「碧素(ペニシリン)」と「科学朝日」

2002.02.17 

 学生時代、生化学と微生物学を真剣に学んでいれば、もう少しシャレた話も書けるのだが、如何せん怠惰な日々を過ごしただけなので、どうしようもない。若い時は、やっぱり一所懸命、遊びかつ勉強したほうがいい。

 この話の骨格をなすのは

 角田房子著「碧素・日本ペニシリン物語」昭和53年7月15日発行 新潮社

だ。
 この本では戦時中の日本におけるペニシリンの開発経緯、組織、開発状況、生産、使用状況を克明に書いている。どこかで、「日本ではペニシリンの大量生産も出来なかった。日本は遅れていたんだ。だから戦争に負けたんだ。」というような話を書いていたような気がするが、その方はきっとこの本を読んだ事がないのであろう。読んでいたとしても事の本質を理解する力が無かったのである。

 日本でのペニシリンの開発は、昭和18年12月ドイツから送られてきた医学雑誌中のペニシリンの記事を見た陸軍軍医学校の一軍医少佐の慧眼から始まった。昭和19年2月1日、医、薬、農、理など各学界の専門家を集め、陸軍軍医学校で開かれた第一回ペニシリン委員会が事実上のスタートになった。そして、その年の5月には粗製とはいえペニシリンは実際に臨床に使われ、劇的な効果を上げた。しかし、物資の不足、空襲などで工場での大量生産には至らず、運に恵まれた少数の人達だけが、ペニシリンにより命を救われ終戦を迎えた。

 ペニシリンとはそもそもどのようなものであろうか。ペニシリンとは世界で最初に発見され、最初に実用化された抗生物質である。ある種の青カビから抽出され、細菌感染症(ガス壊疽、破傷風、肺炎、敗血症、淋病等)に効果がある。(当時は劇的に)

 1928年、英国のA.フレミングによりその存在が確認された。その後、空白期間を経て1939年末より英国のH.W.フローリーとE.B.チェーンにより研究が再開され、1940年には粗製ながらペニシリンの分離に成功した。その後、より生成量の多い菌の探索、改良を行ったが、英国内では戦争の激化から、研究が難しくなり、1941年米国での研究、開発が始まった。1942年初め、英国では表面培養法で小規模ながらペニシリンの工業生産を始めた。しかし、ペニシリンを大量生産するにはタンクを使用する深部培養法でしか望めなく、米国での研究は続いた。1943年後半から、深部培養法によるペニシリンの大量生産が米、英両国で始まった。

 ペニシリンの存在を日本国民が初めて知ったのは、昭和19年1月27日の朝日新聞の記事である。

「敵米英最近の医学界 チャーチル命拾い ズルホン剤を補うペニシリン」
 アルゼンチン(当時、中立国)ブエノスアイレス発

の見出しの後、風邪から肺炎を起こしたチャーチルがペニシリンで命を救われた話と、ペニシリンの紹介記事が載せられた。 
 この後も新聞、雑誌等で繰り返し紹介されるのだが、なぜか、ほとんどの日本人はペニシリンの存在を知らなかったようである。 
 なにげな〜く戦時中の「科学朝日」を読んでいたら、ペニシリンの記事がちらほらあった。これが、なかなか専門的でいろいろな事を示唆し、興味深いのである。これらの記事を簡単に紹介し、チョット解説したいと思う。

 昭和19年8月号から
  海外時報  ソ連
  ペニシリン工場新設

 リスボン(ポルトガル)情報の伝えるところによると、モスクワに最近ペニシリン専用の製造工場が二つ誕生した。六ヶ月保存可能の粉末ペニシリン と、二ヶ月保存可能の液体ペニシリンを生産するが、ペニシリン研究はエルマレーヴァ女史の指導下にあるといわれる。

 ソ連でもペニシリンの研究は進められていたが、実用化には程遠い物だった。H.W.フローリーはペニシリン開発技術と臨床適用法を教える為、1944年1月末モスクワに赴いた。そこで、ペニシリンを作る菌その物を渡し、製造技術を教え、臨床実験を行っていたのである。その成果が上記の話になったのであろう。(本当かどうかは私当然知りません。)なお、昭和19年5月9日に軍医学校は東亜研究所からソ連のペニシリン文献を入手しているそうである。

 昭和19年11月号から
    ペニシリン
    新種発見される
    臨床的試験にも好成績
    東北大医学部の研究

 として、東北大学医学部細菌学教室での研究結果や、臨床結果が述べられている。なおここの研究は陸軍軍医学校の指導ではなく、1月27日の朝日新聞の記事を端緒としている。ペニシリンの製造、臨床、実用化NO、1はここである。その後、功績に捕われることなく成果を公開し、陸軍軍医学校の指導下で研究を進めていく、じつに麗しいお話である。さらにこの記事の中に囲み記事で次ぎのようなものがある。

   伸びゆくペニシリン
   ストックホルム同盟(中立国スウェーデン)

として「タイム誌」の9月11日医学欄を紹介している。これは、尿中に排泄されるペニシリンを分離する話と、血液中での滞留時間を延ばし効果を持続させる事を示唆した話で、日本側にとっては貴重な情報だったと思われる。

 イギリスのペニシリン

 として英国の雑誌に載せられたペニシリンの製造過程の写真と解説が載せられている。これは、牛乳びんを沢山ならべたような表面培養法を用いた製造設備で、この時英米はタンクを使用した大量生産法である深部培養法に生産を移行しており、すでに、過去の技術だったのだ。なお、これを見た日本関係者は森永乳業三島工場で似たような設備を作り、ある程度の生産を上げている。
「碧素・ペニシリン物語」文中では「11月17日エジプトで発行された写真雑誌「パレード」の中に、どこかの国のペニシリン工場の写真をみつけた。大きな牛乳びんのようなものが乱立して・・・」とある。(この時期いったいどこから入手したのであろう。)

 昭和19年12月号
  海外時報
  ペニシリンの吸入療法(米)

 として米国、ニューヨークの病院での肺炎、気管支炎などの呼吸器病対してペニシリンの噴霧による吸入療法を用いて効果があったと書いている。まったくありがたいお話である。

 戦時中の科学啓蒙雑誌(ほとんど軍事啓蒙雑誌と化しているが)ほとんど一般庶民には行き渡らなかったようだが、なかなかシブイのである。


 引用・参考文献

「第一製薬五十年史」
昭和41年5月1日

「森永・・・社史」本の名前など行方不明
三島工場での製造写真在り




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