♪鹿児島航空隊 隊歌♪

蒼空の果てに

     甲種飛行予科練習生(甲飛)

 昭和十八年八月一日、募集告示に定められた期日に遅れること四カ月、私は、第十二期 海軍甲種飛行予科練習生(略称・甲飛)として鹿児島航空隊に入隊した。この遅れの原因は、 増員に伴う受け入れ準備が間に合わなかったためである。  今までは飛行予科練習生(通称・予科練)の教育部隊として、土浦航空隊と三重航空隊が あった。ところが増員に伴う措置として、新たに鹿児島航空隊を開設した。だが、兵舎の 建設などは一朝一夕にできるものではない。そのため、人員を土浦航空隊と三重航空隊そ れに新設された鹿児島航空隊に振り分け。更に、四月(一次)・六月(二次)・八月(三次)に 分割して、入隊時期をずらす処置がとられたのである。   四月(一次)土浦航空隊・三重航空隊・鹿児島航空隊  一、九六〇名   六月(二次)土浦航空隊                四九三名    八月(三次)鹿児島航空隊               七六二名           予科練 甲飛 第十二期生合計            三、二一五名  ここで、海軍の飛行予科練習生の制度について簡単に説明する。海軍では各兵科別に学 校その他の教育機関があった。飛行科や整備科の教育機関が練習航空隊である。これらの 教育機関で教育を受ける者を、士官は学生と呼び下士官兵は練習生と呼んでいた。飛行機 搭乗員となる下士官兵は、基礎教育を受けるため先ず飛行予科練習生を命じられる。  われわれが飛行兵を志願した当時は、募集資格によって甲種・乙種に区分されていた。 また、既に海軍に在籍して海兵団教育を終了している者の中から適格者を選抜する制度が あり、これを丙種と呼んでいた。これらは教育期間に若干の差がつけられていた。  甲種飛行予科練習生に合格すると、海軍二等飛行兵を命じられる。陸軍と違って海軍の 二等兵には階級章がない。だから、通称「カラス」と呼ばれていた。「闇夜のカラス」を 連想しての呼び名であろう。そして、海軍々人としての基礎教育が実施される。一般兵科 の海兵団教育に相当するものである。これが終了すると、海軍一等飛行兵に進級する。  次に、適性によって操縦専修と偵察専修に分けられ、それぞれ専門の基礎教育を実施す る。基礎教育である飛行予科練習生を卒業すると、次は飛行術練習生に進む。その当時、 飛行予科練習生を予科練と呼び、飛行術練習生を飛練と呼んでいた。飛練に進むと、実際 に飛行機に乗せて訓練を実施する。操縦専修の練習生は先ず中間練習機(通称赤トンボ)  で基礎的な操縦訓練を行い、次に機種別に分かれて実用機を使用して実戦に即した訓練を 実施する。           偵察専修の練習生は航法・通信・射撃・爆撃などの訓練を、機上作業練習機を使用して 実施する。これらの飛練を卒業すると高等科の「特技章」(八重桜)が付与される。これ で初めて一人前の飛行機搭乗員として、実施部隊で勤務することになるのである。  入隊当初の所属は、第二十一分隊三班であった。班長は三条竹次郎上等兵曹であった。 当時私の郷里からは、百名に近い者が軍務に服していた。しかし、陸軍が大多数で、海軍 に入隊した者は数名に過ぎない。ところがその数少ない郷里の先輩が、ここ鹿児島海軍航 空隊に二人もいたのには驚いた。  田島政美二等機関兵曹(長兄と同級生)と永末克巳一等整備兵である。西も東も分からな い新兵生活で、身近に知人がいることは心強い限りであった。田島二機曹は間もなくアン ダマン方面に転属されたが、永末一整は私が卒業するまで、射爆講堂の写真室に勤務して いた。お陰で公務以外の写真を数多く写して頂いた。 鹿児島航空隊で郷里の先輩と     郷里の先輩と。  また、写真室ゆえの役得があるらしく、お菓子や煙草などの酒保物品が豊富であった。 暇をみては写真室に出入りして、そのお裾分けにあずかった。更に外出した際も、航空隊 指定のクラブよりも、上荒田町にあった彼の下宿である、前田さんのお宅にお邪魔する回 数の方が多かった。  前田さんのお宅で。  十二期生最終組の八月に入隊したわれわれは、この遅れを取り戻すために、訓練期間が 甲飛(甲種飛行予科練習生の略)の発足以来最も短い、八ヵ月に短縮された。そのため、 一次(四月)二次(六月)入隊者に「追いつけ、追い越せ」を合言葉にして猛訓練が続け られた。基本教練をはじめとして、水泳やカッターそれに柔道や剣道などの心身の鍛練が、 息つく暇もなく実施されたのである。  またこれと並行して、「手旗訓練」や「モールス信号」の送受信訓練なども開始された。 これ以外に「発光信号」「旗旒信号」など、飛行機搭乗員として絶対必要な各種通信手段 の訓練は、徹底的に実施された。  九月になると、操縦専修と偵察専修に分けて編成替えが行われた。私は操縦専修である 第二十二分隊五班編入された。班長は田島壮司二等整備兵曹である。そして、それぞれの 専門分野の知識が詰め込まれた。操縦専修に対しては、 飛行機の構造や操縦装置、それに 発動機の構造や機能、更に、飛行機の操縦理論など、盛りだくさんな教育内容であった。 そして、次々に試験が行われ、理解度が試される。その日習ったことは、その日にうちに 覚えるのが鉄則である。だから、夜の温習時間は睡魔との闘いで悪戦苦闘の連続であった。 鹿児島航空隊22分隊5班 後列左から、 川頭・沢田・川崎・広友・深川 3列目、 笹見・村山・島原・是永・有働・田中 2列目、古田・中村・緒方・箕輪・柴田・寺門・永末・後藤・長浜 前列 南新・岸田・石橋・田島・鵜木・安田・松田  座学ばかりではない。秋になると、水泳訓練やカッターに代わり、一萬メートル競争が 実施された。これは、競技当日に一回だけ走ればすむというものではない。練習と称して、 午後の体育の時間になると、一ヵ月も前から毎日同じコースを走るのである。そして、日 一日と秒時の短縮が要求される。分隊対抗の競技だから少しも気が抜けない。  これ以外にも、「棒倒し」や「闘球」などの競技がめじろ押しである。「闘球」は海軍 独特の球技である。ラグビーボールを使用していたが、ラグビーのような複雑なルールは ない。要するに、どんな手段を使ってもよいから、ボールを相手陣地に持ち込めば勝ちで ある。そのうえ分隊対抗だから、喧嘩も同然の激しい競技であった。  また、「剣道」「柔道」の武術に並行して、「銃剣術」や「抜刀術」などの訓練まで実 施された。このように、心身共に飛行機搭乗員として鍛え抜かれたのである。そのため、 再度の検査を行い身体強健者のみを選抜していたにもかかわらず、身体の不調を訴えて診 療を受ける者が増えてきた。  そして、幸いに傷病が回復しても、同期生との訓練の遅れを取り戻すことができずに、 次のクラスに編入される者なども出始めた。また、闘病の甲斐もなく、無念にも志願免除 となって帰郷を命じられる者もいた。  秋も深くなり、薩摩半島西海岸にある伊作町まで行軍し、民家に分宿して吹上浜一帯で 陸戦演習が実施された。また汽車を利用しての霧島神宮参拝など、楽しい行事も組み込ま れていた。 陸戦演習のため伊作町へ行軍
    鹿児島海軍航空隊 隊歌 一、朝日に映ゆる高千穂の 聖き姿をふり仰ぐ   溌らつ若き飛行帽 世紀を翔ける空万里   無敵の栄誉堂々の 鹿児島海軍航空隊 ニ、一億こぞる追軍の 先駆雄々しく日の翼   雲染む屍尽忠の 誓いに燃えて空を往く   隼人の気迫烈々の 鹿児島海軍航空隊 三、黒潮おどる薩南の 雲に鍛えし腕の冴え   示すは今ぞ必滅の 鋭気は破る雲幾里   練磨の威力隆々の 鹿児島海軍航空隊 四、野望に狂う英米に 神の鉄槌うち降ろす   このとき仰げ海鷲の 戦史に描く晴れの技   不滅の武勲赫々の 鹿児島海軍航空隊
君が代行進曲
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