2001.11.19
日本本土でのタングステン採掘およびタングステン使用の様子(タングステンカーバイトを除く)を簡単に紹介していきましょう。なお、取り上げる資料により数字がまちまちな所がありますが、どれが正しいのか、私にも分かりかねます。詳しく調べようとしたら、それだけで人生が終了してしまいそうです。
戦前、タングステンは世界の各地に産出しましたが、中国、南米(ボリビア)米国、ビルマ、インドシナ等太平洋沿岸に多く、日本も産地の一つでした。昭和7年頃、国内需要は年400トン内外、これに対し内地および朝鮮におけるタングステン鉱の産額はそれぞれ20トン内外でした。戦前、戦時中の最高生産を示した年でも国内需要の15%しか供給できませんでした。国内精鉱(三酸化タングステン55〜60%)生産高は1942年には、1040トンの最高値に達し、1935−45年の精鉱量合計は5400トンです。輸入(移入)状況を見てみると、朝鮮は1930−45年需要量の60%を供給し、他の供給源は英国、中国、タイ、ビルマ、中南米です。精鉱(三酸化タングステン60〜65%)の輸入高は1939年で4500トン、1945年で2200トンです。
タングステンの鉱石は日本で少なくとも130ヶ所にあることがわかっていて、そのうち40ヶ所から少量の精鉱が生産されました。生産地の多くが本州にあり、1925ー45年生産の83%を占めていました。過去の生産順位によって鉱山をあげれば明延(兵庫県、三菱鉱業)金内(京都府)大谷(兵庫県)高取(茨城県)喜和田(山口県)恵比須(岐阜県、帝国鉱業で戦時中受託経営)ハガシマ(岩手県)があり、屋久島にも2鉱山がありました。(これらの鉱山について詳しく知りたい方は、現地の市町村史を見れば出ていると思いますので、調べて私に教えてください。)
日本ではタングステンは錫鉱石に付随して産出するのですが、戦争勃発後、南方圏の錫が潤沢に供給されるようになり、日本の錫鉱山は操業を縮小させられ、設備は他に転用されます。(錫鉱山整備事業)そのため、日本でのタングステン産出は減少します。これからも、当時の日本でのタングステンの重要性(緊急度)のなさと、南方圏からの取得に対する自信が感じられます。
タングステンの製錬なんですが、詳しい資料には今だ出会っていません。三菱鉱業社史に少し取り上げてありますので紹介します。
鉱業研究所は大正10年代からタングステンの研究を行い、高取鉱山産の重石鉱の処理や、生野(明延)鉱山の錫精鉱からのタングステン回収を研究し、大正12年から金属タングステンの製出を始め、続いてフェロタングステン製造の研究に進み、昭和3年からその製出を見ることができた。研究所において試験的規模ながら設備を整えて製出を続け、昭和8年には金属タングステン20,127kg、フェロタングステン91,900kgを製出した。
直島製錬所では昭和10年3月にはタングステンの製錬場を開設した。これは錫精鉱中に含有するタングステンを回収するもので、錫精鉱をバイ焼して灰重石として回収した。原鉱として錫精鉱月額261トン(タングステン酸品位4%)を処理して灰重石13トン(タングステン酸品位60〜70%)を得ようとするもので、製品はすべて大阪製錬所に送り、昭和15年の生産は355トンであった。
次にタングステンの実際の使用状況を調べてみましょう。ただし、タングステンフィラメントは私の趣味じゃないので触れません。あくまでもタングステン合金について書いていきます。まず、基になる戦前、戦中のフェロタングステン生産量を見ていきます。(日本本土内だけだと思われます。)
1931年 |
32t |
1936年 |
447t |
1939年 |
2499t |
1940年 |
3274t |
1941年 |
2949t |
1942年 |
2152t |
1943年 |
3216t |
1944年 |
1567t |
1945年 |
58t |
となっていますが、これが日本の必要量に達していたのか。どれくらいの量を必要としていたのか。(欲を言えば幾らでも欲しかったのでしょうが)その辺の所がさっぱり分かりません。(防研に行けばこれらの資料があると思うのですが。)戦時中、12会社が標準品位のフェロタングステン(タングステン含有80%以上、炭素1%以下)を生産しました。大分県の日本鉱業株式会社佐賀関製錬所では、ジロー型電気炉による普通の二段操作(還元、精錬)によって、能率的にフェロタングステンが生産されました。山口県の日本電気化学工業株式会社小国工場では、一段操作で標準品位フェロタングステン生産に成功をおさめました。1939−45年の間に1万9000トンのフェロタングステンが朝鮮で生産され、当時の大日本帝国内で消費されました。
一例として三菱鉱業のフェロタングステンの生産について触れます。
昭和8年10月より大阪製錬所においてフェロタングステンの製造を行なうこととなった。当初の生産能力は月産22トン程度であったが、軍需用としての需要が高まるので、11年に工場の拡張を行い、電気炉を増設して生産能力を倍増し、昭和12年は477トンとなった。更に昭和13年に至り工場を拡張して月産150トンの能力とした。その結果昭和14年の生産は一挙に1,200トンを超えるに至った。
三菱鉱業における フェロタングステン生産 |
1940年 |
1372t |
1941年 |
754t |
1942年 |
651t |
1943年 |
489t |
さて、フェロタングステンを使用した特殊鋼(タングステン鋼)の生産なんですが、これが不思議なことにほとんどの製鉄、製鋼の社史には記載されていません。わずかに見られたのは、日立製作所の安来工場(島根県)と水戸工場でのタングステン鋼生産と大同製鋼の尼崎工場(特殊鋼専用薄板工場、終戦時未成)でのタングステン鋼鈑(金切鋸用)生産ぐらいでした。ただし、特殊鋼生産の記載は多くの会社で見られますので、その中には当然タングステン鋼に当該するものがあるのでしょう。
軍用のタングステン鋼なんですが、海軍は1909年にすでにタングステン鋼を作り初めています。その詳細は「呉海軍工廠製鋼部史料集成」の海軍艦政本部規格に成分、性能、使用品が書かれていますので、知りたい方はこの本を調べてください。(この本を引用することは私のポリシーに反しますので、書けません。)
陸軍は、銃身鋼にタングステン鋼を使用しているようですが、くわしい史料は見当たりませんでした。
引用・参考文献
- 「日本の天然資源」 連合軍総司令部 経済安定本部資源調査会訳
- 時事通信社 昭和26年2月20日発行
- 「日本の鉱物資源」 メルヴィン・ポラード 連合軍総司令部
- 経済安定本部資源調査会訳 時事通信社 昭和26年12月25日発行
- 「日本戦争経済の崩壊」 アメリカ合衆国戦略爆撃調査団
- 正木 千冬訳 日本評論社
- 「三菱鉱業社史」
- 昭和51年発行
- 「帝国鉱業開発株式会社」
- 昭和45年3月1日発行
- 「日立製作所史2」 株式会社日立製作所
- 昭和35年12月25日発行
- 「大同製鋼50年史」 大同製鋼株式会社
- 昭和42年7月1日発行
- 「呉海軍工廠製鋼部史料集成(一)(二)」
- 平成8年8月15日刊行
- 「名古屋陸軍造兵廠史・陸軍航空工廠史」
- 昭和61年12月9日発行
- 「陸戦兵器総覧」 日本兵器工業会
- 1977年3月25日初版発行
- 「戦前軍用特殊鋼技術の導入と開発」 日本鉄鋼協会
- 平成3年3月28日発行
結局、何にも分かっていないのかもしれません。