ソビエト、ロシア艦アイコン
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(2006/1/18更新)
砲塔艦 ピョートル・ヴェリキー
バルト海用として建造されたロシア海軍始めて大型砲塔艦です。以前にも舷側砲門の装甲艦、低乾舷の砲塔海防艦はありましたが、10.000t超える大艦で回転砲塔に主砲を備え、完成当初から帆装設備をもたない点からロシア海軍初の戦艦で有ると言われています。
1876年に完成した本艦は、鉄製船体に22インチの木材を7インチの鍛鉄ではさんだラミネート式の舷側装甲を持ち円形の大型砲塔2基に12in砲を2門づつ搭載、前後に近接した主砲塔を同厚のシタデル(城の城壁状の壁)で囲い、その中央部に上構を集中配備した姿は後世の戦艦を見慣れた目からは奇抜なものに見えますが完成当時は世界最強艦と言われました。
設計はシルエットで見る限り英国の造船官リード設計のデヴァステーションに範を得たようですが、彼の装甲防御の特徴であるブリーストワークを備えた高乾舷とはせず、中央部に設けたシタデルの長さは48m、全長の半分弱でその長さの中に主要装備を納めていました。強制換気の未発達から密閉式の砲塔中央には巨大な通風塔が取り付けられています。
機関は機関車缶で横置環動式、完成当時は不具合がはなはだしく完成後5年を経た1881年機関を新式のものに換装、併せて小口径砲の増備、発射管の追加も行われました。また低乾舷の割にはGM値が大きいようで(乾舷高8フィートより大きい8.6フィート)動揺周期は短かったものと思われます また日露戦争後には上構を一新、乾舷を高め主砲塔、シタデルを撤去、2檣2本煙突で8in,6inの単装砲を装備した砲術練習艦に改装され、革命後は”レスプブリカネツ”に名を改め、1922年に解体されました。

計画時の要目
常備排水量10.406t 103.5m*19.0m*8.3m 計画出力8.250hp 計画速力14kt
12in連装砲*2 85o単装砲*6  15in魚雷発射管*2

(2005/5/12更新)
戦艦インペラトール・アレクサンドル2世級「インペラトール・ニコライ1世」
このクラスはバルチック艦隊用として始めて建造された近代戦艦で、鋼製船体の戦艦としてもロシア最初のものです。
10.000tに満たない艦型ながら長砲身(30口径)の12in砲を備え”アレクサンドル2世”は第一次大戦後まで在籍しました

同艦は露砲塔(装甲バーベット上に無防御の砲を載せた砲塔)でしたが、1月置いて就役した”ニコライ1世”は砲塔形式となり両方式のテスト兼ねたように見受けられます

主砲が艦首の一基だけなので艦橋以降、艦尾まで続く長大な船楼を備え、あまつさえ艦尾には
2層のスタンウォークまであり、艦尾からの艦影は豪華客船の面持ちさえあります(太平洋への回航の際にはさぞ快適だったかと・・・・)。

日本海海戦時は旅順の太平洋第1艦隊全滅の報を受け急遽編成された第3艦隊の旗艦として
ネボガトフ少将の指揮下”A・ウシャコフ”級らとともに遅れて合流、第3戦艦隊旗艦として参加しました
艦隊旗艦”クニャージ ・スワロフ”落伍後は残存艦の指揮を任されましたが
海戦二日目、優勢な日本艦隊の包囲に遭い3隻の僚艦とともに降伏
このかどによりネボガトフ少将は軍法会議にて死刑が宣告されましたが(後に禁固10年に減刑)
旧式、劣速のうえ後部に指向できる重砲が1門(8in)しかないこの艦では致し方なかったかもしれません・・・・・・

戦後は二等戦艦”壱岐”として1915年まで日本の軍艦籍にありました

計画時の要目
常備排水量9.500t 105.5m*20.4m*7.9m 計画出力8.500hp 計画速力15.3kt
12in連装砲*1 9in単装砲*4 6in単装砲*8 3pdr単装砲*10 1pdr機砲*8 15in魚雷発射管*6(5)
(内)は「ニコライ1世」 9in砲は日露開戦前に8in*5に換装と思われる

(2005/6/7更新)
戦艦ナワリン
バルッチック艦隊用として始めて前後に12in連装砲塔を備えた艦として建造されました(1889起工1896竣工)
黒海艦隊用に造られた(同じく前後に12in連装砲を備えた)”ドヴィェナザット・アポストロフ”が
バーベット上に主砲を搭載した”露砲塔艦”だったのに対し砲塔方式とされたため低乾舷の砲塔艦(ターレットシップ)として完成しました
反面その副砲は中央の高い船楼部上甲板に配され従来の舷側配置の副砲のように波浪の影響を受けることはありませんでした。
側面からでは解りませんが、煙突は2本づつ並行に配置された4本煙突式であること
また小型の前檣に比してアンバランスな後檣、ヤード、などと特異な外観を持っていました(前後逆のようにも見えます)

日本海海戦ではシソイ・ヴェリキーとともにフェリケルザム少将の第ニ戦艦隊にあり
その良好な防御装甲により5/27昼戦にて多数の重砲弾をうけながらも、よく戦列を保ち
シソイ・ヴェリキー同様夜戦にて我が(おそらく)第一艇隊の連携水雷による攻 撃を受け、11時頃に艦尾、右舷中央部に相次いで蝕雷、12時頃魚雷の命中により転覆沈没しました。

計画時の要目
常備排水量10.206t 109.0m*20.4m*8.4m 計画出力9.140hp 計画速力15.5kt
12in連装砲*2 6in単装砲*8 3pdr単装砲*8 1pdr機砲*15  15in魚雷発射管*6

(2005/6/7更新)
戦艦シソイ・ヴェリキー
本艦はナヴァリンに続くバルッチック艦隊用の戦艦として建造されました(1891起工1896竣工)
ナヴァリンが英のトラファルガー級にも似た低乾舷の砲塔艦(ターレットシップ)だったのに対し
英ロイヤル・ソブリンに類似した高い乾舷を持つ航洋型戦艦として完成しました
またその主砲は新型の12in/40口径、副砲は6in/45口径とされました。
(英国で同じ40口径の主砲が採用されたのは5年後のフォミダブル級から)
またロシア主力艦として初めてベルヴィール缶(水管式)を採用しています(それまでは円缶)。
ロシア近代戦艦の始祖ともいえる優秀な戦艦でした

日本海海戦ではフェリケルザム少将の第ニ戦艦隊にあり(少将は5/23病死)
5/27昼戦にて多数の重砲弾をうけながらも戦列にあり、ネボガドフ少将の指揮下ウラジオストックを目指すも
夜戦にて我が第四駆逐隊の攻撃を受け、深夜2時ころ駆逐艦朝潮の発射した魚雷を舵機室付近に受け、
操舵不能となり、翌5/28昼前、信濃丸に降伏するも浸水止 まず転覆沈没しました

計画時の要目
常備排水量10.400t 107.2m*20.7m*7.8m 計画出力8.500hp 計画速力15.7kt
12in連装砲*2 6in単装砲*6 3pdr単装砲*12 1pdr機砲*18  18in魚雷発射管*6

(2003/1/6更新)
戦艦ペトロパヴロフスク
ペトロパヴロフスク級戦艦3隻は、1896年に1隻だけ建造されたシソイ・ヴェリキーの拡大改良型です。アメリカの海防戦艦インディアナ級(1895−6竣工)、フランスの砲塔艦ブレンヌス(1896竣工)とならんで副砲を砲塔化したことで知られます。ために、改インディアナ級とも呼ばれますが、ロシア建艦史上、記憶されてよい艦です。と言うのは、バルト海、黒海と内海用の低乾舷の艦ばかりを造ってきたロシア海軍が、最初に建造した近代式戦艦だからです。
これは、急激に膨張してきた日本海軍との対抗上、太平洋艦隊に配備する最初の戦艦として建造されたためで、同国では初めて水平甲板型を採用するとともに、既述のように12門中、8門の副砲を連装砲塔に装備して、航洋性を確保しています。主砲は40口径305mm連装2基4門、砲塔の駆動と揚弾を電動化し全旋回角での装填を可能としたもの、副砲は45口径152mmで揚弾機能は電動でした。速力は16ノットとやや低めでしたが、ハーヴェイ鋼を採用した装甲 は充分な防御力を有していました。ウラジヴォストーク(ウラジオストック)の船渠に入渠可能としたことと、フランス式にタンブルホームを採用したため、同時代の日本艦より見劣りするように見えますが、設計思想は新しいものがあります。
1892年5月、3隻ともロシア国内で起工、99年に全艦が完成すると太平洋艦隊に編入され、1904年の日露開戦時には、3隻とも旅順にありました。同年4月13日、艦隊旗艦だった1番艦ペトロパヴロフスクは来襲した日本艦隊を追って旅順港外に出たところで、機雷に触れて約2分間で沈没。2番艦ポルタワ、3番艦セヴァストーポリは旅順港内で日本軍の陸上からの砲撃を受けて損傷後自沈、うちポルタワは日本が浮揚して丹後と改名されますが、1916年、ロシアに返還されます。この時、この3隻の艦名は、ロシアが完成させた唯一の弩級艦であるガングート級に襲名されており、ためにチェスマの艦名で再就役しましたが、革命後の1923年に解体されました。
常備排水量11354トン、全長112.38メートル、全 幅21.31メートル、喫水7.77メートル、主機直立3連成2基2軸、11250馬力、速力16.5ノット、乗員632名

(2005/6/7更新)
戦艦オスラビア
このクラスはドイツ装甲巡洋艦への対抗を任務として建造された軽兵装、軽防御の高速戦艦で、フランス式の設計による始めての戦艦でもあります。
きわめて高い乾舷の長船首楼(艦首乾舷は10m近い)、高速発揮のため幅の狭い顕著なタンブルホームを有する船型でした
主砲はドイツ装甲巡洋艦が8.1〜9.2in連装砲を主砲としていたため10in/45口径連装2基とされ、装甲にはこれも初めてクルップ鋼が採用されました
当時のロシア戦艦より3kt優速ではあるものの18〜9ktは1900年代の主力艦としてはそれほど高速とは言えず(その他戦艦と比して)ほぼ2/3の主砲威力は艦隊戦では不十分なものでした(本来の任務からすれば充分ではありますが)
またその後のフランス式設計にも続く問題点として舷側装甲帯の吃水線上の高さ不足(9inの主装甲帯は吃水線上わずか25cm!)
タンブルホーム採用が原因の浸水傾斜時の復元性の不良(傾斜時に吃水線面積が激減することによる)が挙げられています

日本海海戦ではフェリケルザム少将の第ニ 戦艦隊旗艦ではありましたが
当の少将は4/16脳溢血により昏倒、船上でもあり治療の甲斐なく5/23死去第ニ戦艦隊の指揮は本艦艦長ペール大佐が執ることとなりました。
が、士気の低下を恐れるロジェストウエンスキー中将はこれを秘として第三位の指揮権を持つネボガドフ少将にも知らせず、ロ中将の負傷後の混乱の原因となりました。
5/27フェリケルザム少将の亡骸乗せたままのオスラビアは第二戦艦隊の先頭にあり同じく第一戦艦隊の先頭のクニャージ・スワロフ同様の激しい集中砲火を受けました
第二戦艦隊の後続艦は旧式、低速のシソイ・ヴェリキー、ナワリン等で(15kt級おそらく海戦時は12kt程度)せっかくの高速も発揮する機会なく多数の命中弾を受け
オスラビアは艦首水線下の破孔からの浸水により戦闘開始からほぼ1時間を経たPM3;07艦尾を高く上げながら左舷側に転覆、初めて軍艦の砲撃により沈められた装甲艦として歴史に名を残しました

計画時の要目
常備排水量12.683t 132.4m*21.8m*7.9m 計画出力15.000hp 計画速力18.5kt< br>10in連装砲*2 6in単装砲*11 11pdr単装砲*20 3pdr単装砲*20 1pdr機砲*8  15in魚雷発射管*5
(同型艦 ペレスウェート、ポビエダ)

(2003/1/6更新)
戦艦ボロディノ級
ボロジノ級、及び、原型となったツェザレビッチは、言うならば屋根に相当する中甲板が3吋級、壁面に相当する舷側装甲が9〜10吋級、そして床に相当する下甲板が40mm級といった感じで、装甲ブロック内に弾丸・破片が侵入する可能性はきわめて低いのです(中甲板が厚いあたりがポイント)舷側装甲範囲が狭い(低い)という事は、敵弾の相当数が、薄い上部舷側を抜いて中甲板上面で炸裂する事になりますが、これに対して、この厚い3吋級甲板は十分に耐えるでしょう。当時の砲弾の性能から、狭いとはいえ舷側装甲帯はまず抜けませんから、主要部に対する防御は決して悪くないというか、整ったものだと言えるでしょう。
日本海海戦では、満載近い状態で舷側装甲が十分に水線上に出ていなかったので、抜ける事前提の非装甲舷側部から浸水しやすかった事が、ボロジノ級の喪失遠因だったと言えるでしょう。
ロシアの後の戦艦では、こうした問題点に対して実にアグレッシブな対応をしており、言っちゃ悪いけどドイツなんかより凄いスタイルなんですよねぇ・・・。

戦艦インペラトール・パウェル一世
(2003/8/5更新)

戦艦ガングート(改装後)
(2002/9/3更新)

戦艦ガングート(新造時)
(2003/8/11更新)

戦艦インペラトリッツァ・マリーヤ
(2003/8/11更新)
戦艦インペラトール・パウェル一世/戦艦ガングート(改装後)/戦艦ガングート(新造時)/戦艦インペラトリッツァ・マリーヤ
準弩級戦艦インペラトール・パウェル一世から弩級戦艦、そして未成に終わった超弩級戦艦、ポストジュットランド戦艦・・・それらロシア戦艦に一貫して流れる特徴とはなんでしょう?
徹底した全体防御思想、これではないでしょうか。
余りにも衝撃的だった対馬沖海戦のもたらしたもの。それは徹甲弾ではなく通常弾(日本の半徹甲弾)の高性能炸薬による人員殺傷能力に対する恐怖。これを克服するためにインペラトール・パウェル一世は水線以上の全て、舷側のみならず最上部の補助砲砲郭にまで装甲を施しました。
これはもう一つの恐怖、転覆対策の舷窓廃止と同目的の開口部を設けない事とも軌を一にしていました。
ガングート以降の弩級戦艦もいささか行き過ぎだった舷窓廃止こそ取り止めたもののこの方針は変わらず、最後尾主砲塔直後の上甲板舷側を除き舷側全てに装甲を施しました。
このためロシア戦艦の主装甲 は列国のものと比べいささか薄い様にも思われます。しかしながら主装甲の奥に位置する断片防御目的の補助装甲(25mm〜50mm)を徹底する事でこれを補いさらに二次災害を防ぐ、つまり二度と対馬沖の悲劇は繰り返さないと言う硬い決意がそこには表れています。
未成に終わったインペラトール・ニコライ一世では主装甲背後に不燃処理を施した木製ライナーを装着すると言う新構想も盛り込まれていました。
一部の試案を除き、背負い式砲塔配置を採用しなかった理由はこれら全体防御の徹底と転覆対策を両立させるためのトップヘビー防止と見るのは贔屓の引き倒しでしょうか。

インペラトール・パウェル一世 舷側216mm(弾火薬庫165mm)   傾斜甲板79mm
ガングート          舷側225mm 補助装甲37.5mm/50mm 傾斜甲板25+12mm
インペラトリッツァ・マリーヤ 舷側262.5mm 補助装甲25mm/50mm 傾斜甲板50mm
インペラトール・ニコライ一世 舷側262.5mm 補助装甲25mm/75mm 傾斜甲板75mm
ボロディノ          舷側237.5mm  補助装甲25mm/50mm 傾斜甲板50+25mm

最後に付記したボロディノは実在した前弩級戦艦ではなく未成巡洋戦艦のものです。

(2005/4/27更新)
海防戦艦アドミラル・ウシャコフ級「アドミラル・セニャーウィン」
本級はバルト海用の沿岸海防戦艦としてスウェーデン海軍艦艇に対抗する目的で作られました
バルト海沿岸での行動のため浅喫水が条件であり、5000t級の船体の割には10in砲3〜4門を装備する
優秀な設計であり、その後のバルト各国が同種の海防戦艦を多数建造するきっかけともなりました。

またその限定された目的で建造されたにもかかわらず、長躯太平洋まで回航され日本海海戦に参加しました
(もちろん想像を絶する困苦であったことは想像されますし参加した結果はアレですが・・・)

計画時の要目
常備排水量4.971t 87.3m*15.9m*5.9m 計画出力5.750hp 計画速力16.0kt
10in連装砲*2(アブラクシンは連装*1単装*1)4.7in単装砲*4 3pdr単装砲*6 1pdr機砲*16 15in魚雷発射管*4
(同型艦 アドミラル・ウシャコフ アドミラル・セニャーウィン アドミラル・アブラクシン)

(2005/5/12更新)
装甲巡洋艦ドミトリー・ドンスコイ
同じく日本海海戦で没したウラジミール・モノマフの改正型として作られた本艦は、
完成当時は快速の帆機両用の巡洋艦として極めて優秀な設計でした
1895年、近代化改装を受け汽走専用化、備砲の換装などが施され、1905年当時はほぼその状態だったものと思われます

日本海海戦時は旗艦”オレーグ”率いる第一巡洋艦隊にあり、僚艦がウラジオストックへの突破を断念転進した後も
単艦北上、海戦二日目5/28の夕刻ついに我が第3.4戦隊により捕捉され、両戦隊の合計7隻の巡洋艦と一昼夜にわたり交戦しました
翌5/29朝、竹島西北西にある松島近くにて乗員を離船させた後自沈、バルチック艦隊中最北の、そして最後の沈没艦として記憶されています

計画時の要目 
常備排水量6200t 90.4m*15.9m*7.9m 計画出力7.000hp 計画速力16.5kt
8in連装砲*1 6in単装砲*14 15in魚雷発射管*5 (完成時)
6in単装砲*6 4.7in単装砲*10 3pdr単装砲*6 15in魚雷発射管*5(改修後)

(2005/6/7更新)
装甲巡洋艦アドミラル・ナヒーモフ
英海軍インペリュース級のデザインを参考にした本艦は舷側装甲をバイタルパート部の45mに極限した
集中防御のはしりとも言うべき防御形式を採用した帆機両用の装甲巡洋艦でした
ペテルブルク工廠にて1888年に竣工、1899年には汽走専用に改装、ボイラー、一部兵装の換装を受けました
(その際主砲を35口径から45口径に長砲身化下とも言われていますが1980年に引き上げられた砲は35口径でした)

日本海海戦時は巡洋艦隊ではなくオスラビア率いる第二戦艦隊にありましたが(低速により?)
殿艦だったこともあり昼間戦では目立った損傷も受けず日本艦隊からの離脱に成功しましたが、
水雷戦隊の度重なる夜襲にあい駆逐艦朧、雷などに損傷を与えましたが自らも魚雷を受け航行不能となり
翌朝、対馬殿崎東方にて自沈しました。

昭和55年、日本船舶振興会会長(当時)笹川良一氏の肝いりで調査が行われ少量の金塊とともに主砲砲身などが引き上げられました
当初、大量のプラチナが船内で発見されたと報道されソ 連(当時)側の返還要求など新聞紙面を賑わせましたが
その後引き上げられたとの情報無く、鉛のバラストを勘違いしたものなどとも言われています。

計画時の要目
常備排水量8.524t 101.5m*18.6m*8.4m 計画出力9.0000hp 計画速力17kt
8in連装砲*4 6in単装砲*10 15in魚雷発射管*3 機雷*40個

(2005/6/7更新)
装甲巡洋艦ウラジミール・モノマフ
General Admiral級に続く2タイプ目の装甲巡洋艦である本艦は帆機両用の巡洋艦として1885年に竣工、
全長にわたる4.5〜6inの舷側装甲を備え、英海軍のネルソン級(14.0kt)を上回る快速艦でした。
主砲は前後両舷側のそれぞれのスポンソンに配置されていましたが、波浪の影響を受けやすかったのか
続くDmitri Donskoiでは上甲板配置となっています。

1897〜8年、近代化改装を受け汽走専用化、備砲の換装などが施されました。1905年当時はほぼその状態だったものと思われます

日本海海戦時はドンスコイとともに第一巡洋艦隊にあり、ボロジノ級4隻の第一戦艦隊に後続
僚艦とおなじく水雷戦隊の夜襲にあい航行不能、翌朝対馬殿崎東方にて仮装巡洋艦佐渡丸に降伏の後
漏水はなはだしく沈没しました。

計画時の要目
常備排水量5593t 90.3m*15.8m*8.0m 計画出力7.000hp 計画速力15.2kt
8in単装砲*4 6in単装砲*2 15in魚雷発射管*3 (完成時)
6in単装砲*5 4.7in単装砲*8 3pdr単装砲*8 15in魚雷発射管*3(改修後)

(2006/1/23更新)
巡洋艦 クラスニィ・クリム(Krasnyi Krym)
第一次大戦前の1913年に起工されたスヴェトラーナ級軽巡の後身で、14年に及ぶ工期の後1928年に完成しました。
常備排水量6.750t29ktで15門もの130o砲を搭載する、強力な軽巡として6隻が計画されたされたスヴェトラーナ級でしたが、開戦後工事は進まず造船所の火災、ドイツ軍による接収などにより大戦終結後は未完のまま放置されていました。1922年になりソビエト政府により工事再開が決定、1924年には”プロフィンテルン”と改名され1928年ソビエトで建造された初めての大型艦として完成、就役しました。
バルト艦隊用として設計された本艦は、砕氷能力を付与するため強化された船体を持ち、おもにケースメート、露天に装備された主砲は15門中8門のみ片舷に指向することが出来ました。また船尾は機雷の敷設に適したトランザム型で100個の機雷を搭載できました。建造時期から考えてより適切な砲配置に変更することも可能だったと考えられますが、革命後の混乱の中完成させることを一義においてほとんど原設計のまま建造されたようです。当然ながら革命により混乱したソ ビエトの工業力では設計はそのままでも期待した性能を発揮しないことも多く速力は22kt程度と伝えられています。
また同型艦とされる”チェルヴォナ・ウクライナ”は本来黒海艦隊用に建造されたスヴェトラーナ級の略同型”アドミラル・ナヒーモフ”の後身で船体寸法など相当に内容が違っています(当然砕氷構造にはなっていないものと考えられます)
本艦は1930年に戦艦”パリジスカヤ・コンナム”(ガングート級セヴァストーポリより改名)とともに黒海艦隊に編入されました。1930年代半ばには高角砲の増備、1939年”クラスニィ・クリム”と改名され、大戦時は艦砲射撃輸送などを行い、その後は包囲されたセヴァストポリ要塞の支援に活躍、陥落の際には人員の脱出に貢献しました。戦後、練習任務に就き1958年除籍、1960年解体されその長く数奇な生涯を終えました。

アイコンは1930年代半ばの”クラスニィ・クリム”その後2番煙突後部にクレーンが設けられ2.3番煙突間に水上機が搭載されました。また大戦時は前檣に英製のタイプ291型レーダー、高角砲の装備が行 われています。

計画時の要目
基準排水量6.833t 154.5m(158.4)*15.4m*5.7m 計画出力50.000hp 速力29kt
130o単装砲*15 2.5in高角砲*6 21in発射管*6(12)*(内)はチェルヴォナ・ウクライナ
(同型艦チェルヴォナ・ウクライナ)

(2006/3/5更新)
巡洋艦 クラスヌイ・カフカズ(Krasnyi Kavkaz)
クラスニィ・クリム同様第一次大戦前の1913年に起工されたスヴェトラーナ級軽巡の後身で、1927年工事中止となっていた黒海艦隊の”アドミラル・ラザレフ”を設計変更の上工事再開、1932年18cm砲を持つ(ワシントン条約では重巡に分類)巡洋艦として完成させました。 船体は現設計では両舷に主砲を配置するために艦橋基部までであった船首楼を二番煙突付近まで延伸、併せて一層分嵩上げした艦首部により良好な凌波性能を備えているものと信ぜられます。主砲は単装砲塔に納め前後に背負式に2基づつ搭載、近代的なレイアウトとなっています。また2番煙突後方にハインケル社よち供与されたカタパルトを備え、フランス製の3発Tellier 水上機1機を搭載しました。

第二次大戦時は”クラスニィ・クリム”同様黒海にあり有力な海上兵力を持たない枢軸側相手に艦砲射撃、機雷敷設に活躍しましたが1942年1月にはスツーカによる襲撃を受け損傷、修理は8月まで掛かりました。その後も兵員輸送任務などに就いたものの1943年秋には度重なる艦艇の喪失に業を煮やしたスターリンの直接命令以外での出撃は禁じられ、以降目立った活動はありませんでした。

アイコンは完成時のの”クラスヌイ・カフカズ”です。

計画時の要目
基準排水量7.650t 169.5m*15.7m*6.2m 計画出力55.000hp 速力29kt
18cm装砲*14 100o高角砲*4 21in発射管*4 機雷*100

(2006/5/10更新)
(2006/11/10更新)
巡洋艦 キーロフ級(Kirov Class)
ソ連海軍で計画、完成した最初の近代軽巡です。設計はイタリアのアンサルド造船所により、モンテッコクリ級をベースにしています。またシルエットは同国のトレント級重巡にも似ています。
主兵装はは6.6in砲をモンテコックリ同様連装4基とする予定でしたがクラスヌイ・カフカスに採用した180o砲が優秀だったので同砲の3連装3基9門とし、船体構造の強化などもあり当初7.000t級からスタートした設計ですが、最終のプロジェクト26では7.700tに増大、その設計が採用されたいます。
艦橋はイタリア式の5脚檣を中心とし下部に航海艦橋を設置しています。舷側、甲板は最大50o、砲塔75oの装甲は35kt級の軽巡としては優れたものでした。キーロフの機関はイタリアで作られた2軸113.000hpのものでしたが、ヴォロシーロフのそれは自国製で122.500hpを発揮しました。
主兵装の180o3連装砲は同一砲架で、最大射程は41.000ydといわれています。またソ連巡洋艦の伝統としてキーロフは60個、ヴォロシローフは164個の機雷を搭載、敷設することが可能でした。
本級は6隻が建造されましたが3番艦以降は艦橋構造などを変更、マキシム・ゴーリキー級とされています。

キーロフはバルト艦隊に所属、ソ・フィン戦争を初陣とし対独戦争では当初機雷敷設任務に就きましたが独陸軍の侵攻によりリガ、レーヴェリと転戦、8月末にはレニングラードまで後退、以後度重なる独空軍の攻撃にも耐え同地の包囲解除まで陸軍の支援に当たりました。戦後は長く1974年まで訓練等に使用されました。
ヴォロシローフは黒海艦隊に所属、カフカス、クリム同様沿岸砲撃、機雷敷設、セヴァストポリ要塞の支援などに活躍しましたが1943年秋にはスターリンの直接命令以外での出撃は禁じられ、以降目立った活動はありませんでした。戦後1960年代にはSSMの実験艦に改造、その後解体されています。

アイコンは完成時のの”キーロフ”です。

計画時の要目
基準排水量7.880t 191.0m*17.7m*7.2m 出力113.000hp 速力36kt
18cm3連装砲*3 100o高角砲*6 21in3連装発射管*2 機雷*60

(2005/6/7更新)
二等巡洋艦イズムロード
ドイツで建造されたノーウィックを元に国内で建造したのがこのイズムルード級です
タイプシップ同様の小型高速巡洋艦でノーウィックが2.3番煙突の間に1本のマスト備えた姿だったのに対し
前後のマスト加えた3本マスト、3本煙突の姿で完成しました
その他は缶の形式がソーニクロフトからヤーローに変更されたくらいで備砲などノーウィックに準じていました

日本海海戦時イズムルードはスヴェトラーナ率いる第二巡洋艦隊にあり5/27の昼戦の後ネボガドフ少将指揮下
ウラジオストックに向かいましたが翌5/28再度我が主力と遭遇、
少将の降伏指令に一時は従うかに見えましたが勇躍これを翻し、高速を利し北方に逃れました。
5/29夜敵が待ち受けていると予想されるウラジオを避けより北方のウラジミール湾に向かいましたが
夜間のため湾口にて座礁、燃料不足により離礁作業も叶わず放棄、爆破処分されました

一方、同型ジェムチューグ(Jemtchug)は同じく第二巡洋艦隊にありましたが、
オレー グ、アウローラと行動をともにし昼戦の後南方に転進、マニラ湾にて抑留されました
単槽化などの近代化改装を経て第一次大戦に臨みましたが1914.10/28英領ペナン島にて停泊中、ドイツ巡洋艦
エムデンの襲撃を受け多くの乗員の就寝中とあってなす術も無く沈没しました

計画時の要目
常備排水量3103t 110.9m*12.2m*5.0m 計画出力 17.000hp 計画速力24.0kt
4.7in単装砲*6 3pdr単装砲*6 18in魚雷発射管*3

(2005/5/12更新)
防護巡洋艦Pallada級「アウローラ」
パルラダ級3隻の1艦であるこのアウローラは、極東での日本の脅威に対抗するため1897年に制定された海軍法に基づき建造されました

6500t級と防護巡洋艦としては大型ですが速力は低く(19kt)備砲も強力とは言えず
通商破壊戦ねらいのフラン式の艦だったようです
(その割に航続力は高いとはいえませんが・・・4.000nm〜10kt)

日本海海戦時は旗艦”オレーグ”率いる第一巡洋艦隊にありほぼ同艦と行動を共にし
我が第3艦隊の第5.6戦隊と砲火を交えましたがウラジオストックへの突破はならず
僚艦とともに南方に転進、マニラにて米国に抑留されました

終戦後ロシアに返還され練習艦時代などを経てロシア革命では黒海艦隊の”ポチョムキン”同様、バルト艦隊での中心的な役割を果たしました
第二次大戦の終戦を待たず記念艦としての保存が決まり1956年革命時の姿に修復され、現在もペトログラードに浮かんでいます

計画時の要目
常備排水量6730t 126.8m*16.8m*6.4m  計画出力 11.610hp 計画速力19.2kt
6in単装砲*8 12pdr単装砲*24 1pdr単装砲*5  15in魚雷発射管*5

(2005/6/7更新)
二等巡洋艦アルマーズ
1903年建造された本艦はその他の二等巡洋艦が主に艦隊型防護巡洋艦だったのとは違い通報艦目的で(アヴィソあるはデスパッチ)建造されました(1908年、武装ヨットに類別変更)

日本海海戦では唯一ウラジオストック入りを果たした巡洋艦でしたがそんなわけで戦力的には問題になりませんでした

戦後はバルト海艦隊、1911年以降黒海で活動、第一次大戦時は黒海にあり1915年水上機母艦へ改装、初の”機動部隊”(戦艦、巡洋艦に艦隊随伴能力のある快速の水上機母艦を加えた戦隊)の一翼を担いました
革命後は一時ウクライナ共和国の管理下にあり、その後ドイツ、イギリス、と転籍、イギリスから白衛軍に引き渡され仏領アルジェにてフランスに押収、1928年まで艦籍にありました

計画時の要目 
常備排水量3285t 110.6m*13.3m*5.3m 計画出力7.500hp 計画速力19kt
 4.7in単装砲*7 3pdr単装砲*6 15in魚雷発射管*6

(2005/6/7更新)
二等巡洋艦スヴェトラーナ
1896年竣工の本艦はフランスのルアーブル社にて建造、平時には海軍総裁アレクセイ・アレクサンドロビッチ大公用のヨットとして用いられました。
海戦時は第2巡洋艦隊旗艦であり、海戦二日目の5/28、我が第3艦隊の音羽、新高らにより撃沈されました

計画時の要目 
常備排水量3862t 101.0m*13.0m*5.7m 計画出力8.500hp 計画速力21.6kt
 6in単装砲*6 3pdr単装砲*10 15in魚雷発射管*2 機雷*20個搭載可能

(2005/6/7更新)
防護巡洋艦Bogatyr級「オレーグ」
ボガツィリ級としてサンクト・ペテルブルクでパラダ級の改良型として建造された本艦は3本煙突で短い船首楼を持ちロシア海軍の防護巡洋艦としては初めて6in連装砲塔を前後に装備した近代的巡洋艦でした。またパラダ級に比較し2倍近い機関出力を持ち、23kt級を狙った高速艦でもありました(黒海艦隊用の2隻はおおむね23ktを達成したようですが200tほど大型のバルト艦隊ようの3隻は21〜2ktにとどまったようです)

日本海海戦では第二太平洋艦隊巡洋艦隊旗艦としてエンクウィスト少将の指揮下にあり5/27昼戦でのロシア艦隊の不利を悟るや夜戦を避け南方に転進、アウローラ、ジェムチューグとともにマニラ湾にて中立国米国に抑留されました
ロシア返還後はバルト海にあり第一次大戦ではドイツ艦隊と交戦、戦後は赤衛軍に属し英海軍の魚雷艇により沈められました。

計画時の要目 
常備排水量6645t 134.0m*16.6m*6.3m 計画出力23.000hp 計画速力23.0kt
 6in連装砲*2 6in単装砲*8 11pdr単装砲*12 3pdr単装砲*8 15in魚雷発射管*2

(2005/5/12更新)
駆逐艦Boiki級「べドウィ」
べドウィはロシア国内で建造されたBoiki級22隻の1艦です。
成功した設計であった英国製の”Sokol"のデザインを踏襲した設計となっています。

同じ英国デザインのわが国の”雷””東雲”級に相当しますが、同大の排水量ながら
全長は10Mほども短く、その分喫水が2倍ほどもありより航洋性は高かったものかと思います
(その分速力は低いようですが当時の駆逐艦の平水での最大速力にどれほどな意味があったかは疑問です)

日本海海戦では第一会戦の昼戦で頭部に重傷を負い指揮を第3艦隊司令ネボガトフ少将に任せた
艦隊司令ロジェストウェンスキー中将をのせウラジオストックに奔走中(燃料欠乏のブイヌイから引継ぎ)
5/28午後、我が駆逐艦 陽炎、漣と遭遇、中将を乗せたままの戦闘は困難と判断してか、砲火を交えず直ちに降伏しました

戦後、日本海軍によって修理、整備され「皐月」と改名。大正2年まで駆逐艦として使用されました。

計画時の要目
常備排水量355t 56.6 m*6m*3m 計画出力 不明 計画速力26.5kt
12pdr単装砲*1 3pdr単装砲*5 15in魚雷発射管*3

(2005/6/7更新)
駆逐艦Boiki級「グロームキー」
グロームキーはべドウィ同様ロシア国内で建造されたBoiki級22隻の1艦です。
英国製の”Sokol"のデザインを踏襲した設計となっています。
バルチック艦隊の駆逐艦は燃料の節約のため航路の大部分を曳船にて曳航されていたようですが
主機関停止での波浪による動揺は相当の物だったと想像されます。

日本海海戦ではかねてからの作戦通り非戦側に後退、ウラジオまでの燃料の節約のため
可能な限り戦闘には参加せず、専ら落伍艦、沈没艦の救難にあたっていましたが
行動不能の装甲巡洋艦ナヒモフ、モノマフの救難を試みましたが我が佐渡丸らにより発見され
不知火、63号艇に追跡され蔚山沖にて降伏後沈没しました

計画時の要目 
常備排水量355t 64m*6.4m*2.5m 計画出力 5.700hp 計画速力26kt
11pdr単装砲*1 3pdr単装砲*5  15in魚雷発射管*3

(2003/1/15更新)
砲艦ノヴゴロド(Novgorod)
ロシア黒海艦隊円形露砲塔艦
クリミヤ戦争の敗戦によりロシアは黒海の艦隊保有権を失った。1871年、同艦隊の再建を計画、最初に建造されたのがノヴゴロドであった。設計は1875年に世界最初の装甲巡洋艦ゲネラル・アドミラルを、76年には、当時、世界最大最強のターレット艦ピョートル・ヴェリッキーを建造した俊英アレクセイ・A・ポポフである。
この円形と言う破天荒な艦形を採用した理由は定かではない。しかし、無防備の黒海に艦隊を再建すると言う条約破りをした以上、ヨーロッパ列強が攻撃してくる可能性が強い。その場合、ロシア得意の要塞戦に持ち込むとしても、側面支援としての艦隊は必要である。しかし、艦隊がなく、ダーダネルス、ボスポラス海峡を押さえられて黒海に他の海域からの回航が不可能な場合、一体、何ができるだろう。さらに黒海で軍艦を建造できるのはニコラエフのみであり、しかも近代軍艦の建造の経験を持たない。ために、サンクト・ペテルブルクで建造し分解の上、輸送するという方針 が立てられたので、可能な限り小型の船体であることが求められた。さらに、来襲艦隊に対抗するため強力な砲撃力、防御力が求められた。
これに対するポポフの回答がノヴゴロドであった。
最小の排水量で、巨砲を安定して使用できる船型。それが突飛とも言える円盤型であった。その避弾形状は理想的とも言えるもので、多少の被弾があっても貫通させることは難しい。しかも、安定性は抜群であり、その28サンチ砲の射撃に際しては、陸上からの射撃に近いものが期待できたと思われる。もちろん、運動能力は最低であり、水流により船体が旋回してしまうと言うことさえあったようだが、要塞の側面支援という目的ならば、こういう能力は切り捨ててもいいように思う。
戦艦大和は、その巨大さばかりが喧伝されるが、あの巨砲と重防御をあれだけの排水量に収めた点を重視すべきであると言う評がある。そして、そう言う設計を可能にしたものの一つとして、タライ船とも称された極端な幅広の船型が注目される。ノヴゴロドの場合は、時代、ならびに大きさの隔絶はあるが、 その先駆的な存在として注目することもできると思う。

1872年サンクト・ペテルブルクで起工73進水後黒海のニコラエスクに輸送され74竣工1903年解役11売却解体。

排水量2491トン、全長、全幅30.78メートル、喫水4.11メートル。
主機ベアード、水平複合往復動機関6基6軸3360馬力、速力6〜7ノット、石炭160トン
装甲(錬鉄)水線229-178、バーベット280-229甲板70ミリ 20口径280ミリ連装1基2門、86ミリ砲2門

(2003/12/26更新)
気球母艦ルス
1887年に建造されたドイツ汽船ランを買い取り改装したもの。
1901年に改装、1904年11月19日艦隊配備され世界で最初の航空運用艦となりました(ほんと?)
対日戦へ向かうバルチック艦隊への編入が検討されましたが、改装時の不具合により長期航海に耐え得ないと判断され却下。間も無く売却されてしまいました。
九つの気球を運用する本艦の偵察能力があればバルチック艦隊のその後も変わっていたかもしれません。

排水量9600トン、9500馬力、17ノット、各種気球9個 

ソビエト、ロシア海軍(現代艦)

(2003/8/17更新)
空母 アドミラル・クズネツォフ Admiral Kuznetsov
ソ連初の本格的空母で、崩間近の1991年1月に就役しました。ソ連の崩壊後はいうまでもなくロシア海軍が保有しています。
本艦は米海軍の空母とは異なり、アングルド・デッキとアレスティング・ワイヤは装備しているもののスチームカタパルトは搭載されていません。
カタパルトの代わりに艦首の14度のスキージャンプを利用してCTOL機を離艦し、アレスティング・ワイヤを用いて着艦する世界初のSTOBAR(Short Take Off,But Arrested Recovery)空母となっています。
しかし、財政難の為か他のロシア海軍大型艦同様、本艦の活動は極めて不活発でこのSTOBAR形式による実績のほどは明らかではありません。
また、固有兵装としてCIWSなどの近接防御兵器を中心とした対空兵装が多数搭載されていますが、前部飛行甲板下にSS-N-19対艦ミサイルの発射筒12本が埋め込まれているのが大きな特徴と言えます。
このミサイル発射筒のおかげで格納庫が削られているため、艦載機の搭載数は米空母と比べて著しく少なくなっていて、
搭載機はSu-33(27K)フランカーとYak-25フロッグフット攻撃機などCTOL機が計20機、Ka-27へリックスなどヘリコプターが15機の構成となっています。
おそらくこのクラスは米空母のような航空攻撃を目的としたものではなく、ミサイルによる攻撃を主としてなおかつ艦隊直掩能力を持った、空母というよりは巡洋艦として設計されたものと思われます。
事実、ロシア海軍のホームページ上では「Aircraft Carrier Cruiser」(航空巡洋艦?)として紹介されていることからもそれが伺えます。
なお、本級の2番艦であるワリヤーグ Varyag は艤装半ばで放棄され、2001年に中国へ「レジャーランド用」として売却されています。

(2007/4/1更新)
「キエフ」級 重航空巡洋艦

(2007/4/1更新)
「キエフ」級 重航空巡洋艦 バクー

(2006/2/12更新)
(2006/7/5更新)
キーロフ級 原子力ミサイル巡洋艦

(2006/3/5更新)
キンダ型ミサイル巡洋艦

(2006/2/15更新)
クレスタT型ミサイル巡洋艦

(2006/2/15更新)
クレスタII型ミサイル巡洋艦

(2006/2/21更新)
カーラ型ミサイル巡洋艦

(2006/2/21更新)
カーラ型ミサイル巡洋艦 アゾフ(Azov)
カーラ型の4番艦アゾフは、当時開発されていたSA-N-6艦対空ミサイルの実験艦として使用されました。
後部にVLSを6基備えており、後部の誘導レーダーは"トップ・ドーム"に変更されています。
なお、本艦で実験後SA-N-6はキーロフ級とスラヴァ級で採用されました。

(2006/2/12更新)
スラヴァ級ミサイル巡洋艦

(2006/5/10更新)
カシン型ミサイル駆逐艦

(2006/6/8更新)
カシン改型ミサイル駆逐艦

(2006/3/17更新)
ソブレメンヌイ級ミサイル駆逐艦

(2006/3/17更新)
ウダロイ級ミサイル駆逐艦

(2007/4/1更新)
カニン型 ミサイル駆逐艦

(2007/4/1更新)
キルディン改型 ミサイル駆逐艦

(2007/4/1更新)
コトリン級駆逐艦

(2007/4/1更新)
コトリンSAMミサイル駆逐艦
後部の魚雷発射管と砲を撤去し、SA-N-1 Goa SAMの連装発射機を備えています。

1960年代前半に"ブラヴィ"で試験が行われた後、他8隻が改装されました。

(2003/1/15更新)
658号級弾道ミサイル原子力潜水艦
プロジェクト658、NATOコードでホテル型と呼ばれるこの潜水艦はソ連初の弾道ミサイル(SLBM)原子力潜水艦である。搭載ミサイルはSS-1B(R11)スカッドScudミサイルをベースにしたSS-N-4(R11FM)SLBMで、全長13.72mに達するこの2段ロケットを収容するため船体内からセイルに達する3基の垂直発射筒を装備していた。この射程1200kmのSLBMを発射するためには、一々浮上する必要があり、浮上から全3弾を発射するまでに12分を要した。このため、1958年から62年にモロトフスク(現在のセヴェロドヴィンスク)の第402海軍工廠で竣工した8隻全艦が1963-7年に水中発射可能のSS-N-5(R21)にミサイルを改められた(プロジェクト658M、ホテルII型)。どちらのミサイルも不安定な液体燃料を使用しており、ソ連の第1世代原子力潜水艦(HEN)の原子炉冷却系の欠陥のため、非常に危険な潜水艦であったと言われる。
水上排水量4030t、水中排水量5000t、全長114.1m、全幅9.2m、喫水7.31m、VM-A加圧水型原子炉2基2軸、39200馬力、速力18ノット(水上) 、26ノット(水中)、533mm魚雷発射管x4(艦首)、406mm魚雷発射管x2or4(艦尾)、魚雷16、乗員128名、最大潜航深度300m(安全深度250m)
1番艦K19は、1958年10月17日に起工、59年8月8日進水、60年11月12日に就役し北洋艦隊に編入された。映画(未見)になった事故は61年7月4日、北大西洋での演習中に起きたもので、全乗員が被曝、22名が死亡している。生存者はディーゼル潜水艦に移乗、船体はコラ半島に曳航され、62-4年に原子炉を交換して再就役した(旧原子炉は核燃料を搭載したまま65年にカラ海アブロシモワ湾に投棄された)。しかし、69年11月15日、アメリカ潜水艦(SSN615)と衝突、74年2月24日、同艦はカナダ、ニューファウンドランド沖で火災事故により核魚雷が損壊、乗員28名が死亡、91年4月6日には原子炉の事故により10名が死亡と度重なる事故を起こし、K19はHiroshimaと仇名されることになる(未亡人メーカーと呼ばれたかどうかは不明)。
1966年、同級のK145は船体を大型化してSS-N-8(RSM40)にミサイルを換装(プロジェクト701、ホテルV型)、77年、K40はミサイル・シ ステムを撤去して通信艦に改造された。北洋艦隊に配備されていたK16、19(!)、33、149の4隻はSALTの規定によりミサイル・システムを封鎖、太平洋艦隊のK55、178もミサイル・システムを撤去して攻撃型原子力潜水艦となった(プロジェクト658T)。88-90年に北洋艦隊の3隻は除籍され、太平洋艦隊の2隻も退役、91年、最後まで残ったK19(!!)も除籍されたが、2001年現在、全艦、いまだ解体されずにいるようである。

(2008/3/10更新)
原子力攻撃潜水艦アクラ型

(2006/2/2更新)
衛星追跡船 コスモノート・ユーリー・ガガーリン

(2002/11/12更新)
ホバークラフト型揚陸艇 グス(Gusu) 型
ソ連海軍初の実用型ホバークラフト。小型のためランプは備えず、車輌搭載能力は無い。

(2002/11/12更新)
ホバークラフト型揚陸艇 レベッド(Lebed) 型
ソ連海軍の中では中型のホバークラフト揚陸艇で、イワン・ロゴフ級のドックに収容するため、船体はコンパクトにまとめられている。

(2002/11/12更新)
ホバークラフト型揚陸艇 アイスト(Aist) 型
ポモルニク型に次ぐ大型のホバークラフト。

(2002/11/12更新)
ホバークラフト型揚陸艇 ポモルニク(Pomornik) 型
ソ連海軍最大の、大型ホバークラフト。

補助艦艇スケール(ロシア)

(2005/5/12更新)
駆逐艦Boiki級「べドウィ」(補助艦艇規格)

(2005/6/7更新)
駆逐艦Boiki級「グロームキー」(補助艦艇規格)