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D52形蒸気機関車戦時仕様  (2002/11/13更新) (2003/3/17更新) (2003/5/4更新) (2006/12/1更新)


 D52形は戦時輸送強化のためにD51形を上回る牽引力を得るとともに、資材や工程を節減するというコンセプトで、1943年から1946年にかけて285両が製造されました。D51の足回りに一回り大きなボイラーを載せた、日本最強と言われる蒸気機関車です。ただし、本格的に性能を発揮したのは1951年から1953年に掛けての装備改善(戦時簡略仕様→一般仕様)後です。
 D51形から始まる戦時簡略化は、木材の多用(除煙板、炭台、ランボード、ナンバープレート等)、ボイラー等の材料割りの見直し、ドームカバーを鋳造から板材へ、炭水車の無台枠船底化及び台車の変更、ディスク車輪の使用、給水温め器等一部装備の省略、死重のコンクリートブロック搭載等です。ナンバープレートを省略してペンキの直書きや、木部の塗装省略もありました。
 また戦争が激しくなってくると、鉄道省全機関車に運転室防弾装置取付工事と、灯火管制改造(前照灯にルーバー付フード取付等)等が行われ、戦争末期には白ペンキで迷彩が施された車両もあります。
D52形蒸気機関車装備改善後 (2003/5/12更新) (2006/12/1更新)

D52形蒸気機関車装備改善後
陸軍鉄道連隊K2形蒸気機関車  (2002/10/13更新) (2003/3/28更新)

 1942〜1944年(昭和17〜19年)に量産されました。特殊な構造の下回りが特徴です。
 鉄道連隊の機関車は特殊な構造なモノが多く、鉄道連隊の基本的な軌間である600mmの他の軌間に、簡単に改軌出来るような構造になっています。また、川等から直接給水出来るように、揚水ポンプとホースを装備しています。
B20形蒸気機関車  (2003/2/5更新)  (2003/3/28更新)

 B20形蒸気機関車は戦時中軍需工場専用線の入換用機関車が不足した事から計画された小型機関車です。
 当時 不足していた各種専用線・地方鉄道用小型機関車について 標準化設計が計画され、軌間は1435mmから610mm、軸配置はB形とC形、整備重量は6tから30t の 各種機関車が設計(国内向けは10種類)されました。

 その内の1067mm軌間、軸配置B、整備重量20.3tの物が国鉄に採用されて、15両が発注されましたが、完成したのは1945、46年(昭和20、21年)と、戦争には間に合いませんでした。

 戦時設計のため極限まで簡略化設計が取り入れられ、飽和蒸気式という古典的なボイラー、自車のみに効く(連結した他車にはブレーキが効かない)蒸気ブレーキ、直線で構成されたデザインが特徴です。

 機関車庫等で 細々と小入換用として使われましたが、自車にしか作用しないブレーキが災いして、早々に お役ごめんになりました。しかし 鉄道ファンには意外と人気の機関車で、現在 10号機が梅小路蒸気機関車館に動態保存されています。
10形蓄電池機関車・AB10形蓄電池機関車・EB10形電気機関車 (2004/10/25更新)
10形(AB10形)蓄電池機関車
EB10形電気機関車

 昭和初期、東京北部・王子の「大日本人造肥料」の隣に「陸軍造兵廠豊島貯弾場」が開設され、大日本人造肥料専用線を須賀貨物線として国有化。そこで働くために2輌製作されたのが この10形蓄電池機関車です。

 この専用線では それまで蒸気機関車が使用されてきましたが、主要貨物が火薬となると 汽車の火の粉が心配。 そこで選択肢として、電気機関車か内燃機関車の使用となるわけですが、当時は内燃機関車は産声を上げたばかり。 非電化区間なので蓄電池機関車が導入されました。
 といっても、製作年が輸入機EF51(8010)と 初の国産大型機EF52の間 ――昭和2年(1927年)製と、まだ国鉄が輸入サンプル機を元に試行錯誤して ようやく電気機関車の技術が確立し始めたという時代。 電気機関車黎明期の一品と言えます。

 また、いくら火気厳禁といっても、ガスとかじゃなくて たかが火薬なので、防爆構造とかにはなっておらず、電気接点のスパークとか、制輪子の火花は考慮されていません。

 昭和3年(1928年)の形式称号改正で、AB10形に。
 昭和6年(1931年)の須賀線電化によりパンタグラフをのせて蓄電池を降ろし、床下の抵抗を機器室に移設して、EB10形電気機関車となりました。

 さて、バテロコ(蓄電池機関車)といえば 大きいものでも入換用小型機と相場が決まっていて、小型機で入換用となれば運転室が中央で 運転台が横向き一台ですむ凸型機となり、世界的にこのクラスの大型バテロコは凸型の 似たような姿をしています。

 EB10形は使い勝手が良かったらしく、結局、須賀線廃止後(一部区間は今も現役。)の昭和47年(1972年)まで使用されました。 現在 EB10 1 が、府中市交通公園に展示されています。

 外見の特徴を列記。

 床下に鐘が付いています(絵の反対側)。これは線路と道路の境界が不明瞭な区間で、カランカランと鳴らして注意を促させるための物です。臨港線の機関車とかにも例がありますね。
 パンタグラフはPS10→PS13→PS14と変化? 2号機は最後までPS13のままかも?
 ATS関連は区間限定運用なので、最後まで装備していません。
EF13形電気機関車 原型 (2004/9/15更新)

 戦時の資材不足の中、輸送力増強のため誕生した貨物用電気機関車。昭和19年(1944年)から戦後の昭和22年(1947年)にかけて31両が製作されました。

 徹底的な戦時設計がなされ、鋼材節約のため凸型の車体とし その重量不足分をコンクリートの死重で補っています。 また、各種補器類等を省略・簡素化し 各部に代用材を使用、パンタグラフも構造の簡単な 電車用のPS13を使用しています。

 言わば、使う側を考慮していない設計ですが、ここで養われた無駄の一切無い設計技術は、戦後の車輌設計に大いに生かされています。
EF13形電気機関車 一次改装 (2004/9/15更新)

 戦時設計なEF13形は、当然の如く故障が絶えず、世の中が落ち着いてくると 徐々に体質改善が進められました。
 外見では 手すりの増設、エアータンクの増設、ボンネットに通風器の増設、パンタグラフがPS14に、前照灯を移設、木部を鋼板に、手書きだったナンバープレートを正式な物に・・・、等が見て取れます。内臓も当然 更新されています。
 なを、EF13は混乱期に作られたため、その製造段階から各機 個体差があります。
EF13形電気機関車 新(二次改装) (2004/9/15更新)

 やはり戦時設計の車体は 如何ともしがたく、対策を検討していたところ、ちょうど、EF58形電気機関車の 車体載せ変えが行われる事になり、たまたまその両数がEF13と同一であり、寸法も EF13の設計の流れをくむEF58では ほとんど一緒だった事から、車体の振替が行われました。
 これで、面目を一新したわけですが、そもそもEF58の旧車体とて 戦後混乱期に作られた物。その凸凹の外版をさらしつつ、昭和54年(1979年)まで活躍しました。
EF58旧車体(一次形)原形  (2004/5/24更新)  (2004/9/15更新)

 戦後、荒廃した鉄道を復活させる一環として、上越線・東海道線の電化・電化延伸が計画され、同時に新型標準電気機関車が計画されました。貨物用EF15と旅客用EF58です。
 戦時型電気機関車 EF13設計でつちかわれた簡略化技術を存分に生かし、取りあえず荒廃前 戦前並の機関車を作り上げる事を目標とし、また旅客用と貨物用の機関車を各部共通設計として標準化を図り 設計されました。

 旅客用電気機関車といえば、戦前に作られたEF56・EF57では暖房蒸気発生用のボイラーを積んでいましたが、EF58では なんとしても「機関車の両数」を確保する事が優先されたため省略されました。(冬季は暖房車を連結。)

 大きな期待をもって完成(昭和22年(1947年)〜)したEF58ですが、破壊された日本の工業界は まだまともに復活しておらず、使える部品も限られ 結局EF13並みの装備となってしまい、結局は 目も当てられない欠陥機関車となってしまいました。
 軍需産業と見なされていた日本のベアリング工業会を救済するため導入された「コロ軸受け」も、初期故障が多かったそうです。
EF58旧車体一次改装  (2004/5/24更新)  (2004/9/15更新)

 絶縁不良事故 等が多発した欠陥機関車を 何とかするための装備改装工事が実施され、電装品関係の更新を重点に、通風強化のためガーランドベンチレーターの設置、明かり窓の増設、パンタグラフ間隔が近いため 跳躍現象の見られた電車用PS13パンタグラフの換装(PS14化)等が実施され、まともな機関車になっていきました。
EF58新車体新製時 (2004/5/24更新)

 さて、昭和27年(1952年)。世情が安定してきて ようやく暖房蒸気発生用のボイラーを積んだ新生EF58(35号機〜175号機)の登場です。
 先代 旅客用電気機関車EF56・EF57に比べて大幅に水&燃料タンクの容量を増やしたため、車体を先台車の上まで延長、乗務員ドアを前面から側面に移設、流線形な車体デザインとし改設計されました。合わせてモーター出力の増強(MT41→MT42に変更)も図られています。

 上越線用に増備された新車体EF58ならではの新装備の一つとして「可変式スノープロウ(除雪器)」があります。スノープロウを理想的な除雪角度に固定してしまうと、機関車を重連にした時に接触してしまうため、角度可変用空気シリンダーを先台車上方に設置してあります。


 のちに旧車体(1号機〜31号機)もボイラーを設置する事になり、新車体に載せ変えています(モーターもMT42に統一)。その時発生した旧車体は、寸法が似通っているEF13の凸形車体の更新に 有効利用されています。
EF584試験塗装 (2004/5/24更新)

 電化の進展とともに蒸気機関車の煤煙による汚れを考慮する必要が薄れたため、明るい未来を願って一次形計4両の車体改装に合わせて明るい色の試験塗装が行われました。

 明るいといっても現代から見ればそれ程でもないのですが、4両の試験塗装機の内 4号機に施された塗装は今でも人気のある明るい塗装です。上廻りを「淡緑3号(セメントターミナル所有の貨車と同じ色)」+「緑2号(湘南色の緑)」に「クリーム2号(羊蹄丸&キハ55準急色と同じ色)」、下廻りを「薄灰色?」に塗装。
 のちに一般色に塗り替えられています。
EF58青大将塗装 (2004/5/24更新)

 昭和31年(1956年)11月の東海道本線全線電化に合わせて特急「つばめ」「はと」牽引機+客車に施された有名な「青大将」塗装。名前の由来は長い編成と色が青大将みたいだから。(雨蛙の呼び名もアリ。)

 上廻りを「淡緑5号」に「黄1号」の帯、下廻りを「緑3号」(のちに黒色化)に塗装。
 淡緑5号も、緑3号(暗緑色)も青大将色以外には車体塗装として使われて無い色なので、再現が難しいイメージし辛い色と言えます。
EF58ブルトレ塗装 (2004/5/24更新)

 昭和35年(1960年)20系ブルートレインの新型電源車として、カニ22形が登場。
 この電源車は、直流電化区間で架線から旅客サービス用電気を賄う電動発電機を搭載(従来のディーゼル発電機も併設)。簡単に遠隔操作出来るので 牽引機に抜擢されたEF58は その遠隔操作装置と客車乗務員との連絡電話が取り付けられ、塗装も20系客車に合わせた「青15号」に「クリーム1号」の帯に変更。外観ではジャンパー栓が目に付きます。
EF58上越形晩年 (2004/5/24更新)

 作者が最も好むEF58。
 つらら切り装備、ホイッスルカバー装備、EG(電暖)化改造、常磐線無線、固定式スノープロウ(除雪器)装備の上越形の晩年の姿。

 雪国で活躍する機関車に必須の装備「つらら切り」とは、トンネル内部で成長したつららを文字どうり切断し、前面ガラスの破損を防ぐものです。
 「ホイッスルカバー」は、ホイッスル(汽笛)が凍りつかない様にするための 風よけです。
 客車の電気暖房化に伴い、SG(蒸気暖房)用ボイラー&タンクを撤去して 暖房用の電気を作り出すインバーターを搭載することになりました。これを「EG(電暖)化」と言います。主に上越形が改造されました。
 「常磐線無線」は三河島事故を教訓に常磐線(上野〜取手間)に試験導入された列車防護無線です。この区間に乗り入れる制御車は必ず送受信機を装備しなければなりませんでした(のちに乗務員無線の採用で必要なくなる。)。 隅田川に乗り入れる高崎第二機関区のEF58の一部に装備されました。(ちなみに常磐線無線の経験を元に、JR移行時 全国で新型の列車防護無線を採用、アンテナの形が違います。)
 可変式スノープロウは整備が厄介なので、晩年は固定式スノープロウに変更されました。
EF58P形 (2004/5/24更新)

 P形化改造、EG(電暖)化改造、エアーフィルター改造、が ほどこされた84号機(の、つもり。)。

 「P形化改造」とは、高速化改造された20系ブルトレの牽引のために、コンプレッサーからの圧縮空気を 直接客車に供給するための空気ホースを増設した改造(元空気ダメ引き通しと言う。)。 簡単に言えば ブレーキ配管の制御系と供給系の役割分担で、ブレーキの効きが良くなる→高速化出来る。 一部のEF58が改造されました。

 この84号機では、EG(電暖)化も成されているので、連結器廻りが電暖用ジャンパー線と各空気ホースで大変にぎやかです。

 エアーフィルター改造は、当時の新型機関車と同等のビニロック式エアーフィルターに改造したもの。東海道・山陽筋の機関車に施されました。
EF58広島形 (2004/5/24更新)

 エアーフィルター改造、左右一体型ヒサシ取付、パンタグラフPS22B化の いわゆる外見改悪機。
EF5861お召機 (2004/5/24更新)

 製造段階からお召機関車として誕生した61号機。最上級の部品で作られ、最高級の整備が成されています。
 ただし、電装品を劣化させないため 普段は通常列車の牽引で性能を維持。
 列車防護無線装備、ATS-P装備の今の姿。

 下廻り各部が地肌まで磨き出されていますが、これはその見栄えとともに傷の発見をしやすくするという意味があります。なを、通常時はグリスが塗られており錆を防いでいます。
 車体は通常の「ぶどう色2号」ではなく、「ため色」という漆の色を再現した塗装となっています。ちなみに、昔のお召列車用客車は漆塗りでした。
EF30 量産機 (2004/7/25更新)

 昭和17年(1942年)の関門トンネル開業以来、直流(1500V)電化のこの区間では、EF10形電気機関車(一部車両はステンレス車体に換装)が活躍していましたが、九州地区電化に際し 九州は交流(20000V60Hz)電化する事になり、門司駅構内に交直セクションが設けられました。
 この門司駅構内を運転するために 新たに開発された関門トンネル専用交直両用電機機関車が、「EF30」です。

 一見して、海底トンネルの塩害対策のステンレス車体が目に付きますが、“シリコン整流器を採用した初の量産機”“軽量化のための1台車1電動機方式”等の特徴もあります。
 交直流機といっても、走行する交流区間は極々短区間なので、交流区間での出力は直流区間の1/4位しかありません。

 昭和35〜38年(1960〜1968年)に、試作機も含め22両が製作され、昭和61年(1986年)まで活躍しました。
GE 44tonner (2004/11/22更新)

 有名なゼネラルエレクトリック製のスイッチャ―(入換・小運転用機関車)。 第二次世界大戦中の1940年(昭和15年)から大量生産された44トン電気式ディーゼル機関車です。 基本仕様は、キャタピラー製D17000型190PSエンジン×2で、135kW×2の発電機を回し、70kW×4の電動機を動かします。重連総括制御が可能。
 大量生産されたためボンネットを中心に外見にも色々バリエーションがありますが、基本的形態はどれも似てます。また、各部に軍標準もろもろを多用しています。
 世界中にバラ撒かれ今も各地で見ることが出来ます。

 仲間には狭軌用の型も存在しますが、各部寸法や牽引力伝達方式が異なる等、別の機関車といっても差し支えないでしょう。


 車体側面にぶら下がっている棒は“隣の線路”の車輌を押して入換する時に、車体の角と角に渡す「つっかえ棒」。 アメリカの鉄道では一般的な入換方法で、そのため彼の地の鉄道車両の車体四隅には お椀状の窪みが用意されています。
米陸軍8500黒 (2004/11/22更新)

 有名なゼネラルエレクトリック製44トンスイッチャ―。 その狭軌用のタイプで、尚且つミリタリー仕様という車輌限界を小さくして どこにでも投入出来るようにしたタイプ。

 太平洋戦争後、当時の日本の鉄道は荒廃しきっていたので、進駐軍専用列車の運行を確実にするために “進駐軍関連車輌”の入換用に使うため 8両(米陸軍軍番号8584〜8589、8592、8593)が持ち込まれました。前任地はフィリピンだそうです。
 形態的には運転室裾が斜めなタイプと角張ったタイプがあります。

 運用は国鉄が担当し、その番号から国鉄部内では「8500形」の俗称で呼ばれていました。
 使用成績は良好で、国鉄部内の内燃機関車に対する偏見を払拭させました。

 この機関車は昭和31年(1956年)に米軍より払い下げられ、
8585、8586、8588、8592、8593が 国鉄DD12 1〜5に、
8584、8589が 名鉄8500形8584、8589に、
8587が 八幡製鉄D40 2と なりました。
米陸軍8500茶 (2004/11/22更新)

 8500の中でも客車の入換を担当する機関車は、標準の黒ではなく 特別に茶色に塗られていました。
DD12茶 (2004/11/22更新)

 国鉄DD12(元米陸軍8500)の中期塗装。初期は手スリに黄色が入っていません。 国鉄の内燃機関車に影響を与えたと言うDD12ですが、国鉄で標準化されたのは液体式の機関車。本機の様な電気式は 日本では流行りませんでした。
DD12朱 (2004/11/22更新)

 雨に弱いという弱点はあるものの、使い勝手のよい機関車で、国鉄では
昭和47年(1972年)まで使われました。描いたのは ATS関連機器が装備された晩年の姿。
名鉄8500形 (2004/11/22更新)

 名鉄に払い下げられた元米陸軍8500。名鉄8500形8584、8589として、名鉄機関車標準色をまとい、名鉄書体で番号が大書きされています。
 昭和41年(1966年)まで使用。
新幹線 911形 液体式ディーゼル機関車 (2003/12/28更新)

 0系新幹線電車と共に、東海道新幹線の開業(昭和39年(1964年)10月)に備えて3両製作された 新幹線 事業用大型ディーゼル機関車。在来線のDD51形ディーゼル機関車を基本に、新幹線に対応させて 装備をあれこれ 色々して開発したもの。ここで開発された装備は DD51量産機に生かされている。


 昭和39、40年(1964、65年)製作。
 連結面間距離(密連時)19400mm、全高(アンテナ上まで)4490mm、全幅(手すり含む)3350mm。
 最高速度 低速段92Km/h / 高速段160Km/h+。

 ATC(自動列車制御装置)装備。
 新幹線用密着連結器と、貨車用自動連結器の両方と連結できる 双頭連結器を装備。

 のちに重連総括制御装置追加。


 製作目的は「故障した新幹線電車の救援」「921形軌道検測車の160Km/h牽引」「工事用列車の牽引」であるが、このうち「新幹線電車の救援」については 新幹線という鉄道システムが熟成するにつれ、救援は他の新幹線電車にさせた方が効率的との考え方に変わり、その実績は無い。
 性能的には20パーミル(20/1000)の勾配上で 12両編成(重連にすれば16両編成)の新幹線電車を引き出せる能力を備えている。が、残念ながら、新幹線電車フル編成を牽引して160Km/hで走る能力は無い。(“出来る”と解説している解説も たまに見かけるが・・・。)

 構造が複雑で、軌道検測車牽引 160Km/h運転(フルノッチ入れっぱなしにしないと ダイヤどうりに走れない)をすると エンジンにかなり負担がかかり、検修泣かせの車輌であったらしいが、平成7年(1995年)の形式消滅まで長期にわたり現役であり続けた事は、この車輌がけして失敗作ではない事のあかしであろう。むしろ現場に愛されていた?
DE11-2000番台 (2003/7/10更新)

 昭和42年(1967)国鉄支線区の無煙化を達成するために登場した旅客用のDE10を元に、牽引重量の増大が著しかった大規模ヤードの重入換用として製造されたのが貨物用のDE11である。ベースのDE10からの主な変更点として、2エンド側の暖房用蒸気発生器を廃止し、5トンのコンクリートを死重として搭載、軸重を増加させて牽引力を強化している。また、本線運転の機会が無いことから、重連総括制御の機能が省略されている。

 中でも2000番台(2001〜2004)は、市街地にあった横浜羽沢貨物駅の入換用として特に低騒音化に重点を置いて製造されている。排気消音機、汽笛の改良に加え、機関室への遮音材の使用に加えて台車周りもカバーで覆い、床下からの騒音を遮断している。なお、この「スカート」は点検整備を容易にするため電動開閉式となっており、密閉された機関室の換気は歩み板に装備された換気ファンで強制通風を行っている。
 また、放熱機の送風ファンを低騒音タイプのものに交換し、同時に通過風速を下げて騒音を抑えており、冷却容量を確保するため従来のものより本数を増やしてファンも2基とした。このため放熱機が従来の1エンド先端から2エンド側に移設されており、車体長が他のDE11形に比べて2,500mm延長されているのが特徴。
南満州鉄道京城管理局(旧鮮鉄)ジハ1形蒸気動車  (2003/3/7更新)  (2003/4/30更新)

 蒸気動車とは 現在の気動車の魁みたいな存在で、20世紀初頭に 特に欧米でよく見られました。日本では機関部まで一体ボディーのモノが標準ですが、旧鮮鉄ジハ1形は ご覧のように軸配置1A型の機関車に 客車がおぶさっているタイプです。
 標準軌大陸型の車体なので 日本の車両と比べると大きく感じますね。
モハ42形4扉戦時仕様  (2003/2/24更新) (2003/4/17更新)
 (2003/6/8更新)
 (2004/12/7更新)

 戦時中、鉄道は軍需輸送一色になり、長距離旅客列車は次々に廃止されたわけですが、軍需工場向けの通勤輸送は重要性が増してきました。しかし、職員の徴兵、施設の老朽化、資材難、電力難、頻発する事故、空襲等から、車両の増備も、列車本数の増加もままならず、通勤列車は常にスシ詰め。
 そこで更に 超スシ詰めにするため、かつて横須賀線や関西急電で快速を誇っていた2扉クロスシート車のモハ42系列も、まず、クロスシートのロングシート化。さらに それすらも 半分撤去ないし 全座席撤去が行われ、乗降時間短縮のため 側扉の増設等が行われました(同時に通勤型用台車への変更も行われています。)。
 ただ、簡単に4扉化と言っても、車体強度的にムリがあるのですが、そこは目をつむるわけです。そして、車体強度の低下した車両にスシ詰めするという事で、更に事故が多発すると言う悪循環です。
 また、スシ詰めなので ガラスはすぐに割れてしまい、でもガラスは手に入らないから板で塞ぎ、人手不足でその作業すらも とどこおり、スシ詰めなので側扉は脱落し・・・。
 戦後は、今度は買い出し列車、復員列車で、むしろ鉄道の状況は戦時より悪化し、この状況が どうにか改善されてきたのは 昭和23年頃からです。
 モハ42形 4扉車は、徐々に整備され、最後はクモハ32形として活躍しました。
モハ42形  (2003/4/17更新) (2003/6/8更新)  (2004/12/7更新)

モハ42原型
サモハ63形  (2003/5/21更新) (2003/6/8更新)  (2004/12/7更新)

 63系電車は、第二次大戦末期、切迫した都市圏の通勤輸送に応えるため 製作された四扉車です。
 特徴として各部構造の 超簡略化(天井化粧板が無かったり、電気配管が木製棚・樋だったりする。)、スシ詰めによる 換気不足に対応するため 屋上通風器にグローブベンチレーターの採用、換気対策 及びガラス不足に対処するため 三段窓(中段は固定)の採用、座席の半減・・・等があげられます。
 ニスの香りのする新製車の この電車がホームに入ってきた時、あまりのボロさに 乗客は乗るのを ためらったそうです。

 戦時中に 電動制御客車モハ63が14輌、付随客車サハ78が8輌、及び木造車改造で、制御客車クハ79が8輌完成しました。
 もっとも、電動制御客車モハ63は、当時の状勢から 電装品など手配できるはずも無く、無電装の制御客車・付随客車 代用の「サモハ」としてとりあえず完成させたのです。

 さて、超簡略化設計の63系ですが、使ってみると その限界設計でも 何とか走れると言う事が解かり、今までの電車は無駄に 丈夫だったという事が解かって、戦後の車輌設計に多大な影響を与えていたりします。
モハ63形  (2003/5/21更新) (2003/6/8更新)  (2004/12/7更新)

 戦争が終わり、経済活動の停止と共に 今まで主力の貨物輸送は ほとんど無くなりました。代わって今度は 復員輸送と、買出し輸送が始まりました。
 しかし鉄道は 全ての面において疲弊しきっており、動く車両も全然足りません(整備出来ないので休車、放置)。電動車一両あたり4個のモーターを 2個で我慢したり、ついには 電車を客車代わりに機関車で牽引すると言う 非常手段も取られたり、戦時中よりも大変な事態に陥りました。
 そこで緊急に戦時設計の63系が、大量生産される事になったのです。
 で、ガラス不足から 窓枠を増やして小版ガラスを使えるようにした、こんな車両も。
 とにかく車両が足りないので、無電装=サモハも引き続き大量に 工場から送り出されています。

 また、国鉄よりも私鉄、更に 私鉄の中でも 地方私鉄が深刻な車両不足に陥っており、その対策として、大手私鉄向けに63系を製作し、大手私鉄の中小型車両を 玉突きで地方私鉄に振り向けるという施策がとられました。
 これにより、私鉄としては大型車の63系を受け入れるため、大手私鉄は プラットホームを削ったりして、建築・車両限界を改め、63系の導入の成功により、以後の私鉄車両の大型化に貢献しています。

 そうそう、63系戦後生産分からは、戦後解体の危機にさらされた ベアリング業界を救済するために 車軸にコロ軸受けの台車を採用しました(今までは平軸受け)。
モハ63形[ジュラ電]  (2003/5/21更新) (2003/6/8更新)
 (2004/12/7更新)

 有名なジュラ電こと、ジュラルミン電車です。余剰となった航空機用資材を使ったもので、無塗装ピカピカの電車は、どん底の世相にあって 明るい話題としてニュースになったほどです。室内灯には蛍光灯が試用されています。モハ63が3両、サハ78が3両製作されました。
 ところが、調子づいて無塗装で仕上げたため、その材質も相まって腐食が甚だしく、他車と同様に塗装してみても かんばしくなく、結局、車体を載せ換える羽目になりました。ちなみに、この車体載せ換えは、全金属製車体の試作の意味合いもあります。
クモハ73形[阪和線]  (2003/5/21更新) (2003/6/8更新)
 (2004/12/7更新)

 さて、とりあえず車両数を充足させるため、超簡略設計で大量生産された63系ですが、案の定 頻繁に事故を起こします。絶縁不足で よく火がつきました。要するに欠陥車。
 そんな中、昭和26年(1951年)4月24日、有名な桜木町事故(各自検索のこと。)がおきます。
 緊急対策として、各部絶縁強化、各回路の改良、耐火塗料の塗布、貫通路・貫通幌の取り付け、ドアコックの位置と 取扱方法の明示が行なわれました。
 つづいて本格的改良として、一部電動制御客車の中間電動客車化(モハ72)、構造材の取替えによる 耐火性・絶縁の抜本的改良、各回路の抜本的改良、今まで内開き扉だった貫通路の拡張・引戸化、三段窓全段を可動化、非常用通報スイッチの取り付け、改良ドアコックの設置、等を実施して、形式も73系となり、安心して乗れる電車になりました。
オハ35三等客車(2005/1/5更新)

 国鉄を代表する客車。
 三等客車スハ32800形(のちのスハ32形。昭和7年(1932年)から量産。)の客窓を1000mm幅に拡大した形式です。
 昭和14年(1939年)から昭和24年(1949年)かけ 1301両が作られました。当然 バリエーション多数。当初の形式はスハ33650。
 この時期に登場した一連の客車を 鉄道趣味者の間では「オハ35系列」と称していますが、技術的には戦前から戦後にかけての鉄道車輌開発は連続したものであり、「系列」という考え方は鉄道趣味者が戦後国鉄に持ち込んだものです。
 また、この時期はちょうど鉄道車両設計に試行錯誤が見られた時期で、オハ35系列もいろんな車体バリエーションが目に付きますが、目立たない床下も結構落ち着きがなく(調べるのがたいへ〜ん。便所の管だけで3パターン位あるぞ。)標準化されるのは戦後になってからです。

 描いたのは昭和15年(1940年)2月の三等赤帯廃止、昭和16年(1941年)10月の車輌称号改正後〜昭和20年代前半の姿。
オハフ33三等緩急客車(2005/1/5更新)

 オハ35三等客車と同時期に 606両作られた三等緩急客車。当初の形式はスハフ34720。バリエーションもオハ35と同等。 緩急客車とは、手ブレーキ&車掌弁(非常ブレーキ弁)及び車掌室の付いた客車の事。
 描いたのは昭和15年(1940年)2月の三等赤帯廃止、昭和16年(1941年)10月の車輌称号改正後〜昭和20年代前半の姿。
オハ35戦時迷彩(2005/1/5更新)

 第二次大戦中、国鉄鉄道車両(電車を除く)にも白色塗料で対空迷彩塗装が施されました。これは昭和20年(1945年)5月頃から本格化した様ですが 戦後すぐに消されてしまい、何両程度に施されたのかは不明です(私は国鉄車輌では3例の写真しか知らない。)。
 私鉄の場合は白色塗料とは限らないようですね。
チキ3000形長物車 (2002/11/10更新) (2003/3/28更新) (2003/6/8更新)

 戦時中の1943年から量産された国鉄の代表的な長物車で、戦車の積載を考慮した設計としており、荷重は35tですが 戦時中は無理やり40tまで許容していました。国鉄末期まで現役で、自衛隊の戦車輸送には 欠かせない存在でした。
チキ1500形長物車 (2002/11/10更新) (2003/3/28更新) (2003/6/8更新)

 チキ3000の2世代前の長物車です。 チキ1500形は、1934年(昭和9年)から量産された長物車です。有事に備えて急行旅客列車に併結出来るように、高速用のTR24台車を履いているのが特徴です。
コキ50000形コンテナ車 (2003/9/3更新) (2004/8/25更新) (2005/10/4更新)

 この貨車は、国鉄の新規格12フィート5tコンテナの積載、20フィート10tコンテナの積載、コンテナ列車の速度向上を目的として、昭和46年(1971年)誕生しました。以後3276両が量産されています。
 ご覧頂くのは、最も標準的な仕様で、絵としては 昭和49年〜JR発足初期に 対応しています。
 ちなみに積荷のコンテナは 左から、C20、C20、C21、C12、C20形式。C12は、旧規格10フィートコンテナの中でも 最後まで活躍していた形式です。
コキフ50000 (2004/8/25更新) (2005/10/4更新)


 コキ50000系の車掌室が付いたタイプ。乗り心地が悪く、後に多数が台車(TR223)を 空気ばね台車(TR203)に交換→51000番台へ。
国鉄末期の貨物列車 車掌乗務省略により 車掌室を撤去、コキ50000化。
 コンテナ緊締装置を 色々とバタバタ上下させた状態を 描いてみました。
ワキ700形  (2002/11/10更新) (2003/3/28更新) (2003/4/14更新)  (2003/6/8更新)

 ワキ700形は、1943年(昭和18年)に30両作られた航空魚雷運搬用の貨車です。太平洋戦争開戦に伴い弾薬輸送等が急増しましたが、従来の有蓋車では長い魚雷を運ぶには間口が狭く、積み下ろしが困難であり、輸送効率も悪いので 海軍航空廠の私有貨車として新製されました。特徴として、両開き式の大型引き戸を点対称に備え、車内には組み立て式のホイストを備えていました。台車は急行貨物用のTR24です。戦後は最終的に国鉄の車籍となり、昭和50年代まで生き長らえました。
シキ40形大物車 (2002/11/12更新) (2003/3/28更新) (2003/6/8更新) (2003/12/15更新)

 製造初年昭和4年(1929年)の弓形台枠式大物車。荷重30t。
トムフ1形無蓋緩急車 (2002/11/18更新) (2003/4/14更新) (2003/6/8更新) (2006/9/4更新)

 戦時中の輸送効率向上のため昭和18年(1943年)から量産された無蓋緩急車です。これを車掌車の代わりに連結すれば、その分だけ多くの貨物が積める というわけです。ただし、車掌室の居住環境は極めて悪く(狭い) 戦後早々にトラ6000形に改造されて姿を消しました。

 積荷は荷役の簡単な木箱。表記部分以外の木部の塗装は 省略された姿を描きました。
トキ900形無蓋車 (2002/11/16更新) (2003/4/14更新) (2003/6/8更新) (2005/2/8更新) (2006/9/4更新)

 戦争によって極端に増した石炭需要に応えるため、製作された無蓋車です。
昭和18年(1943年)から昭和21年(1946年)年にかけて 8209輌が製作されました。

 嵩高で三軸なのが特徴ですが、これは車長の長いボギー車よりも 少しでも多くの両数を繋げて 輸送効率を高めるため(駅の着発線の長さには限界があるので・・・。)。また、資材節約、構造の簡素化、製作コスト削減の意味もあります。
側板は下部だけ開き、上部は固定。 荷重30t。

 当然、木部未塗装(車体表記周辺はニス?が塗られている?)。コールタール等の代用塗料も使われました。


 戦時中は大活躍しましたが、もともと 戦時設計車両お決まりの「戦争が終わるまで もってくれれば良い。」と言う設計思想だったので台枠等に無理があり、三軸車なので運転特性に難があり 簡単に脱線したり・・・。

 戦後直後は上部側板の一部を外し 荷重17tで使われましたが、危なっかしい車両なので、早々に他形式に改造されたりして姿を消しました。
 しかし、平成12年(2000年)JR東海浜松工場で三軸車のまま 控車として使われていた車両が 奇跡の復活を遂げたのは記憶に新しいところです。
トラ6000形無蓋車 (2002/11/18更新) (2003/4/14更新) (2003/6/8更新) (2003/12/15更新) (2003/12/16更新) (2006/9/4更新)

 昭和16年(1941年)より量産された無蓋車です。従来のトラ車より車長を延長し、より 長尺物を積載出来るようにしました。 戦時中に三軸車に改造した車両(トキ66000形)や、それを戦後に復旧したもの、トラ50000形、トムフ1形から改造したものなど、バラエティーがあります。
 積荷は91式10cm榴弾砲。
トラ6000形無蓋車 戦後 (2002/11/18更新) (2003/4/14更新) (2003/6/8更新) (2003/12/15更新) (2003/12/16更新) (2006/9/4更新)

 トラ6000戦後〜2段リンク化以前の姿。丸太積み。
ワム50000形有蓋車 (2002/11/27更新) (2003/4/14更新) (2003/6/8更新) (2006/9/21更新)

 戦争の進展に伴い鋼材節約のために木造とした有蓋車です。1940年(昭和15年)から製作されました。戦後、鋼体化等改造されてワム90000形に仲間入りした車両もあり、また、木造のまま 下回りを改善されたり、合板に張り替えられたりして 長いこと活躍しました。
タキ3000  (2004/6/13更新) (2004/7/24更新)
 (2007/2/16更新)

 戦前・戦中にもタンク車はありましたが、戦後は 石油産業の目覚しい発展により 各種タンク車が登場しました。

 「タキ3000形」は「タキ50形」につづいて、昭和22年(1947年)から昭和39年(1964年)にかけて、約1600輌量産された30t積ガソリン(揮発油)タンク車。当時はタンク車と言えば「タキ3000」をイメージする程、日本のタンク車の代表形式でした。
 構造は単純なもので、量産向きといえましょう。台車はTR41ないしTR20。

 ガソリンタンク車といっても、ガソリンより安全で 特別な設備が不要な液体なら、簡単な種別変更手続きで輸送できます。冬季には暖房用燃料の需要が高まるので、予備車をかき集めて重油輸送列車が仕立て上げられます。
タキ3000米タン初期  (2004/6/13更新) (2004/7/24更新)
 (2007/2/16更新)

 「米タン」とは米軍用燃料輸送専用のタンク車をいいます。連合軍専用列車の名残ですね。
 描いたのは米国陸軍輸送隊所属のタキ3000の初期の状態。アメリカ貨車に施されるようなケバケバしい各種表記が特徴です。
 米国陸軍輸送隊では154輌のタキ3000を所有しました(米軍用燃料輸送は他に 国鉄所有車、大蔵省所有車、民間所有車でも実施。)。

 米軍用燃料輸送は しだいに、トラック輸送に切り替えられていきましたが、現在でも、タキ35000形民間所有私有貨車(タンク体右端の黄色と白のバーコード状の表記が米タンの目印。)を使って、瑞穂埠頭〜拝島(横田基地)間の航空燃料輸送は行われており、また、田浦(横須賀基地)〜相模大塚(厚木基地)、のルート等も、簡単に復活出来る様に施設が残されています。

 「米タン」は鉄道趣味者の間では有名な話なので、詳しく知りたい方は適当に検索して下さい(笑)。


 ちなみに描いたのはタキ3000形の初期車。台枠側梁がないのが特徴。台車はTR20。
タキ3000米タン後期  (2004/6/13更新) (2004/7/24更新)
 (2007/2/16更新)

 後に米タンは、反米派の攻撃を避けるため、その派手な塗装を省略・改変していきました(全検時の塗装の手間も省ける。)。
 晩年は 米軍の管理番号と、油種表記(タンク体右端の黄色と白のバーコード状の表記)のみが残されております。油種表記は米軍所有以外の米タンにも施されています。
チサ1600形 長物車  (2006/10/23更新)
戦後 進駐軍の自動車輸送の需要により長物車がたいへん不足したため、余っていたトキ900を改造して20t積み長物車としました。
400輌改造。

積荷はkiyochan様の絵をお借りしました。


なお、同様に3軸車のまま長物車に改造された「チ500形式」がありますが、こちらは車端から積荷がはみ出る貨物輸送時の「遊車」として製作されたため荷重10tしかありません。
トキ66000形 無蓋車  (2006/10/23更新)
 戦争によって極端に増した石炭需要に応えるため、トラ6000形を荷重28t、三軸車に改造した車輌。昭和18年(1943年)〜。
476輌が改造されましたが、戦後、昭和25年(1950年)度には トラ6000形式に復元されました。
トラ30000形 無蓋車  (2006/10/23更新)
トラ6000形の後継車輌。足廻りを改良して、走行安定性を増しています。
ワム1形 有蓋車  (2006/10/23更新)  (2006/12/17更新)
 ワム1形は、もともと軍部の効率的馬匹輸送の要求から生まれた形式。
それまでの鉄道車両は、各鉄道から引く継いだ種々雑多な寄せ集めで構成されていたが、この形式から標準化がはかられる。

 成馬を6頭搭載でき、口綱を結びつけるための金具を常設した(絵で言うと車体側面にポツポツと4ヶ所あるやつの内側にある。この金具はワム90000形まで装備)。
 大型で馬匹輸送に適する貨車なため、有蓋車(Wagon)の「ワ」に区別のため馬(ムマ)のムを付け
ワム19780形及びワム23000形(初代)として大正3年(1914年)〜大正6年(1917年)に登場。
昭和3年(1928年)の称号規定改正によりワム1形となる。
 この時、「ム」の記号は14t〜16t積みの貨車を表す記号になり、「ム・ラ・サ・キ」の荷重表記が誕生した。

 15t積みワム1形は、一般荷主の輸送単位としてちょうど良く、連結面間8mのワム1形は貨車の基準単位となり、以降このクラスの有蓋車を 昭和の中頃まで量産し続けることになる。

※ 鉄道貨物の現場では 荷重+自重=10tを 換算両数=1両、連結面間8mの車輌を 延長=1両、実際の連結車輌数を 現車○○両と言います。20m車なら延長=2.5両ですね。これらと区別するため車輌単位で数える時は1車(しゃ)2車・・・と数えます。

描いたのは 大正14年(1925年)の自動連結器化以前の姿(ワム23000形(初代))。
ワム3500形 有蓋車  (2006/10/23更新)
 ワム1形の後継車。大正6年(1917年)から製造。
 車体はワム1形と ほとんど同じだが、車軸が標準軌化計画のために長軸となっている。いざとなったら簡単に標準軌化できるわけ。以降製作の2軸車は長軸が主流となる。
 描いたのは 車体にガタがきたため 斜めに補強を入れた姿。
スム1形 鉄側有蓋車  (2006/10/23更新)
 大正15年(1926年)から製造。
 従来からの木造有蓋車に代わって鉄板で有蓋車を作ってみたが、内張りが無いため断熱効果が皆無であり、気温の影響を受けない貨物専用となってしまったためにワ→スに形式を区分した。屋根は木製。
 この経験から以後の鋼製有蓋車(ワ)は木の内張りを施すようになった。
ワム21000形 有蓋車  (2006/10/23更新)
 ワム3500形の後継車。昭和4年(1929年)から製造。
 失敗作スム1形を小改良したワム20000形を経て誕生した 本格的鋼製有蓋車。
車体骨組みを内側にし、その上から木の内壁で囲い、間に生まれた空気層によって理想的断熱効果を得た(2重羽目板構造)。
ワム23000形 有蓋車  (2006/10/23更新)
 ワム21000形の後継車。昭和13年(1938年)から製造。
 不況により一時途絶えていたワム車の製造を再開したもの。また、第二次大戦中の鋼材不足により製作が途絶えるが、戦後に再開。
トキ900形無蓋車の改造車も存在する。のちに走行装置を改良してワム90000形化される。

 描いたのは戦後製。
ワム23000形 有蓋車 馬匹輸送  (2006/10/23更新)
 引戸半開装置(=突っかい棒)を使用して引戸を半開固定した姿。
 引戸半開装置は有蓋車で青果、動物、人等を輸送する場合に備えて パレット有蓋車以外の有蓋車に装備されていた。
 ちなみに この装置を使用しないで引戸を固定する場合は、要所を縄で縛って固定する。
 動物を輸送する場合は、柵を設置したりの下準備が必要。
 また、基本的に付添人が添乗する。付添人の出入りは柵をよじ登って(一部が出入り用に切り欠いてある。)。
ワム50000形 有蓋車 更新車  (2006/10/23更新)
 ワム50000形は戦後一部がワム90000に改造されたが、従来車も雨水の浸入を防ぐために合板張りにされた。
 また走行装置も改良されて国鉄末期まで生き残った。
ワム90000形 有蓋車 急行便  (2006/10/23更新)
 ワム23000形の後継車。昭和28年(1953年)から製造。
 ワム23000形の走行装置を1段リンク式から2段リンク式にしたもの。
簡単に説明すると、この改良により車体〜車軸間に可動部が一箇所増えレールへの追随性が向上した。
そのため、従来の最高速度65km/hを最高速度75km/hにすることができた。

 車体はワム23000形とまったく同じで、新製車の他にワム23000形やトキ900形無蓋車の改造車も存在する。

 描いたのはコンテナ列車登場以前の花形。「急行便」使用のもの。。
鉄道連隊九七式軽貨車とレール  (2003/11/17更新)

 レール運搬バージョン。この貨車は レール繰り出しローラーが車端に備えられており、レールの迅速な敷設を可能としています。また、このように車体を外して使われる事も多々ありました。
鉄道連隊九七式軽貨車と軌匡  (2003/4/26更新)  (2003/11/17更新)

 平台車バージョン。上廻りの囲いを外した状態。

 絵の積荷は軌匡(ききょう)と言って、レールと鉄枕木を 梯子状に組み上げた物です。鉄道模型のフレキシブルレールと同じ感じです。これを ならした土地にペタペタと置いていくと 即席軌道が完成します。鉄道連隊で多用されました。
 また、民間でも 河川工事現場等、軌道を頻繁に移動させるような所で使われました。例えば、横に数メートル移動させたい時、軌匡の端をクレーンで少し持ち上げてズルズル引きずるという、かなり乱暴な移動方法もOKです。
鉄道連隊九七式軽貨車 フル装備  (2003/11/17更新)

 鉄道連隊で使用された雑用トロッコ。91式軽貨車の強度を増して8t積みにしたもの。軌間可変。全長1500mm 全幅1940mm 軸距700mm。
 この絵はフル装備の無蓋貨車の状態です。この状態で人員輸送等をこなしました。
 この貨車は必要に応じ装備を変更して使用されました。頑丈で 使い勝手が良いので、今でも一部の鉄道で、保線用器材等として現役です。
一〇〇式鉄道牽引車(保線機械)  (2003/11/17更新)

 
一〇〇式鉄道牽引車(道路上)  (2003/11/17更新)

 
一〇〇式鉄道牽引車(軌道上)  (2003/11/17更新)

 鉄道連隊で使用された 現代で言う所の「軌陸車」ですが、現代の軌陸車が 軌道上も走れる自動車であるのに対し、100式鉄道牽引車は 道路上も走れる機関車です。

 鉄道牽引車には何種類かありましたが、100式鉄道牽引車は ディーゼルエンジンを備えているのが特徴です。
 軌間は1067mm、1435mm、1524mmに対応可能で、さらに1000mm軌間にも対応可能に簡易改造した 1式鉄道牽引車も存在します。

 性能はトルク重視で ウォームギアで動力を伝達していおり、97式軽貨車5両を牽引できます(90馬力)。また、変速機の最前列が逆転機になっているので 前後進同じに走れます。

 形や機構はトラックですが、性能は鉄道車両であり「ブレーキが貧弱で道路の下り坂は 恐怖」とかの問題もあり、ステアリングを廃して軌道専用に改造された車輌もありました (軌道上なら貨車にもブレーキがあるので大丈夫?)。

 生産数は不明ですが、大戦末期、本土決戦用に内地に温存された車輌 (軍需工場の入換用とかに使用)が けっこうあり、戦後、国鉄・私鉄・工場専用線等にて 保線用機械や入換動車等として活躍しました。

 資料としてはRailMagazine誌100号〜102号の「100式鉄道牽引車ものがたり」辺りを。 また現車が、現在 朝霞駐屯地で保存されています。

が、
 これはあくまで100式鉄道牽引車の一例であり、残された写真を見ると、写真毎に何処かしら違いがあり、板金加工が いかにも一台一台手作りといった感じで、新製時から微妙に個体差が見られます。
国鉄 移動変電所 (2003/5/25更新)

 まず初めに。
 全然資料がありません。昔の雑誌から転載された 小さな写真と、同じく転載された 小さな形式図を元に、デッチあげました。塗装=良く解からない。電線の配線=良く解からない。ただ各寸法的には、だいたい合ってるはずです。おかしな所に気付かれた方は 教えて下さい。

 移動変電所とは、読んで字の如く 車両に変電器材を積んで 移動可能にした物です。高圧電線の近くの側線に留置して そこで変電して架線に電気を送ります。
 主な用途は、変電所の改修工事時や故障時に その代わりをしたり、大きなイベント(競馬等)で 列車を増発した時に 電力不足を回避したり、という風に使われます。
 自動車に積載した物が一般的ですが、鉄道車両に積載した物もありました。特に高度経済成長期には 急激な旅客の伸びに応えるため 各私鉄で変電所の改修が行なわれ、その折に南海、西武、京阪、小田急等でも製作されています。
 さて、国鉄の移動変電所(ないし移動変電車)は、戦時中に 変電所破壊に備えて設計されました。しかし 戦時中は製作はされず、戦後になって 当時不安定だった電力を補助する目的で 元設計のまま製作されたものです。下回りにチキ1500形長物車をそのまま使い、昭和23年(1948年)に完成しました。
 当初「エ1」と言う形式が 与えられる予定だったようです。しかし、どうも保守用車輌等と同じく 機械扱いでの活躍となったようです。完成後の消息は まだ明らかになっていません。今後の研究が待たれます。

 移動変電所について詳しい事はレイルマガジン誌146〜149号辺りを。
軌道自転車(原付) (2003/4/26更新)

 読んで字のごとく、です。軌道自転車は 主に保線担当者が 線路を巡回する時に使います。が、農薬撒布等、何にでも便利に使えます。列車が来たら レールから外して通過を待ちます。
 この手のモノは、メーカー製の物もありますが、自分のとこで適当に デッチ上げた物が大半です。絵に描いたのは2人乗り。原付ですが、ペダルを漕いで走らせる事も出来ます。
手こぎトロッコ (2003/4/26更新)

 2人でギッタンバッタンやって走らせます。1人でも走らせられます(ただ単に 2人描くのが面倒なだけ・・・。)。 走り始めは どっちに走り出すか分からないので、押し駆けです。
東京急行電鉄 8500系デハ8500型前期 東急車輛製造 (2005/2/10更新)

 1975年に登場した本形式は、将来帝都高速度交通営団(現東京メトロ)半蔵門線との相互乗り入れを行う新玉川線(現東急田園都市線二子玉川〜渋谷間)に用いるため、先に生産された8000系に改設計を施したものです。

 8000系からの主な変更点は、新玉川線、半蔵門線で用いられるCS-ATS(車内信号付自動列車制御装置)、列車情報装置、東急、営団双方の無線装置を装備したことと、地下鉄内で故障した際の勾配押上条件を満たすため両先頭車を電動化した等です。装備の追加に伴い運転台周りも再設計され、正面に赤帯や運行、種別表示が追加されたこともあって、その風貌はオリジナルの8000系とは少々異なる雰囲気となっています。

 このデハ8500形は制御装置と運転台、連結面にパンタグラフを持った電動車で、全車下り向きです。アイコンの前期製造車は昭和50〜54年にかけて30両が製作、登場時は田園都市線、その後は新玉川線や東横線でも用いられ、現在は休車となっている8501、8502を除く28両が田園都市線で活躍しています。
 (なお、8500系は生産時期によって屋根その他の形状が異なったりしますが、この解説では便宜上、途中から生産された軽量構体車を後期製造車、それ以前の製造車を前期製造車としています)
東京急行電鉄 8500系デハ8600型前期 東急車輛製造 (2005/2/10更新)

 高圧補助機器を装備した制御電動車で、こちらは全車上り向きです。

 8500系の前期製造車は昭和50年からの6年間に増備されていますが、中でも特徴的なのは昭和51年度に増備された10編成60両です。これらは「冷房準備車」と称され、室内クーラー用の通風孔やダクト、クーラーキセなどが装備されていながら冷房装置そのものが未装備というものでした。
 当初から冷房装置が装備されていた本形式でこのような車両が生産されたのは、車内冷房ではなく駅構内の冷房で環境整備を行おうとした営団との兼ね合いがあったからと考えられます。ところが当然のことながら、当時の乗客からは相当な不評を買ったようで、これらの車両も昭和54年には冷房装置が追加されています。

 このデハ8600系前期車も昭和54年までに30両が製造され、休車となっている8601、8602を除いた28両が現在も田園都市線で走っています。
東京急行電鉄 8500系デハ8700型前期 東急車輛製造 (2005/2/10更新)

 制御機を有する中間電動車で、上り側にパンタグラフを搭載しています。基本的な装備や構造は8000系の中間電動車デハ8100形に相当しますが、制御装置は地下鉄内での勾配押上条件を満たすため、限流値増回路を追加するなど若干の改良が加えられました。

 なお、8500系の制御装置は界磁チョッパ方式が採用されています。これは先に新玉川線用として開発された8000系と同様で、地下鉄内では最低限に抑えたい発熱を抑制可能な回生ブレーキを容易に使用できると共に、保守の容易さと低コスト化を図れるという利点も有しています。

 昭和54年までに49両が製作されたデハ8700形前期車は、現在、8701、8702、8717、8726の4両が除籍、解体。8723が他社への譲渡を想定した改造制御電動車の試作車として利用され、残る44両が田園都市線で用いられています。
東京急行電鉄 8500系デハ8800型前期 東急車輛製造 (2003/6/9更新)

 デハ8600形と同じ高圧補助機器を装備する中間電動車です。8000系の中間電動車デハ8200形に相当しますが、装備する蓄電池は地下鉄内での停電を考慮して、デハ8200形の20AHから40AHに増強されています。

 昭和55年までに40両が製造された前期製造車は、それ以降の軽量構体車に比較して屋根が若干角張っています(これは他の前期製造車も同じ)。現在、8801、8802、8823、8837の4両が除籍、解体されており、残る36両が田園都市線に所属しています。
東京急行電鉄 8500系サハ8900型前期 東急車輛製造 (2005/2/10更新)

 冷房用電源のMG(8903〜8905・8908〜8910のみ)もしくはSIVを装備する付随車です。

 当初の生産車10両は8000系のクハ8000形と同じ140VA電動発動機を使用していましたが、それ以降の車両は170VAの大容量静止形インバータを新規開発、装備して保守の省力化を図りました。
 なおこの形式には24Vの電源装置も取り付けられており、冷房と補助電源の両方に電気を供給しています。

 サハ8900系前期製造車は昭和56年までに計46両が生産され、このうち除籍、解体された8901、8902、8906、8907の4両を除く43両が田園都市線で活躍しています。
小田急電鉄 9000系デハ9000形(9000番代) (2005/2/14更新)

 1974年の開始が見込まれていた小田急線・地下鉄第9号線(営団地下鉄千代田線)相互直通乗り入れ用に小田急が導入した車が、この9000系です。1971〜77年に4・6両編成が各9本づつ、合計90両が製造されました。製造は東急・川崎・日車が担当しています。斬新な正面デザインが人気を博し、1973年のローレル賞を獲得しました。
 当時、小田急では車輌の高性能大型車化を期して、1969年から20m級4両編成の5000系を導入していました。この5000系は、2600系に端を発する全幅2900mmという大型でかつ軽量な全鋼製車体を持ち、2M2T編成ながら135kwの大出力モータを搭載することによって最高速度120km/hを誇った高性能車でした。
 しかし、最高速性能を重視したがゆえに起動加速度は2.6km/h/sとあまり高くなく、地下鉄線内での標準直線平坦加速度の3.3km/h/sには届きませんでした。また、小田急独特の大型車体も地下鉄線内での車輌限界(全幅2870mmまで)をオーバーしており、性能的にも物理的にも入線が不可能でした。このため、地下鉄線直通のためにこの二点を解決した新型車の導入を行わねばなりませんでした。そして、直通運転開始が1974年開始予定と差し迫っていた事から、5000系の増備は一旦1971年に打ち切られて、地下鉄直通用新車の設計・製造が急ピッチで行われたのです。

 地下鉄直通用車としての性能設定を行う上で一番重要視された要素が、直線平坦加速度3.3km/h/sの確保でした。この数値自体は、MT比を上げて編成出力を確保するなり、ギア比を加速重視に設定して最高速度を抑える代わりに加速力を得るなりすれば、割と簡単に確保できる数値でした。
 しかし、ここでネックとなるのが、地下鉄直通用車であっても運用上の都合から小田急線内急行にも充当されることになるという点でした。小田急線内急行は、将来的に120km/h運転を実施することを目標にしていました。5000系は既にこの目標を達成しており、この数値自体の実現は割と容易でした。ですが、5000系の例を見ても分かるように、120km/h対応を行うと起動加速度の方に問題が起きてしまいます。
 結局、この問題に関して小田急は「MT比を上げる」という強引な手段によってクリアーする他ありませんでした。2400系以来続けてきたMT比1:1という構成では、最高速度と起動加速度を両立できる出力が確保できなかったからです。モータ1基あたりの出力に関しては5000系の135kwが狭軌用直流モータとしての当時の限界であり、これですら車輪直径を910mmと大きくしてモータ外径を確保した上で、絶縁材の改良によって何とか確保できた数値だったのです。また、もし仮に大出力モータを開発できたとしても、当時の粘着制御技術では一部の軸に大出力をぶつけたところで空転を招くだけで、高加速どころの騒ぎではないという事情もありました。
 小田急線内での運用も考慮して4R+6Rという分割編成で構成することになっていましたが、4Rの方を4Mに、6Rの方を4Mの間にサハを2両挟んだ4M2Tにすることにより、10Rを組んだ場合に8M2Tという非常に高いMT比を与えることになりました。但し、MT比を上げる事によって加速特性が改善されたことも考慮され(編成全体で同じ出力でも、動軸の数は多ければ多いほど加速性能は改善される)、モータ1基あたりの出力は110kwと抑え目な数値となっていました。
 また、4Rも6RもM車は電動制御(先頭)車と電動中間車1両ずつを1セットにしてユニットを組むといった構成をしており、M車の増加数の割にはコストの一番掛かる部分である制御器の増加は抑えられていました。それに加え、6Rは4Rのユニット間にサハを組み込むといった構成を取っていたため、電動ユニットの構造を4Rとほぼ変えることなく4M2Tを実現していました。これは、構造の共通化による設計上・製造上の利点のみならず、万一機器が故障した場合にも双方の部品を融通して運用上優先度の高い車を動かす事ができるという副産物をも兼ね備えていました。この発想は9000系以降も受け継がれ、4Rの5000系に対する6Rの5200系、8000系や1000系等、その後の小田急の車輌各型式にも応用されていきました。

 このデハ9000形9000番代は、4Rの新宿寄り先頭車(M1c車)です。制御器は搭載していませんが、電動発電機と空気圧縮器を搭載しています。
小田急電鉄 9000系デハ9000形(9100番代) (2005/2/14更新)

 デハ9000形9100番代は、4Rの中間電動車(M2車)です。4R+6Rの編成を組んだ場合、小田原側から数えて9号車ということになります。新宿寄り先頭車の9000番代とユニットを組み、補機を搭載しない代わりに制御器を搭載しています。

 9000形の機器構成で特徴的な点は、小田急としては初の界磁チョッパ制御方式を用いたことが挙げられます。界磁チョッパ制御方式とは、複巻主電動機の電機子電流の制御に従来と同じ電動カムスイッチを用いつつも、分巻界磁電流をサイリスタを用いたチョッパで制御する事により、弱界磁制御を無段階で行えるとともに、主回路を切り替えることなく力行・惰行・回生ブレーキを使用できることがメリットとして挙げられます。
 特に利点として大きいのが回生ブレーキを容易に使用できるという点でした。回生ブレーキとはモータから発生した電流を架線に流す方式の電気ブレーキであり、従来の一般的な抵抗制御車で用いられていた発電ブレーキとは異なり、主抵抗器から熱を発することなく電気制動を利用できるのが大きな利点でした。これは、トンネル内で熱が篭ると困る地下鉄では必須の機能であり、想定される駅間距離が短い上に、線内のアップダウンも激しいとされる地下鉄第9号線乗り入れ対策には必要不可欠な機能でした。無論、抵抗に電流を流して熱に換える方式とは違って架線に電流を流すわけですから、その分省エネ効果が期待できるというのも大きなポイントでした。
 また、電機子電流の制御は従来と同じ機器を使用しているため、非常に高価なサイリスタの使用を極限できることも重要なポイントでした。営団が第9号線用に新開発した6000系は電機子チョッパ制御を用いており、全速度域で無段階制御を用いる事が出来ましたが、6M4T編成ながら編成あたりの価格が非常に高価なものとなっていました。電機子チョッパ車で6M4T編成の価格と比較すればカム軸車で8M2T編成の方が圧倒的に導入コストが安く、経済性が非常に求められる民鉄用車としては絶対に無視できない要素となっていたのです。
 それに加え、9000形における界磁チョッパの採用理由には「小田急ならでは」の原因もありました。それが、編成構成を組むにあたって問題となった「最高速度120km/h」でした。回生ブレーキは発熱も無く、省エネ効果も高い電気ブレーキ方式でしたが、高速域での制動力については安定性に欠く部分がありました。架線電圧との関係で電制が失効してしまった場合、空気制動だけでは高速域からのブレーキ性能に不安があったからです。安定性という意味では高速域からの制動に関してはやはり従来から用いている発電ブレーキ方式に明らかに分があり、小田急線内急行運転を考えると発電ブレーキは外せなかったのです。
 この点、電機子電流の制御を従来通りのカム軸抵抗制御で行う界磁チョッパは、主抵抗器を装備していますから発電ブレーキの使用も問題なくできます。しかし、電機子チョッパ方式は電機子電流の制御もサイリスタチョッパを用いており、当然主抵抗器も存在しませんでした。このため、電機子チョッパ制御では発電ブレーキを使用しようにも構成的に不可能であり、高速域での性能を考慮すると「使えたとしても使えない」ものだったのです。
 地下鉄線内での発熱抑制と小田急線内での高速域制動性能。これを両立するために、9000系では制動初速によって電制方式を自動的に選択する機能を装備しました。地下鉄線内で用いられる速度域の上限+αということで75km/h以下では回生制動を、それ以上の速度域からでは全速度域で安定した制動性能が得られる発電制動を行うようになっています。
 空気ブレーキの方式は2200系以来小田急の標準となっているHSC(電磁直通制動)式を踏襲しましたが、このように回生と発電を併用する方式のため、M車のブレーキシステムとしてはHSC-DR(電空併用電磁直通制動、Dは発電制動、Rは回生制動の意)式となっていました。
 因みに、電機子電流を制御する主制御器は上記のように従来と同じ電動カム軸式を用いていましたが、その制御段数は5000系に比べてかなり少ないものとなっていました。これは、5000系では用いられていた2400系以来のバーニヤ式超多段制御が9000系では用いられなかったことが原因で、5000系のABFM-188-15MD型63段(直列25段・並列31段・弱界磁7段)に対し、9000系ではFCM-118-15MDRH型19段+連続(直列11段・並列8段・弱界磁連続)と、その差は圧倒的でした。また、電制段数も同じく随分と少なくなっており、5000系の発電55段に対して9000系では発電19段・回生11段となっていました。これは運転性能にも影響を及ぼしており、5000系の極めてスムーズな進段に対して9000系は明らかに加減速とも「荒い」という印象を拭いきれません。但し、保守の面では「ガラスの制御器」とまで呼ばれたバーニヤ制御と比べれば圧倒的に楽で、価格も同じカム軸式制御器として比べれば安いものとなっていました。

 このように、9000系では確立された技術を効果的に組み合わせることによって、非常に幅広い要求性能を可能な限り高いレベルで実現したといえるでしょう。しかし、機器の構成はお世辞にも単純とは言い難いものがあり、保守の上でも取扱の上でも問題を抱えていました。また、高MT比故の低経済性も指摘される点であり、これは常に9000系についてまわる問題となりました。
 当時としてはこれ以上の回答が無かったのも確かですが、逆に言えば技術が進歩しさえすればあらゆる点が中途半端、乃至は過剰になってしまう構成でした。このため、地下鉄乗り入れ運用に必要な最小限の数しか生産されず、また地下鉄乗り入れ運用からも早い時期に外れてしまい、本来の用途で使用されたのは僅か12年という非常に短い期間(昭和53年3月〜平成2年3月)でした。
小田急電鉄 9000系デハ9000形(9200番代) (2005/2/14更新)

 従来の「小田急顔」からがらっと変わった正面構造のイメージから、一見まるっきり別の構造に見える9000系の車体ですが、全幅こそ若干狭められたものの基本構造は5000系までのものを踏襲していました。また、全幅も狭められたとはいえ2870mmと台枠の2800mmに対して大きいため、従来通り裾絞りが行われています。全幅がやや狭いために裾絞りの位置が従来より若干低い位置になっているのと、扉と窓の位置が従来よりも5cmほど高くなっているため(扉については高さを180cmから185cmに拡大)、5000系などと比べると若干腰高な印象を受けます。
 この車体で一番のポイントは、側面窓にバランサ付の1枚下降型を採用したことです。これにより随分とすっきりした外見イメージになり、イメージを一気に近代化させることに成功しました。
 但し、これによって発生した問題もありました。1枚下降型の窓ということで、窓は側面の構体下部に収まります。当然窓と構体との間には隙間が存在しており、雨天時にはここから雨水が侵入してしまいます。普通鋼製車とはいえ対策がしてあれば問題は起きないのですが、初期製造車ではこの点に全く配慮が為されておらず、構体が早期に内部から腐食してしまうという醜態を晒してしまったのです。
 途中から溜まった雨水を容易に排出できる構造に設計が変更され、初期製造車にも同じように手が加えられたのですが、時既に遅し。新車のうちから構体に重大な損傷を負ってしまった9000系初期車は、対症療法的な修復と損傷の拡大とがいたちごっこを続け、随分手をかけられたにも関わらず車体の老朽化を止めることができませんでした。
 先行して生産された4Rの損傷の度合いは本当に酷く、特に9001Fから9004Fあたりは見るのも痛々しいほど車体各部に継ぎが当てられ、外板にも凹凸が発生しています。その他の車の状態も決していいとは言えず、この車体の状態も地下鉄直通運用からの早期離脱、そして早期の廃車決定(2005年度から廃車開始、2007年度までには全廃予定)へと繋がってしまったといえるでしょう。9000系よりも古い5000系ですら車体間の転落防止幌が取り付けられているにも関わらず、9000系では4R・6Rとも取り付けが行われていません。これも、小田急の9000系に対する位置付けを表しているものの一つと言うことができるでしょう。
小田急電鉄 9000系デハ9000形(9300番代) (2005/2/14更新)

デハ9000形9300番代は、4Rの小田原寄り先頭車(M2c車)です。制御器を搭載しており、機器構成は9100番代とほぼ共通となっています。主抵抗には発電ブレーキ対策として強制通風ブロアを用いており、これによって大容量の抵抗をコンパクトにまとめる事ができました。

 平成2年3月に地下鉄直通運用を後継の1000系に譲って小田急線内の運用に特化する事になった9000系ですが、フルM編成の4Rはその加速力が買われて、4R+4Rの8Rとして各停で運用される例が非常に多くなりました。この傾向は各停の8R化が進むにつれてより顕著になり、とうとう平成12年には一部編成で固定8両編成化工事が行われることになりました。
 対象になったのは9001Fから9006Fの3本で、9001F+9002F、9003F+9004F、9005F+9006Fといった組み合わせで固定編成が組まれました。新宿寄りが奇数編成、小田原寄りが偶数編成となっています。
 固定編成化といっても工事内容は簡素なもので、連結する側の先頭車から運転台の撤去と前照灯・尾灯の取り外しが行われただけでした。車体構体・車内内部の構造は弄られておらず、運転室はそのまま残されています。手抜き工事という見方も出来ますが、当時既に8Rの各停専用車2000系の増備が行われており、近い将来に9000系をこれに代替することを見越した上での措置だったと言うべきでしょう。工事は小田急車輌で行われ、内容も簡素だった事から各編成ともすぐに運用に復帰しています。
 9007F・9008F・9009Fの3本は原形のまま残されていますが、9007Fと9008Fも基本的には8R扱いで運用されています。相方となるべき9010Fが既に存在しない(かつては存在していた)9009Fが改造されないのは当然として、普段から4R+4Rとして運用されている9007Fと9008Fが改造されなかったのにも、きちんとした理由があります。
 4R+4Rの固定編成化が行われたとはいえあくまで9001F〜9006Fは「それぞれ別の編成」であり、検査時期は同じ編成の中でもバラバラとなっています。しかし、片方が検査になって浮いた4Rの片割れは、片方の運転台が撤去されているために6R+4Rの急行運用には使用できません。このため、相方が検査に入ってしまった4R+4R編成の片割れは、自分が検査期でなくとも運用が不可能な宙ぶらりんな状態になってしまいます。これを防ぐために、4R+4R固定編成の片方が検査に入った場合には9007Fと9008Fが一時的にコンビを解消して、どちらかが宙ぶらりんになった固定編成化改造の行われた4Rの相方役になるといった運用が行われているのです。何かの都合で4R+4R固定編成の3本とも相方が使えなくなってしまったという事態に陥ったとしても、原形編成が3本あるのでその穴は補完できる…という仕組みです。
小田急電鉄 3200系クハ3050形3250番代(一次車) 日本車輛 (2004/2/18更新)

 小田急電鉄が2001年に製造し,2002年から運行を始めた通勤車輌が,この3200系です。前型式の2000型が登場したのが1995年なので,7年振りの新型通勤車という事になります。
 登場した当初はただ「3000系」と呼称されていましたが,将来的に4輌編成や8両編成,10輌編成といった組み合わせも作る事を見越して,3000系の中でも6輌編成のものは「3200系」と呼ばれるようになりました。最初に登場した一次車は6輌編成のみの存在なので,3200系となります。

 7年ぶりの新形式なだけあって,随所に新技術が投入されています。運転台には小田急通勤車初の左手ワンハンドルマスコンが採用され,台車には軸梁式の軸箱支持装置を持った軽量ボルスタレス台車が用いられました。制御関係ではIPM素子を用いた2レベルVVVFインバータが使われ,制動には停止寸前まで回生ブレーキで制動力を確保する純電気ブレーキが初めて採用されています。

 この他にも機構面で様々な改良が行なわれていますが,それよりも一番目立つのは新設計の車体です。
 前形式の2000系や1000系でも車体の材質にはステンレスが採用されていましたが,3000系ではステンレス使用ということは踏襲しつつも,設計は一からやり直しています。
 外観では,従来車が裾絞りを用いた2860mmのワイドボディであったのに対し,裾絞りを中止して他社並の2786mmに全幅を抑えたのが大きな特徴です。貫通扉が廃止された正面デザインも,良く言えばすっきりとした,悪く言えばのっぺりとしたものになりました。これにより,小田急通勤車の従来のイメージとは全く懸け離れたスタイルに仕上がり,鉄道愛好家からは大いに顰蹙を買いました。
 しかし,この新設計の車体で一番重要な点は,外観上の変更ではなく「外板厚を1.5mmから2.5mmに増厚し,その分補強用梁を減らした高剛性車体」という所にあります。この設計は,JR東日本のE231系といった超軽量車に比べると重量面では若干の増加を齎してはいますが,車体剛性は従来よりも遥かに引き上げられ,快適性や静粛性が向上しました。側面の窓配置も戸袋と開閉窓を組み合わせた独特なものとなっていますが,これも車体剛性を考慮して,柱の位置を最適化した結果こうなったものです。
 この結果,3000系は従来の通勤電車とは懸け離れた,ずば抜けて剛性の高い車体を得る事が出来ました。高剛性車体の恩恵は乗れば誰でも一発で分かるもので,従来のステンレス車では気になった走行時の車体の撓みがほぼ解消された事により,乗り心地が相当改善されました。床板や外板の振動が抑えられたことにより振動が原因の騒音も取り除かれ,結果的に静粛性も大幅に向上しました。床板からの振動入力がカットされた事は,立席での疲労軽減にも大きく寄与しています。勿論,クッションの硬いバケットシートが採用された座席も,従来の座席の柔らかい通勤車より遥かに快適になっています。

 このように,一見平凡な外観とは裏腹に,その実力はここ最近製造された各社の通勤車の中でもトップの実力を秘めていると言う事が出来ます。問題点があるとすれば,急行運用で4輌編成の在来車とで10輌編成を組んだ時に,制御のタイムラグが生じて加減速がギクシャクしてしまうという事くらいですが,これもソフトの改良によって解消されつつあります。
 ですが,外見からの第一印象に基づいた鉄道愛好家からの評価は,ずっと低い位置を保ち続けています。実際に毎日利用していればこれ以上有り難い車も無いのですが,正否と好悪は全く別問題であるということを顕著に表しているといえるでしょう。
広島電鉄1080型1081+1082 ナニワ工機 (2003/6/9更新)

 1976年に広島電鉄が宮島線用に阪急電鉄より購入した車です。
 元車の阪急210形は、京都線用に1956年に電動貨車の機器類を流用して車体のみを新造した車です。運転席のある先頭車両2両と、中間車1両の3両1編成のみが生産されました。しかし、台車の荷重制限によって車体は15m級と小型で、晩年は嵐山線に押し込まれていました。
 広電には運転台つきの電動車2両が移籍しました。入線にあたり、運転席後ろの扉(それと附随する戸袋・開閉窓1つ)を左右逆に移植しています。
 広電西広島側の1081号車が元阪急212号車、宮島側の1082号車が元阪急211号車となっています。パンタグラフは一応両方の車に装備されていましたが、1082号車のパンタグラフは予備的存在で、どちら向きに走る場合でも大抵の場合は1081号車のパンタを使用していました。1081号車のパンタのシューは2本ですが、1082号車のパンタはシューが1本になっています。
 広電の車としては大柄で、輸送力アップに貢献しましたが…1編成しかないためか、広電の中ではいまいち存在感に欠ける電車でした。入線直後は内装も阪急独特の木目を生かした内装でしたが、それも暫くするうちにペンキで塗り潰されてしまいました。
 最後まで存在感が希薄なまま、冷房化もされずに1989年に廃車解体されました。
明延鉱山 赤金(あかがね)号 (2003/7/10更新)

 運賃1円で有名だった 兵庫県の明延鉱山(金 銀 銅 鉛 錫 亜鉛 硫化鉄鉱山。昭和62年(1987年)閉山)で 活躍した電動客車。
 昭和40年代初頭の姿です。小規模人員輸送に使われました。前後左右非対称。運転台もドアも片側のみ。軸配置A−1。車輪の大きさが 前後で違います。
 実は「あけのべ自然学校」という施設で、他の車両と一緒に 大切に保存展示されている。
蒙古の戦車 DB601/DB609 (2003/7/22更新)


 蒙古の戦車とは、静岡鉄道駿遠線で活躍した ディーゼル機関車DB601〜DB609の あだ名です。

 戦後、買出し客の急増、設備・車両の老朽化で、地方鉄道は深刻な車両不足に襲われました。しかも、石炭の価格が高騰し、蒸気機関車は粗悪な石炭で 何とか走ってる始末。そこで地方鉄道向けに 森製作所や協三工業によって、蒸気機関車のディーゼル機関車化改造が 行なわれましたが、静岡鉄道駿遠線では 独自に自社工場で改造車両を作り上げました。

 蒸気機関車の下廻りを活用し、手元にある材料で 適当にでっち上げたので、各車まちまちの形態です。特に後期に製作された機関車の、そのユニークな、中途半端に流線形な形態から 当時の鉄道ファンによって「蒙古の戦車」と名付けられました。その後も、何度も改造しているので 形態が定まりません。
 ちなみに、変速機の関係から後進が苦手なので、終点で転車台に乗せる必要がありました。
圧縮空気機関車(日本開発機RA18形) (2004/7/25更新)

 圧縮空気機関車(エアーロコ・AL)は 主に鉱山で使用された機関車です。
 鉱山では爆発性ガスが発生する危険が常に付きまといますが、ここに火花を散らす機関車を投入する事は 自殺行為です。
 そこで考えられたのが圧縮空気で動く機関車。坑道内に張り巡らされた圧縮空気配管網を有効利用し 圧縮空気をタンクに蓄えます。

 しかし性能は単機で500〜600m、10t鉱車牽引で200〜300mしか走れず(手押しや ケーブルでいいじゃん(笑)。)・・・、目論みに反して経済性も悪く、  のちに防爆型蓄電池機関車や 防爆型ディーゼル機関車が登場すると 早々に姿を消しました。
 描いたのは小型なタイプ。

 同様のコンセプトで 蒸気を蓄えて走る「無火機関車」がありますが、こちらは火気厳禁な工場とかで まともに働いています。
バテロコ(ニチユBL2-F形) (2004/7/25更新)

 バテロコ――蓄電池機関車(BL)は、工事現場、鉱山、工場等で今も見られますね。メーカーはニチユ(日本輸送機)や、トモエ電機工業のモノが特に有名です。タイプは大から小まで様々。

 描いたのはニチユの2トン機。鉱山のエレベーターに積めるように 運転席部分が折りたためます。
西武鉄道 糞尿貨車 ト31形 (2003/10/27更新)


 戦時中の東京での話です。東京では、毎日の大量の糞尿を 各家庭→リアカー・大八車→トラック→水運→海中投棄で処理していたのですが、戦争の激化にともない トラックの燃料不足により輸送力確保が困難になり、困ってしまいました。

 そこで発案されたのが、都市部の糞尿を郊外に鉄道輸送し、畑の肥料として食料増産に役立てるという計画です。  沿線に農村のある 東武鉄道及び現在の西武鉄道が候補に上がり、それぞれ専用貨車が改造により誕生しました。  この輸送は西武は昭和19年6月から、東武は戦後の昭和24年から開始され、どちらも昭和20年代中頃まで続いたようです。

 さて、西武ト31形ですが、これは古い無蓋車(種車色々)の上回りを取っぱらって、コンテナ状の木桶を載せたものです。上の蓋の所から流し込んで、下のダクトから排出します。
 で、この木桶なんですが、隙間が多く、沿線に中身を撒き散らしながら走ってたそうで、線路際の雑草が良く育ったとか・・・。

 ちなみに、現在でもごく稀に糞尿貨車が走る事があります。これは処理場の改修等で 遠くの受け入れ処理場に輸送する場合などで、石油タンク車等を用途変更して使用します。もちろん用途復帰の際はしっかり洗浄するのでご安心を。

 糞尿貨車について興味を持った方は 「Rail Magazine」誌 連載の「トワイライトゾ〜ン」や、同増刊の「トワイライトゾ〜ンMANUAL」各号から記事を探し出して下さい。詳しい考察がなされています。このアイコンは「トワイライトゾ〜ンMANUAL」III号の図面・写真を参考にさせて頂きました
松山人車軌道の客車 (2004/3/7更新)


 鉄道の動力には電気、内熱機関、蒸気機関、馬力、牛力、犬力等色々ありますが、人車軌道とはその動力を人力に頼った鉄道です。主に鉱山等の軌道では人力が ごく普通に見られたのですが、これを小規模軌道の旅客輸送に置き換えたものといえます。 日本では明治後期から昭和初期にかけて見られましたが、どの軌道も長続きせず バス等に置き替わって短命に終わりました。

 松山人車軌道は 東北は宮城県松山町に大正11年(1922年)から昭和5年(1930年)に存在しました。が、旅客営業は昭和3年(1928年)には廃止されており すごく短命でした。 ですが開業時期が人車軌道の中では後発組であったためか、その車両が2輌も残されており、東京の「交通博物館(2007年、大宮に移転予定)」と地元松山町の「ふるさと歴史館」に展示されています。 さらに松山町の御本丸公園には完全復元レプリカがあり、年に数回 実際に運行されております。

 人車軌道の客車は どの軌道の物でも似通った造りで、デザイン的には馬車の延長といえるでしょう。両端面が入口で、ひさしの下にベルが備えてあり、停止してもらいたい所で乗客が紐を引くのでしょう。 ひさしの下には更に夜間に 前照灯のランプが取り付けられます。
 斜めの棒はブレーキハンドル、ブレーキは結構まじめな作り。惰行時にはステップに乗り 必要に応じてこのブレーキを操作します。

 ところで「人力では さぞや疲れるのではないか?」と思う方も おられるかも知れませんが、そんな事はありません。そりゃあ勾配線の登りでは疲れるでしょうが、主な人車軌道の平坦線の軌道では(軸受けの種類にもよりますが)ごく軽い力で押せます。(例えば現代のコンテナ車(コロ軸受)18t強とかは 平坦なら一人で押せます。)鉄軌道は偉大なのです。

 尚、一般的には「人車」とは鉱山等 産業軌道の作業員輸送用の車両をさすので、ここでは「人車軌道の客車」と表現しました。人車軌道の「貨車」っていうのも存在するし。
日車の単端 (2004/3/26更新)


 「単端」とは、自動車用動力・変速機を利用した気動車の中で、車体の片端にエンジン・運転台を置いた鉄道車両を言います。変速機が自動車用なので後進は苦手で、折り返しにターンテーブルを必要とします。昭和のはじめに各地の軽便鉄道で フリーケントサービスを目的として 相次いで登場しました。

 単端といえば まず思い浮かぶのが この、日本車輌製の標準型単端。「単端」とはそもそも日本車両の造語であり、いわばこれが正統派単端とも言えます。その形態は、当時のバス車体に そのまま鉄車輪を付けた様なもので、車体各部の絞りが特徴的です。足回りは片ボギー式等、数パターンありますが 車体の寸法は標準化されています。

 製作当初の標準エンジンはフォードT。のちに各鉄道で より馬力のあるエンジンに乗せ変えています(フォードA〜国産トラックのディーゼル等、解体業者から拾ってきたようなエンジンまで各種。)。 晩年は各種改造で「同じ形態の車両は一輌も無い。」という状況になります。これは他のメーカーの単端でもいえます。描いたのはオリジナルの形態。
井笠鉄道ジ1 (2004/3/26更新)


 昭和2年(1927年)日本車両製、定員20名。地味な存在。
九十九里鉄道キハ103 (2004/3/26更新)


 九十九里鉄道と言えば、大正15年(1926年)丸山車両製造製の この単端です。キハ101〜104が同じ形態です。
 描いたのは、エンジンをフォードTからフォードV8・110馬力に換装、木造車体に鉄板を貼り付けたニセスチールな晩年の姿。
 こいつが房総の平坦線を、トレーラーを2輌も牽引してトコトコ走っていました。
九十九里鉄道キハ201 (2004/3/26更新)


 昭和5年(1930年)雨宮製作所製。元々はチェーン連動二軸駆動だったらしいが、のちに一般的な前輪一軸駆動化。晩年のエンジンはニューフォードAA。 昭和33年頃エンジンを下ろしてトレーラー化。
沼尻鉄道ガソ101 (2004/3/26更新)


 沼尻鉄道のヌシ的存在の昭和4年(1929年)雨宮製作所製ガソ101。この車両も かなり有名な車両です。描いたのは晩年の姿。

 製作当初は両運転台式だったらしく、両側面窓配置が点対称になっています。チェーン式二軸駆動で、ラジエーターだけが正面に顔を出し、エンジンは車内、運転席脇に出っ張っています。
西大寺鉄道キハ5 (2004/3/26更新)


 岡山の西大寺鉄道の昭和6年(1931年)梅鉢鉄工所製単端。キハ1〜5がこの形態で誕生。 描いたのは晩年の姿で、エンジンはトヨタの26馬力。
 これまた独特なデザインです。後部には貫通扉があり 幅の狭いデッキがあります。隣の車両へ車掌が行き来するのに使用されました。
西大寺鉄道キハ1 (2004/3/26更新)


 キハ1〜5の内 キハ1、2は、戦後当時流行だった 国鉄80系湘南形を真似た「正面二枚窓 半流線形」な顔に改造されました。後部に貫通扉があるのは原型車と同じですが、こちらに付いているデッキは 自転車も積めるような大型となっております。
根室拓殖鉄道「銀龍」 (2004/6/20更新)


 銀龍号として有名な単端です。
 昭和24年(1949年)に田井自動車で バス形単端「かもめ」とともに、貨物用単端式無蓋ガソリンカーとして製作。就役後すぐに荷台部分を客室に改造。旅客化。

 エンジンは日産180型85HP。後部に脱線復旧用?(車体のバランスをとるための重しという説も。)の枕木を積んでいます。

 米国、リオグランデ・サザン鉄道の「ギャロッピング・グース」といわれる大型単端に スタイルが似ていることから「和製グース」とも言われています。
鉄道連隊双合機関車 (2006/1/20更新)


 双合機関車は日露戦争前後に導入された 鉄道連隊の主力機関車です。
 双合機関車は当時すでに バイエルン・プロイセン方面で野戦用に活躍しており、それに着目した日本陸軍が明治34年(1901年)に5両輸入。 軌間は600mm。
創設されたばかりの鉄道連隊で試用され、明治38,39年(1905,06年)に量産。 計188組376両、それと炭水車94両が導入されました。
 ちなみに明治38年(1905年)時点の日本全国の蒸気機関車の両数は599両との事。 すさまじい両数が一気に導入されたことが分かります。

 設計・試作5両はクラウスで、同じメーカーの伊予鉄道のいわゆる“坊ちゃん機関車”と通じるところがあります。
量産はハノーバー36両、クラウス10両、ヘンシェル10両、ハルトマン20両、シュワルツコップ35両、ユンク15両、ボルジッヒ37両、コッペル25両となっています。

 以後、千葉県の演習線で訓練に励み、日中戦争を機に続々と満州に送り込まれ、例の如く終戦時に ほとんど行方不明に。 国内には数えるほどしか残りませんでした。 よって、不明な点が多いいです。

 では、双合機関車の構造は?
 双合機関車は 貧弱な軌道に大きな機関車を実現するために考えられました。
でも、ボイラーの大きな機関車では急曲線で苦労するし、現地までの輸送が大変。 そこで小型機を多数という事になり、背中合わせにすれば機関士が1人でも運転できます。
 双合機関車は ただ単に2台の機関車を背中合わせにしただけでなく、1台の機関車として機能するようにA車B車で機器の配置が逆転しています。
逆転テコ、加減弁テコとも片側に揃えてあるため 横向きになって機関士は1人で運転します。 機関士が2人で運転する場合も、普通の重連機関車に比べて意思の疎通がしやすいです。

 また、A車B車で分解して使用することも可能。 その場合はそれ用の連結器を用意する必要があります。
55バーミル以上の急勾配では缶水が傾いて 双合のままでは運転出来なかったようです。

 実際の写真を見ると、だいたい機関士1名、助士1名、炭水車に制動係1名で運転してますね。 運転室床面も機関士1名運転に対応しているようです。
(外国では前後機関車を完全に一体化した双頭機関車も存在します。 でも センターキャブという以外あまりメリットが無いのですが・・・。)

 足廻りは 当時一般的なスチーブンソン式弁装置。 この装置は一般的には台枠内に隠れていますが、この機関車のように狭軌の機関車や、ボトムタンク(台枠内水タンク)を備えた機関車では外側につきます(外側スチーブンソン式弁装置。)。
 写真を見るとブレーキ(手ブレーキ)は第3軸のみにしか作用しないようですね。

 双合機関車はサイドタンクとボトムタンクを備え、炭水車も導入されましたが、さらに野戦用機関車ならではの河川等から直接給水する「揚水器」が装備され、そのホースが砂箱にトグロを巻きます。野戦軌道は突貫工事で敷設されるので、充分な給水設備が確保されるとは限らないのです。
 ボイラーにとって水は燃料よりもはるかに大事。 ぼんやり空焚きなどすればボイラーを破壊してしまいます。
 燃料の石炭は非公式側、サイドタンクの後半部分がコールバンカーになっています(非公式側参照。)。
鉄道連隊双合機関車更新機 (2006/1/20更新)


 双合機関車の何両かは戦前、更新工事がなされました。
写真を見ると、ブレーキシリンダーが備えられたっぽいです。それに伴って運転室裾を大型化。 あと、煙突の火の粉止めの改良、前部砂箱の大型化が目に付きます。

 また、少数が軸重増減を目的にB型機やD型機に改造され、その一部が森林鉄道や炭鉱に払い下げられています。
成田鉄道B6 (2006/1/20更新)


双合機関車は ほとんどが満州に消えてしまったため 国内ではあまり活躍していないのですが、極少数が民間に払い下げられています。
炭車 (2004/4/6更新)


 これは原始的な石炭運搬トロッコ。台湾の基隆炭鉱の物を描きましたが、まあ各地で見られました。小規模炭鉱では 晩年まで使用されました。
 積荷降ろしはスコップで掘じり出すか、車体を転覆させて。
 連結器は鎖式。推進時は台枠端を押しあって。
 ブレーキは無し。
箱トロ (2004/4/6更新)


 箱トロとは原始的な、それでいて効率的構造の 土運搬用の木製トロッコです。
 その構造・使用方法は、平トロの上に 上スボマリの木枠を乗せ 土を積載→ 積み降ろし場所で木枠を持ち上げて外すと 台形の土が残るので→ 後はスコップ等でザットならすだけ。 効率的。
 連結器は原始的な鎖式。ブレーキは無し。

 箱トロの活躍場所としては 客土工事(痩せた土地に 肥えた土地の土を持っていく事業)や、河川改修工事が有名ですが、段々とダンプトロやナベトロに置き換えられていきました。
ナベトロ (2004/4/6更新)


 ナベトロは 土砂や鉱石運搬用のトロッコ。名前の由来の「なべ」が 左右に転倒する様になっています。なべとろは現在でも 工事現場等で活躍しています。 転倒・支持方式等 車体構造は 色々あり、ブレーキは 有ったり無かったり。

 酷使されて歪んでいる「鍋」描きたかったんだけど、この大きさじゃムリ。
ダンプトロ (2004/4/6更新)


 河川改修工事でよく見られたタイプを描いてみました。まあ、ナベトロもダンプトロの一種なのだが、これは いかにも“土運車”なやつ。ブレーキ無し。
運材台車 (2004/4/6更新)


 運材台車とは木材の輸送を目的としたトロッコです。
 台車の上に回転する支持腕があり、木材を二台に跨らせて支持腕に積載することにより、まるで「木材を車体としたボギー貨車」のように 急カーブを走らせることが出来ます。
 荷崩れ防止策として 支持腕の左右にステーが立っており 木材を積載したのち 左右のステー上部間を鎖で結びます(日本で一般的な方式)。
 ブレーキは手ブレーキが基本ですが、森林鉄道によって色々工夫し、晩年の大規模森林鉄道では 空気ブレーキが装備されました。

 描いたのは右が木製、左が鋼製。この手のトロッコはメーカー製〜現場お手製まであり、鉄道連隊97式軽貨車改造なんてのもあります。大規模森林鉄道では当然 メーカー製の物を使用しています。
 古くなった運材台車は、各種車両に現地改造され 各森林鉄道で面白い車両が見られました。
平トロ (2004/4/6更新)


 セメント袋?肥料袋?飼料袋?を 積んでみました。
LBSCR E2 0-6-0T型 (2006/1/20更新)


フライング・スコッツマン (2006/1/20更新)


タリスリン鉄道のタリリン (2006/1/20更新)


この機関車は1864年に作られた蒸気機関車でタリスリン鉄道の一号機関車です、今もずっと使われています。
タリスリン鉄道二号蒸気機関車ドルゴッホ (2006/1/20更新)


この機関車もタリスリン鉄道の二号蒸気機関車です、 1866年生まれのこれまた古い機関車です。 1965年にレストア改良され、タリスリン鉄道で、現存しています、タリスリン鉄道のタリリンとは双子の兄弟です。