艦船_etcアイコン
| 解説協力:F4Uさん. まなかじさん. hushさん. A-140さん. 舞沙Pさん. 天翔さん. GUTSさん. サバニさん. zonoさん. RNさん. |
イタリア
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(2003/8/11更新) | 戦艦ダンテ・アリギエリ(新造時) |
(2003/8/15更新) (2003/8/22更新) | 戦艦 カイオ・デュイリオ Caio Duilio
大改装後(1940)- カイオ・デュイリオ級戦艦2隻は第一次世界大戦の直前、1911年計画により建造されたイタリア弩級戦艦の第3陣です。基本的には前級にあたるコンテ・ディ・カヴール級の副砲強化型で、45口径152mm砲を16門装備しています。46口径305mm主砲(実際は304.8mm)は連装、3連装主砲塔混載方式を踏襲し、イギリスのエジンコートの14門に次ぐ13門を確保しています。甲板部がやや薄くなった以外は、装甲は前級と同様に弱く、幅の狭い舷側装甲帯は最大で250mmしかありません。ボイラーがヤーロー水管式に変更されていますが、重油専焼8基、重油石炭混焼12基という構成は変わっておりません。パーソンズ歯車減速式タービン1基の高圧、低圧タービンをそれぞれ中央の2軸に分けた3基4軸と言う点でも同一ですが、機関出力が若干低下した関係で0.5ノット低下し21ノットとなりました。全体として、砲数以外は目立った特徴もなく、超弩級、超々弩級戦艦と世界の趨勢が変化していく中で、急速に陳腐化し、忘れられた存在になるはずでした。
事実、1932年には2隻とも予
備艦となり、代艦建造のために廃棄されると予想されていましたが、1933-7年のコンテ・ディ・カヴール級2隻に引き続き、大規模な近代改装が行われることになり、一躍、脚光を浴びることになります。この1937年に開始された近代改装は前級と同様、艦首の延長、機関の換装と上部構造物の一新を含み、兵装を全面的に改めると言う新造に等しいもので、1934年に起工された新戦艦ヴィットリオ・ヴェネト級の設計をさらに取り入れたものになっていました。主砲は中央の第3砲塔を撤去した関係で3連装、連装各2基となりましたが、内筒を交換して43.8口径320mm砲となり、仰角を30度と10度増やして射程を29400mと約5km延伸(カヴール級は27度、28600m)、副砲もカヴール級の120mm連装6基を135mm3連装4基に強化して前部に集中配置となります。機関部はヤーロー水管式重油専焼ボイラー8基、ベルッゾー歯車減速式タービン2基2軸となり、出力86300軸馬力とオリジナルの32000軸馬力の3倍弱に強化、船体の延長もあって27ノットの高速戦艦となります。 1940年6月、イタリアが参
戦した時、しかし、同級2隻は艤装中でした。新鋭ヴィットリオ・ヴェネト級も建造中でしたので、こと海軍に関しては、燃料確保の問題も含め、準備不足のまま戦争に突入したことになります。ようやくカイオ・デュイリオが同年7月に、アンドレア・ドリアも同10月に工事を完了しましたが、それもつかの間、同年11月のイギリス空母イラストリアスのタラント空襲でデュイリオが魚雷1本を受けて擱座、41年5月中旬まで行動不能となります。以後、イタリア艦隊の行動は極端に不活発となり、42年夏には燃料不足から両艦とも解役され、乗員はより緊急度の高い護衛艦艇に転属されることになります。翌43年5月、北アフリカでの戦闘が終了したことから、来るべき本土決戦に備えて両艦は現役復帰しますが、艦隊決戦のためではなく単なる移動砲台として2ヶ月間かけて整備されます。そして、9月9日、休戦によりタラントを脱出した2隻は翌日マルタ島へ到着、44年6月、奇跡的な脱出に成功した前級のカイオ・ジュリオ・チェーザレとともに復帰するまで抑留されます。 戦後、チェーザレは賠償艦としてソ
連へ譲渡されましたが、デュイリオとドリアの2隻はイタリア海軍に残り、デュイリオは47年から49年まで海軍旗艦を務め、56年、両艦とも除籍後解体されました。竣工後、実に40年目のことでありました。 その後、この2隻の艦名は世界初のヘリコプター・ミサイル巡洋艦の艦名として採用され、現在、2007年竣工予定で計画中の空母の艦名にアンドレア・ドリアが予定されています。 |
(2002/9/3更新) | 戦艦ヴィットリオ・ヴェネト |
(2002/9/6更新) | 水雷艇スピカ
(1934)- イタリアもロンドン条約には参加しなかったものの、やはりフランスと同様に制限外スペックの軍艦を作っています。
基準排水量620トン(ただし各艦により若干異なる)、全長80.4メートル、全幅8.2メートル(条約制限外といいつつ、フランスもイタリアも600トン超えちゃってたりします。千鳥が性能改善後も600トンに収めているのはエライ!?) 兵装:10センチ単装砲3基、40ミリ連装機銃2基、45センチ単装魚雷発射管4基、機雷28個など。 トージ式ギアードタービン2軸 19,000馬力で速力34ノット
同型艦32隻のうち、スピカとアストーレは1940年スウェーデン海軍に売却され、それぞれ駆逐艦ロムルスとレムスと改名しました。そしてかの地で永年つとめあげたのち、58年に解役されています。多数建造されただけあってイタリア水雷艇(つーか、海軍??)の中核として活躍し、英軍艦艇とまともにドンパチやって沈められたものが少なくありません。このあたりの戦記を掘り下げると、弱い弱いと言われるイタリア海軍の奮闘ぶりが出てきたりしそうで面白いんじゃないかと思
うんですが、今回ちょっと間に合いませんでした。43年のイタリア降伏時にナチへ接収されたものなどもありましたが、7隻が第二次大戦を生き残っています。最後に残ったリブラとサジタリオが退役したのは64年のことでした。 ちなみに舷側に書かれているのはスピカの略称「SP」です。 |
(2006/8/10更新) | 潜水艦アデュア級「シレ」- 1920年代後半よりイタリア海軍は800〜900t級と1.000t超の二本立ての潜水艦を建造、順調にその勢力を伸ばしてきました
1932〜33年に就役した中型潜水艦”アルゴナウタ級”はその中型潜水艦の5番目のクラスで、従前のサドルタンク式の単殻船体を持つものの船体を小型化して650tに納め高い実用性を得ました。以降、中型潜水艦は”600型(排水量による)”と呼ばれるアルゴナウタ級の改良型が続々建造、その数59隻に達し潜水艦戦力の中心となりました アデュア級はその4番目のクラスで最多の17隻が建造(他にブラジルに輸出されたもの3隻)、地中海を中心に活躍しました。当然ながら損害も多く16隻が失われました
アイコンはマイアーレ搭載艦に改造された”シレ(Scire)”です。1940年当時の姿でマイアーレは艦橋前部に1基、後部に並列に2基搭載されています。また、1941の襲撃の際には艦橋構造の小型化など変化があったようです 本艦は1941年9月のジブラルタル港襲撃、12月のアレクサンドリア港襲撃に活躍、英
戦艦2隻大破など輝かしい戦績を上げましたが1942年8月のハイファ港襲撃の際、英艦隊に補足され撃沈されました
主な要目 排水量(水上/水中)680/844t 60.2m*6.5*4.7m 出力(水上/水中)1.200/800hp 速力(水上/水中)14/7.5kt 10cm砲*1 53.3cm発射管*4(艦首)*2(艦尾) |
オーストリア
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(2003/10/19更新) | 戦艦フェリブス・ウニテス- 二重帝國最初にして最後の弩級戦艦。
本級はアドリア海を挟んだ向こう岸イタリア海軍が弩級戦艦を整備するのに刺激され計画され、さらに伊弩級艦ダンテ・アリギエリの公式発表と共に主砲数を増加する改設計が行われました。 この迅速な改設計はピルゼンのスコダ社がこれまた露西亜初の弩級戦艦ガングートの三連装主砲塔計画に参画していた事により可能となったものです。 計画・設計・着工・進水は伊ダンテ・アリギエリが先行したものの竣工は本艦が一ヶ月早かったため、イタリアより弩級艦整備に先んじたのみならず世界最初の三連装砲塔艦と言う栄誉まで手に入れました。また背負い式配置の採用で世界の弩級艦中最も全周斉射能力に優れた艦となりました。 同計画はかなりの期待をされていたため1909年にはアルフレッド・フォン・クーデルカ大佐が独逸戦艦技術研究のためベルリンに派遣され、水線下に交通扉を設けると浸水を早める事や水雷防御等の成果を持ち帰ります。が、主任設計者ジークフリート・ポッパ
ーはこれを待たず設計を終えてしまったためこれが文字通り不死身のジークフリードの弱点となり、同級4隻の内ネームシップを含む2隻が水中攻撃によって沈められる事となったのです。 |
スウェーデン
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(2003/8/15更新) | 海防戦艦スヴェリエ(1917)- 19世紀末から20世紀はじめにかけて、バルト海沿岸諸国で海防戦艦という独特の艦種が建造されたことはよく知られているところでしょう。その背景には、ド級艦や超ド級艦を建造できるほど国力がなかったり、バルト海にあわせて喫水を浅くしなくてはいけなかったりといった事情がありました。多くは数千トンクラスの排水量に対して比較的大口径の主砲と強力な装甲を持っていました。その中で、もっとも後期に建造され、かつもっとも有力だった艦がこれでしょう。
基準排水量7,275トン、全長120メートル、全幅18.6メートル 機関:カーチス直結タービン20,000馬力、速力22.5ノット 兵装:28.3センチ連装砲×2、15.2センチ連装砲×1、同単装砲×6、7.5センチ砲×4 舷側装甲最大203ミリ
艦名のスヴェリエとはスウェーデンそのものを意味します。当初は第一次大戦前の建艦競争期だったこともあってか、8隻計画されましたが、大戦後のドイツやロシアの体制崩壊にともない3隻のみ完成しました。 ついでにいえば、
ドイツのポケット戦艦ドイチュラント型について、ベルサイユ条約の無茶苦茶な制約内で建造された、独特の通商破壊艦のような言われ方をされることがありますが、こうした仮想敵に対抗してつくられたという事情を考慮すれば必要十分なスペックだったことが理解できると思います。むしろ北欧諸国にとってはポケット戦艦こそ非常に脅威であったやもしれません。 |
(2003/8/15更新) | 海防戦艦グスタフV世(1945)- グスタフV世はスヴェリエ級海防戦艦の3番艦として1922年に竣工しました。
1番艦のスヴェリエの機関がパーソンズ直結タービンの4軸だったものが、2番艦のドロットニング・ヴィクトリア以降ウェスティングハウス製ギアードタービンの2軸となり、出力が22,000馬力、速力は23.2ノットに向上、航続距離も14ノット2,720海里だったのが3,280海里に延伸しています。また、砕氷能力が加えられた関係で艦首形状も後の2隻ではスヴェリエと異なっています。
スヴェリエ級の各艦は1930年代に近代化改装を受け、前檣楼はパゴダマストに近い形状となり、後檣を撤去したほか、艦橋前の副砲塔を撤去し、7.5センチ高角砲を設置するなど、対空兵装を増備します。さらに、スヴェリエは前部煙突を改装前の長門のような屈曲型の誘導煙突に、グスタフは一本の集合煙突化となり、ドロットニングは従来のままの直立二本煙突と、それぞれが全く異なった形に生まれ変わりました。 グスタフV世には第二次大戦中の45年にレーダーが整備されますが、
こちらの絵ではアンテナらしいものが射撃指揮装置のところに付いているので、おそらくその直後の姿だと思われます。
スヴェリエ級3隻は索敵および弾着観測用の航空巡ゴトランドと戦隊を組み、両大戦間から第二次大戦中にかけて、バルト海においては侮ることのできない存在として君臨します。スウェーデンが中立を維持し続けられた裏には、この戦隊と、不沈空母とも言われたゴトランド島の航空基地の存在意義が少なくなかったとも言われます。
戦後はスヴェリエとドロットニングが相次いで47年に予備役となったのに続き、グスタフV世も48年に予備役となりました。57年の除籍後、他の二艦が早々に解体されたのに対し、グスタフは長らく係留されたまま兵舎兼海軍工科学校練習艦として使用され、記念艦として保存する運動も起こりましたが、70年に売却解体されました。 |
(2003/8/11更新) | 航空巡洋艦ゴトランド(1938)- 航空巡洋艦として建造された歴史上唯一の艦(旧ソ連から中国に売り飛ばされた連中とか、ハリヤー載っけてる女王陛下のフネとかはどうなんだ、というツッコミを入れないように)。ここでの姿は資料によると1938年となっています。
あまりなじみのない艦かとも思われるので、要目もアップしますね。 基準排水量4,750トン、全長134.8メートル、全幅15.4メートル、吃水5.5メートル 機関ド・ラヴァル式ギアードタービン33,000馬力、速力27.5ノット 兵装、15.2センチ連装砲×2、同単装×2 7.5センチ高角砲連装×1、同単装×2 53センチ三連装魚雷発射管×2 機雷100個 搭載機×6
水上機搭載艦の定番である哨戒索敵と主力艦の弾着観測のほか、平時に練習艦として遠洋航海にも従事し、有事の際には機雷敷設能力も持つというきわめて広い用途を考慮した艦です。中小海軍ならではですね。1934年に竣工しスウェーデン海軍の中核を担うなかで、1941年5月にはかの「巨大戦艦」ビスマルクのライン演習出撃に触接するという功績を挙げます(
中立国でしたが)。 搭載機は艦内に3機、露天に8機の最大計11機搭載できましたが、実際に配備されたのはホーカーオスプレイの水上機型6機でした。しかしやがて年代を経るにつれて代替機の都合がつかなくなってしまいます。零式水偵か零観か、瑞雲でも売ってあげられればよかったのかもしれませんね。 で、44年には後部の作業甲板部に40ミリ機銃を満載した防空巡洋艦に改装されます。なんと言ってもボフォース社の地元ですから。戦後の55年には防空管制艦となり、1960年に退役しました。 |
スウェーデン海軍(現代艦)
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(2003/10/13更新) | ステルスコルベット「ヴィスビー」- 完全ステルス性をねらったデザイン、熱の排出を極小化する排気部、磁気機雷に対応するためのカーボンファイバーとプラスチックの複合材による船体など、斬新なアイディア満載で、文字通り新世代の軍艦です。2001年暮れに完成したのち、目下各種テスト中で、就役は2004年ないし05年になるとのこと。
基準排水量600トン 速力35ノット。兵装は57ミリ単装砲×1、RBS-15対艦ミサイルランチャー、ELMA/m83対潜ミサイルランチャー、機雷など。 なお、この絵ではマストが立っていますが、航海時には収納されます。 |
フィンランド
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(2003/8/15更新) | 海防戦艦イルマリネン(1934)- イルマリネンとはフィンランドの国民的叙事詩カレワラの登場人物で、賢者ヴァイナモイネンの相棒的存在。偉大な鍛冶師で世界を鍛造して造り上げたとされています。また、古来気象と海路の神として崇敬されていたそうです。
基準排水量3,900トン、全長93メートル、全幅16.9メートル 機関:ゲルマニアディーゼル電気推進874馬力×4、速力16ノット 兵装:25.4センチ連装砲×2、10.5センチ連装砲×4 舷側装甲最大55ミリ 同型艦ヴァイナモイネン
見てのとおり全長の短いタライ船です。どっちが前かよくわからん形ですが、砕氷能力を重視して機関もディーゼル・エレクトリックになってるので、後進も楽なはず(笑)。 基準排水量3,900トンに対して満載排水量が4,000トンというところが沿岸海軍らしくて笑えます。ディーゼルとはいえ満タン100トンに満たない積載燃料でどれだけの航続距離があったのか手元の資料では不明。ただ、ヴァイナモイネンが1937年の英国王ジョージVI世戴冠記念観艦式に参加したとき(
重巡足柄が「飢えた狼」といわれて注目を集めたというアレです)、スウェーデンのスヴェリエ級海防戦艦ドロットニング・ヴィクトリアにスピッドヘッドまで曳航していってもらわなければならなかったほどですから、推して知るべしです。まあ、そのひとつには外洋航行能力を思いきって切り捨てたこともあるでしょう。実際、やっとこさ参加できた国際観艦式では、バルト海での運用に完全に特化したデザインと、その洗練されたスタイルとで関係者に強烈な印象を与えたとのこと。 その後は両艦とも対ソ連の冬戦争と継続戦争中には対空砲台として貢献しますが、イルマリネンは1941年9月、バルト海北部でソ連軍の敷設した機雷に触雷して沈没。ヴァイナモイネンは両戦争を戦いぬき、賠償艦としてソ連に譲渡されます。その際ヴィボルグと改名して60年代まで使用されたのち、68年に解体されました。 |
デンマーク
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(2003/8/21更新) | 装甲艦ニールス・ユール(1943)- 基準排水量3,800トン、全長90メートル、全幅16.3メートル
機関:レシプロ5,500馬力、速力16ノット 兵装:15センチ単装砲×10、57ミリ高角砲×4など 舷側装甲最大195ミリ
このフネも寸詰まりのタライ船系です。4,000トンクラスなのに全長90メートルしかない。でも、何ともいえぬ味わいがあって、図面は1923年の就役時のものしか見つからなかったんですが、側面の写真数点をもとに改装後の姿を描いてみました。
当初は1901年竣工のヘアルーフ・トロール級(基準排水量3,505トン、24センチ単装砲2門)を改良して30.5センチ単装砲2門を搭載する艦として計画されました。それが実際には15センチ砲10門で建造されたので、海防戦艦というより海防巡とでもいうべき艦です。ただし機関は石炭混焼のレシプロで、最大16ノットしか出ないというのがステキ。 1923年5月に竣工。練習艦として遠航に出向いたほか、王室の御召艦としてもたびたび出航しています。36年には近代化改装を受け、前檣を大きく変えたほか、
対空兵装を増備しました。 40年の対独降伏後も存続を許されていた海軍が、43年8月ドイツに接収されることになった際、脱出可能な艦はスウェーデンに向けて脱出を試み、不可能な艦は自沈しました。 ニールス・ユールは脱出組に加わりましたが、独軍機の攻撃を受けて擱座。就役以来デンマーク海軍の象徴的存在でしたが、奇しくもこれによってデンマーク海軍の悲劇をも象徴する艦となってしまいました。ドイツ占領下では艦首側面に国籍マークを入れていたようなので、今回その最終状態で描いています。 44年には浮揚され、ドイツ海軍練習艦ノルトラントとして使用されます。そして45年5月、連合軍の爆撃により再び沈没。52年に解体されました。 |
トルコ
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(2002/9/10更新) | 巡洋戦艦ヤウズ・スルタン・セリム |
ギリシャ
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(2007/4/1更新) | 戦艦"キルキス級(Kilkis class)”-
20世紀初頭ギリシャは、エーゲ海を挟み対峙するトルコ海軍の増強に対抗するため逐次海軍力強化を図りました 手始めに1909年にはイタリアより建造中のピサ級装甲巡洋艦を購入しましたがトルコは1910年、旧式ながらドイツからブランデンブルク級戦艦2隻を取得、さらに英国に超ド級戦艦2隻を発注(後に1隻追加),ギリシャはドイツに超ド級戦艦1隻を発注しました。一方トルコはブラジルが建造途中財政難で放棄した”リオ・デ・ジャネイロ(後の英エジンコート)”の取得を計画、これは1914年中に就役が予想されギリシャが新戦艦を取得できる1915年半ばまでは大きく軍事バランスがトルコ側に傾くこととなりました。憂慮するギリシャは急ぎフランスに超ド級戦艦を追加発注、加えて速やかに戦力化できる戦艦として米国内で持て余されていたミシシッピ級2隻を取得、それぞれ”キルギス””レムノス”と命名、トルコに新戦艦が到着するより早く1914年7月に引渡しを受ける事が出来ました。 しかし翌8月に勃発した第一次世界大戦により状況は一変、トルコが英国に発注していた3
隻のうち2隻は英海軍に引き渡され(1隻は建造中止)、ギリシャがドイツに発注していた1隻は米製主砲の取得ができず建造中止(完成したとしても独海軍が使用したでしょうが)、フランスも他国の戦艦どころではなくなってしまいました。 開戦直後ドイツから巡洋戦艦ゲーベンの引渡しを受けたトルコはドイツ側にたって参戦、トルコの脅威は英仏が引き受けることとなりました。ギリシャは1917年まで中立を守りその後も大戦中はその艦隊が活動する必要は生じませんでした 第一次大戦後は長らく海防戦艦として活動しましたが1932年以降は士官候補生の訓練任務などに就き1937年以降予備艦となっていました 両艦は1941年4月ドイツ軍のギリシャ侵攻により急降下爆撃を受けサラミス湾に大破着低、一部の装備は引き揚げられドイツ軍に利用されたようですが船体は戦後まで放置されました。 |
オーストラリア
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(2004/11/8更新) (2004/11/24更新) | カウンティ級重巡「キャンベラ」- この艦、第一次ソロモン海戦で、日本第八艦隊の総攻撃を真っ先に食らって沈んでいった重巡である。
このカウンティ級は条約型重巡ではあるが、通商護衛を行うために長い航続距離と高い居住性を要求されたため、主砲は8インチ8門、舷側防御装甲は1インチ(ただし弾薬庫防御だけは4インチ)という、日米の同種艦よりは攻防においてはやや劣った性能の艦として完成した。 さすがに第二次大戦時には、各艦とも装甲強化、対空火力強化などの改装が施されている。
今回アイコンを描くに当たって、その元とした図面からは詳しい年代などは分からなかったが、対空砲が初期装備の単装砲であることなどから、竣工直後〜戦前のものであると思われる。
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(2004/11/26更新) | 軽巡洋艦ホバート(1939)- この「ホバート」が属する「パース」級は、もともと英国の条約型軽巡だったものを、豪州海軍に移籍したものである。
「パース」級は基本的に英国「リアンダー」級の準姉妹艦であるが、大きな違いとしては機関配置が異なるため(損害発生時の被害極限のため)、「リアンダー」では一本だった煙突が「パース」級では2本になっている。 同級艦のうち、ネームシップの「パース」はABDA艦隊の主力として活躍するも、バタビア沖海戦で沈没。3番艦の「シドニー」は日米開戦前に仮装巡洋艦との交戦で沈没。 一方、この「ホバート」は比較的強運?で、珊瑚海海戦に参加したのち、第一次ソロモン海戦では、主戦場から離れた場所にいたため無傷。1943年に日本潜水艦の雷撃を食らい、4番砲塔付近が大被害を受けるも致命傷には至らず、終戦まで生き延びることができた。
なお中部甲板に乗っている飛行機は、ホーカー・オスプレイ(のつもり)です。 |
満州
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(2002/9/20更新) | 砲艦
定邊 |
タイ
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(2002/12/22更新) | 海防艦
スリ・アユタヤ(SuriAyutthaya)- スリ・アユタヤ級海防戦艦2隻は1926-30年に2隻がイギリスで竣工したラタナコシンドラ級装甲砲艦の拡大改良型として川崎造船所で建造された。2265トンの小型艦であったが、50口径200ミリ砲を連装砲塔収め、前後に各1基を装備していた。この砲は203mm砲に換装された結果、不要になった日本、古鷹、妙高級重巡洋艦の200mm砲の再利用で、廃棄される予定だった砲弾とともに輸出された。
1936年1月12日、同一船台で同時に起工されたスリ・アユタヤとその姉妹艦トンブリは38年に竣工した。1941年7月17日、水雷艇3隻とともに出動した両艦は、コーチャン諸島沖のタイ湾で軽巡洋艦ラモット・ピケ等からフランス極東艦隊と遭遇、2時間の交戦でトンブリと水雷艇2隻が沈没、残余の艦も大破した。 同年後期に2隻は修理のため日本に送られたが、途中でトンブリが沈没、スリ・アユタヤのみが残ったが、同艦も1951年の革命の際に陸軍の砲撃を受けて沈没した。両艦とも浮揚後解体されたが、トンブリの船体は記念艦として海軍兵学校で陸上保管されている。
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(2003/8/5更新) | タイ王国海軍水雷艇
プーケット型- 1935年から37年にかけてイタリアで9隻が建造されました。1941年のコーチャン沖海戦でソンクリとチョンブリが沈没したものの、残る7隻は長らく現役にとどまり、76年から80年にかけて退役しました。
基準排水量318トン、全長68メートル、全幅6メートル、出力10,000馬力、速力31ノット 兵装:7.6センチ単装砲×3、46センチ魚雷発射管単装×2、同連装×2 |
清 中国 台湾
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(2002/12/2更新) | 装甲砲塔艦「鎮遠」- 鎮遠は清国北洋水師の定遠級露砲塔装甲艦2隻の2番艦です。1番艦と同じくドイツのフルカンVulcan社ステッチンStettin(現在のポーランド、シチェチン)造船所で1882年3月起工(恐らくは81年12月28日に進水した定遠と同じ船台で)、82年11月28日進水、84年3月公試を実施し7200馬力で15.4ノットを記録(定遠は6200馬力14.5ノット)85年11月竣工し中国に回航され北洋水師の主力となります。
この北洋水師は清国の予算によって建設されていますが、同国の実力者李鴻章LiHung-changの私設軍隊と言った存在でした。ために、1884年の清仏戦争で福建水師がフランス艦隊に撃滅された時にも、最大の兵力を持っていた北洋水師は出撃せず、見殺しにしています。艦は基本的に「遠」つまり異国を意味する一文字で終わる艦名を持っていました。定遠、鎮遠とは異国を平定する、鎮圧すると言う意味になります。これは、北洋水師の創立記念行事に参加したまま、こちらの方がきちんと給料をもらえると言う理由
で居残り、日清戦争にも参加した広甲、広乙、広丙等南洋水師の艦が「広」の字をつけていたのと好対照です。 定遠、鎮遠はドイツのザクセン級4隻の準姉妹艦で、満載排水量7670トン、全長308メートル、主機レシプロ2基2軸、25口径12インチ・クルップ砲連装2基4門、35口径5.9インチ・クルップ砲単装2基2門、乗員363と言う性能を有する東洋最大、最強の2隻でした。その主砲はシタデルCitadelと呼ばれる厚い装甲板で周囲を囲まれた砲塔の中に収められ、本来は厚さ1インチのフードによって上部も囲まれていましたが、視界の悪さを嫌って、日清戦争時には撤去されてむき出しのまま置かれていました(したがって、露砲塔艦です)。砲塔は艦首に2基とも集められ、前後にずれた形で左右に並べられていました。エン・エシュロンenechlonと呼ばれる、この互い違い配置は第1次世界大戦時のイギリス、ドイツの主力艦にも見られますが、首尾線方向を重視しつつも舷側方向にも火力を集中できるように考え出されたものです。定遠、鎮遠の場合は、186
6年のリッサ沖海戦により衝角(ラム)戦術が有効と認められたことにより、艦首方向に火力を集中しつつ、ある程度左右も砲撃できるようにした結果ですが、爆風の影響はなかったのだろうかと思います。 これを恐れた日本海軍は兵備の増強に努めますが、予算が認められず1893年計画でイギリスのマジェスティック級戦艦に範をとった富士と八島によってようやく圧倒できる艦を手に入れるわけですが、建造中に日清戦争が始まったため、戦争には間に合いませんでした。 対する清国は、両国間の緊張が高まっていたにもかかわらず1888年から戦争の始まるまでの6年間の間、1隻の軍艦も建造しませんでした。それどころか、西太后は李鴻章が用意した砲弾等の準備金を、当時、海軍予算に含まれていた土木建築費として流用、北京郊外に頤和園と言う庭園を建設します。これは満州出身の西太后が漢人である李鴻章の勢力が強まることを好まなかったからとも言われ、李鴻章も自らの地位を失うのを恐れて逆らおうとしなかったのです。 とは言え、北洋水師は充分に強力であり、
定遠、鎮遠は黄海海戦でその威力を遺憾なく発揮します。北洋水師は横に広がった単横陣、速力に勝る日本側は単縦陣で包囲するように攻撃、期待された三景艦の主砲は10発程度しか発射できませんでしたが、速射砲により200発以上を命中させます。しかし、両艦は沈まず、むしろ、その1弾は旗艦松島に命中、一挙に全乗員の3分の1に当たる96名を殺傷します。 何とか日本側は勝ちを拾うわけですが、威海衛に閉じ籠った両艦の存在は大きく、後の内閣総理大臣鈴木貫太郎率いる水雷艇が夜襲、定遠を大破させます。降伏後同艦は自沈、95年2月17日、鎮遠は日本に捕獲され3月16日艦艇籍に編入98年3月21日二等戦艦1905年12月12日二等海防艦となり11年4月1日除籍12年に売却されます。一説に、以前より具申されていた江田島の海軍兵学校大講堂の建設資金として、八重山、赤城等とともに売却されたとのことである。 |
(2005/10/21更新) | 台湾海軍ギアリング級駆逐艦「瀋陽(シェンヤン)」- 台湾海軍に譲渡された米ギアリング級駆逐艦のなれの果て。
艦齢60年に達しようとしているこの艦だが、徹底した近代化改装を行い、もはや船体以外は原型を留めていない。 主砲はOTOメララ76mmコンパクト、防空用にSM-1スタンダードを10発、対潜用にASROC、雄風II型対艦ミサイル4発、さらには近接防御用には40mm重機銃とCIWSを搭載。 武装だけ見たら現代のミサイルフリゲートと変わらない。
2005年7月現在現役のこの艦も、台湾海軍の近代化に伴いあと数年で退役するだろうが、それが平和裏に終わるよう、我々はただ祈るのみである。 |
(2007/4/1更新) | 中国海軍「ソブレメンヌイ」級 ミサイル駆逐艦 杭州 |
アルゼンチン海軍(現代艦)
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(2004/2/26更新) | 空母「ヴェインティシンコ・デ・マージョ(Veinticinco de
Mayo=5月25日)」- 1945年に就役した旧英海軍コロッサス級空母ヴェネラブルを48年にオランダに売却、カレル・ドールマンと改名され、55〜58年には近代化改装を受けてアングルドデッキとなったほか、艦橋部も大きく姿を変えました。1968年缶室事故の際に修理を断念したのを機に同年アルゼンチンが購入。未成のまま放置されていた準同型艦リヴァイアサンの機関を流用し、翌年、「5月25日」という同国の独立記念日を名付けられて就役しました。
満載排水量19,896トン 主機タービン2軸 40,000馬力 速力「公称」24.3ノット 兵装40ミリ機銃×7 搭載機 A-4Qスカイホーク×8、S-2Eトラッカー×4、S-61Dシーキング×4ほか
1982年4月27日、マルビナス島(フォークランド諸島)に英国機動部隊が接近しつつあるのを受け、アルゼンチン海軍はその全艦隊をもって第79任務部隊を編成、戦闘準備を整えました。そして5月1日深夜、空母ヴェインチシンコ・デ・マージョ搭載のS-2Eトラッカー哨戒機がマルビナスの北東、自艦から300カイリの距離の海域に英艦隊を発見します。
しかし主力のA-4Qスカイホークは夜間に発進しても着艦できないので、とりあえず間合いをつめて夜明けを待つことにしました。 そしてついに夜が明け、いざ攻撃隊発艦、かと思いきや、今度は無風のベタ凪のため能わず。じつのところ爆装のうえ燃料をフルにすると、攻撃機は所要の向かい風がなければ発艦できないという状況だったのです。というのも、本艦を購入した際に交換したボイラーが不調で、就役以来最大でも18ノットしか出なかった(ほとんど護衛空母並み!?)からだとか……。 そこでまずは間合いを詰めて風が出るのを待とうと、間隔が180カイリとなったところで、相手方のシーハリアーに発見されてしまいます。英軍側もこれは危ないと距離を200カイリにまでとって様子見の体勢へ。しかし、頼みの綱である風に恵まれることはついになく、司令官はやむなく帰投の指示を下します。 巡洋艦ヘネラル・ベルグラノを基幹とする支隊が唯一あとに残ったのですが、その日の夕刻、英軍原潜コンカラーの雷撃を受けてベルグラノ沈没。以後アルゼンチン艦隊は軍港に引き籠もってしまいます。
こうして、第二次大戦以来最初で最後(?)の空母機動部隊同士の決戦の機会は永遠に失われてしまったのでした。
その後、せっかく購入したシュペル・エタンダール攻撃機も運用できない体たらくを何とかせねばと主機の更新を目指した近代化改装に着手しますが、相変わらず財政が火の車状態で中断。結局そのまま2000年にインドに売却されて哀れスクラップとなり果てました。 |
(2004/2/9更新) (2004/2/15更新) | 巡洋艦ヘネラル・ベルグラノ(1982)- 1938年、米国海軍軽巡ブルックリン級の5番艦フェニックスとして竣工。真珠湾攻撃の際に港内に在泊中でしたが、大きな損傷は受けませんでした。のちにスリガオ海峡夜戦でオルデンドルフ隊の一隻として参加。大戦後の46年予備役に編入され、51年には同型艦ボイスとともにアルゼンチンに売却、ディエシエテ・デ・オクトゥーブレ(10月17日)と命名されました(ボイスはヌエヴェ・デ・フリオ=7月9日。1816年アルゼンチン独立宣言起草の日──しかし日付を艦名にするのがの好きな国だ──)。56年、当時のペロン大統領が失脚退任したのにともない、ヘネラル・ベルグラノ(General
Bergrano)と改名されます。
基準排水量10,800トン 主機パーソンズ式ギアードタービン100,000馬力4軸 速力32.5ノット 主な兵装は15.2センチ砲三連装×5、12.7センチ単装高角砲×8、40ミリ連装機銃×2、シーキャットSAM×2 ヘリコプター×2など。米艦時代との相違点は、船尾のカタパルトの撤去、バルジの追加、マストの形状などが主なものです。 フォークランド紛争序盤の82年5月2日、本艦は英軍の宣言によるフォークランド諸島周辺200カイリの封鎖海域の外縁を護衛の駆逐艦2隻と共に航行中でした。15.2センチ主砲15門の威力と、現代艦にしては厚い装甲を脅威と感じた英派遣機動部隊司令部が、本国に攻撃許可を要請しており、これが認められてかねてより触接中だった英攻撃型原潜コンカラーが魚雷3発を発射、うち2発が艦首と艦中央部に命中しました。封鎖海域外だったためベルグラノ側は戦闘配置についておらず、適切なダメコンもできないまま沈没、321名が艦と運命を共にしました。アルゼンチン側で一度に出た犠牲者としてはこれが最大となっています。 |
(2004/4/28更新) | 通常動力型潜水艦サン・ルイス(San
Luis)- 旧西ドイツIKL社が輸出用として開発した209型潜水艦をサルタ(Salta)級として2隻購入、ノックダウンで組み立てて1974年に竣工させたもの。209型には大まかに分けると6種の派生型があり、トルコの14隻、韓国の9隻などをはじめ、これまでに14か国で50隻以上発注されています。
排水量:水上980トン/水中1,230トン 主機MTUジーメンスディーゼル4基5,000馬力、ジーメンス電動機1基3,600馬力 1軸 速力:水中22ノット/水上10ノット 兵装:53.3センチ魚雷発射管8門
フォークランド紛争当時アルゼンチンに在籍した潜水艦はこれらの2隻の他、米国から譲渡されたガピー型が2隻ありました。そのうち一隻のサンタ・フェはサウスジョージア島で英軍のリンクス・ヘリからのシースクアミサイルの攻撃により大破擱座し、もう一隻は故障のため出撃できず、またサルタも一度は出撃したものの雑音発生のトラブルを抱えて帰港します。 その中でただ一隻奮戦したのがこのサン・ルイス。三度にわたって英機動部隊の攻撃をこころみますが、ドイツ製の魚雷はなぜかすべて不
発で、戦果を挙げることはできませんでした。逆に一度は英直衛部隊の執拗な反撃を受け、20時間後にようやく脱出したこともあったといいます。とはいえ、その後も常時対潜ヘリ4個飛行隊をもって哨戒にあたらなければならなかったところをみると、英軍もかなり翻弄されたという意味で、その貢献度は大きなものがあったといえるでしょう。 サルタは88年から、またサン・ルイスは91年からそれぞれ近代化改装に着手。サルタの方は96年に完了しますが、サン・ルイスの方は中止されたのち、そのまま廃棄されてしまいました(どこかで聞いたような話だ;笑)。 |
(2004/2/9更新) | 哨戒艇アルフェレス・ソブラル- 元は1944年に就役した米国海軍のソトヨモ級特務航洋曳船サリシュ(ATA-187)で、1966年からコーストガード所属となったのち、1972年に解役され、75年にアルゼンチンへ売却されました。同様にアルゼンチンに譲渡され、哨戒艇となった同型艦が他に5隻あります。
基準排水量689トン ディーゼル電気推進1,500馬力 速力12.5ノット 兵装は40ミリ機銃1門など 開戦早々の5月3日、フォークランド島北方で撃墜された自軍機パイロットの捜索にあたっていたところに駆逐艦グラスゴーとコヴェントリーがそれぞれ搭載しているリンクスヘリコプターから発射されたシースクア対艦ミサイルが命中しました(どちらの搭載機が発射したものかは確認できませんでした。すみません)。上構は大破し、艇長以下8名が戦死したものの沈没はまぬがれて、後年しぶとく現役復帰しています。 |
(2004/2/26更新) | コルベット「ドゥルモンド」(ARA
Drummond)- 基準排水量1,100トン 満載排水量1,250トン 主機ディーゼル2軸 12,000馬力 速力24ノット
1978年フランス・ロリアン海軍工廠で竣工。 主な兵装、エクゾセSSM連装発射筒×2 10センチ単装砲×1 40ミリ連装機銃×1 20ミリ単装機銃×2 三連装対潜魚雷発射管×2 フランス海軍通報艦A-69型デチエンヌ・ドルヴ級の一隻として計画され、途中で南アフリカ海軍のフリゲート、グッドホープとして建造が決定しますが、同国への禁輸が発効したことにより途中キャンセルされたものをアルゼンチンが購入しました。 アルゼンチン版がオリジナルと異なるところは、後部の艤装でしょう。デチエンヌ・ドルヴで後部上構上にあった対潜ロケットランチャーの代わりに、40ミリ機銃の銃塔が置かれ、その下部両舷にあった対潜魚雷の発射管は、艦の後部甲板上の両舷にあります。 フォークランド紛争の際には、同型艦グェリコやグランヴィルと共に水上打撃部隊を編成し、英海軍にとっては空母ヴェインチシンコ・デ・マージョや巡洋艦ベルグラノと並ぶ脅威でしたが、
ベルグラノの撃沈後に目立った戦闘行動はありませんでした。 しかし、話はそこで終わりません。艦上のエクゾセ発射筒を陸揚げして、発射要員ともども空路フォークランド島に進出。トレーラーを改造した急造のランチャーから地上発射をこころみます。戦闘終結直前の1982年6月12日、折から地上支援の艦砲射撃で島に接近した駆逐艦グラモーガンに命中。弾頭は不発だったものの艦尾は大破し、英軍への最後の一矢を報いたのでした。 |
(2004/2/26更新) | 砕氷艦アルミランテ・イリサール(Almirante
Irizar)”- 南極半島を中心に6か所の恒久基地を置いているアルゼンチンが、南極観測支援のために建造した砕氷艦です。1978年フィンランド・ヘルシンキのヴァルツィーラ造船所にて竣工しました。
全長121.3メートル 全幅25.2メートル 満載排水量14,899トン ディーゼル電気推進18,729馬力 速力17.2ノット 日本のしらせと同規模で性格もよく似たフネですが、航続日数60日というのが明らかに異なるところ。まあすぐ近海に南極があるのと、地球を半周しないといけないという違いなわけですね。 観測隊要員など45名と、関連資材1800立方メートルの輸送能力を持っています。これと大型ヘリコプターの運用能力が買われて、本艦も1982年4月2日のマルビナス(フォークランド)侵攻に参加しました。
アルゼンチンはかねてより南極の一部の領土権を主張していて、南極条約により凍結されてはいるものの、観測隊員を常駐させているのはその留保の意味も含んでいます。 他方英国もスコット隊の南極点到達で知られるように、古くからの南極探検の歴史をもち、
現在でもフォークランド諸島はその中継地としての重要な位置にあります。その意味で、フォークランドと本艦との関係は、南極圏をめぐる領土問題をも含んでいたわけです。 |
韓国海軍(現代艦)
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(2005/11/1更新) (2006/10/18更新) | KD-1「広開土大王級」駆逐艦- 韓国海軍が誇る本格的駆逐艦群の第一グループ。
日本の「たかなみ」級護衛艦と同等の武装を、一回りコンパクトな船体に詰め込んだ重武装艦だが、外洋海軍の経験が浅い国の設計だけに、むしろ単に武装を詰め込みすぎてトップヘビーなだけ、という見方も出来なくもない。その為か日本海の荒波に耐えられない、あるいは日韓合同演習では日本側の艦隊運動について来れない、など芳しくない噂が聞かれている。
当初は10隻近い量産が計画されていたが、発展型のKD-2に生産が早期に移行したため、同級艦はこの「広開土大王」他2隻のみである。艦名は、1番艦が王、2、3番艦が将軍といずれも高麗時代の有名な王または武将から採られている。
同型艦名 DDG971 広開土大王(クァンゲトデワン) DDG972 乙支文徳(ウルチムンドック) DDG973 楊万春(ヤンマンチュン) |
(2005/11/1更新) (2006/10/18更新) | KD-2「忠武公李舜臣級」駆逐艦- この艦は韓国海軍の外洋型駆逐艦の第二グループに属する。
ステルス性を考慮したと思われる、のっぺりした外見が特徴。 排水量はややKD-1より増大したほか、近接防御用としてCIWSのほかにRAMミサイルを搭載している。 性能は…こちらもKD-1並みにかなり怪しいものの、前級より一回り艦が大きくなったことなどから考えて、まあようやく日本の護衛艦の水準に追いついた、というところであろうか。 この級の艦名は当初「忠武公李舜臣」以下、文禄・慶長の役(韓国側からすると壬申・丁酉倭乱)で活躍した朝鮮の将軍から採られていたが、文武大王は三国を統一した新羅王、大祚栄は渤海国を建てた王であり、この考えは改められたようである。 なお2005年(本アイコン製作時)現在、6隻建造が予定されており(現在5隻完成)その後はKDX-3と仮称される韓国版イージス駆逐艦の建造が進んでいる。
同型艦名
DDH975 忠武公李舜(チュムゴン・イスンシン) DDH976 文武大王(ムンム・デワンヌン)
DDH977 大祚栄(テジョヨン) DDH978 王建(ワン・ゴン) DDH979 カン・カムチャン
DDH980 チェ・ヨン? |
(2005/11/4更新) | FFK「蔚山級」ミサイルフリゲート- このFFK(韓国型フリゲート艦)と称される「蔚山」(ウルサン)級は、1980年から1991年にかけて、韓国海軍の主力を担うべく建造された。同級は9隻建造され、艦名は韓国の主要都市名(釜山、ソウルなど)が付けられている。
名前こそ「ミサイルフリゲート」であるものの、建造当時の韓国海軍の事情、すなわち北朝鮮の小型舟艇による攻撃に備える必要があるためか、砲兵装がOTOメララ76mm砲2門、30mm機関砲塔4基と非常に充実している。また短魚雷および爆雷を搭載し、一通りの対潜能力も持ち合わせている。 ところがミサイルはむしろお飾り?で、前期型の艦4隻の搭載ミサイルは僅かに「ハープーン8発」だけ。しかも仮想敵の北朝鮮には大した大型艦はないため、どこの敵艦に対して撃つ気だ、と突っ込みたくもなる。 後期建造艦5隻は機関砲塔を40mm砲塔3基に改め、またシースパローを追加で積んでいるらしいが、私の手持ち資料ではどこにどう積んでいるかの確認が取れていない。
アイコンは同級の前期建造艦を元にしている。 |
(2005/11/4更新) | PCC「浦項級」コルベット- 韓国の現状における最大の仮想敵は、言うまでもなく北朝鮮である。
その北朝鮮だが、海軍の能力自体は実際大したことはない。 しかし多くの日本人もご存知のように、北朝鮮海軍は特殊工作員を潜入させるための小型舟艇を多数有しており、韓国としては領海侵犯を試みるこれらの舟艇を撃退するために、充実した火力を持つ警備艦艇が大量に必要であった。 そこで1980年代になって、新型のPCC(警戒用戦闘コルベット、の意味?)として大量建造されたのがこの「浦項」(ポハン)級である。 「浦項」は韓国の工業都市の名前で、他23隻の同級艦も同様に都市名が付けられている。 最大の特徴は、満載で僅か1200tの排水量しかないにも関わらず、OTOメララ76mmコンパクト2門、ブレダ製40mm機関砲2基4門と、強烈な砲兵装を持っていることであろう。これは領海侵犯を試みる北朝鮮の警備艇を、近距離砲戦で瞬時に粉砕することを狙ったものであろう。 さらには特殊潜航艇の類に対しても、対潜短魚雷と爆雷によって対処可能
である。 その反面、対艦ミサイルを搭載した近代水上戦闘艦に対しての戦闘能力はないに等しい。 良くも悪くも、韓国の国情を反映した独特の水上艦艇といえよう。 |