2002.02.21
大戦中、日本軍の聴音機の上にアルミ箔が降ってきたらしいのですが、その時居あわせた兵士はいったい何を思ったのでしょう。
戦争末期、沖縄に夜間雷撃に出撃する海軍搭乗員が、兵舎で「錫箔」を使い「電探欺瞞紙」を自ら作る話を読んだ事がありました。しかし、「錫箔」とはどんな物か想像は出来ても、実際にどんな物か、どうやって作るのかは、まったく知りませんでした。今回はこれらについて書かれた社史を見つけたので紹介します。
「電探欺瞞紙」こと「チャフ(CHAFF)」ついてチョットだけ触れて置きます。
「電探欺瞞紙」とはレーダー・スクリーンを混乱させる目的で、電子エコーを反射させるために用いられる、長さ及び周波数に対する反応が様々な薄くて細い金属片をいうそうです。終わり。(これ以上の説明は、アノ人やコノ人を悦ばせるだけなので絶対してたまるか・・・)
今回、たまたま私の目に止まった本は「東海金属五十年史」という物です。ここでは明治の頃から鉛管(ガス管に使用)を生産していたのですが、鉄管が使用されるようになったり、競争が激しくなったため、大正2年錫箔の生産を始めました。最初の使用目的はお菓子包装用(よく分らないのですがキャンディーやチョコレートを包んだり、クッキーなどをパックしていたと思います。)でした。製造法はあまり難しくない様で、錫板をロールで繰り返し圧延し、0.008ミリの薄膜を作るそうです。機械はドイツ、クルップ社製でした。その後、煙草の包装用として錫箔と模造紙を糊で貼り合わせた煙草包装用錫紙が昭和7年頃から生産され始めました。
また、ここでは、日本で初めてアルミ箔の生産を昭和6年から本格的に始めました。
太平洋戦争勃発後、民生品に使用する金属は使用を止められるようになりました。そして、ひょんな事から次ぎのような兵器生産に転換されたのです。
19年6月、専売局の煙草「暁」は製造中止となり、従って最後に残った当社納入のアルミニウム製品たる「暁」包装用のアルミニウム箔も製造中止の止むなきに至り従業員一同大いに落胆した。
ところが我軍当局はヨーロッパにおいて連合軍がドイツを爆撃した際、大量のアルミニウム箔リボンを飛行機から撒布することにより敵の電探器の妨害をなし、高射砲による犠牲を何分の一かに激減せしめたとの情報を掴むに及んで、当局はその「電探妨害片」の生産を当社に命令してきた。
当社はアルミニウム箔の製造は当時既に禁止されており、これに代るに錫箔を以って当てた。しかるに錫箔はアルミニウム箔(未焼鈍品)に比して遙に柔軟であるため、これを空中に撒布すると殆ど浮遊することなく塊となって落下する。電探妨害のためには、この金属片が相当時間滞空浮遊することが必要である。当社は錫箔に模造紙を裏貼りして試験をしたところ、良好な成績を挙げたので軍の注文を引き受け、大量に生産することとなった。
なおこれを完成するまでには、種類、大きさ等色々と試験を重ねた。即ち連合軍がハンブルグを爆撃した時に空中から降って来た金属片は、多分空中でちぎれたのであろうか、比較的小片だったので、軍から当社への注文品の寸法は、5ミリ角の箔であった。
これを数十キログラム、レイテ作戦で使用して見た結果、犠牲が半減したというので、陸海軍当局も真剣に研究に乗り出して来たのである。
かくて材料はアルミニウムと錫を使い、型は大小の平判品または巻取箔或いは金属粉等を使用して研究した結果、原料の入手の上からも、量産可能の点からも、錫箔と模造紙の貼り合わせ巻取品が最高と決定して、これを採用するに至ったのである。
この電探器妨害箔については陸海軍それぞれ注文を競い、かかる重大な時局においてもお互いに協調を欠き他を排斥したので、当社は両軍の間で板挟みになって大いに困却する等の一幕もあった。(あい変わらず)
はっきりとは書いていないのですが、「電探欺瞞紙」に使用するため錫箔を海軍に納入した会社がありました。それが「千住金属工業株式会社」です。元々ここはハンダの生産に特徴があったところです。
19年11月、海軍管理工場となった。これは海軍からの錫箔の製造の問合せを受け、生産可能という返事をしたため、急遽、横須賀に錫箔を納入するように指示されたことによる。従業員も徴用で調達、昼夜兼行で操業するというあわただしい状態になった。
「電探欺瞞紙」の日本での研究や使用状況を調べたのですが、私の貧しい蔵書には、ほとんど何も書かれていませんでした。ただ「機密兵器の全貌」に数行の記載がありました。(こう書いて置けば奇特な方が何か教えてくれるでしょう。)
引用・参考文献
- 「東海金属五十年史」 東海金属株式会社
- 昭和36年12月20日発行
- 「四十年のあゆみ」 千住金属工業株式会社
- 昭和53年9月30日発行
- 「機密兵器の全貌」 原書房
- 昭和51年6月25日発行(復刻)