蒼空の果てに

    田中部隊  

 われわれが「特攻隊」を編成して訓練を開始してから、既に三ヵ月が経過し、沖縄の戦 闘もついに終局を迎えた。六月二十五日、同期生の春木茂一飛曹(菊水第三白菊隊)が参 加した「菊水十号作戦」を最後として、「白菊」による特攻作戦は中止された。これに伴 なって、われわれの「特攻待機」が解かれた。 そして、金近上飛曹以下十数名の第十三分隊に所属していた下士官操縦員が、三重県の 鈴鹿基地で臨時に編成された田中部隊へ派遣された。これは、相次ぐ「体当たり攻撃」な どで、大量の搭乗員を消耗した海軍が、急速錬成により搭乗員を補充する必要に迫られ、 この訓練を担当するために臨時に編成された部隊である。 金近上飛曹    金近上飛曹(山口県下松市出身)      燃料不足などのため飛行訓練を中断していた、予備学生や予備生徒それに甲飛十三期生 がその訓練の対象であった。そして、通常の偵察員教育が航法、通信、射撃、爆撃などを すべてを習得させるのと違い、彼らに対しては、即成でその一部門のみ習得させて、実施 部隊へ送り出す方法がとられた。  そのため、航法担当者は航法のみの訓練を実施し通信はやらない。同様に通信担当者は 通信訓練のみに専念した。また、攻撃員は見張りと機銃操作が専門である。  ここでは、機上作業練習機としての「白菊」が本来の任務に使用されることになった。 操縦員は通称「馬車曳き」と呼ばれ、後席に航法・通信・見張り兼機銃操作の攻撃員を乗 せて飛行訓練を実施する。  訓練はあらかじめ指定されたコースを、航法担当者の航法に従って飛行する。通信担当 者は飛行中、機上と基地の間で交信訓練を実施する。攻撃員は見張りと旋回機銃の操作が 役目である。  操縦員は一見楽な勤務のようにみえるが、ちょっとの油断もできない緊張の連続である。 その理由は航空燃料に、「八○丙」を使用していたからである。八○はオクタン価を示し、 丙とはアルコールを意味する符諜である。精製したアルコールを燃料にして飛んでいたの である。これは当時の航空燃料として最低の品質であった。だから、馬力が出ないうえ、 シリンダーの温度が冷え過ぎると、エンジンが止まる恐れがあった。  飛行訓練を開始して間もない日、最終の帰投コースを飛んでいると、前方を飛行してい た僚機が急に高度を下げ始めた。よく見るとプロペラが空転している。エンジンが停止し た様子である。飛行場まで滑空するにはとても無理な距離である。  私は増速して高度を下げながら後を追った。近づいて見ると、横井兵曹が操縦している。 いろいろ操作を行っているがエンジンが回復する様子はない。 「おい電信員! 不時着機の位置を確認して基地に電報を打て!」 と、叫んだ。 「ただ今不時着機からの発信を傍受していまーす……」 不時着機の電信員は必死になってキーを叩いているのだろう。うまく着水できたと思った が、飛行機は転覆してしまった。白子の沖合で知多半島との中間ぐらいの海上である。  上空を旋回しながら見ていると、黒いものが五個浮かんできた。全員が脱出できたのだ。 だが、乗員は四名のはずである。更に注意して見ると泳いでいるのは三名である。あとの 二つは車輪が浮いているのだ。着水の衝撃で脚が折れたらしい。  訓練を打ち切り、直ちに飛行場に帰って地上指揮官に状況を報告した。後で分かったこ とだが、殉職したのは電信員であった。恐らく最後まで不時着の状況を送信し続け、着水 の衝撃に対応する暇がなかったのであろう。エンジンが停止した原因は明確ではないが、 恐らく粗悪な「八〇丙」と関係があったものと思われる。  ここでの飛行訓練は、後席に同乗して訓練を受ける予備士官や練習生は、一回ごとに交 替するが、操縦員に交替はない。午前も午後もぶっ続けの搭乗で、緊張の連続であった。 だが、「特攻待機」を解かれ、死から解放された気分は爽快で、肉体的な苦労などは問題 ではなかった。短期間であったが、私の搭乗員生活の中で最も充実した時期であった。 機上作業練習機「白菊」本来の姿

     航法通信訓練

   目印のない洋上飛行を主な任務とする海軍の飛行機は、いかなる場合でも推測航法が原 則である。推測航法とは、風向と風速を測定して、自分の飛行機が予定コースに対して、 何度の方向に何ノット流されているかを算定し、その流された分量を修正しながら、目的 地に到達する方法である。  飛行機は空中に浮かんで、風に流されながら飛んでいる。だから、機首の方向(軸線) と実際の飛行方向(航跡)には差異がある。この風に流される角度を偏流角と呼ぶ(風向 と同一方向に飛行する場合は偏流角○度となる)。この偏流角を異なった二方位で測定し て作図すれば、風向と風速が算出できる。この演算を簡素化したのが航法計算盤である。  この計算手順は、地上でも練習することができる。だから、地上で充分に演練してから 機上訓練を行う。ところが、実際に飛行しながら実施すると思わぬ間違いが起こる。これ は、空中では思考能力が激減するからである。  訓練飛行の場合は、離陸して上昇しながら出発点に向かう。予定高度に達すると、 「高度千五百メートル水平飛行、偏流を測定しまーす、針路三十度ヨーソロー」 と、航法担当者から声がかかる。操縦員は、 「高度千五百、針路三十度ヨーソロー」 と復唱し、針路三十度高度千五百メートルで水平飛行を行う。航法担当者は偏流を測定し、 「みぎー変針、百二十度ヨーソロー」 と、次のコースを指示してくる。 二度目の偏流測定を予定飛行コースと同じ方向になるように計画すれば無駄が省ける。 右に九十度変針して百二十度で再び偏流を測定する。偏流測定には偏流測定儀か爆撃照準 器が使用される。 「偏流測定おわーり、偏流プラス五度、針路を修正しまーす、修正針路百十五度、ヨーソ ロー」 と、航法担当者から指示がある。この意味は、計器の示度では百二十度で飛んでいても、 風のため五度右に流されている、だから実際の航跡は百二十五度になっている。そのため、 航跡を百二十度にするためには、計器示度を百十五度に修正して飛ぶ必要があるというこ とである。  針路を変えて二方向で偏流を測定すれば、これを合成して、風向と風速が算出できる。 一方向だけの測定では、そのコースで流されている角度は分かるが、気速(計器速度)と 実速(対地速度)の差が算定できない。風向と風速をもとにして実速を算出すれば、目的 地までの所要時間や到着時刻が計算できる。  航法図板(白図)に引かれた予定コースに、解析したデーターを記入しながら、飛行機 を目的地に誘導するのが航法であり、航法担当者の主要な任務である。  また変針する前後には必ず偏流を測定して、風向風速を算出して再確認する。コースの 途中でも余裕があれば随時偏流を測定する。風向や風速は常に変化しているからである。 訓練飛行の場合には操縦員は航法担当者の指示どおりに飛びながら、チャートを見て崎の 突端や灯台などの著名目標の方位や距離を確認して、航法誤差がどれほどあるか見当を付 けている。  上達すれば、時刻どおりに目的地の真上に到着することができるようになる。中には目 標を外れ、海の上に帰ってくる者もいる。 「おーい、ここに降りるつもりか? 水上機ではないぞー」 と、からかうことになる。    一般に偏流のプラスとマイナスの勘違いや、針路修正の加減算の間違いが多い。地上で の練習と違い、空中では思考力が低下するので、地上では考えられない錯覚を起こすので ある。昼間の訓練飛行では、操縦員がチャートを見ながら自分の位置を確認しているので、 航法に誤差が出ても直接事故につながることはない。ところが、夜間洋上での航法誤差は 命取りとなる。    操縦員は訓練中、航法の間違いに気づいても、知らぬ顔をして飛行する。航法担当者が 自ら気づいて修正するのを待っているのである。着陸してから、地上の教官が航法図板を 点検する。白図に記入した予定コースと、偏流を測定して修正した航跡図を検討して、そ の適否を判定して必要な指導を行う。    私は甲飛十三期生に対しては、後輩という意識もあり、 「おーい、針路の修正が逆じゃないのか?」 「風は右から吹いてるはずだぞー、偏流を計り直せ!」 などと、機上でそのつど注意する。だから、大きな誤りを起こすことはない。ところが、 学生出身の予備士官に対しては、上級者だからそのような、僣越な注意などしない。ただ 指示されたとおりに飛ぶ。    恐らく他の操縦員もそうであったと思う。そのため、着陸して教官から叱責されている のは、ほとんど彼ら予備士官連中であった。搭乗員は士官も下士官兵も機上で行う作業は 同じである。だから、士官が上手で下士官兵が下手とは限らない。  ある日、夕食も終わりデッキで雑談していた。すると、われわれが訓練を担当している 予備士官数名がやってきて、操縦員に整列をかけた。そして、いろいろと文句を並べたう え、操縦員全員を殴った。  彼らにすれば、いくら飛行時間が少なく経験が浅くても、れっきとした偵察士官である。 それに対して、下士官の操縦員が機上で間違いに気づいていながら、知らぬ顔をして協力 しないから、地上の教官に叱責される結果となる。下士官の分際で生意気だ、というのが 彼らの言い分である。  さーあ大変だ。飛行兵に志願するほどの者だから、みんな向こう意気が強い。殴られて 率直に言うことをきく者より、反発する者が多い。日ごろから階級をかさに着て、本来な ら自分たちが準備すべき落下傘など、下士官操縦員にやらせる者もいた。だから、日ごろ の鬱憤が爆発した。 「何だ奴ら! 偏流も満足に計れんくせに、一人前の士官面しやがって……」 「本来なら一升瓶でも下げてきて、願いまーすと挨拶するのが筋だ!奴ら礼儀も知らん!」 「格好だけは一人前だが、腕前は練公(練習生)以下だ、 あれでも士官かよ……」 「自分の腕前は棚に上げて、俺たちに当たるとはもってのほかだ……」 「飛行時間が二〜三十時間じやー、まだまだヨチヨチ歩きのヒヨッ子同然だ! ヒヨッ子 のくせに空を飛ぶとは、生意気だ!」 「よーし見とれ、明日は只では済まさんから!」  こんな調子では飛行作業が順調に行われるはずがない。阿曽兵曹などは、飛行前の打ち 合わせの時から、 「今日は晴れていますが、上空は気流が悪そうですよー」 などと気流が悪いことを前もって予告している。ちょっとした操縦のテクニックで、悪気 流を演出するのは簡単である。これを繰り返すと顔面蒼白となり、「ゲエー、ゲエー」と 戻し始める。  それだけではない、 「偏流を測定するー、針路三十度ヨーソロー」 と、声がかかると、 「針路三十度ヨーソロー」 と、復唱しながら、飛行機をちょっと右に傾けて方向舵で左に応舵をする。すると、右か らの横風を受けているのに、飛行機は右の方に流されるような芸当だってできるのである。 これでは、正確な偏流測定など不可能に近い。結果は支離滅裂な航跡図ができあがり、以 前にも増して、教官からお目玉を頂戴することになる。    また、飛行中にACレバー(燃料混合比調節レバー)を少しずつ出していくと、燃料は だんだん薄くなる。一定の限度を越えると、《パン! パン! パパン!》と、異常爆発 を起こして、エンジンが停止する。しかし、プロペラは空転している。ACレバーを元に 戻すと、《プルン プルン》と、エンジンがかかる。これを二〜三回繰り返す。 「おい! 操縦員大丈夫かっ?」 「ちょっと、エンジンの調子がおかしいですねー」 「おい、引き返せ! 早く引き返せっ!」 ところで、エンジンはどこも悪くはないのだから、引き返したのでは操縦員が困る。 「何とか飛べるでしょう……、しかし、悪い燃料を使っいますから、いつ止まるか分かり ませんよ……」 などと言って、「八○丙」の燃料のせいにしてそのまま飛ぶ。現実に《海上不時着、殉職》 の実例があるので、後席の連中は着陸するまで生きた心地がしない。 予備学生出身の士官は兵学校出身者と違い自分たちの立場を理解して、一般に穏やかな 人格者が多かった。だから、われわれを殴ったのは一部の者に過ぎない。しかし、こうな ると一蓮托生である。殴られたお返しはなかなか厳しい。
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