蒼空の果てに

     錬成訓練

 昭和十九年十二月二十五日、空中衝突事故の後始末も終わり、残った同期生二十四名は、 第三十七期飛行術練習生の全教程を終了することができた。これで練習生生活ともお別れ である。予科練時代からお馴染みの「七つ釦」の制服を返納し、下士官の軍装一式が支給 された。そして、通称「左マーク」と呼ばれる八重桜の特技章が付与された。  これで、一人前の搭乗員として巣立つのである。微々たる戦力ではあるが、艦上攻撃機 操縦員二十四名が、ようやく戦列に加わることになった。鹿児島航空隊に入隊以来、一年 五ヵ月にわたり、予科練そして飛練と鍛え抜かれ、晴れて実施部隊の一員として実戦配置 に就くのである。搭乗員の養成が、いかに効率の悪いものであるか、身を持って体験した。  実施部隊の配属先は、九○三航空隊であった。吉田・近野・内田・梶山の同期生五名と 一緒に赴任した。夕食時間になり、デッキで皆が食卓についたところで廊下に整列して、 「お食事中一言ご挨拶を申しあげます。二等飛行兵曹吉田実以下五名の者は、百里原航空 隊から転属して参りました。宜しくお願い致します」  これは海軍の伝統的な転任挨拶の要領である。飛練卒業に際して教員から、 実施部隊に おける各種の仕来りや口上などを伝授されていたので早速役にたった。 また一日遅れで、 姫路航空隊から、天野・山本・前田・外村・中川の同期生が赴任してきた。  九〇三空は横須賀鎮守府の隷下で、海上護衛部隊である、館山航空隊が改編されたもの で、対潜水艦哨戒や船団護衛などを主任務としていた。本隊は千葉県の館山にあり、広範 な海域を担当する関係で各地に派遣隊が置かれていた。美幌(陸)大湊(水陸)山田(水) 松島(陸)筑波(陸)八丈島(陸)父島(水)大井(陸)串本(水)などである。  装備機は水上偵察機と艦上攻撃機が主体であった。館山の本隊は、艦攻隊と水偵隊に分 かれ水陸双方が装備されていた。艦攻隊には天山艦攻や九七艦攻をはじめ、何に使用する のか、九○式機上作業練習機までが、あのおどけた姿で並べられていた。
天山艦攻の列線
電探を装備した天山の列線。
 新入隊のわれわれは、明けて昭和二十年の正月早々から宮城県の松島派遣隊に移動した。
ここで、柏原飛曹長の指導により、錬成訓練を実施することになった。館山基地は二五二
空の戦闘機隊が連日錬成訓練を実施していたので、混雑を避けるためである。

 松島基地に居候している、 九〇三空松島派遣隊は保有機わずか三機の小所帯で、太平洋
沿岸の対潜哨戒を任務としていた。ここには古い下士官もいないので、飛行作業が終われ  
ば雑用に追い回されることもなく、自由な時間を持つことができた。 新入り隊員にとって
ここは天国であった。                     

 ある日、夕食も終わり後片付けも済まして、四、 五人連れ立って風呂に行くことにした。
浴場にきてみるとまだだれもいない、海軍に入隊して初めての一番風呂である。ワイワイ
騒ぎながら久しぶりの命の洗濯である。やがて仕切りの戸が開いて、一見して古参の下士
官と思われる人物が入ってきた。連れてきた当番の兵隊に背中を流させながら悠然と瞑想
している。シマッター、 これはまずい、そーっと上がり支度を始めた。

「お前らどこの部隊か知らんが、善行章は右腕に付けるもんだぞ! 尻っぺたに青い線を
二、三本付けた分際で、一番風呂とは十年早い!」
と、罵声が飛んだ。これは正に至言である。練習生時代のバッター制裁の痕が「蒙古斑」
のようにまだ残っていたのである。ちなみに海軍における入浴の指示は、
「等級順風呂に入れ」であった。

「おい、危なかったなー、あれは基地の先任伍長かも知れんぞ……」
「あの様子じゃ、善行章の五本ぐらいは付けてるだろうよ」
「飛練の教員も、一番風呂は遠慮せよとは教えんかったぞー」
「桑原々々、一番風呂はもう懲々だ」
「なーに、 怒鳴られただけで済んだんだから、おんの字だよ」

 またここでは半舷上陸が許可されていた。夕食後から翌日の朝食までの間、一日置きに
外出できた。早速吉田兵曹と二人で羊羮や缶詰などの加給食を持って外出した。これには  
訳がある。前年十二月初旬、敵機動部隊の空襲を避けるため、百里原航空隊から松島基地   
へ飛行機で退避して二、三日滞在したことがある。

 着いた初日は、飛行服のまま兵舎にごろ寝だったが、最後の日に外出が許されたので、
数名の同期生と石巻市に遊びに行った。灯火管制をした薄暗い町を歩いていると料理屋と
いった感じの店があったので入り込んだ。そして、酒は持っているから何か肴を作って欲
しいと頼み込んだ。しかし、これはわれわれの認識不足であった。

 その当時は、料理店などが営業できる状態ではなかったのである。この店も廃業して、
「北上無線」の社員寮になっていたのである。仕方がないので帰ろうとしていたら、
「兵隊さん、とにかく上がってください。他所を探しても開けている店はありませんから、 
うちでできるだけのことを致しますから……」
そう言って呼び止められた。それではと、遠慮なく上がり込んで大変お世話になったので
ある。       

 今度はその時のお礼を兼ねての訪問であった。上品な婦人と娘さんの二人暮らしである。 
お土産持参だから前回以上に歓待を受けたのはもちろんである。寮とは名目だけなのか、
部屋は空いているのに同居人がいる様子はなかった。

 ★連日のように、東日本大震災のニュースが流れています。特に災害の酷かった石巻市
の報道を聞く度に当時の状況が思い出されます。また戦後自衛隊時代にも一度お伺いして
います。

松島基地跡地
現在の松島基地(航空自衛隊使用)

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