特攻要員とも知らず
昭和二十年三月中旬、九○三空の館山本隊で、艦上攻撃機操縦員の配置にあって、対潜
哨戒や船団護衛などに従事していた私たち数名の者に、大井航空隊への転属が発令された。
みれば操縦員ばかりで偵察員は含まれていない。
大井航空隊は偵察搭乗員を養成する練習航空隊でる。だから、操縦教員の配置に就く為
の転属だと思った。
「俺もいよいよ一人前の搭乗員として認められ、教員配置につくのだ……」と、嬉しさで
胸を弾ませていた。
久しぶりの汽車の旅である。東京駅で東海道本線に乗り換えた。すると、同じ箱に田川
中学の帽子を被った者が乗っていた。懐かしさのあまり話しかけた。その生徒は大学受験
のため上京した帰りで、私の郷里のお寺の長男とは同級生で知り合いの仲であった。同郷
というだけで、共通の話題も多く話が弾み、思いがけなく楽しい旅となった。
金谷駅で彼と分かれて下車した。運よく、航空隊からトラックが来合わせていたので、
これに便乗して飛行場へ向かった。見渡すかぎり茶畑の続く「牧之原」の景観。そして、
夕日に輝く早春の富士山を眺めながら、希望も新たにして大井航空隊の隊門をくぐった。
牧之原から富士山を望む。
大井航空隊に着任すると、飛行隊の第十四分隊に配属された。そして翌日から早々と、
先任下士官茶野上飛曹の指導によって、機上作業練習機「白菊」による操縦訓練が開始さ
れた。地上で機体の構造やエンジンの性能、それに飛行諸元などの説明を受ける。 次に、
エンジンを始動して地上滑走を練習し、いよいよ離陸着陸の訓練開始である。
「白菊」は、天風五百十五馬力エンジンを装備した固定脚機である。後席に乗った茶野
上飛曹から助言を受けながら、ぶっつけ本番で操縦することになった。艦上攻撃機に比べ
れば機体は軽く操縦は思ったより簡単であった。スピードも百ノットそこそこで、二〜三
回も飛べば、簡単に乗りこなすことのできる安定性のよい飛行機であった。
ところが、教員配置のつもりで転属してきたのに、飛行隊の空気は予想とは違った感じ
であった。それもそのはず、学生や練習生に対する教務飛行は既に中止され、大井航空隊
は練習航空隊ではなく、実施部隊に改編されていたのである。そのうえ、「特別攻撃隊」
を編成するとの噂がささやかれていた。
私たちと前後して、他の航空隊からも数名の操縦員が赴任してきた。中には水上機から
陸上機に転換した者もいた。また遅れてきた転勤者の中に、百里原空で艦上攻撃機の教育
を一緒に受け、同じ九〇三空に配属され大湊派遣隊にいた、吉田実二飛曹が転入してきた。
彼とは、九〇三空の館山本隊で別れて以来の再会であった。ちょうどタバコを切らしてい
たので、
「おい、吉田兵曹、タバコ持ってないか?」
と、ねだった。
「おーお、あるぞー」
そう言って、トランクの中から「光」を一箱出してくれた。早速連れだってタバコ盆(喫
煙場所)へ行き、館山で別れて以来の積もる話に興じた。
「おい吉田兵曹、百里原で一緒だった、平原と田中が同じ飛行隊にいるぞ……、それから
これは内緒の話だが、特攻隊を編成するという噂があるぞ……」
「おいおい、変なこと言うなよ、ここは練習機ばかりで、実用機なんかないんだろう」
この時期、練習機で「体当たり攻撃」を実施するとは夢想もしていなかったのである。
「しかし、今度転勤してきた連中は、皆操縦員ばかりだよ……」
「それは、操縦教員の配置だからだ!」
彼も教員配置のつもりで赴任してきたらしい。
雑談しながらふと彼の手元を見ると見ると、指先でトントンと叩けば半分に縮まるよう
な、中身がスカスカになった「ほまれ」を吸っていた。私には取って置きの「光」を渡し、
自分はまずい「ほまれ」で我慢していたのである。
当時「ほまれ」は一袋(二十本入り)七銭で「光」は一箱(十本入り)三十銭であった。
彼はそのような人柄であった。その後も同じ分隊で起居を共にし、お互いに交友を深めた。
全機特攻
噂話は現実となった。アメリカ軍の沖縄侵攻が開始され、三月二十六日「天一号作戦」
が発動された。それと前後して、新編成の第十航空艦隊から参謀が来訪し、飛行隊の搭乗
員のみが映写講堂に集められた。
ここで、大井航空隊司令奈良大佐立ち会いのもとに聞かされたことは、一般国民にはも
とより、部内にも秘匿されていた重大機密であった。それは、ミッドウェー海戦をはじめ、
マリアナ海戦、レイテ沖海戦その他における、我が聯合艦隊の壊滅的な被害である。即ち、
戦闘に参加できる軍艦は、航空母艦はもとより、戦艦や巡洋艦などを含めて、もう一隻も
残っていないことを知らされたのである。
更に、通常の手段では挽回することのできない、我が軍とアメリカ軍との戦闘力の差が
説明された。そのうえ、飛行機一機で敵の一艦を沈める「体当たり攻撃」だけが残された
手段であると告げられた。そして、第十航空艦隊は保有全機で「特別攻撃隊」を編成する
と宣言したのである。いわゆる「白菊特攻隊」の誕生である。
私は第三中隊、第三小隊に配置された。分隊の所属は第十三分隊に変わった。飛行隊長
岩見少佐、第十三分隊長富松大尉、先任分隊士西村中尉、先任下士官藤田上飛曹であった。
工藤健一、伊藤昭二、八木亨、 高崎秀、吉田実、藤原昌、平原武則、島田義春の同期生も、
同じ第十三分隊で生死を共にすることになった。九○三空から一緒に転属し、金谷町で同
じ家に下宿していた外村修は、第十二分隊の所属となった。明日から、いよいよ「特攻訓
練」が始まるのだ。
ついに来るべき秋がきたのである。たとえ一パーセントの確率であっても、 生還するこ
とが前提である雷撃や爆撃など通常の攻撃であれば、自分だけは絶対に生還できると信じ
ることで、精神的な不安を克服することができる。戦死は結果であって、目的ではないか
らである。ところが、いくら命令だからといっても、必ず死ぬと分かっている「体当たり
攻撃」に、平静に出撃することが果たして可能なのだろうか。
神風特攻隊
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