日本艦アイコン2
「工廠/埠頭」by 舞沙P画伯
(注:この絵は無料素材ではありません)
日本艦アイコン解説協力:A-140さん.
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駆逐艦で見る帝國海軍史 (プチ魚雷は大人になってから2)解説SUDO氏 掲示板投稿文より抜粋

(2002/9/26更新)
三等駆逐艦「雷」
帝國海軍初の駆逐艦「雷」です。
類別は駆逐艦でしたが、大正元年に三等駆逐艦になりました。
英国のヤーロー社で6隻建造されました。
英国のB級30ノッターと基本的に同じモノです(ちなみに当時の英国駆逐艦は大まかな仕様に合わせて各社が勝手に作ってますので中々楽しい)
就役は明治32〜33年。北進事変に参加一隻が座礁で喪失。日露戦争は無事切り抜けますが、明治42年に衝突事故で一隻、大正2年に汽缶の爆発事故で沈没だそうです・・・。えらく事故の多い級だな。
生き残りは大正10年あたりで除籍されました。

(2002/9/26更新)
三等駆逐艦「東雲」
ほぼ同時期に英国のソーニクロフトに発注したのがこの「東雲」です。
こっちはD級類似だそうですな。
カタログ上は兎も角、結構速度は遅かったらしいです。
駆逐艦籍を退いてもなんか色々と大正末期まで在籍した奴が多かったそうで、いい船だったのかも。
就役は明治31〜33年に6隻

(2002/9/26更新)
三等駆逐艦「暁」
ヤーロー社に第二陣として2隻発注したのが、この「暁」です。
雷と違うのは舵とか、色々細かいところです。
明治34年就役。

(2002/9/26更新)
三等駆逐艦「白雲」
勿論、付き合いがある訳ですから、同時にソーニクロフトにも2隻を発注してる訳です。
これが「白雲」ですな。
打って変わって四本煙突になってますが、何度も気合が入った機関だったらしく、2隻とも公試で31ノットを超えました。かなり速いです。
白雲と朝潮の二隻ですが、スワロフ、ナヴァリン、シソイ・ヴェリキーを撃沈破してます・・・。バケモノめ・・・。
就役は明治35年、大正14年まで海軍に残ってました。

(2002/9/26更新)
三等駆逐艦「春雨」
輸入二群四型十六隻を取得した日本ですが、それだけでは満足せず、国産化を目論見ます。
色んなところから建造計画や予算を掻き集めて7隻を建造するのですな。
ヤーローとソーニクロフトからいいトコ取りしようとした設計で、国産化といってもパーツなんかも輸入が多いです。
気合と根性で艦本式缶を開発搭載しましたが、予定出力に達しない艦も多く、中々順調ではなかったようです。
就役は明治36〜38年、つまり日露戦争直前ですね。

(2002/9/26更新)
三等駆逐艦「神風」
日露開戦直前に25隻もの建造計画が立てられて、急遽駆逐艦の大量生産に入ります。
これで建造されたのが、この「神風」です。
何の事は無い、春雨の改良型で、各海軍工廠に民間造船所も動員して頑張ったんですが、講和前には2隻しか完成してません。泥縄ですなぁ・・・。
しかも追加建造計画が入って、最終的に32隻も作りました(日本軍としては最大級の量産ですね)
春雨から殆ど変化無いんですけど、性能はかなり安定したという事です。
でもって、これ、可哀想な事に、講和後の太平洋作戦にはとてもじゃないけど耐えられない代物だったわけです。
数の上では、この日露戦争世代の駆逐艦が明治末期から大正にかけて多数在籍するのですが、外洋作戦に耐えられるのは、皆無と・・・。
第一次大戦勃発から八八艦隊計画までの日本海軍で最も問題になったのは、この駆逐艦戦力の構成だったのではなかろうかとも考えます。

(2002/9/26更新)
一等駆逐艦「海風」
たぶん、気の迷いだったんでしょうなぁ
明治44年に2隻だけ建造された、当時としては破格の1,000トンもの大型駆逐艦です。
この時から大型駆逐艦を日本海軍は欲していたという事ですね。
直結タービンながら長期愛用され、除籍は昭和11年です。
やっぱ大きい駆逐艦は便利だったんでしょうね。

(2002/9/26更新)
二等駆逐艦「櫻」
予算問題もあって大型駆逐艦が作れない上に、タービン期間の実績も不明なので採用できずと、最初からどうでもいい感じで建造された艦です(ぉぃ
姉妹の橘とともに明治45年に就役しました。
ちなみに、あの樺はこいつがベースです。
樺のときでもあれでしたが、そのベースからしてコレなわけですから、昔の日本海軍は偉かったんですね(ぉぃ
二隻とも昭和7年に除籍されました。

(2002/9/26更新)
一等駆逐艦「浦風」
技術取得の目的で英国に発注された駆逐艦です。
元々フルカン流体継手を使ったディーゼルエンジンを乗せたかったんですが、どっかの国でどっかの国の皇太子が殺されたとかで国際紛争が起きちゃって以下略。
だもんでフルカン諦めて単なるタービン艦になっちゃいました。
更に駆逐艦不足は全世界的なわけで、二番艦江風はイタリアに売り飛ばされてしまったという・・・。
単艦では使い道もなく、除籍されるまで揚子江警備艦になってたそうです・・・。可哀想な奴。
大正4年就役、除籍は昭和15年(長生きである、ちなみにそのまま廃駆逐艦として放置されて昭和20年に爆撃で大破着艇したそうです)

(2002/9/26更新)
二等駆逐艦「樺」
第一次大戦の臨時軍事費で10隻の大量建造が為された級ですね。
就役は10隻とも大正10年です。
うち8隻が地中海に派遣されたとか、日本にしては珍しく量産計画が上手く行ったとか、フランスにも輸出されたとかの、まあ成功した艦でしょう。
ちなみに櫻型の小改良型で、建造当時でも協力とか最新ってわけではなく、機関はレシプロと、どうしたんだ帝國海軍とか騒ぎたくなるほど、量産型です。
全艦昭和7年に除籍されました。

(2002/9/26更新)
一等駆逐艦「磯風」
大正6年就役で、一等駆逐艦にしては珍しく4隻も建造されました。
試験目的で各艦で別のタービン積んでたりするあたりが、まだまだ未完成な技術を感じさせます。
ちなみに、予想通り凌波性が辛くて苦労してます(まあ、特型までの道のりですな)
各艦は昭和10年に除籍されました。

(2002/9/26更新)
二等駆逐艦「桃」
楢のベースになったのがこの二等駆逐艦「桃」です。
大正5〜6年に4隻が就役し、完成直後に地中海に派遣されました。
良く出来た船だったらしく、昭和15年まで在籍してますが、一隻だけ「樫」は昭和12年に除籍されて満州国海辺警察隊に譲渡され「海威」と命名され太平洋戦争においては満州国籍で参戦、昭和19年に沈みました。
なんと言うか、波乱万丈な運命を辿ったんですね。

(2002/9/26更新)
二等駆逐艦「楢」
大正7年就役で、第一次大戦の勃発で駆逐艦が欧州に行っちゃったんで、大慌てで6隻の建造が為されました。
桃型の準同型になります。
昭和9年に6隻とも退役しました。

(2002/9/26更新)
一等駆逐艦「江風」
就役は大正7年。昭和九年に除籍されました(つまり太平洋戦争前)
峯風型の前の世代になりますね。
タービン三軸の意欲的な高速艦ですが実験艦的な意味が強く、建造は二隻だけでした。

(2002/9/24更新)
二等駆逐艦「樅型」

(2002/11/21更新)
二等駆逐艦「若竹」
日本海軍最後の二等駆逐艦。

(2002/9/24更新)
駆逐艦「峯風」

(2002/9/25更新)
駆逐艦「神風」
峯風から主砲と発射管の位置を是正した。

(2002/9/25更新)
駆逐艦「睦月」
神風から発射管を61サンチ三連装に兵装強化した。

(2002/11/21更新)
駆逐艦「吹雪」

(2002/11/22更新)
駆逐艦「綾波」

(2002/9/26更新)
駆逐艦「暁」

(2002/11/21更新)
(2006/8/20更新)
駆逐艦「電」性能改善工事完成後(1936)

(2002/11/21更新)
(2006/7/27更新)
駆逐艦「響」(1945)
本艦は吹雪型(特型)駆逐艦の22番艦で、昭和8年3月31日に舞鶴工廠で竣工しました。

太平洋戦争開戦時は第一水雷戦隊に所属し、南方作戦やアリューシャン作戦に参加。その間、昭和17年6月12日にキスカ湾で爆撃され艦首を損傷、修理復帰後には18年7月のキスカ島撤退作戦の艦隊にも名を連ねています。
その2ヶ月後に島風が発射した訓練用魚雷が左舷中央に命中し損傷、修理後は船団護衛にあたり翌19年のマリアナ沖海戦では補給部隊を護衛しましたが、9月6日、船団護衛中に敵潜水艦の雷撃を受け艦首が垂下するという大損害を出し、翌年1月まで修理を余儀なくされ比島沖海戦には参加できませんでした。

修理完成後は第二水雷戦隊に編入され、当然、戦艦大和以下の第二艦隊による沖縄特攻作戦にも同行するはずでした。しかしその直前の3月29日、B29の敷設した機雷に触れて船体各部を損傷、航行不能となったため沖縄突入は断念。修理後は舞鶴、新潟を転々とし、終戦の日となった8月15日、午前7時ごろに新潟港へ来襲した米軍機に25ミリ機銃で応戦、これが日本海軍の水上艦艇が行った最後の戦闘であったとされます。

結局、開戦時は23隻を有した特型駆逐艦のうち残存したのは「潮」と本艦のみで、戦後は復員輸送に従事した後、昭和22年7月5日、ナホトカで賠償艦としてソ連に引き渡されました。

アイコンは昭和20年頃の「響」を、復員輸送艦時代(ただし武装は撤去されていない状態)の写真を参考に制作しています。なお単装機銃の配置など一部不明な箇所は、同じく戦後生き残った「潮」「雪風」の写真などから推定して制作したことをご了承いただければ幸いです。

(2002/11/22更新)
駆逐艦「初春」

(2002/11/22更新)
駆逐艦「有明」

(2002/9/26更新)
駆逐艦「白露」

(2002/9/26更新)
駆逐艦「朝潮」

(2002/9/26更新)
駆逐艦「陽炎」

(2002/9/26更新)
駆逐艦「夕雲」

(2002/9/25更新)
駆逐艦「秋月」

(2002/9/26更新)
駆逐艦「島風」

(2002/9/25更新)
駆逐艦「松」

(2002/9/25更新)
駆逐艦「橘」

(2002/9/25更新)
駆逐艦「秋月」(後期)

水雷艇で見る帝國海軍史 (プチ魚雷は大人になってから3)解説SUDO氏 掲示板投稿文より抜粋(友鶴、初雁、鴻、雉の解説サバニ氏)

(2002/9/26更新)
水雷艇「1号」型
速度14ノットと、まあ、凄いですな(誉めてない)
明治14年〜17年に就役、明治32年に除籍されました。
ちなみにヤーローのノックダウン生産です。
個人的には戦力を得ることだけでは無く、建造ノウハウを得たかったという要素もあるんだと思います。

(2002/9/26更新)
水雷艇「5号」型
当時の水雷艇と言うのはフランスが本場な訳で、シュナイダーに注文したのが、この「5号型」です。
クルーゾー型と呼ばれました。でもってフランスで転覆事故が起きてまして(この頃から水雷艇と転覆は関係がある訳です)
改正したものに置き換わります。そっちはノルマン型と言うそうです。
クルーゾー型14隻、ノルマン型2隻を取得して威海衛襲撃等に活躍しました。6隻がフランス製、10隻は国産(まあノックダウン生産です)
明治25〜27年就役、明治40〜43年除籍。

(2002/9/26更新)
水雷艇「21号」型
こうして1号型4隻にクルーゾー14隻、ノルマン2隻と取得した次に手を出したのが、フランス海軍145号型でした。これを「21号型」と言います。
21号はフランスで、22号は根性で国産しました。
大型でハイパワーで強力な水雷艇で日清戦争時の最強艇です(でも最大速度は20ノット)
明治27〜28年就役、44年除籍。

(2002/9/26更新)
水雷艇「22号」型
素直にフランス式で進めばいいのに、何故か日本は次の大量取得を、ドイツのシーヒャウ社に発注します。しかもなんと19隻もっ!
よっぽどフランス製は嫌だったんでしょうかね・・・。
ちなみに、オーストリア・ハンガリーのラーベ級をベースとしたものだそうです。
最初はボロいボイラーのおかげで18ノットしかでなかったんですが、ソーニクロフト缶に換えた所、予定の24ノットをクリアしたそうです(速いですな)
就役は明治26〜34年、事故で一隻、日清戦争で一隻、日露戦争で三隻(二隻は日本海海戦)を喪失しました。
生き残りは大正元年〜4年に除籍されてます。
当時の日本主力水雷艇だったんですね。

(2002/9/26更新)
水雷艇「29号」型
まあ、フランス製にも色気は残ってる訳でして、平行して発注されたのがノルマン製の「29号」型2隻です。
当時としては驚異的な2000馬力の機関で26ノットを発揮しました。
就役は明治33年。つまり目立つ機会が無く、日露戦争時には津軽海峡警備についてたそうです。でもウラジオ向け密航船(しかも冬の津軽海峡で)を捕らえたりもしてるから、頑張ってます。
大正2年と5年に除籍されました。

(2002/9/26更新)
水雷艇「39号」型
でもって、同時期に大量発注されてるのが、この「39号」型で、これは英国はヤーローの設計で10隻全部国産です。
水雷艇駆逐艦に対抗して大型化してますが、なんと27ノットを発揮してます(フランス製の立場無いじゃん)
旅順のセヴァーストポリ襲撃はコイツラだったみたいです。
明治34〜35年就役、大正二年除籍。

(2002/9/26更新)
水雷艇「50号」型
これは先にあげたノルマン型の小改正型として国産されました。
航洋性を原型よりも稼ごうと色々努力しています。
ある意味初の「国産」艦ですね。
明治33〜35年に10隻が建造され、明治末期から大正にかけて除籍されました。
しかし、最大速度20ノットじゃ、いろいろ厳しいだろうな・・・。

(2002/9/26更新)
水雷艇「67号」型
でもって、こっちが本命ですね。
シーヒャウの22号型をベースとした「67号」型です。
武装や航洋性を強化して原型より重くなってしまいましたが、馬力をなんとか確保して23ノットを発揮できました。
9隻が明治36〜37年に建造されましたが、2隻が川崎造船所で建造されてます。
大正11〜12年に除籍ですから、水雷艇の中では例外的に長く使われてますね。

(2002/9/26更新)
水雷艇「小鷹」
かなり番外的な水雷艇「小鷹」です。
英国製の大型水雷艇で、自力で目的地まで進出できて敵艦の速射砲に耐えるという、まあ、出来りゃそうして欲しいけど無理っぽい事を水雷艇に与えようとヤーロー社が暴走した結果生まれた代物です。
凶悪に素敵なラムを持った艦ですが、これは水線長確保のためでもあったそうですな。
大柄で動きが鈍く、失敗作でしたが(爆)
明治21年就役、41年除籍。

(2002/9/26更新)
水雷艇「隼」
まあ、つまりは、明治30年代になると水雷艇駆逐艦の勝利が見えてくるわけです。
でも、フランス海軍は英国如きの発案に素直に納得は出来ない訳です。
諦めきれない夢と共に、航洋水雷艇という方向性を模索します。この実に「す的」な行動を日本海軍が否定できるはずもありませんよね?
一挙に発注4隻+国産11隻の大量取得をしたのが、この「隼」です。
機関出力が予定に達せず、31ノットを予定しながら28.5ノットに留まりましたが、それでも当時の駆逐艦にそう劣るものではありません(波が出たらとか言わないように)
雷撃力は平均的駆逐艦よりも大きく、日露戦争時には凶悪な水雷戦隊の一翼を駆逐艦と共に担いました。
明治33〜37年就役、大正8〜12年除籍
結局、水雷艇はこの「隼」が最後になり、以降は駆逐艦へと主役は完全に置き換わる訳です。
隼が夢見た、速くて、遠くまで行ける「雷撃マシーン」は特型という形で20年後に完成するのです。

(2005/11/7更新)
水雷艇「26号」型

(2003/9/1更新)
水雷艇「友鶴」竣工時 (1934)
1930年のロンドン軍縮条約では、基準排水量600トン以下の水上艦について保有量の制限がありませんでした。そこで、米英「以外」の各国(ロンドン条約に乗らなかった仏伊も含め)は、このサイズに相当する艦を競って(?)建造しました。この千鳥型はそのなかのひとつとして位置づけられるでしょう。当初の計画では12.7センチ砲塔単装・連装各1基、53センチ連装発射管2基と予備魚雷4本という初春型駆逐艦(新造時)のほぼ半分の兵装を、基準排水量535トンと、初春型の1/2以下の小さな船体に詰め込んだものでした。
船体の割に重武装、かつ凌波性を求めて高い乾舷という条件では復元性が低下するのも当たり前で、1番艇の千鳥は1933年の竣工時にバラスト40トンを追加したにもかかわらず、公試の際に28ノットで15度の転舵をおこなったところ、30度も傾斜してしまいました。そこで急遽バルジを追加、再公試では20度まで抑えられたので、一応完成ということで引き渡されました。ちなみにこの時点での復元性範囲は64.2度だったとのことですが、たいがいの船なら90度以上あって当たり前(つまり計算上は横倒しになっても大丈夫ということ)ですから、よくそんな状態で送り出せたものだと素人目にも思います。
さて翌34年2月、3番艇友鶴が就役し、3月12日未明、千鳥とともに軽巡龍田にたいする夜間襲撃訓練へと赴きますが、荒天のため訓練を中止し、佐世保に帰る途中に友鶴が消息を絶ちます。転覆漂流中の同艇が発見されたのは同日午後二時すぎのことでした。荒れる海の中を龍田が佐世保工廠まで曳航してドック入りさせ、途中で自力脱出した3名を含め、合計13名の生存者を救出しましたが、艇長以下100名は帰らぬ人となりました。この遭難劇がいわゆる「友鶴事件」のはじまりとなったわけです。

(2003/9/1更新)
水雷艇「初雁」竣工時 (1934)
友鶴の転覆遭難事故をきっかけに全艦艇を調査した結果、千鳥型や初春型とほぼ同時期に設計された大部分の艦艇に復元力低下がみとめられ、大規模な性能改善工事が実施されました。千鳥の場合の改正要領は以下の通りでした。

1)従来あった12.7センチの砲塔式主砲をすべて撤去し、代わりに12センチ単装砲を3基設置する。(22トン減)
2)連装発射管1基と、予備魚雷すべてを撤去。(40トン減)
3)艦橋構造を1層減。伝声管を撤去。
4)艦底にバラストキールを取り付けて、バラスト98トン搭載
5)バルジ撤去

この改造で基準排水量は600トンに増大し、計画時の速力30ノットだったのが28ノットにまで下がってしまいますが、復元性範囲は118.5度まで改善されました。4番艇の初雁は、事件発生当時建造中でしたが、これらの改造点をすべて取り入れた状態で竣工させることができました。

(2003/9/1更新)
水雷艇「初雁」(1944)
太平洋戦争の開戦時、千鳥型4隻の第21水雷隊は第2根拠地隊に配属されてフィリピン攻略に参加しました。その後は主に船団護衛に従事。初雁が香港で終戦を迎えた以外は4隻中3隻が米潜水艦や航空攻撃で失われました。初雁の場合は艇尾の3番砲を撤去して機銃を増備、また掃海具も下ろして代わりに爆雷が多数搭載されました。おそらく他の3艇もこれに準ずる工事がなされたかと思われます。

(2003/9/5更新)
水雷艇「鴻」(1936)
千鳥型を計画した当初、制限外枠を使って20隻の建造を予定していたので、千鳥型4隻に続いて16隻計画されたのがこの鴻型です。軍令部は基準排水量600トン、12.7センチ砲×4門、61センチ魚雷4射線という千鳥以上にむちゃくちゃな要求を出してきますが、友鶴事件の発生で全面的に見直されました。
能力面では千鳥型の速力が復原性能改善後で28ノットに低下、航続力が14ノットで3000浬であったのに対し、速力、航続力、兵装を強化して外洋でも駆逐艦の代用を務められると同時に、揚陸戦などの支援も考慮されるべきというものになりました。最終的には基準排水量840トン、速力30.5ノット、航続力は14ノットで4000浬(睦月型や初春型と同等)、兵装が12センチ単装砲×3、53センチ三連装魚雷発射管×1などとなっています。その後第四艦隊事件への対応でさらに排水量は増大し、結局公試状態で1014トンにも達するものになってしまいました。それでも条約制限外で建造した手前、当時公表した要目では基準排水量595トン、速力28ノットで通しています。
ちなみに、本型で搭載した12センチ砲は仰角55度のM型砲とよばれるもので、のちに鴻型全艦が日中戦争勃発で中国に派遣され、長江の遡上作戦に参加した際には、対地上砲撃に威力を発揮したとのこと。他に掃海艇19号型や、タイ海軍のターチン級スループにも搭載されました。

なお計画では16隻の予定だった鴻型ですが、1937年末での条約脱退が確定したため8隻までで打ち切られています。

(2003/9/22更新)
水雷艇「雉」(1945)
太平洋戦争開戦後の鴻型は、南西方面各地の防備隊や、海上護衛隊に配属され、いずれの場合もおもに船団護衛に従事しました。また大戦後半になると空襲の激化に対応する形で、機銃の増備を順次おこなっていきます。1944年以降、3番砲塔と煙突後ろの40ミリ単装機銃を撤去し、後部上構と艦橋前の機銃座と煙突の後ろに25ミリ三連装機銃各1基、計3基を設置、他にも単装機銃を何カ所か設置しています。さらに、掃海具を下ろして爆雷兵装の充実もはかられ、爆雷投射機の増設や投下台→投下軌条の設置などがなされました。それでも、海防艦の強力な対潜兵装にはおよばないものの、米軍のヘッジホッグのような有力な対戦前投兵器をもたなかった日本では、とにかく想定海面まで高速で敵潜を制圧に向かえるところが重宝されたようです。

熾烈な海上護衛戦に投入された本型は、米潜による雷撃、あるいは空襲などにより次々と失われ、終戦時に残存したのはスラバヤにいた雉一隻のみでした。

一口潜水母艦考 解説SUDO氏 掲示板投稿文より抜粋

(2002/9/24更新)
潜水母艦「迅鯨」
良くある、何か色々やれそうでスゲーけど実は無意味という、典型的日本艦ですな(誉めてない)
詰め込みすぎで復元性に問題を生じたとか、まあ、色々あれなのも、この時代の艦としてはおなじみです。
就役は大正12年。以降に建造された大鯨や剣埼が空母になってしまったので、姉妹艦の長鯨と共に、貴重な潜水母艦戦力として活動しました。

この潜水母艦という艦を考えてみると結構面白いです。
元々は、まともな居住環境を持たない潜水艇の母艦でしたが、潜水艦が戦力としての重要性を増すにつれて、潜水母艦も前線行動をする可能性が増える訳です。迅鯨の武装と速度は前線近くまで進出して潜水艦隊旗艦を果たす事も想定した結果です。
この機能は日本軍の場合は大型潜水艦や巡洋艦に取って代わられます。潜水艦は母艦の助けを必要としなくなるのです(情報指揮面では支援を要求する)
この結果、その次の世代の潜水母艦は前線補給とある程度の情報収集能力(索敵機)を持った存在となり、若しくは大淀がそうであるように、情報と指揮を前提とした指揮艦へと置き換わります。
もうひとつの方向性は、甲標的なんかですね。これは母艦が最前線まで運び、情報と指揮を与えてってやる訳で、迅鯨のコンセプトはもしかすると甲標的母艦へと受け継がれたのかも知れません。

潜水艦

(2003/9/1更新)
巡潜甲型(伊9型)

(2003/9/5更新)
巡潜乙型(伊15型)

(2005/3/23更新)
特型潜水艦「伊401」

海防艦

(2003/8/3更新)
海防艦「占守型」竣工時 (1940)
昭和12年度のマル三計画で、北方警備と漁業保護を主務、護衛と掃海を副務とする新型の小型艦艇として建造されました。基準排水量860トンで、兵装は12センチ平射砲×3、25ミリ連装機銃×2、爆雷投射機(Y砲)×1と爆雷18個、速力19.7ノットというものでした。
当時、マル三計画では条約明け最初の建艦計画で大和型や翔鶴型といった大物が入っており、艦政本部が手一杯だったこともあって、本艦は基本計画から三菱重工に丸投げされる形になりました。ところが、これが初仕事となった三菱の艦船計画課は大発奮、凝りに凝ったフネを造り上げてしまいます(三番艦八丈の工数は、倍以上の排水量をもち、かつ重武装の駆逐艦雪風が159,437だったのに対し、実に102,496にまで達した)。本艦は戦時急造向けの海上交通保護用護衛艦の試作としての意味合いも含んでいましたが、このことが後々響いてくるわけで、完成型ともいえる鵜来型に至る流れは、ここからの簡略化に次ぐ簡略化でもあったわけです。
とはいえその造りの良さが幸いしたのか、同型艦4隻中、潜水艦に食われた石垣を除く3隻が終戦まで生き残りました。

(2003/8/3更新)
海防艦「擇捉型」竣工時 (1943)
昭和16年、対米情勢の悪化を受けてマル急計画が策定され、その中に占守型30隻の建造が盛り込まれました。その際、量産にあたって占守型の複雑精緻な構造を簡易化することが検討されましたが、設計改正によって遅れがでることを嫌ったため、船型の一部をあらためるにとどめて建造されたのがこの擇捉型です(それでも工数は約70,000にまで減少)。占守との外見的な違いは、艦橋まわりや艦首・艦尾の形状などですが、このアイコンサイズではほとんどわからないですよね。
兵装の12センチ砲3門や機銃は占守型と同じままですが、爆雷は36個に改められ、占守型では後日装備とされた水測兵器も竣工当初より備えていました。しかしこれでも護衛艦として運用する際の対潜・対空能力は不十分で、当初計画の30隻中、14隻が建造されるにとどまり、それ以外は御蔵型や鵜来型に引き継がれることになります。

(2003/9/1更新)
海防艦「擇捉型」大戦末期の状態 (1945)
もともと対空兵装が貧弱だった擇捉型ですが、大戦末期になると電探の装備のほか、機銃の増設も広くおこなわれています。これは干珠の例ですが、2番砲を撤去したあとに両舷に張り出した機銃台を設けて25ミリ連装機銃2基を設置したほか、艦橋前にも三連装機銃を増備しています。また、艦尾の爆雷投下台も爆雷投下軌条に変更され、爆雷投射機も増設されています。

(2003/8/18更新)
海防艦「御蔵」新造時 (1943)
擇捉型からとりあえず量産体制に入った海防艦ですが、着手を急ぐあまり主兵装の12センチ砲を平射砲のままとしたので、対空能力が不足していることは明らかでした。そこでこれを高角砲にあらため(前部に単装×1、後部に連装×1)、さらに対潜兵装を投下台6基から投下軌条2基に、また投射機を2基に増やし、爆雷搭載数も120個とした御蔵型を建造します。
また擇捉型には占守型の耐氷構造や耐寒設備はそのまま残されていましたが、これも廃止し、船首楼から後部まで一体となっていた主甲板室は3か所に分けられました。これによって工数も1番艦御蔵で約57,000にまで削減できました(擇捉型に比べ20%減)。
ちなみに9番艦の日振以降は量産のために構造がさらに簡略化され、対潜兵装以外はほぼ次の鵜来型と同じになっています。このため時と場合によって鵜来型に含められたり、日振型がたてられたりと、かなり混乱しています。ここではとりあえず日振型は別枠とします(to be continued)。
全8隻中5隻が戦没し、終戦時は3隻が残存していました。

(2003/8/18更新)
海防艦「御蔵」大戦末期の状態 (1945)
1944年後半から、フィリピン近海や南シナ海方面に米空母機が来襲するようになり、たびたび護送船団が損害を被るようになりました。さらに比島沖海戦後には米陸軍機による被害も激増します。こうしたなかで御蔵型にも対空兵装のさらなる増備がなされました。 艦橋前に25ミリ単装機銃1基、煙突両脇に張り出しを設けて同三連装機銃各1基、また後檣を移設して後部甲板室後端上部に同じく三連装機銃1基といった具合です。また艦尾の爆雷投射機も1基増設し、その分、占守型以来ずっと搭載してきた単艦式大掃海具を下ろしています。後檣の13号電探は艦によっては終戦時まで搭載しないままの場合もあったようです。

(2003/9/1更新)
海防艦「日振型」(1944)
御蔵型(E20型)が計画された翌年、さらに量産性を高めるために計画されたのが「E20b型」になります。船型、船殻構造、艤装などに第二次戦時標準船の設計思想を取り入れて徹底的に簡易化し直線部分を多用、材料も商船用の規格を用いています。これにより御蔵型に比べて6割程度、占守に比べると実に三分の一に相当する約30,000にまで工数削減に成功しました。
このうち、日立造船桜島で建造された11隻(うち2隻は未成)は、御蔵型と同等の対潜兵装となっており、掃海具も装備していたので、かつては御蔵型に含められていましたが、最近は日振型として扱われることが多くなっているようです。
終戦までに竣工した9隻は、日振など3隻が米潜にやられ、1隻が触雷して沈没、5隻が終戦まで生き残りました。

(2003/9/1更新)
海防艦「鵜来型」(1944)
御蔵型を簡易化したE20b型のうち、鵜来など20隻は掃海具を廃止して爆雷兵装を大幅に強化しました。その際に搭載されたのが三式投射機です。下甲板下の爆雷庫から電動式揚弾筒で毎分6発上げられて片舷8基ずつ2列に並んだ投射機に装填され、計画では2分半の間隔で合計16発の斉射が可能となっていました。この爆雷兵装は当時の米護衛艦よりも強力なものを持っていたともいわれます。
これに装填される三式爆雷は爆弾型のために沈降速度がはやく、ドラム型だった従来の二式爆雷が毎秒2メートルだったのに対して、毎秒5メートルにおよぶものでした。
こうした強力な爆雷兵装をもっていた鵜来型でしたが、水測兵器の技術と運用面で劣っていたのと、連合軍のヘッジホッグ等のような前投式の対潜兵器を戦力化できなかったために、その威力が十分に活かされなかったとされています。
1944年7月に鵜来が竣工したのち、終戦までに20隻が完成。うち2隻が米潜により、また2隻が航空攻撃で沈没し、16隻が残存しました。

(2002/11/9更新)
(2003/8/6更新)

(2006/4/13更新)
海防艦「第1号型(丙型)」前期建造艦
昭和18、19年度に計画された量産型航洋護衛艦の2番手で、先に建造された日振型、鵜来型の主機が製造能力に難があったため、急速量産のため駆潜艇十三号型が装備する23号乙8型ディーゼル機関の回転数を上げて採用、速力は16.5ノットとされました。排水量はそれまでの海防艦より小さい約750トンで、船体の簡易化も先に建造された海防艦より更に進められています。12センチ高角砲2門、爆雷120個という武装は船体規模を考えれば相当な重武装でした。

このアイコンは丙型海防艦の前期建造艦として、主に昭和19年後半に完成したものを再現しています。当初計画より既に機銃が増備されており、この作品では表現しませんでしたが、就役後に十三号電探が後部マストに追加装備されています。

(2002/11/9更新)
(2003/8/6更新)

(2006/4/13更新)
海防艦「第2号型(丁型)」前期建造艦
上記の丙型海防艦と同時に計画された海防艦です。ディーゼル機関の製造能力から丙型だけで所要の数を満たすのは困難とされたため、本艦は生産体制が整っていた戦時標準船A型と同じタービン機関を採用しています。
そのため丙型より速力が1ノット向上しましたが、航続力は二千カイリほど減少して四千カイリとなり、内地〜スマトラ間の船団護衛が可能な程度としてこの数字で忍びました。しかし実戦では特に問題は生じず、昭和19年以降の海上護衛戦で丙型と共に活躍しました。

このアイコンも丙型の前期建造艦と同じく、当初計画より機銃増備などが行われた昭和19年後半ごろの状況を再現しています。

(2006/4/14更新)
海防艦「第1号型(丙型)」後期建造艦
本型の艦名はすべて奇数番号となっています。この後期建造艦は前期艦に比して十三号電探および電探室の追加、構造物の防弾強化や高角砲シールドの形状変更などが行われています。正確には確認出来ませんでしたが、前期建造艦もこれに類する改造を行っている可能性もあります。

この丙型海防艦は143隻の建造が計画され71隻が起工。63隻が終戦までに完成し、25隻が戦没しました。

(2006/4/14更新)
海防艦「第2号型(丁型)」後期建造艦
奇数番号を艦名とする丙型に対して、こちらは全て偶数番号を艦名としています。電探の追加や構造物の改良、高角砲のシールド変更などは丙型と同様に行われたようです。

計画では132隻の建造が予定されていた丁型海防艦ですが、実際に起工されたのは65隻で、そのうち53隻が完成。過酷な護衛作戦に従事し半数近い26隻が戦没しています。

敷設艦

(2003/8/18更新)
(2003/8/25更新)
敷設艦「津軽」

(2003/9/1更新)
敷設艦「初鷹」

砲艦

(2003/9/26更新)
砲艦「宇治」初代(1903)
1903年に竣工した国産最初の砲艦です。乾舷が比較的高く、いわゆる河用砲艦ではないものの、艦首は亀甲型なので、外洋航行にはあまり適していませんでした。それでも日本海海戦にまで参加しているから強者というべきか、それまで動員しなければいけなかったのか、よくわかりません。
使用実績はあまり芳しくなかったのですが、その経験が後の艦に活かされることになりました。1936年に現役から退いて潜水艦母艇となりますが、老朽化が著しく進んでいたのでその年のうちに除籍されました。常備排水量620トン、兵装7.6センチ×4門など。

(2003/9/26更新)
砲艦「隅田」初代(1910)
伏見(初代)とともに河用砲艦として初めて建造された艦。1906年に英国ソーニクロフト社で建造され、外洋航行能力がないためいったん分解されたのち、上海で組み立てられて竣工しました。低速力のため(13ノット)三峡を越えて遡上することはできなかったものの、1935年に除籍されるまで中国での権益保護に活躍しました。ちなみに本艦は建造から解体されるまで生涯一度も日本本土に来ることのなかった珍しい艦です(他には回航中に消息を絶った巡洋艦畝傍があるだけ)。

使使常備排水量126トン、主な兵装:4.7センチ単装砲×2

(2003/9/1更新)
(2003/9/22更新)
砲艦「鳥羽」(1911)
河用砲艦として日本が最初に運用したのは隅田と伏見(初代)でした。この2隻はいずれも英国製でしたが、排水量がいずれも150トン前後と小型で、速力も低かったため長江で三峡を越えて遡上するには難しいものがありました。
この鳥羽は、そこからの大型化と高速化を目指して初めて国産された河用砲艦です。要目は基準排水量220トン、兵装は短8センチ砲単装2基など。就役した年にちょうど辛亥革命がおこり、できるだけ早く派遣することが望まれたので、いったん佐世保工廠で完成させた上で、重量物を取り外し、浮きドックに入れた状態で巡洋艦笠置に曳航してもらうという荒技で上海に到着しました。続く第一次大戦の際は、当初中国が中立を取ったので、交戦国艦艇として抑留されたこともありました。
ちなみにこの時代のカラーリングは船体が白、上甲板以上の構造物がクリーム色というものでした。

(2003/9/1更新)
砲艦「鳥羽」(1936)
鳥羽の新造当初の艦橋は吹きさらしでしたが、やがて固定天蓋や後檣などが取り付けられ、兵装も機銃が増設されているほかに防盾がつけられるなど物々しさが増しています。カラーリングは上海事変(1932)以後、白一色とされましたが、さらに37年の日中戦争勃発以後は鼠色となりました。ちなみに太平洋戦争の開戦時には上海で英砲艦ペテレルを撃沈、米砲艦ウェーキを捕獲するなどの戦果を挙げます。大戦中は上海〜南京間の警備を務め、上海で終戦を迎えたのち、中国軍に接収されました。

(2003/9/27更新)
砲艦「嵯峨」(1936)
宇治(初代)だけでは手薄な、中国の沿岸部を含む比較的広い区域での警備を担当できるよう新たに建造されたのが本艦で、1912年竣工しました。宇治では不十分とされた航洋性、居住性、兵装などすべての面の改善が図られ、艦型も大型化しています。
基準排水量685トン 兵装は12センチ単装砲×1、8センチ高角砲×3など。
第二次大戦開戦時にはかなり老朽化していましたが、そのまま参戦、香港攻略に参加後はその周辺を中心に行動、44年9月にいったん触雷沈没ののち浮揚され、香港で修理中の45年1月、爆撃により再び沈没し、その生涯を終えました。

(2003/10/3更新)
砲艦「安宅」(1922)
第一次大戦後に対中国の権益拡大にともなって警備強化の必要性が生じたので、八八艦隊計画に計上される形で建造され、1922年に就役しました。とくに重視されたのが旗艦設備で、居住性と通信施設の充実がはかられ、兵装も駆逐艦と同じ12センチ砲を採用するなど強化されています。基準排水量725トン、主兵装は12センチ単装砲×2、8センチ高角砲×2など。
当初の艦名は「勿来」を予定していましたが、漢文読みにすると「来る勿(なか)れ」となり、ただでさえ対日感情が悪化している中ではさすがにこの名前はマズいだろうということで改められたのはわりと知られた話ですね。

(2003/10/3更新)
砲艦「安宅」(1943)
長江での行動を考慮して吃水を深くできず、また居住性の向上を図るうえで乾舷も高くなり、さらに重武装化といったことが重なり、復原性に不安を生じて1934年と1937年に性能改善工事が実施されています。この際、バラストの追加、艦橋の固定天蓋化、後部構造物の拡張と、前檣の短縮と三脚化、後部の12センチ砲を撤去などがなされ、中央部におかれていた高角砲を後部主砲跡に移設しています。
第二次大戦中は長江下流域と中国沿岸部を中心に船団の護衛などにたずさわり、終戦時は上海で中国側に接収されました。
かつては全体が白色に塗られていた砲艦は、1937年の日中戦争勃発以来鼠色にされたので、今回、シリーズ初の軍艦色塗装となっています。

(2003/10/3更新)
砲艦「勢多」(1923)
安宅と同様、八八艦隊計画で建造されたこちらは河用砲艦。鳥羽をベースに大型化と速力向上をはかっています。勢多のほか比良、堅田、保津と同型艦4隻が一挙に建造されて、昭和初期における長江警備の主力となりました。これらの艦はみな、国内の造船所で建造されたのち、ノックダウンで漢口と上海にて組み立てられるというかたちで就役しています。基準排水量330トン、速力16ノット。主な兵装は8センチ高角砲単装×2

(2003/10/3更新)
砲艦「勢多」(1938)
勢多型各艦も上海事変等の戦訓により、艦橋の固定天蓋化や高角砲への防盾取り付け、機銃の増設などがなされています。また日中戦争開戦後は他の砲艦と同様、鼠色に塗り替えられましたが、色調は通常よりも明るめだったということです。
太平洋戦争のあいだも長江の警戒につきますが、戦局の悪化とともに敵航空機からの攻撃も激しくなり、熾烈な対空戦闘へと巻き込まれていきました。その後、勢多以外のすべての艦は空襲により大破擱座、あるいは行動不能といった状況で終戦を迎えています。

(2003/10/13更新)
砲艦「熱海」(1929)
昭和2年度の補充計画で勢多型の改良型として2隻建造され、1929年に熱海が、翌30年に二見が竣工しました。減水期でも長江上流まで遡上できるように一回り小型化されたほか、これまでの河用砲艦の使用実績を加味した設計となり、初代の伏見・隅田から勢多型に至る英国式の設計からは一線を画した形態となりました。速力は三峡の急流を乗り切るためにやはり16ノットを与えられています。
また、これまでの河用砲艦はノックダウンを現地組み立てという形がとられてきましたが、このときはいずれの艦も好天の日程を選んで内地から自力で航行しています。
基準排水量205トン。主な兵装は短8センチ高角砲単装×1、7.7ミリ機銃×5など。のち、太平洋戦争前には後部上構天蓋上に13ミリ連装機銃が増設されたほか、戦時中には短8センチ高角砲が長砲身のものに換装されたりしています。
開戦後はやはり長江での哨戒活動にたずさわり、たびたび空襲で損傷を受けながらも同型艦の二見ともども終戦まで生き残って、いずれも中国に接収されました。熱海は「永平」、二見は「永安」と改名され、1960年頃まで使用されたということです。
竣工時の塗色はこの年代だと上構が黄褐色のはずなのですが、写真を見る限りどう見ても白塗り一色にしか見えないので、このようにさせてもらいました。

(2003/10/13更新)
砲艦「伏見」(1939)
日本の建造した最後の河用砲艦で、マル三計画で建造されました。従来の各艦が年代を経るごとに重量増により乾舷が低下、ひいては航行能力の低下に悩まされてきたので、前の熱海型より大型化し、かつ余裕を見込んだ設計となりました。また、艦型のわりには高速が要求されるため、機関に初めてタービンが採用され、17ノットを発揮できるようになっています。基準排水量304トン 主な兵装は短8センチ高角砲1門、25ミリ連装機銃×1。同型艦は隅田(二代)。
竣工後はやはり自力で中国まで回航されました。また、完成が日中戦争勃発後であったため、当初から塗色は鼠色となり、これまでの艦のような白塗装がなされることはありませんでした。

(2003/10/13更新)
砲艦「伏見」(1945)
太平洋戦争中は、この伏見型の2隻も他の河用砲艦と同様に長江流域の哨戒任務につきますが、大戦中盤以降になるとたびたび空襲を受けるようになります。そのため、塗色も1943年以降は褐色塗装となりました。いわゆるカーキ色ですね。また、平時のような外交上の意義も薄れて格式も必要なくなったために、44年10月1日付で軍艦の類別から除かれ、菊花紋章も取り外されてしまいます。なお、この間艦首の8センチ砲は長砲身のものに換装され、機銃も増設されました。
伏見、隅田の両艦とも終戦まで生き残り、中国に接収された後はそれぞれ「江鳳」「江犀」と改名され、60年代まで使用されたといいます。

(2003/10/19更新)
砲艦「橋立」(二代)
日本が建造した最後の砲艦です。伏見型(二代)と同じマル三計画で、安宅などの旗艦設備を有する航洋型砲艦の代艦として計画されました。上海事変の戦訓から兵装が強化されたうえ、凌波性と居住性を両立させるために船首楼が長くなり、その反面後部の構造物はシンプルになったので、規模も外観もほとんど海防艦と変わらなくなっています。主砲が12センチ高角砲3門というのはのちの甲型海防艦と全く同じですが、前部が連装、後部が単装というのはちょうど逆ですね。ただし、吃水を浅く、乾舷を高くとらなければならないのと、比較的重兵装が求められたので、適切な復原力を得るために設計上苦労させられたそうです。そのため、防弾版などは取り外し式になっていて、外洋航海の際には艦底部に収納する必要がありました。
基準排水量999トン、速力19.5ノット。
1940年に竣工した後は同型艦の宇治(二代)とともに中国沿岸部から近海の船団護衛や哨戒活動に就いていました。44年5月に橋立は米潜にやられてしまいますが、宇治の方は最後まで生き残り、中国に接収されました。当初は国民党軍の「長治」として活動しますが、やがて共産党軍に寝返ったのち「南昌」と改名され、1980年代まで使用されたといいます。

哨戒艇

(2004/12/28更新)
哨戒艇第102号
ご存知の方も多いでしょうが元は米駆逐艦スチュアートです
1942年2月、バリ島沖開戦で損傷した同艦はスラバヤのドックに入梁中、作業ミスにより横転、日本軍の上陸目前にして港内にて自沈の憂き目に遭いました

翌年日本軍によって引き上げられ同地にて所要の改修の後、哨戒艇「第102号」として就役、終戦まで活動しました
改修の要点は第1煙突の誘導煙突化による第2煙突との一体化、兵装の交換(終戦時の装備は8cm単装砲*2 25mm連装機銃*4 同単装*8)

アイコンは終戦後米軍に引き渡された後の状態です
武装は総て撤去され艦首には米艦時代の艦番号、舷側には日の丸が記されていますから、おそらく引き上げ船としての活動時と思われます
最後は終戦の翌年の5月24日、、標的艦として戦闘機のロケット弾により沈められました

輸送艦

(2002/12/2更新)
(2003/3/6更新)
一等輸送艦 (呉工廠建造艦)
呉工廠建造艦は艦首が2段に屈折していると言う特徴がある。
基準排水量1500t公試状態排水量1800t 垂線間長89.00m 最大幅10.20m 吃水3.60m 主機艦本式オール・ギヤード蒸気タービン1基1軸 ホ号艦本式水管ボイラー(重油専焼)2基 出力9500軸馬力 速力22.0ノット 燃料搭載量(重油)415トン 航続力18ノットで3700海里 搭載能力(貨物)260トン 14m特型運貨船4隻 40口径127mm89式連装高角砲1基 25mm96式3連装機銃3基、同連装1基、同単装4基(計15挺) 93式水中長音機1基 爆雷18個 乗員(計画)148名
ただし、これは計画値で、機銃等についてはもっと搭載しているようですし、レーダーを装備した艦もあるようです。

(2002/12/11更新)
一等輸送艦 (三菱横浜建造艦)
直線のみで構成された戦時急造に適した艦型、ブロック建造等の技法を取り入れた結果、材料さえ揃っていれば5週間で竣工させることも可能だったようです。そのような急造艦であったにもかかわらず、運用実績は非常によく、海防艦に匹敵する対空、対潜能力、高速商船の50%増しの高速力を活かして本来の輸送任務の他に護衛任務にも使われ、デリック・ポストより後方に設けられた2組のローラー付軌条を使って機雷敷設にまで使用されたそうです。

(2002/12/11更新)
二等輸送艦
SBDこと揚陸艇、陸軍にも引き渡され機動艇として使用されたらしい。

特務艦

(2002/9/23更新)
工作艦「明石」
この艦の活躍は言うまでも無いでしょう。
トラックにありてソロモン諸島の攻防戦を影から支えた功労艦ですね。

(2002/9/20更新)
(2003/3/6更新)
運送艦「間宮」
給糧艦間宮は帝国海軍初の本格的給糧艦として、川崎神戸で22年10月25日起工23年10月26日進水、基準排水量で15820トンの(つまり重巡よりでかくてちょっとした正規空母並)帝国海軍が保有した8隻の給糧艦の中で最も巨大な艦でした。
1万トンの伊良湖が昭和16年に竣工するまで艦隊唯一の本格的給糧艦として馬車馬のごとく走り回り、24年7月15日竣工44年12月20日海南島三亜の東方沖約250海里の南シナ海(17゚48’N/114゚09’E)にてアメリカ潜水艦(SS315)シー・ライオンから発射された魚雷を受けて沈没45年2月10日除籍。
間宮は、生まれてから沈むまで、聯合艦隊と共にあった艦です。

基準排水量15820t 垂線間長144.8全幅18.59吃水8.43m 主機レシプロ3連成3筒2軸 ボイラー8基 10000馬力 速力14ノット 重油2100t 石炭3350t 14サンチ砲単装2基 8サンチ高角砲単装2基 乗員283。
艦名は樺太とユーラシア大陸間の間宮海峡に由来し、海峡名は同海峡を探検した江戸時代の航海家間宮林蔵に由来する。

(2002/9/22更新)
給糧艦「伊良湖」
帝國海軍にあっては間宮と並んで、たった二隻しかいない大型給糧艦として大活躍しました。
就役は昭和十六年の十二月五日、つまり開戦直前です。瑞鶴や大和の完成が開戦のための戦力とするなら、伊良湖も同様に、艦隊を動かすための必要不可欠な戦力だった訳です。
間宮が18,000名の三週間分の生鮮食料を運ぶのに対して、伊良湖は25,000名の14日分とされてますから、少しだけ規模では劣りますが、排水量が15,000トンを超える間宮に対して伊良湖は9,750トンですから、図体の割には大したもんです。もっとも間宮は燃料もついでに運んじゃう多用途運送艦ですが・・・。

(2002/9/23更新)
給油艦「洲埼」
元々艦隊随伴型の戦闘補給艦として計画された一隻で、重油だけではなくガソリンも運ぶ機動部隊用の艦でした。
ちなみに完成は昭和十八年の五月でして、艦隊随伴艦としての特性を発揮することなく、内地と南方のガソリン輸送に従事、爆撃で生涯を閉じました。
ちなみに基準排水量4465トン、ガソリン1080トンに爆弾等440トンの積載能力だったそうです。

(2002/9/23更新)
運送艦「足摺」
洲崎より一回り大きい、同種の補給艦「足摺」です。
一隻で大型空母二隻分のガソリンと弾薬を補給できる強力な支援艦艇だそうです。
基準排水量7951トン、ガソリン2320トン、弾薬880トンを運べます。
完成が昭和十八年で、ガソリン輸送に従事して短い生涯を閉じました。
結局、日本が建造した空母支援艦は、足摺型、洲埼型各2隻の合計4隻でしかなく、そして全部昭和十九年中に失われました。
しかし、この手の艦艇を見ると・・・みんな昭和十九年に喪失なんだよなぁ・・・泣ける。

(2002/9/23更新)
運送艦「風早」
まあ見てのとおりのタンカーですな、当時としても平凡なタンカーでしかありません。
ちなみに、剣埼が空母になっちゃったのが悪いんです(ぉ
艦隊の速度に随伴できるタンカーを持ってない辺りが非常に問題なのですがね・・・・。
さて、風早は昭和十八年に完成、実質半年で潜水艦に食われました。その間、艦隊随伴行動も無く、まあ、影の薄い存在ですな。
基準排水量18,300トン 最大速度16.5ノット 重油10,000トン他

(2002/9/23更新)
運送艦「速吸」
風早型三番艦として計画された「速吸」です。
ご存知のようにカタパルトを積んで補助空母として扱うつもりだったという、まあ、何とも日本的な艦ですね。
言うまでも無く、そんな機会は無く、タンカーとして使われ僅か四ヶ月で沈みました。
要目的には風早と大して変りません。搭載機7機にカタパルトってのが最大の相違点ですかね。

(2002/9/19更新)
運送艦「宗谷」
戦後の南極観測船として有名ですが、この艦は、太平洋戦争における海軍の正規の運送艦27隻のうち、生き残った6隻のうちの1隻でした。
今でも姿を見ることのできる数少ない海軍艦艇の一隻でもありますね。

特設軍艦、徴用船

(2003/3/12更新)
特設巡洋艦「報国丸」
1937優秀船舶建造助成施設として東アフリカ航路用に三井物産造船部玉工場で1940建造された大阪商船の貨客船3隻の第1船。太平洋戦争中、海軍が徴用し15サンチ砲8門(後に14サンチ砲に換装)、魚雷発射管4基、水上偵察機2機を搭載する特設巡洋艦に改造された。報国丸は姉妹船愛国丸と組んで第24戦隊を編成し南太平洋、インド洋で通商破壊戦に従事した。その途中の1942年11月11日、オランダのタンカーを攻撃中、護衛のイギリス艦艇の発射した砲弾が補給用魚雷に誘爆し沈没した。残された愛国丸は姉妹船護国丸(起工時の船名は興国丸)とともに43年に特設運送艦に指定された。しかし、同年11月10日、護国丸がアメリカ潜水艦(SS220)バーブの発射した魚雷を受けて沈没し、愛国丸も44年2月17日、アメリカ第58任務部隊空母搭載機によるトラック空襲に遭遇しわずか2分間で沈没した。
愛国丸の客船時代の要目 10438(9615)T 全長160.8m 全幅20.2m 深さ12.4m 吃水8.8m 主機ディーゼル(三井、B&W)2基1軸 15835bhp 20.9(航海17.0)ノット 先客定員一等34or48(日本の客船1)特三等48三等304計386 乗員133。

(2003/8/11更新)
特設運送艦「極東丸」(1938)
同型船に先駆けて徴用されたため、艦隊随伴の高速給油艦の試験として通信設備やデリックなど、後の姉妹船とは異なった各種装備が施された。
なお、船尾の大型デリックは不要とされたためか後に撤去される。

(2002/12/2更新)
(2003/3/5更新)
特設病院船「氷川丸」
水線幅20.12m 全長155.94m 総トン数11621t 速力18.21ノット

(2003/3/22更新)
(2003/7/13更新)
海軍病院船「高砂丸」

陸軍

(2002/12/2更新)
(2003/3/4更新)
陸軍「秋津丸」
最大幅19m 垂線間長152m 総トン数9190t 速力21ノット 三式指揮連絡機7~8又はカ号観測機27~30 大発等30~60

(2003/3/12更新)
甲型特殊船「にぎつ丸」
秋津丸の姉妹艦

(2003/3/12更新)
(2003/7/10更新)
陸軍病院船「ぶえのすあいれす丸」
1943.12.27 07:00頃
ラバウルからパラオに向けて航行中、B24の爆撃を受ける。左舷船尾への至近弾により、40分あまりで沈没。乗船人員1,422名中、158名戦死。

(2003/6/26更新)
陸軍病院船「ばいかる丸」

(2003/3/12更新)
緑十字船「阿波丸」
日本郵船の貨客船。優秀船舶建造助成施設建造船(第1種)に基づく最終船としてオーストラリア航路用に三菱重工業長崎造船所に発注後太平洋戦争の勃発により設計変更1943年3月5日(昨日だ)竣工し陸軍が徴用44年11月アメリカからの救恤品輸送船(緑十字船)となり、日本各地に点在する連合軍捕虜のための見舞物資を輸送して日本へ帰還中、45年4月1日(アメリカ軍の沖縄上陸当日)台湾海峡でアメリカ潜水艦(SS393)クイーンフィッシュの発射した魚雷3本を受けて被雷後2分で沈没しクイーンフィッシュに救助された船員1名を除く便乗者約1900船員148計2129名全員が死亡。
この時、同船は連合国のために働いていたので、当然、連合国側は安全な航行を保障していた。ために、日本側は船の位置を連合国側に通報し緑十字の標識をつけて運航していた。この時、同船に日本に益するものまで搭載されていた可能性については否定しないが、アメリカ軍の重大なミスであった。これを阿波丸事件と言う。
11249トン 垂線間長153.0全幅20.2深さ12.6メートル 主機ディーゼル2基2軸 16141馬力 速力20.823(航海17)ノット。
三池丸級の3番船。

(2002/9/19更新)
(2003/3/6更新)
陸軍「SS艇」
陸軍 機動艇
全長53m 満載排水量850t 速力14.5ノット 戦車4両 トラック1両 小発2隻 兵員170名

(2002/9/21更新)
陸軍「潜水艦」
水線幅20.12m 全長155.94m 総トン数11621t 速力18.21ノット

小型艇

(2002/9/19更新)
11m内火艇

(2002/9/19更新)
大発動艇(鋼製)
全幅3.35m 全長14.88m 船体重量9.5t 速力9(8)ノット 搭載量 武装兵70名・馬10頭・八九式戦車1両・貨物12t

(2002/9/19更新)
小発動艇
全幅2.44m 全長10.6m 船体重量3.75t 速力10(8)ノット 武装兵40名・貨物3t

補助艦艇規格

(2002/12/26更新)
駆逐艦「綾波」(補助艦艇スケール)

(2002/8/31更新)
水雷艇「鴻」(補助艦艇スケール)

(2005/3/23更新)
特型潜水艦「伊401」(補助艦艇スケール)

(2006/3/17更新)
砲艦「赤城」(補助艦艇スケール)
1885年(明治18年)計画2檣スクーナー型の鋼製砲艦として摩耶級を設計変更、過大に過ぎた砲兵装を改め12cm砲*4とし、船体構造も国産初の全鋼製として設計、1885年横須賀造船所に発注されたものの建造は小野浜造船所で起工、完成前に同所が廃止になり引き継いだ呉鎮守府造船部小野浜分工場にて1890年(明治23年)完成しました
日清戦争、北清事変、日露戦争に活躍、特に日清戦争の黄海海戦では低速のため単独行動中、清国の巡洋艦3隻と交戦、艦長以下28名の戦死者を出す奮闘で致遠撃沈の一助となりました
1911年(明治44年)除籍の後、川崎芳太郎氏に売却されました

アイコンは明治24〜27年頃呉にて撮影されたとされる写真元としています(コンウェイでも図は載っていませんでした)
その他の撮影時期不詳の写真も参考にしていますのでアイコンの時期の確定は不明確です。また全般配置について摩耶のほぼ真横から写された写真も併せて参考としています

計画時の要目
排水量622t 51m*8.2m*2.9m 出力963hp 速力10kt 12cm単装砲*4