四式中戦車の終戦時の七糎半(長)戦車砲を搭載した最後の姿は有名だが、五糎七戦車砲を搭載した1号車については殆ど知られていない。この四式中戦車の前身の五糎七戦車砲の時代を地道に調べることにする。根拠にしたのは、このページ末に示す参考文献である。参考文献の1−10は最近発見されたものである。
1.五十七粍戦車砲は「日本の大砲」によれば、最初は駆逐戦車用の戦車砲として昭和16年3月31日、「陸技本秘乙第296号」研究命令により研究開始され、甲と乙の2種類あったとされている。
甲は砲塔式で当時開発中であった一式砲戦車の九九式七糎半戦車砲と砲身を交換可能なように考慮されており、砲身は単肉自緊、閉鎖機は水平鎖栓式で自動開閉式であったと言う。
乙は一式7糎半自走砲の揺架以下を利用して、砲身を交換搭載する自走式として計画され、砲身は甲と同様単肉自緊だが、閉鎖機は鎖栓式であったという。初速は甲が800メートル、乙が900メートル以上で乙の方が威力が大きかった。
昭和18年4月に完成した試製五十七粍戦車砲は、この駆逐戦車用と思われるが甲、乙どちらの砲なのか?もしくは甲乙どちらにも属さない砲なのか記録から読みとれないのが残念である。
2.昭和17年7月31日の兵器(除く航空)研究方針(准決定案)には下記の戦車と戦車砲を研究する事になり、昭和16年の駆逐戦車と駆逐戦車用の五十七粍戦車砲は無くなっていた。
戦車 中戦車 重量約20トン、最大時速40km、最厚部約50粍にして四十七粍砲を装載し、戦闘動作容易、大量生産に便なるーーー
戦車砲 中戦車用として口径四十七粍にして、対戦車砲と同一弾薬を用いるもの
3.所が昭和17年9月14日に決定した兵器(除く航空兵器)研究方針によれば、
戦車 中戦車 重量約20トン、最大時速40km、最厚部約50粍にして五十七粍砲を装載し、戦闘動作容易、大量生産に便なるーーーと
戦車砲 中戦車用として口径五十七粍にして、対戦車砲と同一弾薬を用いるもの
とされ、中戦車用の戦車砲は准決定案の四十七粍から五十七粍戦車砲に改訂された。
4.昭和17年の研究方針の改訂により、3種の戦車の開発が開始される。
新中戦車(甲) 四十七粍戦車砲 後のチト車
新中戦車(乙) 五十七粍戦車砲(固定砲塔用) 後のチリ車
新中戦車(丙)
5.昭和18年4月、項目1で紹介した試製五十七粍戦車砲が竣工する。4月20日から24日の間、竣工試験が行われ、1)初速は試製五十七粍対戦車砲の射撃結果から推定される初速と大きく違い、次回の試験で初速の確実な測定を必要する。2)薬莢抽出と手動発火の機能不具合及び高低用転把が重いのは仕上加工不良によるもので、再調整を要する。3)各種機能は概ね良好なので、速やかに次ぎのステップである弾道性を実施し、弾道性および砲身命数について検討する必要がある。と判定されている。
6.そして、昭和18年7月に一技研修正研究計画(資料12)によリ、新たな新中戦車(甲)用として五十七粍戦車砲が研究される事になる。研究終了予定は昭和20年3月であった。この戦車砲は昭和19年3月に竣工し、昭和19年5月にチト車に搭載して射撃試験が行われた事が判明した。この砲は「試製五糎七戦車砲○新」と呼ばれた。駆逐戦車用の五十七粍戦車砲と区別するためと思われる。
6.この「試製五糎七戦車砲○新」は、威力不足で採用されなかったという情報の他は全く知られていなかったが、参考文献7−10によって、試験が実際に行われたことは分かった。しかし試験結果と判定内容はついに見つからなかった。試験成績自体は現存していないのかも知れない。
そして五糎七戦車砲○新の不振により、チリ車用に開発中の試製七糎半戦車砲(長)が改造されて、チト車に搭載される事になったとされている。
7.「日本の戦車と装甲車両」によれば、昭和19年7月の兵器行政本部第一部研究計画修正事項「◎戦争37」により、チト車にも75粍戦車砲を搭載する事になった。
7.私が直接見た書類の中で、チト車に七糎半戦車砲が搭載されることが一番速く出てくるのは、昭和19年8月30日の「試製七糎半戦車砲(長)修正機能試験後の協定事項(於大造)」で、その協定の2項目目に、以下のような文章がある。
事後本砲は次の如く名称区分す。
1)試製七糎半戦車砲T型(チリ車用) 現在試製中のもの(装弾機を有す。)
2)試製七糎半戦車砲U型(チト車用) 現在試製中のものより装弾機を除き、俯仰体の平衡を取るため新たに平 衡錘を付す。
8.その後「試製七糎半戦車砲(長)修正機能試験要報/昭和19年9月1日」の項目2に、
チト車用平衡錘による高低照準機能は良好にして、チト車用火砲としては概ね実用に供し得るものと認む。と認定された。
9.「日本の戦車と装甲車両」によれば、チト車は昭和20年2月に竣工し、2月26日から各種試験が行われ、チト車搭載砲の射撃試験は3月9日から富士裾野の滝河原南射場で行われた。とされている。試製七糎半戦車砲(長)の研究原簿によればこの試験は昭和20年2月9日に行われたとされているが、どうやら研究原簿の日付の記載ミスで3月9日が正しいらしい。
10.続いて昭和20年3月17日から19日の間に機能弾道性試験が行われる。この試験の結果は良好で、七糎半戦車砲(長)U型の量産型の設計が開始された。
参考文献
1.試製57粍戦車砲竣工試験計画 昭和18年3月
2.試製57粍戦車砲竣工試験成績 昭和18年4月
3.試製57粍戦車砲竣工試験要報 昭和18年4月
4.試製57粍戦車砲修正機能弾道性試験計画
(昭和18年5月25日〜30日予定)
5.試製57粍戦車砲修正機能弾道性試験成績
6.試製57粍戦車砲修正機能弾道性試験射後協定 昭和18年5月
7.試製5糎7戦車砲○新 竣工試験計画 昭和19年3月
8.試製5糎7戦車砲○新 竣工試験成績 昭和19年3月
9.試製5糎7戦車砲○新 竣工試験要報 昭和19年3月7日
10.試製5糎7戦車砲(チト)射撃記録 昭和19年5月29日
11.陸軍軍需審議会幹事会経過の概要(兵器研究方針中一部改訂の件) 昭和18年6月30日開催
旧 戦車砲 1.中戦車用として口径五七粍にして発射速度大、且対戦車砲と同一弾丸を用うるもの。
新 戦車砲 1.中戦車用として口径七五粍及五七粍にして初速及発射速度大、且対戦車砲と同一弾丸
を用うるもの。
12.昭和18年度一技研修正研究計画
修正計画で下記の様に示されているが何処が修正されているかは明記されていない。
番号「9砲」五十七粍戦車砲 新中戦車(甲)用五十七粍戦車砲に就き研究す。研究担当者牧浦大尉、完成予定昭和20年3月、四技研と協力(戦37)
13.痛恨の四式中戦車 曽根正儀
チト車(57粍砲搭載、20トン)の開発が正式に決まったのは、昭和17年9月、砲を取り付けたのは19年11月頃
14.試製七糎半戦車砲(長)修正機能試験後の協定事項(於大造) 昭和19年8月30日
15.試製七糎半戦車砲(長)修正機能試験要報 昭和19年9月1日
16.試製七糎半戦車砲(長)修正機能弾道性試験要報 昭和19年11月1日
17.試製七糎半戦車砲(長)U型 チト車搭載総合試験 昭和20年2月9日
18.試製七糎半戦車砲総合試験後の協定事項(於富士演習場) 昭和20年3月9日
19.試製七糎半戦車砲(長)U型機能弾道性試験計画 昭和20年3月 於伊良湖試験場
20.試製七糎半戦車砲(長)U型機能弾道性試験要報 昭和20年3月 於伊良湖試験場
21.兵器(除く航空)研究方針(准決定案) 昭和17年7月31日
22.兵器(除く航空)研究方針 昭和17年9月14日
23.ORDNANCE TECHNICAL INTELLIGENCE REPORT NO.10 JAPANESE RESARCH &
DEVELOPMENT OF SEACOAST RAILWAY FIELD TANK ANTITANK & AIRCRAFT ARTILALLY
MORTERS AND RECOILLES WEAPONS. GHQ AFPAC
短47粍戦車砲と長57粍戦車砲の諸元は、このGHQの文書でしか見たことがない。ただし印刷が潰れていて、数値が一部見えない。戦車砲の長さは9.8?ft、44.5CAL、97式57粍は3.45ft、14.4CALとある。
地道な研究 四式中戦車と五糎七戦車砲
2003.03.16より
2003.03.17訂正1
2003.03.21訂正2
2003.04.06訂正3
2003.04.10訂正4
2003.04.12訂正5