渡邊福雄氏と九州飛行機
敗戦によって 多くのメーカが変化し九州飛行機も消滅しましたが名前を変えて残っています
ここで渡邊福雄氏が 九州飛行機・九州兵器を作るまでにいたった 歴史を紹介していきたいと思います。
生い立ち
父親の名は藤城善七、彼は宮島善七として博多網場町で丁稚奉公していたとき、 見込まれて (屋号=「紙藤」金物店)の後継者として、藤城久吉の妹を娶り養子、 藤城善七となりました。渡邊鉄工所長男は市次郎、姉が2人でサクとカツ、福雄は次男、3男が芳輔
子供の時の名は藤城福雄
8歳のとき母が亡くなり、父の再婚で弟の善次が生まれ8人家族になり 生活費が増えたのと 、父の金融業、米穀の仲買、鉱区売買仲介の失敗が重なり 借金で家は抵当に入り家財道具は質に流れ苦しくなり、 小学校が終わると生活費にあてるため野菜売りをして歩いたのです。
卒業せず、九州鐵道株式會社に給仕として門司で働くが 兄の市次郎が機関手として稼げる ことになり生活ができるようになったので辞めて博多に戻りました。
商人になるために伯父の店「紙藤」で丁稚を希望するが 伯父の副業である渡邉鐵工所で 働く事になりました。そこで21歳の年期明けまで働いたのです。
わずかな賃金を貯め、父の死の直前に借金返しに行くと債権者は感激して利子を免除して くれたのです。
働きながら勉強したいと思い「工業雑誌」に手紙を書くと それが雑誌に載り、 石川島造船所の斎藤平太郎氏から採用したいと連絡があり、東京に行ける事になったのです。
縁もゆかりもない青年を見所がありそうと言うだけで 斎藤氏は自宅の1室を与え食費も 取らないで工場と工手学校の世話をしたのです。
生活苦の為 小学校中退なので最初は学問では苦労したようですが卒業は2番の優秀な成績で 卒業することができ、石川島造船所での仕事も昇進し、敷地内に設けられた陸軍砲弾工場 の50人余の指揮を担当したのです。
福岡では副業の渡邉鐵工所と本業の「紙藤」金物店が負債を背負って苦しんでいました。
親戚が集まり、本店を渡邉愛次郎に任せ、彼の妹の「はる」と福雄と結婚させ、渡邉鐵工所 をと、両者によって再興したいと決議していたのです。そこから渡邉福雄と名乗り、渡邉鉄工所の負債を返すため動き始めたのです。
子宝にも恵まれ、上から 久吉、善三郎、藤四郎、鐵次郎、福太郎、愛子、六郎の7人
日露戦争が始まり、陸軍砲兵工廠から輜重車を急いで作るように注文があり、石川島造船所での 陸軍納品の経験が役に立ち順調に発展し、負債の返済ができたのです。
戦争が終わると不景気なり、利益があまりでない仕事しかなく、県外まで仕事を求めて 四苦八苦で運営していると 第一次大戦が始まり好景気になり また発展したのです。
戦争が終わるとまた不景気が来ることが経験でわかったので 安定した仕事を求め 専門業である兵器の生産を思ったのです。当時海軍の仕事は特殊な設備が必要で 儲からないので敬遠されがちでしたが工作機械を導入して 水雷の仕事を始めました。
続いて魚雷発射管も作るようになり 大正10年に海軍指定工場になったのです。
飛行機の製作を始める
兵器の主力は飛行機に移ると考え、準備として飛行機の車輪の試作を陸軍に預けたら、 注文が来るようになり、海軍からも来るようになったのです。昭和13年12月から昭和16年11月まで福岡商工会議所の会頭となり、それ以後 昭和35年まで福岡商工会議所の顧問として福岡の商工の発展にご尽力されたようです。昭和になると飛行機の製作を海軍に何度も申請し、 現在の自衛隊春日駐屯所になっている広い敷地を飛行機製作工場の準備で確保して いたことで、昭和4年に許可が下りたのです。
飛行機が主力兵器になり日本各地で製造が始まることを予測し、九州では自分が 作ることを、最初に製作した複葉の練習機の初飛行の感激ともに語っています。
「渡邊福雄傳」著者 狭間祐行 発行昭和19年7月15日 発行所 褐嚼ン社