二式三十粍固定機銃一型
直線上に配置
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2002.3.9 New !
1.概要
1)昭和17年3月末、B17等の大型機撃墜用として特大口径機銃の必要が叫ばれ海軍側にて鋭意研究中であったが、これに先行して大日本兵器製作所の研究所に於いて独自にエリコン型式の30ミリ機銃の国産化を図ったものである。
2)海軍の計画要求値と性能が異なっていたため、本格的には採用されずに終わった。
ア)計画要求性能決定前に設計・試作が着手され、要求性能決定後の変更は不可能であった。
イ)エリコン型式として成立する為には、初速、弾丸重量に制限があった。計画要求 初速750メートル/秒、弾丸重量350グラム、に対し本銃は、710メートル/秒、260グラムであった。
ウ)一旦将来の空中戦戦闘距離は500mと予想され、比較的低初速,軽弾量であった。
3)昭和17年12月8日初弾発射、以後実験は比較的順調に推移し、昭和18年5月空中実験も成功裏に終了した。
4)昭和18年7月特大口径機銃の威力試験の意味も兼ねて、「ラポール基地」に5機進出、実用実験を実施したが、敵攻撃により地上で炎上するなどして、三機焼失、作戦に参加したのは僅かに2機、内1機は自爆し、1機のみ帰還、敵戦闘機は一撃で空中に飛散したと言う。

2.使用状況
制式兵器としては遂に採用されなかったが、増加試作銃50丁は雷電に装備されて、敵大型機迎撃に活躍したという記録も有る。
1)交戦距離過小と携行弾数過小で要求性能を満足せず、五式三十ミリ機銃の出現により生産中止となった。
2)この銃は部品折損が皆無で、機能良好であった。
3)45発入り弾倉は、九九式二十ミリ機銃百発入り弾倉と外形が殆ど等しく、雷電や零戦等に非常に簡単な改造で搭載できた。
上記のような利点があったにも関わらず、海軍は自らがイニシアチブを取った、五式三十粍固定機銃にこだわり遂に実戦に間に合わなかった。もう少しこの機銃に力を入れていたらB29との戦いも少し違った物になっていたかも知れない。
3.その他
1)エアワールド社刊 日本海軍機写真集 1987の雷電の写真に30ミリ機銃を装備した雷電33型の写真があるが、2式か5式かが判明していない。
2)昭和20年5月29日に302空からB29とP51の戦爆連合に飛び立った3機の雷電の内の1機は、黒田昭二二飛曹操縦の雷電11型に二式30ミリ機銃を搭載した改造機であった。B29を迎撃すべく厚木基地から横須賀方面に飛行中、P51と遭遇戦となり、敵に照準を合わせ射撃しようとした所、故障で弾が出ない。離脱しようとした瞬間、攻撃を受けて大きな音を聞いたとたん操縦席が火の海となり落下傘で脱出、機は失われた。第7空軍のトップエース(12機撃墜)のロバート・W・ムーア大尉に撃墜されたらしい首都防空302空(下)渡辺洋二 300ページ)
3)302空の銀河にも30ミリ機銃装備機(湯徳孝上飛曹機)があった。(首都防空302空(下)渡辺洋二 300ページ)
4)この銃はエリコン社のMk103もしくはMk108の30ミリ機銃をコピーしたものと思っていたが、下記の表のようにどちら銃も特徴が一致せず、またどちらの銃も戦時中ドイツから入手できなかったことが判明し(防衛庁戦史室所蔵6−全般32「日独伊三国同盟が帝国海軍航空軍備に及ぼした影響に就いて」昭和21年10月第二復員局資料整理部)、独力で設計したものらしい。
型式  全長 重量 発射速度      初速    弾丸重量
        (mm) (kg) (発/分)     (m/秒)  
5式    2090   70    500          750        350
2式  2086   50.9  410           710        265
103 2335  145    380または420  860又は940
108 1051   58    600           520
4.参考文献

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