜松と通過する。窓から見えるのは、焼け野原となった 町並みだけである。人影もほとんど見かけない。いよいよ最後の時が近づいたことを肌に 感じていた。日ごろはふざけ合う仲間も、今日はお互いに口数も少なく、表情には出さな いが覚悟を決めている様子であった。  一ヵ月にわたる、鈴鹿基地での勤務を終わり、大井航空隊に帰ってみると、空虚で、な んとなくガラーンとした感じである。話によれば、第五航空艦隊に配属された高知航空隊 と徳島航空隊が、沖縄周辺の敵艦船に対し「体当たり攻撃」を敢行して、ほとんど全滅し た様子である。  その穴埋めのため、大井航空隊で編成した、「八洲隊」の第一中隊が京都府の峯山基地 へ、第二中隊が愛媛県の石手基地へと、基地総員の盛大な見送りを受けてそれぞれ進出し、 第五航空艦隊の指揮下に入ったとのことである。残るは、われわれ第三中隊の三十数機だ けとなった。いよいよ出撃の時期が近づいたのである。沖縄を占領した敵は、次はどこへ 上陸してくるのだろうか。九十九里浜か、それとも駿河湾か。いずれにしても、その時こ そが「八洲隊」の特攻出撃の時であり、死ぬ時期であると覚悟を決めた。     当時使用した飛行場配置図

湖畔の宿

たび重なる空襲で、基地の建物は破壊され、兵舎などの施設は飛行場の外に分散されて いた。飛行場のある牧之原台地を西に下り、堀之内へ通じる道路の南側に、大きな農業用 の溜池がある。その周辺の松林の陰に、小さなバラック兵舎が建てられていた。われわれ はこれを、ある種の感慨をもって「湖畔の宿」と呼んでいた。 夕暮れに、水面に映る風景を眺めながら、遥かに故郷の山河を偲び。灯火管制された薄 暗い裸電灯のもとで、肉親への手紙をしたためたり、トランプ占いやコックリさん(占い の一種)のお告げに一喜一憂して、明日の運命を模索する生活を続けていた。 限りある生命だから、一日一日を大切に生きなければと思いながらも、この将来に希望 の持てない、その日暮らしの生活を、当時流行していた高峰三枝子の歌う、「湖畔の宿」 の歌詞に重ね合わせて、己が運命の儚なさを思い、感傷に耽っていたのである。  水にたそがれ せまるころ  岸の林を しずかに行けば  雲は流れて むらさきの  薄きすみれに ほろほろと  いつか涙の 陽がおちる  ランプ引き寄せ 古里へ  書いてまた消す 湖畔の頼り  旅のこころの つれづれに  ひとり占う トランプの  青いクインの 寂しさよ そして、再び死ぬための訓練が開始された。先に沖縄周辺に出撃した、高知航空隊や徳 島航空隊の戦訓に基づき、昼間の攻撃は不可能と判断された。だから、夜間攻撃の訓練に 専念することになった。 日暮れとともに「湖畔の宿」を出て飛行場に向かう。そして、終夜飛行訓練を実施して 夜明け前に、「湖畔の宿」に帰って就寝する。昼と夜とが入れ替わった生活が始まったの である。兵舎には窓に暗幕を張って暗くしている。作業などで止むを得ず明るい所に出る 場合は、色眼鏡を着用するように申し渡されていた。闇夜に慣れるための処置である。 ところが、昼間はなかなか熟睡できるものではない。窓が小さいうえに暗幕を張ってい るので、風通しが悪く蒸し暑いのがその原因である。更に、死に対する恐怖や生に対する 未練など、人生経験の浅い十八歳の身には解決すべき問題があまりにも多く、ベッドに横 になっても、いろいろな妄想が浮かび、肉体的疲労とは裏腹になかなか寝つかれなかった。 また、度重なる敵機の来襲などにより、食事の時間も不規則となり、睡眠時間も不足が ちであった。ある日、朝昼晩と三食も続けて、豚汁が配食された。主計科が残飯で飼育し ていた豚が、前日の空襲で被弾したそうで、思わぬ大御馳走にありついたのであった。 またある日の空襲で、烹炊所に爆弾が命中したため炊事が出来ず、乾パンと缶詰しか配 食されない事もあった。搭乗員には、特別に航空食などが支給されていたので、何とか喰 いつなぐ事ができた。この時期、精神的にも肉体的にも、極限の生活が続いたのである。
大井空目次へ 次頁へ

[AOZORANOHATENI]