このテキストは海防研のマテリアル掲示板に投稿されたものです


弾薬防湿収納筒を作る

2001.05.08 

 昔々、親子3人で、常夏の島ハワイに観光に行った時、土産物としてビーフジャキーと共に買い求めた、「37MM M3andM5 CONTAINER」と「薬莢」しめて12弗の内、今回は「CONTAINER」日本陸軍風に言うと「陸軍弾薬防湿収容筒」について書きます。

 皆様、「一下級将校の見た帝国陸軍」山本七平著 文藝春秋社をお読みになった事がありますか?著者は砲兵将校でルソン島に配置されていました。この本で秀逸なのは戦争初期に捕獲されたM3GMC(M3ハーフトラックに75mm野砲M1897A4を載せた物)の実際の使用の様子が書かれていることです。

 しかし今回はこの本の一文が関連してきます。引用します。

「野砲弾は日本製、押収自走砲の砲弾は言うまでもなくアメリカ製である。日本製は四発ずつが木箱に入っており、アメリカ製は一発ずつが円筒型の黒い筒に入っている。私はアメリカ製を調べてみた。何とその筒は、芯にコールタールを入れて防湿してあるが、驚くほど頑丈で軽くて部厚い、板のようなクラフト紙の円筒なのである。その構造は一言でいえば、免状等を入れる紙筒と同じだった。「便利にできてやがる」私は内心でつぶやいた。日本製は四発ずつが釘づけの部厚い木箱、その中は防湿用のうすい四角い缶で、その構造は一言で言えば粗雑きわまる釘づけの「茶箱」に荒縄をかけた形である。」

 昭和14年秋のある日、藤森工業所に陸軍技術研究所から、「至急、技術者に来てほしい」という連絡が入りました。陸軍側から「これまでの陸軍の主戦場は、満州、蒙古、北支など乾燥地域であったため、砲弾の取り扱いにはあまり問題がなかったが、戦線が中・南支方面に拡大するにつれて不発弾が発生してきた。原因は、砲弾の輸送・保管中の降雨、水没、高温多湿などにより、薬莢と爆管、薬莢と弾体の結合部から水分が浸入するためである。結合精度を上げて障害を防ぐためには、規格精度や設計の変更が必要で、とても解決できそうにない。

 ベンジールセルローズを塗布してみたが効果はなく、次にブリキのはんだ付けによる弾薬木箱の内函をつくってみたが、弾薬車による輸送試験では、ブリキ函の天地板が対角線で裂けてしまった。そこで藤森工業には国内で生産できる材料で、なんとかこの問題を解決してほしい。」とのことでした。

 藤森工業は、主力製品であった「ターポリン紙」(紙と紙の間にアスファルト塗料を挟み糸を巡らせた物)で内函を作り、陸軍はこれを用い各種実験を行いました。実験の結果、満足すべき成果を上げたため、「弾薬防湿内函」は昭和15年4月、陸軍技術研究所から乙種正式兵器として制式決定されました。 生産は昭和16年2月、矢口工場(東急目蒲線、矢口駅側)において始まりました。

 弾薬防湿内函の生産が軌道にのるにつれて問題になったのが、砲弾収納木箱でありました。当時の弾薬補給用木箱は、部厚い板材を組んで釘打ちした箱で、両側に棕櫚縄がハンドリング用に輪になってついている頑丈なもので、包装体積効率は50%くらいなので、物流効率が悪く改善の必要がありました。

 昭和16年、いろいろな角度から検討を行っていた藤森工業は、防湿性の紙筒に砲弾を収納する事に思いいたりました。長円筒形多層巻きの印籠型2重丸筒に砲弾をそのままスッポリ収め、上下底には缶詰の応用で防錆塗装のブリキ底を巻き締めて装着しようというものでした。この提案は陸軍技術研究所に受け入れられ、ただちに伊良湖岬試験場での試験が開始され、第1年度は北満州での低湿耐性の試験、取り扱い方法の研究も行い、第2年度には中国中南地域での耐水防湿の実用試験が計画されていましたが、昭和17年正月、技術研究所からフイリピンで捕獲した米軍の81mm迫撃砲弾の収容筒を提示されました。それは試作試験中であった弾薬収納筒そのままであったので、ただちに制式化され長津田工場(横浜市)において量産にはいりました。

 昭和16年、東京第二陸軍造兵廠研究所において

 「完成弾薬筒莢口部防湿の研究」

 (接着剤又ハ防湿材ノ防湿防水効果及装薬ニ対スル影響)

 のテーマで各種接着剤および塗料を砲弾と薬莢の接合部に塗り、装薬の湿気による影響を実験しています。その実験結果として次のように結論付けています。

  1. 完成弾薬筒ノ弾丸ト装薬トノ接合部ニ施スベキ接着剤トシテハ黒ワニス最モ適当ナリ
  2. 黒ワニス、試製ネジ部用蝋剤、アイチムテキ糊(尿素フォルマリン縮合物)等ハ装薬ノ安定度ニハ影響ヲ及ボサザルモノト認ム

これらの結果を実用化したのか防研の資料の中で見出す事は出来ませんでした。


 引用・参考文献

 PANZAR 1986.6 「M2、M3ハーフトラック・シリーズ[2]バリエーション」
 藤森工業80年のあゆみ  藤森工業株式会社 平成7年3月発行


 ゴールデンウイーク中、3日連続、会社で朝を迎える事でき、その上15日間連続働く事ができてとってもハッピーでした。訪れる人もなく廃屋と化したこの掲示板にもやっと灯をともすことができホッとしています。ところで、東京でも当掲示板を見ている人が10人といないようですが(日本一の大砲の権威もいまだに見たことがないそうです。)
 札幌及び札幌近郊でこのいかがわしい掲示板を見た方はお便りください。待っています。




いらっしゃいませ。

2001.05.12 

 石炭から作る人造石油について書き出すと、夜寝る時間が無くなり、会社にも行けなくなるのでご容赦ください。いずれ何年先になるかわかりませんが、「日本人造石油史」などデッチ上げようと思っていますので当てにしないで待っていてください。

 どうでもいい話

 石炭(油母頁岩も含む)から人造石油を作る過程で窒素と硫黄の化合物である「硫安」が取れます。硫安は肥料として知られていますが、戦時中は爆薬の材料としても使用されました。硫安も戦時中、民間、陸軍、海軍の3者で取り合いを演じました。

 民間は当然、農業の為。陸軍、海軍は飛行場の「芝」の養生の為、舗装化の遅れていた日本では、滑走路又はその周囲には「緑」がどうしても必要でした。
 受験勉強がんばってください。合格したあとはこの掲示板をよろしくお願いします。




風防用ガラスを作る

2001.05.14 

 戦時中、外地で飛行機の風防の破片を手にした兵士は、これを火にかざし、その匂いを嗅ぎ、祖国への想いをあらたにしたそうです。その匂いは「りんご」の物でした。一部の海軍将兵を除き、戦地でりんごを見ることなど不可能なことでしたから、兵士にとってりんごは日本そのものでした。

 風防用ガラスとは匂いでも解る通り、合成樹脂(プラスチック)であり、珪素を主体とするガラス(無機工業化学の世界)とは全く違うものでした。(ただし防弾用ガラスは通常のガラスを強化した物です。)今回は、私が風防用ガラスについて唯一書かれたのを見た「旭硝子株式会社」の社史から風防用ガラスの作り方を紹介します。

 昭和10年、ドイツを訪問した当社役員は、そのころ「プレシキガラス」の名称で、盛んに製造されていた同国の有機ガラスを知り、製造技術の導入を試みたが、巨額のライセンス料を要求されたのでこれを断念し、帰国後当社研究所にこの研究を命じた。

 昭和12年前半における研究経過は、この樹脂の重合物を容易に得られるまでに達していた。たまたま同年7月、三菱合資会社社長岩崎小弥太が三菱重工業株式会社の名古屋航空機製作所を視察したとき、有機ガラスの輸入が困難となってきたとの報告を受けた。そこで岩崎小弥太は、当社会長山田三次郎に対し、航空機用有機ガラスの国産化を早期に実現するように要望した。航空機の風防用としての有機ガラスは高度な技術を必要とし、平滑透明品を得るための研究所の苦心は尋常のものではなかった。12年後半には強化した磨板ガラスを成形枠に使用することにより、軍の要求する900ミリ×700ミリの大型板の製造に成功し、同年11月にはその製造特許を出願した。

 有機ガラスの開発とその製法

  1. 研究経過の概要 新技術の開発は容易なことではなかった。当時数少ない文献を参考に緻密な研究が重ねられ、工業化の実現まで苦難の連続であった。

     まず、メタクリル酸メチルエステルの製造にあたっては、実験室のデータを基礎として5kg容量の鉛張り鉄製反応器を使って反応条件の検討が綿密に行われた。その実験で確信が得られると、さらに20kg容量の反応器で検討が続けられ、次にその容量を50、75kgと段階的に大きくして、慎重に研究が進められ、ついに工業化の技術が確立した。

     他方ポリマーの成形については、独自のアイデアによって開発された。試験管の中に透明な輝くポリマーを発見した感激の瞬間から、有機ガラス成形の苦心が始まった。板ガラスの面をポリマーの表面に写すことによって、美しい有機ガラスを作り得ることと、板ガラス自体が重合に必要な熱と光を透過できることに着目し、2枚の板ガラスで流し込枠を作った。この枠の中でいかに重合を行なうか、重合の後、枠からいかに有機ガラスを取り出すかにつき、数多くの実験が重ねられた。

     その結果、モノマーの重合をシロップ状まで進めた後、板ガラスの枠の中に注入し、恒温槽の中でさらに熱と光を与えることによって完全に重合を終結することができた。成形法として、次に板ガラスの枠から有機ガラスを取り出す方法が最も苦心したところであって、初めは加熱された板ガラスの枠を水槽に入れて枠と水槽の温度差により取り外す方法を採ったのであるが、しかしその温度差と、温度差によるポリマーの収縮に基づく引っ張りにより、板ガラス枠は破壊し、同時に中の有機ガラスも傷つき、製品にならなかった。たまたまこのころ当研究所では、この研究とは別に板ガラスの強化方法が研究されていたので、その強化板ガラスを枠に使用することにより、ついに有機ガラスの製造に成功するに至った。

  2. 製造方法の概要
    (1)メタクリル酸メチルエステルの製造

    (イ)アセトンシアンヒドリンの合成

     シアン化ナトリウム溶液に硫酸を添加し、発生したシアン化水素ガスを塩化カルシウムで脱水し、さらに、液化してアセトンに加え、アセトンシアンヒドリンとした。

    (ロ)メタクリル酸メチルエステルの合成
     中間体を濃硫酸で脱水してメタクリル酸アミドとし、これを加水分解し、さらにメタノールを加えてメタクリル酸とすると共にエステル化反応を行ない、メタクリル酸メチルエステルの粗製モノマーとした。
     粗製モノマーは水洗し、さらに塩化カルシウムで脱水を行ない減圧蒸留により精製モノマーとした。

    (2)有機ガラスの板の製造

    (イ)流込枠の製作
     2枚の強化した10ミリ厚の磨板ガラスの間の周辺部に所要のスペーサーを入れ、クランフで締めて流込枠とした。製品の厚さはスペーサーの厚さにより調整した。

    (ロ)有機ガラスの重合
     精製したモノマーに重合促進剤として過酸化ベンゾイルを加え、かきまぜながら加熱冷却を繰り返し、シロップ状まで重合して、流込枠に注入した。注入した枠は恒温槽に入れ、光と熱を加え重合を完結した。重合の終わった枠はクランプをはずし、水槽に入れ、枠から板状重合体を取り外し、製品の素板とした。

    (ハ)有機ガラスの製品化
     素板は所定寸法に切裁し、面取加工のうえ、製品とした。曲面を要求されるものは、電気炉で軟化温度近くまで加熱して木型で押し、所定の曲面として製品とした。
 生産

 当社鶴見工場では、ただちにパイロット・プラントを設け、相次ぐ研究と改良を加えながら小規模な試験的生産を行ない、13年6月には月産25トンの工場新設に着手し、翌14年3月竣工と共に本格的作業に移り、これを「ヒシライト」と名づけて、航空機用として供給を始めた。
 また、日本化成工業にもその製法を伝えたが、同社は黒崎工場(福岡県八幡市)内に月産50トン目標の工場を新設し、14年10月より作業を開始した。

 その後戦局が拡大し、航空機の増産が要請されるに及び、当社は17年に設備を月産45トンに拡充すると共に、工場分散の意味も加えて、尼崎工場内に加工工場を新設し、また牧山および伊保(兵庫県高砂市)両工場にもおのおの月産20トンの工場新設に着手し、18年末作業を開始した。

 また日本化成工業でも、18年に、さらにその大竹工場(広島県大竹市)に設備能力月産50トンの工場の建設を開始した。この工場は翌年7月から本格的な運転に入った。

 なお、19年4月に当社と日本化成工業が合併して三菱化成工業株式会社が発足したから、同社の有機ガラスは、鶴見のほか黒崎、牧山、伊保、大竹の5工場となり、全国生産量の95%を占めることとなった。しかし、時局の逼迫につれて原料の入手がしだいに困難となったため、生産は設備能力の半ばにも達せず、19年前半期を最高(生産456トン)として、以後減退しながら終戦まで作業を継続した。


 引用文献

 社史 旭硝子株式会社 昭和42年4月1日発行


 東京赤阪の海事資料センターで放り出すように置かれていたガリ版刷りの
「戦時中諸統計 List of foreign vessele,charterd,caputured,and detained.by the Japanese Government.during the Pacific War.The Shippinng Control Association 」

 という私にはかなりおいしい物ががありました。戦後にまとめられた物のようでしたが、戦時中の捕獲、チャーターした外国船の年度別の日本名、旧名、トン数が書かれたリストがあり、調べる事が難しい中国船もかなりでていた為、非常に参考になりました。
 しかしかなり傷んでいた為、コピーは許されず、時間の制約が有り、全部書き写す事ができませんでした。ところでこの資料は何物なのでしょうか?一次資料なのか?さらに原本があるのか?どういう経緯で収蔵されたのか?もしご存知の方がいらっしゃったらお知らせください。




筏を作る、南方編

2001.05.20 

 増殖を続ける本とコピーは、私に与えられたスペースを席巻し、もはやどうする事も、出来なくなり、とりあえず必要度の低い本は、レンタル倉庫で長い眠りに就いていただこうと、本の整理を始める事にしました。しかし、開始早々戦中の雑誌に引っかかりあえなく頓挫してしまいました。

 大東亜海をゆく日の丸海洋筏

 戦前には、独、佛、伊、英、米、オランダ、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン等諸国の船が、日の丸船とともに大東亜の物資輸送に従事していた。

 それを、こんどはわが国が一手に引き受けなければならない。即ち、大東亜諸地域の交易だけで、一千五百万トンの船が少なくとも必要といわれる。木船一隻でも、また船員一人でも多くということが今日は必要なのであって、実に輸送力こそ戦争遂行の、大東亜建設の、成否の鍵ともいえるのだ。

 この輸送力増強をめざして、いま内地近海では船のほかに盛んに海洋筏が用いられているが、南方でも最近その豊富な木材資源を利用して、海洋筏があちこちで造られだした。
 実際大きな筏になると、木材なら六千トンも積める事が最近では実証されている。敵潜水艦も手の出しようがないこの不沈輸送船が、大東亜海を埋めつくす日も近いことであろう。・・・比島○○港についた海洋筏

 写真  100トン程度の曳船とワイヤーで巻かれた筏

 「写真週報」 昭和18年6月9日発行 内閣印刷局 定価十銭より

 政府関係者もこの当時にはやっと物事を理解していたようです。しかしせめて昭和12年頃には船舶の不足を国民に知らせる事が出来ていたなら・・・




イソオクタンを作る、その2

2001.05.26 

 中途半端で終わっていた「イソオクタンを作る」を改良すべく、資料を漁って来ました所、チョットは資料が集まってきましたので、紹介していきたいと思います。

 日揮株式会社は前身は日本揮発油株式会社と言い、戦前は米国から取得した製油の特許実施権を製油会社に譲りプラントの設計をするエンジニアリング会社でした。イソオクタン製造に関する限り主要な位置を占めていると思われるので社史より紹介していきます。

 民需・軍需用の自動車ガソリンの需要増に加え、わが国でも昭和10年頃には航空揮発油の質が問題となってきた。1935年(昭和10)夏、UOP社(米国シカゴ市のユニバーサル オイル プロダクツ社)のイパチェフ(V.N.Iptieff)博士たちは、イソブテンの重合によるイソオクタンの工業的合成法を発表した。米国では、高オクタン価ガソリンの製造法は従来までの熱分解法から水素添加法や接触重合法へ転換しつつあった。

 当社は11年に横浜高工堀江研究室に委託して、京浜地区製油所の廃ガス(オフガス)についての分析試験を実施した。これは廃ガスをイソオクタン原料として評価したものであって、翌12年当社の「航空ガソリン製造会社」設立計画の基礎資料となった。

 これは京浜地区5製油所(日本石油鶴見、三菱石油川崎、小倉石油横浜、愛国石油、早山石油)からそれまで部分的に都市ガス用として横浜市瓦斯局へ売られていたクラッキング オフガスを1ヵ所に集中して、前記UOPイソオクタン製造法で、高オクタン価航空ガソリンを製造しようという計画であった。

 しかし実現に至らず、海軍の管理下で三菱石油100バーレル/日、日本石油50バーレル/日という具合に、各社それぞれの製油所内で同法により単独処理する事になった。

 この時期に至り、当社はついに自社によるガソリン製造という会社設立以来の念願を断ち、ダブス式クラッキング法と同様、イソオクタン製造法も単独企業化を進める各民間会社へ実施権を供与するという仕事に専心することになる。

 イソオクタン製造法の特許権取得のためUOP社と交渉するに際し、昭和3年に契約した条項をめぐって多少の行き違いがあった。結局、ガソリン製造に関するUOP社の将来の発明が一切譲渡されるというのは、クラッキング ガソリンに関してであって、重合・水素添加のような接触法は契約の範囲外であることを確認し合った。ここでUOP社が新たに提案してきたには、別に100万ドルを支払えばイソオクタン製造法をはじめUOP社の将来のプロセス上の発明はすべて譲渡するというものであった。その内容は、イソオクタン製造法は60万ドルで一切の権利を渡し、これにプラス10万ドルを将来の発明の譲渡に対する手付金とし、残りの30万ドルはイソオクタン以外の将来の発明プロセスを初めて渡すときに支払えばよいというものであった。

 時あたかも、わが国の陸海軍は軍用航空機に使用する高オクタンガソリンの供給を確保しようとしていた。そこで民間企業に加えて陸海軍から入る実施料をも予期して、13年8月、UOP社特許に関する上記の包括的な契約を締結したのである。
 この年のUOPイソオクタン製造法の実施権供与は前述の三菱石油、日本石油、海軍のほかに、翌14年には東洋商工石油(現興亜石油)、朝鮮石油を加えた。
 戦時体制の深刻化に伴い、とくに海軍は航空燃料時代となると「民間技術に依存することは不可能となり、海軍燃料廠が陣頭に立って、航空揮発油、航空潤滑油をはじめとする石油精製の新技術の開拓に当る必要にせまられた」との認識に立っていた。

 海軍は、イソオクタン合成法を95〜100オクタンという高オクタン価の航空揮発油の製造法として評価していた。しかし大規模の製油所からのオフガスが大量に使用できる米国とは異なりわが国の民間製油所の規模は小さく、オフガスを集積してもおのずからその限界があると見て、本方法は配合用高オクタンガソリンには用いえても、所詮主流とはなりえないと判断した。そこで航空揮発油の大量生産方式として分解揮発油の水添精製へと技術開発を進めた。

 太平洋戦争突入の前後から、わが国軍用航空機の性能は著しく向上し、使用される航空揮発油の品質に対する要求も高度化した。すなわち、海軍がそれまでに制定していた航空揮発油規格の87オクタンの水準を上回る92オクタンという性能が要求される時代となった。日本軍占領下の南方油田から含蝋原油が送られてくるようになると、ダブス式クラッキング法と九六式水添法との組合せで処理を行い、87オクタンまでの航空揮発油を量産できるようになっていた。

 しかし、92オクタンという品位に対処するには、どうしても配合燃料としての工業イソオクタン(95〜100オクタン)を大量に混入せざるをえないと考えた海軍では、その原料を製油所廃ガス中のB−B(ブタン・ブチレン)留分以外に求めていた。たとえば発酵法(台湾第六海軍燃料廠)や、アセチレン法(日本窒素興南工場、第二海軍燃料廠、陸軍燃料廠)などによりブタノールを大量生産し、これを脱水・異性化してイソブテンとし、さらに重合してイソオクテンまでもってゆく技術の基礎は、太平洋戦争突入以前に着手完成されていた。このようにイソブテンを原料とすれば、UOPイソオクタン法との結合が可能となることから、日本揮発油は挙げて海軍・陸軍に協力した。すなわち、戦前から導入した一部技術資料の追試と補完実験研究で確立したノウハウを活用しつつ、新プロセスとの組合せに適合するよう、モディフィケーション エンジニアリングを実施した。

 これは、日本におけるいわゆるエンジニアリング会社の草分けといえる仕事であった。これらのプラントは、当社の手によって、陸・海軍燃料廠およびその関係企業である合同酒精(旭川)、大日本紡績(赤穂)などに建設された。太平洋戦争の緒戦において南方諸島の油田、製油所は日本軍の手中に落ちたが、ほとんどの施設は破壊されており、その大部分がオランダ石油(BPM)の独占的経営の下にあり、採油、精製、運搬、販売まで一切の資料が公表されていなかった。したがって、わが陸海軍にはこれを占領するまで、これらの施設でいかなる原油が、いかなる方法で処理されていたかは全く不明であった。

 陸軍は太平洋戦争突入以前から、南方油田から採油→内地輸送→内地精製という戦略を決定していた。
 パレンバン製油所には近代的石油精製装置が各種設置されていたので、陸軍燃料廠は、17年10月明石陸軍中佐を団長とする技術調査団(明石調査団)をパレンバン製油所へ派遣した。この調査団はBPM所有に係る大型トッピングをはじめ熱分解、熱改質の各装置のほか、日本にとっては未知の技術であったアルキレーション装置などに関し、貴重なデータを収集し調査の目的を達して帰国した。

 上記アルキレーション装置に関する情報、資料の活用にあたり、陸軍と海軍は以後全く別の行動をとった。すなわち、海軍は以前から四日市の第二海軍燃料廠で独自の開発によるアルキレーション法の半工業装置(10トン/日)を運転していたが、製品アルキレートは85〜87オクタンという品位であり、収量も必ずしも良好とはいえなかった。海軍独自の調査で、パレンバンにあるアルキレーション法実装置(60kl/日)は、92〜95オクタンの製品を得ていたことを知り、この装置の解析の結果、海軍方式によるアルキレーション装置計画は手直しする必要があることを痛感していた。しかし海軍が入手し得る原料(クラッキング オフガス)としてのB−B留分の絶対量は少なく、工業化のメリットは小さいと判断して、ついにその本格的工業化には踏み切らなかった。

 陸軍は接収したBPMのアルキレーション装置の設計図および運転データから、直ちに陸軍岩国燃料廠に同装置の完全コピーを実現することを決定した。陸軍では同装置を甲38号(硫酸アルキル化)、甲39号(ノルマル パラフィンの異性化)と命名し、18年末にはその設計、建設業務を当社に命じたが、甲38号は設計を完了して基礎工事段階で、甲39号は設計半ばで終戦を迎えた。

 横浜市最戸町(現別所町)の触媒製造工場は、16年8月頃には製造設備が整い、同9月から触媒の製造が開始された。ここでの主製品はUOP社からの一部技術開示を受け、また子安工業試験所時代の補足研究成果を取り入れたノウハウによるイソオクタン製造触媒であった。しかし試験室での成果のみではUOP社並の高性能触媒を工業的生産に移すことは難しく、なかなか合格品が得られなかった。各種対策の結果16年末頃にはイソオクテンの水添用ニッケル触媒、次いでブチレン重合用固形燐酸触媒を安定的に製造することに成功し、それぞれ海軍燃料廠への納入を認められた。

 他方、日本軍の戦線は拡大の一途をたどり、航空燃料の増産は急務となっていたので横浜工場だけでの触媒製造能力では足らず、工場増設の必要に迫られてきた。
 かくして、新潟県の新津に新たに触媒工場を建設することになった。新津が選ばれた最大の理由は、同地に天然ガスが産出し、さらに背後に、日本石油の製油所があり、軍需工場としての燃料調達に懸念がなかったためである。

 ニッケル触媒製造の最終工程設備が完成したのは18年の暮れとなったが、初の完成品を出荷したのは年の瀬も押し迫った12月29日と記録されている。
 また重合用固形燐酸触媒は、19年2月から製造が開始され、これらの生産活動に必要とする原料の割当は比較的潤沢で、終戦まで製造が続いた。


 引用文献
 「日揮50年史」 日揮株式会社 昭和54年3月31日発行


 今回、日揮50年史を読んでいて、自分の間違いに気がつきました。前に書いた「イソオクタンを作る」で、アルキレーション法によりイソブテンにイソブタンを附加して直接イソオクタンを作るといいましたが、工業的にはイソブテンとイソブタンだけを選択してイソオクタンを作るのではなく、イソブタン、ブタン、ブチレン、プロピレン等で高オクタン価のイソパラフィンを主体とする炭化水素(アルキレート)を製造する事をアルキレーション法と呼ぶようです。アルキレートは航空ガソリンの基材で、この方法は第二次世界大戦中に急速普及しました。

 また、この社史を読んで一段と興味を引かれたのは、パレンバンの製油所の存在です。上記文中でチョットだけ取り上げられている明石報告をくわしく読んでみると、戦前、BPM社のパレンバン製油所ではアルキル化装置やイソオクタン装置などを使用し90オクタンと100オクタンの航空揮発油を大量に製造して、87オクタンなどは製造していなかったようです。また、皆様ご存知なようにこの製油所は、陸軍落下傘部隊によりほぼ無傷で占領されていますので、日本人技術者が製造工程を理解し、正確に製造を再現すれば、日本では製造がかなり難しい高オクタンの航空揮発油が量産可能だったはずです。しかし、私はどのレベルでどれだけの量が作られたのか日本側の記述を見たことがありません。このへんのことが分かると、戦中、日本軍の航空機がオクタン価の低い燃料で飛んでいたとは言えなくなるかもしれません。

 ちなみに昭和18年の南方地域(ほとんどパレンバンの2大製油所)での航空揮発油生産量は540万バーレル、日本でもっとも設備の充実していた海軍燃料廠全体の昭和18年の航空揮発油の生産量は130万バーレルです。
 それにしても陸軍落下傘部隊はえらい・・・




イソオクタンを作る、その3

2001.06.05 

 「イソオクタンを作る」も3回目となり、もはや、引くに引かれなくなりプリンスだけの掲示板となってしまったここに未来はあるのでしょうか?一日も早く寺西様からの「退場」の声を待ち望む今日この頃です。で・・・今回は三菱石油から紹介します。

 イソオクタン合成装置の建設(川崎製油所)

 航空ガソリン増産のため、第1クラッキング(軽質油分解蒸留装置、3,000バーレル/日、昭和6年12月竣工)、第2クラッキング(3,000バーレル/日、昭和14年12月竣工)から得られる脱プロパンLPGからブタン・ブチレン留分を分離し、これよりイソオクタンを製造する装置の建設を計画し、昭和13年12月上旬、UOP社に主装置(ポリメライゼーション装置、生産能力100バーレル/日)を発注し、残余の装置もアメリカから購入して昭和15年4月竣工した。

 この装置により生産された工業用イソオクタンはオクタン価90〜93であり、これを92航揮あるいは87航揮にそれぞれ50〜60%、70〜90%混合し、さらに0.1%TEL(四エチル鉛)を加えてオクタン価100の航揮を製造した。(92航揮とありますが、正確には92航空揮発油基油のことだと思います。)

 また、戦時中の、完成、計画設備として

  1. ブタン脱水素装置(280バーレル/日)
    従来、イソオクタン装置でブチレン重合の際、廃棄していた飽和炭化水素ブタンを脱水素して、イソオクタン合成原料となる不飽和炭化水素ブチレンを生産する。昭和19年4月竣工
  2. ブタノール脱水異性化装置
    南方の過剰資源である甘蔗等から製造されるブタノールを脱水してブチレンを得、これを異性化してイソオクタン原料のイソブチレンを生産する。

 引用文献

 「三菱石油五十年史」 三菱石油株式会社 昭和56年2月発行


 最近、石油精製会社社史の戦前、戦中の記述を熟読するようになってやっと戦中の航空揮発油製造の輪郭が見えてきたような気がします。
 多くの方が興味を持つ「誉」エンジンについて、性能低下の第一の要因は燃料だとの記述を、多くの著作物で見かけますが、その方々は少なくとも「日本海軍燃料史」や「陸軍燃料廠史」に目を通した事はあるのでしょうか?
 また、これらの不完全な記述を一部補完する民間会社社史を捜した事はあるのでしょうか?「誉」の性能低下に関する限り、声高に発言するエンジン設計者、製作者に比べ、燃料製造側の発言など、私の知る範囲内では一文も一冊も見たことがありません。確かに性能低下の要因の一つであることは認めますが、最大の原因とは思われません。言い過ぎかもしれませんが設計、製作側の責任転嫁に利用されているのではないでしょうか。

 ところで、素朴な疑問なんですが日本軍が実戦で多用していたと思われる、91、92オクタンの航空揮発油に対して低オクタンの燃料であると識者の方は述べられているようですが、91、92は低オクタンと言いきって良いのですか?




『誉』と『100オクタン航空揮発油』

2001.06.11 

 3週間ぶりに休みを取り、「会社依存症」になっている自分に気づき愕然としております。いずれ「狂気」の世界に身を落とすような気がするホリデーです。(まあ、この掲示板を見ている人はすでにお気づきだとは思いますが。)
 せっかくの休日なのですから、本棚から「中島飛行機エンジン史」など引っ張り出し『誉』と『100オクタン航空揮発油』について語って見たいと思います。

 「中島飛行機エンジン史」中の中川氏の記述によれば

  1. 昭和14年暮れ、栄20型の性能向上を考えて、燃料に100オクタンを使えれば、1シリンダー当り100hp以上はでる。18シリンダーにしたら最低1800hp、うまくゆけば2000hpなるのではないか、という構想が生まれる。

  2. 昭和15年はじめ概略の構想ができあがり、海軍に提出された。海軍部内では大きな反響があり、すばらしいという人と、できるとは思えぬという議論があり、結局は官民をあげ、社の内外を問わず協力態勢が出来て、その成果を設計にフィードバックしてもらうことになった。

  3. 昭和16年12月に突入するころから、しだいに様子が変わってきた。まず100オクタンが使えなくなりシリンダー温度の異常過昇がおこった。という100オクタン関連のものがあります。

 では、実際に日本で100オクタンを実用機に常用することが可能であったのでしょうか?少なくとも昭和16年開戦時、日本ではほとんど100オクタンを自製することは出来ませんでした。実のところ、日本で100オクタンを常用するためには、次の2点の条件のうち1点が満たせれば常用は可能でした。

  1. アメリカより100オクタン航空揮発油または航空揮発油製造に向いた性状のカリフォルニア原油が安定的かつ大量に輸入できる事。(南方の原油はカリフォルニア原油より航空揮発油製造には劣る)

  2. アメリカより高オクタン航空揮発油製造の特許とプラント設備が問題なく(外貨等)輸入できる事。(当時の状況からたとえうまくいっても昭和18年以降でなければ製造は不可能だったと思われます。)
     航空揮発油製造に無知なエンジン設計者が、計画を立て、昭和14年末アメリカの道義的禁輸(モラル エンバーゴ)により唯一の解決法であったフードリ固定床接触分解法の導入が不可能になり、100オクタン揮発油量産の道を絶たれたことを知り得る海軍関係者がゴーサインをだしたという所がそもそもの「誉問題」の原因なのです。

 話は変って、「プリンスの技術講座」はシャレがきつすぎるので勘弁してください。また、わたしは有機化学の専門家ではありません。田舎のいかがわしい(いやらしい)およそ人に愛される事のない趣味を持ったオッサンに過ぎません。




木製(合板)プロペラを作る

2001.06.18 

 「住友ベークライト社史」の題名を見たとき、月刊「Gun」誌上で連載されている「Smallarms of WWII」で見たドイツ軍のワルサーP-38のグリップにベークライト使用しているという話を思い出し、日本でも何か関係のある話がないかと開いたところ、木製(合板)プロペラの日本での製造の話が載っていました。ドイツではJu87スツーカのD型などは木製(合板)プロペラVS1、VS111を使用していました。日本でのキ-106のような木製(合板)の機体は知っていましたが、プロペラは知りませんでしたので紹介します。

 住友ベークライトは戦後、日本ベークライト、住友化工材工業等が合併して出来た会社です。今回は日本ベークライトでの木製プロペラ素材製造ついてだけ取り上げますが、住友化工材工業での生産の記述も社史中にはあります。また同様の材料で作った尾翼の桁材や航空機用治具板の製造や「秋水」の燃料に使用する過酸化水素製造に必要な白金電極の製造、甲標的の水雷キャップ等など、なかなかおもしろい話が載っています。

 軍、官、民の各方面において機体の構造材料としての強化木(飛行機用硬化積層材)に関心が高まったのは昭和14年頃であった。近い将来予想されるジュラルミン原料のボーキサイトの入手難や、エンジンのいっそうの高馬力化で低比重の材質が要求されたことから、この年、立川の陸軍航空技術研究所から日本ベークライトに対してジュラルミンに代わる合成樹脂材料の研究依頼がなされた。

 続いて15年前半には、逓信省航空局航空試験所、東京帝大航空研究所、陸軍航空技術研究所や航空機メーカーから、プロペラ素材、機体各部の構造材料などの研究依頼や試作依頼が相次いだ。この情勢に対し、14年10月よりプロペラ素材および構造材料としての強化木の製造方法と応用に関する研究に着手し、15年初頭にはベニヤ合板の生産研究を開始した。また接着剤に関しては、石炭酸レジンを応用したものは耐湿性に優れるものの、まだ接着力が不安定であったので、同年5月から尿素樹脂による強化木用接着剤の製造研究を開始した。

 ベニヤ合板は、用途別に白木合板、樹脂半浸填合板、樹脂全浸填合板の3種が考えられたが、まずプロペラ素材を開発目標として石炭酸樹脂全浸填の強化木に焦点を絞った。この材料は、カバまたはブナ材の1mm前後のベニヤ単板に樹脂を含浸したのち、熱乾燥して樹脂の反応を促進させると同時に溶剤を除き、これを数葉積層して水圧プレスに仕込み、加熱・加圧して得る一種の積層品であった。比重は1.3程度で、強度、弾性係数とも普通木材に比べてはるかに大きい。予備試験の結果、抗張力以外は外国文献にみる性能をほぼ満たしたが、木材の選択や樹脂の製法、その含浸処理法等につきさらに研究の必要ありと認めた。

 強化木についての問い合わせが殺到するに及び、日本ベークライトは関係方面への全面的協力を決定した。当面引き受けるのはレジボンド紙、常温硬化性接着剤、プロペラ素材であり、胴体や翼材のような大型品は、実物の試作となると設計・工作上初めて直面する大きな問題があった。そこで会社としては何をいかなる形で製品化すべきかを決定するため、もろもろの問題に関する調査研究から始めることとした。一連の活動の中で、16年3月下旬には住友金属プロペラ製造所と提携して石炭酸樹脂浸填硬化積層材製プロペラの製造試験にとりかかり、同年11月中旬より素材の製作方式を3種に定めて順次試作に入った 。

 時局の逼迫に伴ない強化木は製品の完成が急がれ、各方面の研究は真剣味を帯びてきた。会社への依頼も、試作品から実地試験用のものに変わった。
 18年に入ると、ジュラルミンなど軽金属の不足が顕著となった。これまでの膨大な研究・試作・試験作業に基づいて、ついに軍部は強化木の実用化に踏み切り、プロペラ素材と尾翼の桁(けた)その他の機体構造材料に充てる計画を立てた。強化木製プロペラの製法は2様の方式が正式に決定し、陸軍は半硬化積層材方式(シュワルツ式)を、海軍は全硬化積層材方式(モールド式または型押式)を採用した。なお強化木とは当時、陸軍において採用されていたもので、海軍では独自に硬化薄層材と呼びならわしていた。

 シュワルツ式は、大きな応力のかかるプロペラ根部に10〜20mm厚の強化木を、そこから先は軽いエゾ松の柾目板(まさめいた)を用いる方式で、2つを尿素樹脂接着剤でスカーフジョイント(傾斜継ぎ)した単位板をつくる。そしてその両面に尿素樹脂接着剤を塗布して所要枚数積層し、ターンバックルで締め付け単一のブロックとする。これからプロペラの形を削り出し、金網で包んだ上から酢酸繊維素系塗料で被覆して完成品とする。

 モールド式は、プロペラ根部から先端部に至る厚みの変化と複雑な曲面を考慮して、あらかじめベニヤ単板をおびただしい形状に打抜裁断しておき、石炭酸樹脂を含浸する。1枚の長さは1.5m、所要枚数は約150枚である。これらをプロペラそのものの形態のキャビティーをもつ金型に慎重に組み合わせて仕込み、水圧プレスで8時間余り加熱圧縮して一挙にプロペラを作りだすもので、あとはシュワルツ式と同様に金網と塗料の被包を施して完成する。全体の強度の変化を考えずに一体成形するこの方式は、材料の節約を図る目的でハイネ式の変形として考案されたものであるが、成形操作に高度の技術を要求される ことになった。

 両方式の決定とともに軍から生産要望数量が提示され、関係会社はただちに製造装置の整備にかかり、軍、官、民の合同会議も頻繁に催されていった。
 プロペラ素材は両方式とも主として住友金属へ移送され、最終製品に仕上げられることになった。日本ベークライトでは、とりあえず向島(東京)工場の既存の大型プレスのうち1800t1台を半硬化用に、改造型1400t1台を全硬化用に充てて試作を開始した。
 昭和18年度における陸軍からの半硬化積層材プロペラ素材の生産示達数は、4月時点の月当たり400片に発し、しだいにキ51、キ67、L2D3(零式輸送機)キ105等の各機種用に拡大して、9月頃には2500片に増加した。

 1800tプレスの予定生産能力は月当たり2800片であったから、さらに増加傾向の生産割当に対処するため、総圧力3600tの大型水圧プレスの新設を計画した。これは全硬化積層材の場合で4個の金型を仕込める1×2mの熱盤をもつもので、1800tプレス2台を連結する構造であった。これが軍需省で標準プレスとして認められ、他社の所要分もすべてこの仕様で発注されることになるが、日本ベークライトでは19年1月、海軍用3台、陸軍用2台を名古屋市の名機製作所に発注し、5月にはさらに3台を追加発注した。しかし戦時下の資材入手難、人手不足、輸送難等が重なって入荷は著しく遅れ、海軍用の1号機のみが19年9月末に向島工場に据付けられたが、所要の金型が間に合わなかった。陸軍用の2号機は同年11月初め、海軍用3号機は20年3月初めに到着したものの、設置にいたらぬうちに終戦を迎えるというように、結局1台も稼動に至らなかった。

 当時、日本ベークライトにかぎらず、全般的に強化木生産用の大型水圧プレスの整備は著しく遅れ、憂慮すべき状況であった。半硬化の生産はある程度進捗していたが、全硬化のほうは一向に捗らず、海軍航空技術廠や軍需省の主催で技術的検討や製作促進会議が続いた。
 生産を開始した18年12月から20年2月まで、日本ベークライトに対するプロペラ素材の生産割当総数は、シュワルツ式7360片、モールド式100片であり、これに対して生産実績は前者が1672片、後者が52片であった。
 懸命の努力にもかかわらず、各社とも割当に遠く及ばない実績にとどまったが、シュワルツ式は一部実用に供され、戦力にも寄与した。モールド式は続出する技術上の諸問題を解決しえずに試作程度にとどまり、日本ベークライトと住友化工材工業がわずかの合格品を出したにすぎない。それらの一部は地上運転で実用上十分な強度を確認できたにもかかわらず、正式採用の決定が出ぬままに空襲による混乱が始まり、ついに実用品は皆無であった。

 技術上の最大の難関は、直径30cmにも及ぶ根部から先端部に至る各部の機械的強度の均一化にあった。このような複雑な形態の製品を一挙に成形すること自体に無理があったのである。
 根部の加熱促進のため、その部分の金型を電熱線で余分に熱する方法と高周波による加熱方法を実験したところ、いずれも加熱の均一化と成形時間の短縮に効果をみた。また、各部の密度を均一化するには成形方法の変更しかないと確信して、根部から先端部までの厚みを段階的に減じる方法を試案として海軍に具申し、試作品をも示して説得を続けた。その結果、19年末には平押捻型として同時生産の指示を受けたが、時すでに遅かった。
 昭和20年3月9日夜、向島工場は焼夷弾攻撃により成形部門は大打撃をこうむり、罹災率は建坪で62%に及んだ。


 引用文献、参考文献

 「住友ベークライト社史」 昭和61年12月発行
 世界の傑作機 デ・ハビランド モスキート
 世界の傑作機 ユンカース Ju87 スツーカ
 「木製戦闘機キ106」叢書江別に生きる4、田中 和夫
 最後の特攻機「剣」 山田 誠 大陸書房


 合板製のプロペラについて初めて知り、木製化の進んだキ-106や究極の特攻機キ-115のプロペラを調べて見ると、私にとっては意外な事にアルミ製であることが分かりました。また、本来であればキ-106で機体の合板接着に尿素系、又は石炭酸系の接着剤を使う所、牛乳から取ったカゼインを使い強度的にいま一歩の所である事が分かりました。この点イギリスのモスキートやソ連の戦闘機達は十分以上の活躍を示していますので、やはり「木の国」でありながら日本はかなり遅れていると再認識させられました。ところで、練習機などに使われている木製プロペラについては何も知らない事に気づきました。この点についてご存知の方がいらっしゃいましたら、無知な私めにご教示ください。




合板用接着剤を作る

2001.06.24 

 「アイカ工業」は昭和11年愛知時計電機の化学製品部門が分離、独立してできた愛知化学工業株式会社の後身です。前回チョット取り上げた木製飛行機の合板用接着剤の話が記載されていましたので紹介します。

 大正9年以来、木製飛行機の機体およびプロペラの製作に着手していた愛知時計電機では、従来の膠やカゼインに勝る強力な木材用の接着剤が必要となり、大正13年より各種接着剤の研究に着手した。
 この研究のなかから昭和3年5月、機体のゴムと金属類の接着に適した「バルカメン」を開発した。続いて翌4年3月、常温で接着できる液状膠「アイチニカワ」を、翌5年4月には耐水性を強化したカゼイン接着剤「アイチカゼイン」開発した。この3種類の接着剤はいずれも特許として登録された。

 昭和6年、ドイツ、イーゲー染料製造会社(IG社)の粘着状合成樹脂接着剤「カウリットライム」に着目サンプルを入手し分析研究した結果、尿素やホルマリンが使用されていることをつきとめた。昭和7年から製品化を目指して研究を積み重ねた。昭和11年7月、同社の研究報告会において「特殊接着剤の研究」として発表し、「接合剤」で特許出願したユリア樹脂接着剤が、その成果であった。


「接合剤」 特許内容抜粋

発明ノ性質及目的ノ要領

 本発明ハ尿素「フォルマリン」或ハ尿素「フォルマリン」、膠ノ縮合階梯ニオイテ一価「アルコール」、「グリコール」「グリセリン」ノ如キ「アルコール」類ヲ加圧或ハ常圧ノ下ニオイテ反応緩和剤トシテ加ヘ粘調液トセル
 第一液ト「アンモニウム」塩類ノ水溶液ヲ主要成分トセル第二液トヨリ成レル耐水性接合剤ニ係リ其ノ目的トスル所ハ被接合物ノ表面ニ先ヅ第二液ヲ塗抹シ次ニ第一液ヲ塗抹シテ加圧接合スル時ハ第二液ノ塩類ハ第一液ノ縮合ヲ促進シ全ク水ニ不溶性ナル接合面ヲ生セシムリニアリ

 愛知時計電機時代の昭和11年7月に研究の成果が発表されたユリア樹脂接着剤は、企業化を目的として当社に引き継がれることになった。昭和12年10月当社が操業開始すると同時に現場試作に入り、この試作は繰り返し行なわれた。昭和13年7月、この特殊接着剤は特許を得て「愛知無敵糊」の製品名で一般市場に紹介したが、トラブルが続き、その後改良を重ねて昭和14年2月から本格的な生産と販売を開始した。

 「愛知無敵糊」はユリア樹脂接着剤の特徴である強力な接着力と耐水性が次第に認められ、木材用接着剤として注目されるようになった。まず海軍関係の木造船、九八式水上偵察機フロート、発動機テスト用木製プロペラ、木製飛行機の桁、小骨組付け製作等に使用され、また陸軍でも銃床部分でも用いられた。

 愛知時計電機の接着剤研究の時期と同じころ、海軍航空技術廠材料部でもドイツの「カウリットライム」について研究を進めており、昭和12年末その製品化に成功した。「ユリ接着剤」と命名されたこのユリア樹脂接着剤は、「愛知無敵糊」が膠を使用した代わりに石炭酸を使用したもので、尿素と石炭酸のホルマリンによる共縮合型である。

 昭和13年、海軍航空機の木製構造関係、木製舟艇などの仕事をしていた茅ヶ崎製作所は、木製燃料タンクの試作に際して海軍のユリ接着剤や当社の愛知無敵糊を使用し、実用化試験を行った。この結果が良好だったため、海軍では航空機、船舶、舟艇などの接着には耐水性・接着力の優れたユリア樹脂接着剤を積極的に使用する意向を固め、民間会社にその生産を委託することにした。生産会社には、すでに愛知無敵糊というユリア樹脂接着剤の生産・販売を行っていた当社が指定された。

 こうして昭和15年秋、当社は海軍航空技術廠材料部に担当技師を派遣して生産技術の指導を受けさせたのち同年11月、海軍方式による「ユリ接着剤」の製造許可を受け、海軍の第1号指定生産工場として全面的に生産を開始した。海軍当局は当社製のユリ接着剤の使用を、関係各方面に指示し、以来ユリ接着剤は、海軍関係の木材接着剤として各種の用途に使用されることになり、当社担当技師は海軍関係各ユーザーの技術指導に東奔西走した。なかでも最も需要の多かったのは航空機の落下増槽(木製補助燃料タンク)である。これは合板製の燃料タンクの消耗品であるが、戦時中全国のほとんどの木工業者がこの生産に従事した。そのほか航空機用としては木製飛行機小骨組付材、木製プロペラなど、舟艇では上陸用木製艇などの用途があった。

 木材用接着剤のユリア樹脂接着剤は、「ユリ接着剤」「愛知無敵糊」として発売していたが、硬化剤を使用するため使用時の粘度調整が難しいという欠点があった。そこで当社は海軍ほか一般木工業者などの需要先からの要請に応えて、昭和14年7月からカゼイン接着剤と同様に水で溶解して適度の粘度調整をして使用できるよう、接着剤を粉末状にするための研究を開始した。昭和16年8月にユリア樹脂粉末接着剤の開発に成功し、終戦までの出荷総量は約10tであり、当社だけが生産した。

 ユリ接着剤は、海軍側の国防上当社1社の単独生産では、危険であるという判断により、昭和18年4月以後、数社が海軍の指定工場になり次々と生産を始めた。昭和18年11月、軍需省が設置され、それまでの軍の資材計画は海軍、陸軍が別々に立てていたのを軍需省により統括することになり、四半期ごとの計画をたてることになった。昭和19年4月同省木材課鋼材割当会議による計画は次のようであった。

接着剤の計画 ユリア樹脂接着剤320t/日
ユリア樹脂粉末接着剤80t/日

 16年から20年までの当社のユリ接着剤生産量推移

16年
60t
17年
110t
18年
480t
19年
800t
20年
147t

 当社で実用化したフェノール樹脂接着剤は海軍によって「常温硬化石炭酸樹脂接着剤」と命名され、昭和18年10月から生産開始した。生産量は月3〜5t。用途はユリア樹脂接着剤よりもさらに高い性能を要求する航空機用積層合板、舟艇、木製飛行機等があり、特に特攻機「桜花」にも使用された。需要先は茅ヶ崎製作所、富士飛行機、日本飛行機等海軍関係の諸工場であった。


 引用・参考文献

 「アイカ工業五十年史」 アイカ工業株式会社 昭和62年11月30日発行
 「三井東圧化学社史」 三井東圧化学株式会社 平成6年3月29日発行


 合板用接着剤に関して他に何か記述がないか、捜した所、東洋高圧(現在の三井化学)に数行の記載がありました。
 横浜大船工場は昭和18年5月に反応釜2基の設置を終わって接着剤の生産体制が整った。昭和18年6月25日、待望の尿素樹脂接着剤2品種が初出荷された。

 昭和18年から昭和20年までの接着剤(#2、#103)の生産推移

#2 #103
昭和18年上期 24t 2t
下期 39t 170t
昭和19年上期 5t 324t
下期 13t 272t
昭和20年上期 192t

 #2、#103の接着剤の詳細が一切書かれていません。何に使われたのか分かると面白いのですが。(航空機に使われたのは間違いありません。)
 海軍の合成接着剤の道程は上記で分かってきたのですが、陸軍の合成接着剤の使用の様子がまったくわかりません。キ-107では尿素樹脂接着剤が使用されているのに、キ-106ではカゼインを使用しています。キ-106では合成接着剤の入手難のためカゼインを使用したようですが、なんとなく割り切れない物を感じます。




まさとし様、いらっしゃいませ。

2001.07.02 

 あれから、合板接着剤が気になり、あれこれと拾い読みをしております。あまり詳しくはわかりませんでしたが、2種類ほど合板の天然素材の接着剤についての記述を見出しましたので紹介します。

  1. 血液アルブミン接着剤(血粉)

     可溶性の乾燥獣血を主剤とし、これに石灰、アンモニア水またはソーダ塩などを加えて作られる接着剤で血液中のタンパク質アルブミンが主体である。
     常温で液状に製糊し、塗布後約100℃で加熱硬化させる。耐水性がある。
     なお、血粉はユリア樹脂接着剤などの増強、増量剤としてもちいることがある。
     現在は「雪印乳業」に含まれていますが、戦時中に「北海道化学工業有限会社」として設立された会社の事業内容につぎのような記述があります。
     「血粉の製造」

     化製事業の一つとして屠畜の血液を活用するため、昭和18年秋ころから血粉の製造を開始した。血粉は耐水性の膠着剤に使われ、飛行機のプロペラ製作、木製送油タンクの塗装や乾燥肉の包装塗料などに軍からの製造を求められていたものである。札幌肉加工場乾燥肉施設の一部に装置を設け、終戦直前まで夜を日についで血液の乾燥作業を続けた。(終戦時資料焼却により実績不明)

  2. 大豆カゼイン、グルー

     大豆タンパクの粉が初めて接着剤として用いられたのは1920年代のことで、タンパク質の溶解性を変えずに大豆タンパクの粉から油脂分を抽出する方法を開発したときである。第二次世界大戦まで、大豆粉は接着剤として木工用に広く使用されていた。
     「日本油脂株式会社」の社史「日本油脂三十年史」につぎの記述があります。(戦前の日産化学)

     大豆は農産物中最も多くタンパク質を含み、38%前後もあるので、川崎の研究課では研究を重ね、大豆粕から苛性ソーダおよび稀硫酸によって純度90%、ほとんどミルクカゼインと変らない大豆カゼインの製造に成功した。そして昭和14年下期から本格的な生産を始めた。

     カゼインの用途は、膠着剤、展着剤、繊維等といろいろあるが、開発された当時は、主として合板事業の膠着剤、および人造繊維の原料として考えられていた。強度の膠着力をもつ大豆カゼインは、合板の膠着剤すなわちグルー製造用としては無くてはならないものであり、また飛行機のプロペラおよび機体の接着剤、塗料等に不可欠であるため、軍の保護と奨励によってこの事業は躍進した。

     昭和16年におけるカゼインの生産は月6〜7トンで、後に18年下期の多い月でも19トンでしかなかったが、グルーの方は16年前期の11トンが18年前期には8〜9倍の量に達した。両方とも需要が供給を上回っていた。17年10月、海軍航空本部などから大量の注文を受けたが、絶えず原料の不足に悩まされ、18年冬期には、また、電力不足のためタンパクの乾燥に支障を来たし、生産は思うにまかせなかった。
    (当時の大豆グルーは牛乳カゼインより接着力が劣るようです。)

 引用文献

 「雪印乳業史 第一巻」
 「日本油脂三十年史」 日本油脂株式会社 昭和42年6月1日発行




パレンバン第二製油所

2001.07.09 

 パレンバンの謎の製油所、BPN社のプラヂュー製油所並びにNKPM社のスンゲイゲロン製油所は、太平洋戦争中、石油生産において最も日本に貢献しました。当然、量的だけではなく質的にも日本のレベルを超えたものでした。しかし、これらの生産状況の様子はほとんどわかりません。

 終戦時、生産記録はすべて焼かれ、一部連合国からの日本人関係者聞き取り調査が残るだけです。この2大製油所は陸軍の管理下にありましたが、「陸軍燃料廠史」の記述はいたって簡単ですし、実際に運営した三菱石油と日本石油の社史を見ても、ほとんどなにも書いてはありません。実態をもう少し知ろうと思うなら「パレンバンの石油部隊」という本と、前に取り上げた「明石報告」を精読するしかないようです。今回は「明石報告」中のスンゲイゲロン製油所での戦前の航空揮発油生産の様子を紹介します。原文は「燃料協会誌二五〇号」に載せられ、著者は陸軍燃料廠、陸軍中佐、明石正水氏です。

 戦前のスンゲイゲロン製油所における航空揮発油製造装置は

  1. 原油蒸留装置
  2. エデレアヌ装置
  3. アルキル化装置
  4. 異性化装置 

 を主体としていました。

 これらの運転により次の中間製品を生産していました。精留P・C・ナフサ、航空用アルキレート、航空用抽出油、第一中間ナフサ、廃ブタンです。これらを適宜調合し100オクタン用基揮発油、74オクタン用基揮発油、90オクタン用基揮発油、91.5オクタン用基揮発油、87.5オクタン用基揮発油、87オクタン用基揮発油を製造販売していました。

 これらの製品のうち、1941年度において最も多量に製造されたのは100オクタン用基揮発油であって、74オクタン用基揮発油並びに90オクタン用基揮発油がこれに次ぎ、その他は少量であった様です。

  1. 原油蒸留装置概要

     当製油所で処理した原油は揮発分の含有量が少量なるのみならず、その揮発油分のオクタン価もあまり高くない。
    (ここの傘下の油田の原油は重質油が多いようで 、カリフォルニア原油との差が歴然としています。なお話は変りますがアメリカは戦前、軽揮発油分を蒸留し除いた抜頭原油という原油を日本に輸出し意図的に日本側の航空揮発油のオクタン価を下げることができました。)

  2. エデレアヌ装置概要

     オクタン価低き重質揮発油分より、エデレアヌ装置により、芳香族炭化水素を主成分とする航空用抽出油を採取する。その単味オクタン価は83〜84である。
    (エデレアヌ装置は日本では潤滑油の抽出に使われており、航空揮発油の製造には使用されていませんでした。)

  3. 4. アルキル化装置、異性化装置概要

     本製油所は分解蒸留の能力は十分であって、アルキル化装置の原料であるブチレンは多量に生産せられるがイソブタンは不十分である。
     よって原油、天然揮発油分解ガス及び分解揮発油の全イソブタンを採取するように設備したのみならず、異性化装置によりノルマルブタンを異性化してイソブタンを製造していた。アルキル化装置は1940年、異性化装置は1941年建設された。
    (アルキル化装置は日本では事実上、物になりませんでした。)

 日本占領下でのスンゲイゲロン製油所の状況なんですが「パレンバンの石油部隊」を読むとつぎのように書かれています。
 第二製油所は徹底的な破壊を受け、特にタンクや構内配管は全壊していた。その後修理を行い、昭和17年11月蒸留装置復旧火入れとあります。
また、別の記述では「アルキル化装置は計器の一部不足と原料の充分な供給体制の不備から最後まで稼動するには到らなかった。従って、その時代内地送付の航空ガソリンも直留から得たせいぜいオクタン価87程度のものであったと記憶する」とあります。しかし、エデレアヌ装置は稼動していますので、91、92オクタンの量産は充分可能です。ただし、アルキル化装置は稼動しませんでしたし、イソオクタン装置も元々ありませんで
したので100オクタンの製造は出来ません。


 引用・参考文献

 「パレンバンの石油部隊」 昭和48年2月16日発行
 「油断の幻影」 高橋 建夫著 時事通信社 昭和60年


 上記2冊の本に書かれているのですが、「油断の幻影」の著者、高橋建夫氏は昭和15年7月、立川の航空技研から陸軍省整備局燃料課に転属になっています。この時期、氏の回りではつぎのような事が共通認識となっていたようです。「次期開発の軍用機のエンジンは間違いなくオクタン価92を要求するであろうと言う事がわれわれに重荷となってのしかかって来た。」当時、自前の精製設備を持っていなかった陸軍航空燃料関係者が「誉」の事を知ったならばさぞかし打ちのめされたことでしょう。




「松下さん」と木製飛行機

2001.07.15 

 まさとし様より、教えていただいた「明星」を調べるべく、私の最も不得意とする電器関係製造会社の「松下」様にお邪魔してきました。「明星」の開発生産状況については「世界の傑作機 愛知99式艦上爆撃機」で、松下飛行機の監督官であった、海法氏の記述が一番わかりやすいのですが、なぜ松下が木製飛行機をつくることになったかという背景は見えてはきません。そのへんの所を「松下電工50年史」から紹介したいと思います。

 松下電器製作所は、フェノール樹脂を使ったラジオ部品工場だった橋本電器を昭和4年5月買収、「日本電器製造株式会社」を設立した。これがプラスチック(フェノール樹脂)部門の最初で、ソケットをはじめ耐熱性配線器具・ラジオ部品の製品化を始めた。
 昭和9年から新しくユリア樹脂(尿素樹脂)の製品化を目指して、研究開発をすすめていた。尿素、ホルマリンを反応させ、セルロシン・パルプを混合してつくるユリア樹脂は絶縁性がよく、多彩な色調と成型性にすぐれているところから、当時、電気製品に格好の材質として注目されていた。これに着目して、松下電器会社は同年、透明尿素樹脂の開発に成功し電気スタンドの試作もしたが、業界ではじめて製品化に成功したのは昭和11年であった。電気スタンド、バイブレーター、ブラケット、押ボタン類をユリア樹脂で製造した。

 電器会社はフェノール樹脂製配線器具の有力メーカーにはなっていたが、フェノール樹脂成型材料のパウダーの市販を除くと、積層板製造の分野へはまったく進出していなかった。しかし軍需生産がはじまるとともに、これら方面への需要にもこたえるため具体的な計画に着手しはじめていた。
 この計画を実現させるには、成型機として圧力の大きい3000トン・プレス水圧機がどうしても必要だったが、このような巨大な機械を製作できるのは神戸製鋼はじめ数社しかなく、いずれも軍関係の生産に追われ容易に引き受けてくれなかった。そこで自社製作の道を選び、苦心の末、昭和14年1月3000トン・プレス2基を完成させた。

 積層板は、フェノール樹脂を結着剤にして高級絶縁紙または帆布を基材に積みかさね、加熱加圧したものである。「ナショナルライト積層板」は機械に対する強度が大きく、酸、アルカリ、油などにも強い耐蝕性をそなえ、電気絶縁性能の高い特徴は配線器具・電器計器、開閉器、抵抗器などの部分品や代用品に格好の材質であった。きびしい海軍の規格試験に合格、納入品のほとんどが飛行機の治具板、艦船の配電盤用で、昭和18年には月産30トンのフル生産でも注文に追いつけなかった。

 昭和18年5月、航空工業部の新設によって「関目工場」を開設した。関目工場は積層板製造の経験を生かして飛行機の木製プロペラと航空機用強化木の製造を始めるのが目的であった。
 飛行機のプロペラはフェノール樹脂を含ませたベニヤ板が使われ、3000トン・プレスで合板にしプロペラを成型するという方法だったが、積層板の場合よりも高い技術が必要であった。このため、海軍航空技術廠と提携して、各社に先がけ「白菊」と「一式陸攻」の2機種のプロペラをつくり、前者は全長2m、後者は2.6m、1本当たり2,890円で納品した。最初のプロペラは昭和18年8月に2枚が完成、翌年4月には天覧に供せられた。
 また、航空機用強化木は飛行機の木製桁に使うもので、200トン・プレスを12基つないで成型した。

 プロペラ製造所では終戦までに200枚、合板(強化木?)500枚を製造した。
 「松下電器株式会社」は昭和18年8月18日、「松下航空工業株式会社」に社名を変更した。(ただし親会社は、「松下電器産業株式会社」です)
 昭和19年8月7日、合成化学部で木材接着剤の研究製作に成功した。これはユリア樹脂系の接着剤で、飛行機の内部構造の接続部分に使用された。
 なお、「明星」を生産した「松下飛行機株式会社」は海軍側の要請により、木製機製造のため松下電器グループから昭和18年10月設立されたものです。


 引用文献

 「松下電工50年史」 松下電工株式会社 昭和43年5月5日発行


 上記の社史には、航空機用モーター、ポンプ等の生産の記述もあるのですが私の守備範囲とは異なるので触れません。
最近、「カーバイト工業の歩み」カーバイト工業会 昭和43年発行、「日本酢酸業界史」酢酸工業会 昭和53年発行、「日本プラスチック工業史」1967年発行 と結構ボディのある本を読みました。見た事も聞いた事もない話が10個位は有り、これを裏付ける資料を見つけるのにいったい何年位かかるだろうかと考えると暗澹とさせられます。




豊羽鉱山

2001.07.21 

 最近、薬臭い話や石油臭い話ばかり繰り返し、自分でもいい加減に、いやになっていた所、とある新聞記事に目が止まりました。7月13日の読売新聞の夕刊での「豊羽(とよは)鉱山」の話です。豊羽鉱山は札幌市の奥座敷、定山渓温泉から12、3km山奥に入った、緑豊かなヒグマの生息地の中にあります。記事の内容はパソコンの液晶画面の材料金属、インジウムの採掘の様子を書いたものです。インジウムは希少金属(レアメタル)で、豊羽鉱山での年間産出量は50トンと世界の五分の一を占めるという、今時の日本にとっては実に健気な鉱山です。

 レアメタル好きのプリンスにとっては、たまらないお話であります。しかし、現代の話をしても、ただでさえ少ないお客様を更に失う事になりかねないので、戦前、戦中、兵器生産に欠かす事が出来ない金属を日本にとっては多量に供給しながら、ほとんど人為的といっていい理由で途中退場を余儀なくされた「豊羽鉱山」について紹介します。

 豊羽鉱山は大正初期に久原鉱業により開鉱されました。金、銀、銅 、鉛を産出し特に銀の生産に特徴がありました。しかし、第一次世界大戦後の不況と煙害ににより、大正10年休山に到ります。
 満州事変、から日華事変への時代の流れの中、久原鉱業から発展的に生まれた日本鉱業は昭和14年から採掘を全面的に再開します。当時、日本は軍需物資を諸外国から大量に輸入しなければならなかった為、著しい外貨不足に陥ります。

 各種の輸出振興策が取られますが、輸出品生産そのものが軍需生産にシフトされたため、当時、世界的に見ても多い生産量を誇っていた「金」による支払いが行われるようになります。政府はそこで補助金や便宜を与え「産金奨励政策」を推し進めます。これは日本本土内だけではなく、台湾、朝鮮、満州、中国と日本支配下の土地すべてで行われました。英米からの輸入が止まった後も、中立国や南米からの輸入を行うため、産金政策は昭和16年一杯まで続けられます。この時期、日本各地の金山は活況を示します。例えば、北海道の鴻之舞金山、新潟の佐渡金山などです。この流れの中、豊羽鉱山も大増産の道を進みました。

 豊羽鉱山は金、銀だけではなく軍需物資生産に必要な「鉛」「亜鉛」「硫化鉄」「マンガン」を産出します。特に太平洋戦争中、支配下地域で余り産出しなかった鉛と亜鉛の生産に特徴があります。亜鉛はメッキ、塗料、乾電池に、鉛は蓄電池、顔料、アンチノック剤に使用されました。日華事変開始時、亜鉛の自給率は45%、鉛の自給率は僅かに14%でした。そこで日本各地の亜鉛、鉛鉱山は大増産を行います。各種奨励策が取られ、平時では低品位や立地条件の悪さから採算の合わない所も、政府の補助金により生産が行われました。

 豊羽鉱山の生産量は、昭和14年で亜鉛(含有量換算)が3700トン、鉛(含有量換算)が2200トン、最大の生産を記録した昭和18年で亜鉛が8700トン、鉛が4000トンです。ただし、山元には精錬所が設置されなかったため、精鉱の形で全て道外に移出されました。
 亜鉛の内地生産高は昭和6年25047トン、16年63995トン、19年64648トン、鉛の内地生産高は昭和6年4161トン、16年28135トン、19年34597トンです。(三菱鉱業社史より)また、1930年〜1934年の亜鉛と鉛の平均年間消費量はそれぞれ62000トン、70000トンです。戦争中、亜鉛と鉛はほとんど軍需品に使用され民需用は考慮に入ってなかったようです。

 豊羽鉱山は昭和19年突然、操業を停止しそのまま終戦を迎えます。豊羽鉱山は元々湧水、浸水の多い所な上、鉱山の直上を川が流れ、春にはさらに雪解け水が流れ込むような所でした。水抜き用の随道を掘りますが、地盤が悪い上、物資不足、人員不足が重なり途中で頓挫します。また川の改修を行おうとしますが、材料の供給はなく、わずかに用意したセメントさえ軍は取り上げています。昭和19年9月7日、川の底が抜け坑道は水没してしまいました。


 引用・参考文献

 「豊羽鉱山30年史」 豊羽鉱山株式会社 昭和56年11月発行
 「札幌の歴史 第31号 豊羽鉱山小史ー戦前編 浅田 政広著」
    札幌市 平成8年8月25日発行
 「日本無機薬品工業史」 昭和37年発行


 日本軍支配下の外地での、亜鉛、鉛生産の様子を見てみますと、朝鮮半島である程度の採掘量がありますが、中国(満州も含む)ではほとんど取れません。わずかに計算できるのは仏印(インドシナ)だけで、前に「ニッケルを作る」で取り上げたビルマのボードウィン鉱山は世界でも有数の亜鉛、鉛鉱山ですがほとんど操業できませんでした。その他の南方占領地には鉱山は有りません。


 ふりげいと様

 当方の住所は変わっておりません。プレゼントを戴けるなど実にありがたい話です。松下造船は私も気にかけてはいるのですが、くわしい内容を書いた資料にはいまだ出会っていません。意外と能代市史や秋田県史を見ると実態がわかるのかもしれません。日の当たらない座敷牢のような掲示板ですが、時々遊びにきてください。




人造ゴム

2001.07.30 

 久しぶりに、休みを取り本屋さんなどに行って見ると、「パールハーバーの真実」兵頭 二十八著があり、一応ファンなので早速買い求めました。チラッと眺めただけなのですが、ちょっと勘違いなっさっていらっしゃると思われる部分がありましたので、田舎の一趣味人として書いてみたいと思います。

 上記の文中に次ぎのような記述がありました。
 人造ゴムを開発できなかった日本軍用機の「アキレスの踵」 戦時中の日本で、ガソリンやオイルで溶けてしまうことのない人造ゴムの技術を確立できなかった理由は、自動車市場が小さすぎたことと、当時のゴム産業は無技術の零細資本でも簡単に参入できて、「安かろう悪かろう」競争を対米開戦前夜まで続けていたためであった(森本藤吉郎『合成ゴム』昭14刊、高橋九郎『ゴム工業』昭18刊、ほか)

 今、手元に「日本ゴム工業史 第二巻」日本ゴム工業会 昭和44年11月発行があります。そのP175に「合成ゴムの開発と生産活動」という記述があります。これを読めば戦前、戦中の合成ゴムの動きがだいたいわかります。しかし、これだけでは全体像は見えてはきません。いままで少しづつ取り上げた各種の有機化学工業会社史や石炭生産に関する社史、文献などを総覧しない限り人造ゴムについて語るのはいかがなものかとおもいます。ましてや人造ゴムについて断定するなどチョットいきすぎなのではないでしょうか。

 自動車(ゴムタイヤ)と人造ゴムについて関連を言われるならば、当時の日本での自動車用ゴムタイヤの生産状況、技術レベルを調べるべきで、人造ゴムとはほとんど何の関係もないことが分かるはずです。
 また、戦前、戦中のゴム工業とはゴム加工業をいうのであって、人造ゴムの製造、加工は有機合成化学、石炭工業化学に属するものであり、実際の所、当時、ゴム工業とは言えないと思います。何よりも人造ゴムの開発、製造にあたったメーカーが三井、三菱、住友、日本窒素などの大手総合化学工業会社でしかなかった事実が如実にそれを物語っています。




接触分解法

2001.08.29 

 前に、「『誉』と100オクタン航空揮発油」でフードリーの接触分解法でしか、100オクタン航空揮発油量産の可能性はなかったと書きました。皆様、どうしてかと疑問に思われていると思います。そこで今回はこのへんの所を書いてみます。

 これから述べる100オクタン航空揮発油は、4エチル鉛を添加して100オクタンになる物です。あくまで100オクタン航空基揮発油のことです。
 100オクタンを作るには、性状のいい原油を蒸留し、さらにオクタン価の高い留分を精密蒸留することにより生産できますが、量はしれたものです。石油精製がある程度発達していた当時でもこれはほとんど無視していいものです。100オクタンを作る場合、通常、いろいろな精製法で作られたオクタン価の高い基油と常圧蒸留で出来たオクタン価の高い基油など数種をブレンドしてつくりました。前者の基油の製造法は次のようなものです。

  1. 水素添加
  2. イソオクタン
  3. アルキレーション
  4. エデレアヌ
  5. 接触分解

  1. 水素添加法は、日本海軍がこだわりを持っていた物で、96式水添、98式水添など聞いたことがあるでしょう。オクタン価の低い留分に水素を反応させ安定化とオクタン価を高めるものです。この方式には2つの欠点がありました。第1には水素製造が難しいことです。水素を多量に不純物を少なく製造する事は民間企業では至難の技でした。
     第2は水素と留分を反応させる容器である高圧筒の製造が難しいことです。戦前、高圧筒の生産はアメリカとドイツに頼っていました。高圧筒は有機化学合成や人造石油製造にも欠かせない物で、当時の日本の軍需生産にとっては大きなネックになっていました。ただし、高圧筒はは日本でも量産は可能でした。高圧筒は大口径砲身の製造とにかよったところがあり砲身製造の技術が転用できます。
     「大和」の建造に全力を挙げていた海軍が製造設備の高圧筒生産の優先及び材料(低燐銑)の使用を許すわけがなく、戦中、優先度は逆転しましたが終戦時、室蘭の日本製鋼所には完成、未完成の高圧筒が何十本と放置されていました。

  2. イソオクタンは今までの駄文を読んでいただけば分かると思います。あくま配合用で、多量の100オクタンを製造するのに必要な量は日本では作れません。日本(朝鮮)国内のイソオクタンはほとんど醗酵ブタノールとカーバイトから作られた物であり、石油精製廃ガスから作られた物は少量であったと思われます。(そういえば戦争末期に彩雲がイソオクタンで偵察活動をしていた話があります。)

  3. アルキレーションは精油所自体の規模が小さく、油田から採取されるブタンを使用する発想など日本にはありませんから、材料不足のため物になりません。

  4. エデレアヌ法はそれほど難しい技術ではないように思うのですが。なぜか日本では導入されていません。ただしこの方法で抽出された基油は主要成分にはなれません。

  5. 接触分解法とは石油及び軽油を熱分解して航空基揮発油を製造する際に、触媒を用いて分解を促進すると同時にオクタン価の高い揮発油を製造する方法です。この方法は戦前、最も効率的に大量に100オクタンを作る確立した技術でした。フードリー社からの技術移転に対してかなり高額のロイヤリティーを求められ日本国内で協議してやっと購入の許可が下りたときモラル エンバーゴに引っかかってしまうのですが、即断即決することができればある程度の技術移転は行われていたと思います。どうも貧乏な国はお金の使い方を知らないようで、かつてインドネシアの石油利権を日本に譲り渡す話も、お金を出し惜しみして時期を失してしまった苦い過去が有るというのに・・・
     なお、UOP社の接触分解法をある程度模倣しようとしたようですが。UOP社の設備はテストプラントでしかなく、当時の日本では完全な技術と設備が導入されない限り100オクタンの量産は出来ません。

 8月は生涯最低の月でした。飛び石でフロントガラスは真っ二つになるし、原稿3本と共にハードディスクは昇天するし、千歳空港にお迎えにあがった尊敬するB様を、待ち合わせの時間に別の出口で待ち、結果的にすっぽかすし、自己嫌悪から来る自殺願望に取り憑かれた月でした。(もともと心身症を病んでいるのに)
 それもこれもこの因果な趣味を持ったせいなのです。親からは暗いと言われ、会社の上司や部下に「趣味はなんですか?」と聞かれても「読書です」答えるしかない人目を憚るようなこの趣味。こんなことではいけない、こうして仕事中も人から借りたPCでこんなつまらない事を書いてしまっている。ここはキッパリと止めてしまおう。更生しよう。・・・でも止められない・・・・・




復活、「橘花」を読んで

2001.09.12 

 先日、久しぶりに心躍る本に出会いました。「橘花」石澤 和彦著 三樹書房です。実際のところメカに関する記述はさっぱり解らなかったのですが、「松根油」と「耐熱鋼」は非常に興味をそそられました。今回は「松根油」について少し書いてみたいとおもいます。

 松根油については前に一度書いた事があるので覚えている方もいると思います。松根油は戦中、国民の献身的犠牲の上でかなりの量を生産できる事が出来ました。
 しかし、松根油自体では飛行機を飛ばす事が出来ないので航空揮発油に精製する必要がありました。もっとも手っ取り早く確実な方法は「水素添加」でした。海軍燃料廠は実際にこの方法を取り生産の目処を付けましたたが、米軍の空襲により全てを失ってしまい、民間の水添設備も空襲や原料、燃料の不足のため、まったく機能できなくなってしまっていました。(例えば、航空燃料製造の為に作られた東燃和歌山工場の水素添加装置では、水素源として石油精製時に発生する廃ガス中のメタンを利用し、燃料廠のようにコークスや水の電気分解からの水素ではなかった為、石油精製が原油不足で操業停止すると水素添加装置までまったく機能できなくなりました。)

 日本全土の既成の石油精製所の空爆が必至と考えた海軍は、20年3月頃より各製油所の遊休設備の機器を利用して、小型接触分解装置の建設方針を定め、第一燃料廠が標準計画を作製し、10kl型、20kl型、30kl型、計22基を計画し、内、終戦までに1基のみが完成しました。小型(簡易)接触分解装置は松根油の200〜300℃溜分を処理し航空揮発油化する予定でした。
 200℃以下の溜分を航空揮発油化する為、簡易改質装置にかけ再蒸留することを計画し、簡易改質装置200基、再蒸留装置133基を整備しようとしましたが1基も完成しませんでした。(簡易改質装置は、軽質分に触媒を作用させるようですが、具体的な説明や、図を見たことがないのでどのような物かまったく分かりません。)

 松根油を航空揮発油化する為の工場として昭和20年5月5日「松根油処理分散工場建設の件」というマル秘文書が石油精製関係各社に配られました。全国を陸軍地区と海軍地区に分け、陸軍支援のもとに建設される工場27ヶ所、海軍支援のもとに建設される工場21ヶ所、計48ヶ所の分担が指令されました。
 これらの工場がはたして戦争が継続したとしたら航空揮発油を生産することが可能だったのでしょうか?私の考えでは実戦に使用する量はまったく生産できなかったととおもいます。唯一、戦力化するには全量をジェット燃料化するしかなかったでしょう。何故ならその時点での石油精製能力ではせいぜい松根油の脱水、蒸留、腐食物質除去、ぐらいしか出来なくなっているとプリンスは考えているからです。


 引用・参考文献

 東燃三十年史(上巻) 東亜燃料工業株式会社 昭和46年6月30日発行
 大協石油40年史   大協石油株式会社   昭和55年10月1日発行
 日本石油百年史
 日本海軍燃料史(上)


 本日、ただ今機械が復活しました。寺西様お邪魔いたします。尊敬するBUN様、お元気でしょうか?千歳空港のJASの出口に朝と夜の10時に2回突っ立ていた間抜けなプリンスで御座います。(不思議なのですが二人共、携帯を持っているのになぜお互いに番号を教え合わなかったのでしょうか?)

 BUN様のこの掲示板でのお話を見るたび、あまりの自分のレベルの低さに自己嫌悪を覚えます。底の浅い半ばひやかしのような話を書き連ねてきた私としてはチョット困惑しております。日本での航空揮発油のそれぞれのオクタンにおけるブレンド比を具体的に書いた記述を実は私は見たことがないのです。前に取り上げた明石報告ではオランダ支配下のパレンバンでの航空揮発油のブレンド比がはっきりと書いてあります。しかし、日本でのそのような記述が見あたらいのです。なお、四式戦に100オクタンを使用すること想定したのは、まず間違いなくパレンバン第一製油所での100オクタン量産に自信を持った上でのことでしょう。




大慶油田

2001.09.27 

 とあるマンガを読んでいると、太平洋戦争にワープしてしまった自衛艦があり、その乗員が旧満州の「大慶油田」の存在を教えるという話がありました。またシリーズになっている仮想戦記でも大慶油田が見つかるという話がありました。ここで一般に大慶油田が見つかれば太平洋戦争の原因だった石油問題が解決するかとの認識があるようですが、これはチョット違います。大慶油田は重質油であり当時の日本にとっては石油精製は一筋縄ではいかないのです。特に日本にとって隘路である航空揮発油生産が問題なのです。

 皆様、石油精製における熱分解という言葉を聞いた事があるでしょうか?戦前では一般的な方法でした。この方法では、重質油を軽油や自動車ガソリンには製油できるのですが、87オクタン以上のハイオクタンは生産できません。よって前にも述べた「水素添加」「アルキレーション」「接触分解」を用いないとハイオクタンの航空揮発油は生産できないのです。これらの方法は、プラント、ノウハウがアメリカから輸入できなければ形を成さない物でした。さあ、そうするとアメリカはこれらの輸出を認めるのでしょうか?

 石油問題を考えた時、エネルギー源としての「石油」を考えるべきでしょう。当時の日本のエネルギー源は石炭でした。皆様「石炭飢饉」という言葉を知っていますか?昭和14年異常渇水を契機に石炭不足が恒常化します。電力源、原材料としての石炭は現在の石油と同じ位置を占めていました。もし大慶油田が見つかれば石炭の代わりに、電力、熱源、製鉄にとってどれほど価値ある物だったことでしょうか。

 今までに書かれたmaterial掲示板なんですが、私だけが書いた物ではないのでいうべき事ではないかもしれません。でもこの掲示板が無くなるのであれば、この際、海防研に殉じて消えていくのも良いのかもしれません。



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