バスアイコン
解説協力:海野車体工業長楽寺工場さん.怪人三七型さん.鍋嶌さん
国産初の乗合自動車
モーター商会 (1903)
 (2002/11/10更新)

 広島の横川〜可部間を走った,日本初の国産乗合自動車です。この区間は当時から交通量が多く,それに目をつけた金庫業の杉本岩吉氏と貸座敷業の瀬川貞吉氏が,資本金3万円(現在の1億円くらい?)でバス事業を計画したのがその始まりです。
 車の設計は東京銀座の「モーター商会」に依頼されました。早速,同社の吉田眞太郎氏が渡米し,18psのエンジン購入と乗合自動車のカタログを取り寄せを行いました。そのカタログを元にシャーシを設計し,ボデーは馬車製造屋の協力のもと,日本式の馬車ボデーを製造,架装しました。
 こうして,総欅造の乗合自動車が完成したわけですが,最初はバス用のタイヤが間に合わずに仕方なく乗用車用のタイヤを使用していましたが,当然の如く試運転で早速タイヤがパンクし,運転不能になってしまいました。仕方なくアメリカにソリッドタイヤを注文して対応しようとしたのですが,輸入までには時間がかかるため,仕方なく馬車用のタイヤでお茶を濁しました。しかし,自動車の重さには到底耐えられる物ではなく,結局運転開始までには相当な時間がかかってしまいました。
 なんやかんやで苦労の連続なバス事業ですが,仮運行の段階での庶民の人気は文字通り爆発的とも言っていいものでした。それまで,主な交通期間は「脚」,ついても牛馬が精々というところに機械の力で走る車が出てきたわけですから当然の事です。交通機関としてよりも好奇心が元で乗る人の方が多く,沿道も「馬無し馬車」への好奇心から,黒山の人だかりができる状態でした。
 路線は,横川山陽鉄道駅前から可部明神前までの14.5kmで,毎日午前6時から午後8時までの運行でした。所要時間は1時間,運賃は24銭です。
 人気は高かったバス事業ですが,障害もまた相当なものでした。馬車業者からは目の敵にされ,様々な妨害が行われました。
 特に,正式開通の翌日に起こった妨害は凄まじい物でした。初日の開業式は横川で,翌日の開業式が可部であったのですが,そこから横川に帰還する途中に,八木峠の路上で横転していた無燈の馬車に追突,損傷するという事態が起きました。このため,開業早々いきなり運休するという羽目になってしまいました。
 そういった妨害・事故の中の文字通り「決死の運行」でしたが,運転者である内山駒之助氏が床下に潜り込んで修理を行っていた所,馬車屋に後ろから車を押されて,左腕を轢かれるという事態が起きてしまいました。流石に生命の危険を感じた内山氏は,東京へと引き揚げていってしまいました。
 その後も妨害は執拗に続き,結局この事業は9ヶ月で廃業の憂き目に遭ってしまいました。

 とまぁ,知ったげに書きましたが,実際のところはこのバス事業についての詳細は,よく分かっていないのです。
 何しろ,明治期の田舎で起きた事なので記録が決定的に少なく,しかも数少ない記録があれこれ錯綜している事もあり(1903年1月という資料もあれば1905年2月という新聞記事もあり),どれが正しいのか判断しかねるというのが実際のところです。
 1903年9月20日には京都で二井商会が堀川中立売〜七条・祇園間で乗合自動車が走らせたという記録も残っており,此方の方はバス事業免許取得の記録も正確に残っているために,バス業界の公式記録としては,此方が正式な「日本初の乗合自動車」とされています。9月20日が「バスの日」とされているのも,この事に因んでいます。

 こんな具合で,芳しい結果にはならなかったりしたこの広島のバス事業ですが,100年も前に国内初のバス製造を行い,地方の田舎で運行を行なったこのチャレンジ精神は,「魂のバスの起源」と言ってもいいのではないのでしょうか。

 余談。
 暫く後に全国各地で始まったバス事業は,かなりの数が馬車業者が行っています。それらの所ではさしたる妨害もなかった事を考えると,結局この広島に於ける事業の一番の問題点は「馬車業者出身の事業者ではなかった」事だった……
 なんて,言っちゃダメですよね。
木炭バス (2002/9/14更新)

95式軽戦車改「バチぞりバス」(北海道中央バス)
 (2002/9/14更新)

いすゞBH50P 20万キロ走行試験車
川崎重工業 (1967)
 (2002/11/10更新)

 1969年の東名高速開通に備えて,国鉄は国内のバスメーカ4社に東名高速経由の昼行・夜行ハイウェイバスの要求仕様を出しました。その要求仕様は64年から運行が始まった名神ハイウェイバスの実績を元に出されました。「高速連続走行」「長距離運行」「高出力エンジン」「高速から安定した制動力」「各装置の信頼性・耐久性の向上」といった要求性能は,戦後イチからスタートしなおしたも同然な日本バス業界の,ひとつの限界へのチャレンジといえる物でした。
 具体的な要求仕様としては,「サブエンジン冷房の採用」「それ(サブ冷)を前提にした320ps以上のエンジン」「高性能ブレーキ」「チューブレスタイヤ」「トイレ装着」などが挙げられます。国鉄専用型式として,運転機器配置を全メーカとも統一するという措置もとられました。
 これらの要求仕様を達成したという証として,国鉄は各メーカに100km/hでの20万km走行試験という課題を課しました。これをクリヤーする事が採用への第一条件だったのです。
 この距離は,東京〜神戸間570kmを毎日走行すれば1年で到達する距離であり,現在の目から見れば至極当然な試験でした。しかし,当時は勿論こんな試験は前代未聞のものであり,各メーカとも対応に追われました。

 いすゞは,ボデーを同社の指定メーカである川崎重工業に発注しました。なお,川崎にとってこの仕事は国鉄納入の第一号となりました。
 ボデーは「オバQ」という渾名で当時人気があった「川崎丸型ボデー」が採用されました。前後を絞った独特のデザインは,国鉄ハイウェイバスの中でも異彩を放つ存在となりました。
 エンジンは,新開発のV170型V型8気筒エンジンが搭載されました。16.5lのこのエンジンは,軽量コンパクトなのが特徴で,最大出力は330psを発揮しました。この数値は,国鉄の出した要求仕様をクリヤーしてはいましたが,他社のものよりも控えめな数値ではありました。このことが,同車にとっては後に不運な事になってしまうのです。
 ブレーキには全輪ディスクブレーキが装備され,高速運行に対応しました…が,これまた結局マイナスの方向に働いてしまう事になります。
 なお,計画時には前輪独立懸架が計画されており,これが実現されたならば大型バス初の独立懸架車という事になりましたが,流石にこれは試作だけで終わり,実際の走行に供される事はありませんでした。

 走行試験にあたり,いすゞは走行試験用の車を別に製造しました。後の生産車とは床下配置や窓配置が異なっており,トイレも装着されていませんでした。タイヤも従来のチューブタイヤが使われていました。
 試験は1967年10月12日から翌2月24日まで行われました。昼夜4交替で名神高速を走りつづけ,特に大きなトラブルも発生しなかった結果,4社の中では真っ先に20万km走行を達成する事になりました。
 このように,信頼性も充分で革新的な設計の同車は,国鉄ハイウェイバスで大活躍する…と,思われたのですが…
いすゞBH50P 量産車 川崎重工業 (1969)
 (2002/11/10更新)

 真っ先に走行試験をパスしたいすゞ車ですが,その後の運命は必ずしも幸運とは言えませんでした。
 まず,国鉄自動車局の行った試験の結果,「エンジンの出力不足」が真っ先に指摘されました。他社の車が350ps〜340ps確保している中で(三菱が19.9lのV12で350ps,日野が17.4lのB12で350ps(実際は340psに落として運転),日産ディーゼルが9.9lで2サイクルV8の340ps),幾ら要求をクリヤーしているとはいえ,いすゞの330psは見劣りがしてしまいます(というよりかは,本当に330psも出てたのかという説も)。
 そして,ブレーキ性能向上のための秘策であったはずのディスクブレーキにも足を掬われる結果となります。ディスク故の経済性の悪さ(パッドがすぐに減る)が嫌われたのです。

 そんなこんなで,BH50P型は「量産車」として生産されたにも関わらず,結局は納入初年度である1969年度生産分の2台しか生産されずに終わってしまいました。引退も他の3社の車に比べて早く,78年には廃車されてしまいました(日野車は79年廃車だが,これは室内空間が他の物よりも広かったために夜行で酷使されまくったから。三菱と日デの車は1980年に廃車)。
 東名専用車としては不遇な運命を辿った車でしたが,これを11m級に車体短縮したBH20P型,さらにエンジンを直噴化したBH21P型が自動車道用高速バスとして多数採用され,いすゞの面目を保ちました。

 なお,走行試験車と量産車の違いは,タイヤのチューブレス化・トイレの設置・窓の変更などが挙げられます。
日野 RA900P 帝国自動車工業 (1969)
 (2003/5/21更新)

 国鉄の東名高速バス専用型式として日野が開発したのが,RA900P型です。1965年に名神高速用に開発したRA120/100P型をベースに,エンジンの大型化を始めとして各部に改良を加えたモデルです。

 ボデーは,RA100系を金産自動車が担当したのに対し,RA900Pでは帝国自動車が担当する事になりました。1967年に発売された帝国の観光用ボデーをベースに,各所を高速対応させて架装しています。側面は前扉直後の窓を除いて全て固定となっており,左最後部の窓は便所の関係で擦りガラスとなっています。
 エンジンは,RA100系に搭載されたDS120型を改良したDS140型を搭載しています。このエンジンは,大型路線バス用エンジンのEB200型(水平直列6気筒)を二つ向き合わせて水平対向12気筒としたもので,出力は350ps/2400rpm,115km-m/1600rpmを記録しました。この出力は当時の観光バスやトレーラトラクタ用エンジンを遥かに凌駕するもので(それらで260〜280ps程度が当時の相場),国鉄の要求が如何に当時の標準と懸け離れていたかが分かります。
 なお,実際の運行ではここまでの出力は要らないといい事で,燃料噴射量を絞って340ps/2400rpm,110kg-m/1600rpmに落とされて運用されていました。
 水平対向エンジンの採用は,静粛性の向上と室内スペースの拡大というメリットをもたらしました。特に後者は大きく,他3社の車がいずれもV型ユニットを搭載しているために最後部に大きな雛壇が出来てしまったのに対し,水平ユニットの日野は最後部まで平らな床を実現していました。シートピッチは4社中最大の860mmを記録(いすゞ…845mm,三菱と日産ディーゼルが夫々830mm。客席は共通仕様で4列シート定員40名)しており,製造された全車が夜行便仕様で製作されました。夜行便仕様とは文字通り夜行運用に対応した仕様のことで,客席のシートが仮眠型座席(背もたれが高く,リクライニング角が大きい。座面も背もたれに連動してスライドする)となり,給茶用ポット(但しこれは1年程で取り外された)に読書灯,シートベルトが装備されていました。
 無論,トイレも装備されており,左後部に設置されていました。なお,左リアオーバーハングの車体裾下に汚物排出口が付いているのですが,この車は水平対向エンジン車で重心が低く,場合によっては路面に当たる可能性もあったので,排出口の下にガードが装着されています。
 エアコンも当然装備されていますが,この車ではサブエンジン式冷房が採用されました。これは,名神高速用のRA100Pで採用された直結式冷房が,渋滞時にバッテリー上がりを招いたり登坂時に冷房が出来なかったりという問題を抱えていたためでした。
 なお,東名線開通後暫くは乗客が車輌数に比べて余りに多く,東名専用の車だけでは乗客を捌ききれない状況にありました。そのため,名神用の車が借り出されたのですが…この当時,首都高速が渋谷までしか開通しておらず,バスも渋谷で下りて国道246号線を瀬田経由で運行していました。
 この国道246号線は渋滞が激しく,エアコンをつけていると直ぐにバッテリーが放電状態になってしまいました。そのため,名神から借り出された車が運用に当たった際は,極力シフトダウンさせて回転をあげるように乗務員に通達が回っていました。しかし,サブエンジンの東名専用車ではそのような問題も起こらず,常にエアコンを稼動させた状態で運行することが可能でした。サブエンジン式冷房の面目躍如です。
 この車の外観的特長は,フロントに自然通風式のラジエターを持ってきた事でした。これは,冷却性能の他に,前後の重量配分を考えたものでもありました。このため,初期車のフロントは他社と全くイメージの異なる独特な物となっていましたが,最大勢力の三菱車と日産ディーゼルが採用している富士重工製ボデーとイメージをあわせるため,後年フロントマスクを更新しています。

 この車は,東名高速バス開業日に一号便として使用されました。数的な主力は三菱のB907R型でしたが,敢えて日野車が開業便に選ばれたことが,この車の位置付けを物語っています。
 車輌仕様通り,RA900P型は夜行便のドリーム号をメインに使用されました。その後の増備も夜行仕様で行われています。

 年次と車輌の一覧を掲げると,以下のようになります。
  1969年…30台(訓練用・開業準備用・追加増備の3次に渡る,4社合計108台納入)
  1970年…7台
  1971年…増備なし(各社とも納入なし)
  1972年…5台(この年は日野のみ)
  1973年…5台(他に三菱車10台)
  1974年…日野の納入なし
  1975年…2台(この年に帝国自動車と金産自動車が合併し,ボデーメーカが日野車体工業に)
 以上47台が,国鉄に納入されたRA900P型です。

 RA900P型は一応民間にも発売されていましたが,エンジンをはじめとする各所に特別仕様を用いたために価格が余りにも高くなり,観光バスの1.5倍の価格(1200万円)となっていました。強力なエンジンも民間では使い道が無く,そのため民間にRA900P型が納入される事は最後までありませんでした。
 RA900P型の導入は1975年で止まっていますが,これは1974年にモデルチェンジした三菱車がエンジンの小型化により室内長を拡大し,シートピッチを850mmに延長したのと,ライバルの東名急行バスが撤退した事が原因として挙げられます。シートピッチが殆ど変わらない上に価格は三菱車の方が安価で,ライバルの事業者が消えた以上RA900Pを無理して入れる必要が無くなったのです。

 引退は1969年車から順次1979年より始められ,後期車は1980年代中頃まで活躍しました。
日野 K-RS360P スケルトン 日野車体工業 (1980)
 (2002/11/12更新)
 (2004/6/15更新)

 日本で初めての,本格的スケルトン構造ボデーを持ったバスです。それまでのモノコック構造と異なり,強度を外板ではなく骨格で保つ方式となっているので,トランクや窓などの開口部を大きくする事が可能となりました。
 RS系の試作車であるRS120P型(11m級低出力車,標準床)は,1977年に発売され,一部の事業者に少数が導入されました。翌年には12m級高出力のRS360P型が投入され,これが実質的に主力販売車種となりました。
 1979年に全長2種類(長尺・短尺)・エンジン2種類(高出力・低出力)と整理され,合計4型式が設定されて正式発売となりました。1980年にはエンジンを昭和54年度排出ガス規制に適応させ,型式符号の前に「K-」が付与されました。1981年には長さのバリエーションに中間尺(全長11.5m)が追加され,翌年には並行して販売されていたモノコック車のRV系と統合され,RU系「ブルーリボン」に発展しました。
 ボデーの高さは,フルデッカーと標準床の2種類が用意されましたが,殆どの事業者では並行して従来のモノコック車とスケルトンを入れていたので,大体「普及車のモノコック,高級車のスケルトン」といった感じで導入されました。そのため,生産された車の大半がフルデッカーでの納入となっています。
 この「スケルトン」は,直噴V8観光バス市場では明らかに劣勢だった日野の立場を,一気に引き上げました。端正なイメージのスタイルは当時の他社同クラスの車と比べて明らかに流麗かつ先進的で,三菱や川崎(いすゞ)は勿論の事,それまで花形とされていた富士重工までもが,一気に劣勢へと立たされてしまいます。
 余りにも日野が好調なため,他社は慌てて従来のモノコックバスを”なり”だけでもスケルトン風に改造したセミモノコック(…というよりは,「バケルトン」という別名の方がそれっぽい)のバスを登場させましたが,所詮それも泥縄。
 ひとり三菱だけは,1979年から次期車の開発に取り掛かっただけあって,1982年にこれまたバス業界をひっくり返す怪物「エアロバス」を発表するのですが…富士と川崎はそうもいかず。富士の方はそれまでトップだったボデーシェアを生かし,4メーカのシャーシに対応するという方法でそれなりに販売を保ちましたが,丁度IKコーチという新体制に移行する時期であった川崎は上手く身動きが取れず,80年代後半になるまで新型車を出す事が出来ませんでした。この頃のいすゞは観光・路線とも開発のスピードが極めて遅く,同時期にフルモデルチェンジを行なった路線系「キュービック」においても,エアサス車のモデルチェンジが1年遅れるという醜態を晒しています。この初動の遅さを取り返すのに,いすゞは10年以上の月日を費やす事になってしまうのです。
 このアイコンは,「フルデッカー12m級315psエンジン搭載」という所謂「フル装備」な,当時最も売れた型式であるK-RS360Pの広電バス観光仕様です。昭和55年式なので排ガス規制はクリヤーしていますが,外見上は特に従来と変更はありません。
日野 K-RS360P スケルトン(標準床) 日野車体工業(1981)
 (2004/6/20更新)

 1979年に本格発売された日野スケルトンですが、「廉価車のモノコックRV系、高級車のスケルトンRS系」という位置付けが為されていたために、販売の主力は室内にホイールハウスの突出しないフルデッカー車となっていました。
 しかし、77年にスケルトンRS系が発表された時は床高は標準床だけだった事からも分かるように、この当時はまだ標準床の観光車というものも極めて一般的な存在で、当然スケルトンRS系においても標準床車が発注されるといった事例は、数多く存在しました。
 標準床車も、エンジンと軸距の構成はフルデッカー車と全く変わりません。ですが、床が低くなった分床下の機器配置が変更になっており、若干トランクの容量が減ってしまっています。この点の改良は、82年にRV系を統合した後継モデル「ブルーリボンRU系」の登場を待つ事になります。
 なお、このスケルトンRS系の特色の一つに「2枚スイング扉」があります。リンクを使用して、前後に分かれて外側にスイングするこの扉ですが、国産のバスでは極めて珍しい事例といえます。本格的にこの扉を導入したのは、ごく僅かな生産で終わった西日本車体工業の3軸スーパーハイデッカを除けば、スケルトンRS系〜ブルーリボンRU系前期の間の日野だけでした。
 前後スイング扉を開けたときのインパクトは強烈で、スケルトンのイメージを強化させる役割を果たしましたが、実際の採用は思ったほど伸びませんでした。この方式の扉が普及しなかった理由としては、扉が車体前方に飛び出る事により、使い勝手に影響が出やすかったという事が挙げられます。欧州では普通に見られる形態のこの扉ですが、使い勝手をより重視する傾向にある日本の事業者には、あまり受け入れられなかったのです。
 スケルトンRS系には、標準床にもフルデッカーにもこの2枚スイング扉が設定されていましたが、標準床車の場合は扉の高さは変わらず屋根が下がっているので、扉を開いた時のイメージは更に強烈になっていました。
日野 P-RU638BB ブルーリボンスーパーミドル 日野車体工業 (1987)
 (2002/11/12更新)
 (2003/7/4更新)

 (2003/8/22更新)

 1982年に「スケルトン」とモノコックを統合する形で発売されたのが,「ブルーリボン」です。名前は変わりましたが中身はスケルトンと殆ど変わらず,窓が3cmほど大きくなっただけでした。大きな動きとしては,エンジン出力の増大と,従来のフルデッカーと標準床の間に「ミドルデッカ」という床高が設定された事が挙げられます。ハイデッカーほど価格は高くなく,標準床ほど貧乏臭くないこのミドルデッカは,各地の事業者に広く受け入れられました。
 ですが,1982年に三菱の「エアロバス」が登場した事により,日野優勢となっていた観光バス市場が一気に三菱優勢に傾き,日野はその対策に追われる事となりました。
 その結果,1985年に大規模なマイナーチェンジを実施し,フロントマスクやリアビューを大幅に変更しました。中身も進化し,前輪に独立懸架が採用されました。2軸初のスーパーハイデッカーである「ブルーリボングランデッカ」も追加されました。
 こうして,どんどんとバリエーションを広げていったブルーリボンシリーズですが,ミドルデッカの人気は高いものでした。特に,前輪独懸を採用したミドルデッカは「スーパーミドル」と呼ばれ,かなりの事業者に採用されました。広島電鉄もスーパーミドルを非常に好み,この型ではフルデッカは導入せずに,専らミドルデッカを導入しています。
 昭和62年度は観光・高速合計で15台ものスーパーミドルを導入しています。中でも,中国自動車道経由の高速車として導入された3916号車から3920号車の5台は,昭和59年度に導入されたミドルデッカが道路の融雪剤(早い話,塩そのもの)ですぐにズタボロになった教訓を生かし,ボデー外板をアルミやFRPに替えるといった特別仕様を採用,広電ハイウェイバスの名物車となりました。
 特別仕様はボデー外板だけに留まらず,国内初のリア導風スポイラー(リアウィンドの汚れ防止)やリアワイパー(これもリアウィンドの汚れ防止…なんだろうけど,これ以降どの車にも採用されてない事を考えるとやっぱり意味なかったんだなぁと。因みに,暫くして取り外されてしまいました)など,目新しい装備がてんこもりでした。外観も,他の高速車や観光車が前面が2枚窓でリンク式ワイパーだったものが,1枚窓のオーバラップ式ワイパーの物へとランクアップしています。
 しかし,時代はバブル。他の会社が豪華主義に走ってどんどんとスーパーハイデッカを入れていく中,幾ら特別仕様てんこもりのスーパーミドルといえど,乗客の受けは良くありませんでした。何より,車内トイレが無い事も大きく影響し,平成元年に床下トイレ付きスーパーハイデッカが導入されると,このスーパーミドルも一線から外され,長距離から中距離高速路線へと運用が変わってしまいました。
 しかし,後になって配備されたスーパーハイデッカがやはりサビでズタボロになってしまったのに比べ,特別仕様のスーパーミドルは何時まで経ってもピシッとしたまま,今も中国自動車道を駆け摺り回っています。
 なお,1台が現役を引退していますが,これは「たまたま新車が配備された場所にこの車が居た」というだけの話で,車自体はまだ至極元気な状態でした。おそらく,廃車ではなくてどこかで中古として引き続き運用されているのではないかと…
日野 P-RY638AA グランビュー 日野車体工業 (1987)
 (2003/7/10更新)

 昔から近鉄と共同で二階建てバスを試作するなど,二階建てバスに対して積極的だった日野が,1985年に満を持して発売した正式型式認証のダブルデッカバスです。発表は1983年の東京モーターショウにおいて行われていましたが,発売まで少々時間がかかりました。
 スケルトンボデーの先駆者である日野らしく,ボデーはフルスケルトン構造となっていました。フルスケルトン構造のために内部構造や板厚を薄くする事ができ,そのため広い窓面積と国内最大の室内高(1階1.650mm,2階1.700mm)を確保する事に成功しています。2階席の室内高を確保したためにアイポイントは国内トップの三菱より若干低くなっていますが,それでも3.21mと健闘しています。
 サスペンションは前軸が日野初の独立懸架,後前軸がロール剛性確保のためのワイドサスペンション,後々軸が車軸懸架となっています。無論総軸エアサスで,後々軸は前軸ステアと連動して自動で操向するようになっています。サスペンションの構造を工夫したためにステア時のの切れ角も大きく,最小小回り半径は9.0mと3軸バスとしては国内トップの取り回しを誇っています。
 エンジンは,ブルーリボン観光系に搭載されて低燃費と扱いやすさが評価されたEF750型にツインターボを装着したEF750T型を搭載しました。出力は360ps,国産DDとしては一番小さい出力でしたが,扱いやすさを重視したセッティングとなっています。ミッションはODの6速で,日野初の電空操作式マニュアルシフトである「FFシフト」が採用されました。ブレーキは,日野お得意のフルエアブレーキではなく,軽量化のためにエアオーバハイドロリック式ブレーキが使われています。このため,ペーパーロック対策としてブレーキはディスクブレーキとなっています。
 数々のハイテクを駆使し,使い勝手にも細部まで拘った意欲作のグランビューでしたが,肝心の販売の方は不振に終わりました。これは,日産ディーゼル・三菱に比べて若干発売が遅かった事,既に相当数のダブルデッカが国内の事業者に行き渡り,市場自体が既に飽和状態に差し掛かっていた事,グランビューの「力強いデザイン」はエアロキングの「流麗なデザイン」に比べて事業者に受けが悪かった事…などが挙げられます。そして,グランビューの発売時期は既に国産のスーパーハイデッカが出現し始めていた時期でもあり,グランデッカよりも2000万円位安価なそれらは,早くも二階建てバスのお株を奪い始めていたのです。
 総販売台数,12台。国内で初めて二階建てバスを手掛け,国産二階建てバスの先駆者として有名だった日野の技術の総決算でしたが,その結末は余りにお粗末なものでした。モデルとしては「二階だけバス」であるセミダブルデッカも設定されていましたが,スーパーハイデッカのグランデッカが居たためにそのような需要は無く,結局幻のモデルに終わっています。
 平成元年度排出ガス規制に対応することもなく,1990年にひっそりとモデルとしての役割を終えました。当然,後継モデルが開発される事は無く,これ以降日野は二階建てバス事業に進出していません。
 生産された12台は,画像の道南バス仕様の2台を含めて今でも一応全車現役(…のはず,2003年7月6日現在)ですが,その内の1台は既に看板観光バスの役目を終え,全面的に再塗装が行われ……

 これ以上は言えません。
日野 P-RU638BB 西工SD-1架装車 西日本車体工業 (1988)
 (2003/7/10更新)

 スーパーハイデッカ花盛りといった感じのある80年代後半の日本のバス業界ですが,九州は小倉に本拠を構える西日本車体工業も4社のシャーシに対応するスーパーハイデッカボデーを開発しました。これが「SD型」といわれるボデーです。
 SD型は2種類あり,ハイデッカシャーシをベースに背の高いボデーを架装したSD-1型と,スーパーハイデッカシャーシをベースにしたSD-2型がありました。このうち,SD-2型は三菱のMS729S型専用ボデーで,残り3社のシャーシにはSD-1型のみ架装されました。
 販売のメインになったのは対応メーカの多いSD-1型ですが,ベースシャーシが低いために眺望が普通のハイデッカと殆ど変わらず,観光用には殆ど導入されませんでした。導入されたのは主に高速路線で,西日本車体工業のホームグランドである九州における都市間高速バスの隆盛に合わせて,相当数が製造されました。西日本の事業者にも,高速路線用にそれなりに導入されています。

 この塗装の広電バスも,広島福岡線「ミリオン」開設時に西工車体の日野車を導入しています。これは共同運行相手である西日本鉄道(西日本車体の親会社)にあわせたものですが,他にも阪急バスをはじめとしてこういった例が数多くみられます。
 この塗装は広電の「ミリオン」予備車で,西鉄の高速カラーに準じた塗装の他3台とは異なり,広電の緑塗装が特徴でした。一応スーパーハイデッカのために車高が他の「緑シマシマ」よりも高く,その塗り分け面積の広さから一部からは「シマシマお化け」と呼称されました。が,導入後数ヶ月で他の車と同じ塗装に変更されてしまいました。
 車自体としては,日野のハイデッカが他社のモデルよりもシャーシのベース位置が高いためにSD-2並みのアイポイントを誇っていましたが,後軸がワイドサスでないためにロール剛性が乏しくなっていました。その上,SD型ボデーは日野純正ボデーよりかなり重く,高くなった重心と相まって横安定性は誉められたものではありませんでした。その上エンジンパワーに余裕が無いのは変わらないため,乗務員には厳しい車となっていました。
日野 P-RU638BB ブルーリボングランデッカ 日野車体工業 (1989)
 (2003/7/10更新)
 (2003/8/22更新)

 1970年代に巻き起こった豪華観光バスブームは,輸入バスブームや二階建てバスブームを経て,結果国産のスーパーハイデッカの普及という形でゴールを迎えました。スーパーハイデッカとは,文字通り「スーパーなハイデッカ」,即ち「ハイデッカより更に高い床を持つバス」の事を指します。欧州では1970年代には既にかなり普及していた形式ですが,日本では1980年代になるまで該当するモデルが存在しませんでした。
 国産ゆえの割合安価な価格と,二階建てバスほどではないにしてもかなり高いアイポイントを両立する国産スーパーハイデッカは,超高床観光バスを導入したいけれども諸々の事情によって二階建てバスや輸入バスを購入できない事業者にとって,福音ともいえる存在でした。
 このスーパーハイデッカへの対応は,各社様々でした。1984年にはまず三菱がハイデッカからの改造扱いで「スーパーエアロ」を発売,続いて日産ディーゼルが3軸のDA66T型を発売,これが国内で初めて正式に型式認証されたスーパーハイデッカとなりました。
 これに対し,日野は1985年のブルーリボン観光系のビッグマイナーと同時に,2軸のスーパーハイデッカを追加しました。このモデルは国内で初めて2軸シャーシで正式型式認証を受けたスーパーハイデッカとなりました。
 登場当初は前面のガラスが上部分割となっていましたが,じきに全一体型に変更されました。側面のパネルラインも初期車はハイデッカと同じ高さになっていましたが,ガラスの一体化とほぼ同時にスーパーハイデッカの床面に合わせて位置が高くなっています。
 1987年にはサイドのモールが廃止され,同時にスーパーハイデッカのブランドネームである「グランデッカ」という名称がつけられ,これ以降日野のスーパーハイデッカは「グランデッカ」と呼ばれる事になります。
 1988年には前プラグドアのデザインが変更され,1989年には後部エンジンパネルが段つきから平板へと変更されています。…が,この二点は車によっても違っており,様々な組み合わせの車が存在しています(つまり,かなりいい加減)。そして,1990年に後継車のセレガGDにモデルチェンジを果たし,生産を終了します。
 この車のエンジンは,フルデッカのものと同じ330psのEF750型が搭載されていました。が,このエンジンはスーパーハイデッカの図体には明らかにアンダーパワーで,走行性能には明らかな問題を抱えていました。これは,日野車体製の標準ボデーを搭載した車,即ち「日野ブルーリボングランデッカ」ならまだしも,同じシャーシに西日本車体がボデーを架装した「日野P-RU638BB SD-1架装車」になると更に顕著になり,西工SD型ボデーの元々の重さも祟って,その走りは凄まじく鈍重なものとなっていました。
 しかし,モデル途中での出力アップは行われず,パワー不足は最後まで解消できないままでした。その中で,三菱が満を持して1988年に発売した2軸スーパーハイデッカの「エアロクイーンM」は355psの出力を発揮,軽量車体と相まって,走行性能面でグランデッカを圧倒しました。それが,丁度この頃全国的に流行していた夜行高速バスの車種選択に影響し,エアロクイーンMは高速バスの中で約60%のシェアを獲得する事に成功しました。一方の日野グランデッカは,いすゞ・日産ディーゼルには勝るものの,結局30%弱のシェアしか獲得する事が出来ず,夜行高速バス市場においては完敗を喫しました。このことがセレガでの大幅なパワーアップにつながり,セレガでは370psを発揮するに至るまでになります。それに対して三菱も出力向上で対抗するというパワーウォーズが始まるようになるわけですが,それについてはまた別の機会に。

 高速バス市場では水を開けられた格好のグランデッカですが,本命の観光バス市場では日野の特徴であるしっかりした作り込みにより着実な支持を得て,エアロクイーンMと拮抗…とまでは言いませんが,かなり善戦しました。

 アイコンのモデルは,広電バスの新大阪線三代目専用車輌となった車です。二代目のブルーリボンスーパーミドルとは異なり車体は普通の鋼製だったので,最末期にはシャーシもボデーも傍目に見て再生不能であると分かるくらいにボロボロになっていました。
日野 U-RU3FTAB セレガGJ 日野車体工業(1990)
 (2004/11/29更新)

 日野の大型観光系は、1990年の平成元年排出ガス規制に対応する際に、8年ぶりのフルモデルチェンジを実施しました。同時に名前を「ブルーリボン」から「セレガ」として、完全に路線系と観光系との住み分けをはっきりとさせています。
 ボデーラインは従来の無骨なものとは一線を画す流麗なもので、「セクシー」と「エレガント」からの造語である名前に相応しいラインを持っています。空力を重視した柔らかいフォルムや、フロントオーナメントがフロントのフラッシャーになっているなど、従来には無かったデザイン上の新機軸が随所に採用されています。また、マイナーチェンジ後のブルーリボンから採用され始めたリアの導風ウイングも、最初から装着を前提にデザインされたスタイルとなり、同級他車には無いセレガならではの工夫と言えるでしょう。しかし、構体自体はブルーリボンのものを多く踏襲しており、基本構造は同等と言えます。
 シャーシ面での変更は、大きなものとしてホイールベースの短縮が挙げられます。燃料タンクをホイールベース内に配置する構造は従来と変わりませんが、フロントオーバーハングを延長する形でホイールベースを短縮し、6.6mから6.48mへと変更されています。これは、従来の日野12m車の欠点であった取り回し性改善のための方策です。
 また、3段階の可変減衰機能を持ったショックアブソーバの採用や、乗降時にフロントサスの空気を抜いて車高を下げるクラウチングシステムの初採用など、足回りも従来車より大幅に改良されています。
 エンジンは、NAのV8OHVが3種類が設定されています。従来のEF750に相当するベーシックエンジンF17D(310ps)、F17Dを排気量アップさせたF17E(340ps)、そしてさらにそれより大きい、OHVディーゼルとしては世界初の4バルブヘッドを持ったF20C型というラインナップとなっています。F20C型に関しては、1990〜92年は370ps、92年のABS標準化時に380psになり、そして1994年のホイールベース短縮時には400psまでパワーアップしています。
 シリーズでも一番床の高いスーパーハイデッカは、高出力エンジンのF20C搭載モデルと、340psのF17E搭載モデルが用意されていました。しかし、実際のところF17E搭載モデルのU-RU2FTABのスーパーハイデッカ(Gシリーズ)を購入した事業者はほぼ皆無で、初期のセレガGシリーズはほぼ全てF20C搭載モデルのU-RU3FTABと見て間違いないといえます。
 また、3つのボデータイプが設定され、ユーザごとの細かい仕様要求に対応しています。従来の「ブルーリボングランデッカ」に相当する前面1枚窓スーパーハイデッカ「セレガGD」、同じく「ブルーリボングランシアター」に相当するシアタータイプ(後部に行くに従って床が高くなる傾斜床仕様)である「セレガGT」、そして、「ブルーリボングランジェット」に対応する前面2枚窓低運転台仕様の「セレガGJ」という編成です。
 前面2枚窓低運転台仕様は、三菱/呉羽の「エアロクイーン(K)」がブームをもたらした仕様です。ダイナミックな前方視界とともに、インパクトのある外観が人気を博し、観光バス業界の中でもその需要は高まっていました。日野がその需要に答えた車が、「ブルーリボングランジェット」でした。しかし、同車は前面1枚窓スーパーハイデッカである「グランデッカ」の改造車扱いで、その点が事業者をして導入を躊躇わせていたという側面があります。同モデルを正式にラインナップに組み込み、一気に観光系モデルのシェアを伸ばそうというのが、日野の目論見だったのです。
 日野の見込みは見事に成功し、セレガGJのヒットによって日野は観光バスにおけるシェアを一気に伸ばす事に成功しました。また、GJのヒットは同時に、観光バス業界における前面1枚窓スーパーハイデッカの退潮傾向を加速して行く事になります。

 ちなみに、このセレガシリーズは、「観光バスのパワーウォーズ」という現象を巻き起こした張本人でもあります。従来のブルーリボングランデッカがアンダーパワーに苦しんでいたことの反動によるF20C型370psエンジンの採用は、競合他社、特に三菱の競争心に火をつけることとなり、90年代一杯続く400psの大台への競争、そして超400ps級エンジンの展開へ…といった動きを作ってしまったのです。
 あらゆる意味で、従来とは異なる時代を形成した車と言うことが出来るでしょう。
日野 KC-RU4FSCB セレガGDインターシティ 日野車体工業 (1999)
 (2004/11/22更新)

 1990年の日野セレガ登場から始まった観光バスのパワーウォーズは、各社が平成6年度排ガス規制対応モデルを登場させてからも続きました。セレガも1996年のチェンジで高出力モデルを430psのF21C型を搭載したKC-RU4FSCB(フルエアブレーキモデルは「RU4FSDB」)型に変更、三菱の420psに対抗しました。
 高速バス市場でも、P/U規制時代の三菱エアロクイーンに対する劣勢は影を潜め、各社で盛んに導入されるようになりました。前面窓1枚モデルのスーパーハイデッカモデルGDは特に高速用車として人気を博し、各地の日野ユーザに導入されました。昼行高速バスとしてだけでなく、三菱が安定した土壌を築いていた夜行高速バスにも、「セレガGDインターシティ」としてかなりの数が導入されています。

 このアイコンのモデルも、広島県福山市の中国バスが平成11年に広島〜横浜線「メイプルハーバー」の車両更新用に購入した、独立3列シート・中央階下トイレの夜行車です。日野伝統の売りである丁寧な造作に広い室内空間、安定した走行性能が組み合わさり、夜行用バスとして最高レベルの居住性を誇っていました。
 しかし、平成16年11月14日未明、山陽自動車道で路外逸脱事故を起こし、車両火災の末、全焼の憂き目に遭ってしまいました。就役してから僅か5年、誰もが想像しない形での退場でした。
日野 KC-RU4FSCB セレガGJ 日野車体工業(1998)
 (2004/11/24更新)

 1996年に行われたセレガのマイナーチェンジでは、前面1枚窓スーパーハイデッカのGDとともに、前面2枚窓低運転台スーパーハイデッカシリーズであるGJも同じ変更を受けています。
 セレガ誕生以来、観光用途としては明らかに前面1枚窓のGDよりも受けが良かったGJですが、このチェンジを境にその趨勢がよりはっきりしていきます。また、それと同時に、GJは高速用途にはまず使わないという不文律のようなものも出来上がっています。前面2枚窓車の売りである良好な前方視界は高速用途にはまったく無駄であること、そして1枚窓車よりも低運転台2枚窓車の方が製造コストの関係から価格が高い…といった事が理由として挙げられます。
 とはいっても、観光バスとしてはGDよりもGJの方が圧倒的に売れたので、セレガシリーズのイメージリーダーとして君臨することになりました。
三菱 P-MS725S エアロバス 三菱自動車工業名古屋自動車製作所 (1984)
 (2002/11/28更新)

 三菱が1979年から開発を始め,1982年に発売した大型観光バスです。
 イタリアのデザイナーであるセッサーノ氏による斬新なデザインと,前輪独立懸架などの新しい試みが受け,多くの事業者に幅広く導入されました。1977年の日野スケルトン発売以来,存在感の薄くなっていた三菱の観光バスですが,このモデルにより立場を完全に奪い取り,以後の三菱のシェアを不動のものにしました。
 1982年の発売以来,バブル期の豪華観光バスブームにも乗って,1988年のマイナーチェンジまでだけで7000台を生産しました。マイナーチェンジ後も排ガス規制をクリアーしつつ,1992年のフルモデルチェンジまでずっと販売が続けられ,その生産台数は10000台以上。文字通り「石を投げれば当たる車」となりました。
 生産時期が10年間と長かっただけに,今でも全国各地でその姿を見ることが出来ます。この絵のような初期型は流石に廃車が進んでいますが,そのデザインは未だに古臭さを感じさせません。この車以降に登場した車は何かしらこの車の影響を受けており,その流れは未だに続いています。
 アイコンのモデルは,広交観光に入った最初期型エアロバスです。外見的にはバンパーのデザインと燃料タンクの占有面積の大きさが,室内では旧モデルから引き継いだ黒く角張ったインパネが特徴となっています。
三菱 P-MS735SA 富士重工 (1984)
 (2002/11/23更新)

 最後の国鉄専用型式として製造された車です。1984年から1986年の1次までで,合計16台が生産されました。
 東名ハイウェイバスとしては初のハイデッカ構造を採用し,塗装も側面に大きく国鉄のシンボルであるツバメを描くなど,大きくイメージを変えました。

 メカニズム的には,1982年に発売された三菱エアロバスに改良を加えたものが採用されています。エンジンは標準の8DC9型320psにターボをつけて350psにアップさせた,8DC9T型を搭載しています。
 ボデーは東名ハイウェイバスの伝統に則り,富士重工のものが架装されています。標準の富士重ハイデッカボデーよりも約10cm嵩上げされたこのボデーに,大型のCベントガラスを装備しています。このボデーは標準のエアロバスの物に比べて重いため,ロール性能を上げるためにリアサスにはワイドサスが採用されました。
 このように,新世代の東名ハイウェイバスとして作られた同車ですが…性能・信頼性の両面において市販車が遜色ないレヴェルまでアップした事から,嘗てほど「先進的な車」とは言えなくなっていました。
 ボデースタイルにしても,この富士重工のものよりも標準の三菱製のほうが遥かに先進的でした。4列シート定員42人で左最後部トイレという昔ながらの室内装備も,高速バスのサービスアップ期と丁度重なっていたため(丁度この頃から3列シート定員29名・中央階下トイレという形式が登場),登場時から既に陳腐化していました。
 結局,市販車の急速なレヴェルアップとサービスてんこもりの民鉄系高速バスの台頭により,国鉄専用型式はその使命を終えました。1986年の2次からは民鉄系に対抗する為に,より豪華な3軸式スーパーハイデッカを採用し,完全に専用型式と別れを告げる事になります。
 この車自体もJRに移管後じきに東名運用を離れ,各地の準高速線で使用されつづけました。その運用を補完するために購入された車は,市販のエアロバスのエンジンにターボを載せたP-MS725SA改型…何の事はない,国鉄専用型式のボデーを三菱製に変えただけの車でした。
 それまで「バスボデーといえば富士重」と業界の中でもその名を欲しい侭にしていた富士重工に,どこか翳りが見え始めたのも丁度この頃からでした。
 その凋落と対照的に,三菱はこれ以降さらにセールスを拡大,ひとつの”帝国”を築き上げることになるのです。
三菱 P-MU525TA エアロクイーン 三菱自動車工業名古屋自動車製作所 (1986)
 (2002/11/28更新)

 1985年に発売された,三菱初の本格的スーパーハイデッカです。同時に発売された2階建てバス「エアロキング」と共通の3軸シャーシを使用し,「エアロクイーン」というブランド名で販売を始めました。
 前輪の独立懸架はエアロバスと同じ物を使用し,後前軸は車軸式エアサス,後々軸は独立懸架を採用,操舵機能を組み込んで操向を可能とさせ,最小回転半径縮小と高速域での操安性を高めました。
 エンジンは,エアロバスの8DC9型にターボをつけた8DC9T型を搭載しています。但し,チューニングが違うために国鉄専用車の8DC9Tより30psアップの380psを発揮しています。
 外観的にはエアロバスをそのまま嵩上げしたような感じで,初期型では前面窓の上部に仕切りが入っています。
 3軸のために軸重を多めに設定する事が出来,80年代に流行った末期の重装備サロンバスに多数導入されたほか,走行安定性を買われて高速バスにも導入されました。なかでも国鉄はこの車を好んで用い,東名ハイウェイバスに初めて市販車として導入しました。JRになってからもこの車の導入は続き,1988年に2軸の本格的スーパーハイデッカであるエアロクイーンMが発売されるまで,纏まった数が納入されています。
 1988年以降は販売台数を激減させますが,それでも3軸故の架装自由度はサロンバスには魅力で,エアロバスシリーズがフルモデルチェンジを行う92年まで,マイナーチェンジと排ガス規制対策を行いつつ生産され続けました。

 このアイコンは,夜行用車として初めて国鉄に納入されたグループの車で,国鉄塗装からJR西日本塗装へと変わる途中の状態を示しています。
三菱 P-MU515TA(T) エアロキング 新呉羽自動車工業 (1985)
 (2003/5/25更新)

 1970年代末に巻き起こった輸入二階建てバスブームに乗る形で三菱が発売したのが,このエアロキングです。1983年の東京モーターショウで発表され,1985年1月に発売されました。
 ボデーは三菱自動車ではなく新呉羽(開発時は呉羽自動車)が担当し,三菱自工系と異なる独特のラインが特徴でした。輸入車にはない独自のスタイルは事業者から好評で,国産二階建てバスの中としては一人勝ちを収めました。
 エンジンはV8の8DC9型にターボを装着した8DC9T型で,国産最強の380psを発揮しました。このエンジンは,排ガス規制対応が為された上で1995年のマイナーチェンジまで搭載されました。
 1988年にマイナーチェンジを行い,フロントライトを三菱自工系のスーパーハイデッカ「エアロクイーンM」のものと共通化しています。1992年にシングルデッカのエアロバス系のFMCが行われましたが,エアロキングだけは変更無しでそのまま生産が行われています。

 この塗装は,エアロキング初期型のサンプルカーに施されていた塗装です。
三菱 P-MS725S改 スーパーエアロT 三菱自動車工業名古屋自動車製作所 (1986)
 (2002/11/29更新)

 三菱が初めて発売したスーパーハイデッカが,このスーパーエアロTです。1984年に発売されました。
 とはいっても,この車は正式なカタログモデルではなく,あくまでエアロバスの改造車という形での販売でした。そのため,正式な型式認証はとっておらず,MS725S「改」という形で販売されました。
 これはあくまで実験的なモデルで,第三柱からフロントスクリーンに向かってルーフとサイドウィンドウが下がるというデザインを用いていました。この”超個性的”なスタイルのお陰で販売台数は限られてしまい,総生産台数は29台に留まりました。
 注記:正式型式認証され,カタログモデルとして販売されていた日野と日産ディーゼルのダブルデッカバスの生産台数:日野12台,日デ13台也。。

 まぁ,三菱の販売力というか,ブランドの恐ろしさというか。
 この塗装は,日本急行バスが名古屋と京都を結ぶ都市間高速バス用に導入した車を,貸切に転用した状態を再現しています。大型のTVアンテナと後部の(純粋に飾りである)巨大スポイラーは,名古屋観光グループ車の特徴で,「名古屋スタイル」と呼ばれました。
三菱 P-MS725S改 スーパーエアロII 三菱自動車工業名古屋自動車製作所 (1986)
 (2002/11/29更新)

 余りにも遊びすぎたスタイルのスーパーエアロTの反省を踏まえ,大人しいデザインで1985年に登場したのが,スーパーエアロUです。
 エアロバスをそのまま背伸びさせたデザインで,3軸のエアロクイーンに繋がるスタイルが好評でした。なお,2軸のために軸重に不安があったためか,スーパーエアロシリーズの全高はスーパーハイデッカとしてはやや低めの3475mmに抑えられていました。
 この”U”が発売されるまで”T”の方は「スーパーエアロ」という名称でしたが,この車の発売に合わせて”T”が付与される事になりました。

 プレーンなスタイルは幅広い事業者に受け入れられ,総生産台数は156台。日本全国に普及しました。
 …ここで注意すべきは,この”U”も,基本的には「試作車」,カタログモデルではなかったということです。にも関わらず,一つのモデルとしてこれだけの量を売りさばいたという事ですから…まぁ,なんというか。
 T・Uともども,1988年に真打であるエアロクイーンMが発売されるまで,正産されつづけました。
 なお,この塗装は,現在の標準的高速バスのスタイルを確立した事であまりに有名な「ノクターン号(弘前〜品川線)」の初代専用車です。弘南バスと京浜急行が運行を行っていますが,弘南バスの塗装を再現しました。
三菱 P-MS729SA改 エアロクイーンM 三菱自動車工業名古屋自動車製作所(1989)
 (2003/8/22更新)

 1984年のスーパーエアロT・U,1985年のエアロクイーン(3軸車)に引き続いて,1988年に三菱自工名自製作所から発売されたスーパーハイデッカが,エアロクイーンMです。
 1982年に発売された「エアロバス」のスーパーハイデッカ版という位置付けはスーパーエアロシリーズと変わりませんが,改造車扱いだったスーパーエアロとは違って,正式なモデルとして発売されました。

 基本はエアロバスがベースのこの車ですが,スタイルを更に曲面主体のものに変更したため,ぱっと見は完全新設計の車に見えるのがポイントでした。スーパーエアロシリーズではいかにもエアロバスを嵩上げしたという感じのスタイルでしたが,フロントマスクに曲面を多用する事により不自然さを感じさせない自然なラインとなり,これが事業者・乗客サイドからかなり受ける事になりました。
 車高はベースのエアロバスより270mm高い3545mmとなっています。この数字は,同じ2軸スーパーハイデッカのスーパーエアロシリーズよりも70mm高いということになりますが,当然その分軸重が嵩みます。  日本では法規で1軸あたりの軸重が10t未満と規定されているのですが,この時期の高床観光バスではこの「10t軸重」が大きな問題となっていました。元々スーパーエアロが全高抑え目の設定になったのも軸重問題からで,エアロクイーンMの開発にあたっては軽量化が最大の課題になりました。
 軽量化のために,ボデー構造には樹脂やアルミが多く用いられました。そして,一番の問題となる後軸荷重の軽減のために,エンジンにアルミを用いたりボデー構体の構造を見直すなどの大きな改良を加えました。結果,最大定員62名を確保する事に成功しています。
 エンジンは,エアロバスに搭載された8DC9型の排気量アップ型である8DC11型が搭載されています。V8自然吸気17.7lのエンジンは355psを発揮,2軸観光バスとしては当時国内最強を誇りました。
 足回りはエアロバスと基本的に共通で,前軸独立懸架で後軸車軸懸架というオーソドックスな組み合わせとなっています。ABSもオプションで設定されるなど,安全性にも配慮されています。
 ブレーキは従来通りエアオーバハイドロリックとフルエアの2種類が設定されました。一般に,観光用に製造された車はエアオーバ式,高速用に製造された車はフルエア式となっています。フルエア車は型式名称の末尾に「A」がつくことで区別がつきます。

 1988年9月に発売され,1992年10月に後継車の「ニューエアロクイーンT」にバトンタッチするまで,エアロクイーンMは売れに売れまくりました。発売時期が丁度夜行長距離バスの開設ブームだったこと,バブル真っ只中で豪華観光バスの需要が極めて多かったことも原因として挙げられますが,それを考慮しても僅か4年間で車輌価格4000万円以上の車が約800台も生産されたというのは,驚くべき事実であるといえます。
 特に,夜行高速バスでは無敵の強さを発揮,全体の60%以上のシェアを獲得したと言われています。普段三菱を余り入れない事業者ですら,夜行高速バスだけはクイーンMを導入したという話が数多く存在する辺り,この「エアロクイーンM」という車がどれだけ売れたかが分かります。

 生産中止になって10年以上経ちますが,今なお全国各地で観光バスとして運用されている姿を目にすることが出来ます。流石に走行距離が桁違いに長い高速バスにおいては引退が進んでいますが,それでもこのアイコンの車のように,製造後13年経った今も広島〜東京という超長距離路線を走破している車も見られます。
 同時期の他社の車が明らかに「一世代前の車」というイメージなのに対し,このエアロクイーンMは未だにそこまで古さを感じさせません。今後も,まだ当分は第一線級の車として活躍するものと思われます。
三菱 MU612TX エアロキング 三菱バス製造 (2000)
 (2003/1/29更新)
 (2003/5/22更新)

 この「エアロキング」は,1985年に三菱が発売した国産2階建て(ダブルデッカ)バスです。当時流行っていた豪華観光バスの流れに乗る形で発表されました。同時期に日野・日産ディーゼルからもダブルデッカバスが発売されましたが,ともに販売不振で1990年には販売打ち切りとなりました。が,ひとり三菱車だけは販売を拡大,マイナーチェンジを重ね,排出ガス規制を乗り越えつつ,生産が続けられています。
 1995年には16lのターボエンジンを21lのNAエンジンに換装し,380psから420psに出力を増強しています。同時に,フロントマスクも変更されて,イメージの一新を図っています。型式もMU525TA型から,MU612TA型になっています。
 しかし,1999年の平成11年度規制(通称「KL規制」)に対しては,生産車として型式登録をするのではなく,エンジンを規制クリアーさせたものを試作車として登録する形になりました。
 既に観光用途としてのエアロキングは殆ど生産されておらず,その生産車の大半は高速バスとして納入されていました。とはいえ,高速バスがそう多いわけではなく,常にモデル存続の危機に直面しています。
 しかし,ダブルデッカーゆえの大量輸送性が買われつつあり(同時に規制緩和で路線バスとしてワンマン運行することも許可された事も大きい),その上現状で国内唯一のダブルデッカーであることから,三菱としても今更引くに引けないという状況になっています。
 2002年のモーターショウでは,1983年のエアロキング発表以来の展示が行われて,「キング健在」をアピールしました。1985年の登場なので既にモデルとしてはかなり古い部類に入りますが,国産バスのフラッグシップとして,まさに「キング」として君臨しています。

 …でも,そろそろモデルチェンジして欲しいというのも正直なところ,ここは超12m級の登場と同時にモデルチェンジを…ダメかなぁ…
 このアイコンでは,JRバス関東に入ったモデルを再現しています。
三菱 MU612TX エアロキング 三菱ふそうトラック・バス (2004)
 (2004/8/9更新)

 交通バリアフリー法は、基本的には路線バスが対象となっており、高速バスや観光バスなどの車の仕様自体が車椅子対応不可の場合は、適応が免除されるという事が定められています。
 しかし、高速バスで使用される二階建てバスは一階部分がノンステップとなっており、床下バゲッジルームのあるスーパーハイデッカ等とは事情が異なっていました。そのため、交通バリアフリー法施行以降は、二階建て高速バスにおいては車椅子対応が積極的に行われる事になりました。
 夜行高速バスの場合、乗客の乗降は中扉を用いて行われます。そのため、中扉の前(つまり車体中央左)に車椅子設置スペースを設け、車椅子の利用が無い場合は荷物置きに流用する…といった構造が一般的になっています。
 なお、この車は既に登場から20年近くが経過していますが、車椅子の乗降に邪魔にならないように二階への昇降ステップの一部を取り外しできるようにするなど、細かい改良が繰り返し行われています。
 アイコンのモデルは、2004年に広電初のダブルデッカとして導入された、広島〜東京線「ニューブリーズ」用専用車です。従来使われていた西鉄の高速カラーをアレンジしたものから脱却し、往年の「緑シマシマ」が復活しました。
日産ディーゼル P-GA66T スペースドリーム 富士重工業 (1984)
 (2003/6/9更新)

 日産ディーゼルが他社に先駆けて発売した,日本初の量産型二階建てバスです。
 新規開発された3軸シャーシには,国産に先駆けて大量に輸入・販売されたネオプラン社製の二階建てバスと同じ組み合わせの足回りが採用されました。前軸と後々軸にウィッシュボーン式エアサス,後前軸にトレーリングアーム式車軸エアサスを使用しています。
 エンジンは,他の国産2社がターボつきV8を選択したのに対し,日産ディーゼルはNAのV10を選択しました。出力は370psと,他社並となっています。

 エアコンは直結式が標準となっていましたが,サブエンジン式エアコンの搭載も可能でした。
 ボデーは,富士重工が製造したものを架装しています。この富士重工製ボデーは,それまでの富士重工のラインとは全く違う直線を基調としたもので,目新しさをアピールしていました。この後,この二階建てボデーのラインをベースにしたハイデッカモデルのHD型が登場する事になります。

 1983年のモーターショウに出品されたスペースドリームは,1984年の11月に正式販売が始まりました。まずは,横浜市交通局の市内循環観光バス「ブルーライン」に3台導入されました。この「ブルーライン」専用車が,恐らくスペースドリーム全生産車の中で一番有名だと思われます。このアイコンの塗装も,横浜市のブルーライン塗装を再現したものです。
 他社が二階建てバスを発売した85年以降も販売は続きました。看板観光車としてだけでなく,中には熊本電気鉄道のように路線バスとして導入された車もありました。路線バス仕様は中扉が折戸になっており(観光車は1枚モノのプラグドア),他社に無い特徴となっていました。
 幅広い仕様対応性を持った同車でしたが,販売面では後発の三菱エアロキングに完敗してしまいました。スペースドリームのモデルとしての総販売台数は13台。販売面で言えば,全くの失敗でした。
 他車に対するスペースドリームなりの明快な個性の打ち出しが出来なかった事,細かいところの設計の甘さ(スペース効率が他車に比べてもかなり劣っている)などが,販売合戦における主な敗因と思われます。
ネオプラン N128/4 メガライナー ネオプラン (2000)
 (2003/5/21更新)

 輸送量過大で常に輸送力不足が問題になっていた東京駅〜つくばセンター線の輸送状況を改善するためJRバス関東が導入した,日本で初めての全長15mのダブルデッカです。車体はドイツの名門バスメーカであるネオプランが製作し,エンジンはメルセデス製のものを搭載しています。
 1996年に構想がスタートし,様々な検討が為された後に,2000年1月に車輌が到着しました。しかし,その後の「関係各位」の調整に手間取り(役所だけじゃないのよん),実際に運行開始されたのは2002年の12月8日でした(…狙っているわけではないと思うのですが,こうかなりアレな日付です)。
 2003年には更に3台が増備され,合計4台が運用に就くことになります。運用の小回りが効くバスに「輸送力」という武器を追加して,来るべき「つくばエクスプレス」開業に備えているのです。
富士重工/ボルボ P-B10M アステローペ 富士重工 (1987)
 (2002/11/140更新)

 バスボデーの名門である富士重工が,珍しく車輌企画そのものから手掛けた車です。スウェーデンのボルボ・バス車のミッドシップエンジンフレームシャーシであるB10Mを輸入し,それに富士重工がボデーを架装するという形をとっています。基本的に,シャーシメーカが開発の主体となる日本のバスにしては珍しい生い立ちを持った車です。
 シャーシ自体は,1985年につくば万博で使われた連接バスと同じ物を使用しており,ホイールベースが6000mmに延長された以外は基本的に同一となっています。
 エンジンがミッドシップ配置のため,リアオーバハングの自由度が高いのが特徴です。標準仕様では,後ろの床を20cmほどキックアップさせて,その部分だけ2階建て構造となっています。他にも,トランクにする事が出来たり,吹き抜け構造にする事も出来ます(吹き抜けなんて,そんな納入例があったかどうかは知りませんが)。
 基本的には1980年代の豪華観光バスブームに向けたモデルだったのですが,搭載するエンジンが小排気量過給エンジンで,観光用途というよりは長距離を高速で走行する方に向いていた事,室内空間を増やせる事などから,観光よりも高速用途での人気が高まり,高速バスにそれなりの数が納入されました(無論,1990年代前半までは観光車にもそれなりに採用されました)。
 1990年代後半に入ってからも,JR系の高速バスに多数導入され,ひとつの市場を築いた…かに見えたのですが,元シャーシの生産中止に伴い連接バスともどもモデル廃止となり,代替シャーシもなかったためにそのまま後継も現れませんでした。富士重工のバス事業自体も,それまで富士重工を標準ボデーに指定し続けていた日産ディーゼルが西日本車体工業に指定を移したことにより中止されてしまいました。
 1987年の登場以来,何回かボデーの小変更やモデルチェンジ,ラジエータ配置の変更やエンジンのパワーアップを繰り返しましたが,中でも最終型はJRバス系が大量に導入したので,今でも高速バスで多数活躍しています。2002年の夏に乗ったのですが…まぁ,構造的には面白いと思いました。ただ,細かい作り込みや使い勝手という点では大きなシェアを誇る三菱や日野に敵うものではなく,小排気量過給エンジン&流体トルコンATの組み合わせで加速時に車体がギクシャクとして…まぁ,「発想は面白いんだけど」という感じでした。
 …これで三菱か日野辺りが作っていれば,もっといい出来になったんじゃないか…とか,言っちゃだめなんだろうなぁ…
 なお,この絵の車は,庄内交通に夜行バス「夕陽」専用車として導入された,記念すべき生産第1号車です。
いすゞ K-CJM470V [富士重5Eモノコック] 富士重工業 (1983)
 (2003/6/22更新)

 最近こそバスのボデーメーカとシャーシメーカは系列化が進んでいますが,少し前までは両者は割合独立した存在でした。ですから,同じ型式のバスでもボデーメーカがバラバラというのはそう珍しい事ではありませんでした。
 このバスもそんな車の1つで,いすゞのC系路線バスシャーシに富士重工のボデーが架装されました。いすゞの標準ボデーはこの当時川崎となっており(後に「IKコーチ」を経て「いすゞバス製造」に変化),富士重工も日産ディーゼルの指定ボデーメーカとなっていました。ですが,「指定」関係の薄かった当時,こういう組み合わせはかなり自由に出来ていたのです。
 いすゞのシャーシには,他にも西日本車体工業や北村製作所製のボデーが架装されていました。富士重工のボデーも,日デ・いすゞのほかに三菱・日野と幅広く架装され,大きなシェアを誇っていました。

 なお,これは静岡鉄道在籍の,元大阪市交通局の中古バスです。
いすゞ U-LV324K キュービック IKコーチ (1991) [一般低床・短フロントオーバーハング仕様] (2003/5/1更新)

 キュービックの最も短い尺のK尺(軸距4.65m)には,フロントオーバーハングを短縮して全長を9.99mに抑えたモデルが存在しました。
 他社の同クラス車にはない特徴として,狭隘路線用大型車として重宝されましたが,1995年のマイナーチェンジを期に設定が廃止されてしまいました。
 このアイコンは,京急バスに入ったキュービックです。
いすゞ U-LV324L キュービック IKコーチ (1992) [一般低床スーパーワイドドア] (2003/5/1更新)

 1984年にいすゞから発売された大型路線バスのキュービックは,斬新なスタイルと革新的な設計が特徴でした。しかし,あまりに革新的過ぎる設計により,事業者からの受けははっきり言って余り芳しくありませんでした。
 そこで,1990年の平成元年度排出ガス規制に対応させるためのマイナーチェンジで,いすゞはキュービックの大改良を行いました。
 一番大きな点は,ボデー構造の改良です。従来までのボデーは標準床も低床も車高が同じとなっていましたが,このマイナーチェンジで低床は50mmほど車高が下げられました。それに伴い,窓の大きさが従来より天地方向に縮小されています。構造自体も改良され,リベットの残っていた部分を全て溶接に変更し,耐錆性と補修性を向上させています。窓構造も変更され,ピラー部分には黒い樹脂のパネルが装着されるようになりました。ホイールアーチの形状も変更され,従来の丸型から釣鐘式のものへとなり,フェンダーアーチにはラバーモールが取り付けられるようになりました。
 エンジンも変更を受けました。従来までは低出力車のエンジンは220psの6QA2型が搭載されていましたが,230psの6QB2型に換装されました。それに伴い,型式名称のエンジンをあらわす部分が,従来の「14」から「24」に変更されています。高出力車のエンジンは275psの6RB2型がそのまま搭載されています。
 このアイコンも,京急バスの車を再現しています。
いすゞ KC-LV380Q キュービック いすゞバス製造 (1995) [一般低床] (2003/5/1更新)

 平成6年度排出ガス規制をクリアーするにあたって,キュービックは1995年に更にエンジン換装を行いました。

 それまでは高出力・低出力エンジンともL6エンジンを搭載していましたが,環境性能・運転性能を鑑みて大排気量のV8エンジンに変更したのです。高出力・低出力ともエンジンは8PE1型になり,チューンにより8PE1-S(285ps)・8PE1-N(240ps)と区別されています。しかし,エンジン型式が一緒なので車体型式は高出力・低出力とも同じ「LV2/380(2はエアサス,3はリーフサスを指す,80は「8PE1型エンジン搭載」の意味)」となっています。
 ボデーは基本的には前回のマイチェンで使われたものを踏襲していますが,窓構造が2連ユニット式へと変更されています。車体長も見直され,従来の5種類から3種類(軸距4.8m=”L”尺,5.3m=”N”尺,5.8m=”Q”尺)に整理されました。
 床の高さは,標準床・一般低床・都市低床(扁平タイヤ装着)・前中扉ワンステップの4種類が設定されました。

 補足。
 この絵は,京急バスの長尺車が平成7年まで採用していた「スーパーワイドドア」の最終装備車です。前後両側にスライドする中引戸ですが,仕様の標準化に伴い,この車より後に導入された車は一般的な4枚折戸に変更されました。
いすゞ KL-LV280L1 エルガノンステップタイプA いすゞバス製造(2001) (2004/12/10更新)

 いすゞは、2000年に大型路線・自家用バスシリーズのフルモデルチェンジを行い、「エルガ」シリーズとして発売しました。1984年に前シリーズの「キュービック」が登場して以来、16年ぶりとなります。
 直線基調のデザインだったキュービックとは打って変わり、エルガでは曲線を随所に用いた、柔らかいボデースタイルとなりました。この構体は、一足先にフルモデルチェンジした中型路線・自家用バスシリーズ「エルガミオ」のものと、基本的に共通となっています。
 そのエルガミオと同じく、このエルガにおいても、車体設計はノンステップを基準にして行われているという所にその特色があります。そのため、従来車のようにノンステップを前提としていない車を無理矢理ノンステップに仕立て上げたという無理がなく、完成度を飛躍的に高めています。
 そのエルガのノンステップですが、二種類が用意されています。一つは従来から設定されていた小排気量ターボエンジンを横置きに搭載した後輪の後ろまでフルフラットな床を持つ「タイプB」、もう一つが中扉から後ろはワンステップバスと同じシャーシを持ち、中扉から前の部分がノンステップとなる「タイプA」です。この簡易型ノンステと言えるタイプAですが、フルフラットタイプに比べて後部の床構造が単純で、定員が多く確保できるというメリットがあります。また、走行系は基本的にワンステップと共通なので、価格も安くなるというメリットも持っています。
 ノンステップ部分は少なくなるこの形態ですが、定員確保という面と低価格が事業者に評価され、民営事業者を中心に急激にシェアを伸ばしつつあります。
日野 RC320P 帝国自動車工業 (1974)
 (2003/1/29更新)

 1961年に日野から大型高出力路線/観光兼用シャーシとして発売されたRC系ですが,1967年にモデルチェンジを実施します。
 主な変更点としては,長さ構成の見直し,エンジンのパワーアップ,そして指定ボデーである帝国車体・金産自動車のボデーのモデルチェンジが挙げられます。
 1972年にはマイナーチェンジを行い,フロントオーバーハングが1.94mから2.1mに延長,その他にも都市路線用に低床・4速ミッション化を施したモデルを登場させます。1975年には指定ボデーのメーカである帝国車体と金産自動車が合併し,日野車体工業となりますが,このときにはそう大きな変更は行われていません。
 この絵のモデルは,日野車体工業に移行する直前に生産された,帝国車体製ボデー架装車の最終モデルです。とはいえ,日野車体で生産された大型車はその設計の殆どが帝国車体系の物となったため,翌年からも設計は殆ど変わっていません。広電の旧塗装を再現しています。
日野 RC320P42MC 西日本車体工業 (1974)
 (2003/1/29更新)

 日野の大型路線バスRC系の指定ボデーは,帝国車体と金産車体のものが標準でした。

 しかし,まだ当時はシャーシメーカとボデーメーカのつながりが弱く,いすゞ指定ボデーの川崎のボデーといった,系列とは関係ない車体も架装されていました。
 これもそんな例の一つ,福岡は小倉にある西日本車体工業でボデーが架装された日野RCです。
 42MCという型式のこのボデーは,その独特の断面形状から「カマボコ」と呼ばれ,1966年から1978年まで,大量に生産されました。
 このアイコンも,広電バスの旧塗装を再現しました。冷房車と非冷房車が混在していた頃の広電バスは,冷房車を表すために緑シマシマのなかに,空色のラインを2本入れていたのです。
日野 RE121LF 日野車体工業 (1979)
 (2003/10/25更新)

 日野の大型路線バスシリーズであるRE/RC系は,1970年代末に相次いでエンジン換装を中心とした変更を受けました。  低出力系のREのチェンジが行なわれたのは,1977年の事です。それまで搭載していた予燃式エンジンのEB200型(175ps)を改良した,EB400型(190ps)に変更されています。この馬力アップは,この頃から路線バスに普及し始めていたメインエンジン直結型冷房対策です。もっとも,大型のボデーにエアコンをつけて190psではやはりアンダーパワー気味で,この辺りからそれまで低出力系のREを導入していた事業者も高出力のRC系を導入し始めています。
 ミッションは4種類が用意され,それぞれ一般型,高トルク型(ともに直結5速,ファイナルが異なる),高速型(OD5速),都市内型(直結4速,OD5速のODを抜いたもの)となっています。
 尺は従来と同じように,軸距4.8m・5.2m・5.67mとなっております。それぞれ,RE101・RE121・RE141型となっています。末尾の数字がチェンジ前の「0」が「1」になっているのが,77年以降のモデルの特徴です。
 外観では,基本的なボデー構体は変更を受けていません。主な変更点は,左後ろ側面のルーバが騒音対策のために省略されたくらいです(後ろ正面右のルーバーは1980年のチェンジまで残された)。ただ,時代の要請に伴い,本格的に低床化に対応したボデーも設定されました。
 床の高さは4種類設定されており,従来と同じ高さの標準床,床高80cmの一般低床,一般低床ハンドル右寄せ,都市低床となっています。都市低床は一般低床から更に10cmほど床が下げられ,ハンドル右寄せが標準となっています。
 この都市低床には,全長11.7m,軸距6mのRE161型も設定されていました。1973年に日野が試作した「大都市用モデルバス」の魂を受け継いだ,かなり意欲的な車輌でしたが,混雑した道路での機動性に劣るために乗務サイドから嫌われ,実際には殆ど販売されないまま1978年に生産中止となっています。
 このアイコンは,広電が昭和54年度に市内線用に導入した車です。51420号車をモデルとしていますが,この年はREの市内線大量増備が行なわれ,市内線だけでRE121・RE141あわせて60台を越える車が導入されています。
 なお,この年は直結5速のミッションで導入されていますが…クロスしたミッションを駆使すると,とても190psとは思えない走りっぷりを披露しました。国道2号線の信号ダッシュでは,OD5速で260psの郊外線所属いすゞK-CPA500(昭和57年式)よりも鋭い加速を発揮し,市街地専用車の面目躍如といった感じでした。翌年からの車は昭和54年排出ガス規制に対応した事もありエンジンの回りが悪くなっていますが,昭和51年の暫定規制値しかクリアーしていない昭和54年式のこの車は,もう元気そのものでした。
 勿論,マフラーからは凄まじい量の黒煙を吹き上げていましたし,エンジンが剥き出しの後ろ正面右のルーバーからは,予燃エンジンの爆音がだだ漏れでしたが…
 1998年から1999年にかけて一気に廃車されましたが,それまで市内を縦横無人に駆けずり回っていた多数の「爆音車」が姿を消したという事実には,流石に時代を感じたものです。
日野 RC301 日野車体工業 (1979)
 (2003/10/28更新)

 1977年にモデルチェンジしたREに引き続いて,RCも1978年にモデルチェンジを行ないました。  こちらの変更も,エンジン換装をメインにしたものです。それまでのRC3*0系が予燃エンジンのDK20型(205ps)を搭載していたのに対し,このモデルチェンジでは新開発の直噴エンジンであるER200型(225ps)になりました。このER系は日野にしては珍しくトラックには搭載されなかったエンジンで,直立エンジンのER100型は産業用汎用エンジンにしか使われませんでした。そのER100型を水平にしたものがER200型です。

 普通,バス専用となる水平搭載型エンジンよりもトラックに搭載される直立搭載型のほうがそのシリーズのメインとなるわけですが,トラックに搭載されなかったER系においては,メインは水平搭載型のER200型となっています。
 トラックに使われなかったER200型ですが,別にエンジンとしての素性が悪かったというわけではなく,逆にバス用エンジンとしては素直な特性と静粛性,良好な燃費が評価されていました。トラックに搭載されなかった理由は簡単で,「225psという数値はトラック用としては中途半端だった」というだけの話です。ER系はその上位機種のEK系のボア縮小型といった感じのエンジンで,エンジンのサイズが余り変わらない割には出力は排気量の減少分律儀に減少しており(EK100:13.2l・270ps,ER100:11.6l・225ps),サイズとパワーの制約が大きいトラックにおいては,ER系は中途半端な存在だったのです。

 ミッションは基本的にRE系と同一のものが使われていますが,RE系のEB系エンジンに比べてパワーアップしているので,高トルク型のミッションは廃止されて一般型・高速型・都市型の3種類となっています。
 尺に関しては,従来通り2種類が設定されました。軸距5.2mの10.5m級の車がRC301型,軸距5.67mの11m級車がRC321型となっています。ともに,エアサス型には型式の末尾に「P」がつきます。
 なお,このチェンジで従来REに設定されていた一般低床がRC系にも設定させるようになりました。この一般低床車の場合,型式名称の末尾には「LF」がつきます。ただ,型式銘板の表記においては概ね「LF」は省略されています。

 発売当初は,上記のように尺の設定は中尺と長尺の2種類が設定されていました。しかし,RE系に設定されていた短尺高出力の要望も高まった事から,1979年に軸距4.8mの10m級車であるRC381型が設定されました。
 ただ,当初はこのRC381型のサス設定はリーフサスしか用意されておらず,エアサスは設定されていませんでした。短尺エアサスを選択するにはRE系を導入するしかなかったのですが,やはり取り回しの効く短尺だけに山岳路線での需要もそれなりにありました。そういった短尺エアサスの高出力車を望む事業者には,暫くはRE101P改,若しくはRC381改という特注の形で対応する事になったわけですが…それについては,また別の項で。

 このチェンジまでは,RE系が路線用,RC系が安価観光・高速路線用という住み分けがなされていました。しかし,この頃から始まった路線バスにおける直結冷房搭載の動きは,この住み分けにちょっとした影響を及ぼすことになりました。
 直結冷房とは冷房を動かすエネルギーをメインエンジンから直接取り出すタイプの冷房で,エアコンを稼動させると走行性能に直接影響を及ぼす事になります。このチェンジは,その直結冷房対応のチェンジという側面もあったわけですが(だからRE系もRC系もそれぞれ15ps・20psのアップとなった),実際の運用においてはRE1*1系の190psでも若干不足気味だったのです。その結果,1980年あたりからはREよりもRCの方が全国的に路線バスのメインとなったのです。

 このアイコンのモデルは,広電バスの23039号車をモデルにしています。後部屋根上の日本電装製直冷ユニットが外見上の特徴になっています。
日野 K-RC321 日野車体工業 (1980)
 (2003/10/28更新)

 このアイコンは,昭和54年度排出ガス規制に対応させたRCです。RE系と同様,1980年に発売されました。  外見的特長としては,後部正面右のルーバが廃止された事と,左後部屋根上のエンジン用空気導入ダクトが短縮されている点が挙げられます。
 あと,この頃から前扉の剛性向上により,前扉ガラスが2枚分割のものから1枚の上下通しガラスになりました。このため,視界が大幅に改善されました。

 なお,このアイコンは広電に昭和55年の後期に導入された23069号車です。エアコンが,同年前期までの日本電装(日野純正エアコン)の集中式から,ヂーゼル機器の分散式に変わっています。
日野 K-RC321P 日野車体工業 (1980)
 (2003/10/28更新)

 1980年の排ガス規制対応のチェンジで,左後部屋根上のエンジン用空気導入ダクトが短縮されたRC/RE系ですが,生産時期によっては排ガス規制対応モデルにも関わらず長いダクトを用いている場合もありました。広電が昭和55年度の前期に郊外線に導入した車が,それにあたります。後ろ正面右のルーバが省略されているにも関わらず長いダクトが装備されている外見は,新旧織り交ざったアンバランスな印象です。

 なお,直結冷房に関してですが…広電においては,昭和53年度のモデルから日本電装製の直結冷房を搭載しています。この日本電装製の直結冷房は日野の標準指定クーラで,最後部屋根上のやや大きめなクーラユニットが外見的特長となっています。
 しかし,この大きなユニットは実際の運行において少々問題を起こす事になります。大きなユニットを最後部の屋根上に搭載しているため,前後の重量配分が崩れて後軸の軸重が過大になってしまったのです。この軸重問題は,暫く後に装備位置を最後部から車体中央辺りに変更する事によって解決したわけですが,広電はその変更を待つことなく,昭和55年度後期導入の車からヂーゼル機器製の分散式ユニットを採用したエアコンユニットに変更してしまったのです。
 日野車にいすゞ標準指定のヂーゼル機器製エアコンを搭載するというのは全国的に見ても割と珍しい例で,この組み合わせは昭和の終りまで続きました。

 この車は,広電バスが昭和55年度前期に導入した23688号車です。広電では4台のみの存在である,電装製クーラを搭載したK-RCです。レアな存在のこの車ですが,廃車になる平成14年にも,広島バスセンターから島根県は出羽まで下道を何時間もかけて走る路線で,予備車ではなく定期運用を組まれて運用されていました。
 なお,23688号車は広電最後の3600番代の生き残りでした。僚車が次々と廃車になる中,最後まで超長距離路線で気を吐き続けていました。
日野 K-RE121LF 日野車体工業 (1980)
 (2003/7/10更新)
 (2003/10/25更新)

 このアイコンのモデルは,1980年に昭和54年度排出ガス規制に対応したマイナーチェンジを受けたモデルです。このモデルが実質的にRE系の最終型となり,日野モノコック路線バスの最後を飾りました。
日野 K-RC301LF 日野車体工業 (1981)
 (2003/10/25更新)

 サッシ窓,中引戸という,ごくごく普通なふた昔程前の路線バスをアイコンにしました。ちょうど,全国的にもこの辺りの世代から大型の方向幕が採用され始めていますが,ボデーの設計は1960年代のものを引き摺っているため,いかにも後付け的な外観が特徴です。
 この車は直噴エンジンを搭載したRC系ですが,並行販売されていた予燃エンジン搭載のRE系との外観的差異は全く存在しません。区別できる点は,左後方にある「Hino RE」「Hino RC」のエンブレムの差異だけですが,車によってはそのエンブレムすら外されており,そうなると見ただけでは全くRCとREの区別はつきません。広電の市内線に昭和56年度に入ったグループも,広電にしては珍しくエンブレムが装着されておらず,一目見ただけではRCなのかREなのか判別できませんでした。昭和55年度導入のRE121LFがほぼ同じ外観の上に「RE」エンブレムを装着しているだけに,よりややこしくなるわけです。もっとも,エンジン音を聞けば,いかにも直噴な切れのある爆音のするRCと,どこかやわらかな予燃らしい音を発するREという事で,容易に判別はつきます。
 …まぁ,広電市内線の昭和55年式REが2000年に全廃されて,昭和56年のRCも2003年に全廃された(…と思われる,でももしかしたらまだ残っているかも)今では,余り関係ありませんが…
日野 K-RE101P改 日野車体工業 (1981)
 (2003/11/10更新)

 上で述べたように,日野の高出力路線車であるRC系には,当初軸距4.8mの短尺車が設定されていませんでした。短尺高出力を求めるユーザのため,日野は79年にRC系の軸距4.8m型であるRC381型を追加しました。
 しかし,このRC381型はリーフサスのみの設定となっており,エアサスは設定されていませんでした。短尺高出力という事で自然と山間路線にも導入される事になるわけですが,そうなると当然リーフサスでは問題が出てきます。
 後にカタログモデルとして短尺高出力エアサスのRC381P型が登場するのですが,それまではこれに該当するモデルを希望する事業者は,RCかREのいずれかの短尺車をベースにした改造形式を特注する事で対処していました。
 この特注を行なった事業者で最も有名なのは,広島電鉄です。広電には,短尺低出力エアサス車のRE101P型のエンジンをRCのものに改造したRE101P改型と,短尺高出力リーフサス車のRC381型の足回りをエアサスに改造したRC381改型の両方が在籍していました。
 RE101P改型は,昭和56年度に7台納入されました。3台は普通の路線バス用ボデーの通常型,4台は観光用ボデーを架装した広島修道大学専用バス(通称「修大スクール」)となっていました。
 このアイコンのモデルは,後者の「修大スクール」用の車です。広島修道大学は広島市西部の丘陵地にあり,広島市街から向かうには己斐峠という急勾配な道を通る必要がありました。そのため,この修大スクール専用車はエアコンに直結式ではなくサブエンジン式冷房を備えていました。
 ただ,己斐峠は225psのER200型エンジンをもってしてもかなりきつく,学生を満載すると3速で登れるか怪しかったようですが…
日野 K-RC381改 日野車体工業 (1982)
 (2003/11/10更新)

 昭和57年度にも,広電は昭和56年度と同じ仕様で短尺高出力エアサス車を2台導入しました。但し,こちらはベース車が短尺高出力リーフサス車のRC381となっています。
 なお,この頃の日野車の特徴としては,後部左角に「HinoR○」というエンブレムがついていた事が挙げられます。このエンブレムを見ると,外見では似ている車でもシャーシが何系であるか一発で分かるのが利点でした。この頃の広電はエンブレムを律儀につけていたのですが,しかしこの事が逆にちょっとした複雑な事態を招いていました。
 この昭和57年度の「RC381改」も,前年度の「RE101P改」も,実質的に「RC381P」に相当する車でした。構造は両車ともにほぼ共通しており,何ら変わる部分はないと言ってもいいのですが,エンブレムだけはベース車を反映して昭和56年度車が「HinoRE」,昭和57年度車が「HinoRC」となっており,外見も音も全く同じにも関わらずエンブレムだけは違う…という,奇妙なことになっていました。
 まぁ,エンブレムが違ったところで,何がどう変わるわけでもないのですが…
日野 K-RC321P 日野車体工業 (1982)
 (2003/1/29更新)
 (2003/6/20更新)
 (2003/6/27更新)
 (2003/10/17更新)

 1967年にモデルチェンジし,1972年にマイナーチェンジを行ったRC系は,1977年に再度ビッグマイナーを行います。
 RCに搭載されていた予燃エンジンDK20型を直噴のER200型に換装したのが最も大きな変更点です。これにより,左後部のルーバが廃止され,外観がすっきりしました。ボデー自体も設計の整理が行われ,耐久性・剛性面での改良が行われています。
 1980年には昭和54年度排出ガス規制への対応が行われ,同時に行われた騒音規制に対応するため,後右正面の大型ルーバも廃止されました。
 1967年以降,熟成を重ねてきたボデー・シャーシは,最終期のこのモデルではかなりの完成度を誇っていました。しかし,1982年には後継モデルの「ブルーリボン」RT/RU系が登場,暫く並行生産されつつ,1984年にHT/HU系に後を譲り,生産中止されました。
 このアイコンは,広電郊外線の13756号車をモデルにしています。広電最後の長尺車のグループでしたが,とうとう2003年夏に現役を引退しました。山田に配属されて以来,廃車になるまで南営業所管内のみで活躍していました。
日野 K-RC301P 日野車体工業 (1983)
 (2003/10/17更新)

 軸距5.67mと大柄なRC321型に対して,軸距5.2mと「手頃」なサイズになったのが,RCシリーズの基本となるRC301型です。全長10.65mというサイズは,収容力と取り回しのバランスが最も優れた大きさといえます。

 このアイコンの車が履いているホイールは金属の地肌そのままですが,別にアルミホイールというわけではなく,ただの鉄チンホイールです。しかし,広電においては「塗りホイール=チューブタイヤ」「地肌ホイール=チューブレスタイヤ」という使い分けが為されており(一部例外あり),外見上の大きなポイントとなっています。
 なお,このアイコンのモデルとなった車は,広電13759号車です。郊外線の車で,OD5速ミッションの伸びのある加速に,古き良き時代のエアサスがよくマッチしていました。北営業所の管轄である沼田に配属されましたが,その後南営業所管内の五月が丘に転属になったり,また北営業所に戻ったり最後は南営業所管内の山田に落ち着いたりと,なかなか忙しい人生(車生?)を送った車でした。
 2003年夏に廃車となり,2003年度の広島バス祭りで「部品もぎ取りバス」,そして「落書きバス」に供されました。
日野 K-RC301LF 日野車体工業 (1982)
 (2003/10/21更新)

 古いボデーに大型方向幕,側面メトロ(全引き違い)窓,大型扉を装備した,いかにも過渡期的な市街地用車をアイコンにしてみました。
 何れの試みも,1970年代には一部で始まっていました。広島電鉄や遠州鉄道などの先進的な事業者では,この組み合わせは1980年代初頭から標準となっています。しかし,これが全国的に普及するのは,1980年代中盤以降でした。

 広電では,昭和57年度の市内線用の低床車からこの組み合わせが導入されました。シャーシは,ごくごくありふれた日野の路線用シャーシであるRC301型。低床なので,正確には型式番号の末尾に「LF」の文字がつきます。
 なお,低床のRC/RE系のリアオーバーハングは,標準床車に比べて若干(80mm)長くなっています。軸距・フロントオーバーハングはそのままなので,全長がそのまま長くなっています。
日野 K-RC381 日野車体工業 (1983)
 (2003/10/21更新)

 この車も,上記の車と同じように「大型方向幕・メトロ窓・大型扉」の都市型バスの条件を揃えています。しかし,この車が投入されたのは市街地路線ではなく,山の上にある団地と麓の駅を結ぶ狭隘路線でした。  狭隘路線なだけあり,軸距が4.8mと短めな日野RC381型が採用されています。床も,腹を擦る恐れがあるので低床ではなく標準床になっています。都市型ボデーの条件を備えつつ標準床,そしてリーフサスという仕様は,全国的に見ても割と珍しい存在だといえます。広電においても,63120号車1台だけが導入されました。所属は市内線で,市内最大の営業所である江波営業所に所属しています。
 因みに,広電では狭隘路線を走る事の多い郊外線車輌にはバックカメラが全車装着されているのですが,市内線の車は基本的にバックカメラが装備されていません(郊外→市内と転属した車を除く)。しかし,この路線を走る車だけは例外扱いで,市内線所属なのにバックカメラが装備されています。この辺りからも,特殊な路線環境が伺えます。
 現在はその路線が子会社に委譲されているので,別の市内路線で他の車に混じって運用されています。

 なお,広電の市内線においては1980年から1983年の4年間はミッションがDD(直結)4速になっており(普通だと,市街地路線用車はDD5速,郊外路線用車ではOD5速),走行音も他では余り聞くことのできない特殊なものでした。この車も市内線車の例に漏れず,DD4速ミッションとなっています。
 まぁ,DD4速といっても,OD5速のOD部分を無くしただけなのですが…市内線においてオーバードライブが必要な局面などまずありえないので,合理的な選択と言えます。
日野 K-RC381改 日野車体工業 (1983)
 (2003/11/10更新)

 昭和58年度にも,広電は短尺高出力エアサスを1台投入しました。今度は,型式は前年度と変わらずRC381改となっています。ボデーは上下可動サッシから前後スライド窓(メトロ窓)となっており,これがこの車の特徴となっています。
 しかし,ここからが重要なのですが…1982年には,既に「RC381P」型はカタログモデルとしてラインナップされていました。にも関わらず,1983年に至っても広電は何故か「RC381改」として車を入れていたのです。
 ここに何の意図があるのかはよく分かりませんが…いずれにしても中身は全く同じなので,何か害があるわけではありません。バスの場合,型式末尾に「改」が附される事はよくある事なので,どうせなら前年度の車と統一しようと考えたのかもしれません。
日野 K-RU225AA ブルーリボン 日野車体工業 (1983)
 (2003/1/29更新)
 (2003/3/13更新)

 日野は,1982年に新型路線バスのRT/RU22系を発売しました(RTがリーフサス,RUがエアサス。RT/RU22のあとに数字が付け加えられ,「3」だとホイールベース4.8m,「5」だと同5.2m,「6」だと同5.67mとなる)。従来までのRC/RE系の後継として登場したこのシリーズは,それまでのモノコックボデーを改め,スケルトンボデーを採用した初めての大型路線バスとなりました。1977年の大型観光系,1980年の中型路線/観光系に引き続くもので,これによって日野自動車はバスのオールスケルトン化を達成しました。

 この記念すべきモデルに対し,日野は1960年代中頃まで販売していたセンタアンダエンジンバスの愛称「ブルーリボン」を復活させ,このRT/RU22系に命名しました。
 エンジンも従来とは異なる物が採用されています。従来のRC/RE系は,それぞれ直噴・予燃の,割合大排気量(RC系のER200で11.6l・225ps,RE系のEB400で9.8l・190ps)のL6エンジンを水平に搭載していました。それに対し,RT/RU22系では大型バス用としてはかなり小型の新開発直噴L6エンジンEM100(9.4l・225ps)を,従来とは異なり直立に搭載しています。
 バス用水平エンジンをやめる事でトラックとの部品共用化を図り,コストダウンをすると同時に整備性もアップさせる,そしてさらにはエンジンの小型化による燃費の向上をも狙う…という野心的な取り組みでしたが,幾ら小型エンジンとはいえ,従来の水平エンジン車(リアアンダフロアエンジン車)のようにエンジン直上,つまり車体最後端まで居住スペースとする事が出来なくなり,車内スペースに制約を受ける事になりました。
 日野としては「デッドスペースが出来た分はボデーのスケルトン化による室内幅拡大がカバーし,定員は従来より増えている」との見解を出していました。しかし,事業者の多くは室内長の短縮に納得せず,「保守的な事業者のために」という事で継続販売されていた従来のRC/RE系を継続導入しました。そのため,RT/RU22系の販売は伸び悩みました。
 RT/RU22系の販売の伸び悩みの理由はそれだけではありませんでした。肝心のEM100型エンジンが,小型故の特性(回さないとパワーが出ない→騒音が大きい,実用燃費が悪い)によって事業者から敬遠されたのです。確かに,EM100型は大型バス用らしからぬ回りのいいエンジンでしたが(何しろ最大出力発揮回転数が2700rpm,一般の大型路線バス用エンジンで2700rpmというのはもうレブリミットに近い位置),「回るけど,ただ回るだけ」と言われてしまい,実用に適さずとの判定が下されてしまいました。
 もっとも,日野自身このRT/RU22系が本命とは思っておらず(本命ならば1982年の時点でRC/RE系は生産中止になっていたはず),1984年にはRT/RU系を基本に走行装置を従来のRC系と同一にした(要するにRC系の真の後継)HT/HU系(”H”は”Horizontal”,つまり”水平”の意味)を発売しています。この時点で,漸く「スケルトンボデー・リアアンダフロアエンジン」の二つの武器を揃うことになります。
 しかし,同年に三菱から発売された「エアロスター」シリーズが驚異の売り上げを記録し,日野ブルーリボンはそれにかなり押される事になります。日野にとっては,1982年・1983年と「唯一のスケルトン路線バス」として販売を伸ばせなかった事が,最大の失敗となりました。
 とはいっても,「スケルトンといえば日野」という意識が業界に根強くあったのも事実。着々と販売を伸ばしていき,日野はシェアを上げる事に成功。初動に乗り遅れたいすゞ・日産ディーゼルの両社を突き放す事になります。

 で,肝心のRT/RU系ですが,HT/HU系発売後も,細々と生産が続けられていました。しかし,市場の趨勢は明らかにHT/HU系メインに移っていました。そして86年,RT/RU22系はひっそりとその生涯を終えるのです。
 結果的に,都営などの公営事業者か,近鉄系・広島電鉄などの「日野と関係が深い事業者」が導入するに留まり,存在感の薄い存在となってしまったこのRT/RU22系ですが,「日本初のスケルトン大型路線バス」には変わり無く,日本の路線バス史上,決して忘れてはならない車といえるでしょう。
 車齢も約20年と高くなり,生産された内のかなりの車(特に公営に入った車)が,既に廃車されています。しかし,地方の私営事業者ではまだ現役で活躍しており,今日もその小型エンジンの”怪”音を放ち,走り続けています。
日野 K-RT225AA ブルーリボン 日野車体工業 (1983) [一般低床車]
 (2003/1/29更新)
 (2003/3/13更新)

 RT/RU系には,標準床と一般低床,都市低床の3種類が設定されていました。
 とはいえ,低床はまだ「市街地路線用」という事でリーフサスのRTにしか標準設定されていませんでした(奈良交通のように「RT」という名前で一般低床のエアサスを特注した事業者もありますが,これは例外)。
 画像の車は,中間尺(軸距5.2m)のリーフサス一般低床車を再現した物です。
 日野 P-HU225AA ブルーリボン 日野車体工業 (1985) [一般低床車]
 (2003/1/29更新)
 (2003/3/13更新)

 直立小型エンジンによるRT/RU22系の不評を取り除くために,エンジンを直噴水平L6のER200(225ps)に換装した車が,1984年に発売された車がHT/HU22系でした。エアサスのHUにも低床が設定され,都市路線用にもエアサスが導入できるようになりました。また,ER200だけでなく,270psを発揮する高出力のEK200を搭載したHT/HU27系も設定されました。
 ボデーも改良されました。窓は天地方向に拡大され,柱の位置も若干変更されています。エンジン換装により後部側面のルーバー位置も変更され,左側面から右側面に移設されています。エンジンの水平化に伴い,リッド形状も天地方向に縮小されています。
 このモデルの時はまだRT/RU22系も並行生産されており,ボデーもそれに準じた変更を受けています。このボデー変更の時に,RT/RU系のルーバは分割式から正方形の一体型に変わっています。
 なお,型式名の頭についている「P」は,「昭和58年度排出ガス規制対応」という意味合いで,これが「K」になると,「昭和54年度排出ガス規制対応」という事になります。日野は1984年に58年度規制に対応し,HT/HU系もこれに準じています。また,RT/RU22系も同時に58年度規制に対応しています。
日野 P-HU235BA ブルーリボン 日野車体工業 (1986) [一般低床車]
 (2003/1/29更新)
 (2003/3/13更新)

 HT/HU系は,1985年に更にマイナーチェンジを施しました。
 大きい変更点としては,低出力系であるHT/HU22系のエンジンを,RT/RU22系が搭載したEM100型のボア・ストロークをアップさせ,水平にしたM10U型(235ps)に換装した事が挙げられます。このエンジンは,従来のER200に比べて排気量は1リッター以上小さく,でも出力は大きいという日野期待のエンジンでした。エンジン出力向上に伴い,型式名もHT/HU23系に改められています。なお,HT/HU27系の方は従来のエンジンを踏襲しています。
 ボデーにも変更が加えられています。リアのスタイルが従来までの角っぽいものから,丸みを帯びたものに変更されています。この改良を指して,一般にはそれぞれ「角スケルトン」「丸スケルトン」と通称されています。
 更に,HU系はエアサスの構造が変わっています。従来のエアサスは,沈み込んだ時の回復時に「しゅ〜」という長い音がしていましたが,この改良でその音がなくなりました。
 この改良を踏まえ,型式名も変更されています。従来はHT/HU22*or27*「AA」と呼称されていましたが,HT/HU23*or27*「BA」に変更されています。
 ただ,この改良が果たして良かったのかどうかは,評価が難しいところです。
 期待の新エンジンM10Uですが,排気量が小さい事によるピーキーな特性はRT/RU22系譲りで(そこまでは酷くありませんでしたが),相変わらず下がスカスカなエンジンと言われていました。
 改良されたエアサスも,問題の多い物でした。今までのエアサスはかなり軟らかい設定でしたが,その分ショックはよく吸収して,余り不快感はありませんでした。しかし,このモデルのエアサスは,設定が相変わらず軟らかめな割に道路の凹凸を良く拾う特性となってしまい,お世辞にも快適と呼べる物ではなくなってしまいました。
 標準床のHUならばまだこの症状は抑えられていたのですが,低床モデルのHUはかなり酷い乗り心地で,舗装条件の良い道路で直進するだけでも少しの入力でピッチングを繰り返し,大きめの入力があるともう前後左右に振られまくる…という,かなり劣悪なシロモノでした。
 とはいえ,時代はバブル。エアサス車の需要は増し続けており,さらにモノコックバスを淘汰するために各社がこぞってバスを購入している時期でした。
 そのため,この低床HUは西日本を中心にかなりの数が導入され,今も殆ど現役で活躍しています。
日野 P-HU276BA ブルーリボン 日野車体工業 (1987)
 (2003/9/3更新)

 路線シャーシのHUにも,観光モデルのRU6系と同じフロントマスクを備えたモデルが設定されていました。安物観光車や高速路線車として地味に重宝されました。
 特に,京王や東急などでは「ワンロマ」と呼ばれる車にこの観光マスクブルーリボンを導入しました。ワンロマとはワンマン・ロマンスの略で,普段は普通の路線バスとして,観光シーズンになると貸切や高速に流用できる車の事を言います。柔軟な運用が出来る車として登場したワンロマバスですが,観光バスの急速なハイグレード化と路線バスの低床化による影響で,1980年代後半を境に余り製造されなくなってしまいました。観光バスとしては半端な豪華さで,路線バスとしては標準床ゆえの床の高さがネックとなってしまったのです。

 ですが,ここ数年はワンステップバスをベースにすることにより,ワンロマバスが再び増えつつあります。

 このアイコンのモデルは,1987年に京王バスが購入したワンロマ車を広電が中古で買い受けた車です。広電としては1台だけ存在する異端車です(おまけとして,日野マニアの広電としては意外な事に長尺高出力モデルのHU276自体,この車が初導入だったりする)。北部方面行きの長距離郊外線で使用されています。
日野 P-HT235BA改 ブルーリボン 日野車体工業 (1988) [試作ワンステップ] (2003/3/27更新)

 1990年代後半に花開いた大型ワンステップバスですが,その先駆けとなったのが1988年に京浜急行と日野が共同開発したこの車です。
 京浜急行は,1986年に三菱製の試作ノンステップバスを導入しました。しかし,一般車として入れるにはまだ値段は余りにも高く,それに普通の都市低床バスをベースにしていたこともあり,設計の各所に問題がありました。次世代のシティバスとして,現状のツーステップよりもステップの少ないバスは必要不可欠なものでしたが,これをそのまま入れるには余りにも問題がありすぎたのです。
 この当時,低床バスに対する助成制度は無く,とにかく「コストを抑える」ことが超低床バス開発における最優先事項でした。コストを抑えつつ,かつ低床を実現する…ということで,京急は「従来の都市低床バスをベースにしたワンステップバス」を企画することにしました。

 概要を挙げると,前扉から中扉までの範囲の床を下げてワンステップ構造にし,中扉より後ろは1段上げて従来の都市低床バスと同じ高さに設定,駆動系を流用して新規開発部分を極力抑える…という感じです。
 この方式だと,新設計部分はフロントアクスル部分だけで済み,コストはかなり安くなります。しかも,ノンステップバスで指摘された「設計流用部分の多さによる構造上の無理」「それに伴う居住性の低下」といった問題をクリアーしつつ低床化することが出来ました。
 これに真っ先に対応したのが日野で,1988年に納入を果たしました。翌年三菱がそれに続き,更にいすゞ・日産ディーゼルも対応しました。
 安価にしてバリアフリーに近づけるということで,この京急の提案したかたちが,その後の標準的なワンステップバスの雛型となりました。運輸省の纏めた「人に優しいバス」にも,”短期的モデルバスのイメージ(京急型)”と表記されました。
日野 P-HU233BA ブルーリボン 日野車体工業 (1989) (2003/7/29更新)

 広電バスの市内線用車といえば、昭和54年のRE121以来「低床中尺」という構成が定番となっていましたが、中にはその例外というものも存在しました。昭和58年に入った標準床・短尺のRC381と、平成元年に購入されたHU233BAがそれに当たります。
 市内線の文法と違う車を敢えて導入した理由としては、当時市内線に存在していた「11号線」が挙げられます。11号線とは、西広島(己斐)駅を起点に己斐峠という交通の難所を通る路線でしたが、この己斐峠の狭隘さは半端ではなく、当時の低床車では通過不可能であったために、専用車が入れられたのです。ホイールベースが短い車になっているのも、勿論峠対策です。
 しかし、平成元年に11号線専用として入ったHU233BAの特別仕様は、それだけではありませんでした。まず、ギアは登坂用にDD5速ミッションなのは当然として、ファイナルギアも高トルク型が搭載されました。その結果、「トルクが無い」事で有名なP規制のM10U型エンジン搭載ながら、平地では「3速発進してもすぐにシフトアップが必要」なほどのハイギヤードとなっていました。これは別にやりすぎという事ではなく、それだけ己斐峠の勾配が厳しかったという事です。
 そして、もうひとつの大きな特徴として、サブエンジン式のエアコンが挙げられます。この世代の都市用路線バスは既にエアコン用動力をメインエンジンから取る「直結式」が標準になっていましたが、直結式エアコンだと夏場にエアコンを回した際に、大幅なパワーダウンとなってしまいます。そのため、床下にエアコン専用エンジンを搭載し、エアコン稼動時でも安定した出力が確保できるようになっていました。エアコン用ダクトが第3柱に見えるのが、外観上のアクセントとなっています。

 11号線専用に9台入ったこのグループでしたが、平成11年に専属していた11号線が分離子会社の「HD西広島(通称:「ボンバス」)」に移管されてからは、同じく急坂狭隘路線として有名である「6号線」に移動し、活躍を続けています。  元11号線では「ボンバス」に移管されてからは中型ワンステップが稼動するなどの低床化が進められましたが、6号線ではワンステップバスの運用試験を行った結果「ワンステップでも厳しい」という事が判明し、結果的にこのグループの安住の場となっています。当初の目的とは違う場所で活躍する事になったわけですが、結局は天職に落ち着いたと言っていいのかもしれません。
日野 P-HU235BA ブルーリボン 日野車体工業 (1990) [一般低床車]
 (2003/1/29更新)
 (2003/3/13更新)
 (2004/7/28更新)

 1985年にマイナーチェンジしたHT/HU系ですが,1986年のチェンジで早速改良が加えられ,ボデー窓の天地方向が更に拡大されています。
 その他の変更は特になく,1990年まで生産されました。
日野 U-HU3KMAA ブルーリボン 日野車体工業 (1991)
 (2003/3/17更新)
 (2003/8/10更新)
 (2004/7/28更新)

 日野ブルーリボンには,一般低床のほかにも都市低床(一般低床車に扁平タイヤを履かせて床を低くしたもの)のほか,標準床も設定されていました。
 1990年代初頭には既に超低床化への動きは進んでいましたが,道路条件や居住性の問題から,標準床を選択する事業者はまだかなり存在していました。
 山間部を走る路線に導入された車が多かったため,低床車よりも高出力エンジン搭載車の割合が多いのが特徴です。この絵の車も,K13U型270psエンジンを搭載しています。
日野 U-HU3KLAA ブルーリボン 日野車体工業 (1991)
 (2003/3/17更新)
 (2004/7/28更新)

 この車もHU3KMAAと同じく「標準床・高出力エンジン」の車ですが,長さが更に短いL尺(軸距4.8m)なのが特徴です。
 短尺高出力車なので,走りはかなり軽快です。
日野 U-HU3KLAA ブルーリボン 日野車体工業 (1992) (2003/7/29更新)

 ブルーリボンになって以来の広電バスの郊外線車両といえば、メトロ窓・側面大型方向幕・ハイバックシート等々といった「豪華装備」が基本となっていましたが、中にはその文法から外れた車も存在していました。
 平成4年に廃止代替路線用として入った2台も、そんな車でした。広電バス全体の経費削減期に入っていたとはいえ、ローバックシート・側面縮小方向幕・上下サッシ窓といった仕様は、郊外線車輌の中でも異端として知られていました。
 2台のうち、4579号車は広電バスの車籍となってはいましたが、実質は広電グループの県北担当である備北交通の車と言っても良い状況でした。結局、備北交通に移籍し、現在は車籍も備北交通に移っています。4594号車は名実ともに広電に在籍しており、豊平町の廃止路線代替バスとして活躍していましたが、豊平地区の地元事業者委託が為されてからは、別の地域に転属しています。広電バスに所属してはいるものの、山間路線の地域ローカル限定で運用されているために広島市内に上ってくることはまずあり得ず、意外と「知られざる存在」となっています。
日野 U-HU2MMAA ブルーリボン 日野車体工業 (1992) [一般低床車]
 (2003/1/29更新)
 (2003/3/13更新)
 (2004/7/28更新)

 1990年には平成元年度排出ガス規制が行われ,各メーカもそれに対応した改良を行いました。
 日野も大型路線車の改良を行いましたが,その改良は…徹底した物となりました。
 軽い改良は,ボデーデザインの更なる見直しが挙げられます。前面方向幕の処理が丸っこい物になり,前面整備口の面積も拡大されています。
 で,徹底した改良の中身ですが…懸案の「エンジン」と「エアサス」がその焦点でした。

 エンジンは,M10U型に徹底した改良が施されました。殆ど新設計と呼べるほどの徹底した改良の結果,小排気量でも下から上まで力強いエンジンへと進化しています(但し,カタログスペックは230psと落ちている)。同時に,高出力のEK200型も,排ガス規制対応を期に新しい命名法に基づいてK13Uと型式変更されています。エアサスも徹底した煮詰めを行い,ロールとピッチングを抑えながらも乗り心地と両立させたものとなっています。
 この改良の結果,平成元年規制の路線バスの中では,日野HT/HUは最も出来の良い車と評されています。しかし,バブルが弾けたせいで新車導入台数はぐっと減少し,この時期のモデルは,余り生産されていません。
 折角徹底的な改良を施したのですが…まぁ,「間が悪かった」としか言えません。
日野 U-HU2MLAA ブルーリボン 日野車体工業 (1995) [一般低床車]
 (2003/1/29更新)
 (2003/3/13更新)
 (2004/8/5更新)

 1990年のマイナーチェンジでは,型式名称の付け方が大幅に変わっています。以下に,対応表を掲載します。

 ◎低出力車
 長尺車…HU236BA→HU2MPAA
 中尺車…HU235BA→HU2MMAA
 短尺車…HU233BA→HU2MLAA

 ◎高出力車
 長尺車…HU276BA→HU3KPAA
 中尺車…HU275BA→HU3KMAA
 短尺車…HU273BA→HU3KLAA
(旧→新,HTもこれと同じ。長尺車…軸距5.67m,中尺車…軸距5.2m,短尺車軸距4.8m)
日野 KC-HU2MLCA ブルーリボン 日野車体工業 (1996) [一般低床車]
 (2003/1/29更新)
 (2003/3/13更新)
 (2004/8/5更新)

 1990年に引き続き,1995年には更に「平成6年度排出ガス規制」が行われています。排ガス規制符号も,UからKCに移行しています。

 とはいっても,元年規制のときに徹底した改良を行ったHT/HU系はそう大した改良を加える事も無く,6年度規制に対応しています。
 主な変更点としては,「ヘッドライトの角目化」「マニュアルシフトのFFシフト(電空伝達式シフト,電気信号を送ってエア動作で変速。従来まではロッドシフトのパワーアシスト付だった)標準化」が挙げられます。
 変更点は微々たるものですが,型式符号の末尾の「AA」が,それぞれ「CA」に変更されています。
 なお,この時期から段々とバリアフリー化が言われ始め,ワンステップの設定や,リフト付ツーステップの設定などが行われています。
 この絵の広電市内線5号線専用車も,中扉にリフトを装着しており,その対応のために中扉がグライドスライドドアとなっています。
日野 KC-HT2MPCA ブルーリボン 日野車体工業 (1996) [一般低床車] (2003/3/25更新)

 ブルーリボンには,リーフサスのHT系も用意されていました。ニーリング機構の要求されなかったツーステップ時代は,都市部などで好んで使われていました。
 アイコンは,日本海側は石川県,北陸鉄道の車です。
日野 KC-HU2MMCA ブルーリボン 日野車体工業 (1999)[ワンステップ] (2003/3/17更新)

 90年代に急速に進んだ「バスの超低床化」ですが,超低床バス(ノンステップバス)は,特殊な構造ゆえの高価格が問題でした。いくつかノンステップバスが試作されましたが,いくら改造とはいえその価格は通常のバスのおよそ2倍。普通の事業者にとっては到底耐えられる出費ではありませんでした。
 そこで登場したのが,床高を550mm程度に抑えてステップを1段にしたワンステップバスです。日野自動車が1989年に京急と共同開発した試作ワンステップバス(HT235BA改)がその元祖で,そのバスがその後普及した大型ワンステップバスの雛型となりました。
 その元祖の「直系」ともいえる車が,この日野ブルーリボンワンステップです。1995年のマイナーチェンジを機に,従来までカタログモデルとして扱われていなかったワンステップ車が正式に発売されました。

 1995年の発売時は,リーフサスのHT系しかワンステップが設定されていませんでしたが,1996年にエアサスのHU系にもワンステップが設定されると,それが全国に普及しました。従来の低床車より更に床の低いリーフサスの場合,荷重が増加すると車高が変わって車体下部が路面に接触する恐れがあったのですが,車高調整の効くエアサスだとその心配は無くなりました。そして,乗降時にはエアサスのベローズから空気を抜いて車高をギリギリまで下げるという芸当も出来(いわゆる「ニーリング」),それもバリアフリー化を進める上での大きなセールスポイントになりました。
 長さの設定は,他の床高の車と同じく,3種類が設定されていました。エンジンも低高いずれの出力も選択できるようになっていましたが,生産された車の殆どは,230psの低出力エンジン(M10U型)を搭載したHU2M系でした。
 アイコンは京浜急行の塗装です。
日野 KC-HU2MLCA ブルーリボン 日野車体工業 (1999)[ワンステップ]
 (2003/3/17更新)
 (2004/8/3更新)

 地方で多く採用された,短尺(L尺・軸距4.8m)のブルーリボンです。
 この世代の車あたりから,窓の上部開閉・下部固定仕様(通称「逆T字窓」)が全国的に普及したのですが,初期のピラーが固定ガラスの下に隠れているもの(ヒドゥンピラー)とは違って,サッシが固定部のガラスより外に出ている仕様が標準的になりました。
 アイコンは,広電バス郊外線の戸河内に入った車です。
日野 KC-HU2MMCA ブルーリボン 日野車体工業 (1999) (2003/3/17更新)

 ワンステップが追加され,バリアフリー時代に対応していたブルーリボンシリーズですが,モデルとしてはまだ標準床も設定されていました。交通バリアフリー法施行を前に,全国の標準床を使用する事業者が駆け込み的に標準床の車を購入していたのも,この時期の特徴でした。
 2000年のKL規制対応マイナーチェンジでブルーリボンは「ブルーリボンシティ」へと大変身を遂げましたが,その時点で標準床車はモデル廃止されてしまいました。
 アイコンは呉市交通局の塗装です。
日野 KC-HU2PPCE ブルーリボン 日野車体工業 (1999)[ノンステップ] (2003/3/27更新)

 日野がノンステップバスを正式にカタログモデルに加えたのは,1998年10月でした。
 軸距は2種類設定され,短尺のM尺(5.11m)と中尺のP尺(5.57m)がありました。他社のノンステップバスよりWBが長いですが,これはROHを短縮したために発生したもので,ノンステップエリアの広さはクラス最大となっています。ロングWBとはいえ,取り回し性は大して犠牲になっておらず,他車と比べてそう悪いものではありません。
 アイコンは東急バスに入った車をモデルにしています。
日野 GB-2000(KL-HU2PMERA改) ブルーリボンシティ 名古屋ガイドウェイバス
 (2003/1/29更新)

 ガイドウェイバスとは都市部の渋滞を避けるために専用の道路に専用の車両のみを走らせる交通システムです。平成13年3月23日に名古屋で開業しました。

 名古屋市大曽根から小幡緑地までが専用道路の区間となります。
 専用区間においては,バスに装備されている案内輪がレールをとらえてカーブを曲がるので運転手はハンドル操作をしなくてすみます(逆にハンドルには触れてはいけない)。そのため専用区間を走行させるときは軌道法に基づき運転手は無軌条電車運転免許を所持することが義務付けられています。
 また一般道路をバスとして運行させる時は,大型自動車第二種免許が必要です。
 運営するのはなごやガイドウェイバス株式会社です。これは大曽根からバスを運行させていた名古屋市交通局(市バス),名古屋鉄道(名鉄バス),JRバスの共同により作られました。
 (解説更新 続く)
日野 KL-HU2PLEA ブルーリボンシティ 日野車体工業 (2001)[ワンステップ]
 (2003/3/27更新)
 (2004/8/6更新)

 2000年に,日野は大型路線バスシリーズブルーリボンシティをマイナーチェンジしました。平成11年度排出ガス規制対策がその骨子でしたが,各所に大幅な変更を受けています。
 まず,外観がかなり変更されました。フロントマスクは1982年以来の角張ったデザインのものから曲面主体のSラインを軸としたものに変更され,イメージを一新しました。左正面には視界確保窓を標準で設定し,スタイルの中にそれを盛り込みました。
 側面の窓も変更されて,逆T字窓は可動部分がサッシ省略の物となり(因みにこれは三菱のものと共通),印象が軽快になりました。
 従来の車はワンステップとツーステップで窓の大きさが異なっていましたが,ブルリシティではそれが共通化され,ツーステップもワンステップと同じ大型窓が採用されました。
 中身も大きく変わりました。まず,前軸のアクスルが再設計され,ステア角の増大と前輪間の通路幅拡大を達成しました。
 エンジンも変更されました。従来は低出力がM10U型,高出力がK13U型と別のエンジンを使っていましたが,このモデルではP11C型(L6TI・10520cc)に統一され,チューンの度合いにより出力を変更する方式になりました。
 このP11C型ですが,従来のものとは違い,水平置きではなく直立置きされているのが特徴でした。このため,エンジン上に座席を設置することが出来ず,従来モデルよりも室内空間が若干犠牲になっていました。
 何故直立エンジンを採用したのかといえば,一言で言うと「トラック・ノンステップバスとのエンジン共通化」が挙げられます。従来の水平L6はトラックで使われた直立L6をベースにしたものでしたが,やはり専用設計の部品が多くなるのは事実です。コストをなるべく下げたいご時世に,路線バス専用エンジンというのは贅沢だと日野は判断したのです。
 それに,実際のところ,低床化が進んだことにより水平エンジンの意味が薄れたことも指摘できます。シャーシやアクスルは設計により高さを低くすることが出来ますが,エンジンの「厚み」だけはどうしようもなく,エンジン部だけ高くして雛壇を設けざるを得なくなります。それならばもう水平エンジンの意味は無い,エンジンを極力小型化して直立エンジンを採用した方がトータルで勝るというのが,日野の考えた事だったのです。
 構造もかなり工夫されてエンジンルーム自体がかなりコンパクトに纏められたことから,実用上の問題は特に発生していません。

 P11C型エンジン自体の完成度の高さ,よく練られた車体設計などで,登場した1982年からフルモデルチェンジを行っていないのにもかかわらず他社の同級車と比較しても全く遜色の無い,寧ろ優れた部分の多い車に仕上がっています。
 このアイコンは,広電初のブルリシティとして琴谷に入った車を再現しています。
日野 KL-HU2PMEA ブルーリボンシティ 日野車体工業 (2001)[ワンステップ]
 (2003/3/27更新)
 (2004/8/6更新)

 此方の車は,軸距5.2mの中尺車です。エンジンは300psの高出力型が採用されていますが,外見上の差異はありません。型式も変化が無いために,ぱっと見ただけでは低出力なのか高出力なのか全く区別がつきません。
 300ps車の走りっぷりは,見事そのもの。広電バスに導入されたこの車は,広島市と近郊の丘陵地帯を結ぶ高速4号線の急勾配を5速X0km/hで悠々と駆け上がります。秀逸なサスと強固なボデーも,快適な走りに一役買っています。
日野 KL-HU2PREA ブルーリボンシティ 日野車体工業 (2002)[ワンステップ] (2003/3/27更新)

 ブルーリボンのときは,長尺車といえば軸距が5.67mの「P尺」でした。しかし,ブルリシティになってからは,P尺が廃止されて245mm延長された「R尺」となりました。軸距は5.915m,全長は11.39mにも達します。
 アイコンは東急仕様塗装です。青葉台のワンロマ(ワンマンロマンス…路線バスと観光バスを足して2で割ったような車,車内には観光バスのように2人がけのシート=ロマンスシートがずっと並んでいる)として導入された車です。
日野 KL-HU2PPEE ブルーリボンシティ 日野車体工業 (2001)[ノンステップ] (2003/3/27更新)

 ブルーリボンがブルリシティになるのにあわせ,ノンステップもマイナーチェンジが施されました。しかし,1998年の登場なのでそう大きな変更は行われず,フロントマスクの変更と前輪間通路の床平坦化(ブルーリボンのときは車軸部で若干床が盛り上がっていた),エンジンの環境対策といった地味な変更に留まりました。他にはそう大した変更は受けていません。
 後部の座席が先代は前後に対面だったのが,1998年のモデル発表時から2000年のマイナーチェンジ時までのモデルは,いすゞを除いて後部タイヤハウス上の座席が対面式(電車で言うところのクロスシートって奴でしょうか)になっていました。これは,張り出しの大きなリアタイヤハウスの上に前向きシートを置くと,その部分だけ着座位置が物凄く高くなり,快適性や車内移動の安全性確保に問題が出るというところから行われたものでした。
 しかし,日本の路線バスにおいてこの対面シートというのは殆ど実績が無く,利用者からは敬遠されました。知らない人と向かい合って座ることに対する嫌悪感や「後ろ向きに進む」事への抵抗感といったものがあったわけです。

 いすゞは最初から席配置の効率化を行い(というよりは扉位置の前進によって中扉〜後輪間の距離を拡大),全席前向きシートを実現していましたが(但し座り心地は悪い),他社が標準仕様でそれを実現するには,2000年のマイナーチェンジを待たなければなりませんでした(三菱だけは今でも「標準」は後ろ向きシート,但し前向きも装備可能)。
 使いやすさや足元スペースの確保といった面においてはそれなりによく出来た配置だったのですが,結局それ以前の問題が普及にストップをかけたという事です。
 このアイコンは,東急バスに入った車を再現しています。
日野 KL-HU2PMEA ブルーリボンシティ 日野車体工業 (2004)[ワンステップ・デンソー新エアコン車] (2004/8/6更新)

 2000年にビッグマイナーを受けたブルーリボンシティですが、ワンステップに標準のデンソー製冷房は、床下にコンデンサを置いた屋根上の突起が無いタイプが採用されていました(外気導入式エアコン搭載車に限って言えば平べったい外気導入口がついていました)。
 しかし、デンソー製エアコンのモデルチェンジが行われてコンデンサの大きさが小さくなったのを機に、標準で装備されるエアコンも、2002年以降はそのタイプに移行しました。
 この小型ユニットが開発されるまでは、ワンステップとノンステップのエアコンは別の方式のものが採用されていましたが(ワンステップは床下に薄型コンデンサ、ノンステップはそれを屋根上に搭載)、小型ユニット開発によってワンステップも無理して床下に搭載する必要がなくなったので、統一化が図られたというわけです。
日野 KC-RU1JJCA ブルーリボン 日野車体工業 (1996) (2003/3/17更新)

 全幅は大型規格の2.49m,でも全長は「大型短尺車」の10mより更に短い9.5m…そんないささか中途半端な位置に存在する車は,一般に「大型ショート車」と呼ばれています。
 この日野RU系もそんな「大型ショート」のひとつで,自家用をメインに,狭隘地区や過疎地区の路線車にも導入されました。
 エンジンは普通の大型車とは違い,中型車と同じ直列6気筒NAのJ08C型(215ps)を搭載しています。
 床の高さは,標準床のみの設定となっています。他メーカの同級車は低床やワンステップも設定されていましたが,日野の場合はメインユーザは教習所などの自家用用途で,路線車は限られた事業者にしか導入されていません。そのため,低床を開発する必要なしという事になったわけです。
 この車が登場したのは1990年のブルーリボンマイナーチェンジ時でしたが,そのときはエンジンが異なり,205psのH07D型を搭載し,型式もU-RU3HJAAとなっていました。
 このアイコンは,広電郊外線の戸河内に入った車です。長距離路線に投入されていますが,丁度広電バスの経費削減期に入ったために,車内設備はかなり簡略化されたものになっています。
 それでも,全国的に見ればまだまだ豪華と言える部類ではあるのですが…
日野 KC-RX4JFAA リエッセ 日野車体工業 (1997) (2003/4/26更新)

 日野は,1995年に新型マイクロバス「リエッセ」を発売しました。これは,従来まで販売されていたクラス唯一のリアエンジンマイクロバスRB系の後継として開発されたモデルです。サイズ的には全長7mと従来と同じですが,全幅は従来の2mから2.08mへと拡幅され,居住性の向上が図られました。
 ボデースタイルは,それまでの小型車の常識を破るものとなりました。曲面を大胆に採用したスタイルは,日野のフラッグシップである大型観光バス「セレガ」を髣髴とさせるものになり,クラスを感じさせない存在感を放っています。作りも従来の物より遥かに頑丈に作られ,快適性と耐久性の向上が図られました。

 外観だけでなく,中身もかなり凝った内容になっていました。マイクロバスのブレーキといえば,普通は乗用車と同じハイドロブレーキが標準です。しかし,このリエッセでは大型バスと同じ空油圧複合式ブレーキが採用され,制動力と操作性を向上させていました。
 他にも,ミッションにATが用意されたり,サスペンションはエアサスが標準だったり,仕様によっては定員が40名を越えたり…など,それまでの小型バスの常識を越えた車となっていました。
 この絵のトップドア仕様の外に,中扉を設置した路線バス仕様も設定されており,この頃から全国的に流行り始めたコミュニティバスに多く採用されました。
 本格的な作りをしていたため従来のマイクロバスよりはかなり高価格の設定でしたが,その作りが評価されて販売を伸ばしました。この車の存在がマイクロバスの立場を引き上げたといっても,過言ではありません。
 このアイコンは,広島は安佐南区上安を基点に活躍する,第一タクシーの車をモデルとしています。第一タクシーは,それまで広電バスが走らせていた安佐地区の路線をあらかた引き継いでいる事業者です。よく,広電タクシーが身売りした第一交通(本社…福岡。これまた安佐地区にも進出し,第一タクシーの至近に車庫を作ったものだからもう紛らわしくてかなわない)と一緒にされてしまいますが,両社は明らかに別の会社で,資本関係は何も存在しません。
三菱 KC-MP747K エアロスターノーステップ 三菱自動車(1999) (2004/7/1更新)

 1996年にフルモデルチェンジを果たした三菱の大型路線バスシリーズであるエアロスターですが、97年初頭にはノンステップのモデルが登場しました。当初「ノーステップ」という三菱独自の名称が与えられたこの車ですが、日本で初めての量産ノンステップバスとなりました。
 元々、三菱は前モデルの時代にノンステップバスを試作・納入したり、二階建てバスの一階部分をノンステップにしたりするなど、ノンステップに関する技術は80年代の時点でそれなりに持ってはいました。しかし、超低床化に伴う製作工程の増大や専用部品の多用による高コストといった点をどうしてもクリアする事が出来ず、量産車の販売は97年と遅れてしまったのです。
 96年にフルモデルチェンジをしたエアロスター系は、最初から超低床を目論んだ設計となっていました。そのため、このノーステップにおいても専用の部品は削減され、コストの上昇が抑えられています。
 専用部品が削減されたとはいっても、床を下げるための工夫は随所に施されています。中扉より後ろに段差なし通路を確保出来るようにするため、懸架装置をエアサスのベローズを車体外側に出したワイドサスにした他、後軸のデフを右側に寄せた偏心デフを採用するなどして、通路幅の拡大&低床化に努めました。偏心デフの採用に伴い、240psを発揮する6D24型エンジンも右側に30cmオフセットして搭載されました。後軸部の通路が(狭いながらも)確保されているため、「前後扉ノンステップ」といった仕様にも対応していました(但し、後扉付きで納入された例は殆ど存在せず)。

 床高34cm、ステップ部30cmという床高は、世界でもトップレベルの低床と言えます。しかし、諸外国の車と比べてやや大きめなタイヤ(275/70R22.5)によって、室内へのタイヤハウスの張り出しは若干大きなものとなっていました。
 これは室内のレイアウトにも影響を及ぼしており、前扉&運転席直後の前輪上に位置する座席に座る際には、文字通り「よじ登る」格好となってしまい、安全性の面からこの座席を取り外して荷物置きにしてしまう事業者も出ました。また、後軸上に前向きの椅子を取り付けると足元スペースが酷く限られてしまうため、ここの部分の座席は後ろ向きが標準となっていましたが、これが恐ろしく不評であったために順次前向き座席へと改良されていきました。
 こういった改良は年次が進む毎に順次行われており、細かな仕様は年毎に変更されているといっても過言ではありません。こうした細かな改良と、元々持っていた良好な整備性・低コストとノンステップとしての使い勝手の良さの両立により、エアロスターノーステップは国産大型ノンステップバスの中で一番の評価を受け、販売実績は他を圧倒しました。
 この状況は2000年に排ガス規制対応に基づいた他社モデルのフルチェンジ後も続いており、ベストセラーとしての地位を確立した…かに見えたのですが。
 世間を騒がせたリコール騒動により、ノンステップバス受注台数のかなりの割合を占めていた公営事業者からの指名差し止めを食らった影響で、今後の展望は予断を許さない状況となっています。
 ノンステップバスとしての使い勝手は未だに国産トップクラスの実力を持っているだけに、昨今の状況は惜しまれるものがあります。
三菱 KC-MP747K エアロスターノーステップ(前後扉・カタログ撮影仕様) 三菱自動車(1997) (2004/7/14更新)

 97年に発売されたエアロスターノーステップには、標準的な前中扉仕様の他にも、前後扉のモデルが用意されていました。
 前後扉という事で、当然床は完全ノンステップ。後軸の部分も、偏心デフを用いているので幅こそ狭いものの、スロープ処理によってノンステップを実現していました。但し、車椅子が通過できない程度の幅なので…使い勝手がいいとは、お世辞にも言えません。
 折角設定された後扉ですが、実際に採用される事は殆どありませんでした。実用面での問題もさる事ながら、ノンステップ導入を期に前中扉車に統一しようという動きが事業者側に広がったために、それまで前後扉を導入していた事業者も前中扉に移行してしまったからです。一部の事業者では3扉という形で後扉も導入されましたが、それもごく一部の例外で、純粋な前後扉で事業者に納入されたケースというのは、恐らく存在しないものと思われます。
 このアイコンは、97年に発売された時のカタログ撮影用モデル車を再現しています。カタログ撮影用に製造されたので、側面窓は固定式となっています。結果的に、これが前後扉を装備した極めて珍しい事例となりました。
三菱 KC-MP747K改 エアロスターノーステップCNG試験車 三菱自動車(2000) (2004/7/14更新)

 カタログ撮影用に製造された前後扉仕様のエアロスターノーステップですが、その後事業者に売却される事無く、ずっと三菱の社有車となっていました。そして、CNGノンステの実験車としての改造が行われました。
 CNG化するにあたっては、エンジンはベース車の6D24型をオットーサイクル化した物が採用されています。出力は230ps、ベースエンジンよりも10psほど出力は落ちていますが、実用性能に問題ありません。
 CNGのタンクは、外観から分かるように、屋根上に装備されています。250Lという大容量のタンクが3本並べられ、一充填あたりの航続距離は200kmを確保しています。タンクのカバーは、保守性を考えて前後に分かれて開くようになっています。
 CNGノンステの試験車が前後扉のカタログ撮影車になった理由としては、「余剰車だった」というだけでなく、前後扉という点が買われたと言う事が出来ます。CNGボンベは規制緩和によって金属製からカーボン製の軽量タンクに変更する事が許可されていましたが、それでも重量物には変わりなく、屋根上に搭載する以上、耐荷重性を考慮して車体中央に開口部の無い前後扉車が試験車に起用されたものと思われます。
 勿論、市販車では前中扉仕様となっており、前後扉仕様はこの試作車1台きりの存在となっています。
三菱 KK-MJ27HL エアロミディMJ9mノンステップ 三菱ふそうバス製造(2004) (2005/2/1更新)

 中型バスのノンステップ化に乗り遅れた感のあった三菱でしたが、2000年に満を持してモデル追加を行いました。それがエアロミディMJノーステップです。
 この車の特徴は、「MJ」という型式名からも分かるようにそのエンジン配置にあります。6M61型直列6気筒ディーゼル(8.2L・225ps)を車体最後部に横置きし、動力を三菱T-ドライブと呼ばれるアングルドライブで伝達するという方式を取っています。これにより、リアオーバーハングを可能な限り圧縮することができるようになりました。
 この方式自体は、中型幅7m観光バスや中型幅7mワンステップ/ノンステップバスで既に各社とも手をつけているものでした。しかし、この車で画期的だったのは「それを9mクラスノンステップ車にも応用した」ということです。この車では7m車と9m(実測は8.69m)車が設置されていますが、違うのはホイールベースの長さのみで、オーバーハング部の構造は両者とも全く同じ構造になっています。このため、9m車は同級他車と比較してかなり長いホイールベース(5.26m)を確保することができ、全長が短いにも関わらずノンステップ部面積・着座定員、総定員のいずれもがトップになるという画期的な設計になりました。
 ホイールベースは当然同級他車より長いので、取りまわしという点に関しては若干見劣りする部分があるのは否定できません。しかし、それも54度も切れるステアリングによってカバーしており、実用上はそう問題はありません。
 型式は7m車がKK-MJ27HFで、9m車は当初改造型式としてKK-MJ27HF改という型式を付されていました。しかし、2002年秋に型式の見直しが行われ、7m車は従来のまま9m車の型式がKK-MJ27HLとされ、改造申請をしなくても登録が行えるようになりました。また、同時に商品の名前も「三菱ふそうエアロミディノーステップ」から「三菱ふそうエアロミディノンステップ」に変更され、他社と足並みをそろえています。

モデルは『ふれんどバス』専用車として、愛知県吉良町の吉良高校前〜碧南駅を結んでいる
名鉄東部観光バス所属の三菱エアロミディMJノンステップです
そもそもこの『ふれんどバス』というのは、乗客の減少により2004年3月末をもって廃線となった
名鉄三河線碧南駅〜吉良吉田駅間を代替するバス路線です 2004年4月1日に運行が開始されました
設立の経緯から、運行こそ名鉄東部観光が行っていますが、地元自治体による補填も行われ
旧三河線海線を縫うように、以前は30分弱かかった区間を60分弱で結んでいます
路線には昔ながらの細い道が多い事もあり、この所要時間の増加は仕方がないところでしょう

利用促進の為か、運賃は一律200円と安くなっており
他の交通手段のない路線沿いの高校に配慮してか、高校生までが子供料金となっています
しかし当該地域はもともとモータリゼーションの盛んな地域であり
この所要時間ではどれだけの利用者が得られるか、微妙なところですね
事実、朝夕こそ高校生を中心とした利用者が多いのですが、日中は閑散としているのが実情です
開業から1年を迎えますが、これからの利用促進策が課題となっています

なおラッシュ時に対応する為に2種類のサイズの車両があり、こちらは小さいほうです
前述の通り昼間には輸送力過剰となってしまう為、一色町の車庫(三河一色駅跡地)で寝ています
三菱 KK-MK27HM エアロミディMKノンステップ 三菱ふそうバス製造(2004) (2005/2/6更新)

 日産ディーゼルJP系を祖に発展した中型ベースの10.5m級超低床バスは、その安価さを武器に全国の事業者を席巻しつつありました。その後を追って登場した日野HR系の10.5m車もそれ以上の人気を博し、大型ノンステップバスのベストセラーになりつつありました。
 無論、「バスNO.1」を標榜する三菱がこの動きを静観しているわけがありませんでした。日デ・日野に引き続き、2002年11月に中型バスエアロミディMK系をベースとした中型ロング車を発売しました。
 その設計は実に堅実なもので、既存のコンポーネントを最大限利用しつつ、先行二者双方のいい所だけを抜き取って形にしたような車に仕上がりました。
 ノンステップ部は、先に発売されていたエアロミディMJノンステップ9mの物と基本的に共通になっています。フロントオーバーハングを200mm伸ばしている以外は、構体・内部構造ともほぼ同じと考えて差し支えありません。また、それに組み合わせる駆動系は、エア・リーフ併用サスを用いたリアアクスルと縦置きエンジンを組み合わせたMKワンステップのものを流用しており、極めてコンベンショナルな構成となっていました。これにより、整備性の向上とリーズナブルな価格を両立しました。
 シンプルな駆動系は、同クラス最量販車である日野HR系にはない特徴でした。日野HR系は横置きエンジンをワンステップ車と同じアクスルに組み込むために「日野パラレルドライブ」と呼ばれる特殊な駆動系を用いており、これが整備性や効率の上でのネックとなっていました。
 また、同じくコンベンショナルな駆動系を持っていた日デJP系とは異なり、燃料タンクをリアオーバーハングに収めてホイールベース間のノンステップエリアを極力狭めないようにするといった工夫が凝らされていました。日野HR系も同じような工夫を行っていましたが、こちらは後輪直前に横長の燃料タンクを仕込むといった方法を取っており、三菱の方式はこれよりも更にノンステップエリアの前後長を長くすることが出来るものでした。
 また、三菱独特の軽量な車体も特徴で、10.5m級でありながらGVWは12t未満に収まっており、排ガス規制符号も大型と共通の「KL」ではなく、3.5t以上12t未満の「KK」となっています。日野HR系より700kg、日デJP系より1t以上も軽量に仕上がっており、これは走行性能にも少なからぬ影響を及ぼしています。
 独特のプロポーションと革新的なコンセプトが話題を呼んだエアロミディMJノンステップとは異なって実に地味な製品であり、これといって注目すべき点が無い車ではあります。しかし、地味ではありますが非常によく纏まった車には仕上がっており、その地味によく出来ている点が地味に評価され、地味に増殖を続けてふと気付けばリコール隠し騒ぎをものともせず一つの勢力を築き上げています。
 目新しい点は何も無い、地味街道まっしぐらの車ではありますが、都市部から田舎コミュニティバスまで、全国各地で幅広く導入が行われています。
 アイコンのモデルは、エアロミディMJノンステップと同じく、名鉄三河線廃線代替バス「ふれんどバス」用に名鉄東部観光バスが導入した車です。このサイズでは基本的に供給過多になってしまう路線なので、通学・帰宅ラッシュその他の波動輸送に用いられています。
日産ディーゼル U-UA440LSN 富士重工業(1994) (2004/4/1更新)

 1988年にモデルチェンジを行った日産ディーゼルの路線バスU系ですが、1990年の平成元年度排出ガス規制対応を機に、型式の付け方を変更しています。それまでは、リーフサスの車を「U33系」、エアサスの車を「UA33系」と呼称していましたが、リーフサスもエアサスも統一して「UA440系」と呼称する事になりました。サスの方式は、「UA440」の後に続くアルファベット三文字の真ん中の文字で表され、「A」がエアサス、「S」がエアサスとなりました。なお、最初のアルファベットはホイールベースを表しています。

 まだ「仕様統一」というものが叫ばれていなかった頃の車なので、事業者によって様々な仕様がありました。このアイコンの車の3扉も、そういった様々な仕様の中の一つです。このアイコンの車の事業者である関東バスは、3扉バスの草分けとも言える存在で、随分早くから3扉車を積極的に取り入れていました。3扉はラッシュ時の降車時間短縮にかなりの効果があり、同地域を走る西武・京王といった事業者にもこの仕様が波及しました。

 この時期の関東バスの特別仕様といえば、「機械式AT」という物の存在も挙げられます。
 自動車用自動変速機といえば、流体トルクコンバータを使ったものが主流ですが、流体トルコン方式ではその伝達効率ゆえにどうしても燃費の悪化や走行性能の低下が生じてしまいます。機械式ATとは、通常MTで人間が行う動作を文字通り「機械で行う」方式のATの事で、クラッチの操作や変速が全て自動で行われます。流体トルコンとは違って伝達ロスの心配が無いので、イージードライブと好燃費が両立できる…というものが、機械式ATのウリでした。
 関東バスはこの機械式ATを積極的に導入した事業者でした。このUA系でも、日産ティーゼルの機械式ATである「E-MATIC」を装備した車を平成2年から平成6年にかけて大量に導入しました。アイコンの車も、そういった中の1台です。
 しかし、その評判は芳しいものではありませんでした。どうしても解消できない変速ショック、路線バスに必要な低速域での速度調整が困難、運転手の感覚と馴染まない変速タイミング、普通のクラッチを使うことによる交換の煩雑さやメンテナンスの難しさetc...問題は山積みでした。根本的解決は結局行われないまま、結局平成7年以降は通常の電空伝達式マニュアルミッションに仕様変更されてしまいました。
 なお、現在の大型ノンステップバスでは流体トルコンを用いたATも使用されており、経済性も実用上問題ないレベルには達していると言われています。関東バスにおいても、近年は結構な数のAT車が導入されつつあります。
日産ディーゼル KC-JP250NTN改 富士重工業(1996) (2004/3/26更新)

 西鉄が西日本車体工業・日産ディーゼルと共同して開発した中型断面のロングワンステップバスですが、日産ディーゼルから正式なモデルとして発売されるにあたっては、当時日産ディーゼルの指定ボデーメーカだった富士重工業製のボデーも設定されました。
 中型路線用ボデーの6E型をストレッチさせたボデーには、ラバー製のオーバーフェンダーが装着されています。中型車のアクスルよりも若干幅の広い足回りが使用されているからですが、これにより全幅が2300mmから2350mmへと拡幅されています。
 富士重工製の車体を架装したモデルは、「大型ツーステップと同じ価格でワンステップ超低床バスが買える」という安価さから、従来からの富士重ユーザーを中心に結構な数が導入されています。熱心な富士重ユーザーとして有名な関東バスも、平成8年に10台購入し、各営業所に2台ずつ配置しています。
 しかし、結構狭隘路線が多い関東バスでは、この車の5.56mという長いホイールベースでは運用に支障が生じます。そのため、ホイールベースを5.16mに短縮したモデルを特注し、10.5m級ではなく10.1m級の車として購入しました。こういったフレキシブルな対応が出来たのは、「ボデーメーカー」の富士重工だからこそとも言えます。
日産ディーゼル KL-UA452MAN 西日本車体工業(2002) (2005/10/1更新)

日産ディーゼルPKG-RA274MAN_西工96MCワンステ(広交)_(2006)  (2006/10/23更新)

 大型車の排ガス規制では世界で一番厳しいといわれている日本の平成17年長期排ガス規制に適合させるため、日産ディーゼルではエンジン本体で燃料を高圧噴射してPM(粒子状物質)を低減させ、これと引きかえに増加する窒素酸化物を尿素水(AdBlue)を通す触媒で分解する機構(メーカー呼称でFLENDS(フレンズ))を開発しました。
 このFLENDSを採用したバスがスペースランナーRAシリーズで、ハイブリッド車を除く純粋なディーゼルエンジンを搭載する大型バスでは国内で最初に新長期排ガス規制をクリアしたバスとなりました。
 さらに日産ディーゼルは世界で初めて策定された平成27年度重量車燃費基準にもいち早く達成し、自動車取得税の優遇措置を受けられるようになっております。
 新短期・長期規制に合わせ、西工96MCボディもマイナーチェンジを行っております。
・ホイールアーチを釣鐘型→半円型に
・側面後部の通風パーツを廃止
・前バンパーのフォグランプ・コーナーランプの取り付け位置変更
・側面最後部窓、戸袋窓(中ドアが引戸の場合)を接着式固定窓に
大まかな変更点は以上の通りです。また新しい灯火規制に適合させるため、側面に反射材の取り付け、リアコンビランプの位置変更等が行われております。日産ディーゼルの場合はマイクロバスのシビリアンと同じ縦型のリアコンビランプを採用しています。
 アイコンの車両は中国地方でも屈指の西工ボディ+日産ディーゼルシャーシユーザーである広島交通に、2006(平成17)年9月に導入された新車(形式PKG-RA274MAN)です。
Boston Duck Tours (2003/3/7更新)

 Boston Duck Tours アヒルツアー仕様に改造
アンヒビアン改造バス (1940年代後半) (2003/3/7更新)

 戦争により多大な損害を受けた日本の輸送体制を立て直すために,進駐軍は昭和21年から国・民間にトラックを放出し始めました。その数は,トラック4700台,トレーラ5759台に上りました。
 そして翌年,バスにも放出が始まりました。この放出車には,ガソリンやタイヤの裏付けが特典としてついてきていました。払い下げられた車としては,GMCの6輪トラックやダッヂブラザーズ1.5tなどが挙げられます。
 なかでも,水陸両用車のアンヒビアンの放出は440台に上りました。国内のボデーメーカや放出先の会社でバスボデーを架装されたアンヒビアンが,日本全国で活躍しました。
 架装されたボデーはところによってそれぞれ異なり,ボンネットタイプのものやキャブオーバータイプに改造された例も多数ありました。
 このアイコンは,宮崎交通に入った車をモデルにしています。
Frog Tours (2003/3/7更新)

 Frog Tours仕様

ボルボ K-B10M 連接バス 富士重工業(1985)(2004/10/25更新)

 1985年に茨城県のつくば研究学園都市を会場として開催された科学万国博覧会つくば'85ですが、この科学博で観客輸送の主役を担った国鉄常磐線は、会場から離れた所を走っていました。そのため、常磐線の臨時駅(後に「ひたち野うしく駅」となる)と会場とを結ぶ別の交通手段が必要となり、種々の検討が行われました。
 検討の段階では、この頃から盛んに研究が行われ始めていた「デュアルモード・ガイドウェイバス(分かりやすく言えば、「電気・ディーゼルを所によって使い分けるバスを用いたガイドウェイバス」)」が有力候補として挙がっていました。最先端の技術を用い、なおかつ大勢の観客を効率よく運ぶことの出来るデュアルモード・ガイドウェイバスは、科学博のコンセプトからしてもかなり魅力的な案といえました。しかし、これは余りにも時期尚早であったため、実現せずに終わります。その代替案として挙がったのが、18m級連接バスという案でした。
 連接バスという物自体は、世界的に見れば決して珍しいものではありません。欧米ではつくば博当時から市街地を長大な連接バスが走行していましたし、アジアでも中国をはじめとして各国で見られるものでした。
 我が国においても、これより前に連接バスが存在した例が存在します。終戦後、日本の市街地大量輸送を担った日野トレーラバスは広義の連接バスと言えない事もありませんし、50年代にはいすゞがボンネットバスをベースにした連接バス(但し、連接部は左右方向には動かず、上下方向に動くのみ。後部車体の変位は第3軸の操舵で解決)も試作されました。しかし、あくまでそれらは特殊な例としてであって、連接バスが都市交通の要として認識されるという事は歴史上ありませんでした。その意味で、このつくば博の連接バスは日本のバス史上初めての連接バスであると言う事が出来ます。
 欧州で既に実用車が普及しているという事が決めてとなり、科学博協会は輸送手段に連接バスを用いる事を決定しました。1982年5月の事です。

 さて、連接バスを採用するという事が決まったのはいいものの、問題はその車をどこから調達してくるかという事でした。連接バスの市民権が無い我が国には、当然の事ながら該当するモデルは存在しません。そのため、やむなく国際入札が行われる事になりました。
 入札では、日本の商社と海外メーカが手を組んで参加というパターンが大勢を占めていました。ヤナセ−メルセデスベンツ(西ドイツ)、住友商事−ルノービークルインダストリー(フランス)、伊藤忠−ケスボーラー(西ドイツ)、日商岩井−MAN(西ドイツ)、三菱商事−スカニア(スウェーデン)といった組み合わせの面々が入札に参加しましたが、これらはいずれも完成車をそのまま輸入するといった形での提案でした。しかし、その中で唯一毛色の違う提案を行った組がありました。それが、三井物産−富士重工業組です。
 三井物産は、この連接バス競争入札にあたり、国産では存在しない連接シャーシを海外から輸入して、国内のバスボデーメーカに架装させようと考えました。その日本側のパートナーとして選ばれたのが、当時の国内バスボデーメーカの中でもトップに君臨していた富士重工業だったのです。
 この提携は三井物産側が富士重工業側に協同検討の申し入れを行うという形で成立した訳ですが、三井物産が富士重工業をパートナーに選んだ理由としては、富士重工業のバスボデーが持つブランド力と信頼性が買ったという事が挙げられます。当時、シャーシメーカとボデーメーカの結びつきが今ほど強くなかった日本のバス業界の中で、富士重工業のシェアは25%以上を占めており、バスボデーのスタンダードとも言える存在でした。特に、国鉄の東名高速バス専用車には富士重工業のボデーが指定採用されており、イメージ的にも日本を代表するバスボデーメーカだったのです。
 ボデーは富士重にするとして、問題なのは輸入する連接バスシャーシでした。当初、三井−富士重組はシャーシの提携先として西ドイツのMANを念頭に置いていました。しかし、科学博協会から「プレゼンテーションは1シャーシ/1社で行うように」との通達があったため、既に日商岩井と手を組んでいたMANを諦めざるを得なくなりました。そのMANの代わりに浮かんだのが、北欧の雄・ボルボでした。
 スウェーデン大使館商務部経由でボルボ側とコンタクトが取れたのは、1982年10月の事でした。10月15日にボルボ側の副社長が来日し、完成車・国内儀装共々相互協力を行う事、推進役として三井物産を間に挟む事といった基本方針が定まったのです。

 科学博協会への仕様説明会が行われたのは1983年1月25日でした。この結果、7社に見積参加資格が与えられ、2月25日に最終見積が提出されました。その後、4月中旬に協会・運輸省・建設省・日本バス協会、そして技術者からなる調査団が欧州に派遣されるなどして、検討が行われました。その結果、5月10日に科学博協会の常任理事会でボルボに発注を出す事が制式に決定しました。
 なお、正式決定は5月10日でしたが、実際にはそれより更に前の段階で決まっていました。少なくとも、欧州への調査団派遣時にはほぼボルボで決まっていたという話があります。そして、その前の4月8日には富士重のみ協会から呼び出しがあり、12日までに排ガス規制対応可否の返答と価格再見積(発注が100台未満の場合の価格、試用期間終了後の再販の検討)提出を行うようにとの要請があったのです。この事実からも、既に4月中旬までには富士重−ボルボで採用という話がほぼ決定していたと言う事が出来るでしょう。

 富士重−ボルボ案が早い段階で有力視された原因としては様々な要因がありましたが、その中でも一番有力な理由としては、価格競争力で圧倒的に優勢だった事が挙げられます。
 当時の一般的な見方としては、メルセデスベンツの完成車輸入が最も有力視されていました。その動きは新聞紙上でも伝えられましたが、その1台あたり5000万円という価格は、余りにも高額でした。そのため、運輸省が自工会に国産化を申し入れたのですが、自工会側が「幹事会社になり手が無い」と辞退するといった事が起きていたのです。そういった動きの中で、三井−富士重の行った「ボデー架装と車輌システムのコーディネートを日本で行う」といった提案は、スタートが遅かったにも関わらず関係者一同から期待の星として最初から見られていたという事が出来ます。
 実際、三井−富士重の提示した見積は、他の案に比べれば「破格」とも言うべきものでした。連接バス100台導入だけでなく、ドライバーの訓練・期間中のメンテナンスサービスの受託といったものまで含めた上で、総額40億円というバーゲン価格だったのです。完全輸入車で購入した場合は、車輌価格だけを考えても50億円を越え、更にサービス体制を一から構築しなければならないため、メンテ費用も三井−富士重案とは比べ物にならないほどに膨れ上がっていました。価格面だけを考えても、三井−富士重組は最初から勝利を約束されているようなものだったのです。
 また、日本でボデー架装を行うという事は、自然と「保安基準・ワンマン構造規格などの国内法規への適合が容易」「アフターサービス面での対応性が高い」「国内で走行しているバスと基本的に同じボデーだから乗務員・乗客の違和感が無い」といったメリットも生まれました。実務的にも、三井−富士重案は非常に魅力的だったのです。

 こうして、晴れて採用が決定された富士重−ボルボ組ですが、大変なのは寧ろこの後でした。科学博協会との契約は「連接バスの運行に必要な新型自動車の届出及び自動車の新規登録等法令に基づく一切の手続を行う」事が条件にされていました。この連接バスの開発にあたり、主導していたのは富士重工業伊勢崎製作所だったのですが、伊勢崎製作所が運輸省へ届出業務を行うのは、1949年の国産初のフレームレスリアエンジンバス「フジ号」以来の事だったのです。そのため、スバルのホモロゲーション専門家や、群馬製作所・宇都宮製作所の関係者の指導を請いながらの作業となりました。
 日程的にも相当厳しいものがありました。1983年8月29〜31日にスウェーデン・ボルボ社での排ガス予備検査を受けた上で、それから6ヶ月の予備審査有効期間内に本省届出までこなさなければならないという、非常にシビアな日程となっていました。
 ボルボシャーシ1号車の引取りが行われたのは、1983年7月16日のことです。それと同時にシャーシ見取り設計・構造設計が開始され、同年10月6日には試作生産が開始されています。設計に掛かった時間は3ヶ月足らず。既に出来上がっているシャーシと当時生産されていた路線バス用ボデーの組み合わせといった既存コンポーネントの流用であるとはいえ、前例の無い作業には違いなく、初めて取り組んだ二階建てバスであるという事、バス車輌としては久々であるフレーム車へのボデー架装である事など、難題は多重に積み重なっていました。時間的制約の中でこういった困難な作業を行う事が出来た当時の富士重工業の技術力と対応力の高さは、特筆すべき点であると言えるでしょう。
 1984年1月5〜13日にかけて諸元測定が行われ、内6〜9日にかけては走行関係のデータ取得が行われました。2月27〜28日には本省審査部届・ヒアリングが、4月5〜6日に立会試験が行われ、その結果、5月16日付で届出は正式に受理される事になりました。この時点で、正式に「ボルボK-B10M型連接バス」という車が誕生した事になります。
 なお、これらの試験は運輸省自動車審査部の好意によって熊谷試験場で行う事が出来たのですが、伊勢崎製作所から熊谷試験場までの回送のために、特殊車輌の「基準緩和申請」を申請して、公道上を夜間走行しています。この基準緩和申請も、伊勢崎製作所としては初めての申請となります。
 これらを経て、晴れて5月29日、伊勢崎製作所において科学博協会主催で報道関係者へのプレス発表会と試乗公開が行われました。これが、世間に「連接バス」を知らしめた最初の機会になりました。

 この「ボルボK-B10M型」の機械的特徴を見ていきますと、最大のポイントとして「ミッドシップエンジンであること」を挙げる事が出来ます。前シャーシの第1・第2軸間に、THD100EE型直列6気筒ターボインタークーラーエンジン(275ps)を、水平に傾けて縦置きしています。これにZF製フルオートマチックトランスミッションと流体トルコンを組み合わせて第2軸を駆動するわけですが、この配置によって、後シャーシの第3軸の駆動系を省略する事が出来、シングルタイヤと操舵機構を組み合わせて、第3軸が第2軸の軌跡を辿るようにすることが出来ました。これにより、連接バスであるにもかかわらず、牽引免許が無くても、通常の大型免許さえ所持していれば運転が出来るように扱われるようになったのです。また、ミッドエンジンのプル式であるために、メルセデスなどのリアエンジンプっシャー式において心配される連接部のジャックナイフ現象が原理的に解消される事となり、この点も評価されています(なお、メルセデスはプっシャー式でもジャックナイフ現象が起きない機構の特許を取得しています)。
 なお、このミッドエンジン配置ですが、フレーム付シャーシであるB10M型であるからこそ可能になったとも言えます。通常のフレームレススケルトン構造では車体中央部に重量物であるエンジンを置くのは強度的・重量的に問題があり、実現は困難であったと考えられます。1950年代から60年代にかけて一斉を風靡した日野のセンタアンダエンジン車「ブルーリボン」シリーズにも、軽量化を目的としたフレームレス車が用意されていましたが、これもシャーシに亀裂が発生するなどの問題を抱えていました。無論、当時の道路事情と1980年代の道路事情とを同一視するのは問題ですが、いずれにしても問題を解決するのに要したであろう時間は、フレーム付車の場合に比べて遥かに長かったであろうと思われます。
 フレーム付シャーシに架装されたボデーは、基本的には富士重工業が当時生産していた自家用・観光系標準高車体スケルトンボデー「15型B(通称「5B」)」に準拠するものでした。但し、各部のアレンジなどに、15型の路線用ボデーである「15型E(同「5E」)」の影も見つけることが出来ます。こうした組み合わせは、観光系ボデーと路線系ボデーとの設計上の共通点が多く見られた15型ボデーの特徴の一つであると言えます。

 こうして完成した連接バスですが、科学博オープンまで100日余りとなった10月4日の深夜から5日早朝にかけて、納入検討が実際のコースで行われました。午後11時に伊勢崎製作所を出発し、前後に誘導車を配置して国道50号線を小山へ、そして国道4号線を古河へ、国道125号線を下妻からつくばまで進むというルートでした。この途中には冷暖房や騒音など、実際の運用に即した試験が行われました。
 これを踏まえ、12月21日〜1月26日の1ヶ月余りに渡って、連接バス100台の陸送が行われました。一晩に5台の隊列を組んで、前後を誘導車と各県警のパトカーに守られながら、全ての区間を自走して回送が行われました。つくばでの保管場所ですが、この当時はまだ万博中央駅隣接の駐車場が完成しておらず、そのため駐車場の完成までは、万博会場に近接する日本自動車研究所(JARI)の敷地内で保管する事となりました。
 この途中、1985年1月12〜15日には東京外車ショウに連接バスが出展されています。つくば博を控えたこの時期、宣伝を兼ねてボルボブースに展示されたのですが、万博の観客輸送車であるという事で関心は高く、好評をもって迎えられました。
 そして、開幕44日前となった1985年2月1日、万博中央駅に隣接する連接バス整備サービス工場内で、万博協会観客輸送部への100台の引渡し式が行われて、正式に引渡しが完了しました。この整備サービス工場も富士重工業が受注した契約の中に含まれており、この日から9月16日までの期間中、連接バスに対するサービスは一貫してここで行われました。富士重からは8名、ボルボから2名、そして日通商事から4〜8名の人員が派遣され、万全のサービス体制のもと、100台の連接バスは期間中滞りなく任務を全うする事が出来たのです。

 なお、運行に関しては、関東を中心とする各事業者から人員が集められ、各社で分担して運行が行われました。常盤交通自動車の15台を筆頭に、東京急行電鉄・東武鉄道・国際興業・西武バス・京浜急行電鉄・神奈川中央交通が各5台、京成電鉄・東都観光バス・富士自動車・千葉交通が各4台、帝産観光バス・東京ヤサカ観光バスが各3台、日本交通・東京近鉄観光バス・ニュー東京観光バス・ケイエム観光・藤田観光自動車・はとバス・東日本観光バス・箱根登山鉄道・イースタン観光・日の丸観光自動車興業・千葉中央バス・成田観光自動車・小湊鉄道・阪東自動車・日東交通が各2台、読売観光・キング観光・鏡浦自動車各1台の31社が担当するという、未曾有の大事業となりました。
 円滑な運行を行うための教育も抜かりなく、2月21〜28日にかけては各社の運行管理者・整備管理者・運営管理者教育が、そして3月1〜15日には延べ400名の乗務員教育が万博中央駅ターミナルを中心に行われ、最終の3月15日には会場まで交通規制された連接バス専用レーンを使用してシミュレーション運行が行われました。とにかく、全てにおいて大掛かりな事業であったということが伺えます。

 無事9月16日までその任務を全うした100台の連接バスは、会期終了後に売却が行われました。
 当初の契約で、会期終了後の40台の車輌引き取りがオプションに含まれてはいたのですが、万博が始まった4月26日には再利用のための再販会議が科学博協会・富士重・三井の三者で始められました。この中で、次年度に行われるカナダ・バンクーバーの交通博での再利用案も検討されたのですが、ボルボ・オーストラリアが、日本と同じ左側通行の豪州におけるシェア拡大のための商品として再販を強力にプッシュし、結局ブリスベン市交通局17台など各都市(アデレード2台、ゴールドコースト6台、レッツドクルス4台、プルムトン10台)に計79台が輸出されました。この中で、ブリスベン市では1988年に「BRISBANE EXPO88(レジャー博覧会)」が開催予定で、科学万博つくば'85のカラーリングがそのまま残された車も存在しました。しかし、後部車体を外されて「大型ショート車」として使われた例も存在しており、妙にリアオーバーハングの短い奇異な姿を晒していた車も存在していました。
 無論、日本国内での使用も検討され、事実幾つかの事業者が一般道での使用を名乗り出たのですが、当時は一般道での運行は認可されておらず、この時も検討の段階で結局全て却下され、実現には至りませんでした。結局、20台が東京空港交通に引き取られ、1986年10月から箱崎−成田空港間のエアポートリムジンバス、及び成田空港内用ランプバスとして使用されました。
 しかし、箱崎−成田線は全線高速道路使用という事で特別に認可されたという経緯があり、これが一般路線にも適用されるという事はありませんでした。また、渋滞が発生した場合にも運行区間が限定されており、迂回が出来ないために運用にも支障を来たしていました。それに加え、元々がシャトルバスという短距離運行のための車であったために車内設備も貧弱で、箱崎−成田というそこそこ距離のある路線を走るリムジンバスに向いているとは言い難いのが実情でした。結局、短期間の運用に終わってしまい、「日本初の連接バスの路線バス運用」は、些か不完全燃焼で幕となってしまいました。
 一般路線での同車の運用は、東京空港交通から旭川電気軌道に売却された3台の、1999年末からの運行を待たなければなりませんでした。苦節14年、「後輩」であるKC-B10M型連接バスが京成電鉄によって幕張における運行許可を受けることが出来た事による”お零れ”ではありましたが、それでも最後の最後で日本国内で「一般路線バス」として運用される事が出来たのです。

 「日本初の本格的連接バス」として生を受け、万博輸送の「顔」としての華々しい活躍の裏には、世界的に見れば決して特別ではない連接バスが「特別」になってしまう、日本のバス業界の特殊性が秘められていたのです。連接バスが「普通のバス」の仲間入りを許されるまでの10年以上、日本のバス業界は停滞を続け、大きな変革も無いまま過ごしてしまいました。
 また、「初の連接バス」という事で、受け入れられ易くするために採用された「ミッドシップレイアウト・第3軸操行」という道具立ても、ふと気付けば「連接バスの構造用件」に記された「第3軸は第2軸と同じ軌跡を描く事」という文言によって「決まり」になってしまっていました。これは、既存の車に法律を「合わせた」事による弊害で、リアエンジン・ノンステップの連接バスを国内に導入するに当たっての極めて大きな障害となってしまいました。これについては神奈川中央交通が慶応大学藤沢キャンパス輸送用に購入したネオプランのノンステップ連接バスにより改正されましたが、この「場当たりの法律策定」にこそ、日本のバス業界が内包している問題点が見え隠れしているのではないでしょうか。

 華やかさと裏事情の二面性。とにもかくにも、この「ボルボK-B10M型連接バス」は、日本のバス業界の事情の全てを物語る、生き証人と言うべき存在だったのです。