戦争が飛行機の時代に変わり 制空権を有するところのみが勝利するとこが だれにでも 分かる頃になると 飛行機工場はいくら増産をしても足らない状態が続きます。 九州飛行機も雑餉隈の本社だけでは足らなくなり 昭和17年香椎に飛行機製造工場ができました。ここでは主に 陸上哨戒機「東海」Q3W の製造をしていました。 この写真からも分かるように香椎川から名島まで3号線の海側すべてが工場用地です。 工場の配置明細は下記の写真を参照ください。 飛行機の製作には多くの工員が必要ですが ほとんど兵士として徴用され 代わりに 中学生、女学生がラインを担当し製造をしたのです。 幸いにも近くの空き地(今のダイエー香椎店の裏)に爆弾が二発落ちただけで 戦争の間 工場は爆撃に会うことがなかったのです。 ですから香椎工場では空襲での死傷者はありません。 当時の中学生だった方から爆弾の破片をもらったので記念に保存しています。
しかし 戦局が逼迫してくると何時 爆撃にあっても不思議なことはなく、日本の都市のほとんどが
米軍の空襲で被害を受けていました。そこで 工作機械の疎開が始まり香椎宮に続く勅使道の右側 丘に横穴を掘ってそこで飛行機の部品が作れるように移動を始めたところで 戦争が終わったのです。
今でも横穴の跡が一部に残っています。
西戸崎飛行場に浮舟で運び そこで試験飛行をしてから各地に空輸することになります。 「スベリ」と呼ばれるコンクリートの斜路は水上偵察機(零式3座水偵)を海に下ろす為のものです。
雑餉隈の九州飛行機本社で約1000機製造した零式3座水偵はここに運ばれて 検査、試運転をしてから各地に飛び立ったのです。
戦後は香椎自動車工場と社名を変え、他の飛行機メーカーが変わったように バスの車体を作り
始めました。 |