遺書と遺髪
「おい、お前はもう遺書は書いたのか?」 「いやまだだよ、遺書って、どんな風に書けばよいのかなあー」 「遺書なんて簡単だよ、借金と女性関係なし、とだけ書けばいいんだ」 「なんで借金や女性が遺書に関係あるんだ?」 「それはだなー、戦死した後になって金を貸していたとか、おなかの赤ちゃんはあの人の 子供ですとか言う者が出てきたら、 親が困るだろう……」 「なーるほど、それじゃーもう女遊びも駄目かー」 「そうだよ、特攻隊員は軍神になるんだぞ、身を謹まなくっちやー」 「おいおい偉そうぶって、お前さんが一番遊んでるくせに……、それでも軍神になれるつ もりかよ」 などと、とんだ方向に話が弾むのであった。また、 「遺書なんて止せ、止せ、お偉いさんが読むだけで、特攻は軍の機密だとか何とか言って、 どうせ家族には渡してもらえないんだ……」 と、検閲されて破棄されるのが落ちだと言い張る者もいる。その当時、分隊長や飛行隊長 その他責任ある立場の者から、遺書の取り扱いについて説明を受けたことはなかった。 思っている事や、伝えたい事をそのまま書くことのできない立場にいながら、なおかつ、 肉親に伝える内容や渡す方法を模索しなければならない焦躁は、これを体験した者でなけ れば到底理解できないであろう。そのうえ、遺書を書いたとしても家族に確実に届けても らえるという保証はなかったのである。 洋上飛行を主な任務としていた、海軍の搭乗員が戦死や殉職した場合、遺骨などは残ら ないのが普通である。まして帰還を否定された、「体当たり攻撃」ではなおさらである。 だから、なんらかの証しを遺しておきたいと思うのは人情である。 この時期、だれが思いついたのか「遺髪」を伸ばすことが流行し始めた。われわれ下士 官兵は規則によって長髪は禁止されて、すべて丸坊主であった。だからその場になって、 遺髪を遺そうとしても、短すぎて役に立たない。そのため、頭の天辺に一つまみの頭髪を 刈らずに残していた。そして、お互いにその長さを自慢し合っていた。無邪気といえば無 邪気なものである。しかし、この様に大切に育てた遺髪でも、確実に家族に渡される保証 はなかったのである。神風吹かして
特別攻撃隊の編成は、軍の機密事項である。だから、その事を手紙などに書くことは許 されなかった。軍隊では機密保持のため、われわれ下士官兵が出すハガキや手紙は、すべ て分隊士に提出して検閲を受けることになっていた。だから、日ごろ家族に出す手紙類は、 元気で勤務しているから安心するようにとの、簡単な内容であった。 ところが、「特別攻撃隊」が編成され死を意識すれば、両親に対して、今生の別れを告 げたいと思うのは人情であろう。また、死の瀬戸際に立って、最後の気持ちを伝えたいと いう切実な願いもあった。切羽詰まって、ついに規則を無視することにした。 他人に読ま れても気づかれないように、それとなく最期を仄めかすような文面のハガキを、金谷町の 下宿の住所を使って父親宛に出した。 現在では想像もできないことだが、その当時の一般家庭には電話などなかった。だから、 ハガキか手紙を出すのが一般的な通信手段であった。また急ぎの場合には電報に頼るしか 方法がなかった時代である。 ある日、航法訓練から帰り地上指揮官に報告を終わって控室に入ろうとしていると、 「面会人が来ているから、正門の面会所に行け」 と、西村分隊士から告げられた。更に、理由は分からないが、 「飛行服は脱いで行け」 との指示があった。 面会人てだれだろう? 近くに知り合いもいないのにと、不審に思いながら衛兵詰所に 行った。衛兵伍長に届けて面会所に入ると、意外にも父親が待っていた。例のハガキを見 て、金田駅の助役に頼み込んで切符を都合してもらい、三日がかりで来たとのことである。 当時は、特別の理由がないと長距離の切符は手に入らなかった時代である。たまたま父親 の従兄弟が、郷里金田駅の助役として勤務していたのが幸いした。 昨日、金谷町の下宿を探し当てて待っていたが、外出して来なかったので、下宿の人に 飛行場の場所を聞いて、朝早くから来ていたとの話である。衛兵所で面会を申し込んだが、 「ただ今、飛行訓練中である」と言われて、三時間近くも待たされたとのことであった。 私の家族は、長兄が前年の十月二十六日に、フィリピン方面で戦死したとの公報を受け 取っていた。次兄は現役兵として陸軍に入営中で、三名の姉婿もそれぞれ召集されて軍務 に服していた。 それらの家族や親族の近況を聞き、母も会いたがっていたが、遠いのと留守番の問題も あって断念したとの話であった。空襲も激しさを増している時期に、遠い九州からはるば る会いに来ていただき、親なればこそと感謝の気持ちで一杯であった。昼飯の時間も近づ いたので、今夜は間違いなく外出するから下宿で待つようにと言って、面会所を出た。 * デッキに帰り、昼飯をすませて皆と雑談していた。すると、副直将校が来て全員に整列 をかけた。何事かと思っていると、 「貴様らの中に、検閲を受けずに隊の外からハガキを出した不心得者がいる」 と、文句を並べ始めた。 「しまったー!」 「これは俺のことだ!」 一通り文句が終わると、皆の前に引っ張り出された。 「足を開け、歯を食いしばれ!」 早速型どおりの制裁が始まった。しばらくは我慢していたが、 あまり殴られても馬鹿らし いと思って、わざとぶっ倒れて恭順の意を表した。これで制裁は終わり、副直将校が立ち 去った。 「なんだーあの野郎、飛行隊では見かけん顔だが、他所のデッキにまで来て殴るとはけし からん話だ、うちの分隊士に連絡して注意させれば済むことだ」 「そーだよ、自分たちは検閲なしで手紙を出してるくせに、下士官や兵隊ばかりを苛めや がって……」 (海軍では、士官に対しては人格を認め、文通など自主的判断に任されていた。だから、 遺書や遺稿など、 下士官兵に比較して多数残されている。) 「特攻隊から外れた奴らは、いつ死ぬか分からん俺たちの気持ちを、少しは考えたことあ るのか……」 「俺たちだって人間だ、死ぬ前に親に会ってなにが悪い。 立派に死んでやるから、つべこ べ文句を言うな!」 「おい永末、気にするな、気にするな……」 気にするなと言われても、殴られた後ではどう仕様もない。頬は腫れあがり口中からは 出血している。同情して慰めてくれる皆の気持ちはありがたいのだが、 非はこちらにある。 ところが、皆の話を聞いていると、 他にも検閲を受けずに外から手紙を出している者がい る様子である。露見した私が不運ということか。 事務室に行って先任下士官に、 「先任、 すみませんでした、ちょっと医務室に行ってきます」 そう謝まって、医務室に治療に行った。まだ午後の診療が始まる前なので、廊下の長椅子 に腰かけて待っていた。 すると、通りかかった看護科の兵長が、練習生とでも勘違いしたのであろう、 「おい、ひどくやられたなあ……、どこの分隊だ?」 と、下級者に対する応対である。癪に障ったが、怒る気にもなれず無視していた。 ところが、その兵長が「八洲隊・永末」と書いた胸の名札でも見たのか、飛行隊の搭乗 員と気づいたらしく、急に態度を改めて、 「こちらに来ませんかー」 そう言って、奥の方へ誘った。ついて行くと、予備の病室らしく、空のベッドが数個並べ られた小部屋があった。 「ここで休んでいてください、軍医官もたいした処置はできないと思いますから……」 そう言いながら、枕と毛布を出してくれた。横になっていると今度は氷嚢を持ってきて、 「これで冷やしてください……」 と、言う。看護科の兵隊ですら「特攻隊員」と知って、これだけ気を使ってくれるのだ。 それなのに、副直将校の制裁は酷過ぎる。 ハガキの内容は読めば分かるように、軍の機 密など書いてはいない。ただ、お別れの時期が近づいたことを、それとなく父親に伝えた だけである。それが、そんなに悪い事なのだろうか。 あの副直将校は飛行隊では見かけない顔である。だが、飛行隊のデッキに来てまで文句 を言うところをみると、搭乗員には違いないだろう。恐らく練習生分隊あたりの分隊士で あろう。 本来なら、順序を経て私の所属する分隊士か分隊長に、事情を通報して注意させるのが 筋というものである。飛行隊の所属でもく、直接の指揮系統もないのに、国のために命を 捧げる決心をした「特攻隊員」を殴るとは、搭乗員の風上にも置けない奴である。無性に 腹がたった。 飛行訓練は、午前中に終了していたので、治療というよりも気分を静めるため、医務室 で時間を潰すことにした。ベッドで横になりながら、なぜあのハガキの件が副直将校の耳 にまで入ったのか考えてみた。 恐らく実直な父親のことだから、あのハガキをそのまま衛兵伍長に見せて、私の所属を 探してもらったのに違いない。私の父親は軍隊経験がない。だから、検閲印がなく航空隊 以外の住所から出されたハガキに疑問を持たなかったのであろう。 夕方デッキに帰ったが、食事をする気にもなれず、ぼんやりしていると、 「おーい、先任下士が呼んでいるぞー」 と、同僚が告げに来た。また文句の一つも言われるのかと思って事務室に行った。 「こらっ! 何をぐずぐずしてる……、親父が待ってるんだろう、早く上陸せんか!」 そう言って、上陸札を渡してくれた。 規律違反として「外出止め」ぐらいは喰らうだろうと覚悟をしていたので、暗くなった ら脱柵(無断で外出すること)でもしょうと考えていた矢先であった。だから、先任下士 官の心使いが嬉しかった。 当時下士官は「半舷上陸」といって、半数ずつが夕食後から翌日の朝食までの間、外出 が許可されていた。ところが、町まで遠いのと遊ぶ場所も少ないので、平日はあまり外出 する者はいなかった。その代わり、日曜日などは浜松市や静岡市まで遠出して遊んでいた。 だが、今日は違う。早速有り合わせの酒や、果物の缶詰などを持って飛び出した。 副直将校が、先任下士官ぐらい物分かりがよければと思う半面、殴られただけですんだ のだから、不幸中の幸いであったと思い直した。下手をすると「外出止め」を喰らい今夜 もまた、せっかく遠くから来た父親に逢えなかったかも知れないと思いながら、金谷町の 下宿へと急いだ。 下宿に着いてから、話の合間にそれとなく面会を申し込んだ時の状況を父親に尋ねた。 それによると、私が大井航空隊に転属してから最初に第十四分隊から出した、検閲済みの ハガキを見せて面会を申し入れたそうである。ところが、現在、第十四分隊はなくなって いると言われた。氏名と飛行兵というだけで階級も分からない(伍長・軍曹など陸軍の階 級と違って海軍の階級にはなじみが薄い)。仕方なく何らかの手がかりになればと思って、 例のハガキを提出したそうである。 特攻隊編成に際して、飛行隊は第十一分隊(第一中隊)第十二分隊(第二中隊)第十三 分隊(第三中隊)に再編成された。そして、特攻隊に編入されなかった搭乗員は、練習生 分隊などに配属され、飛行隊からは第十四分隊がなくなっていたのである。 衛兵伍長は、飛行兵というだけで、所属も階級も分からない者を、飛行隊員か、それと も練習生分隊か、と探さねばならなかったのである。飛行訓練を中断して、掩体壕作業や 機銃陣地に配置されている、三十九期や四十期の飛行術練習生も飛行兵に変わりはない。 だから、大井航空隊には飛行兵と名のつく者が、数百人もいたのである。衛兵伍長にもと んだ苦労をかけたわけである。 私はうかつにも、父親が面会に来るなど夢にも思わず、第十三分隊に編成替えになって からは、例のハガキを出しただけで、隊内から正式に検閲を受けた手紙類は一切出してい なかった。だから、正に身から出た錆である。衛兵伍長は例のハガキの文面から、「特攻 隊員」であると見当をつけ、飛行隊の各分隊に問い合わせて探し当てたのであろう。大井空目次へ 次頁へ
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