2001.10.29
結構、参考書には取り上げられ存在することは確かなのですが、実態の詳しい記述に出会わない事は良くあります。たまたまそのような記述に出会った人にとってはなんでも無い事なのですが、それを見出せない人には何年も、何十年も宿題となって残ります。
太平洋戦争中、中国の青島に本格的な溶鉱炉とマレー半島のどこかに木炭を使用する溶鉱炉が建設された事は、製鉄関係の本を読んでいると時々目にします。しかし、それが実際に完成して稼動したのか?稼動したならば、どのような規模で、どれくらいの生産量を挙げたのか?という記述に私は出会った事がありませんでした。「日本鋼管株式会社50年史」を読み、初めてその概要がが分かりました。
1. 青島製鉄株式会社
昭和17年12月、戦力増強の緊急処置として、外地小型溶鉱炉の建設方針が決定され、昭和18年から朝鮮、北支、蒙彊、中支の各地に小型高炉が建設されることとなったが、日本鋼管(以後NKKと呼ぶ)にたいしても昭和17年12月、北支青島に50トン高炉10基、張店に50トン高炉2基の建設命令があった。
NKKは同年末、現地踏査の結果、青島市ソウコウに250トン高炉3基を建設することを適当とし、昭和18年1月から建設工事に着手した。
その後、上記の事業は、北支那開発株式会社と協力して遂行する方針が決定し、昭和18年11月に青島製鉄株式会社が創設された。
当初の計画では、250トン高炉3基および付帯設備を建設し、鉄鉱石は金嶺鎮、利国鉱山から供給し、石炭は山東博山炭および中興炭を使用し、コークスを自家製造して操業を開始し、昭和19年以降22万5000トンの銑鉄を生産する予定であった。
ところが昭和18年1月から建設していた第1高炉は、同年9月火入れのはこびとなったが、コークス品位の不良と冷風操業のため炉況不良で出銑作業は失敗し、10月に吹き止めしたため、引き続き工事中の第2高炉の完成はいよいよ緊急を要したので、建設は一段と促進され、昭和19年3月に完成すると、ただちに操業を開始した。第1高炉の経験から原料面、技術面に改善を加えたので、第2高炉は比較的順調に操業を続けた。第1高炉も7月に修理を完了したが、原料輸送難のため火入れが出来ず、第3高炉も未完成で結局、昭和19年3月から終戦まで合計5万トン弱を出銑したにとどまった。
その製品銑鉄は、華北鉄鋼販売会社の統制下に対日輸送を原則としていたが、配船が困難となるにつれ、一時青島埠頭の貯銑が増大するにいたり、貯銑の一部は現地軍の兵器原料や、鋳物用に充当された。
(この製鉄所は太平洋戦争勃発後、計画され、建設された本格的な溶鉱炉の中で唯一、銑鉄生産を挙げた所だと思われます。当時の日本の銑鉄生産の隘路となっていたコークス用の強粘結炭と鉄鉱石を現地に求め、銑鉄を生産し日本への輸送量を低減させ、船舶使用を効率化させるのが最大の目的でした。ただ、疑問に思うのは1年弱の短い期間で生産までこぎつけたようですが、当時の状況下でどのような方法を取り建設を行い完成させる事が出来たのでしょうか?)
2. 南方(マレー、スマトラ)製鉄所
NKKは昭和18年10月、陸軍当局から「南方甲地域における工業関係企業担当業者決定に関する件」により、マレーおよびスマトラで製鉄事業を担当すべきことを命ぜられた。
この命令ならびに指示にもとづき、NKKはマレーのケランタン州タマンガン鉄鉱山に、木炭銑を製造するため450トン高炉1基を、またネグリセンビラン州ポートデキソンに100トン高炉1基を、それぞれ昭和19年3月から建設に着手した。このタマンガンのマレー製鉄所は昭和20年3月に完成して、ただちに操業を開始し、終戦までに1日平均150トンの出銑をみ、ポートデキソンの分工場は昭和20年7月に完成したが、ついに操業のはこびにはいたらなかった。
同じくスマトラのランポン州テロクペトン村にも、製鋼、圧延を目的とするスマトラ製鉄所を建設することになり、製鋼設備(15トン平炉1基)は小倉築港株式会社供出のものを、産業設備営団から譲り受けて現地に輸送した。
当初の計画では圧延設備は中形、小形、薄板ロール各1基を移設する予定で、上記のうち薄板圧延機および付帯設備は、株式会社東洋製鋼所供出のものを産業設備営団から譲り受け、昭和18年12月に解体荷造りのうえ、順次阪神港に向け輸送した。その後戦局の悪化は現地との交通を不可能にしたため、昭和20年2月に国内に転用を命じられたが、ついに実現しなかった。
(マレーの製鉄所が完成するまで、日本の南方占領地域では溶鉱炉(高炉)という物が有史以来存在しませんでした。欧米列強にとっては東南アジアはやはり植民地でしかなかったのです。ただしオランダ政府は本土がドイツに占領された後、自活する為に蘭印に製鉄所を作る計画をたてましたが計画だけに終わりました。
大正中期以降、マレーの鉄鉱山は日本資本により開発され、生産のほとんどを日本が受け入れていました。昭和11年度の鉄鉱使用量を見れば国産25%、マレー33%、中国25%の比率を示しています。昭和15年度のマレーの鉄鉱石生産高は196万トンです。タンマンガン鉱山は南シナ海側のタイ国境ちかく、ケランタン河上流約100キロの地点に在ります。
昭和12年、南洋鉄鉱会社(鶴見製鉄およびNKK共同出資)によって開発されました。マレーでは石原産業のスリ・メダン鉱山や日本鉱業のヅングウ鉱山が有名で採掘量も多いのですが、タンマンガン鉱山は昭和14年度でも採掘量は21万トン程度で品位はそれ程高くなく50%程度です。また近くには日本鉱業が開発した優良なマンガン鉱山であるタンドー鉱山があります。
強粘結炭が日本の南方支配地域にはまったく存在せず、中国からの輸送もままならないため、木炭を使用し製鉄を行うしか方法はありませんでした。
しかし、もともとこの地域での木炭生産は充分ではなく輸入に頼っていましたので使用した木炭は輸入(移入)されたものか、現地の豊富な木材資源を利用し現地で木炭を焼いたのか、私にはわかりません。いずれにせよ膨大な量の木炭を必要としていたでしょう。また、補助燃料として現地では大量にある重油を溶鉱炉に吹き込んでいた可能性もありますが、それも不明です。
日本軍が現地で自活していくことを考えた場合、製鋼設備はぜひとも必要でした。例えばシンガポールの艦船造修施設では使用する鉄材をすべて日本本土から運び込んでいました。いずれにせよもっと計画性と時間がなければ)
引用・参考文献
- 日本鋼管株式会社50年史
- 昭和37年6月8日発行
- 南方圏の資源 第一巻 マレー編 小林 碧著 日光書院
- 昭和17年5月25日発行
- 回顧録 日本鉱業株式会社創業五十周年記念
- 昭和31年3月1日発行
- 創業三十五年を回顧して 石原産業株式会社
- 昭和31年10月1日発行