九九式二十粍二号固定機銃四型
直線上に配置
直線上に配置
2002.3.16 New !
1.概 要
弾倉式の九九式二号二型の弾倉容量を六十発から百発に向上させる実験がたけなわの昭和十六年十月、その先を見据えた研究がスタートしました。すなわちベルト給弾の四型の研究です。
ベルト給弾の方法としては三種類が検討されました。
1)機銃の前進・後退運動を利用してスプロケットホイールを回し、弾帯を送り込む方法(イギリスのイスパノスイザ二十粍機銃が採用)でしたが、計画のみで試作されずに終わりました。
2)小型電動機を使う方法、芝浦電気と海軍航空技術廠の協力で進められ、室内実験も終了しましたが、重量容積過大で研究は打切られました。
3)左右の退却板を利用して、カムを設けてベルト給弾する方法、この方法は日本特殊鋼の河村博士が考案した方法で、結局この方法が採用されました。百発弾倉が本格量産を開始した(十七年七月)直後の十七年九月試作機が完成し、同年十二月には地上試験が終了、空中射撃試験が開始される頃には試験中にもかかわらず次々と新型機への搭載が決定し、背水の陣となりました。
苦心惨憺の末、二号銃からベルト給弾式の四号機銃の量産が開始され、一号四型が次に遅れて量産されました。豊川海軍工廠で二号四型の量産が開始されると試作図面訂正の量産図面への反映忘れや図面の誤記等で大混乱となったが、何とか乗り切っています。二号銃よりも後から一号銃のベルト給弾化が進められたが、大日本兵器幸田工場の一号四型も量産開始前後の混乱状況は大同小異であったと言われています。
九九式二十粍二号固定機銃四型は、大戦末期の日本海軍の戦闘機の主力機銃であった。また動力銃座の旋回機銃に使われていたのもこの機銃です。

2.使用状況
零戦、紫電、紫電改、雷電等に搭載され、大戦末期の日本海軍の主力機銃であった。
また二式大艇、一式陸攻の動力銃座の旋回機銃としても、九九式二十粍二号固定機銃三型に引き続いて使われました。
連山の動力銃座の旋回機銃としてもベルト給弾タイプが使われる予定でしたが、連山の場合は四型の発射速度増大装置付、もしくは五型になった可能性もあります。
3.その他
1)さらに終戦間近には発射速度が低いことが問題とされ、退却長を制限し強力な緩衝発條で尾栓の復帰を早めた発射速度増大装置が開発されました。発射速度は二号四型の五百500発/分から六百二十発/分となり、十九年八月には約二十機が整備され、硫黄島迎撃、サイパン島攻撃等で実用実験に供されたと伝わっていますが、参考文献2)にしか記載されていず、確認が取れないでいます。
また反動力は従来の1.0トンから1.5トンに増加し、機体側の支基に損傷を生じたとの記載もあります。次ページに四型の発射速度増大装置付もしくは五型の写真を掲載しています。
2)飛行長主管兵器説明資料に「待機中と言えども飛行機に装備し置き離陸後装填し得る。」とあります。弾倉タイプの機銃は離陸後装填できなかった事になります。
3)現存する4型
現在九九式二十粍二号固定機銃四型は、少なくとも4丁がアメリカのオハイオ州ライトパターソン基地にあり、日本国内では鹿屋基地史料館の零戦に2丁(1丁は外して展示中)、呉海事博物館の零戦に二丁、四国松山の紫電改に4丁が装備されているはずです。

4.参考文献
1)飛行長主管兵器説明資料 海軍航空本部 昭和19年3月
2)兵器、研究経過概要表(戦史−航空射撃兵器)

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左右の写真供、上段三式十三粍固定機銃、下段九九式二十粍二号固定機銃四型