戦艦
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(2002/8/31更新) | 戦艦ビスマルク |
(2004/4/11更新) (2004/5/2更新) | 戦艦ビスマルク(1940)- 1935年に締結された英独海軍協定に基づき計画された戦艦。本艦はハンブルクのブローム・ウント・フォスで建造され、第一次大戦時のバイエルン級を参考にして、主にフランス海軍の新造戦艦リシュリュー級などに対抗して設計された。
長射程の38cm砲や、同等の砲の攻撃に耐えうる防御力を保有しており、副砲も15cm連装6基、高角砲は10.5cm連装8基である。司令塔上や艦橋上には主に照準用としてレーダーも備えていた。同型のティルピッツには後に4連装魚雷発射管が搭載されている。 主機は蒸気タービンで最大速力は約31ノットと高速であった。
排水量は竣工当時35000トンと公表されたが、実際は41700トンで、ティルピッツは航続距離の延長などを目的として多少の改良がなされており、本艦よりも排水量は1000トンほど増えている。これは排水量的には日本の大和に次ぐ世界第2位の戦艦だった。しかしドイツ海軍では1939年の「Z計画」において更に大型の戦艦H級6隻を計画しており、うち2隻は実際に起工されている。これを考えるとビスマルク級はH級を建造するまでのつなぎ、もしくは研究材料だったのかもしれない。もっとも、このZ計画は39年に戦争が始まってしまったため計画のみに終わってしまい、起工した2隻も建造中止となり、結果的に本級がドイツ最大にして最後の戦艦となった。
本艦は1941年5月19日にゴーテンハーフェンより出撃し、重巡プリンツ・オイゲン、護衛の駆逐艦や掃海艇と合流。20日にはスウェーデンの航空巡洋艦語ゴトラントに発見される。21日、ノルウェーのベルゲンに寄港して22日に護衛艦を分離し、プリンツ・オイゲンと共に大西洋に向かうが途中で英重巡ノーフォークに発見され、24日には戦艦プリンス・オブ・ウェールズや巡洋戦艦フッドからなる英艦隊と交戦。後者を撃沈、前者を大破させた。26日、英空母アーク・ロイヤル搭載の雷撃機が飛来し、舵に魚雷が命中して操艦不能となる。27日、英戦艦ロドネイやキング・ジョージXからなる英艦隊に包囲されて集中攻撃を受け、最後には魚雷を受けて沈没したとされるが、自沈命令が下されて自沈したと話す元乗組員も存在する。艦隊司令ギュンター・リュッチェンス中将、艦長エルンスト・リンデマン大佐をはじめ乗組員約2100名が戦死し、115名が英海軍によって救助された。 |
(2004/5/14更新) | 戦艦ビスマルク ライン演習作戦終盤(1941)- 沈没時のビスマルクです。
1941年は船体や構造物に白黒のラインが入っていますが、最終的には白黒ラインは塗りつぶされて、このアイコンのように白い部分は1箇所のみになりました。 |
(2003/8/11更新) | 巡洋戦艦 シャルンホルスト Scharnhorst (1943)- 1933年計画で建造された第一次大戦後の本格的戦艦第1号。1935年5月に起工し、39年1月に就役しました。
もともと排水量11700トンの装甲艦ドイッチュラント級の4番艦を建造する計画でしたが、フランスが同級に対抗して26000トンのダンケルク級の建造を開始したことに影響をうけ、それに対抗するために5番艦の予定だったグナイゼナウと共に計画を変更されて本級が建造されました。 主砲はドイッチュラント級用に開発されていた28cm砲を3連装3基とし、副砲や対空兵装も同級より大幅に強化され、装甲は司令塔や主砲塔前楯、水線付近などで350mmを超えるなど、従来のドイツ戦艦のように強靭な防御力を持っていました。 艦首は当初垂直になっていましたが、凌波性の向上のために就役後まもなくこのアイコンのようなクリッパー・バウに改められました。主砲は戦時中38cm連装砲に換装する計画もありましたが、これは実現しませんでした。 本艦は戦時中ノルウェーにおける一連の作戦などに参加し、32ノットの快速を活かして大西洋での通商破壊戦にも従事しました。1942年2月にグナイゼナウおよび重巡プリンツ・オイゲンと共にドーバー海峡を突破するチャネルダッシュ作戦を成功させたのは有名です。 1943年12月26日、北岬沖で戦艦デューク・オブ・ヨークをはじめとする戦艦1、重巡1、軽巡1、駆逐艦数隻からなるイギリス艦隊と交戦し、多数の砲弾と魚雷を受けて沈没しました。 |
(2003/8/5更新) (2004/3/22更新) | 巡洋戦艦 グナイゼナウ Gneisenau (1942)- シャルンホルスト級の2番艦で1934年計画で建造されました。1935年3月に起工、38年5月シャルンホルストより一歩早く就役しました。シャルンホルストとはマストや後部の構造物に多少の相違点があります。
本艦は戦時中シャルンホルストとしばしば行動を共にしました。42年2月のチャネルダッシュ作戦時に海峡を突破したものの、途中で機雷に接触して損傷し、キールに帰還後、ドック入りとなり修理を受けましたが、修理中の2月26日に英軍機の爆撃により大破、その後7月に解役されて1945年3月28日、ソ連船の侵入を防ぐためにゴーテンハーフェンに閉塞船として自沈して生涯を閉じました。戦後、1947年にポーランドによって浮上され、解体されました。 |
(2003/9/6更新) | 装甲艦 ドイッチュラント 新造時 (1933) |
(2003/9/6更新) | 装甲艦 アドミラル・シェーア Admiral Scheer (1936) |
(2003/6/24更新) | 装甲艦 アドミラル・グラーフ・シュペー Admiral Graf spee |
(2003/8/11更新) | 練習戦艦 シュレジェン Schlesien (1945)- 1908年竣工の前ド級戦艦で、第二次大戦中は主に練習艦として使われました。
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(2002/9/11更新) | 戦艦バイエルン(1918) |
(2006/9/21更新) | 巡洋戦艦リュッツオー |
(2002/9/11更新) | 巡洋戦艦 デアフリンガー |
(2002/9/10更新) | 巡洋戦艦 ザイドリッツ |
(2002/9/10更新) | 巡洋戦艦 モルトケ |
(2002/9/10更新) | 巡洋戦艦 フォン・デア・タン |
(2003/1/15更新) | 一等装甲艦 ブランデンブルク級- 常備10013トン 全長115.7メートル 幅19.5メートル 速力16ノット
1893年から1894年にかけて4隻が就役。 ドイツ風に28センチだが、戦艦主砲のこの口径の伝統をはじめたのはこのクラス。 艦中央部にあるのがその砲塔。ただし、上についているのは風波よけの単なるフードで、防御はバーベット部に限られる。(一応、砲室側壁にのみ弾片防御)露砲塔形式にカバーがついているものと見るべき。 中央砲塔のみ35口径(前後砲塔は40口径)なのは、反対舷に指向するときの旋回半径問題があるから。 反対舷に指向するときは、砲身の大部分を砲塔内に引込んで回す。この状態からの射撃準備完了までには数分かかり、戦闘中に簡単に変針はできないかもしれない。 フランス風の設計で、強烈なタンブルホームもついている(これが大事(マテ)) 水雷防御隔壁は建造費を安く上げるためか片舷13個しかなく、後にトルコに譲渡された艦が英海軍の潜水艇のちゃちな魚雷で喰われる原因ともなっている。 もっとも、日清戦争時代の軍艦で第一次大戦の戦場に出ればそういうこともあるだろうけれど。 |
巡洋艦
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(2003/8/5更新) (2003/9/26更新) | 重巡洋艦 アドミラル・ヒッパー Admiral Hipper ノルウェー侵攻時 (1940) |
(2003/8/5更新) (2003/10/21更新) | 重巡洋艦 アドミラル・ヒッパー Admiral Hipper (1944)- ドイツ海軍はベルサイユ条約破棄後にバランスの取れた艦隊建設の一環として条約型重巡に準じた重巡を建造しました。本艦はその1隻目として開戦間近の1939年4月に就役しました。20cm連装砲4基という兵装配置は列国の重巡と比べると少なめにもみえますが、排水量は12,500tとなっています。本艦はノルウェー攻略作戦の他、北海や北大西洋で主に通商破壊活動に従事しました。大戦末期は東部からの撤退作戦に従事しましたが、1945年5月にキールのドック内で英軍による空襲を受けて大破、終戦時に自沈しました。尚、他に同型艦が1隻、準同型艦が3隻(うち2隻は未成)存在しました。
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(2003/8/5更新) | 軽巡洋艦 ニュルンベルク Nürnberg- ライプツィヒをさらに改良したものです。1933年計画で建造され35年11月2日就役しました。船体がわずかに大きくなり、航空艤装が煙突の後部に配置されています。
本艦は39年の暮にライプツィヒなどと共に行動中、英潜水艦の雷撃を受けて損傷しました。修理完了後は北海、バルト海で行動しヴィルヘルムスハーフェンで終戦を迎えました。 戦後ソ連に引き渡されてアドミラル・マカロフと改名し、59年まで在役したと言われています。 |
(2003/7/30更新) | 軽巡洋艦 ライプツィヒ Leipzig (1936)- ケーニヒスベルク級の改良型として1928年計画により建造されました。兵装配置は同じですが、船体が若干延長となり、後部主砲塔は中心線上に配置され、煙突は1本となりました。また、推進用ディーゼルが別の中心軸を駆動する3軸推進方式になりました。1939年12月に英潜水艦の雷撃を受けて破損、翌年末に復旧後は主に練習艦として利用されました。44年10月15日に霧のなかダンツィヒ湾で作戦中にプリンツ・オイゲンに衝突されて大破、そのまま終戦となり、戦後北海で海没処分になりました。
要目(新造時) 全長:177.1m//全幅:16.2m//吃水:5.0m//排水量:6,710t//主機:蒸気タービン(+巡航用ディーゼル) 主機出力:78,400PS//最大速力:32kt//主兵装:15cm連装x3/8.8cm連装x3/53.3cm3連装魚雷発射管x4 |
(2003/7/30更新) (2003/8/22更新) | 軽巡洋艦 ケルン Köln (1936)- 1925年計画で1隻、26年計画で2隻が建造されたケーニヒスベルク Konigsberg 級の3番艦です。本級は21年計画で建造されたエムデン Emden に似た船型を持つものの、主砲は15cm3連装を前部1基、後部2基と、当時の軽巡としては珍しい兵装でした。後に建造された軽巡や装甲艦にもこのような3連装砲が搭載されているので、このクラスで得た評価はそれなりのものだったと思われます。また、後部主砲塔は前方射界を考慮して中心線をずらして配置されている他、低速航行時の燃料の節約のため、蒸気タービンとは別に巡航用のディーゼル機関が搭載されているのが大きな特徴です。
本艦は1930年1月15日に就役。戦時中にレーダーの設置、対空火器の増強、カタパルトと後部発射管の撤去が行われたらしい。終戦近くまで主にノルウェー、バルト海で行動。45年4月30日にヴィルヘルムスハーフェンで被爆、着底したが、依然として使用可能であった主砲で侵攻してくるソ連軍を砲撃したという。
<要目>(新造時) 全長:174.0m//全幅:15.3m//吃水:5.8m//排水量:6,650t//主機:蒸気タービン(+巡航用ディーゼル) 主機出力:68,000PS//最大速力:32kn//主兵装:15cm3連装x3/8.8cm連装x3/53.3cm3連装魚雷発射管x4 |
(2003/7/30更新) | 軽巡洋艦 エムデン Emden (1936)- 1921年計画によりヴィルヘルムスハーフェン海軍工廠で建造され、25年に完成しました。本艦は第一次大戦後にドイツが建造した最初の大型艦です。艦名は第一次大戦で通商破壊に活躍した同名の軽巡にちなんで命名されました。戦後間もない頃に計画されたからなのか、第一次大戦時の軽巡と似た兵装配置になっています。就役後は主に練習艦として利用され、大戦中は40年のオスロ攻略作戦に参加後、ノルウェー周辺やバルト海で機雷敷設任務に従事したり練習艦として行動しました。大戦末期には東部からの撤退作戦に加勢し、45年4月にキールで爆撃を受け大破、除籍され後に自沈しました。
要目(新造時) 全長:155.1m//全幅:14.3m//吃水:5.4m//排水量:5,600t//主機:蒸気タービン//主機出力:46,500PS 最大速力:29.4kt//主兵装:15cm単装x8/8.8cm単装x3/53.3cm連装魚雷発射管x2 |
駆逐艦
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(2004/4/11更新) | 駆逐艦Z17- Z1級(1934年型)やZ5級(1934年A型)に次いで建造された駆逐艦。1936年型とも言う。船体寸法と排水量が若干大きくなり、艦首の形状もシアが少し強くなっており、煙突の高さなどにも多少の違いがあるが、機関や兵装は同じである。なお、本級はZ20から艦首の形状が改められている。
同型6隻が建造され、5隻がヴェーゼル演習(ヴェーザーユーブンク)作戦時にノルウェーのナルヴィクで英戦艦ウォースパイトなどと交戦し、5隻とも撃沈されている。このときにZ1およびZ5両級の参加艦5隻も撃沈されており、ナルヴィク上陸作戦の成功と引き換えに、ドイツの駆逐艦戦力は大幅に削られてしまった。
本級のうちで、Z20カール・ガルスター Karl Galsterは大戦を戦いぬき、戦後ソ連に接収されてプロチヌイ Protschnyと改名された。 |
水雷艇
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(2003/9/6更新) | 水雷艇 メーヴェ Möwe (1923型)- 本級は第一次大戦後、ドイツで計画された最初の水雷艇である。同型6隻がヴィルヘルムスハーフェン工廠で建造され、1926年〜28年にかけて竣工している。設計は第一次大戦の後期に使用された水雷艇がベースである。
本級はヴェルサイユ条約で定められた駆逐艦の排水量制限800トンにしたがって計画されたが、実際には924トンとなっている。排水量が小さいため、凌波性や安定性に少々欠けていたらしい。 |
(2003/9/6更新) | 水雷艇 イルティス Iltis (1924型)- 1923年型の改良型。こちらも同型6隻がヴィルヘルムスハーフェン工廠で建造された。
船体がわずかに拡大し排水量も若干増えているが、1923年型と大きな違いはないので復原性の向上などを計った改良とみられる。 同型6隻のうちのレオパルト Leopart とルックス Luchs は主砲が従来の10.5cmから12.7cm(いずれも45口径)に換装されている。なお、1923年型と24年型は就役当初の塗装は黒であったが後(1935年?)に灰色へと改められた。
本艇は42年5月13日、ブローニュ沖で特設巡洋艦シュティール Stier を護衛中に23年型のゼーアドラー Seeadlerと共に英軍の魚雷艇によって撃沈されている。 |
(2003/10/3更新) | 水雷艇T1(1935型)- 1923,24年型に続いて建造された水雷艇。
それまでの艇と比べると艦橋が船幅いっぱいまで拡張され、船首のシアが強い平甲板型となった。 武装は後部に集中して配置され、10.5cm砲は船尾1基のみとなった。 船首にバウチェイサーを設けた艇も多い。 |
(2003/10/13更新) | 水雷艇T13- 1935年型の一部を改良したタイプ。T13〜T21までの9隻が就役した。
船体がわずかに延長されて排水量が若干増加した以外は35年型とほとんど同じである。 戦争後期になると対空兵装強化のため、後部発射管が撤去されてボフォース40mm単装砲が装備された。 |
(2003/10/13更新) | 水雷艇T22(1939型)- 1935年型の砲力強化型で、主砲が10.5cm砲3門から4門となった。また、機関配置が変更されたため、煙突が2本になっている。
排水量も1300トン近くなり、小型の駆逐艦ともいえるものとなった。30隻が計画されたが実際に建造されたのは15隻である。 戦時中は主に沿岸での船団護衛や機雷敷設任務に就いていた模様。 |
潜水艦(補助艦艇スケール)
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(2003/8/11更新) | Uボート IA型 U26 U-Boot Typ IA U26- 第1次大戦後ドイツが建造した最初の航洋型潜水艦です。ベルサイユ条約によって潜水艦の建造を禁止されたドイツは技術温存のためオランダにIvSといわれた船舶公務所を設けて潜水艦の設計や建造監督などに関する業務を行いました。本艦はベルサイユ条約を破棄する以前から極秘に建造が行われていたそうです。
1936年に就役。このIA型の潜水艦は多数建造される予定でしたが、航洋型潜水艦は500トン型と1000トン型が標準とされたため、1番艦のU25と本艦の2隻のみが建造されました。 本艦は1940年7月1日に北大西洋で行動中、イギリス艦と航空機による攻撃を受けて沈没、同型のU25は1940年8月3日にオランダ沖で接雷して沈没しました。 |
(2003/8/11更新) | Uボート IIA型 U-Boot Typ IIA |
(2003/8/11更新) | Uボート IIB型 U-Boot Typ IIB- IIB型はIIAからのマイナーチェンジですが、燃料搭載量を増やすため全長が1.8mほど長くなっただけで外見上はIIAと全くと言っていいほど変わりません。
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(2003/8/11更新) | Uボート IIC型 U-Boot Typ IIC- IIBに続くIIC型です。こちらも燃料搭載量を増やすために全長が若干延長されています。
外見上はIIBとほとんど変わりません。 |
(2003/8/11更新) | Uボート IID型 U-Boot Typ IID- II型系統の最終型です。艦橋の形状が変わって船体にサドルタンクが設けられています。
船体中央部の白っぽい線はそのふくらみを再現したつもりです。
この型は最初20mm機関砲の数は1門でしたが、資料によると1942年に4門に増設されたようです。 参考にした図面がどうも増設後の物のようで、アイコンでも艦橋後部のフラットに機銃をつけています。 |
(2003/8/15更新) | Uボート ZA型 U-Boot Typ ZA- 外洋での行動力を持つほぼ最小の型として設計されたVII型の最初の型です。
10隻が建造されました。 |
(2003/8/15更新) | Uボート ZB型 U-Boot Typ ZB- VIIAの改良型です。全長がわずかに延長され、艦橋が一回り大きくなっています。
1939年10月のギュンター・プリンの指揮するこの型のU47が英軍の軍港スカパフローに侵入し、戦艦ロイヤル・オークを撃沈したのは有名です。 |
(2003/8/15更新) | Uボート ZC型 U-Boot Typ ZC- Uボートの中で最も量産された型。1940年から45年までの間に実に700隻近くも建造されました(409隻との資料も有り)。
映画「DAS BOOT」で主役(?)となったU96もこのタイプです。 なお、対空兵装は徐々に強化されて艦橋後部のフラットも増設されましたが、このアイコンはそれ以前の状態です。 |
(2003/8/21更新) | Uボート ZC41型 U-Boot Typ ZC41 |
(2003/8/21更新) | Uボート ZD型 U-Boot Typ ZD |
(2003/9/6更新) | Uボート VIIF型 U-Boot Typ VIIF- VIIシリーズの最終型
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(2003/9/6更新) | Uボート IXA型 U-Boot Typ IXA- IX型の初期型
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(2003/9/6更新) | Uボート IXB型 U-Boot Typ IXB |
(2003/9/6更新) | Uボート IXC型 U-Boot Typ IXC |
(2003/9/6更新) | Uボート IXD1型 U-Boot Typ IXD1- 航続距離を既存のIX型より更に延長する目的で開発されたタイプ。
従来のIX型より大型化され、ディーゼルエンジンは低速巡航用の小型エンジンと全速航行用の大型エンジンを搭載しており、 この結果航続距離はIXC型の実に2倍となっている。 このIXD1型はエンジンの故障が多かったため、後に全艦が補給艦に転用されたそうである。 |
(2003/9/6更新) | Uボート IXD2型 U-Boot Typ IXD2- IXD1型の動力装置を故障の少ないものに換装したタイプ。
アイコンは戦争後期の状態で、艦橋後部のフラットが増設されて対空兵装が大幅に強化されている。 なお、艦橋の脇に立っている棒のようなものはシュノーケルの吸気筒である。 |
(2003/9/6更新) | Uボート XB型 U-Boot Typ XB- 機雷敷設用に計画された潜水艦。計画倒れに終わったXA型を発展させたもので、舷側サドルタンク内に機雷2個を搭載する格納筒を左右それぞれ12本ずつ、3個搭載の格納筒が前部中心線上に6本設置されている。前部に格納筒を設置したため、魚雷発射管は艦尾の2本のみとなっている。1941〜44年に8隻が就役。本級は燃料の搭載量も多いので補給任務にも使われたらしい。なお、本級のU219は終戦時にバタビアで日本海軍に接収されて伊505となった。
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(2003/9/6更新) | Uボート XIVA型 U-Boot Typ XIVA- 洋上で他のUボートに対して燃料や食料などを補給するための補給用潜水艦。Uボート乗組員からはミルヒクー(乳牛)と呼ばれて親しまれた。
アイコンでは分からないが外殻が極端に大きくなっていて多量の燃料を搭載し、補給用の魚雷を4本搭載できた。補給艦のため、発射管は持たない。1941年〜43年に10隻が就役したが、連合軍がこの補給艦を脅威とみなして殲滅を計ったため44年までに全艦戦没している。 |
(2003/9/6更新) | Uボート XXI型 U-Boot Typ XXI- 連合軍の対潜能力が高まってきたので、水中性能を向上させる目的で設計されたタイプ。
シュノーケルを装備しバッテリーの容量を増大して潜航可能時間を延ばした。電動機出力の大幅な向上や抵抗の少ない船型を採用するなどしたため、水中速力はそれまでの艦の2倍以上にもなる17.2ノットという当時としては驚異的な機動性を持っていた。 当時の連合国の艦船に搭載されていたASDIC(ソナーのようなもの)では自艦の速力を12ノット以下まで落とさなければ探知ができなかったため、本級が全速で逃走すると追跡は困難だったはずである。 本級は120隻ほどが完成したが、訓練や細部調整に時間がかかり、期待された戦果を挙げる事はできなかった。 |
(2003/9/6更新) | Uボート XXIII型 U-Boot Typ XXIII- XXI型と同様の経緯で計画された沿岸用の小型潜水艦。
艦尾の形状などがXXI型と良く似ている。小型のため発射管は前部2本のみで予備魚雷は搭載しない。 60隻余りが建造された。 |