研究案アイコン

 このコーナーは「未成計画」に至らなかった「研究案アイコン」です。
 建造計画と直結しなかった研究などがこれに含まれます。
               解説協力:SUDOさん   .
   A-140さん     .
    中村さん     .
戦艦乞食さん   .

日本_海軍


(2002/12/29更新)
巡洋戦艦十三号艦級
この十三号艦級巡洋戦艦のアイコンの艦影は、大東亜戦争後に十三号艦に携わった関係者の証言に拠って再現された想像図と言われており、実態の定まっていない艦なのでアイコンをご使用の際はこの点ご留意下さい。


「藤本案」(2002/12/11更新)



「平賀案」(2003/1/31更新)
      (2003/2/1更新)
戦艦「金剛代艦(藤本案)上」/「金剛代艦(平賀案)下」
1921年に締結されたワシントン海軍軍縮条約により、列強各国は艦艇保有量を制限されると共に、新型艦の建造が禁止されました。
しかしこの条約では、艦齢が20年を越える旧式主力艦に関しては、これを退役させる代わりに排水量3万5千トン、主砲16インチ以下という条件での代艦建造が認められていました。日本海軍はこの条項に従い、最も古い戦艦である金剛型の代艦建造が1933〜35年に可能となるので、その代艦となるための戦艦を設計することにしました。

この設計に当たったのは、艦政本部設計主任の藤本喜久雄造船大佐で、他に海軍技術所の所長である平賀譲造船中将が独自の案を提出していました。
藤本案は3連装砲塔3基に砲塔型副砲を採用した、後の大和型戦艦のレイアウトにも通じる部分を持つ戦艦で、平賀案は砲塔間を極力短くすることで、船体主要部の防御力を強化することを狙った艦でした。

両案とも甲乙つけ難かったため、どちらを採用するか議論は紛糾しました。
しかし1930年のロンドン海軍軍縮条約により旧式艦の代艦建造も禁止されたため、この金剛代艦計画も設計のみで中止となりました。

しかし、この両艦は海軍休日時代に唯一設計された戦艦であり、藤本案の主砲、構造物の配置と平賀案の集中防御方式は、軍縮明けに建造された大和型戦艦に影響を与えたとされます。

日本_海上自衛隊

(2003/7/6更新)
2次防のCVH
第二次防衛力整備計画時に保有を検討された物らしいのですが・・・
この図自体、技術研究所が作った“検討用資料”だそうですから、予定艦名とか計画名とかは無かったと思われます。

アメリカ

(2003/7/27更新)
ティルマン第4案
本艦はアメリカの未成どころか建造計画のないパナマ運河を通過可能な「最大戦艦」研究計画艦です。
第一次大戦中戦時米海軍事務委員のティルマン上院議員が無制限に大型化してゆく戦艦と建造費に業を煮やし「そんなんなら最初から建造可能な超巨大戦艦造ってまえ!」と研究させたものです。
本艦は1912年から研究された設計案のうち四番目のもので1916年12月29日に提出されました。
排水量8万トン、25.2ノット、406.4mm50口径と云うのはなんて事ないのですが、それを6連装砲塔に積んでしまったのがビックラゲーションマーク!
海軍の意向とは全く無関係に研究されたため未成艦とさえ云えないものです

(2003/7/27更新)
ティルマン第IV-2案
第4案に続いてこれを元に研究、1917年1月30日に提出されたのがIV-1案と、本艦IV-2案です。
いささか無茶だった16インチ6連装砲塔を18インチ50口径3連装砲塔に置き換えたもの、と言って良いでしょう。
ティルマン戦艦の決定版と言えるものでしたが、建造費が5千万ドル=コロラド級×3=1916年度海軍予算の半分以上と破天荒な事もあり、議会でもまともに相手もされませんでした。
結局ティルマンは翌1918年7月3日失意のうちに天に召され、本計画も破棄されてしまいました。
ですが当事策定中だったダニエルズプラン主力艦に影響を与えたと云う意味では、本計画も全くの無駄ではなかったのかもしれません。

(2003/7/27更新)
(2003/7/28更新)
1934年最大戦艦
ティルマン没後16年。1934年に彼の計画とは全く関係無く米海軍は「最大戦艦」の研究を再開しました。それは海軍休日明け、来たるべき日本海軍との戦いに備えるため。
海軍休日で長らく戦艦建造の無かった日本海軍が大和設計の際、条約型重巡を参考にしたのと同じように本艦も米条約型重巡を参考に設計されたようです。
排水量6万6千トン、25.3ノット、508mm連装砲塔4基。5インチ38口径両用砲採用など後の米海軍艦艇に先駆けるものでした。
もちろん本艦も建造予定の無い単なる技術研究案でしかありませんでした。

(2003/7/28更新)
戦艦試案1935F
アメリカ海軍の1928年の条約型新戦艦試案から始まり、ノースカロライナに至る設計研究の試行錯誤は凄まじいものがありました。
制限内でおよそ考えられる事は全てやり尽くしてしまったのではないか、そう思えるほどに。
1935年9月にまとまった「F案」と呼ばれる本研究案はその中でも奇天烈さでは最右翼であろう航空戦艦案です。
勘違いし易いのですが艦首は間違い無く右側、つまり355.6mm50口径4連装砲塔2基を背負い式に後方に搭載しています。そして艦首の船首楼甲板には「品」の字型に3基のカタパルト、そしてそれと艦橋の間に艦載機昇降用エレベーターを1基装備しています。船首楼甲板はこれで満杯ですから発着用飛行甲板は持ちません。搭載機は13機。基準排水量31750t、16万馬力で30ノットを発揮。
ビッグ5(テネシー&コロラド級)と比較した場合、主砲前楯を除いて垂直防御は同等、水平防御はしのいでいました。
しかしながら各種戦艦試案の中に本案に匹敵する航空機運用能力を持つものが後にも先にも存在しない所を見ると、航空戦艦案はあくまでも一つの思考実験にしか過ぎなかったようです。
もっとも米海軍がこの種のハイブリット艦に興味を失ったわけでは無く、矛先を巡洋艦クラスに定めたと言うのが正しい所ではないでしょうか。

大型巡洋艦アラスカ
(2003/9/6更新)


アラスカ級試案CA2-D (研究案)
(2003/9/6更新)
(2003/9/7更新)
大型巡洋艦アラスカ(実在)/アラスカ級試案CA2-D (研究案)
アラスカ級大型巡洋艦は1万5千トン型大型巡洋艦「秩父」型を日本が建造中との誤情報により建造されました。
軍縮条約明け後の建造となる本艦には3万5千トンオーバーの超大型巡洋艦案さえ存在しました。
それがこのCA2-Dです。12インチ3連装砲塔4基を積んで33.5ノットで走らせようとしたためアイオワと同じ機関を採用。そのため大和を越える水線長、基準排水量も38700トンと云う巨大なものとなってしまいました。いかに水上艦にとって速力を上げる事が大変かと言ういい例ですね。
アラスカより装甲防御も若干は強化されているのですが、重巡相手には過大過ぎ、戦艦相手には攻防力が低すぎるため当然この試案は没となりました。

ソ連

(2003/7/27更新)
プロジェクト23bisの一案
旧ソ連23号計画艦(ソヴィエツキー・ソユーズ)は未曾有の巨艦であった事もあり、速度や対空兵装などに一部不満が残るものでした。
そこで1番艦・2番艦の建造中にその同じ船台で次に建造される23号計画艦。これをその時間差を利用した改良型(23bis)とする事になりました。
本艦はこの23号改計画諸案(23bis)の内、他に例を見ないもので主兵装を16インチ50口径3連装4基としたものです。これは当事米国で検討されていたモンタナ級に対抗するためのものでした。全長287.7m・満載74700トンと他の23bis計画案より一回り大きく、モンタナにも十分対抗できる性能でした。
しかしながらモンタナ自体が建造中止となったためこれを確認したのち23号計画はアイオワに的を絞る事となりました。そのため以後の研究は武装を9門にとどめ防御力と速力の向上に努めたのでした。

(2003/7/27更新)
プロジェクト66重巡洋艦
大戦終了後のソ連巡洋艦整備計画艦。プロジェクト82スターリングラード級の派生型で米海軍のボルティモア級を仮想敵として設計されました。
基準排水量26230トンはダンケルクに匹敵、全長及び全幅は米アラスカ級大巡を上回るもので主砲は220mm65口径砲9門。間違い無く全ての重巡を駆逐する存在となるはず、でした。
しかしながら設計中に超重巡とも云うべきデ・モインが登場、海軍大学における検討の末プロジェクト66はその排水量の割りに全く低性能であると結論付けられました。さらに対空火力の不足などもあって本計画は開発中止となったのです。

戦艦ガングート (新造時)
(2003/8/10更新)


戦艦ダンテ・アリギエリ (新造時)
(2003/8/10更新)


ブロムウントフォスハンブルク627F案 (研究案)
(2003/8/10更新)
露ガングート級(実在)/伊ダンテ・アリギエリ(実在)/独ブロムウントフォスハンブルク627F案(研究案)
最初の弩級戦艦を建造するに当たって帝政露海軍は英独伊等に技術協力を求め、1907年に国内も含め27社51種の設計案を受けました。このうち独ブロムウントフォス社と伊クニベリティ造船官の案が有力候補となりましたが結局国内で改めて設計する事と決定。これがガングート級ですがその設計にはクニベリティ案の影響が大きく見られると言います。その傍証としてはイタリア初の弩級戦艦ダンテ・アリギエリとガングートに非常に多くの類似性がある事が指摘されます。
露海軍は引き続きインペラトリッツァ・マリーヤ級およびインペラトール・ニコライ一世、超弩級巡洋戦艦ボロディノ級の建造に着手しますが、これらは全てガングート発展型と言えるもの。即ちロシア帝國海軍の戦艦はイタリアのクニベリティ式の流れを汲むものと言えるでしょう。
以上述べてきた事が定説なのですが、ロシア自身はこれを否定しています、断じて伊式では無いのだと。これは何を指し示すのか?
露海軍は諸外国の技術を導入する事に積極的でしたし、この時も大々的にコンペティションを開いているのですから今更それを隠す必要はありません。
そこで疑問なのは外国の艦艇研究者たちがこの時の設計案を果たして見聞した上でこの定説を述べているのか、と言う事です。
ここにこのコンペティションにおいてブロムウントフォスハンブルクが提出した2つの設計案があります。627D、627F。このうち627F案をアイコン化してみました。ガングート、そしてダンテ・アリギエリ、この三者をよく見比べて下さい。
627F案とガングートは全主砲塔を同一甲板上に、ダンテ・アリギエリは一番砲塔のみ一段高い船首楼甲板に置いています。そしてダンテ・アリギエリのみ一部の副砲を砲塔化しています。
さらに627F案とガングートは機関配置もほぼ同一、ひとりダンテ・アリギエリのみ違う機関配置となっています。
ここまで読んでいただければおわかりのとおり、ガングートの基本設計は伊クニベリティではなく独ブロムウントフォス社に基づくものだったようです。
3連装砲塔やその中心線上配置はこの時期の独艦には全く見られない特徴です。ですから本国で忌避されたこの方式を同社の設計者が外国艦と言う事で腕を振るったのか、同時期の英国のように技術的冒険はまず輸出艦艇で試してからと言う国策だったのか、定かではありません。
しかしながらブロムウントフォス社は後の1911年、セント・ペテルスブルグの露プティロフ造船所建設に携わっておりこの時技術提携もされています。そして後の超弩級戦艦設計時にもプティロフ造船所は様々な設計案を提出しました。
結局の所、露弩級戦艦は伊式ではなく独式、さらにこのブロムウントフォス形式は独逸本国で採用されなかった以上、これはもはやロシアオリジナルとなったのだと言ってもよいのではないか。私にはそう思えてなりません。

クニベリティ2万3千トン案
(2003/11/11更新)


同 上面図
(2003/11/11更新)
クニベリティ2万3千トン案
ロシア弩級艦コンペティションにおいてイタリアはアンサルド社から提出されたのは、弩級艦生みの親の一人であるクニベリティ技師の設計案でした。
その一つ本案は3連装砲塔を後部に背負い式に、そして前部及び中央部にはなんと並列式に配置した前代未聞なものでした。ですからその主砲門数も計18門と、後のフランス未成戦艦リヨン級をも凌ぐ空前絶後!
全然違う意味で超弩級な本案、クニベリティの天才が遺憾なく発揮されすぎて実現性を危ぶんだロシア海軍が採用しなかったのも当然と云えば当然の事だったと思われます。

インペラトリッツァ・マリーヤ級
(2003/8/10更新)


インペラトール・ニコライ一世
(2003/8/10更新)
露インペラトリッツァ・マリーヤ級(実在)/インペラトール・ニコライ一世(未成艦)
ガングート級で述べたようにインペラトリッツァ・マリーヤ級はその改型と言われます。しかしながら速度、機関配置を見るにどうやら本級もブロムウントフォスハンブルク627F案からの派生案かと思われます。つまり両級とも627F案の双子の子供と言ってよいのではないでしょうか。
ガングート、インペラトリッツァ・マリーヤ級両級の実績を元に拡大改良した帝政露海軍最後の弩級艦それがインペラトール・ニコライ一世だった、これは定説どおりだと思います

ニューヨーク造船所1907.8.20 (研究案)
(2003/8/10更新)
ニューヨーク造船所1907.8.20(研究案)
最後にガングートコンペティション中、もっとも奇天烈だった設計案をご紹介しましょう。
アメリカはニューヨーク造船所が提出したこの設計案。
前後に背負い式に主砲塔を持つ、これは米初の弩級戦艦サウス・カロライナ級と同様で問題無いのですが・・・ 
小さくて判り辛いですが主砲塔を御覧下さい。砲身が上下に並んでいるのがおわかりになるでしょうか? 実はこれは3連装砲塔、中央砲身が一段高い位置にあるのです。
前から見ると「品」の字に見えるはずです。これは前弩級戦艦時代に2階建て砲塔とか造ってた技術の流用でしょうか。
もっともこんな素人目にもうさんくさい冒険的設計が採用されるはずもなかったのですが。

インペラトール・パウェル一世
(2003/8/5更新)


インペラトール・パウェル一世初期案
(2003/8/10更新)
ロシア帝國最後の前弩級戦艦にして準弩級戦艦インペラトール・パウェル一世(実在)/インペラトール・パウェル一世初期案
この初期案は正しくボロディノ発展型と言える物で間違い無くフランス式設計。そして実際に建造されたインペラトール・パウェル一世級は英米式設計。
つまりそれまでのフランス式設計から英米式設計に取って代わられちゃったと云う事です。
ものの本には素直にボロディノ(仏系)改良型って書いていたりしますが、装甲配置やカゴマストなどきちんと見ていきますとこれはどう考えてもそんな答えにはなりません。
ようするに対馬沖海戦の敗戦理由を自分たちじゃなくて仏式設計にあり、と露西亜海軍は責任転嫁してしまったんですね。
確かに仏式設計にはマズイところもありますが、それを拡大するような改悪設計をしたのは他ならぬ自分たちなのに・・・

そして次の弩級艦からはイタリア式の導入を図ると。ちょっと節操無さすぎな気がいたします。

(2003/12/22更新)
改装空母コムソモレッツ
ソ連はその末期において漸く空母を建造した事からこの面で後進国とされますが、研究の着手においては先進国に決して遅れをとるものではありませんでした。

まず帝政ロシア時代、1901年に偵察や信号に利用可能な気球を運用する気球母艦ルスを建造、ロシア人はこれが海軍航空の始祖であると主張します。その後、各種水上機母艦も建造されました。
代わってソ連時代、帝政ロシアの未成巡洋戦艦イズマイルの船体を利用した計画が考えられましたが早期に放棄。
そして1927年に計画されたソ連初の空母案は137x22mの全通飛行甲板と左舷に艦橋と煙突を持つ島型の近代的なものでした。給炭及び機関の練習艦オケアン(排水量11900t、ドイツキールホバルトベルケ1902年建造)を改装する非常に安価に実現可能な提案でしたが速度が15ノットと非常に低速だったため放棄されました。
搭載機が42機とされますが、船内格納庫は十機並べられればいいとこなので、恐らく解体梱包状態の航空機を運べる上限かと思われます。

基準排水量12000トン、1万1千馬力、15ノット、102mm対空砲x2x8、40mm機関砲x2x10、搭載機42機(爆撃機16機、戦闘機26機)

イギリス

(2003/7/27更新)
(2003/7/28更新)


(補助艦艇規格)
(2003/8/10更新)


(補助艦艇規格上面)
(2003/8/10更新)
ドレッドノート先駆者
1906年、戦艦史上画期的な単一巨砲艦ドレッドノート竣工。
ドレッドノートを世に送り出したフィッシャー卿自身はその起源を、地中海艦隊司令長官在任中1900年にマルタ工廠造船主任W.H.ガードとの意見交換中具現化したものと書き残している。
イタリア人は伊造船官クニベリティ大佐がジェーン海軍年鑑1903年版に投稿したアイディアがフィッシャー卿の目に止まったのだと言う。
また独逸人は28cm砲6門搭載した1890年度計画艦にして1893〜1894年にかけて竣工したブランデンブルグ級こそその先駆者だと言う。

だがここに英国人がまぎれもない先駆者であると言う証明がある。
時は1881年。前弩級戦艦をさらにさらにさかのぼる砲塔艦の時代。
航洋砲塔艦先代ドレッドノートと中央砲塔艦コロッサスを足して2で割ったようなこのスケッチ。
406.4mm前装砲を2門収めた砲塔を、中央に梯型(ななめ)に2つ、上部構造物前後に1つずつ、計8門の主砲を持つ戦艦設計案。
私はこの由来を全く知らない、ただ提案者2人の名を知るのみ。
J.A.フィッシャー、F.ワトソンと。
砲術を学び魚雷開発に取り組んでいた若き日のフィッシャーがそこにいた。


(2002/12/21更新)
巡洋戦艦「インコンパラブル」(incomparable)
フィッシャーの理想とした高速、強武装の軍艦としてリナウン級、カレイジャス級巡洋戦艦に引き続いて1914−6年にかけて設計され1915計画により建造を予定された。全長350m以上(アメリカのアイオワ級戦艦が270m、大和級戦艦が263m)、排水量50000t以上の船体に1発2t近い砲弾を発射可能な508mm砲を連装3基6門搭載しており、L/B比1/10に近い長大な船体と180000shpと言う強力なエンジンは35kntの高速を発揮可能とされ、その航続力は無補給で地球を一周(40000km)できるほどであった。まさしくIncomparable(比類なき)であったが、同年5月にフィッシャーがガリポリ作戦の失敗の責任から辞任すると即座に計画を破棄された。
なお、このアイコンは作者が調べた資料の数字(全長308メートル)に基づいて製作しています。

ドイツ

(2003/9/7更新)
ドイッチュラント試案II/10 (研究案)
ヴェルサイユ条約に基づくドイツ再軍備計画の花形、旧式戦艦代艦つまり新型戦艦建造計画。とは言っても制限排水量はきっかり1万トン、その1万トンで何ができるか。
本艦はその最初期案の一つで380mm連装砲塔2基、舷側装甲200mm、22ノット。つまりなんてこたあない前弩級戦艦案です。
技術が進歩したとは言え、1万トンきっかりだとまともな戦艦を造ろうとしてもこの程度にしかならない。でも380mm4門というのは極悪でドレッドノートとか初期の弩級戦艦相手なら優位に戦えそうです。つまりフランスやソ連の旧式な弩級戦艦相手ならそれなりに太刀打ちできる・・・弩級戦艦の面目丸つぶれ、そう本艦は「究極の前弩級戦艦」だったのかもしれません。

380mm連装砲塔2基、150mm連装砲塔2基、88mm高角砲2門、50cm魚雷発射管2門、舷側装甲200mm、22ノット

(2003/9/7更新)
ドイッチュラント試案I/10 (研究案)
II/10案と共に検討された最初期案。とにかく火力に偏したII/10案に対し、本案はバランスのとれた巡洋艦タイプです。ただし主砲はもう少し後に登場してくる列強の条約型重巡より一回り大きい210mm、かつて第二帝政ドイツの装甲巡洋艦ブリュッヒャーが積んだものと同じ口径です。
主砲の構成が後のアドミラル・ヒッパーとほぼ同じにも関らず艦型は全く異なり、むしろ同時期の軽巡ケーニヒスベルクと近いものがあるようです。
結局の所、II/10案は機動力不足、本案は火力不足と判定され、以後は305mm砲を主砲とする設計案などが検討される事になります。

210mm連装砲塔4基、88mm高角砲4門、50cm連装魚雷発射管4基、舷側装甲80mm、速力32ノット

(2003/9/7更新)
ドイッチュラント試案II/30 (研究案)
手数に難のあった380mm砲の替わりに305mm砲を搭載した弩級戦艦タイプ。
もし本案が建造されていれば「史上最小の弩級戦艦」となっていたでしょう。
後部主砲塔が軽巡ケーニヒスベルク同様の梯形配置となっているのが特色です。
またこれらの試案に見られる高角砲の中心線配置は実はジュットランド後の第二帝政ドイツ主力艦研究案において萌芽が見られ、細々ながらもドイツ建艦技術が受け継がれている事を感じさせます。
バランスのとれた性能でしたが、やはり機動性に問題があり採用には至りませんでした。

305mm連装砲塔3基、105mm高角砲3門、53cm魚雷発射管2門、舷側装甲200mm、21ノット

(2003/9/7更新)
ドイッチュラント試案I/35 (研究案)
この試案中、もっとも変なやつかも。
なんせ主砲が350mm3連装砲塔1基のみ。あとは後部に見える150mm連装砲塔2基が主火力。
船型もこの試案中珍しい平甲板型でそのかわりに艦首のシアーを強くしています。
船型といい、兵装、諸性能がどうも間違った方向に暴走しちゃったような・・・
速力も遅いし、この艦の存在意義はシリーズ中最高の装甲を持つ事くらいでしょうか。
そうそう、前回のII/30以降は機関がディーゼルになっています。
ちなみに主砲の350mmは第二帝政ドイツでも第三帝国でも検討されていてドイツ人お気に入りのサイズなんですが、第一次大戦中は建造が間に合わず、第三帝国では検討中ボツになっており結局日の目を見ていません。

350mm3連装砲塔1基、150mm連装砲塔2基、88mm連装高角砲2基、53cm魚雷発射管8門、舷側装甲300mm、19ノット

(2003/9/7更新)
ドイッチュラント試案VIII/30 (研究案)
本案はやっと後のポケット戦艦に近い構想が固まってきた、と言えるものです。
II/30案をベースに考えられた本案は主砲塔を2基に減じ、併せて出力と船体長を増加し速度向上を狙ったものでした。
また主砲減勢の代わりに副砲と対空火力が強化されているため総合的にはII/30案より進歩してると言えるでしょう。
本案を踏まえ以降の試案はさらなる速度向上を追及したものとなります。

305mm連装砲塔2基、150mm連装砲塔3基、88mm連装高角砲3基、53cm魚雷発射管2門、24ノット

(2003/9/7更新)
ドイッチュラント試案I/M 26 (研究案)
最後の試案です。280mm3連装砲塔を前後に置き、28ノットで突っ走る。
その点では決定案と同じなのですが、随分感じが違います。カタパルトが倍の2基ありますし、砲塔間隔が狭くてシャープな印象を受けます。副兵装以下が両用砲目的の120mm高角砲にまとめられているのも特徴です。過去にも両用砲は第二帝政ドイツ時代にペーパープラン上で検討されており、決してドイツがそれを知らなかったわけではないのです。
ですが実際に細部設計に移ると思ったよりディーゼル機関がかさばりヴァイタルパートが長大化してしまい本案は実現不可能とわかりました。
そのため装甲厚も減じる事となり・・・つまり本案は決定案よりちょっと強力なポケット戦艦だったのです。

280mm3連装砲塔2基、120mm連装高角砲4基、カタパルト2基、舷側装甲100mm、28ノット

(2003/9/7更新)
装甲艦ドイッチュラント1933年新造時 (実在艦)


(2002/12/6更新)
戦艦H44級
H44は、ドイツ海軍が未成に終わったH級の名前と言うか、建造番号のまま、戦争中にもあれこれと妄想した戦艦です。
現実的な計画ではなく、一種のペイパープランというか、設計ノウハウを保持するための練習題材だったとも言われていますし、それは多分正解でしょう。

なぜなら、戦況の如何に関わらず、このような戦艦を建造する能力は、ドイツには無かったからです。

結局着工もされなかったのですから、スペックを細かく言っても意味は無いのですが、基本的には未成のH級戦艦の拡大という感じです。
矢鱈と広い防御範囲は、それまでのドイツ艦から受け継いだもので、これに頑丈な傾斜甲板を主要防御として用い、HやF(ビスマルク)では無いも同然だった上甲板の防御甲板を飛躍的に強化し、言うならば二重甲板式の防御をしています。
ちなみに、史実では、この二重甲板式の防御をした艦として名高いのは長門です(長門の場合は常識的な3吋防御甲板と上甲板に3吋という感じ)この防御配置は舷側+傾斜甲板式から、高い舷側装甲と上部甲板の装甲で食い止めるという新世代の過渡期に当たるスタイルだったともいえます。
実際、フッドの改装案や、長門の後に建造着手された加賀型や天城型では、後の戦艦に比較的近い配置になっており、それが更に進むとネルソン級へと発展し、更にそれを防御範囲の拡大という形で広げたのが大和、また異なる方策を模索したのがKGVと言えるでしょうか・・・。
つまり、ドイツのF級は、第一次大戦世代の、言うならば第一世代超弩級戦艦であり、長門が第二世代、ネルソンが第三世代、条約以降の戦艦は第三〜第三・五世代とでも言うべき構造面の発展がなされていました。悲しいことですが、H44は、構造面では第二世代でしかないのです。
勿論、そういった構造が悪い訳ではないのですが、必要なだけの防御能力を持たせようとすると、どうしても重量がかさんでしまうのです。H44の巨大な図体は、無駄に装甲と空間を使っているという証拠でもあったのです。
そして、ドイツでは建造できないとする理由が、その巨大な装甲重量にあります。恐らくドイツには、そんなに分厚くて広い面積の装甲を作るだけの設備が足りないのではないでしょうか。
以前の戦艦が、多重装甲配置をしていた理由の一つが、大きく厚い装甲を作るのが困難であるという要素もあったのです。ネルソン以降の戦艦が成立した理由の一つが、広い面積で厚い装甲を作れるようになったというのが上げられます。そして、例えばイタリアでは十分な物が作れず、二枚重ねる事で35cmの厚さを確保しました(当然一枚よりは弱い)広く厚い装甲というのは中々に厳しいハードルだったのです。

この時期に戦艦を計画して建造するという事が非現実的であるのは、当のドイツ海軍でも判っていたでしょうが、保険として戦艦建造技術は保持しておくべきですし、ドイツには空母の経験が無い以上、経験のある主力艦は戦艦しかなかったんでしょう。また海軍力を実際に使って殴りあいするつもりの日英米と異なり、使う気が基本的に皆無であるからこそ、このような艦の計画が残ったんでしょうね(普通、こんな事で遊ばせるような人材も設備も、真面目に戦争していたらありません)
ああ、これも、ある意味、平和なドイツ海軍の余裕なんでしょうかね(誉めてない)

(2003/9/10更新)
(2003/9/25更新)
第二帝政独逸ポストジュットランド戦艦研究案シリーズ「スカゲラックの残光」
戦艦バイエルン(1918)
消滅した帝国がどのようなポストジュットランド戦艦を模索していたのか御覧いただきたいと思います。
まずは今シリーズ中唯一の実在艦バイエルンです。
新造時ではなく1918年時の艦影です。
いつもの如く比較検討用ですが本シリーズの出発点でもあります。

常備排水量28600トン、全長180m、3万5千馬力、22ノット、兵装380mm/42.4×2×4、149mm/42.4×16、88mm/約42.5高角砲×8、60cm水中魚雷発射管×5

*L1〜L3戦艦研究案及びGK大型巡洋艦研究案初期シリーズは正確にはポストジュットランド(1916年6月)ではなくポストドッガーバンクと言うのが正しいのですが便宜上ポストジュットランドとさせていただいております。
各研究案の頭文字LはLinenschiffe(戦列艦、主力艦の意)、GKはGrose Kreuzer(大型巡洋艦の意)の略称です。

(2003/9/10更新)
(2003/9/25更新)
高速戦艦研究案L1
フォークランド沖・ドッガーバンクで独逸が痛感したのは機動性に劣るものの無力さ。
ですから英国のクィーンエリザベス級高速戦艦の示した方向性こそ今後の戦艦の進むべき道だと確信しました。
本案は正に独逸製クィーンエリザベスとでも言うべきもので、バイエルン級の火力と防御力はそのままに24.75ノットの高速性を具備させようとしたものです。
例によって独逸主力艦は走らせてみないと最大馬力も速力もはっきりしない部分があり、外海では26ノットも期待できるものと考えられていたようです。QEより5千トン前後大きく馬力も1万ほど劣るのですが、全長が24m長く船型でその分を補おうと言う設計でした。なおこれらの試案はバイエルン級まで独逸主力艦の伝統だった3軸推進を放擲して一般的な4軸推進になっています。

常備排水量34000トン、全長220m、6万5千馬力、24.75〜26ノット、兵装380mm/42.4×2×4、149mm/42.4×16、88mm/約42.5高角砲×8、60cm水中魚雷発射管×5

(2003/9/10更新)
(2003/9/25更新)
戦艦研究案L2
フォークランド沖・ドッガーバンクにおいて独逸人が得たもうひとつの戦訓。
それは主砲火力の差でした。
巷間独逸艦砲は砲身強度を上げ装薬量を多くする事により他国の1ランク上に匹敵すると言われました。
しかし蓋を開けてみればやはりそれは背伸びに過ぎず、砲口径の差を埋めるものではありませんでした。
本案は口径は独逸がこの時点で得られる最強38cm砲を10門とする事で砲火力の増強を達成しようとしました。
サイズや排水量はL1と同じため、速力はやや低めに抑えられています。防御力はバイエルン及びL1と同等でした。

常備排水量34000トン、全長220m、馬力不明、23.5〜25ノット、兵装380mm/42.4×2×4、149mm/42.4×16、88mm/約42.5高角砲×8、60cm水中魚雷発射管×5

(2003/9/10更新)
(2003/9/25更新)
高速戦艦研究案L3
計画速力発揮にやや疑問の残るL1の改良型で、出力増強で24.5〜26ノットを達成する事を目指しました。
兵装はL1と全く同じでL2より主砲が2門少ないだけ。装甲防御も同等です。

常備排水量38000トン、全長230m、9万5千馬力、24.5〜26ノット、兵装380mm/42.4×2×4、149mm/42.4×16、88mm/約42.5高角砲×8、60cm水中魚雷発射管×5

(2003/9/21更新)
(2003/9/25更新)
戦艦研究案L21a
今まで御紹介したL1〜L3は1916年4月29日に皇帝ウィルヘルム2世に提示されたものです。 この後研究は発展し同年12月にはさらに強力な戦艦群が構想されるのですが、この時その研究案をL1〜L3にフィードバックさせた案も検討されました。
その一つL21a案はL2の発展型にあたります。
42000トンと言うと天城と同クラス、全長235mは加賀と同クラス。
武装は同じ10門だけど一回り小さい38cm(しかも約42.5口径)。
垂直防御で八八艦隊計画艦をしのぐけれど水平防御はずっと弱い。
で肝心の速力・・・実は機関と速力がはっきりしないんですこれ。
おそらく9〜10万馬力、で速力なんですが実はあまりL2と変わらないんじゃないかと(爆)

常備排水量42000トン、全長235m、馬力不明、速度不明、兵装380mm/42.4×2×5、149mm/42.4×12、88mm/約42.5高角砲×8、水中魚雷発射管×3

(2003/9/21更新)
(2003/9/25更新)
高速戦艦研究案L22c
全体的な雰囲気を見ていただければおわかりのように船体規模は戦艦研究案 L21aと同じ。
L21a案と同時期に研究されたものでL1、L3と進化してきた38cm8門戦艦の最終形態です。
主砲がL21aより2門少なく常備排水量が300トン軽いかわりにに機関出力が若干大きいかもしれません。かもしれないと言うのは本案も速力と機関が不明って事です(爆)
それなりに優秀ではあるんですが船体規模のわりに戦力としては今一つで、L21aと本案はあくまでも研究案の域をでないものなのでしょう。

常備排水量41700トン、全長235m、馬力不明、速度不明、兵装380mm/42.4×2×4、149mm/42.4×12、88mm/約42.5高角砲×8、水中魚雷発射管×3

(2003/9/23更新)
(2003/9/25更新)
大型巡洋艦マッケンゼン(未成艦)
この艦はジュットランド海戦以前に起工されており、ここで紹介しているポストジュットランド戦艦ではありません。
しかしながら帝政独逸初の12インチを超える主砲を搭載したいわゆる超弩級巡洋戦艦でありライオン級(英)・金剛型(日)に比すべきもので、かつ弩級戦艦に匹敵する防御力はクィーンエリザベス級(英)と共に高速戦艦のパイオニア足り得る存在でした。
主砲は正350mmで英国超弩級艦標準の13.5インチ(342.9mm)、日米超弩級艦標準の14インチ(355.6mm)の中間で他国に例を見ない珍しい口径でした。
艦形は大型巡洋艦(巡洋戦艦)デアフリンガーから採用された平甲板型で独逸主力艦としては異彩を放っています。
また独逸主力艦としては初めて舷側主甲帯内部の傾斜甲板を廃止しており独逸新世代設計艦の嚆矢とも言えるでしょう。
4隻が計画・起工されマッケンゼンとグラフ・シュペー2隻が進水までこぎつけたものの結局完成されずに敗戦を迎えました。

常備排水量31000トン、全長223m、9万馬力、27ノット、兵装350mm/約42.5×2×4、149mm/42.4×14、88mm/約42.5高角砲×8、60cm水中魚雷発射管×5

(2003/9/24更新)
(2003/9/25更新)
大型巡洋艦ヨルク代艦(未成艦)
本級は第二帝政独逸最後の建造が承認された主力艦です。
起工自体はジュットランド後ですが設計は海戦以前に完了していたのでこの艦もポストジュットランド戦艦ではありません。
ただし起工後、上部構造物や細部の設計に若干手が加えられており戦訓がいくばくか生かされてはいるようです。
巷間大巡マッケンゼン級とほぼ同じ船体に戦艦バイエルン級の38cm砲を搭載した改良型とされますがそれにしてはかなり差異が見られます。
例えばマッケンゼンは独逸主力艦としては初めて舷側主甲帯内部の傾斜甲板を廃止したのですが、このヨルク代艦では何故かその傾斜甲板が復活しています。これ以降の大型巡洋艦では全てマッケンゼン式を踏襲しているので尚更違和感を感じます。
3隻が計画されましたが起工は1番艦のみ、さらに工事中止により未成に終わりました。

常備排水量33500トン、全長227.8m、10万馬力、26.5〜28.75ノット、兵装380mm/42.4×2×4、149mm/42.4×12、88mm/約42.5高角砲×8、60cm水中魚雷発射管×3(5?)

(2003/9/27更新)
大型巡洋艦研究案GK1
本案はL1〜L3戦艦研究案と共に1916年4月に提出されたもので排水量はヨルク代艦とほぼ同じ、主兵装もまったく同じ。機関出力が増強されてますが速力は同等・・・
ようするに性能的には同等、ただ本案は外観のみならず内部設計までマッケンゼンを受け継ぐものでヨルク代艦の改良型ではありません。ヨルク代艦の謎とはまさにこれで、独逸大型巡洋艦の系譜中ヨルク代艦はイレギュラー的存在なんですね。
でよくよく考えるとヨルク代艦の特徴はむしろ後に紹介するL20系戦艦と酷似しており、担当が戦艦設計グループだったんではなかろうかと。これは私の勝手な憶測ですが(笑)
話をGK1に戻しますと、ヨルク代艦より速力など諸性能に無理の無い設計と言えるようです。

常備排水量34000トン、全長235m、11万馬力、27〜29.25ノット、兵装380mm/42.4×2×4、149mm/42.4×16、88mm/約42.5高角砲×8、60cm水中魚雷発射管×5

(2003/9/29更新)
大型巡洋艦研究案GK2
GK1は次世代巡洋戦艦の習作とかヨルク代艦に対する当て付け的な要素が感じられました。
そう考えるとGK1と共に提出された本案こそ正統な独逸大巡の後継者なのかもしれません。
設計自体はGK1と同様、マッケンゼンの拡大改良型と言えるものです。

常備排水量38000トン、全長243m、12万馬力、27.25〜29.5ノット、兵装380mm/42.4×2×4、149mm/42.4×16、88mm/約42.5高角砲×8、60cm水中魚雷発射管×5

(2003/9/29更新)
大型巡洋艦研究案GK3
GK1、GK2と共に提出された本案はGK2と排水量・寸法・武装とも全く同じ。
それでは何が違うのか? 本案はデアフリンガー以降独逸大巡に採用された平甲板式から船首楼式に回帰した船型なのです。つまりGK1とGK2は両船型の得失を比較検討するためのものと言えるでしょう。
GK2と比較すると司令塔装甲が50mm厚いのですが、馬力が5千馬力小さいため速力もやや劣ります。
ですが副砲砲郭がより高い位置にあり波がかぶりにくく実用性が向上しています。
結局の所この後の大巡は本案の形式を踏襲する事となります。
フォン・デア・タン>モルトケ>ザイドリッツを独逸巡洋戦艦の系譜第一世代と見れば、デアフリンガー>マッケンゼン>GK1が第二世代、、GK2は第二世代最後の正統後継者、そしてGK3が第三世代の嚆矢と位置付ける事ができるかもしれません。(ヨルク代艦はイレギュラー)

常備排水量38000トン、全長243m、11万5千馬力、27〜29ノット、兵装380mm/42.4×2×4、149mm/42.4×16、88mm/約42.5高角砲×8、60cm水中魚雷発射管×5

(2003/9/30更新)
戦艦研究案L20b
ようやくたどりつきました。1916年12月29日に予備設計を終了した本案から始まる研究案こそ独逸ポストジュットランド戦艦群です。
本案の目玉は新開発の420mm主砲です。
英国主力艦の主砲は12インチ(304.8mm)>13.5インチ(342.9mm)>15インチ(381mm)と1.5インチ刻みに増大していたため次は16.5インチ(419.1mm)と予想されました。420mm砲はこれまで後手に回っていた主砲開発競争において逆転するための切り札です。 現実にはこの時英国はさらに1.5インチ上の18インチ(457.2mm)砲を開発中だったのですがこの18インチ40口径マーク1は短砲身な上に重量過大で主力艦砲とするには難のある代物でした。より現実的な16インチ45口径マーク1の完成は1927年ですからこの時点において完成されていた本案の420mm砲は世界最強を名乗るに十分なものだったと言えます。
本案の420mm8門は独逸ポストジュットランド戦艦群でも最強の構成でこれを凌ぐものは終に登場しません。この後の研究案は本案を基本とし如何に改良するかに焦点が当てられてゆく事になります。
もうひとつ特筆すべき点は攻撃力と共に大幅に強化された主砲塔装甲で、形状的に似ている(と言うか帝政独逸艦の形状を踏襲している)第三帝国のビスマルクと比較した場合、前楯が10mm薄い以外は全ての面で凌いでおり特に天蓋装甲がビスマルク130mmに対し150mmと言うのは皮肉としか言い様がありません。

常備排水量42000トン、全長235m、馬力不明、21〜22.5ノット、兵装420mm/約42.5×2×4、149mm/42.4×12、88mm(or105mm)/約42.5高角砲×8、水中魚雷発射管×3(5?)

高速戦艦研究案 20ea
(2003/11/2更新)
高速戦艦研究案 L20e&20ea
L20bを元に高速性を付与した研究案です。
L20eが1917年8月13日、L20eaが1917年10月2日となっており、L20b&L20eの艦幅を増大させ安定性を増しさらに高速化を目指した艦型でした。
両アイコンとも作っては見たのですがほとんど変わらないのでUPはL20eaのみとさせていただきます。

高速戦艦研究案 L20e
常備排水量42600トン、全長237m、馬力不明、23.5〜25ノット、兵装420mm/約42.5×2×4、149mm/42.4×12、88mm(or105mm)/約42.5高角砲×8、水中魚雷発射管×3(5?)
高速戦艦研究案 L20ea
常備排水量44500トン、全長238m、10万馬力、24.5〜26ノット、兵装420mm/約42.5×2×4、149mm/42.4×12、88mm(or105mm)/約42.5高角砲×8、水中魚雷発射管×3(5?)

高速戦艦研究案 L24&24a
(2003/11/2更新)
高速戦艦研究案 L24&24a
L24シリーズはL20系の高速化とは別に、ジュットランドでも水中防御の穴となっていた魚雷発射管を主水線甲帯上に移設した設計です。
もっとも艦首水中発射管はそのままなのですが・・・
L24が1917年8月14日、L24aが1917年10月2日となっており、L20e&L20eaと同様な関係にあります。
本案に至り速度性能まで後年の長門・加賀などに匹敵するに至り総合的に日米のポストジュットランド艦と同等かそれ以上の艦となりました。
事実L24aは帝政独逸戦艦研究案中最大にして最強の艦です。これ以降研究された戦艦案は攻撃力においてはL24aに一歩譲る存在でした。
これについては本シリーズの最終回において述べる事として、次回からは再び巡洋戦艦研究案に移りたいと思います。 なおL24と24aも側面図はそっくりなため統一アイコンとさせていただきました。

高速戦艦研究案 L24
常備排水量43500トン、全長240m、馬力不明、25〜26.5ノット、兵装420mm/約42.5×2×4、149mm/42.4×12、88mm(or105mm)/約42.5高角砲×8、水中魚雷発射管×1、水上魚雷発射管×4
高速戦艦研究案 L24a
常備排水量45000トン、全長240m、馬力不明、26〜27.5ノット、兵装420mm/約42.5×2×4、149mm/42.4×12、88mm(or105mm)/約42.5高角砲×8、水中魚雷発射管×1、水上魚雷発射管×4

(2003/12/9更新)
大型巡洋艦研究案GK4542
1918年2月25日、GK3から実に2年近く、L20ea&L24aからも見ても5ヶ月後に提出された本案は独逸初のポストジュットランド巡洋戦艦です。L20系と同じ420mm砲を搭載しました。
戦艦より難度が高い巡洋戦艦は各国でも新技術が率先して取り入れられる傾向が強いですが、本案もそれまでの独逸主力艦と比較して幾つもの新機軸が見受けられます。
まずマストが前後とも三脚檣を止め、太い棒檣になりました。このため艦橋も含む前部上構物が後のポケット戦艦ドイッチュラントに似た印象を受けます。
次に149mm副砲の1/3を同口径の両用砲に置き換えました。このクラスの対空砲の実用性はともかく、両用砲の構想が独逸にもありそれも列強に先んじた時期であった事は特筆されてしかるべきでしょう。
さらに凌波性向上のためか、本案に至り独逸主力艦の特徴であった艦首カットアップが完全に廃止されました。

常備排水量45000トン、全長240m、馬力不明、28〜30ノット、兵装420mm/約42.5×2×4、149mm/42.4×8、149mm両用砲×4、水中魚雷発射管×1

(2003/12/9更新)
大型巡洋艦研究案GK4541
GK4542よりわずかに遅れ1918年3月4日に提出された本案は武装や性能はほとんど同一でした。 両案の違いは機関部と第三砲塔の位置関係で、GK4542が機関部後に後部砲塔を配置させたのに対し、本案は缶室と機械室の間に第三砲塔をはさんでいました。 この両方式の優劣は決め難く、後々の研究案でも平行して設計されました。

常備排水量45000トン、全長240m、馬力不明、28.5〜30.5ノット、兵装420mm/約42.5×2×4、149mm/42.4×8、149mm両用砲×4、水中魚雷発射管×1

オーストリア・ハンガリー帝國

(2003/10/13更新)
オーストリア・ハンガリー戦艦研究案シリーズ「アドリアの幻影」
フィリブス・ウニティス(新造時)
本級はアドリア海を挟んだ向こう岸イタリア海軍が弩級戦艦を整備するのに刺激され計画され、さらに伊弩級艦ダンテ・アリギエリの公式発表と共に主砲数を増加する改設計が行われました。
この迅速な改設計はピルゼンのスコダ社がこれまた露西亜初の弩級戦艦ガングートの三連装主砲塔計画に参画していた事により可能となったものです。
計画・設計・着工・進水は伊ダンテ・アリギエリが先行したものの竣工は本艦が一ヶ月早かったため、イタリアより弩級艦整備に先んじたのみならず世界最初の三連装砲塔艦と言う栄誉まで手に入れました。また背負い式配置の採用で世界の弩級艦中最も全周斉射能力に優れた艦となりました。
同計画はかなりの期待をされていたため1909年にはアルフレッド・フォン・クーデルカ大佐が独逸戦艦技術研究のためベルリンに派遣され、水線下に交通扉を設けると浸水を早める事や水雷防御等の成果を持ち帰ります。
が、主任設計者ジークフリート・ポッパーはこれを待たず設計を終えてしまったためこれが文字通り不死身のジークフリードの弱点となり、同級4隻の内ネームシップを含む2隻が水中攻撃によって沈められる事となったのです。

常備排水量19698トン、全長160m、27383馬力、20ノット、兵装305mm/42.6×3×4、150mm/約47.5×12、70mm/約47.5高角砲×18、53.34cm水中魚雷発射管×4

(2003/10/13更新)
モナーク代艦(未成艦)
フィリブス・ウニティス級承認直後、「モナーク代艦」あるいは「テゲトフ級(フィリブス・ウニティス級)改良型」と呼称されるその次の戦艦計画が考えられました。
本級の最初の設計案は海軍に先行してスコダ社からの提案だったと言うのは面白い事実です。スコダ社はフィリブス・ウニティス級の30.5cm主砲開発後、続いて34.5cm主砲を開発する事を計画しておりこれを搭載した新戦艦の建造を希望していました。しかしこれは海軍当局の拒否する所となりあらためて各種設計案が練り始められます。
排水量はドッグの大きさから23800トンと制限されましたが、主戦場をアドリア海と限定し燃料搭載量を切り詰めればより大きな敵国同世代艦に伍する事ができると考えられました。航続力のより積極的な対策として同盟国独逸でも当時検討中だったディーゼル・タービン併用も考えられたものの、結局技術的難度の高さからこの案は放棄されました。
紆余曲折の末、主砲は独逸次世代巡洋戦艦マッケンゼン級と弾薬互換性を持たせるため35cmと決定しあらためてスコダ社に開発が命じられました。
排水量制限から1・4番砲塔を3連装、2・3番砲塔を連装とし、後部艦橋及び後檣も省略され、、さらに当初小さな船体に20門前後もの装備が要求され2段式砲郭まで考えられた副砲も14門にまで減らされ通常の砲郭装備となりました。
このような設計陣の努力と、予算獲得のため皇帝自ら大臣の説得に当たるなどの苦労の末、本級は建造実現目前までこぎつけます。
しかしそれもサラエボの一発の銃弾による他でもないオーストリア皇太子フェルディナンドの死、世界大戦勃発により全て水泡に帰してしまったのでした。

常備排水量24500トン、全長173.5m、3万1千馬力、21ノット、兵装350mm/約42.5×3×2+2×2、150mm/約47.5×14、90mm/約42.5×8、90mm/約42.5高角砲×12、56cm水中魚雷発射管×6

(2003/10/18更新)
(2003/10/24更新)
巡洋戦艦研究案Ia
1911年オーストリア・ハンガリー海軍予算案検討中にモンテクッコリ提督が「巡洋戦艦は広大な太洋を統べる海軍にとって価値あるものであって我が国には不必要なものである」と明言している事から同海軍が巡洋戦艦を建造する意思はないものと考えられていました。
ところが同海軍がモナーク代艦に続き研究に取り掛かったのは他でもない巡洋戦艦でした。
おそらく大戦勃発後のフォークランド沖、ドッガーバンク海戦等における巡洋戦艦の活躍が同海軍に宗旨変えを起こさせたものと考えられます。
また仮想敵国たるイタリアが高速戦艦フランチェスコ・カラッチョロ級の建造に着手した事が直接的な引き金だったとも言えるでしょう。そのフランチェスコ・カラッチョロ級はモナーク代艦計画に対抗するためのものだったのは大いなる皮肉ではありますが。
巡洋戦艦研究最初の本案は1915年12月(9月とも)に作成されたもので、モナーク代艦に採用された35cm砲の搭載と30ノットの高速発揮が要求事項だったようです。
大きさは同じ35cm砲を搭載し既に建造に入った独マッケンゼン級やそれよりさらに先行した露ボロディノ級とほぼ同格で、今まで二重帝國艦を制限していたドック能力の制限を越えたものでした。
形態は伊ダンテ・アリギエリや露ガングート級に類似するものであまり新味のあるものではありません。一番似ているのは兵装や速力も酷似していた露ボロディノ級初期案なのですが、ガングート主砲開発に関係していたスコダ社辺りからなんらかの情報を入手していたのだろうかってのは単なる私の妄想でしょう(笑)
なお本研究案はラフスケッチにすぎないため、アイコンは実際に建造された場合を想定し細部はモナーク代艦などを参考に私が勝手に考えた物である事を御了承下さい。

常備排水量30000トン、全長220m、10万馬力、30ノット、兵装350mm/約42.5×3×3、150mm/約47.5×18、90mm/約42.5×18、53.34cm水中魚雷発射管×6

巡洋戦艦研究案Ib&c
(2003/10/18更新)

巡洋戦艦研究案Id
(2003/10/18更新)

巡洋戦艦研究案Ie
(2003/10/18更新)

巡洋戦艦研究案If
(2003/10/18更新)
巡洋戦艦研究案Ib〜f
Ia案に続く研究で1916年12月に提出された巡洋戦艦案です。
主砲を全て連装砲としたものでIa案より後退したものに思えます。
これは大戦により35cm砲身の生産予定が縮小されたための措置でした。
Ib案がIa同様中心線上平面に主砲配列したもので露弩級艦と全く同じものです。
Ic案はIb案の中部2砲塔を梯形に配置したもので側面から見るとIb案と変わりません。
Id案は前部2砲塔を背負い式に、Ie案は逆に後部2砲塔を背負い式に配置したもの。
If案は前後ともに背負い式配置にしたものです。
弩級艦で3連装砲塔背負い式と言う大正解を最初から造ってしまった同海軍は、他国が順に辿って行った連装主砲塔配置の進化をここであらためて机上で確認していったと言えるでしょう。
ですが同年に発生したスカゲラック海戦(ジュットランド)により研究案Iシリーズは全て旧式艦と化してしまったのです。
同海軍は調査団を同盟国独逸へ送り詳細なレポートを作成、以後ポストジュットランド艦の研究に取り組む事となります。

巡洋戦艦研究案Ib&c
常備排水量30000トン、全長220m、10万馬力、30ノット、兵装350mm/約42.5×2×4、150mm/約47.5×18、90mm/約42.5×20、53.34cm水中魚雷発射管×6
巡洋戦艦研究案Id
常備排水量30000トン、全長220m、10万馬力、30ノット、兵装350mm/約42.5×2×4、150mm/約47.5×18、90mm/約42.5×18、53.34cm水中魚雷発射管×6
巡洋戦艦研究案Ie
常備排水量30000トン、全長220m、10万馬力、30ノット、兵装350mm/約42.5×2×4、150mm/約47.5×18、90mm/約42.5×18、53.34cm水中魚雷発射管×6
巡洋戦艦研究案If
常備排水量30000トン、全長220m、10万馬力、30ノット、兵装350mm/約42.5×2×4、150mm/約47.5×18、90mm/約42.5×16?、53.34cm水中魚雷発射管×6

(2003/10/24更新)
巡洋戦艦研究案II
1917年3月ポーラで開かれた新しい砲術と設計に関する討議の結果次の事が確認されました。
今後の主力艦には38cmもしくはそれ以上の主砲が必要である事、そして高速性の優位。
これは彼らのモナーク代艦が建造前に既に旧式化してしまった事を意味しており、そのためより新しい戦艦と巡洋戦艦の研究が始められました。
同年6月に提出された本案はその新巡洋戦艦案で巡洋戦艦研究案Iシリーズと同じ船体に38cm砲を搭載したものです。

常備排水量30000トン、全長220m、10万馬力、30ノット、兵装380mm/42.4×2×3、150mm/約47.5×18、90mm/約42.5×12、90mm/約42.5高角砲×6、53.34cm水中魚雷発射管×6

(2003/10/24更新)
高速戦艦研究案III
巡洋戦艦研究案IIと共に提出された二重帝國最初のポストジュットランド戦艦案。
英クィーン・エリザベス級と同等の火力と速度を持った高速戦艦です。
独ポストジュットランド研究案と同様に火力と速度の強化に留意し、装甲防御面での改善が見られないのが英国との大きな違いと言えます。
全ての面で性能向上を果たそうとした大戦終了後の日英ポストジュットランド艦とは違い、英独双方が自らの欠点の是正に重きを置いた訳で、この意味では本案等もポストジュットランド第一世代とでも呼ぶべきでしょう。

常備排水量30000トン、全長200m、7万5千馬力、25ノット、兵装380mm/42.4×2×4、150mm/約47.5×18、90mm/約42.5×14、53.34cm水中魚雷発射管×6

イタリア

フランチェスコ・カラッチョロ改装案
(2003/11/23更新)
フランチェスコ・カラッチョロ改装案
「リアルな仮想に仮想なし」ささきさんの名言です。
我々が想像するような事は大抵の場合当事者たちが既に検討済みと云うのはよくある話で、この件もその好例でしょう。
高速戦艦カラッチョロは空母改装ベースとして最適ではないか、イタリア海軍自身がそう考えていました。
本案はその一つで全長185m・幅25mの全通飛行甲板を持つ航空機運用艦です。
しかしながら空軍法の存在によって海軍は水上機の運用しか許されていないため本艦も水上機母艦と言う事になっています。
後に設計される航空巡洋艦1925年案よりむしろ航空機運用艦としては進んでおり、同時期の英国アーガス級と酷似した非常に優れた形態を持つ空母型艦船を設計していながら空母として使えない。イタリア海軍の無念さはいかばかりだったでしょうか。
なおもう一つのカラッチョロ改装案は純然たる水上機母艦型でしたが艦橋前方に全長135m・幅25mの甲板を持っていたそうです。

ギリシャ

戦艦サラミス第一案
(2003/8/15更新)


戦艦エスパーニャ級 (新造時)
(2003/8/15更新)
戦艦サラミス第一案(研究案)/戦艦エスパーニャ級 [新造時](実在)
第一次大戦前夜、トルコ海軍で新造超弩級戦艦が英国に発注されました。トルコと対立関係にあったギリシャでもこれに対抗すべく超弩級戦艦建造を企て、ドイツのフルカン社に設計建造を依頼しました。
元々、このような強力な艦種の必要性を感じていなかった同国での最初期案は非常に慎ましやかなものでした。
排水量13800トン、全長139.6mと言うサイズはそれまで世界最小を誇っていたスペインの弩級戦艦エスパーニャ級の15800トン、全長139.9mを下回り、着工・竣工していれば「世界最小の弩級戦艦にして超弩級戦艦」というダブルタイトルホルダーになっていたはずです。
世界最小とはいっても355.6mm連装砲塔3基(6門)、152.4mm副砲・76.2mm補助砲各8門、450mm魚雷発射管2門と相応以上の火力を持ち、舷側主甲帯及び主砲塔254mm、甲板50mmと装甲もまずまずのものを持っていました。速力も23ノットと当時としては高速な部類。

しかしながらトルコ戦艦のさらなる増勢と他ならぬ海軍内部からの反対に会いこの第一案は挫折、艦型を増大した第三案が決定案として建造される事となったのです。
この第三案も開戦後のドイツに接収され同国戦艦としての建造を企図されるのですが、元々主砲と装甲が別途米国に発注されていたのが災いし完成しなかったのはまた別のお話。

戦艦サラミス第三案・決定案
(2003/8/23更新)
戦艦サラミス第三案・決定案 (未成計画)
第一案も決して悪いものではありませんでしたが「もう少し強力で他国の戦艦と並べて見ても見劣りしない戦艦を」と云う事で改めて独フルカン社に設計させた最終案です。
第一案と比較した場合、装甲防御は水平甲板が強化された程度でしたが、355.6mm連装砲塔がさらに1基、152.4mm副砲・76.2mm補助砲が1.5倍、魚雷発射管が510mm3門と火力が非常に強化されました。常備排水量は19500トンに、全長は173.7mと大型化しましたが、砲配置の良好性もあり他国の超弩級戦艦と比べても遜色ないものとなりました。
砲配置や艦橋などに独超弩級戦艦バイエルン級との類似性が見られるのも興味深い所でしょう。

その後晴れて建造着手された同艦も第一次大戦勃発によりドイツに接収されてしまいます。
しかしながら別途米国に発注されていた主砲と主装甲が入手できなかった上、ヤード・ポンド規格とメートル法の違いもありついに完成させる事はできませんでした。
ギリシャ戦艦として完成された場合ヴァシレウス・ゲオルギオス、独艦として完成された場合ティルピッツと改名される予定だったと言われますが、後者は疑問符が付けられているようです。

スウェーデン

(2003/10/4更新)
海防戦艦試案 1934
北欧の雄にして海防戦艦王国スウェーデン。
中でも1917年から1922年にかけて竣工したスヴェリエ級は北欧最大最強の海防戦艦でした。
しかしながら本艦も年を経て旧式化してくるのは否めませんでした。さらに独逸がポケット戦艦を建造させた事により新型海防戦艦が渇望されるようになりました。
本案もその最初期の試案でしたが、近代型スヴェリエ級と言う程度の性能で採用には至りませんでした。

基準排水量7685トン、全長約137m、22.5〜23ノット、兵装283mm×2×2、120mm/50×2×6、25mm対空機銃×2×5〜6

(2003/10/4更新)
海防戦艦試案 1940
新型海防戦艦は1934年の試案の後も何度も検討され、その行き着いた果てが本案です。
スウェーデンの依頼を受けイタリアのアンサルド社で設計され1941年5月に完成予想図が、1943年には詳細案が提示されました。
主砲が283mm砲が1.5倍になって6門、これで独逸ポケット戦艦と互角です。
さらに本案の真価は防御力にあり、垂直防御はアラスカ級(米)、クロンシュタット級(ソ・未成)、B-65(日・未成)と同等、水平防御及び水雷防御はこれらを凌ぐと言う恐るべきものでした。
しかしながら艦型・建造費共に過大にすぎたため本案は不採用となり、さらに大戦により海防戦艦新造計画自体消滅してしまいました。まあ、これはどっから見ても海防戦艦じゃなくて正真正銘の戦艦ですもんねえ・・・お客様のご要望はきちんと聞いておきましょう。

基準排水量15645トン、満載排水量17000トン、全長176.2m、3万馬力、22ノット、兵装283mm×2×3、120mm/50両用砲×2×4、57mm/60対空機関砲×5、25mm対空機銃×8、舷側内装式傾斜装甲200mm、傾斜甲板30mm、装甲甲板120mm、中甲板50mm