蒼空の果てに

     死に装束と遺影

   われわれが飛行機に搭乗する場合は飛行服、飛行帽、飛行靴それにライフジャケットを 着用する。これらは、 航空隊ごとに装備されている貸与品である。個人ごとに支給されて いる、軍服や軍帽などとは違い、転属の際に返納し、次の航空隊で再び貸与をうける。  谷田部航空隊や百里原航空隊での飛行術練習生時代は、洗い晒らしの先輩のお古が貸与 されていた。飛練を卒業して九○三航空隊に赴任し、衣料倉庫で受領した飛行服は毛皮の ついた新品の冬服であった。これで、一人前の搭乗員として扱ってもらえるんだと、喜ん で名前を記入していると、 「勝手に記名してはならぬ!」 と、甲板係の下士官から注意を受けた。  個人に支給されたり、貸与された品物に記名するのは、帝国海軍の常識である。不審に 思っていると、新品の飛行服は、体形の似通った古参の搭乗員に譲り、そのお古を着るの が、仕来りだと教えられた。  せっかく貸与された新品の飛行服は、昼飯に帰ってきた、先輩搭乗員に早速召し上げら れた。着古した感じではないが、その先輩のお古を頂戴することになった。田舎の農家の 三男坊であった私は、学用品や遊び道具などは、兄貴のお下がりを使用することもあった が、衣服などは常に新しいものを着せてもらっていたので、不愉快な事件であった。  大井航空隊に着任して貸与された飛行服は、今までの様な上下ツナギの服と違い、上着 とズボンが別々に分かれた新しい型の新品であった。九○三航空隊での前例があったので、 ここでも、先輩のお古と交換させられるのではないかと思って、しばらく記名せずに着用 していた。  ところが、今度はだれからも注文はなかった。ここでは、もう一人前の搭乗員として認 められたのであろう。それとも、「死装束」だけは新品を着せてやろうという、帝国海軍 の親心だったのかも知れない。        *  特別攻撃隊が編成されると、早速「体当たり攻撃」の訓練が開始された。「白菊」での 特攻は、初めから単機での出撃を想定していたのであろう、編隊飛行の訓練は一切なく、 単機ごとの航法・通信訓練が主体であった。離陸して高度をとりながら御前崎に向かう。 御前崎を基点として、百浬ほど太平洋上に進出する。次に側程三十浬を飛んで帰投する。 この三角航法訓練が連日続けられた。  また、付近を航行する艦船などがあれば、「御前崎からの方位○度○浬、進行方向○○ 度○○ノット」とその位置や進行方向が示され、これを目標にした接敵攻撃の訓練が実施 された。各機ごとにチャート(航空図)に目標の位置を記入して、飛行場からの方位と距 離を計測する。次に、気象状況などを勘案して、 接敵の高度や方向、それに「体当たり攻 撃」の要領など、事前に研究して攻撃に向かう。  目標を発見すると低空接敵に移る。海面での低空飛行は艦上攻撃機操縦員のお家芸であ る。鹿島灘での雷撃訓練が大いに役立った。プロペラの風圧で、海面に水しぶきが上がる ほどの超低空飛行である。こうなると、高度計の針はマイナスを指して役にはたたない。  これは出発に際して、標高百八十三メートルの飛行場をゼロメートルとして、高度計を 規正するからである。実際の高度は、恐らく十メートル以下であろう。一瞬の油断が事故 の原因となるので、飛行中は緊張の連続である。  急降下のできない「白菊」では、超低空で敵艦に接近してそのまま突込むか、二千メー トル程度で進撃して緩降下しながら接近して、体当たりする方法が考えられていた。敵の レーダーを避けるため、低空で接近し、体当たりの効果を高めるため、直前で急上昇して 切り返す方法なども検討された様子であった。だが、二十五番を両翼に抱けば、飛行性能 から考えても、そのような器用な操作などできないことは分かり切っていた。  そして、昼間での錬度が向上すると、次は、 夜間飛行に移行した。「白菊」の性能から、 夜間以外に接敵できる可能性はないとの判断であろう。夜間飛行は徹底的に実施された。 艦上攻撃機で、夜間雷撃の訓練を実施するのであれば、生還の可能性をかけて猛訓練にも 耐えることができる。だが、帰還を否定されている「体当たり攻撃」に、なぜこれほどの 訓練が必要なのだろうか。技術的な問題よりも、精神的問題の解決こそ重要ではないかと 痛感させられた。        *  ある日、飛行訓練も終わり、デッキで皆が雑談していた。すると当直下士官が、 「写真撮影をするから、第一種軍装の上衣だけを着て、兵舎前に集合せよ!」 と、伝達した。 「おい! 何の記念写真だ? 上衣だけとは変だなあー」 当時は現在のようにカメラが普及していない。だから、特別な事情でもないかぎり写真な ど写してもらえない時代であった。 「どうせ写真を撮ってくれるんなら、飛行服で写せばよいのになあー」 「当直下士、本当に一種軍装と言われたのか?」 「一種軍装だってかまわんよ。俺、今度外出したら写真屋に行く予定だったので助かった、 写真班の兵隊に航空食でもやって、焼き増ししてもらおう……」  過去の例からも、お仕着せで写真を撮ってもらったのは、初飛行とか卒業記念など特別 な場合に限られていた。「特別攻撃隊」を編成したので、晴れ姿を家族にでも送れという のだろうか……、何となく華やいだ気持ちになり、皆ニコニコと談笑していた。  写真班の兵隊は、十名ずつを二列に並ばせて次々に写していく。何となく楽しい気分で ある。すると、 「お前ら、いい気なもんだなあ……、それが何に使う写真か分かっているのか?」 と、遅れて出てきた先任下士官が口を出した。 「……?」誰も答える者はいない。 「この写真はだなあー、お前らが戦死した時、引き伸ばして額に入れて、海軍葬の祭壇に 飾るんだぞー。家族に渡すのはその後だ」 今までの華やいでいた雰囲気が一変して、皆しゅーんとなってしまった。  「死装束」にしろ「遺影」の作製にしろ、帝国海軍の手回しのよさには感心させられた。 気づいてみれば、毛布で前後列の間を仕切り、後で一人一人に切り離せるように、細工を して撮影していたのである。 海軍葬に飾る写真とも知らずに 遺影作成用の写真。前列左から吉田二飛曹二人目が筆者。
        第三中隊第三小隊編成当時。 無念の歯噛み 堪えつつ  待ちに待ちたる 決戦ぞ   今こそ 敵をほうむらんと    奮い立ちたる 若桜 この一戦に勝たざれば  祖国の行くて いかならん   撃滅せよの 命くだる 無念の歯噛み 堪えつつ  待ちに待ちたる 決戦ぞ   今こそ 敵をほうむらんと    奮い立ちたる 若桜 この一戦に勝たざれば  祖国の行くて いかならん   撃滅せよの 命くだる    神風特別攻撃隊
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