蒼空の果てに

     親子の絆

   その夜は久し振りに、親子水入らずで過ごした。故郷の様子も聞いた。しかし、誰々に 召集令状がきたとか、海軍に志願していた本家の次男が、南洋方面で戦死したとの公報が 届いたとか、明るい話題ではなかった。  私は「特攻隊」に編入されたことについては、意識して話さなかった。いまさら話して も、詮なき事だからである。父親も自分からその話を聞き出そうとはしなかった。お互い 死ぬ前に、一目会えただけで満足であった。  父親は米などの食糧を、リュックサックに一杯詰めて持ってきていた。それを下宿で炊 いて貰っていた。また、ここのお茶はおいしいと言いながら何杯もお代わりをしていた。 そして、残りの米を下宿に渡して、お茶と交換して帰ると言っていた。私に会うのに、 何 日かかるか分からないので、数日分の食糧を用意してきたらしい。  ここ牧之原はお茶処である。そして、私の下宿先はお茶問屋であった。最初にお伺いし た時に出されたお茶を戴いて、「お茶とは、こんなにおいしいものであったか……」と、 感心した。われわれは日ごろ番茶ばかり飲まされていたので、本当のお茶の味など知らな かったのである。  翌朝になって、特攻隊編成に際して第三中隊第三小隊の仲間と写った写真を持ち出して いたのを父親に渡した。昨夜渡してもよかったのだが、裏に余計なことを書いていたので、 父親が気にしても困ると思い、渡すのをためらっていたのである。その写真の裏面には、    火柱と 共に消えゆく命なれど      神風吹かして 八洲護らむ    八洲隊 永 末 千 里   と、拙い一首を遺書代わりにしたためていた。  下宿の前で別れるとき、父親から「成田山」の「御守袋」を渡された。「特攻隊員」に 編入され、生還を望めなくなっている者に、いつまでも無事にいて欲しいとの願いを込め て、「御守袋」を持たせる親心に、胸中込み上げるものがあった。  これが最後となるであろう親子の対面も終わった。そして、後ろ髪を引かれる思いで飛 行場へ向かった。恐らく父親も、今生の別れとの思いを込めて、私の後ろ姿を複雑な思い で見送っていたのではなかろうか。         *  昭和十九年十月初旬のことである。出征した長兄が船待ちのため門司港の旅館に分宿し ているとの情報を人伝えに聞き付け、母親が末の姉を連れて面会に行った。運よく旅館を 探し当てて、面談することができた。翌日今度は父親が旅館を訪れた。だが、部隊は既に 乗船して出港した後で、会うことができなかった。  父親は長兄との最後の面会ができなかったことを、 心残りにしていたと思われる。だか ら私のハガキを見て、この機会を逃したら永遠に会えないと判断して遠路はるばる面会に 来たのであろう。そして、去り行く私の後ろ姿に長兄の面影を重ね合わせ、今生の別れと 見送っていたに違いない。

     第百二十七飛行場大隊

      戦後私の知り得た資料では、長兄の所属部隊の行動概要は次のとおりである。 昭和十九年四月 西部第百部隊(太刀洗)に召集入隊。 同五月二十七日 第五航空教育隊(太刀洗)内で、         第百二十七飛行場大隊編成。 隊長楠田武治大尉以下四百三名。 同五月三十一日 第四飛行師団より第十四方面軍隷下に入り比島派遣を命ぜらる。         編成完結式及び出陣式を挙行。                              同 六月 六日 乗船予定が変更され、太刀洗にて待機。 同 九月十七日 午前八時、太刀洗駅を出発。 同 九月十八日 午後二時、門司港着。乗船待ちのため旅館や民家に分宿。 同 十月 七日 大彰丸 (大阪商船・六八八六総トン) に乗船(乗船総人員約三千名)。         (同型の姉妹船、大博丸との説もあります) 同 十月 八日 門司港出港。敵機動部隊台湾沖に来襲の情報により伊万里湾に退避仮泊。 同 十月十六日 伊万里湾を出港。五島列島付近で船団編成(モマ〇五船団)。         輸送船十二隻・護衛艦六隻。 同十月二十四日 台湾の高雄に入港。水及び食料を搭載して、即日出港。 同十月二十六日 船団は午前三時五十六分、アメリカ潜水艦アイスフイッシュ(SS367)及び         ドラム(SS228)の雷撃を受ける。         午前五時、大彰丸沈没。沈没地点バリタン海峡カラヤン島西方四十キロ。         船団被害、沈没三隻 (大彰丸・大博丸・泰洋丸)。人員の約半数が救助さ         れ、ラボック湾で他船に分乗。 同十月三十一日 コレヒドール島沖で潜水艦の雷撃により二隻沈没。空襲により二隻沈没。 同十一月 一日 マニラに上陸(マニラ到着六隻)。         第百二十七飛行場大隊の生存者は約二百名。(約半数が海没戦死)         大隊は、リパー東飛行場に展開。以後ルソン島各地を転戦、昭和二十年         三月五日人員を消耗して解隊、他の部隊に統合された。編成当初からの         隊員は殆ど全員が戦死、終戦後復員した者は数名に過ぎない。
大彰丸 大彰丸を襲撃した潜水艦ドラム   ガトー級潜水艦。ドラム(SS228)は記念艦として、アラバマ州ガルフコーストに保存。       *  長兄の戦死公報では、昭和十九年十月二十六日戦死となっている。恐らく大彰丸沈没の 際に死亡したものと認定して、戦死公報が出されたものと推察する。ラボック湾での生存 者の中には含まれていなかった模様である。比較的早い時期に戦死公報が出されたのも、 そのためであろうと想像する。  この時期、長兄の親友青木一飛曹も戦死した。二座水偵から陸上機への転換により、戦 闘機の操縦員となった青木一飛曹は、昭和十九年十月十三日、零式戦闘機に搭乗して南西 諸島上空において、来襲した敵艦上機と交戦し壮烈なる戦死を遂げられた。享年二十五歳、 私の長兄に先立つこと十三日であった。  青木二三氏と長兄は、入隊前同じ職場で働いていた関係で、生前よく一緒に遊んで友情 を深め合っていた。 「人生五十年、ただし軍人は半分の二十五年だ!」とは二人のよく口にした言葉である。 奇しくも二十五歳で、時を同じくして戦死したのも、何らかの因縁であろう。
               長兄の遺書と遺影。
長兄が入営した西部第百部隊の跡地  西部第百部隊の跡地。

     「戦下の月」東野明美著


 東野明美さんの伯父、長門良知氏は私の長兄と同じ、第百二十七飛行場大隊に所属し、 奇しくも同じ昭和十九年十月二十六日に戦死されました。  長門良知氏の遺稿をもとに編集されたのがこの「戦下の月」です。長兄の当時の様子と 重ね併せて、感慨一入です。

     「ともに生きる時間」東野明美著


 東野明美さんが二作目を出版致しました。皆様宜しくお願い致します。
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