このテキストは海防研のマテリアル掲示板に投稿されたものです


誰か人造石油に興味がある人はいませんか?

2001.01.29 

 始めまして

 メイルアドレスも分からない者です。戦前の技術史(ミリタリー)であそんでいます。
 石炭を材料にした人造石油について知っている方はいませんか。札幌在住なので滝川市や樺太の人造石油工場の資料は基本的に入手できる物は集め、戦前の燃料関係の書籍も買ったりコピーしたりしているのですが分からない事ばかりです。
 そこで唐突ですが質問です。昭和20年青森市において、樺太から送られた重油が空襲で焼かれています。なぜ戦争末期に青森に貴重な重油が置かれていたのか?どのようにして青森まで運搬したのか?話は変わって旭川市の合同酒精工場で航空燃料となるイソオクタンが製造されていましたがいったいどこに運ばれどのように使用されていたのか?知っている人がいたら教えてください。
 ちなみに私はTLタンカーと給糧艦「間宮」が好きです。




送信をだぶってすいません。

2001.01.29 

 いまだに機械の使い方が分かっていないので申し訳ございません。
 終戦前、樺太の人造石油工場では運搬方法がなく大量の重油が貯蔵されていました。
 当時、油送船は運用の当てもなく係船されていました。伊ー400が作戦行動を取るため大連に重油を取りに行ったともきいています。南号作戦であれほどの油送船を浪費するならば例え日本海の制海権が失われつつあっても、なぜ油送船を送らなかったのでしょうか?人造石油が低質であったとしてもタービンは動かせたてでしょうし、まともなプラントで処理すれば航空燃料でさえ少量は出来たはずです。松根油よりははるかにましなはずのです。ところでいつになったらこの機械を使いこなせるようになるのでしょうか?




燃料ていうのは皆興味がない

2001.02.05 

 本の人造石油を返り見るとき、基本資料としてアメリカ合衆国戦略爆撃調査団・石油・化学部報告の日本語訳出版「日本における戦争と石油」石油評論社刊を上げることができます。この本自体の内容にはかなり間違いもあるのですが日本の戦時における石油政策に対する批判はかなり的を得たものだと思います。石油が戦争の最大の要因でありながら政府、軍部の無策ぶりには心底あきれはてます。

 石油精製における水素添加(重質油、あるいは灯油などに水素を化学反応させガソリン特に航空用ガソリンの生産をめざす)プラントは太平洋戦争当時、民間、軍部とも設備てきには主要な工場にはほとんど備わっていました。それは民間石油会社の社史や海軍燃料廠史、陸軍燃料廠史などをごらんになればわかります。一部巷で流布されている日本にはオクタン価の高いガソリンを作る技術が無かったというのは適切な表現ではありません。アメリカで戦中、高オクタン価の主要な生産方法であったフードリー式接触分解法が実用化されていなかっただけで、基本的にはガソリン分の多い原油を普通に精製(常圧蒸留)しても高オクタン価のガソリンの生産はできます。日本で高オクタン価のガソリンが供給されなかったのはなによりも精製する原油がなかったためです。南方から原油を運ぶ油送船がなかったからにほかなりません。

 手元に昭和19年発行の「南方産業要覧」という本があります。これに日本陸軍の支配化にあったパレンバンの製油所の業務内容がかなりくわしく記載されています。これによれば90〜100オクタンの高オクタン価の航空燃料の生産がわかります。旧陸軍では87オクタンのガソリンの使用が知られ、航空機の能力に制約を加えていたと信じられていますが、当時、日本にとっては最大、最良の燃料プラントを陸軍は持っていました。




燃料ていうのは皆興味が無い、2

2001.02.05 

 兵庫県尼崎市に1943年石炭から石油をつくる人造石油の工場ができました。フィッシャー・トロプシュ法という方法を使い石炭(ここの立地条件から製鉄所のコークス炉ガスを使用する。)から石油を作る予定でした。
 しかし、ほとんど成果はありませんでした。なぜなら原料、燃料である石炭がなかったのです。石炭の生産は激減し、九州から運搬する船も無く、鉄道も飽和状態でした。日本国内で大量の生産余力がありながら当時、閉山をよぎなくされた炭坑がありました。

 それは北海道の釧路炭田です。ここも内地への輸送手段である船の不足から大量貯炭を抱え生産停止し人員、設備は内地に転換されました。石炭10トンから石油1トンといわれる人造石油の宿命をしりながらの立地、せめて釧路に作っていたらと悔やまれてなりません。
 では釧路に立地していたら充分な生産を上げることができたてしょうか?それは不可能なことでした。なぜなら化学合成に必要なコバルトが日本ではほとんど産出されませんでした。そもそも日本の人造石油工業とは平和時に外国からの技術と原料の輸入によって始めて成立するものでした。

 オススメの本「石炭国家統制史」昭和33年発行、北海道炭坑汽船株式会社

 これを読むとマリアナ海戦後の日本海軍の司令長官の気分になれます。でも読むと当時の日本の本質をかいまみることができます。




とりあえず今日は終わり

2001.02.05 

 ホームページ真実一路を見ていて偶然、オクタン価の記載を見つけました。私以外にも日本の航空燃料に対する通説に疑問を持っていた方がいたんですね。私は4年間だけ化学を専門に勉強しその後他の分野に転進(間違っても撤退ではない)したため技術的な記載を正確に読みこなせません。だれか現役または引退した工業化学の専門家が、なんかおかしい航空燃料諸悪の根源説を見直していただけないでしょうか。




松根油とジープ

2001.02.08 

 皆様、松根油をご存知ですか?このまえ取り上げた「日本における戦争と石油」が出典と思われる、戦後進駐した米軍が、松根油をジープに入れたところ2〜3日でエンジンが焼き付いてしまったという話を聞いた事があるでしょうか?

 この話は、軍部や日本人の後進性、馬鹿さ加減を象徴する話として多くの本に引用されています。でもこの話はかなりおかしな所があります。戦中、松根油はかなり多量に採集されましたが、燃料等の不足により精製(化学処理も含む)されて航空燃料化された物は微々たる物でした。松根油とはそもそも松根原油とも言うべきもので、それ自体は缶の燃料ぐらいにしかなりません。松根油を直接エンジンに入れれば焼き付くのは当たり前です。

 松根油とはせいぜい松脂の流動性を帯びたものと考えていただいて結構です。これは石油にも言える事で原油でも、蒸留だけされて化学処理されていない半製品の揮発油でもエンジンに入れれば焼きつきます。(大戦中、ソ連のバクー油田の原油が精製が間に合わずろ過するだけで自動車エンジンに入れて立派に動いたという技術者の話が有ります。これは成分的にかなり素質の良い物だったのです。蛇足)松根油を実験プラントで精製処理した記録を見てみますとかなり質の良い航空燃料になっています。例え実用プラントで精製処理してもそれほどの差異は生じません。松根油または50歩譲って半製品を使ってエンジンが焼きついたからといって日本軍や日本人になんの問題があるのでしょうか。

 ただし、松根油を戦力化しようとしたその発想は日本人としてゆるせない。

 毎回、皆様に困惑を与え掲示板の主旨にそぐわない発言を繰り返し本当に邪魔なやつだお思いの事と存じ上げます。しかし、当方と致しましても自分のアドレスすら判らない現状お察しのほどよろしくお願い申し上げます。もしどうしても邪魔なようでしたらどこか転居先を御教示下されば幸いです。なお、次回は「日露戦争と石炭」など書き散らして見ようかと思っております。




「松根油とジープ」全面撤回

2001.02.10 

 松根油の航空燃料化は1945年初頭にパイロット・プラントによる試験操業や実験室データが無かったのに決定された。31klの航空燃料が四日市第2海軍燃料廠で実際に作られ製造直後は海軍の規格を満たしたが、わずか3日間でガム状物質が増加しオクタン価が3ポイント低下した。この製油所を占領したアメリカ陸軍部隊が自動車にこの燃料を使った所たちまちエンジンにガムがつまり使用できなくなった。という具体的な記述を見つけました。

 間違いは正されなければなりません。

 まず松根油の日本側の記録を見てみましょう。「日本海軍燃料史」の記載は簡単です。第二燃料廠で昭和20年6月分解水添の運転を開始し暫く運転の整定せんとする直前に、空襲被爆した。遂に終戦まで航揮生産の実現が出来なかった。

 徳山第三燃料廠は20年4月作業開始したが、未だ運転整定しない5月10日空襲に遭遇した。鋭意復旧し、装置を4日後に完成し運転を再開し約500klの航揮を生産した。これが松根油より生産した唯一の航揮であった。

 日本側の記録が正しいとすれば、ジープに入れたガソリンは半製品という事になります。前回お話した通り最終調整である化学処理をしていない石油製品は安定性がなくガム状物質が生じてもなんの不思議もありません。ただし半製品をテストプラントで精製した可能性もあり、完成品だったといわれればそれまでです。

 次に、研究施設である大船第一燃料廠に関して記載された部分では、総力を挙げて之に当り、又部外専門家に委託し急速解決を計った結果、松根油の水素添加分解及び接触分解法に依って航空用に使用し得る揮発油が生産されることが明らかになり、試製揮発油は空技廠の実用実験を経て横須賀航空隊にて飛行試験に合格した。とあります。

 これが、ぜんぶ事実であればテストプラントで実際に試製され飛行機に入れて問題無く飛んだ事になりますが、私は本当に飛行機が飛んだいう話を寡聞にしてしりません。

 これは前回引用した本なんですが「日本航空燃料史」には、三菱石油での実験と試製した揮発油の性状が記載されているので実験が行われた事は確実です。
 アメリカのジープのエンジンが焼きついたのは事実であり、今となっては化学的に検証するすべも無いので、前回の一文「松根油とジープ」は完全撤回させていただきます。




日本占領下の小造船所

2001.02.12 

 太平洋戦争中、日本占領下の外地で、小型船の建造が行われたことは、皆さんご存知でしょう。しかしその内容となると、余り見かけたことが無いと思います。民間企業の社史を見ていると、これらの事が詳しく書いてあることがあります。今回はこれら民間の小造船所ついての記述を抜き書きしてみます。なお一企業づつとりあげ、シリーズ化出来ればと思っています。


  「安宅産業」
  仏印(ベトナム)

 ハノイ店は昭和十八年六月、軍から一五〇トン標準型木造船八隻の建造を受命し、ビンに造船所の建設を開始するとともに本店から技術員・造船工の派遣を得て建設資材の入手と労務者の確保に奔走し、同年末建造に着手した。

 翌十九年からは七〇トン型及び三〇トン型の小型木造船も併せて建造することとなったが、これらはいずれもエンジンが入荷せぬため完成しないまま繋留されていた。その後空襲が頻繁となり、かつ資材も入手難に陥ったが偶々サイゴン支店において新たに造船事業が始まったので、一九年四月同所の技術員の大半をサイゴンに移し、ビンの造船事業は中止されるに至った。因みに前述した繋留中の未完成各船は二十年四月末から五月にかけての大空襲により造船所もろとも焼失した。

 当時は連日空襲が続き、米軍の上陸作戦も日時の問題と考えられたので、軍はラオス奥地のタケック周辺を最後の拠点として同地に転進し、陣地構築を行うとともに洞窟作戦の準備を進めつつあった。このため同店も軍の命令により急遽残存資材並びに要員をタケックに移転し、爾後は付近の部落に分散して一〇トン型船(度河用舟艇)のみを建造したのである。

 昭和十九年四月、サイゴン店は一五〇トン標準型木造船一二隻の建造を受命したので、サイゴン第一製材工場敷地(約三万平方m)内に造船所の建設を開始し、同年八月第一船台を据付けて第一号船の建造に着手した。十月には本店から増派の技術員を迎え陣容を強化し、年末までに五台を据付けて各船とも鋭意竣工を急いだ。しかし必要資材の入手難、物価の高騰に加えて経験のない現地人を使用したので、作業の進行は甚だしく緩慢であった。二十年に入ってからは空襲の激化、食糧事情の逼迫などで状況は極端に悪化し、一時休止のやむなきに至ったので、第一船(70%完成)と第二船(55%完成)を直営部門が担当、第三船以下は請負制として各船の完成を競争させたところ、極めて順調な運びを見るようになった。かくて一五〇トン型木造船は終戦までに五隻が完成し、それぞれの部隊に引き渡した。

 なおこの間、同型船建造量の増加が要望されて敷地を拡張したこともあったが、専ら日本から供給を仰いでいた焼玉エンジンが入手困難となったので増産を中止し、第六船以降は型式を艀に変更するよう指示を受けた。このため拡張した敷地内においては造船材の手挽を行ったのである。

 昭和二〇年三月以降、同造船所に隣接するMM汽船(フランス)の極東修理船渠であるシコラ(SICORA)ドッグを軍の委託により経営した。
 またメコン河流域の軍需物資輸送を一段と促進するため同年五月、サイゴン店に対し、プレンサケ(プノンペン北西方約五〇キロ、メコン河沿岸)において三〇トン型船の下命があった。同店は直ちに資材を送り、技術員二人を派遣して建造に着手し、終戦までに四隻を完成して軍に引き渡した。この三〇トン型船は「ヤンマー舟艇」或は「ダイハツ舟艇」と呼ばれ需要が多く、昭和十九年七月以来サイゴン地区においても数度にわたり建造の命令があった。

 当時同店は一五〇トン型に主力を注いでいたので、この小型船は自営のサイゴン造船所で建造するほか、周辺地区の華僑に請負施工させたが、その建造量はサイゴン造船所で三三隻、ショロン地区・カンボジア地区で各々一六隻、計六五隻であった。
 更に昭和二十年六月、七〇トン型木造船の建造を命ぜられたので、取り敢えず現地人の下請で二隻の建造に着手したが、終戦時には未完成であった。
 因みにこの二隻は終戦後当社社員のみによって完成され、第一安宅丸・第二安宅丸と命名のうえ、帰国待期中の全邦人の食料輸送に使用された。


  ビルマ

 ラングーン店は昭和一七年十一月、軍の委託によりイラワジ河の対岸にある旧カマカジ造船所を経営することとなり、ここで船舶の修理を行なった。

 同店はまたこれと同時に一五〇トン型木造船八隻の建造を受命したので翌十二月、日本緬デン木材組合の第二製材工場に隣接して「安宅第一造船所」(敷地九万二六〇〇平方m、建物二万六五〇〇平方m)を新設し、直ちに船台を据付け翌十八年二月建造に着手した。

 翌三月、同店はこの第一造船所に近接した敷地(三万三〇〇〇平方m)に「安宅BOC船舶修理工場」を設け、船舶修理のほか一〇トン型渡河用舟艇及び組立舟艇の建造を行なった。その後七月至って日本から造船工の増員を得たので、更に前記修理工場の対岸にあるドウボン造船所をも経営することとなりこれを、「安宅第二造船所」と称し、一五〇トン型木造船の建造に着手した。

 このように同店は初期のうち、乏しい人員と資材によって数カ所の造船所を経営せざるを得なかったことと、その後増員を得てからは空襲に妨げられたため、第一造船所で建造した一五〇トン型船が完成したのは、昭和十九年三月の「第一加賀丸」が最初であり、「第二加賀丸」は九月であった。
 結局終戦時までに同店が納入したのは、一五〇トン型二隻、七〇トン型門橋船7隻、一〇トン型渡河用舟艇二〇隻、組立舟艇一三〇隻であり、このほか修理した船は五十余隻の多きに上った。

 なお同店はラングーンにおいて造船事業を開始する一カ月前、昭和十七年十月、泰緬鉄道の起点でマルタバン湾に面する海陸の要衝モールメインに出張所を開設し、碇泊司令部の命で旧イワラジフロティラ造船所を経営したがこの造船所は専らサルウイン河の沈船引揚げと船舶の修理を行なった。

 昭和十八年四月からは陸軍自動車廠の委託により、ビルマ石油会社の機械設備をもって「安宅BOC製作所」を経営し、自動車のピストン・ピストンリング・ピストンピンなどを製作するとともに、渡河用舟艇の十五馬力焼玉エンジン二〇台を製作した。

 安宅産業六十年史  昭和43年発行 安宅産業株式会社




ニッケルと太平洋戦争

2001.02.13 

 皆様、ニッケルをご存知ですか?化学合成の触媒として使われたり、○○の装甲版にも欠かせなく、同盟国ドイツのMe-262ジェット戦闘機のジェットエンジンもこれが無い為に10〜20時間の寿命しかなくなり、ドイツに二重にライセンス料を払った例のエンジンのシャフトにもこれが入れられなくなり、特殊な熱処理をする為に名古屋の都市ガスのメーターを跳ね上がらせた、とってもおいしく体に良い金属です。

 ニッケルは、昭和14年住友鉱山で生産が始まるまでカナダ、イギリス、アメリカ、ノルウェーなどから金属ニッケルを輸入してまかなっていました。
 昭和14年住友鉱山の四阪島製錬所と新居浜電解工場で金属ニッケルの生産が始まり、昭和15年古河鉱業の足尾製錬所でも始まります。ほかに大戦中ニッケル生産に関係した所は、日本曹達の横浜工場が中間製品を足尾製錬所に納入していますし、東邦金属の台湾花蓮港工場でも精錬の文字が見えますが、資料が見当たりません。戦時中、昭和鉱業より委託を受けた帝国鉱業が広島県の契島製錬所で昭和17年より傘下の鉱山の低品位鉱を製錬していますが年産数トンの少量でした。他に精錬をおこなっていた企業が有るかもしれませんが今のところ私は資料を見出していません。

 これらの工場で使われた鉱石はすべて輸入されていました。戦前日本の支配化にある地域で商業ベースに合う鉱山は一つも有りませんでした。住友ではニューカレドニア、と後から詳しく述べるセレベス島ポマラ鉱山から輸入し、日曹は南アフリカ、ローデシアから輸入していました。

 第二次大戦勃発後ニッケルの鉱石と地金の輸入は急増します。昭和15年、日本軍の「仏印」進駐並びに日独伊三国同盟成立により、米・英・蘭・加・豪・印等より地金並びに鉱石類の輸入が不可能になりました。海軍はZ工作と称して昭和15年末より三菱商事及び三井物産の専門員を含む購買員を中南米に派遣し軍需用地金及び鉱石、その他軍需資材の買い付けに乗り出しました。三菱商事は主としてブラジル及びメキシコの両国より、マンガン、ニッケル、水銀、コバルト等をすべて現金で買い付け、総額150万ドル達しました。これらの緊急輸入の具体的数字を見た事ははっきり覚えているのですが資料が見当たり ません。

 太平洋戦争初期の勝利により占領地において二ヵ所のニッケル鉱山を手に入れます。これら以外に占領地で採掘が行なわれた所は有りません。これらの二ヵ所とは、ビルマ中央部のボードウイン鉱山とインドネシア、セレベス島のポマラ鉱山でした。

 ボードウイン鉱山は、イギリス支配化に有りました。ここは鉛、亜鉛、金、銀、銅、ニッケル、アンチモニー、コバルトなどを産出し、まさに日本にとっては宝の山でした。ニッケル自体は0.24%程度の低品位の鉱石なのですが、上記の金属に付随して取れる世界でも有数の鉱山でした。ボードウイン鉱山は英軍撤退時に徹底的に破壊されました。日本軍占領後、三井金属が経営を委託され、昭和18年4月に発電所と選鉱所が運転を始めましたが、再開翌々日には爆撃され操業を停止してしまいます。その後も運転再開、爆撃を繰り返し昭和19年11月放棄されます。鉱石自体は全ての金属含み選鉱処理を終わった物が十数万トン、鉛、亜鉛の精鉱が一万数千トン有りましたが、地の利の悪さからも日本にはほとんど還送されませんでした。

 ポマラ鉱山は、オランダ支配化に有りました。大戦中ここが実質、ニッケル鉱唯一の生産地で有ったといっても過言ではありません。駒宮氏の労作に記載される船舶が積載したニッケル鉱はすべてここの物です。

 ポマラ鉱山は昭和14年操業を開始し戦前昭和14年鉱石産額7540トン、昭和15年51012トンであり、かなりの量を日本に輸出していました。昭和17年3月海軍は住友鉱業のニッケル製錬技術を評価してポマラ鉱山の開発経営を委託し同社は、年間17万トン(品位3%)の鉱石を採掘し、10万トンはそのままに、7万トンはマット(濃ヒ、品位25%)にして新居浜に送ることにし、現地に乾式製錬所を建設しました。しかし、戦局の悪化に伴い、ほとんど操業を停止し、原料輸送も困難になりました。

 ちなみに17年から20年までの間に新居浜に送られたのは、鉱石約7万9000トンにとどまり、200トンのマットは現地から出荷されたものの、国内に到着しませんでした。他の国内の製錬所にも出荷され製錬も行なわれているのですが実数は不明です。

 ポマラ鉱山の推定埋蔵量は平均品位3.5%の鉱石が約150万トン、2%内外の物が1,500万トンです。
 戦時中、鉱石を確保できないため国内の低品位鉱を処理しました。蛇紋岩(ニッケル品位0.3〜0.6%、鉄6〜10%)を特殊な方法に処理しニッケル20%のフェロニッケルとするものです。これらの鉱石を供給したのは、兵庫県大谷鉱山、京都府大江山鉱山などです。これらの数量は不明です。
 ニッケル地金は、昭和14年に最大輸入量1万2670トンを数え、国内生産は昭和16年に最大生産量1823トンを記録し、新居浜製錬所は内89%を占めました。昭和20年には国内生産は331トンと激減します。

 陸軍は戦前軍需物資の調達や兵器の販売のため昭和通商株式会社を設立しました。戦時中、昭和通商の香港支店は米と交換でニッケル硬貨などの金属を回収し、ハノイ支店でもニッケル硬貨を購入していますが、輸送手段がほとんどなかったため日本国内にはほとんど還送されなかったようです。また大阪造幣局は国内から回収した白銅貨幣(銅75%、ニッケル25%)からニッケルを分離作業を行ない、昭和19年5月から昭和20年5月まで約4.5トンのニッケルを製造しました。

 最後にニッケル鋼の例として山陽特殊製鋼でのニッケルクローム鋼塊の生産材料比を書きます。

購入屑鉄 737kg
自家屑鉄 188
ダライ粉 110
消石灰 110
蛍石 10
珪素鉄 4
マンガン鉄 10
ニッケル(純分99.7%) 33
クローム鉄(純分60%) 12
電極 14
電力 1100KW時

 ニッケル生産に関する解説のような物を見たことが無かったので自分で書いてみました。なにか付け加える事がありましたらこの掲示板に書き足してみてください。


 引用・参考文献

住友金属鉱山二十年史
住友別子鉱山史住友金属鉱山株式会社
創業100年史古河鉱業株式会社
帝国鉱業開発株式会社社史 
三菱商事社史 上巻
三井金属修史論叢
阿片と大砲山本常雄著 PMC出版
造幣局100年史大阪造幣局
南方技術要覧昭和19年 山海堂
日本の天然資源昭和26年 時事通信社 超オススメ本です
山陽特殊製鋼三十年史

 「日露戦争と石炭」を発表するといいましたが両手に持ちきれないほど資料を読み込まなければならない事が判りましたので、長期ドック入りさせていただきます。なお私の話では記憶の衰え、所在不明で出典を明記できない場合が多数でてきます。よって読む方の判断によりただの「ホラ話」と受け取っていただいても一向に構いません。




航空燃料、補足N0.1

2001.02.16 

 偶然、調べ物をしていて「海軍燃料史」の航空燃料のアンチノック剤について、補足できる記述を見つけたので紹介します。


  鐘紡百年史   昭和63年 P372

 昭和16年頃、陸軍では航空燃料の添加剤(アンチノック剤のことです)であるブローム(臭素のことです。)の生産増強を急務としており、その製造を津田社長に懇請してきた。そこで、根本的な研究を行なっている余裕がないので、米国の文献に基づき、とりあえず鐘淵海水利用工業の長井工場内にダウ・ケミカル方式で、海水から直接月産一トンのブロームを採集する設備を建設し、操業を開始した。

 同様の設備を海軍指定工場であった鐘淵曹達工業台南工場にも設置して稼動させ、高砂工場内でも建設に着手したが、これは完成を見ずに終戦を迎えた。
 軍部の要請によるブロームは一応生産できるようになったが、研究陣はさらに新しい資源を探求して容易に多量のブロームを生産する方向を目指し、北海道・樺太海岸の海草数十種を採集して精密な分析を行ない、ついにフジマツモという海草が多量のブロームを含有していることを発見した。フジマツモの風乾物は、約2%のブロームを含んでいる。従来、ブローム生産の唯一の原料とされていたニガリでも含有量は約0.5%であったから、この発見は世界でも始めててであり、学界に対する貢献でもあった。

 昭和17年、北海道虻田に抽出処理工場を建設し生産したブロームは、約二トンであった。すべてを海軍軍需部に納入したが、原料のフジマツモの集荷は難事であり、海水からの直接採集法にまさるかどうかは、短い操業期間のデータでは決定できなかった。


  「日本海軍燃料史」をお持ちでない方の為の解説

 航空燃料のオクタン価を高めるため、アンチノック剤(耐爆剤)を航空燃料に添加します。当時、アンチノック剤としてはエチル液を用いました。エチル液の重量成分比は四エチル鉛が61%、二臭化エチレンが37.5%でした。
 開戦前、この内四エチル鉛は自給できましたが、二臭化エチレンの合成に用いる臭素の生産が足りませんでした。当時、唯一の臭素原材料は苦汁(にがり)で使用可能量は100トン程度、しかし、海軍は一ヵ年600トンの臭素を必要としていました。そこで戦前、東洋曹達に海水からの臭素の製造を命じ、昭和172月9日より生産が始まり、8月には月産90トンに達しました。なお米国も当然海水から製造していました。鐘紡の臭素の生産は「日本海軍燃料史」にも「陸軍燃料廠史」にも記載されていません。

 今日、始めて「War Birds」のAns.Qを見てきました。そこでの解答者の方々の姿を見て、一介の田舎のおよそ人に愛される事のない、いかがわしい(いやらしい)趣味を持つ私は驚きおののいてしまいました。まさに魑魅魍魎の跋扈する世界「げに恐ろしきは人の世なり」




日本占領下の小造船所、No.2

2001.02.16 

 「鐘紡」

 ボルネオ・サマリンダ合板船建造工場

 昭和十八年五月十七日付の海軍大臣の指令書が発せられ、鐘実は南方ボルネオ・サマリンダに大量生産による合板船建造工場を建設することになった。鐘実ではすでに名古屋・付知・熱田・岐阜に合板工場を保有し、一方、鐘淵デイゼルでは戦時標準船用エンジンの生産を行なっていた。
 先の海軍の指令書に対して、「合板船建造計画調書」を提出した。幸い、その計画書は戦火を免れて現存するので、その大要を記録して歴史の一駒として残したい。


 合板船建造計画調書

鐘淵実業株式会社


第一 一般計画
(一)建造ヲ要スル理由概要
南方木材ヲ以ッテ合板船ヲ大量ニ建造シテ南方ニオケル重要物資ノ交流ヲ円滑ニシ以ッテ戦力増強ニ資セントス。
(二)設備ノ概要
伐採・製材・合板・造船・鉄材加工ノ設備及付帯設備一切ヲ建設スルモノトス。
(三)建物
建物ハ止ムヲ得ザルモノノ外ハ現地資材ニヨル「バラック」建トス。

第二 略

第三 建造目標
昭和十八年度  一〇〇屯船  二〇隻   二〇〇〇屯
昭和十九年度  一〇〇屯船 一三〇隻  一三〇〇〇屯
  〃     二〇〇屯船 二五〇隻  五〇〇〇〇屯
(以下省略)


 工場敷地一五〇〇〇坪、伐採地域約一四〇万坪での不可能を可能にする努力が続けられたが、残念ながら実績数値などは明らかではない。
 しかし、昭和十九年四月二十九日、第一船が進水式を迎えめでたく産声をあげた。

 鐘紡百年史  昭和63年発行


 合板船とは?

 横浜ヨット工作所(後の横浜ヨット株)では、戦前から合板船を建造していたが、大東亜戦争中、船腹の増強の要請と鋼材不足に対処して、大型合板船が建造された。  その第1船は、昭和19年に建造された第一国策丸という油送船であって、続いて同型船が数隻建造された。

 第一国策丸要目

 総トン数 230
 載荷重量 300
 長さ×幅×深さ 38.8m×7m×3.5m
 速力 12kt
「昭和造船史」より

となっていますが、どうも当てはまらないような気がします。「戦時造船史」にも記載されておらず、どなたかご存知の方がおりましたら、御教示の程よろしくお願い申し上げます。




「イソオクタン」?

2001.02.16 

BUN >> 松島航空基地の終戦時の米軍への引渡目録の中に航空九一揮発油44,400リットルと共に「イソオクタン」42,000リットルとの記述を見つけました。
BUN >> この「イソオクタン」とは本来のイソオクタンのことなのでしょうか?

BUN >> また、横須賀空の引渡目録の中にある、空一号揮発油、空二号揮発油とはどのような燃料なのでしょう。
BUN >> 燃料の品位順に記載されている様子なので九一揮より高品位の燃料なのでは、と思えるのですが・・・何とも言えません。
BUN >> また流石、横空と言うべきか「試製空燃」30,000リットルが夏島のタンクに貯蔵されています。これは何なのでしょうか?

BUN >> 某所で当事者の「証言」として「二十年になると横須賀にも87オクタンしか無かった」との話が出ていたのですが、引渡目録の記載を信用すれば横須賀には逆に航空八七揮発油は僅か15,000リットルと、航空九一揮発油の20分の1以下の量しか貯蔵されていません。

BUN >> 航空燃料の実態については(私にとって)まだまだ謎が多く道は険しいように思います。


 BUN様、やってきましたね  大方の資料を、なぜか会社に持っていってしまったので、手持ちの資料で分かる事だけ書きます。今「パレンバンの石油部隊」という本を開いています。

 パレンバンの第一製油所では昭和17年8月20日の時点で日産1000バーレルのイソオクタン製造装置が全面的に運転を再開しています。当然、日本国内のイソオクタンプラントも稼動していたはずですし、終戦間際でも朝鮮のカーバイトからイソオクタンを作るプラントは稼動していて製品は陸軍と海軍が折半していましたのでイソオクタンがあってもなんの不思議もありません。

 空一、空二、はどこかでみたような気もするのですが思い出せません。試製空燃の文字は始めてみました。でも時期的な事から考えるとアルコールを主体としてアセトン、ブタノール、ベンゾール、エチルエーテル、などその手の物をブレンドした物だと思います。

 そういえば、イソオクタンはオクタン価の指標となり100オクタンになるはずなのですが日本の物は92〜93ぐらいしかなっかたそうです。でも加鉛すれば100ぐらいにはなったでしょう。明日ぐらいには完成するのですが「味の素」の社史を調べていてなんと航空潤滑油を製造していたという話がありました。




アルミニウムを作る、番外編

2001.02.19 

 皆様、アルミニウムについてどんな事をご存知ですか?アルミニウムの原料は日本で取れますか?アルミニウムのアルミ源はボーキサイトだけですか?
 アルミニウム(以後アルミと呼びます。)は、どんな土の中にでも存在します。
 あなたの庭の土の中にも必ずあります。何よりも、土の中にアルミが無ければ植物は育ちません。アルミは植物の必須元素なのです。これはとある教育機関で実験付きで習いましたので間違い有りません。アルミが無ければ花も咲きません。だから、私にはアルミが欠けている。

 太平洋戦争は、石油や鉱山資源の獲得を目的として始められました。その資源の一つがボーキサイトでした。よく日本ではボーキサイトまったく取れなかったと言われますが、それは正しくありません。余り取れなかっただけでパラオ島で実際にに採掘され数量もきちんと記録されています。ちなみに南洋アルミニウム鉱業会社が開発を行ない、埋蔵量は500万トンでした。(「日本戦争経済の崩壊」アメリカ合衆国戦略爆撃調査団 日本評論社のP197〜P198にアルミ関連の詳しい統計が有ります。ちなみにパラオからは昭和18 年で10万トンのボーキサイトが移出されています。)

 まず最初にアルミ精錬の初歩を知らなければなりません。通常はボーキサイトを苛性ソーダの溶液中にいれ、アルミ分を抽出し攪拌すると水酸化アルミニウムが出て来ます、それを加熱すると無水酸化アルミニウム、アルミナが得られます。電解槽の中に氷晶石を溶かし、その中にアルミナをいれ溶解させ電解するとアルミニウムになるのです。アルミの製造は大きく2段階に分かれると覚えておいてください。

 アルミにはボーキサイト以外にもアルミ源として、礬土頁岩、明礬石、粘土類、燐酸礬土などがあります。これらは日本本土や日本占領下の中国(旧満州も含む)、朝鮮半島でも採掘できます。アルミナを電解しアルミニウム作る過程はどんな材料でも同じです。ただアルミナを作る過程が違うのです。上記の原材料はアルミの含有率もボーキサイトに比べれば低く、不純物も分離しにくい物が含まれていた為、アルミナを作る事は大変厄介な事でした。
 今回は、これら日本的材料と、およそアルミ生産とは程遠い一企業の話を書きます。

 「味の素株式会社」は味の素製造に伴う苛性ソーダ製造のノウハウを持ち、アルミナ製造に違和感を持っていませんでした。苛性ソーダも自給できるため、ボーキサイト安定供給の見通しがたった昭和18年4月、年産4万8,000トン能力のアルミナ製造設備の建設を川崎で着手しました。しかしボーキサイトの輸送難から昭和19年4月工場の一部完成を目前に当局から中止を命ぜられました。

 次に華北産の礬土頁岩を原料とし、年産2万4,000トンのアルミナ製造計画を昭和19年7月に計画し工場の改造を始めましたが、完成に至らぬ昭和20年1月、原料頁岩の輸入難から計画はまた中止されました。さらに昭和20年3月、ダライ粉(回収アルミニウム製品スクラップの切削屑?)を原料とする年産1万2,000トンアルミナ製造計画を立てましたが準備段階で工場は爆撃を受け、水酸化アルミニウム44トンの生産に終わりました。

 味の素は味の素製造に塩酸も使用し自家生産していました。ドイツでは塩酸を使用しアルミナの抽出する方法をを開発していました。そこで昭和18年10月、塩酸法によるアルミナ生産の工業化が決定されました。原料は国産の粘土を用い、岐阜県中津川の粘土が適性を持っていることが分かり、昭和19年春頃から採掘が始まりました。川崎の味の素製造設備を一部転用し、工場の建設を急ぎましたが昭和20年4月15日空襲により設備の大半が焼失してしまいました。
 塩酸法によるアルミナ生産は昭和20年の試験的製造による約75トンで終わりました。終戦により味の素はアルミとの関係を完全に断ち切られました。

 参考統計

 世界ボーキサイト生産高(単位万トン) 1938年

ユーゴスラビア39.6
ルーマニア1.1
イタリア36.1
ハンガリー54.1
ギリシャ18.0
ドイツ2.0
フランス68.2
マレー5.6
蘭領東印度24.5
米国39.6
ソ連25.0
蘭領ギヤナ37.7
英領ギヤナ38.2

(ドイツがフランスを占領した気持ちが分かります。)


 引用・参考文献

味の素株式会社社史 1昭和46年
味をたがやす −味の素八十年史− 平成2年
アルミニウム50年史昭和電工株式会社

 先日、影ながら敬愛する駒宮 真七郎氏が「太平洋戦争特設艦艇史」を刊行されました。私の興味が大である南氷洋の捕鯨船もその終焉をくわしく知る事が出来ました。これが一連の最後の著作だと書かれていましたが、さらに新しい本を書いていただきたいものです。




軍服の材料

2001.02.19 

 何年前か忘れたのですが、旧ドイツ軍の事が書かれた本で、軍服の材料についてチョット触れた本が有りました。その本は今も部屋のどこかに有るはずなのですが所在不明な上、本の名前も分かりません。その文章を読んだ時、この方はア〜ア〜繊維の事は、ほとんどご存知ないのだなあ〜と感じました。私の想像ではその文章は、あちらの本を翻訳したもので、話の内容は確か次のようなものでした。大戦中、さすがにドイツ陸軍も困窮して遂に、木の繊維を使って軍服を作り支給した。しかし所詮は木の繊維で作った軍服なので水に弱く、クリーニングすることが出来なかった、とかいうものでした。


 まあよほどの事が無い限り木の繊維から直接糸を作り、布を織ることは出来ません。確かにアイヌ民族のアッシ織は何かの木の繊維で作っていますし、江戸時代に和紙を縒って糸を作り「紙布」という物も作られたとは聞いていますが、量産可能な糸を作る事は出来ません。ただし、木の繊維を化学処理して作った「パルプ」をさらに化学処理して糸を作り、布を織ることは出来ます。パルプを化学処理して出来た糸を、戦前は「人絹・スフ」といい、綿花などの天然繊維を自給できなかった日本、ドイツ、イタリアはこれを大量に生産していました。だから、上記の話の主役は、木の繊維ではなく「人絹・スフ」の事なのです。水に弱いという性質(だからといってまったく洗濯できないわけではありません。)からも間違い有りません。「人絹・スフ」は戦後「レーヨン」と呼ばれるようになりますので、皆さんお聞きになった事もあるでしょう。今日は、この「人絹・スフ」について少し話してみたいと思います。

 人絹・スフの製造方法について触れたいのですが、これが簡単に説明出来ません。人絹用パルプ(製紙用のパルプに比べればはるかに純度が高い)を苛性ソーダで溶かし二硫化炭素を作用させ、硫酸浴中に紡糸口金(白金製ノズル)より圧出すると繊維ができます。戦前、人絹・スフ製品は日本の主要な輸出品となり外貨獲得におおいに貢献しました。人絹・スフ業界の戦前の様子も書くべきなのでしょうが、私の趣味に合わないので触れません。

 人絹・スフ業界は戦争が始まると、企業統合を求められ会社数は最終的に36%、生産量は人絹で24%、スフは38%になります。工場は飛行機工場などの軍需工場に転用されました。設備も3次に渡り供出させられ、第1次で29,895トンの鉄屑、第2次で51,507トンの鉄屑、第3次で6,879トンの鉄屑と鉛20,000トン、白金1.598トンを生み出しました。なおこの時供出された白金はロケット戦闘機「秋水」の燃料に用いられる過酸化水素製造の触媒として使用されました。付けたしとして、ちなみに綿スフ紡績設備で260,000トン、羊毛を使う梳毛で34,900トン、紡毛と毛織機で22,382トンの鉄材を供出させられました。  人絹・スフが水に弱かったという話で、中学校の時読んだ小説を思い出しました。それは 北 杜夫の「楡家の人々」で、中国戦線に派遣されたおじさんが人絹・スフの靴下を支給されたのですが、靴の中でだんだん薄くなり、おじさんは靴下が「溶けていく」と表現していました。
 ドイツは戦争中も人絹・スフの生産は増えていきました。これを戦後知った日本の繊維関係者は「さすがドイツだ」と誉めています。


 引用・参考文献

 ニチボー 75年史   昭和41年
 伊藤忠商事100年   昭和44年


 寺西様、ところで私の話を読んでいる人がいるのでしょうか?やっぱり話が面白くないのですかね〜




BUN様へ

2001.02.21 

 日本でのイソオクタンプラントについて紹介します。

四日市第2海軍燃料廠
第一装置  イソオクタン生成量(公称)44kl(日産)
第二装置  イソオクタン生成量(公称)72kl(日産)             
昭和19年1月試運転完了 ほとんど稼動せず


朝鮮窒素竜興工場(朝鮮)
イソオクタン生成量 20,000kl(年産)
昭和17年5月生産開始

岩国陸軍燃料廠
甲一号   イソオクタン生成量(公称)15kl(日産)
昭和17年3月完成

増設甲一号 イソオクタン生成量(公称)15kl(日産)
昭和19年5,300バーレル生産

三菱石油川崎製油所
イソオクタン装置 イソオクタン生成量(公称)95バーレル(日産)
昭和15年4月完成 生産量不明

日本石油(製造所不明)
昭和17年から月産7,800kl生産可能

合同酒精旭川工場
昭和18年4月〜昭和19年3月 1,320kl
昭和19年4月頃、日産10klに達する日も有り
公称月産250kl
 航空2号揮発油(空2揮、A2G) 航空1号揮発油(空1揮、A1G)は日本海軍燃料史 下巻 P1368に海軍燃料規定として記載されています。この規定は昭和2年5月2日に達せられ以後34回改訂されています。燃料史上の規定も昭和18年5月、7月、9月、19年3月、5月、7月に改訂されたものをまとめた物のようです。燃料史を隅から隅まで読んで見たのですが、空3、空4の記述は有りましたが、空1と空2については書いてありませんでした。

 この表はおそらく防衛研究所図書館の資料をもとに作られたと思われるのでBUN様にとっては容易に原本を捜せるのではないでしょうか。




トマトケチャップと潜水艦

2001.02.21 

 日本の潜水艦の食事に規定が有ったのを、始めて知りました。昭和6年に潜水艦航海糧食表と潜水艦航海食養価表が作られました。その後、数次の改正が行なわれ、昭和18年9月に改正された表に始めてトマトケチャップが登場します。今回は、太平洋戦争とオムライスには欠かせないトマトケチャップについて書いみたいと思います。

 トマトケチャップが、いつから海軍で使われるようになったのかは、はっきりしません。愛知トマト(後のカゴメ、以後カゴメと呼びます)のケチャップ(ビン入り)は太平洋戦争開戦時にはそのほとんどの生産が軍納品で占められていました。昭和17年秋頃には軍納品以外の製造は不可能になってしまい、昭和18年始めには海軍の監督工場に指定されます。軍納品は毎月、大湊、横須賀、大阪、呉、舞鶴、佐世保などの海軍の基地の軍需部を回って注文を貰いその注文をまとめて海軍省に行き、ケチャップの製造に必要な砂糖、塩、酢酸クエン酸、香辛料のチケットを切って貰い、横須賀と羽田(第一衣糧廠)の海軍貯蔵庫で材料を受け取ります。これらの材料は終戦まで不足したりすることはありませんでした。

 戦争がたけなわになるまで、ケチャップはビールビンに詰めていました。しかしこれは重量があるうえ、かさばり輸送効率が悪く、ビンも回収する事ができないため、カゴメに対し昭和16年、海軍軍需部より「固型ケチャップ」の開発が命ぜられました。当時は外国でも試みられていませんでした。1ビンのケチャップを濃縮して煙草の箱より少し大きいぐらいのものに固めるものでした。戦前は当然、フリーズドライ(真空凍結乾燥)などありませんでしたから、加熱濃縮しか方法はありませんでした。ケチャップ中の糖分は加熱することによりキャラメル化し焦げ臭くなってきますし、食酢(酢酸)は揮発性を持っていますから加熱すると酸味が飛んでしまいます。そこで加熱方法に工夫を加え熱風乾燥で濃縮し、酢酸の代わりにクエン酸を使用し、昭和19年始め頃から生産に入りました。

 製品はロウ紙で包んで密閉し、紙箱に入れて出荷されました。ロウ紙用のパラフィンや紙箱用の厚紙も海軍から支給されました。
 固型ケチャップは将兵には好評だったようで、戦後、カゴメの関係者の友人だった潜水艦乗りは次のように語ったそうです。

 「毎日毎日青海原ばかりながめて暮らしている海上勤務の将兵にとって、あの穏やかな赤い、さえた色は何とも温かく、そしてあの甘酸っぱい柔かな味は心にしみるようで、今も忘れられない。実際に溶かして食べるより、さいの目に切ったり、薄くスライスしたりして熱いご飯の上にのせて食べたが、非常にうまかった。あれを見ると、食欲がわいたものだ。」
 終戦により固型ケチャップの生産は打ち切られました。


 引用・参考文献

 日本海軍食生活史話  瀬間 喬  昭和60年発行
 カゴメ八十年史          昭和53年発行




鉄を作る、場外編(中国)

2001.02.26 

 ドイツが、占領下の国々の工業施設を、それなりに有効に生かし戦力に加える事が出来たのは皆さんご存知でしょう。それに対し日本は、まだ工業化の遅れた国や植民地を勢力下に加えただけで、石油製品を除けば、特段、工業製品と呼べる物は入手できませんでした。現地での工業化も各種の理由で形を成し得ませんでした。今回は、日中戦争勃発前後の中国製鉄業を振り返り、潜在能力をおおいに秘めながら、戦力と成り得なかった日本占領下の国々の工業に思いを馳せてみましょう。

 現在の中国を見ていただければ分かるとおり、中国は製鉄業に非常に向いた国です。鉄鉱石も有りますし、強粘結炭もたくさんとれます、しいていえばマンガンが足りないくらいで、工業化する意志と数年の時間さえあれば戦前に製鉄業は形を成していたかもしれません。

 日中戦争前、中国で高炉を使って稼動していた製鉄所はわずかに2ヵ所だけでした。1933年の銑鉄生産量、34,500トンが戦前の最高?であり、当時日本での160万トン、満州での50万トンの生産と比べてみてもその少なさが際立ちます。戦前は他に停止または未操業の製鉄所が6ヵ所有りました。これらの製鉄所について紹介して見たいと思います。(中国語の漢字の表記ができない場合があり、当て字になてしまうかもしれませんが、なにせこの機械とは相容れない所が有りますので勘弁してください。)


 『 製鉄業 』

   六河溝公司鉄廠 (湖北省)
 100トン溶鉱炉(アメリカ製)1基を持ち1920年より出銑を始め1933年に最高生産量29,347トンを上げ1934年半ばまで操業し以後は閉鎖した。開戦後、中国側により破壊、諸機械は奥地に運び去られる。

   保晋公司煉鉄廠 (山西省陽泉)
 20トン溶鉱炉1基を持ち、1921年に建設され、翌年から操業。1931年最高生産量5,563トン、1935年まで操業を確認。

   漢陽鉄廠    (湖北省)
 100トン溶鉱炉2基(イギリス製)250トン溶鉱炉2基(ドイツ製)2基を持ち1900年からの操業は確認。1919年最高生産量166,096トン、1922年閉鎖。開戦後、中国側により破壊、諸機械は奥地に運び去られる

   大冶鉄廠    (湖北省)
 450トン溶鉱炉2基(アメリカ製)。1922年より出銑を始め、1922年最高生産量148,424トン。1925年閉鎖。開戦後、中国側により徹底的に破壊される。

   龍エン公司石景山鉄廠  (河北省)
 200トン溶鉱炉1基、内戦の為、操業に至らず

   宏像公司鉄廠  (河南省)
 25トン溶鉱炉1基、1931年建設。開炉されなかった模様。

   和興鋼鉄廠   (上海)
 12トン溶鉱炉1基、35トン溶鉱炉1基。操業記録無し


   ◎他に詳細不明な所として

   育才鋼廠    (山西省太原)
 日産銑鉄160トン、鋼240トンの能力を目標。日中戦争勃発時には7分通り完成の模様。


 『 製鋼業 』

 製鋼設備を持っている所、和興鋼鉄廠、上海機器廠、江南造船廠、太原の育才鋼廠、其の他各地の兵工廠や機器廠、1934年で国内総生産5万トン

   日本占領下の製鉄所 (新設は除く)

 日本占領下の接収した製鉄所は3ヵ所だけ稼動。

 太原と陽泉の両製鉄所は、事変後、1938年1月24日、太原は山西第六工場として、陽泉は山西第三工場として軍より株式会社興中公司(主トシテ満支間ノ関係ヲ密接ナラシムル為。対支輸出入貿易並其ノ代理及仲介、支那ニオケル経済諸事業ノ直営、斡旋及仲介並該事業ニ対スル投資、附帯シ又ハ関連スル業務。の為、関東軍・満鉄が計画し1935年8月政府より設立許可、12月大連にて創立)に経営委託され、その後北支開発会社は昭和15年末に、大倉鉱業株式会社と共に山西製鉄鉱業所を設立した。(この2ヵ所は詳細がまったく分かりません。どなたかご存知の方がいたら、御教示ください。)

 石景山鉄廠は昭和13年4月、補修および経営は株式会社興中公司によって行なわれることになった。興中公司は日本製鉄の技術的援助のもとに工事に着手し、建設途上にあった200トン溶鉱炉およびその付帯設備の整備を急速に完成し、11月に操業を開始するにいたった。

 昭和15年11月29日に北支那開発株式会社と日本製鉄の折半出資による石景山製鉄鉱業組合に事業が引き継がれ、昭和17年には北支那製鉄株式会社が経営を行なうことになった。昭和17年12月、釜石の日産380トン溶鉱炉および日産270トンコークス炉1団の移設を決定、18年10月大谷重工業会社の600トン溶鉱炉1基、585トンコークス炉1団の移設を決定、19年1月中国側により徹底的に破壊された大冶鉄廠450トン溶鉱炉およびその付帯設備の一部を解体し、その使用可能部分の移設が決定され、同時に八幡より850トンコークス炉1団の移設が決定された。また政府の小型溶鉱炉建設の計画にともなって、昭和17年12月には、20トン溶鉱炉10基の建設が決定された。

 さらに昭和20年4月、八幡より塩基性30トン平炉2基および年間能力5万トンの中小型圧延設備の移設が決定された。最終的な計画では年産、銑鉄29万8千トン、鋼材16万トンの予定であった。しかし18年12月に380トン溶鉱炉が完成し、火入れを行ない、小型溶鉱炉も18年3月より12月までの間に11基が完成しただけで終わった。なお生産量は、設備・原料・技術その他の諸条件にわざわいされて昭和14〜15年度で年3万トン程度であった。昭和20年11月未成設備も含め全て中国側に接収された。


 引用・参考文献

 支那の鉄・石炭と東亜  昭和18年発行 朱雀書林
 日本製鉄株式会社史   昭和34年発行
 「大東亜共栄圏」の形成と崩壊  小林 英夫 御茶の水書房


 寺西様に大事な事を言うのを忘れていました。このような発表の場を与えていただき本当に感謝しております。




イソオクタンを作る

2001.02.26 

BUN >> 松島基地にイソオクタンが大量に貯蔵されているのを不信に思い、更に黴臭い紙をめくり続けてみましたが、他にも「特イソ」、「特イソオクタン」と称する航空燃料の在庫が各基地にかなり大量にあることが確認できました。

BUN >> 各基地の引渡目録の記載には共通のフォームが無く、燃料の品位を記さないものも多くあり、飛行機も、大雑把に零戦何機、としている基地もあれば一号局地戦闘機と紫電一一甲型を区別している基地もある状態ですので松島の「イソオクタン」と他の基地の「特イソ」とは恐らく同じ物ではないかと想像しています。

BUN >> また「特イソ」の存在する航空基地の特徴は、誉エンジンを始めとする新型機の基地であることからも、これらの「特イソ」はそのまま給油されたのではないかと思いますが、如何なものでしょうか。

BUN >> 私は燃料の製造過程に関しては無関心でしたので、プリンスさんに教えて頂いたイソオクタンのプラントがどのような製造法のプラントなのか見当がつきません。よろしかったら御教えください。


 私も日夜勉強しております。

 イソオクタンの製造方法には大きく分けて2種の方法があります。
 (1)アルキレーション法
 (2)重合法
 です。

 (1)アルキレーション法とはイソブテンにイソブタンを附加して直接イソオクタンを作る方法で、流動接触分解法、接触加熱分解法、プラットフォーミング法等の多くの高オクタン価揮発油製造装置の整合塔から回収される廃ガス中に含まれるイソブテンとイソブタンを分離して原料ガスとする。これは大量の石油を精製する米国でこそ出来る技術であって、日本のような規模の小さい製油所では不向きであった。

 これらの方法を取った製油所は
 ○四日市第二海軍燃料廠 日産10kl
 ○パレンバン第一製油所(元B・P・Nプラジウ製油所)日本石油委託
  日産60トン(「パレンバンの石油部隊」では1000バーレル)
 ○パレンバン第二製油所(元N・K・P・Nスンゲイゲロン製油所)三菱石油委託 日産80kl

 計画されたものは
 △徳山第三海軍燃料廠  年産15,000kl
 △バリックパパン第百二海軍燃料廠 年産15,000kl
 △鹿児島海軍燃料廠   日産24トン
 △第六海軍燃料廠(高雄) 日産30トン
 △ブルネイ        日産80kl
 △丸善石油松山製油所   日産30トン

 (2)重合法とはイソブテンを重合してイソオクテンとしこれを水素添加してイソオクタンを作る方法で、イソブテンを作る方法で2法に分かれる。

 A. アルキレーション法と同様に廃ガス中からイソブテンを分離する方法。

 B. ブタノールを脱水異性化してイソブテンを作る方法で、ブタノールを作る方法でさらに3法に分かれる。

 B1. 炭水化物(でんぷん、砂糖)を発酵させてブタノールを作る方法。
 B2. 石灰石を材料に電力を使いカーバイトを作りこれを化学反応させてアセチレンを作り合成してブタノールを作る方法。
 B3. 石油精製廃ガスを電弧分解してアセチレンを作りこれを合成してブタノールを作る方法である。

 これらの方法を取った製油所は

 (A)

 ○岩国陸軍燃料廠 甲一号   日産15kl
 ○三菱石油川崎製油所  1940年4月完成
 ○日本石油鶴見製油所  開戦直前にプラントを設置

 (B1)

 ○合同酒精旭川工場 公称月産250トンイソオクタン製造
 ○四日市第二海軍燃料廠 第一装置日産イソオクタン44kl
第二装置日産イソオクタン72kl
ブタノールはB1、B3、で製造した物、昭和19年1月試運転
 ○岩国陸軍燃料廠  ブタノール脱水異性化装置
   発酵ブタノールだけ製造した工場として
  □国営千葉酒精工場 昭和18〜19年に690トン製造
  □国営出水酒精工場 昭和19〜20年に1373トン製造
  □東亜化学興業防府工場 昭和18年に生産開始 (陸軍)
  □昭和農産加工八代工場            (海軍)
   未完成、または計画されたものは
 △第六海軍燃料廠(新竹) ブタノール発酵装置年産10,000トン
              イソオクタン   年産10,000トン

 (B2)

 朝鮮窒素竜興工場 昭和17年5月製造開始
     終戦時、年産イソオクタン20,000kl

 (B3)

 ○四日市第二海軍燃料廠 電弧分解工場、昭和19年2月一部試運転完了
             アセチレン分離工場、試運転に至らず
             ブタノール工場、昭和19年8月完成
  未完成、または計画されたものは
 △第六海軍燃料廠(新竹)電弧分解工場、終戦時30%のみ完成


 三菱石油川崎製油所でブタノールを脱水異性化するプラントが未成だった記述があるがブタノールをどのように入手する予定だったのか不明


 引用・参考文献

 アルコール専売三十年史   昭和41年発行




潤滑油加熱車と航空機熱風予熱車

2001.03.02 

 先日、HP真実一路において、まなかじ様がドイツの第5航空軍の日本軍武官による冬の視察について書かれていた中で、エンジンの加温に機械を使っているとありました。私もそうだよな〜日本じゃカバーを掛けて七輪に木炭だものと考えてしまいました。ところが先日、日本の代表的な軍需メーカーである「ダイキン工業」の社史を覗いていたら次のような文章を見つけました。


 潤滑油加熱車と航空機熱風予熱車

 飛行機の進歩はまさに日進月歩であったが、この飛行機にも泣き所があった。それは、冬期や寒冷地では出発前に時間をかけてエンジンを暖めないと、すぐに飛び立てないという点である。昭和9年2月に、海軍当局から当社に何かよい方法はないかとの相談があった。これが当社が潤滑油加熱車の研究に取り組むようになった発端である。海軍では、スパイラル式暖気缶の試作1号機を昭和8年7月に完成させており、その性能が信頼できるところからこの相談を持ちかけたものであろう。

 当社では検討の末、ガス瞬間湯沸器の方式で潤滑油を暖め、その潤滑油でエンジンを短時間に始動させる構想をまとめた。しかし、チューブはラジエターチューブのように真鍮ではなく銅を用い、その内部に螺旋状に捩った銅板を挿入することにした。この点は、暖気缶と全く同じである。海軍側もこの構想に同意し、昭和9年4月に当社に試作を内示したが、操作はすべて手動という条件になっていた。それは、使用場所が航空母艦の甲板上や陸上基地の飛行場であるため、たやすくほかから動力源が得られないという理由からであった。

 試作機は、台車上に潤滑油タンクを設け、底の燃焼室にオイルバーナーを取り付けた。燃料タンクは潤滑油タンクの外側に設け、燃料としてガソリンを使用した。バーナーの燃焼着火は、燃料タンクに装着した手動式空気ポンプで圧送する燃料に、点火栓の手動マグネットによる火花で点火する。そして、別に装着した足踏み式フイゴにより圧送する空気で燃焼を助長し、燃料予熱管を加熱して燃料の圧力を上げ、正常燃焼にはいる。適温まで上昇した潤滑油は、タンク出口の手動式ギヤポンプで飛行機のエンジンに注入するようにした。

 試作1号機は、昭和9年9月20日に組み立てを完了していたが、翌21日の室戸台風により、電気、ガス、水道が止まってしまったので、試運転は延期しなければならなかった。10月1日、海軍航空本部派遣監督官立ち会いのもとに試運転を行なったが、結果はきわめて良好であった。海軍ではさっそく採用に踏み切ったが、用途が特殊なせいもあり、1回の発注量は10台前後であった。しかし、航空母艦が作戦行動をするときには、なくてはならないものであった。航空母艦のほか、海軍の陸上基地でも使用されたが、それには簡単に着脱できる雪そりを装備した。

 この潤滑油加熱車とともに、潤滑油を暖めるだけでなく、エンジンに予熱を送り込む装置を作り上げ、これを航空機熱風予熱車と名づけた。航空機熱風予熱は、陸軍の要望により冬期に満州でテストを繰り返した結果、その性能が認められて陸軍の採用が決定した。陸・海軍ともに特命発注で、航空機熱風予熱車は5〜6年で注文が打ち切られたが、潤滑油加熱車は燃料不足に伴い、まきを燃料とした機種を昭和19年に開発するという苦労を含め、終戦時まで300台程度の生産を続けた。


 引用文献

 ダイキン工業50年史  昭和49年刊行


 空母に潤滑油加熱車を載せていたとは、まったく知りませんでした。南方海域でも必要だったのでしょうか?可燃物を徹底的に降ろした戦中でも搭載していたのでしょうか?さっぱりわかりません。




セロハン

2001.03.06 

 先日、区役所の図書館に万有百科事典を調べに言った際、本棚の一番下の隅に1冊の本が隠れていました。それは「東セロ70年史」という本で、きっとどこからか寄贈を受けたのでしょう、無関心な図書館員によりしっかり埋められていました。かわいそうに思った私が開いて見ると、なんとこれがおもしろい(いかがわしい私だけがおもしろいのであって、真っ当な皆様には興味ないですね)、これを作った人やおそらく寄贈した会社の為にもしっかり私が紹介させていただきます。

 皆様、小学生の時、工作でセロハン紙をお使いになったと思います。セロハンはどのように作られるかご存知でしょうか?前に駄文「軍服の材料」で人絹・スフの作り方をチョットだけ書きました。材料も製法もほぼ同じです、ただ酸溶液に押し出すノズルの形状が違うだけで、繊維状ではなく薄膜になるように押し出しドラムに巻き取って乾燥させます。(社史では多いのですが、戦前の自社製品の製造方法をなぜか書いていない。これを調べるのに苦労します。)


 「炊飯用セロハン筒(セロハンケーシング)」

 この筒は、折径12p、長さ42cmのセロハンケーシングで、米の入る部分と水の入る部分を印刷で区分してあり、これを兵隊が携帯し、戦場で必要に応じて米と水を入れ、熱湯の中で炊いてご飯をつくるものである。汚い熱湯の中に入れてもよいうえに、従来の飯盒の飯だと南方では一日で腐敗したが、このセロハン筒を使うと3日以上もつというので、南方戦線で大いに使用された。

 またアリューシャン列島のアッツ、キスカという北方戦線でも、炊飯用セロハン筒で炊いた飯をそのまま胴に巻きつけておくと、暖かいのでカイロの代わりになり、さらに胴に巻いていると凍らないとおおいに利用された。陸軍からの大増産命令がでて、昭和17年初めには東京、浜松両工場で勤労動員の人々を使い、1ヵ月に25万本を生産した。
 使用ビスコース(パルプを苛性ソーダに溶かし二硫化炭素を作用させた物、これを酸溶液中に押し出す)はパルプ換算で月5トンに達した。会社の業績向上に大きく寄与したうえ、見返りとして当時不足していた石炭、グリセリン、苛性ソーダなどの資材が供給された。

 このセロハンケーシングの製造技術は日新産業(株)(後の日本ポリセロ工業(株))が開発したものだが、当社はこの技術を買い取り、さらに円筒形のノズルと凝固浴循環方法を考案、ビスコースから継ぎ目なしでエンドレスチューブを製造する方式を確立(「円筒状繊維素製造装置」として特許登録)した。当社がセロハンケーシングを生産、日新産業で使用法(目盛り、1/4=米、3/4=水)を印刷、250本ずつ、両端に木綿のヒモをつけ、石油缶や木箱に詰めて軍へ納入した。18年初めには70万本に増加、この需要は終戦まで続いた。


 「防毒衣用セロハン」

 毒ガスを防ぐための防毒衣に用いられ、藤倉ゴム工業(株)と提携して製造した。PT#300(セロハンの製品名だと思われる)と絹とゴムシートを3層にラミネートしたものである。セロハン単体だとガスを透過するが、このラミネート品は毒ガスを約1時間防ぐことができた。この需要も終戦まで続いた。


 「防毒マスクのメガネ用セロハン」

 防毒マスクのメガネの曇り止め用だが高い透明度を必要とし、わずかな傷や筋も許されなかった。研究の結果ドライヤーの表面に生セロハンを巻いて、セロハンでセロハンを乾燥する方式をとったところきれいなセロハンができ、非常に高価で納入された。(国産のパルプでは品質的に材料と成らず、輸入パルプが使用された。)


 「防風面」

 黄塵万丈の中国大陸で転戦する兵隊が、塵埃を防ぐために使ったもので、厚手のセロハンを貼り合わせて作った。召集された当社社員も随分活用したという。


 「可トウ管」

 可トウ管は航空機のガソリンや潤滑油のパイプとして使用されたものでセロハンはその内張りとして使われた。アルミ針金を芯としてセロハンを円形に巻き、その上にゴム引き保護布を張ったもので、耐油性と耐熱性を持たせるためにグリセリンを20%入れて、極度に柔軟性のあるセロハンを作った。セロハンは東京セロハン紙で生産、可とう管は藤倉ゴム工業(株)と三菱電機(株)で製造した。18年頃まず陸軍関係で用いられ、19年頃からは海軍の航空機用に大量に使用された。


 「糸入りセロハン」

 セロハン平判2枚の間にタテヨコに木綿糸を入れて、コンニャク糊で貼り付け乾燥したもので、初期には袋にしてお菓子の包装用に使われていたが、戦傷の際に包帯の下に巻いたり、検便用として使用された。


 セロハン以外の軍用製品

 初の合成フィルム誕生

 軍から輸送船に麻ロープで引っ張らせて基地に運ぶ、約300トンのガソリンを入れる容器の開発要請があった。ガソリンを基地に運んだ後、空になった容器をたたんで持ち帰るようにとの条件つきであった。丈夫でガソリンに溶けず柔軟性のあるフィルムといえば、PVA(ポリビニル・アルコール、構造式で書けばもっとも分かりやすいですが、文章ではうまく説明できません。プラスチックの1種だと考えてください。当時の日本では石油化学はまだ実用化には程遠いものでしたので、当然、石炭を原料とする石炭工業化学の世界です。)

 皮膜しかないと考えた技術陣は、京都大学の桜田教授などの援助を受けて、湿式(PVAをノズルから押し出して硫安浴で凝固させ、さらにホルマリンで耐水性をもたせる方式が湿式、PVAをノズルから押し出してセロハンの乾燥機のドラムを利用して製造する方式を乾式といった。)でPVA皮膜をつくることに成功した。日本最初の合成フィルムの誕生である。PVA原料は鐘淵紡績(株)と日窒化学工業(株)(現、旭化成工業(株))から購入し、浜松工場でフィルムを生産した。それを藤倉ゴム工業(株)に納入、同社ではこの大きな容器を現在の上野の水上動物園のある場所で製作した。PVAフィルムはこのほかに、航空機のガソリンタンクの内張りに防弾用(どちらかというと油密性を高めるためだ思うのですが)として使用された。その場合のフィルムも浜松工場で乾式で製造した。


 引用文献

 東セロ70年史  東セロ株式会社  平成12年9月発行


 PVA(ポリビニル・アルコール)補足

 鐘紡の社史にPVAについて書いてあるので、簡単に抜粋します。昭和14年頃、ポリビニル・アルコールを原料とする合成繊維を完成した。これを「カネビヤン」と商標登録した。淀川工場に昭和16年末、日産0.5トンのカネビヤン工場を完成させた。時局の進展につれて軍需の研究を進め、昭和18年にカネビヤンの防寒シャツ、靴下、手袋各800着が満州駐留軍に配給され、性能がテストされて好評を得た。また、カネビヤンからフィルムを考案し生産した。

 このカネビヤンフィルムが耐油性である特徴を利用して、飛行機の燃料タンクの内張りに用いて耐ガソリン性防弾タンクを完成した。さらに、飛行機燃料運搬用木造船の内部をこのフィルムで内張りし、燃料運搬にも役立った。なお、当然お読みになっていらっしゃると思いますが、柳田 邦夫氏の「零戦燃ゆ」(文春文庫では第六巻)に「手製防弾タンク」として製造の様子が詳しく書かれております。

 昨日、「戦前船舶No.18」が送られてきました。相変わらず内容の濃い事田舎者はただただ唖然として眺めております。




鉄を作る、特別編

2001.03.13 

 今回は、溶鉱炉を使わない製鉄法について書きます。誤字の目立つ「ニッケルと太平洋戦争」と、いずれ取り上げる予定の「鉄製薬莢」に関係するものです。これらの、製鉄法で作られた鉄はほとんど統計上には加えられていないようですが、数量的にはなかなか馬鹿にできない数字をあげています。私も理解できないところは多々有りますが。とりあえず紹介します。


 1. 特殊平炉法

 本法は阪大教授松川博士の考案した方法で、製鋼用平炉内に両側より中央に向かって傾斜面を造り、この上に粉鉄鉱約50%の還元用無煙炭粉及び30%の石灰石粉の混和物を静置し、発生炉ガスの燃焼による高温度で加熱し、還元と溶解を行なわしめて熔けた粗鋼を得る方法である。含ニッケル・クロム鋼は長野県宮川鉱山、ニューカレドニア、ヤップ島及びセレベス島産を用い、宮川及びヤップ島の鉱石は松川博士によって始めて製鉄せられたものである。

 かくして得られた粗鋼を電気炉で製錬し脱硫及び珪素、マンガン等の量を加減するとニッケル・クロム規格鋼が得られる。宮川鉱石による粗鋼を製錬して次の成分の規格鋼を得た。

 炭素0.34%、珪素0.29%、マンガン0.79%、燐0.03%、硫黄0.025%、ニッケル2.16%、クロム1.47%

 本鋼材を鍛造し、更に熱処理を行うと抗張力90.5〜100.5トン、延伸率17〜21%、衝撃値10.1〜14.6トン毎平方糎、硬度302〜269なる極めて優秀なる機械的性質を示した。


 2. 開放型電気炉法

 現在(昭和18年)数工場において宮川鉱石を開放型電気炉で処理し、含ニッケル・クロム低燐銑を造っている。低燐銑分析の1例を示すと

 ニッケル2.23%、炭素3.12%、珪素2.25%、マンガン0.1%、燐0.019%、硫黄0.006%

 この低燐銑は特殊鋼の原料として使用せられている。


 3. 回転炉製鉄法

 これまでわが国ではクルップ法とバッセー・クルップ中間法の2種が行われ、前者は七尾セメント工場において大江山鉱石の処理に、後者は理研平井工場においてニューカレドニア鉱石の製鉄に使用せられた。得られた粒鉄の成分は次の通りである。

使用鉱石 炭素 珪素 マンガン 硫黄 ニッケル クロム
大江山 0.88% 0.01% 0.07% 0.078% 0.080% 2.30% 1.40%
ニューカレドニア 0.95% 0.61% 0.023% 0.132% 1.30% 2.20%

 粒鉄は再溶解と精錬が行われ、ニッケル・クロム鋼が製造された。
 ドイツ、ケランケンスタインに産出するニッケル1%、鉄10〜12%、クロム0.3%程度の粘土鉄鉱(蛇紋岩の風化せるもの)を利用する精錬はクルップ社により長さ50mのレン炉を以って行われ、その製品ルッペはニッケル7〜10%、クロム1.5%、コバルト0.2〜0.3%程度で、粒状「スポンジ」の外観を呈する。

 クルップ・レン法は回転管状炉に鉄鉱石及び還元剤を加えて装入し、600度〜900度において海綿鉄となし、次に粒鉄形成層において酸素例えば空気または酸素を発生する鉱石等を添加して、還元鉄を一部を酸化せしめ、急激に約1400度までの高温となし、また非燃焼鉄部分を熔接合体せしめて錬鉄塊となし、炉より排出後破砕して例えば磁力選別により錬鉄粒を分別するのである。

「南方技術要覧」昭和19年より

 クルップ・レン法を導入した理由は上記の特殊鋼の材料を作るのが第一の目的ではありません。それはあくまでも国内での資源活用が大きな目的でした。

 日本本土内には、良質な鉄鉱石がほとんどなく、強粘結炭(コークスにすると強度が有る、一般炭で作ったコークスでは溶鉱炉の中で潰れてしまい使い物にならない)もあまり取れません。国内に豊富にある砂鉄はチタンを含むため溶鉱炉では使いづらいですが、クルップ・レン法ではあまり問題がありません。

 また、鉄を還元する炭素源としてクルップ・レン法では強度はあまり関係有りませんから、国内の一般炭や朝鮮で大量に産出する無煙炭を使うことができます。というような国内事情からこの製鉄法のライセンスを取得する事になったのです。今回はクルップ・レン法を実際に行った2つ製鉄所について紹介します。


 清津製錬所(三菱鉱業、昭和製鋼所共同)

 清津は朝鮮半島の付け根にあります。ここには日本製鉄の清津製鉄所もありました。ここから100km程離れた茂山鉄鉱山(三菱鉱業の鉱山で戦中、年産100万トンの生産実績をあげています。)からの鉄鉱石と朝鮮平安南道、平安北道の硫黄分の少ない無煙炭を使用し製錬が行われました。昭和12年に設計が行われ、翌13年から建設が開始しました。
 第1期工事として4基のレンロータリーキルンが作られ、第1号炉は昭和14年5月4日、第2号炉は7月28日、第4号炉は10月21日、第3号炉は11月24日それぞれ火入れを行い操業が開始されました。第2期工事の第6号炉は昭和18年10月、第5号炉は同年12月に火入れを行ないました。操業当初は年産約3万トン程度でありましたが、その後生産量は逐年増加し、最盛期の昭和17年度には56,120トンに上がりました。以後20年の終戦まで年産5万トン前後の水準を維持しました。

 なお、昭和18年秋以降エルー式7トン電気炉2基によりルッペ(粒鉄、70%)および屑鋼(30%)を製鋼材料として炭素鋼を製造しました。そして昭和20年8月の終戦と共に操業は停止されました。


 久慈製鉄所(川崎造船所)

 岩手県久慈地方では古くから砂鉄製錬(たたら)が行われていました。川崎造船所においては、商工省のすすめもあり、鉄源確保と資源開発という国家的使命に対応するため、昭和12年5月製板工場砂鉄処理法研究部を設置し、同地方の砂鉄製錬に進出することとし、鉱区の調査を行い、十分な砂鉄埋蔵量があることを確認しました。

 製錬技術についてはクルップ・レン法に着目し、ドイツにおいて久慈地方の砂鉄で試験製錬を行ったところ、好成績が得られたため、昭和14年8月18日に岩手県九戸郡久慈町に製板工場久慈製鉄所を開設しました。
 昭和16年には大型ロータリー・キルン2基が完成し、本格操業にはいり、昭和18年には小型キルン2基を完成、これに伴って生産量も増加し、昭和19年には24,620トンに達しました。
 久慈製鉄所で生産したルッペは製板、製鋼工場などで航空機用特殊鋼鈑、薬莢用鋼鈑地金、その他の特殊鋼に使用され好成績をあげました。


 引用・参考文献

 三菱鉱業社史    昭和51年発行
 川崎製鉄二十五年史 昭和51年発行


 通りすがりの方へ・・・・ロングバケーション

 現在、北海道は空前の不況下にあります。その影響は私の身にもおよび、今月末より1ヶ月程、花の東京へ出稼ぎに行く事とあいなりました。よって、現在、掲示板上で行われている、写本と暗号解読とお互いに歩み寄りをみせないこの機械との葛藤の日々は、当分お休みとなります。とりあえずはまた帰ってこようとは思っています。なお、あともう1〜2回はどうでもいい話が書けそうです。

 ところで、田舎者がせっかく東京に行くのですから、はとバスとお台場とディズニーランドとあと皆様がよくお参りにいらっしゃっている防衛研究所図書館へ行こうと思っているのですが、行った事がないので手続きの仕方がよく分かりません。私のような氏素性の怪しい者を入れていただけるのでしょうか?また身分証明のため、印鑑や免許証はいるのでしょうか?教えてください。




筏を作る、北方編

2001.03.22 

 今回は、技術史とはちょっと外れた話を書きます。(寺西様ごめんなさい)  筏を作るといっても別に「十五少女漂流記」(親子3人でたのしく拝見しております)の筏の製造法を解説するつもりはありません。戦時中、木材運搬用の船舶が用船されないため、大型の海洋筏を作り、タグボートでひっぱり、北海道や樺太の木材を樺太内、道内、内地に輸送した話をするだけです。(私の目の届くテリトリーだけしか分かりませんが、おそらく九州や四国でもこれに類する話が有るのではないでしょうか?)

 海洋筏は昭和17年2月から陸軍経理局建築課が研究と実験にとりかかって第1回は7月中旬に留萌と秋田県土崎間300浬で行われ、第2回も同じコースで実施されいずれも成功しました。釧路でも陸軍需品廠の用命で(株)三ッ輪運輸が筏を作成し、第3回として釧路と八戸間で行われました。6000石の筏は強力な曳船に引かれて途中で室蘭港に寄港し、(株)栗林商会の協力で筏の弛みを手直しの上相当の苦しい経験をしながら300浬の太平洋を無事のり切りました。第4回は留萌と東京間の1000浬に成功し、当局はこれで試験を打ち切って詳細な検討を加えた上、翌18年から本格的に輸送を開始しました。

 室蘭でも(株)栗林商会が昭和17年11月頃、陸軍需品廠からも海洋筏輸送の問い合わせがあり、研究の結果、陸軍の軍用船として「和平丸」「金剛丸」(朝鮮総督府所有)「金剛丸」(日本郵船)の3隻を回航して室蘭から本州への曳航にあたりました。第1回は昭和18年3月筏を組み始め、4月中旬まで1万3000石を船型に編み上げて、同18日出港の上無事釜石に入港しました。

 第1号の成功で第2、第3と続けるうちに、「筏に石炭を積めないか?」との案まで飛び出し、試みに第4号の筏にカマス入りの石炭200トンを積んだところこれも成功しました。こうして筏は次第に大型になり、1万6000石級は普通化するまでに技術も上達しました。
 同時に石炭の量も300トンに増えるようになり、需品廠はさらに上積み量を増やすように命令しました。そこで、筏の中心付近を船のハッチ状のくぼみを作り、石炭積み込み機の下で大型汽船と同じように石炭をバラ積みする方法を考案しました。道産のエゾ松、トド松を主体に筏を組み1300トンの石炭を積み込みましたが沈没の危険はありませんでした。この成功で、木材ばかりか石炭輸送と一石二鳥の効果をあげましたが、バラ積みは1回だけに終わり、カマス入りの輸送が続けられました。筏の曳航先は、塩釜、大船渡といった北海道に近い港を対象にしていましたが、その後、2万5000石の大型筏を計画、19年の夏、東京芝浦岸壁に無事到着しました。陸軍の筏は終戦まで41枚、この木材の総量は60万石を越えていました。

 海軍では、19年釧路港で筏を3枚作り大湊まで輸送しました。室蘭でも3万石の大型筏を作り、終戦までに5枚を大湊に輸送しました。
 樺太は北洋材の一大産地でした。昭和19年度には海軍は120万石、陸軍は100万石の製材供出を要請してきました。それに対し実績は海軍34万4800石、陸軍は20万2400石にとどまりました。しかし、このように生産した木材も輸送事情の悪化に伴い、本州、千島などへ積み出す事ができず野積みのまま風雪にさらされていました。19年末その量は陸軍用材54万9000石、海軍用材74万5000石にのぼりました。

 陸軍はやむなく筏輸送を強行し、筏は珍内、大泊、敷香、泊岸、幌岸から合計39組(23万7000石)が編成されて北海道に向かいましたが、12組が破損流失し、到着したのは27組(16万1000石)に終わりました。樺太の海洋筏は昭和11年頃から使われていました。葉巻煙草の形をした結束筏で、樺太では重積筏と呼ばれており、このような海洋筏の経験は豊富だったのですが、当時はワイヤーロープなどの資材が不足で宗谷海峡の荒波にもまれて破損流失が相次ぐ結果となりました。海軍用材は南方むけでしたので輸送されることなく、陣地構築などに転用されました。

 樺太北部で伐採された官行材で海洋筏輸送に適し、造船用材としても見込みのある長さ15〜30尺の特殊材は19年度には毛売〜栄浜間で5万石、珍内〜真岡間で5万石を筏輸送しました。民間でも筏に着目し、5月〜9月にかけての海の穏やかなときを選んで、珍内から2000石を筏に組み、月3回ずつ計15回に3万石を227マイル南の北海道留萌港に向けて出しており、多来加から410マイル離れた留萌まで2000石の筏を10編成し、月2回、計2万石を輸送しました。


 引用・参考文献

 三ッ輪運輸55年史       昭和61年
 栗林75年           昭和45年
 樺太終戦史 樺太終戦史刊行会 昭和48年


 幻の一冊

 今から18年ぐらい前、私が大阪の高石市に住んでいた頃、大阪の某所で「日本の海軍」という雑誌が発行されていました。なぜか私も会員になり会費を収めていたのですが、No.7を最後に送られてこなくなりました。No.8が発行された形跡もあるのですが、私の元には届きませんでした。No.8は実際には発行されたのでしょうか?古書目録などを注意して見てはいるのですが存在を確認してはいません。

 追伸

 もしかお互いの都合がつけば、寺西様とは東京でお会いしたいものです。




本日、帰艦しました。

2001.02.16 

 皆様、お元気でしょうか?私は非常にお疲れです。そこで帰艦第一報は東京出稼ぎ報告を書きます。志郎様、貴重な情報ありがとうございました。残念ながら戦費不足の為、まったく対応できません。戦力回復後の情報をお待ちしております。ところで東京では名だたる方々とお会いでき、とても意味深いものがありました。

 寺西様には「どんどん書いてくださいよ。」などと訳のわからない事を言われはぐらかされ、横○○氏には「何を質問してよいのかわからない」と言われ、キャット氏には「物の言い方がなっていない」と注意され、日本一の大砲の権威、○本氏には「漢字の読み方も知らない」と一面識もないのに怒られ、B氏には「筏を作るはいただけない」と切って捨てられ、本当に東京は恐ろしい所だと痛感させられました。また、図書館でも、第一の目的だった戦時中の外地での連合国側の船舶のサルベージの記録にもまったく出会わず、田舎者にはなかなかガードの固い土地でした。

 しかし、東京での日々を歯をくいしばって耐えた結果、私にとっては貴重な情報を得る事ができました、鬼教官○本氏より防研の資料の調べ方を御教示いただき、見た事もない一時資料を直接目にする事ができました。また、図書館でも、未見の企業社史を数多く見る事ができ、掲示板のネタを収穫できました。古本も、神田ではピンと来るものがなかったのですが、横浜でちょっと引っかかる物をみつけました。(ただしこれはまた神奈川県に戻る予定です。)と言う事で私の出稼ぎは終了しました。

 オデンドウフ様、ドイツの石炭液化の断片的な資料を今回入手することが出来ましたしかしそのコピーはおそらく今、津軽海峡あたりを一路北上していると思われます。今月中には出典をお知らせできると思います。
 なお業務多忙の為、どうでもいい話はまだ当分再開できそうにありません。




オデンドウフ様へ

2001.04.27 

 宅急便が来たので、取り敢えずお知らせします。「現代ドイツ化学企業史」MINERVA人文・社会科学叢書 工藤 章 著 1999.4.15発行の中に人造石油についての記載がありました。引用した本の詳細がよく分からないのですが、戦後、米軍が調査したPBレポートが元になっていると思われます。

 東京のお酒のお好きな方々の話によりますと国会図書館の中にも基になったレポートがあるはずだとのことです。ところで内容の方なんですが、ロイナ工場(ドイツで最大の人造石油工場)年度別の製品別内訳が圧巻です。なんと1944年にはJ2燃料の記載があります。さすがMe262を飛ばしていた国わが大日本帝国とはチョット違います。さらに1943年には人造石油の生産高が370万トン、石炭10トンから人造石油1トンの生産効率を考えると石炭3700万トンを石油に振り向けていたことがわかります。当時の日本全体の石炭生産高が5000万トン程度しかないことを考えるとドイツのすごさを感じます。




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