ここに百里原航空隊ありき
われわれが卒業した後の百里原航空隊は、実施部隊に改編され、教務飛行は中止された。
そして、われわれを教え育てていた教官や教員が中核となって、「特攻隊」が編成された。
また、訓練に使用していた使い古しの飛行機に、最後のご奉公の機会が与えられのである。
昭和二十年四月以降、艦爆隊(第一飛行隊)は第二国分基地へ、艦攻隊(第二飛行隊)
は串良基地へそれぞれ進出し、沖縄周辺の敵艦船に対して、還らざる「体当たり攻撃」に
飛び立ったのである。
出撃年月日 特攻隊名 機種 機数 戦死数 指 揮 官 基地
昭和二十年四月 六日 第一正統隊 九九艦爆十機 二十名 大尉 桑原 知 国分
四月 十二日 常磐忠華隊 九七艦攻六機 十八名 大尉 西森 秀夫 串良
四月 十六日 皇花隊 九七艦攻四機 十二名 中尉 畑 岩次 串良
四月二十八日 第二正統隊 九九艦爆六機 十二名 中尉 後藤 俊夫 国分
同 第一正気隊 九七艦攻二機 六名 少尉 須賀 芳宗 串良
五月 四日 第二正気隊 九七艦攻二機 六名 中尉 五十嵐正栄 串良
五月 十二日 第三正気隊 九七艦攻一機 三名 少尉 堀江 荘次 串良
五月二十五日 第三正統隊 九九艦爆一機 二名 上飛曹 安斉 岩男 国分
六月 三日 第四正統隊 九九艦爆三機 六名 中尉 關島 進 国分
☆百里原空 特攻戦没者名簿☆
☆三十七期百里会☆
昭和五十一年三月、当時の第二飛行隊長、後藤仁一氏が関係有志に呼びかけ、百里原空
の跡地の一角に桜を植えて記念碑を建立した。そして、戦死者及び殉職者の名簿を軍艦旗
に包み、三吋砲薬莢に収めて碑の下に埋めた。形は歴史を語り継ぐ記念碑だが、われわれ
の真の願いは慰霊碑である。
航空自衛隊百里基地には当時二名の同期生が勤務していた。司令部総務部長の鶴田守治
二等空佐と、整備補給群補給隊長の江藤光總二等空佐である。江藤君は私と同じ百里原空
の卒業生である。彼らをはじめ、航空自衛隊百里基地隊員の献身的なご支援を受け、五月
八日有志八十余名が集い、除幕式を行った。
今後とも桜の花の咲く頃にはここに集まって、祖国防衛の礎となり、「蒼空の果てに」
散華された若者たちを偲んで戴ければ幸いである。
碑文と除幕式。
ここに百里原航空隊ありき
平成17年4月、串良基地跡地に慰霊碑を建立しました。
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