蒼空の果てに

     空中衝突事故

     昭和十九年十二月二十一日(木)、飛練の卒業を間近に控えて、最後の仕上げである、 「襲撃運動」の訓練が実施されていた。「襲撃運動」とは、単機で行う魚雷発射訓練と違 い、実戦を想定した雷撃訓練である。編隊を組んで標的に向かって進撃し、編隊を解散し て雷撃を敢行する。次に、予定の集合地点で再び編隊を組んで帰投する訓練である。訓練 計画の説明が終わり、飛行訓練は開始された。  当日の「搭乗割」には、第一回目の四番機操縦に私の名前があった。直ちにエンジンを  起動し、試運転を開始した。プロペラピッチを低ピッチに切り替え、ブースト計、回転計、 油圧計、燃圧計等の作動を確認した。左右スイッチの切り替えによる回転落差の確認も、 手順どおりに実施したが特に異常はない。  だが、ブースト圧力計マイナス百五十での回転数が、基準の千二百回転に対して五十回 転ほど不足している。これは、機材が古いための馬力不足が原因で、故障と名の付くもの ではない。以前から同じ機番号の飛行機を使っていたので、その点は納得していた。だが、 その日に限って、この回転不足が気になった。  それは、当日の訓練科目が、単機ごとに行う「発射運動」ではなく、編隊の集合解散が 訓練の主体となる「襲撃運動」だからである。そのうえ、指定された編隊の位置が四番機 であってはなおさらである。仮に、二番機か三番機であれば、馬力の不足をそれほど気に せずに出発したかも知れない。  それには理由があった。約二週間ほど前の十二月上旬、《敵機動部隊、関東地区来襲の 公算大》との情報で、稼動飛行機を一時的に、宮城県の松島基地に退避させた。その時の 使用機がこの日と同じ機番号で、編隊の位置も同じ四番機であった。  故障ではないにしても、使い古して馬力の落ちた飛行機のため、離陸してから一番機に 追い付くのに時間がかかった。そのうえ、編隊を組んでからも、定位置を保持するための エンジンの使い方で苦労した。  二番機や三番機は、一番機に直接付くので、一番機との関係位置だけを確保して操縦す ればよい。ところが、四番機は二番機との関係位置を保持するため、二番機が一番機に合 わせるための動きに、倍加する操作を強いられる。そのため、燃料の消費量も増大する。  松島基地へ移動の際は、日立市上空を経て洋上に出るまで、風防の天井に頭を打ち付け るほどの悪気流であった。上下左右にがぶられながら、編隊の定位置を確保するのに泣き たいぐらいの苦労であった。  そのうえ、北上するにつれて雲が厚くなり、ついに陸地が見えなくなった。後席は専門 の偵察員ではない。機付きの整備員二人と整備工具を積んでいる。当然ながら独自の航法 はやらない。 だから、編隊を離れると、どこを飛んでいるのか分からなくなる。そのうえ、 先ほどまでの悪気流で、搭乗に慣れない二人の整備員は既にのびている。  一番機は、遅れがちな四番機を気遣ってやや速度を落としている様子である。そのため、 他の編隊とは大分距離が開いてしまった。編隊を組みながら、チラッチラッと陸地の方を 見るけれど、真っ白い雲に覆われて何も見えない。だから、今どの辺りを飛んでいるのか 見当もつかない。洋上では雲が消えるので、東側の海上は晴れている。眼下の海上を眺め ると、一面に白波が立って、相当荒れている様子である。  やがて到着の予定時刻が近づいた。だが、依然として陸地は見えない。前の編隊はいつ の間にか姿を消している。飛んでいるのは、われわれの編隊だけである。遥か右方向にチ ラッと島影が見えた。牡鹿半島の金華山あたりであろう。前面にかぶさるように雲が近づ いた。一番機が高度を下げながら、大きく右旋回を始めた。  いよいよ松島基地である。だが、未だ陸地が見えない。編隊は高度を五百メートルまで 下げて、二回〜三回と旋回を続けながら進入の機会を窺っている様子である。今度は燃料 が心配になってきた。普段の訓練飛行では、燃料コックの切り替えを省略するため、メイ ンタンクのみを使用していた。だから、満タンにしても八百リットルである。燃料ゲージ を引張って残量を確認する。  スロットルレバーを一定の位置に固定して、経済速度で飛べる一番機とは、燃料消費量 に相当の開きがあるはずである。残量から推定して、もう百里原基地へ引き返すのは無理 のような気がする。どうしても、松島基地に着陸しなければならない。  編隊飛行では、列機の操縦員は一番機と違い、編隊の定位置確保に専念するため、四囲 の状況を十分に観察する余裕がない。本来なら、後席の偵察員がこれを補い、現在位置や 目的地への到着時刻など必要な情報を提供する。ところが、今日の後席は偵察員ではなく 半病人の整備員で頼りにならない。チャート(航空図)は持っているが、ゆっくり見る暇 もない。  やがて意を決したかのように、一番機が高度を下げながら真っすぐ雲の中へ突込んだ。 パーッと、白いものに包まれた。よく見ると、雲と思っていたのは吹雪であった。陸地が 微かに見える。一番機のバンクで編隊を解散した。単機になって改めて地上を見回すと、 真下に十文字の滑走路が黒々と見える。芝生の部分は真っ白になっているが、積雪の状況 は上空からでは分からない。  風向きを確認して誘導コースに入る。南側から着陸するので再び海上に出てパスに乗る。 視界が悪いうえに、初めての飛行場である。慎重に操縦して無事に着陸することができた。  以上のような伏線があったので、その時の苦労が蘇ったのである。馬力の弱いエンジン と、四番機という条件の重なりに、 「馬力の弱いこの飛行機で、今日の訓練に参加したくない……」という気持ちが働いた。  整備員に予備機を要請した。だが、当時は機材が古いため故障機が多く、予備機を準備 する余裕などあろうはずがない。古参の整備下士官が代わって試運転を行った。 「特に悪いところは無いと思うが……」 と、不審顔で言う。 「四番機で回転が上がらないと、編隊には付いて行けません!」 空中でのことについて、整備員に発言力は無い。 「それでは点火栓でも交換してみるか……」 そう言いながら、しぶしぶエンジンを止めた。  その間、出発準備の整った三機は、一番機を先頭にして次々と離陸して行った。指揮所 に帰り、地上指揮官橘大尉に出発取り止めの状況を報告した。指揮所にペアの吉池教員が 待機していたので、搭乗割の変更について指示を受けた。そして、次回の組に参加するこ とになり、指揮所で休憩していた。  しばらくすると、艦攻が一機着陸して、列線に向かわずに真っすぐ指揮所前に乗り着け てきた。何となく様子がおかしい。「 スワ何事!」と、指揮所にいた者は総立ちになった。 見れば、尾翼の大部分が切り取られた様に破損している。分隊士平野中尉が、顔を引きつ らせて飛び降りてきた。 「空中衝突で二番機と三番機が墜落しました!」 と、指揮官に報告している。  指揮所に居合わせた、中西中尉が、 「状況確認に出発しまーす」 と、地上指揮官橘大尉に報告して、列線に置かれていた、私が乗る予定であった飛行機に 飛び乗った。後席にはベテランの春原上飛曹が乗り込んで、直ちに離陸した。  これは大変に事故になった。早速整備隊長の指揮で救難隊が編成された。練習生の一部 も加わって地上から現地に急行した。しかし、生存者はいなかった。そして、夕方までに、 堅田飛曹長以下五名の遺体を収容し、破壊した機体の一部も回収してきた。初めて体験す る事故の悲惨さに衝撃を受けた。  二番機 操縦席 二等飛行兵曹  浅井 勇三(長崎)      偵察席 飛行兵曹長   堅田 瑞穂(和歌山)      電信席 二等飛行兵曹  石徹白郁夫(福井)           茨城県東茨城郡大谷村大字稲荷  三番機 操縦席 二等飛行兵曹  中根 良夫(愛知)      偵察席 一等飛行兵曹  横倉 茂樹(東京)           茨城県鹿島郡旭村大字上釜    横倉一飛曹は甲飛十一期生出身の先輩である。病気治療のた卒業できず、 われわれの期 に編入されて共に訓練を受けていた。不幸にもその日、 三番機の後席に同乗したため卒業 を目前にして殉職されたのである。

     海 軍 葬

収容した遺体は一カ所の火葬場だけでは処置できず、 私たちは一部の遺体を水戸市まで 運んで荼毘に付した。翌早朝、遺骨を納めて帰隊した。そして、早速役割を分担して海軍 葬の準備が始められた。  私は酒保係をしていた関係で主計科に顔が効くとでも思ったのか、遺族係に指定された。 主計科から茶菓子などを受け取り、ご遺族の接待に当たった。だが、ご遺族の方々は突然 の事故の知らせで様子も分からず駆けつけられ、接待を受ける余裕などなく、事故の様子 を詳しく説明して欲しいとの発言ばかりであった。  しかし、操縦していた者と後席に同乗していた者、それに、衝突の原因に直接関係した 者と衝突された者などのご遺族が同席している場所での説明には、憚られるものがあった。 だから、 「墜落の原因はただ今調査中ですから……」 と言葉を濁す以外に方法はなかった。  堅田飛曹長の父親が、遺骨に取りすがって、 「珊瑚海からは生きて帰れたのに、なんでこんなことで死んだ……」 と慨嘆された。甲飛四期の先輩である堅田飛兵曹長は、珊瑚海々戦に雷撃機操縦員として 出撃し、敵空母ヨークタウンに肉薄雷撃を敢行して嚇々たる戦果を挙げられた方である。 しかし、 訓練中の殉職では、昇任や叙位叙勲などない。 「こんな事故で死ぬくらいなら、珊瑚海々戦で戦死して欲しかった」 というのが、父親の願いであろう。  また、遠く長崎から駆けつけられた同期生浅井君の父親が、 「なんとか戦死にしてください、殉職では遺骨を持って故郷には帰れません……」 と、涙ながらに訴えられる姿に貰い泣きした。  当時の世相としては、戦死は軍人の最高の名誉であるに反し、事故による殉職はややも すると身の不始末と考えられ、恥辱とされた時代である。立派な飛行兵となって故郷に錦 を飾って欲しかったのに、志し半ばに倒れ、親が遺骨を引き取ることになろうとは……。       *  海軍葬は厳粛にしかも簡素に実施された。格納庫の中に黒白の幕を張り巡らし、その奥 に祭壇が設けられた。そして、遺骨が安置され遺影が飾られた。関係者の整列が終わると、 ご遺族が入場され最前列に着席された。そして、司令をはじめ飛行隊長及び分隊長が次々 に弔辞を述べた。  同期生を代表しての弔辞は江藤練習生が読み上げた。鹿児島航空隊の予科練入隊から、 谷田部航空隊の飛練と、共に猛訓練に耐え抜いた過去の思い出などが切々と述べられた。 そして、卒業を目前にしての別離に、同期生一同ただただ頭を垂れるのみであった。    次に、礼式曲「水漬く屍」が吹奏され、整列した衛兵が弔銃を発射した。空包ではある が格納庫の内部に反響し轟音となって響き渡った。    終わって士官バスに遺骨を抱いたご遺族が乗車された。格納庫から隊門までの道路に、 総員が整列して見送る中、礼式整列した衛兵の「捧げ銃」の礼を受け、ラッパ「葬送行進 曲」の調べに送られて寂しく離隊された。初めて体験する事故処理や厳粛なる海軍葬に、 改めて飛行機搭乗員としての身の処し方に自覚を求められた思いであった。        *  事故の起きる数日前のことである。私は堅田分隊士に呼ばれた。そこで長兄が戦死した との公電があったことを知らされた。そして「兄貴の仇を討て」と激励された。その時は その意味を深く考えなかったが、卒業直前に発表された実施部隊の配属先が、九○三航空 隊であったので、分隊士のご配慮を理解した。それは長兄が敵潜水艦の攻撃を受けて戦死 したので、対潜水艦部隊に配属させるから「仇を討て」という意味であった。
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