日本艦アイコン1
日本艦アイコン解説協力:A-140さん.
SUDOさん.
舞沙Pさん.
hushさん.
和来名春さん.
サバニさん.
中村さん.

航空母艦

(2002/12/22更新)
航空母艦「鳳翔」
1918年に八六艦隊計画の1艦として計画され(当時の類別は特務艦)、先にイギリスで建造された空母アーガスや、建造中の空母ハーミーズを参考にして建造されました。本艦は最初から空母として計画、建造された艦としては世界最初に竣工した艦です。
日本最初の空母ということもあり、竣工後2年で艦橋を撤去するなどの改装を行い、その後も何度か小改装を行った結果、1934年の第四艦隊事件の後で修理、改装を行ってこのような状態になりました。
太平洋戦争では主に訓練艦として使用されましたが、ミッドウェイ海戦では搭載機(九六艦攻でした)が爆撃を受け漂流中だった空母「飛龍」を発見しています。また、昭和19年に飛行甲板の拡張工事が行われ、このとき飛行甲板の大きさが船体を大きく上回ったため以後の外洋航行は断念されることとなりました。
戦後まで生き残った本艦はその後復員輸送に従事し、昭和21年に解体されました。

(2004/9/29)
航空母艦「赤城」大改装後(1938)

(2003/4/27更新)
(2003/6/27更新)
航空母艦「加賀」完成時 (1928)
本艦は日本海軍が計画した八八艦隊の一隻として、当初40サンチ砲10門を装備する戦艦として起工されました。しかし建造中に締結されたワシントン軍縮条約により建造が中止され、そのまま廃棄されることが決定されました。
ところが、この条約によって空母に改装される予定だった巡洋戦艦「天城」が関東大震災に見舞われて大破し改装続行が不可能になり、その代艦として本艦が空母として建造されることなり工事が再開。昭和3年3月31日に空母として完成しました。

本艦は同じ軍縮条約によって改装された「赤城」と共に日本海軍初の大型空母であり、同じ3段式飛行甲板を採用していました。しかし煙突の処理は「赤城」とは異なり、イギリス空母「アーガス」を参考にした、煙突を両舷に分けて艦尾に誘導するという方法をとりました。
しかしこの方法は大失敗で、排煙によって艦尾の気流が乱れて着艦に支障が出る、遠路の途中にある居住区の温度が40度を越す高熱になってしまうなどの問題が出ました。

この他、元が戦艦のため速力が遅いなどの問題もあったため改装されることになりましたが、予算の関係上なかなか着手されず、その間「鳳翔」と共に上海事変に参加、その停戦後の1934年に佐世保工廠で改装工事が開始されました。

(2003/6/13更新)
(2003/6/27更新)
航空母艦「蒼龍」
昭和9年度に建造が計画された本艦は、昭和12年12月29日に呉工廠で完成しました。

本艦の計画時はロンドン海軍軍縮条約下で、この条約で保有可能な巡洋艦の25パーセントに航空機発着甲板を装備することが認められていたこともあり、当初は15.5cm砲5門を装備した航空巡洋艦として計画されました。
ところが設計中に友鶴事件が発生したことで、この航空巡洋艦計画はトップヘビーということで破棄され、純然たる航空母艦として建造されることになりました。
当初は軍縮の制限により排水量1万50トンの計画でしたが、建造中に発生した第四艦隊事件の影響で船体強度が見直され、完成時の排水量は15,900トンまで増加しました。しかし、軍縮条約を既に破棄していたので問題にはならず、搭載機73機(常用57機+補用16機)、速力35ノットを発揮する優秀な中型空母として艦隊に編入されました。

完成直後に日華事変に参戦し広東攻略作戦を支援、太平洋戦争開戦時は略同型艦「飛龍」と共に第二航空戦隊を編成、真珠湾攻撃に参加しました。
その後も「飛龍」と共にウェーキ島攻略、インド洋作戦に参加、昭和17年6月5日のミッドウェイ海戦にも参加しましたが、艦載機の発艦直前に敵爆撃機の奇襲を受けて爆弾3発が命中、8時間炎上した後、沈没しました。

(2003/6/13更新)
(2003/6/27更新)
航空母艦「飛龍」
「蒼龍」の改良型空母である本艦は、昭和14年7月5日に横須賀工廠で完成しました。
本艦は当初「蒼龍」の同型艦となる予定でしたが、軍縮条約の破棄が間近であったこともあり、その制限を受けて設計に無理が生じた「蒼龍」の改良型として建造されることになりました。

主な改良点は船体構造の変更と飛行甲板の拡大、艦橋の大型化と移設で、特に艦橋は他に大改装後の「赤城」にしか見られない左舷中央に配置されました。これは航空機の発艦距離の増大により、前方の艦橋が邪魔になると考えられたため移設されたもので、左舷に置かれたのは右舷中央の煙突と干渉しあうのを避けるためでした。
しかし、実際に運用してみると左舷の艦橋が気流を乱すことで着艦が難しくなることが判明したため、以後の日本空母で左舷艦橋が用いられることはなくなりました。しかし、本艦の性能、船体構造は戦時中に計画された雲龍型航空母艦と基礎となっています。

「飛龍」は完成後、直ちに「蒼龍」と第二航空戦隊を編成、太平洋戦争開戦時の真珠湾攻撃やインド洋作戦にも参加しました。そして昭和17年6月5日、第二航空戦隊司令官山口多聞少将の旗艦として出撃した本艦は、他の三隻の空母が被爆炎上した後も単独で反撃、米空母「ヨークタウン」を大破させました。
しかし、第三次攻撃隊を準備中に敵爆撃機の攻撃を受け爆弾4発が命中、行動不能となり処分が決定。駆逐艦「巻雲」の魚雷1本が命中しましたが沈没せず、翌6日に空母「鳳翔」の搭載機に発見されたため駆逐艦「谷風」が現地に向かいましたが、「飛龍」の姿は既に消えていました。

航空母艦「翔鶴」(1941)
(2003/6/27更新)
(2003/7/3更新)

航空母艦「瑞鶴」(1944)
(2003/7/14更新)
航空母艦「翔鶴」 (1941) / 航空母艦「瑞鶴」比島沖海戦時 (1944)
「飛龍」の拡大改良型として計画された本艦型は、一番艦「翔鶴」が横須賀工廠で、二番艦「瑞鶴」が神戸の川崎重工で建造され、昭和16年8〜9月に完成しました。
本艦は「飛龍」の弱点である防御力と航続力の増大を図ったもので、当初は艦橋も左舷中央に設置される予定でしたが、その使用結果が不良だったため「蒼龍」と同じ右舷前方に艦橋が設置されています。機関出力は日本艦中最大の16万馬力で速力34ノット、搭載機も84機と強力な攻撃力を有し、開戦時の日本海軍で最も有力な空母でした。

二隻とも真珠湾攻撃、インド洋作戦、珊瑚海海戦に揃って参加、ミッドウェイでの空母4隻の損失後は、機動部隊の主力として第二次ソロモン、南太平洋海戦に参加しました。この間「翔鶴」は数度にわたり被弾しましたが、「瑞鶴」は被害なく幸運な戦いぶりを示しています。
その後、昭和19年6月のマリアナ沖海戦にも揃って参加しましたが、その際「翔鶴」が潜水艦の雷撃により沈没、残った「瑞鶴」も10月の比島沖海戦に囮役の機動部隊の旗艦として参加、敵航空機の攻撃により沈没しました。

(2003/2/18更新)
航空母艦大鳳(1944)
大型空母。神戸川崎造船所(大鳳)

(2003/1/23更新)
航空母艦雲龍型(1944)
中型空母。横須賀工廠 (雲龍)他、同型艦5隻

(2003/1/23更新)
(2003/2/13更新)
航空母艦信濃級 (1944)
横須賀工廠で戦艦から改造された大型空母

(2003/6/27更新)
(2003/6/30更新)
航空母艦「神鷹」
ドイツ、北ドイツ・ロイド(NDL)汽船東洋航路貨客船シャルンホルスト(同船については艦船_etcにあります)の後身。
同船はデシマーク社ブレーメン造船所で1934年ヒトラー総統の臨席下に進水35年4月30日竣工後ブレーメン=横浜間に就航していたもので39年8月19日神戸入港後、第二次世界大戦の勃発により帰国不能となり同港芦屋御影沖に係留されていました。1942年になって日本への譲渡の申し込みがあり、戦後船価の2倍を支払う約束で無償引渡しを受けたと言われています。
シャルンホルストは当時のドイツの最新技術を取り入れた凝った船でした。船型は船首尾をカットしたマイヤー型(準姉妹船ポツダムはバルバス・バウを採用)。これは推進効率の向上を狙ったものでしたが、安定にかける部分があり、このため舵取り装置は最新のものを装備していたようです。機関はタービン・エレクトリックで、後述のヴァグナー式高温高圧ボイラーで発生させた蒸気でタービンを回すというものでした(姉妹船グナイゼナウは歯車減速式タービン)。
1942年6月のミッドウェー海戦により生じた空母の不足と、ドイツに空母改装の見本を示すため、同船は9月21日から呉工廠で空母に改装されることになります(これより先、ドイツでもグナイゼナウ、ポツダムをユンカースJu87急降下爆撃機8機とメッサーシュミットMe109戦闘機12機を搭載する空母への改装が計画されたが、実施されませんでした)。隼鷹級を除くと商船改造の空母としては最大最長船であったので、格納庫を2段とすることも可能でしたが、戦時急造の目的で改装は大鷹級とほぼ同じとされ、同工廠で建造取り止めとなった大和級戦艦の4番艦の解体鋼材を使用して工期短縮を図ることになります(このため故福井静夫氏の改装によると、変な所に穴の開いている部分があったそうです)。しかし、図面がごく僅かしかないこと、馴染みのない船型・機関形式から、工事は困難を極めることになります。また、工事簡易化により上部構造が軽くなりすぎ、大型バルジを搭載しバラストを入れることにより復元力を強化したことにより、第1004号艦と仮称されたシャルンホルストが出動公試に漕ぎ着けたのは、43年10月7日となります。ところが、故障が続出し公試は延期に次ぐ延期となります。
原因はボイラーでした。同船のボイラーは、同名の巡洋戦艦シャルンホルスト用に開発された高温高圧のヴァグナー式ボイラーを性能評価用に搭載したもので、470℃で1立方センチあたり50kgの圧力を発生させるという高性能のものでした。駆逐艦島風に搭載されたロ号艦本式水管式ボイラーですら400℃、40kg/立方cm、同時期の空母蒼龍搭載のもので300度、22 kg/立方cmですから、その性能の高さが分かると言うものです。しかし、このボイラーは本国ドイツでも「小児病」と呼ばれた初期トラブルに悩まされたもので、頻繁に爆発事故を起こしており、当時の日本の技術力では手に余るものでした。
このため、1943年12月15日、一応、公試完了とみなされ第1004号艦は空母神鷹として就役しますが(この艦名は原名の類似音に由来します)、ボイラーを使いこなせないので、広工廠で陸上試験用に製造された大型ロ号艦本式ボイラー2基と換装することになります。重さ30トンの大型ボイラーを輸送し、完成したばかりの甲板を何層も切り開いて換装し、関連設備を変更し、復旧工事が終了したのは、突貫工事にもかかわらず就役後3ヶ月経った44年3月で、3ヶ月遅れて改装工事に入った空母海鷹より3ヶ月遅れとなります。
このような苦労の末に就役した神鷹でしたが、7、8月にヒ69船団(復路はヒ70船団)、9、10月にヒ75船団(復路はヒ76船団)を護送したのみで、ヒ81船団を護送して門司からシンガポールへ航行中の11月17日午後11時、アメリカ潜水艦(SS411)スペードフィッシュの発射した魚雷4本を受けて炎上沈没します。沈没位置は済州島西方約150海里の黄海(33゚02'N/123゚33'E)でした。

基準排水量17500t 全長198.34全幅25.6(飛行甲板180x24.5吃水8.18m 主機タービン・エレクトリック(AEGターボ発電機)2基2軸 26000軸馬力(相当) 速力21ノット 重油2760t 航続距離18ノットで8000海里 航空機33(常用27+補用6)機 40口径127mm高角砲連装4基8門 25mm機銃三連装10基+単装約20基計約50 エレヴェーター2基 乗員834名

船舶の迷彩ですが、昭和19年6月5日に保護指示として緑色ベースの迷彩が、500総頓以上の船舶(内海船舶は除く)に適用され、この手の指示(各種搭載標準等とは異なり)としては珍しく、既成全船舶に適用されました。
よって19年後半の貨物船等の船舶はこの色で構わないと思います。
色は船首&船尾部分が緑色(2号)
水線が濃緑色
船体中央部は2号と白色を同量混合した21号
マスト等は2号と白色五を混合
となってます。(白色五とは、どういう意味だろう?)
恐らく想像ですが、船団護衛従事の場合、空母にも同様の塗装が適用されたとしても不思議ではないと考えます。

(2003/6/27更新)
(2003/6/30更新)
航空母艦「海鷹」
特設空母への改造を前提に建造された大阪商船の貨客船あるぜんちな丸の後身です。
(同船については艦船_etcのあるぜんちな丸アイコン解説を見ていただくとして、)
優秀船舶建造助成により南アメリカ東岸航路用に三菱重工業長崎造船所第734番船として1938年2月5日起工12月9日進水39年5月31日竣工した戦前の優秀客船でした。
同船は姉妹船ぶら志゙る丸とともに41年5月1日海軍に徴用され輸送船として使用後、同年12月10日海軍に売却され三菱重工業長崎造船所で空母海鷹に改装されます。
商船を改造した日本の特設空母中、最小であったことから飛行甲板を極力延長し、さらに主機もディーゼルからタービンに換装(陽炎級駆逐艦のものを転用)して2ノット増速させましたが、新型機の運用は不可能であったそうです。
このため、43年11月23日に竣工後は第1海上護衛隊に編入され、大鷹級とともに主として航空機輸送、船団護送任務に従事しています。
1944年1月12日呉出港後第23航空戦隊機を輸送31日シンガポール出港後第551航空隊機を輸送2月11日トラック入港13日トラック出港19日呉入港4月1日門司出港後ヒ57船団を護送16日シンガポール入港21日出港後ヒ58船団を護送して5月3日門司入港29日門司出港後ヒ65船団を護送して6月12日シンガポール入港17日出港後ヒ66船団を護送して26日門司入港
7月12日ヒ69船団に所属して門司出港後航空機65機を輸送20−25日マニラ寄港後マタ01船団に合流27−8高雄寄港後別船団とともに8月3日門司入港後機関の故障により呉で修理に従事10月1日修理完了25日佐世保出港後97式艦攻12機を搭載し航空機輸送に従事する空母龍鳳を護送27−30日基隆寄港11月1日門司入港25日門司出港後ヒ83船団を護送して12月1日高雄を経て12日シンガポール入港26日出港後ヒ84船団を護送45年1月13日門司入港後外洋航行をせず内地で行動
搭載する航空機もなくなり、3月19日の呉空襲で損傷したこともあって特攻兵器の訓練用標的艦や航空機離発着訓練艦として使用されました。その最中の7月24日、空襲を避けて退避した大分湾で機雷に触れて大破します。海岸に擱座して沈没は免れましたが、動かぬ船体は絶好の標的となり、28日の空襲により爆弾1発が命中、着底しました。しかし、その半月後に母国が降伏した時点でも船体は残っており、戦後解体処分となりました。
この海戦にも参加せず、地道な作戦に従事し続けてきた海鷹のハイライトは45年1月、シンガポールからアメリカ潜水艦の跳梁するバシー海峡を通って無事に日本に戻ってきたことでした。空母に改造されることなく客船として沈んだ姉妹船ぶら志゙る丸とともに、戦闘艦艇らしくなかった同艦らしいエピソードです。
基準排水量13600t、全長166.26(飛行甲板160)全幅21.9吃水8.3m、主機タービン2軸、23ノット、搭載機24機、127mm連装高角砲4基8門、25mm3連装機銃8基24挺

余談
西回り世界一周と言う華々しいデビューを飾ったあるぜんちな丸でしたが、設計者であった大阪商船工務課長和辻春樹博士は、竣工直後の造船協会講演会において、このような愚痴を述べています。本来、同船は20ノットで充分なのに空母改造を予定していた海軍の要求により1ノットの増速を求められた。このため2500馬力もの出力増加が必要であり、船型をファインにするため荷物の搭載量が減った。海軍に申し入れたが、駄目だったと。
この時代、海軍にたて突いたとは、大設計家の面目躍如たるものがあると心中喝采を叫ぶのは、私一人でありましょうか。

(2002/12/2更新)
水上機母艦「千歳」
昭和9年度に水上機母艦兼高速給油艦として計画されましたが、本来は甲標的(特殊潜航艇)母艦としての使用が予定されており、また必要に応じて空母に改装することを考慮するという、極めて複雑な意図の下に建造された艦です。本艦の船体中央にある天井のような甲板は機銃甲板と称されましたが、これは空母に改装される際に飛行甲板の一部となる予定でした。

当初はオールディーゼル推進が予定されていましたが、建造中に軍縮条約の期限が切れたためタービンも併載、搭載機28機、速力29ノットを発揮する高性能水上機母艦として、昭和13年に同型艦2隻が完成しました。

昭和15年に2番艦「千代田」が甲標的12隻を搭載する母艦に改装されましたが、戦局の変化によりあまり活躍の機会がなく、昭和17年8月に第二次ソロモン海戦に参加した「千歳」が被爆中破、そして同年12月〜18年2月に空母への改装に着手、昭和18〜19年に工事が終了しました。

(2002/12/2更新)
水上機母艦「瑞穂」
昭和9年に千歳型水上機母艦と同時に計画され、将来甲標的母艦への改造予定があったのも共通していました。ただし本艦の主機はオールディーゼルで、これは大型ディーゼルを試験するためだったと言われています。
完成後から主機の不調が続き、しかも計画速力が22ノットと低い(甲標的母艦としての任務にそぐわない)ことから、いずれ主機を換装するつもりだったか、あるいは実験艦として低速に甘んじたかという点で不明な点を残しています。もし本艦が戦争後半まで生き残っていれば、機関を換装して空母に改装されたであろうと思われます。
戦争勃発後にようやく機関が安定し、全力発揮も可能になりましたが、その直後の昭和17年5月2日、御前崎灯台沖で潜水艦に雷撃され沈没、太平洋戦争で日本海軍が始めて失った軍艦(駆逐艦などを除く分類上の)となりました。

(2003/8/18更新)
水上機母艦「日進」
昭和十七年二月二十七日に竣工した水上機母艦(兼甲標的母艦)
一説には、先に竣工した瑞穂が低速及び機関のトラブルを抱えており甲標的母艦に適していないため、その代わりとして本艦が甲標的母艦に改造されたと言われているが、真偽のほどは定かではない。

本艦も瑞穂同様ディーゼル機関を採用しているが、瑞穂と違い大和型に搭載を予定されていた大出力の13号ディーゼルを搭載しており、この為瑞穂よりも高速であった。

竣工後、昭和十七年四月〜六月の間、潜水戦隊を率いインド洋で通商破壊に従事し、その後ソロモン方面にて輸送任務に用いられたものの、昭和十八年七月二十二日ショートランド北水道にて爆撃を受け沈没した。
要目
全長192.5メートル 基準排水量12,500 
機関出力47,000馬力 速力28ノット 
兵装 14センチ連装砲3基 25ミリ3連装機銃8基 搭載機12機 甲標的12隻
射出機 2基

(2003/7/23更新)
水上機母艦「秋津洲」
昭和14年度のマル四計画で、当時発達著しかった4発飛行艇(大艇)の索敵哨戒における前進基地の支援と工作、および警戒を目的として建造されました。全備重量が最大32トンにおよぶ二式大艇を揚収、整備するため、艦尾に電動式35トン・ジブクレーンを装備。これが本艦のユニークな艦容を象徴するものとなっています。ただし、大艇を収容しても両翼端が舷外に大きくはみ出すので、搭載したまま航行はしないことになっていました。航行中はクレーン前の作業甲板に艦載艇を収容していますが、この図では大艇揚収中のため、下ろしている状態で描いています。また、初代艦長の黛治夫大佐の発案によるという迷彩塗装も特徴の一つで、これは戦没するまでそのまま続けられたといいます。主な武装は12.7センチ連装高角砲×2基。
1942年4月に竣工後、ただちに南方に進出し大艇や水上機基地の支援に就いていましたが、やがて大艇に随伴する機会が減少すると、前線への輸送任務にもっぱら携わることになり、広大な作業甲板とクレーンの搭載力を活かして魚雷艇の輸送もおこなっています。のちには工作艦の喪失が相次いだことから、整備・工作能力を買われて、若干の改装後に工作艦任務に服しますが、それから間もない1944年9月、フィリピン西部のコロン湾で米艦載機の空襲により沈没しました。

戦艦

(2002/11/23更新)
二等戦艦「扶桑」(初代、改装後)
明治11年にイギリスで建造された日本初の近代戦艦で、全金属製の船体と24センチ砲、水線に231ミリの装甲を持つ有力艦でした。完成時は帆走も併用しています。
明治26年に帆走を廃止、武装の近代化を行った後、日清戦争に参戦。その後、明治30年に松島と衝突して沈没、浮揚、修理されてこの姿となりました。
日露戦争にも参戦しましたが老朽化には勝てず、明治41年に除籍、2年後横浜で解体されました。

(2002/11/22更新)
ニ等戦艦「鎮遠」(1892)
元は清国北洋水師所属の甲鉄艦で、明治18年にドイツのフルカン社で竣工しました。
完成当時、本艦と同型艦「定遠」の2隻はアジア最強の戦闘艦であり、当時の日本海軍にはこの2隻に対抗できる火力と装甲を持った艦は存在しませんでした。

日清戦争中の明治28年2月17日に捕獲、3月16日に日本海軍の艦籍に編入されました。なお、日本艦になってからも艦名は清国時代のままとされています。

日露戦争では三景艦と共に第3艦隊第5戦隊を編成し、日本海海戦にも参加しています。しかし既に近代戦艦の時代となっていたため、戦後すぐに1等海防艦となり、明治44年4月1日に除籍、巡洋戦艦鞍馬の実艦的となった後、明治45年に横浜で解体されました。

(2002/10/30更新)
(2004/3/2更新)
戦艦「富士」
明治27年にイギリスのテームズ鉄工所で起工、明治30年8月17日に竣工した日本最初の本格的戦艦です。
もともとは清国海軍の甲鉄艦「定遠」「鎮遠」に対抗できる艦として計画されましたが、予算の関係から起工は日清戦争開戦後となり、結果的に対露戦備の一番手ということになりました。
本艦はイギリスの最新鋭艦であるロイヤル・ソヴリン級をタイプシップとしていましたが、一部に計画中の戦艦マジェスティック級を参考にしていました。主砲は30.5センチ40口径砲を装甲砲塔に収め、速力も巡洋艦「浪速」と同じ18ノットという高性能で、完成当時世界で最も強力な戦艦でした。
主砲の装填機構が古く、砲塔を首尾線上に戻さないと砲弾の装填が出来ないという欠点がありましたが、日露戦争では第一戦隊に所属して活躍、その後は一等海防艦、特艦、練習艦と艦種を変更して太平洋戦争終結まで海軍に在籍、昭和23年に横須賀で解体されました。

(2002/10/30更新)
戦艦「八島」
同型艦の「富士」と同時に計画され、明治27年にアームストロング社エルジック造船所で起工、明治30年9月9日に竣工しました。
日本海軍は「富士」「八島」建造にあたって予算の獲得に苦労し、予算要求が何度も議会で否決されました。最終的にはこの事態を危惧した明治天皇のお声がかりで、6年間にわたる宮廷費の削減と公務員の俸給1割減によって生じた財源で建造されたのは有名なエピソードです。ただ、この建造の遅れは、当時の艦砲の発達が急激で新型艦の装備がすぐに旧式化していたので、それを考えると幸いした面があるとも言えるでしょう。
本艦は基本的に「富士」と同型ですが、舵の取り付け位置に工夫がなされており、その旋回圏は非常に小さかったとのことです。
「八島」は第一戦隊に所属して日露戦争に参加しましたが、明治37年5月15日、旅順港外老鉄山沖で触雷、6時間後に浸水のため転覆、沈没しました。

(2002/10/30更新)
(2004/3/28更新)
戦艦「敷島」
明治29年に対露戦備のためスタートした第1期拡張計画で計画され、明治30年に「富士」と同じテームズ鉄工所で起工、明治33年1月26日に竣工しました。
本艦は当時のイギリス最強戦艦であるマジェスティック級の改良型で、その排水量1万5千トンは世界最大のものでした。先にイギリスに発注された「富士」「八島」に比べ、装甲にハーヴェイ・ニッケル鋼を採用、主缶にベルヴィール缶を搭載、副砲の増強、主砲の装填機構の改良などが行われ、完成当時、世界最強と言われた戦艦でした。イギリスも本艦の優秀さを認め、新たにフォーミダブル級戦艦を建造してこれに対抗しています。

竣工から4年後に開始された日露戦争では第1戦隊に所属して活躍、黄海、日本海海戦にも参加しています。ここでは日露開戦直前、戦時色として採用された灰色(軍艦色)塗装を再現しています。
その後、第1次世界大戦、シベリア出兵に参加し、大正10年9月に一等海防艦、大正12年4月に特務艦(練習特務艦)となり、以後太平洋戦争終結まで海軍に在籍。昭和20年11月20日の除籍後、昭和22年に解体され45年の生涯を閉じました。

(2002/10/30更新)
戦艦「朝日」
明治30年度の第2期拡張計画によりイギリスに発注、明治30年にジョン・ブラウン社で起工、明治33年7月31日に竣工しました。本艦は先にイギリスで建造された「敷島」の準同型艦です。

日露戦争で第1戦隊の一艦として活躍、その後第1次大戦に参加した後、一等海防艦、練習特務艦への類別変更を経たのは「敷島」と同様です。その間、潜水艦救難設備と工作設備を装備して工作艦として使用され始め、昭和12年に制式に工作艦へと艦種類別が変更されました。当時は本格的な工作艦である「明石」はまだ完成しておらず、短期間ながら日本で唯一の(正式な)工作艦として貴重な存在となりました。
太平洋戦争にも参加して南方方面に出撃しましたが、昭和17年5月25日、南シナ海で米潜水艦の雷撃を受け、沈没しました。
なお、本艦の塗装は完成直後の白色塗装としました。

(2002/10/30更新)
戦艦「初瀬」
「朝日」と同じ第2期拡張計画で建造が決まり、明治31年にイギリスのアームストロング社エルジック造船所で起工、明治34年1月18日に完成しました。

本艦は日露戦争時の連合艦隊旗艦であった「三笠」の次に新しい日本戦艦で、日露戦争では第1戦隊の旗艦として旅順包囲戦に参加しました。しかし、明治37年5月15日午前、旅順港外老鉄山南東方面海域を航行中に触雷、航行不能となり、更に曳航準備中に再度触雷、わずか2分で沈没しました。
この直後に戦艦「八島」も機雷により沈没し、日本海軍は当時保有していた戦艦戦力の3分の1を一気に失うという大損害を受けることになりました。
なお、本艦の塗装は日露開戦直前に連合艦隊が編成される前の白黒塗装としました。

(2002/10/30更新)
(2004/2/29更新)

(2004/3/16更新)
戦艦「三笠」
第2期拡張計画でイギリスに発注された最後の戦艦として、明治32年1月にヴィッカース社バロー・イン・ファーネス工場にて起工、明治35年3月1日に竣工しました。
本艦は先に建造された3隻の戦艦とほぼ同型ですが、装甲により強力なクルップ鋼を採用、装甲範囲も拡大され、その防御力は格段に強化されていました。

日露戦争では連合艦隊司令長官東郷平八郎提督の旗艦として活動し、黄海海戦、日本海海戦でも旗艦として全軍の指揮を採りました。特に日本海海戦では敵艦隊の集中砲火の的となり、30.5センチ砲弾10発、15.2センチ砲弾21発という多数の被弾がありましたが、戦闘には支障がありませんでした。
その後、明治38年9月11日に佐世保港に停泊中、弾薬庫の爆発事故を起こして着底しましたが、浮揚されて復旧、第1次大戦やシベリア出兵に参加しました。そして大正12年に軍縮条約により廃棄が決まり、横須賀に記念艦として保存されることになりました。
太平洋戦争終結後に船体の一部解体されるなどしましたが、保存運動が起こって復旧され、現在まで世界に現存する唯一の前弩級戦艦、そして日本海軍唯一の現存する戦艦として、その姿を見ることができます。
なお、本艦の状態は日本海海戦直前、黄海海戦の戦訓によりマスト中央のファイティングトップを撤去したものを再現しました。

(2002/12/2更新)
(2004/8/6更新)
戦艦「壹岐」
前身はロシア戦艦「インペラトール・ニコライ1世」で、明治25年にペテルブルグのガレルニ島工廠にて竣工しました。本艦はロシア海軍初の航洋戦艦で、日露戦争前には太平洋艦隊に所属、しばしば長崎などに入港し日本国民にもよく知られた艦でした。

日露戦争では太平洋第3艦隊司令官ネボガトフ少将の旗艦として日本海海戦に参加しましたが、砲弾の破片により上部構造物にかなりの損害を出し、5月28日に竹島沖で降伏、明治39年まで佐世保工廠にて修理されました。本艦は捕獲された旧ロシア戦艦の中でも被害は軽微で、修理も早期に終了しましたが、低速、弱武装のため修理改装中の明治38年12月11日に一等海防艦となっています。

修復後、韓国、北清方面の警備艦を勤め、明治41年の大演習で特設第三艦隊の旗艦を勤めたりもしましたが、明治44年に鎮遠に代わって横須賀で砲術学校、海兵団の練習艦として繋留。そして大正4年5月に除籍、同年10月3日、巡洋戦艦「金剛」「比叡」の射撃標的艦となり沈没しました。

なお、本艦の転覆、沈没するシーンは、昭和5年の海軍省広報映画「此一戦」に用いられています。

(2002/11/23更新)
戦艦「丹後」
前身はロシア戦艦「ポルタワ」で、明治25年5月1日にペテルブルグの新アドミラルティー工廠にて竣工しました。本艦を含むペトロパブロフスク級戦艦は太平洋艦隊に配属するため建造され、ロシア海軍で始めて列強の戦艦と互角の性能を持った艦でした。

日露戦争時にも太平洋艦隊に所属しましたが、同型艦の2隻は沈没、自沈し、本艦のみが旅順で着底状態で捕獲、舞鶴工廠で明治40年11月まで修理されました。
本艦を含む旅順に着底した戦艦4隻と装甲巡洋艦1隻は当初修理不能と言われ、日本海軍は多大な労力と予算を割いてこれを復旧しました。このことで弩級艦の配備が遅れたという面もありましたが、この修理によって戦艦9隻、装甲巡洋艦9隻を有することになり、これが後の八八艦隊計画の既得権になったとも言われています。

本艦は第1次大戦で第2戦隊に所属して青島攻略作戦に参加しましたが、大正5年4月4日、この戦争では味方となったロシアに譲渡され「チェスマ」と命名されました(旧名は新型戦艦に命名されていたため)。その後は白海で活動し、大正7年3月に連合軍に捕獲、大正11年に解体されました。

(2002/11/18更新)
戦艦「相模」
前身はロシア戦艦「ペレスウェート」で、明治34年6月にロシアの新アドミラルティー工廠で竣工しました。
日本海軍の戦艦や装甲巡洋艦に対抗するため、それまでのロシア戦艦より2〜3ノット早い19ノットという高速性能を有していましたが、反面火力と防御は軽度のものにとどめられました。

日露戦争では太平洋艦隊に所属したものの活躍の機会がなく、明治37年12月7日、203高地から日本陸軍の28サンチ砲に攻撃され、旅順港内に着底しました。

明治38年に引き揚げられ、佐世保工廠で修理と小口径砲の削減、構造物の縮小などによる復原性の改善を施し、明治41年10月に完成しました。しかし既に弩級艦時代となっており本艦の戦力価値は低く、第1次大戦中の大正5年4月4日、「丹後」らと共にロシアに譲渡され旧艦名に復しました。が、白海に回航中の大正6年1月4日、ポートサイド北方6浬の地点で独潜水艦の敷設した機雷に触れて沈没しました。

(2002/11/18更新)
戦艦「周防」
前身はロシア戦艦「ポピエダ」で、明治31年8月1日にロシアのバルチック造船所で竣工しました。
本艦はペレスウェート級戦艦の1隻ですが、全ての装甲にクルップ鋼(他の2隻はハーヴェイ鋼を併用)するなど改良が施されていました。本級は優れた凌波性と航続力、居住性を有した戦艦でしたが、復原性不良と舷側装甲帯の高さ不足など欠点を抱えていました。

本艦も太平洋艦隊に所属したものの、明治37年12月7日に旅順港内で大破着底しました。その後浮揚され横須賀工廠にて「相模」に準じた修理改装が行われ、明治41年10月に完成しました。
本艦は「相模」と異なりロシアに譲渡されることもなく、明治44年8月28日に一等海防艦となり、第1次大戦では青島攻略戦で第2艦隊旗艦として参加しました。そして大正11年4月1日に除籍、その後解体中に転覆し、同年9月15日に呉港外三ツ子島の護岸用として沈置されました。

(2002/11/14更新)
戦艦「肥前」
前身はロシア戦艦「レトウィザン」で、明治35年3月25日にアメリカのクランプ造船所で竣工しました。
本艦はロシア海軍が太平洋艦隊の戦力強化のためアメリカに発注したもので、ロシア戦艦唯一のアメリカ製戦艦でした。日露戦争では旅順艦隊の一艦として活動したものの、黄海海戦で損傷、その後203高地を占領した日本陸軍の重砲攻撃を受け、旅順港内で着底しました。
明治38年に浮揚され佐世保工廠で修理開始、その3年後に完成しました。この際、ロシア時代の段付き煙突が廃止されるなどの改装が行われ、上部構造物はかなり変貌しました。

捕獲艦の中でも最良の艦とされる本艦は、第1次世界大戦でハワイ、アメリカ西岸にて作戦しました。そして大正10年9月1日に一等海防艦となり、大正12年9月20日に除籍、翌年7月25日に標的艦として沈められました。

(2002/11/13更新)
戦艦「石見」
前身はロシア海軍ボロディノ級戦艦「アリヨール」で、明治37年6月2日に竣工しました。
本艦を含むボロディノ級戦艦は日露戦争当時の最新鋭戦艦で、日本海海戦では本級4隻が第2太平洋艦隊に所属して参戦したものの3隻が沈没、本艦も多数の被弾により戦闘力を失い、降伏しました。
降伏後に舞鶴で応急修理を行った後、呉海軍工廠で明治40年まで修理が行われました。元々本艦は復原性不良という問題があり、そのため砲塔式の15.2センチ砲6基を砲郭式の20.3センチ砲6門に換装、小口径砲の削減、上部構造物の低下など徹底した改装が行われ、ロシア時代と大きく異なる艦容となりました。

改装完成から5年後の大正元年8月28日に一等海防艦となり、第1次大戦では青島攻略戦に従事、シベリア出兵で第3艦隊の旗艦を勤めました。そして大正11年9月1日に除籍、大正13年7月9日に三浦半島城ヶ島西方で爆撃標的として沈められました。

(2002/11/3更新)
戦艦「香取」
日露戦争直前の第3期拡張計画により、明治37年4月にヴィッカース社バロー・イン・ファーネス工場にて起工、明治39年5月20日に竣工しました。
本艦はイギリス海軍が建造中の戦艦キング・エドワード7世級を範に取り、中間砲としてより強力な25.4センチ砲を採用、主砲、副砲も45口径となり、防御面も弾薬庫に機雷防御対策を施すなどの改良が施されていました。
なお、本艦は日本戦艦で始めてヴィッカース式の火砲を採用し、それまでのアームストロング式に比べて発射速度、性能が向上していました。これ以降、日本海軍はヴィッカース式の火砲を使用するようになります。

起工後2年で完成したものの日露戦争には間に合いませんでしたが、就役当時の日本戦艦は3隻に減少していたため、姉妹艦鹿島と共に貴重な戦力となりました。
第1次大戦、シベリア出兵に参加したものの特に目立つ戦歴はなく、ワシントン軍縮条約により大正12年に除籍、2年後解体されました。

(2002/11/3更新)
戦艦「鹿島」
「香取」と同じ第3期拡張計画に基づき、明治37年2月にアームストロング社エルジック造船所で起工、明治39年5月23日に竣工しました。元々は「香取」より3年遅れで建造される予定でしたが、ロシア太平洋艦隊の増強に対応するため工期が繰り上げられました。
本艦は「香取」と同じ基本計画で建造されましたが、日露戦争直前で就役が急がれたため、細部の設計や艤装は建造する造船所に任されていました。そのため、同型艦ながら両艦はかなりの相違があります。なお「鹿島」の装備していた火砲はアームストロング式となっています。

本艦も日露戦争に間に合わず、出撃したのもシベリア出兵時のみと地味な存在に終始し、軍縮条約により大正12年に除籍、翌年解体されました。

(2002/11/6更新)
戦艦「薩摩」
明治37年度の日露戦争臨時軍事費により計画され、明治38年5月に横須賀海軍工廠で起工、明治43年3月25日に竣工した、日本海軍初の国産戦艦です。
建造当時、世界最強艦たることを期して建造された本艦は、主砲に30.5センチ45口径連装砲2基、中間砲として25.4センチ連装砲塔6基を装備し、副砲も12センチ砲を12門搭載していました。本艦の火力はイギリスの戦艦ロード・ネルソン級を上回り、準弩級戦艦としては世界最強のものでした。排水量も2万トン近くで当時世界最大だったので、本艦が進水する際には、無事成功するか否かの賭けが横浜在住の外国人の間で行われたそうです。
鋼材の入手の遅れなどから建造に5年を費やし、その間にイギリスで革新的な戦艦ドレッドノートが就役したため、本艦の戦力価値は大きく減少しました。本艦の計画時には30.5センチ連装砲塔4基を中心線上に配置する案もあり、これが不採用になったことが惜しまれます。ただ戦時中の建造計画で、しかも初の自国製戦艦であることを考えると、旧来の戦艦の発展型となったのは仕方ないところでしょう。

本艦は完成後、第1次大戦でドイツ領の南洋諸島攻略作戦に従事したものの、それ以外は出撃の機会がなく、ワシントン軍縮条約により大正12年9月20日に除籍。大正13年9月2日、戦艦「日向」「金剛」および巡洋艦の砲撃、駆逐艦の雷撃の標的として沈められました。

(2002/11/6更新)
戦艦「安芸」
「薩摩」と同じ日露戦争臨時軍事費により建造が決定され、明治39年3月に呉海軍工廠で起工、明治44年3月10日に竣工しました。
本艦は着工が「薩摩」より遅かったため、副砲を15.2センチ砲8門に変更、副砲砲郭の防御強化などの改正が行われましたが、最大の変更点は機関で、日本戦艦で始めて直結式タービン機関を搭載、速力が20ノットに向上しました。このタービンはアメリカのカーチス社から購入したもので、その採用はイギリス戦艦ドレッドノートの影響によるとされます。
なお、この薩摩型戦艦は始めて国産の宮原缶を搭載し、かつ初の石炭、重油混焼缶を搭載した戦艦でもあります。

本艦は第1次大戦で東シナ海や黄海の警備に従事した以外は特に戦歴もなく、軍縮条約により大正12年9月20日に除籍。
大正13年9月6日、摂政宮(昭和天皇)、軍令部総長、連合艦隊司令長官の見守る中、戦艦「長門」「陸奥」の研究射撃の標的艦として沈められました。

(2002/11/8更新)
戦艦「河内」
明治40年度の海軍整備計画で計画され、明治42年4月に横須賀海軍工廠で起工、明治45年3月31日に竣工しました。
本艦は日本海軍最初の弩級戦艦とされ、主砲を背負い式に装備するなどの案もありましたが、結局採用されたのは薩摩、安芸の発展型となる、独戦艦ヘルゴランド級と同じ前後に2基、両舷側に2基ずつ装備するというものでした。この配置により、搭載主砲12門のうち、舷側に向けられるのはわずか8門でした。
なお、本艦の艦首は日本戦艦には類のない垂直艦首となっています。これは同型艦摂津との識別のため、あるいは威容を増すためとの説がありますが、結果は凌波性の低下を招いただけでした。

「河内」は竣工の翌日に第1艦隊旗艦となり、第1次大戦に参加しましたが、戦時中の大正7年7月12日、徳山湾に停泊中、1番砲塔火薬庫の爆発事故を起こして沈没。その後現場で解体されました。

(2002/11/8更新)
戦艦「摂津」
「河内」の同型艦として明治40年に計画され、明治42年1月に呉海軍工廠で起工、明治45年7月1日に竣工しました。本艦は凌波性の改善のため、薩摩型と同じクリッパーバウを採用しています。
この河内型戦艦の主砲は、舷側の4基は従来の45口径30.5センチ砲でしたが、艦首尾の主砲には50口径砲が採用されていました。これは艦首尾線上の火力を重視した建造当時の軍令部長東郷平八郎大将の強い主張に拠ったといいますが、結果的に舷側の主砲と弾道特性が異なり、射撃統制が困難になりました。それと砲身の磨耗が激しいため、50口径砲は通常装薬を減じて使用されたとのことです。
このような欠点もあり、また完成後ほどなく超弩級巡洋戦艦金剛型が登場したため、目立たない存在となってしまいました。

第1次大戦では第1艦隊の旗艦として活動し、その後ワシントン軍縮条約で新型戦艦「陸奥」の保有が認められたことから、戦艦枠外の標的艦への改装が決定。昭和12年10月1日に標的艦となりました。

戦艦「金剛」(1913)
(2002/9/30更新)
(2003/6/3更新)
(2003/6/22更新)
(2003/8/31更新)

(2006/6/16更新)

巡洋戦艦「金剛」(1931)
(2003/8/18更新)
戦艦「金剛」(1913) / 戦艦「金剛」第一次改装後 (1931)
本艦は日本初の超弩級巡洋戦艦で、明治44年1月17日にイギリスのヴィッカース社バロー・イン・ファーネス工場にて起工、大正2年8月16日に竣工しました。
明治40年に計画された当時は30.5cm50口径砲10門を搭載する巡洋戦艦を国産する予定でしたが、同時期にイギリスで使用されていたこの砲の実績が思わしくなく、また同国でライオン級巡洋戦艦が起工されることになったため、明治44年に建造計画が変更。世界に先駆けて35.6cm砲を搭載する強力な巡洋戦艦として建造されることになりました。
一番艦「金剛」がイギリスに発注されたのは、弩級戦艦の建造で列強に立ち遅れた日本が技術導入を図ったためであり、ヴィッカース社から設計図を買い取った日本海軍は同型艦3隻を国内で建造、これにより日本の戦艦建造技術は大幅に進歩しました。
ちなみに、金剛型巡洋戦艦はイギリスのライオン級戦艦の改造型されていますが、船体デザインはヴィッカース社が同時期にトルコから受注していた戦艦(後の英戦艦「エリン」)の砲塔を一基減少させたものでした。この設計の優秀さはイギリス海軍も認めており、後に略同型艦となる巡洋戦艦「タイガー」を建造しています。

「金剛」は第一次大戦に参加後、昭和3年10月20日から横須賀工廠にて第一次改装に着手、昭和6年9月20日に工事を完了しています。この際、防御力の強化によって速力が低下したため艦種が戦艦に変更されました。それから4年あまりその状態で過ごした後、昭和10年6月1日より再び横須賀工廠にて改装を開始しました。

戦艦「金剛」(1941)
(2003/8/3更新)
(2003/8/31更新)

戦艦「金剛」(1944)
(2002/9/30更新)
(2003/6/3更新)
(2003/6/8更新)
(2003/6/10更新)
(2003/6/22更新)

(2003/8/31更新)
戦艦「金剛」開戦時 (1941) / 戦艦「金剛」比島沖海戦時 (1944)
昭和10年より開始された「金剛」の第二次改装は昭和12年1月8日に完成しました。
このときの改装は、主に機関の換装による速力の向上と砲戦距離の延伸を図ることを目的としていました。
この改装により速力30ノットの高速戦艦となった「金剛」は、第一艦隊第三戦隊に所属して太平洋戦争を迎えます。
開戦当初のマレー半島攻略支援を皮切りに、インド洋作戦、ミッドウェイ作戦に参加。特に昭和17年10月13日に「榛名」と共に行ったガダルカナル島飛行場への砲撃はつとに有名です。
昭和19年にはマリアナ沖、比島沖海戦に参加。
サマール島沖海戦では護衛空母ガンビア・ベイと駆逐艦サミュエル・B・ロバーツを撃沈しました。しかし作戦終了後、日本本土への帰途台湾海峡にて米潜水艦の魚雷4本が命中、基隆北方60浬の地点で沈没しました。

アイコン上は開戦時の金剛(1941年頃)、アイコン下は昭和19年10月、比島沖海戦時の「金剛」を表現しています。

(2005/11/7更新)
(2006/6/16更新)
練習戦艦「比叡」(1936)
金剛型戦艦の二番艦である本艦は、明治44年11月4日に横須賀工廠にて起工、大正3年8月4日に完成しました。

昭和4年9月に呉工廠にて第一次改装工事に着手しましたが、その最中に締結されたロンドン軍縮条約により、本艦は戦闘任務に適さない練習戦艦へと改造されることになりました。
これに伴い、主砲一基と舷側装甲鈑の撤去、罐の換装によって速力を18ノットへ減少、新型の九一式高射装置と八九式12.7cm連装高角砲を装備するなどの工事が行われ、昭和7年12月1日に完成しています。ちなみに本艦と同じ条件で、英戦艦アイアン・デューク、米戦艦ワイオミングが練習戦艦へと改造されています。

その後、天皇御召艦を6度勤めるなど4年余りを練習戦艦として過ごしましたが、日本が軍縮条約から脱退したため本艦も他の同型艦と同じ30ノットを発揮する高速戦艦へと改装されることとなり、昭和11年11月26日より改装工事が開始されました。

(2002/9/30更新)
(2003/6/6更新)
(2003/6/10更新)
(2003/6/22更新)

(2003/8/31更新)
戦艦「比叡」開戦時 (1941)
第二次改装の際、本艦には先に改装された同型艦3隻の実績に加え、建造中の大和型戦艦の実験的要素が盛り込まれることになりました。その結果、新たに塔型の艦橋構造物の装備など大規模な工事が行われ、昭和15年1月31日に完成しています。

開戦時には真珠湾攻撃の機動部隊の一員として行動し、その後南方攻略、ミッドウェイ海戦に参加しました。そしてソロモンを巡る海戦にも第二次ソロモン、南太平洋の各海戦に参加。昭和17年11月12日のガダルカナル島砲撃作戦の際にも第11戦隊の旗艦として出撃しました。
このとき、待ち構えていた米巡洋艦隊と交戦、軽巡アトランタを撃沈しましたが自身も舵機室に進水し操舵不能。翌日敵機の攻撃を受け船体放棄が決定され、サボ島沖4.6海里の地点で沈没。これにより、太平洋戦争で日本海軍が始めて失った戦艦となりました。

戦艦「榛名」(1941)
(2003/8/3更新)
(2003/8/31更新)

戦艦「榛名」(1944)
(2002/9/30更新)
(2003/6/7更新)
(2003/6/10更新)
(2003/6/22更新)

(2003/8/31更新)
戦艦「榛名」開戦時 (1941) / 戦艦「榛名」比島沖海戦時 (1944)
金剛型戦艦の三番艦として、明治45年3月16日に神戸の川崎造船所にて起工、大正4年4月19日に完成しました。本艦は同型艦「霧島」と共に、初めて国内の民間造船所にて建造された日本戦艦です。
大正12年8月〜昭和3年7月に第一次改装が横須賀工廠で、そして昭和8年8月から翌年9月に呉工廠で第二次改装が行われています。これはいずれも同型艦4隻の中で一番早い改装で、そのため第二次改装時の速力向上の際には主罐を11基搭載する(他艦は8基)などの差異も生じています。

開戦時は「金剛」と共にマレー上陸作戦支援に参加、その後ミッドウェイ、ソロモンと転戦し、昭和7年10月13日には「金剛」と共にガダルカナル島ヘンダーソン飛行場を砲撃しています。
その後、マリアナ沖海戦時に被弾して推進軸一基を損傷し、その修理もそこそこに比島沖海戦に参加したものの「金剛」ほど活躍することは出来ませんでした。
結局、金剛型戦艦の中で唯一内地に帰還したものの、その後は燃料の不足により江田島に係留されるだけとなり、昭和20年7月28日の呉大空襲で直撃弾13発などの被害を受け着底。昭和21年に解体されました。

アイコン上は開戦時の榛名(1941年)、アイコン下は昭和19年10月、比島沖海戦時の「榛名」を表現しています。

(2003/6/13更新)
(2003/6/22更新)

(2003/8/31更新)
戦艦「霧島」開戦時 (1941)
金剛型戦艦の最終艦である本艦は、明治45年3月17日に長崎の川崎造船所で起工、大正4年4月19日に完成しました。当初、本艦と「榛名」の予定艦名は逆のはずでしたが、建造所と所属軍港の所在地を考慮して入れ替えられたとされます。
昭和2年6月〜5年5月に呉工廠で第一次改装、昭和8年5月〜11年6月に佐世保工廠で第二次改装が行われ、同型艦と同じく30ノットを発揮する高速戦艦として再生しました。この金剛型4隻は、対抗できる高速大型艦艇を持たないアメリカ海軍にとっても大きな脅威であり、後にアイオワ型戦艦が計画された理由は金剛型への対抗だったとされます。

開戦時は「比叡」と共に真珠湾攻撃の機動部隊に参加し、その後ほとんどの場合「比叡」と行動を共にし各地を転戦しました。
そして昭和17年11月14日、前日の「比叡」が沈没した戦闘で生き残った本艦は、再びガダルカナル島を砲撃に向かいました。そして待ち構えていたアメリカ戦艦「サウスダコタ」「ワシントン」と交戦、「サウスダコタ」を撃破したものの、所在を確認できなかった「ワシントン」からの反撃により航行不能となり、翌日サボ島西方7.5海里の地点で沈没しました。

アイコンは太平洋戦争開戦時の「霧島」を再現しています。

(2002/9/30更新)
(2003/6/15更新)
(2003/7/2更新)

(2003/8/31更新)
戦艦「扶桑」(1915)
本艦は金剛型巡洋戦艦に対応する日本初の超弩級戦艦として計画され、一番艦「扶桑」が明治45年3月11日に呉工廠で、二番艦「山城」が大正2年11月20日に横須賀工廠にて起工、それぞれ大正4年11月8日、同6年3月31日に完成しました。
扶桑型戦艦は軍艦史上初めて3万トンを超えた艦で、完成時は武装、速力、防御すべてにおいて、当時の最強戦艦であるイギリスのクイーン・エリザベス級に次ぐ強力な艦でした。しかし、中央部の2砲塔を後部罐室の前後に配置したため艦の全長にわたって砲塔を満遍なく配置することとなり、主砲の一斉射撃時には爆風が全艦を覆い、構造物に大きな影響を与えるという欠点がありました。
そのため3、4番艦として予定された2隻は主砲配置を変更、伊勢型戦艦として完成しています。
両艦とも昭和5年から第一次改装に着手、「扶桑」は昭和8年に艦隊に復帰しましたが、翌年から再び1年間の改装工事を行っています。一方「山城」も昭和5年〜10年にかけて第一次改装を行い、その後両艦とも昭和12年から翌年にかけて第二次改装を行い、艦容が一変しました。

戦艦「扶桑」(1941)
(2002/9/30更新)
(2003/6/15更新)
(2003/7/2更新)

(2003/8/31更新)

戦艦「扶桑」(1944)
(2003/6/22更新)
(2003/7/2更新)

(2003/8/31更新)
戦艦「扶桑」開戦時 (1941) / 戦艦「扶桑」比島沖海戦時 (1944)
「扶桑」の三度目となる改装工事は、呉工廠で昭和12年2月26日に開始、翌年3月31日に完成しました。
第一次、第二次改装によって本艦は、水平、水中防御の強化と砲戦能力の向上、速力の増加などの改正が行われました。しかし第一次改装時に艦尾延長を行わなかったため航空機設備を配置する場所が無く、そのため三番砲塔の配置を逆向きにしてその上にカタパルトを搭載しました。
後に艦尾延長が行われたので航空機設備は艦尾に移動しましたが、この紆余曲折の影響で艦橋基部が砲身との干渉を避けるため前方に押し込まれる格好となり、艦容を損なうことになってしまいました。

「扶桑」は開戦時、「山城」と伊勢型戦艦と共に第二戦隊を編成していましたが、ミッドウェイ海戦以外は出撃の機会も無く、候補生実習艦として内地で過ごしたり、輸送作戦に従事したりしていました。
昭和19年10月、ブルネイに進出した「扶桑」は第二戦隊の一艦として比島沖海戦に参加、スリガオ海峡に突入しました。しかし、待ち構えていた米駆逐艦の魚雷が中央部に命中して弾薬庫に引火、爆発して船体を両断され、沈没しました。

戦艦「山城」(1941)
(2002/9/30更新)
(2003/6/15更新)
(2003/7/2更新)

(2003/8/31更新)

戦艦「山城」(1944)
(2003/6/22更新)
(2003/7/2更新)

(2003/8/31更新)
戦艦「山城」開戦時 (1941) / 戦艦「山城」比島沖海戦時 (1944)
「山城」の大改装工事は「扶桑」と異なり二度で終わっています。本艦の第二次改装は昭和12年6月27日に横須賀工廠で開始され、翌年3月31日に終了しています。
本艦は「扶桑」と異なり第一次改装時に艦尾延長工事を行っていたため、当初から艦尾に航空機設備を搭載しています。そのため構造物などの配置、形状を「扶桑」に比してバランスの取れたものにすることができました。

開戦時に第二戦隊に所属していた「山城」ですが、「扶桑」同様ミッドウェイ海戦以外は出撃の機会もなく、輸送作戦や練習艦として戦争の大半の期間を過ごしていました。途中、伊勢型戦艦に続いて航空戦艦あるいは空母に改装するという案も出ましたが、資材の不足などにより断念しています。
昭和19年10月の比島沖海戦でようやく出撃の機会に恵まれ、第二戦隊司令官西村祥治中将の旗艦としてスリガオ海峡に突入しました。しかし、待ち構えていた米駆逐艦の雷撃により損傷、その後戦艦および巡洋艦の砲撃を受けて沈没しました。

(2002/9/30更新)
(2003/6/3更新)
(2003/6/30更新)

(2003/8/31更新)
戦艦「伊勢」(1917)
伊勢型戦艦の一番艦である本艦は、大正4年5月10日に神戸の川崎造船所にて起工、大正6年12月15日に完成しました。なお二番艦「日向」は長崎三菱造船所にて大正4年5月6日に起工、大正7年4月30日に完成しています。
本艦と「日向」は当初扶桑型戦艦の3、4番艦として計画されていましたが、予算の都合で建造が「山城」より1年半も遅れたため、その期間に改良を行い建造されました。主砲は同じでしたが水平、水中防御は強化され、速力も増大、主砲配置も改良されました。また、日本人には砲弾が重過ぎる副砲の15.2cm砲は14cm砲に変更され発射速度が向上しました。
これらの改良により扶桑型戦艦に比して無理は少なくなりましたが、艦内容積が減少したため居住性が悪化し、日本戦艦の中で最も劣悪と評されることになってしまいました。
「伊勢」「日向」共に幾度か小改装を施されながら戦力を強化していましたが、「日向」は昭和9年、「伊勢」は昭和10年から共に呉工廠にて大改装を開始しました。

戦艦「伊勢」(1941)
(2002/9/30更新)
(2003/6/8更新)
(2003/6/30更新)

(2003/8/31更新)

戦艦「日向」(1941)
(2003/7/23更新)
(2003/8/31更新)

戦艦「日向」(1942)
(2003/8/3更新)
(2003/8/31更新)
戦艦「伊勢」開戦時 (1941) / 戦艦「日向」開戦時 (1941) / 戦艦「日向」ミッドウェイ海戦時 (1942)
伊勢型戦艦の大改装は、まず「日向」が呉工廠で昭和9年11月〜11年9月に行われ、遅れて「伊勢」も昭和10年8月から12年3月まで同じく呉工廠で着手されました。
改装の内容は、他の日本戦艦と同じく主機、主罐の換装と艦尾延長による速力の増加、水平装甲の増加とバルジ装着による水中防御の強化、前艦橋の檣楼化による遠距離砲戦能力の向上などを主眼に置いたものでした。
その後、昭和15年の出師準備工事として機銃射撃装置と防空指揮所の設置、バルジ内への水密鋼管の充填を実施し、更に翌年舷側に消磁用舷外電路を装備し、開戦を迎えました。

開戦後はハワイ作戦支援、東京を空襲した米機動部隊を追撃するなど以外特にこれといった活動は無く、昭和17年5月5日に「日向」が5番砲塔の爆発事故を起こしています。直後にミッドウェイ攻略作戦が控えていたため、「日向」は5番砲塔を撤去しそのバーベット上に25mm機銃を装備しました。
またこの作戦時、「伊勢」「日向」は日本戦艦で始めて電探を搭載した戦艦として出撃しています。
その後、ミッドウェイで空母4隻を失った日本海軍は扶桑型、伊勢型戦艦の空母への改装を決定。
そして「日向」の5番砲塔が破損していたこともあり、まず伊勢型が改装されることになりました。

戦艦「伊勢」(1944)
(2002/9/30更新)
(2003/6/8更新)
(2003/6/30更新)

(2003/8/31更新)

戦艦「日向」(1944)
(2003/7/23更新)
(2003/8/31更新)
戦艦「伊勢」比島沖海戦時 (1944) / 戦艦「日向」比島沖海戦時 (1944)
空母への改装が決定した伊勢型戦艦でしたが、すべての砲塔と構造物を撤去して空母化する案は資材と期間の問題から早々と破棄されました。
そのため、後部の4砲塔を撤去する航空戦艦案が採用されることになりましたが、これも戦局が切迫している現状では他の修理作業などを圧迫する恐れがあるとされ、後部2砲塔を撤去してその部分に航空設備を設置することになりました。
この部分に設置される飛行甲板の広さでは、通常の艦載機を運用することは無理がありました。そのため、搭載機は急降下爆撃が可能な水上偵察機「瑞雲」と、カタパルトから発進可能なように改造した艦上爆撃機「彗星」が選ばれました。
元々日本海軍は戦艦、巡洋艦の搭載機を決戦前に爆装して発進、敵に対し先制攻撃をかけるという思想があったため、その任務に「伊勢」「日向」を使用することが狙いであったと思われます。
「伊勢」が昭和18年2月、「日向」が同年5月から航空戦艦への改装を開始し、それぞれ同年8月23日、11月18日に完成、両艦で第四航空戦隊を編成しました。しかし、搭載機の準備が遅れたため陸軍部隊の輸送などに従事し、結局マリアナ沖海戦にも間に合いませんでした。
その後、搭載予定の航空隊が台湾沖航空戦で消耗してしまったため、比島沖海戦では囮役の機動部隊の一員として搭載機無しで出撃。空母4隻が撃沈された後も敵機の攻撃を巧みな操艦で回避し、本土へ帰還することが出来ました。
その後、両艦は不要となったカタパルトを撤去して輸送作戦に従事、昭和20年2月にはシンガポールから物資を満載して本土に向かう「北号作戦」を成功させました。しかしその後は燃料も無く動くことが出来ず、昭和20年7月24日の呉大空襲で「日向」が着底、28日には「伊勢」も着底してそのまま終戦を迎え、両艦とも翌年解体されました。

戦艦「長門」(1919)
(2002/9/30更新)
(2003/4/30更新)
(2003/5/5更新)
(2003/5/12更新)
(2003/6/20更新)
(2003/8/31更新)
(2006/3/22更新)

(2006/4/3更新)

戦艦「長門」(1930)
(2003/5/16更新)
(2003/6/20更新)
(2003/8/31更新)

(2006/4/3更新)
戦艦「長門」完成時 (1919) / 戦艦「長門」誘導煙突装備時 (1930)
日本海軍が計画した「八八艦隊」の一番手として、大正6年8月28日に呉工廠で起工、大正9年11月25日に竣工しました。

本艦は世界で始めて16インチ砲(実際の口径は41cm)搭載戦艦として計画され、当初は常備排水量32,500トン、速力24.5ノットの計画でしたが、ジュットランド海戦の戦訓により水平防御の強化、速力の向上などの改正が行われた状態で完成しています。しかし対外的には速力23ノットと公表され(実際は26ノット)これは大改装後までアメリカにも把握されることがありませんでした。

結局、ワシントン軍縮条約が締結されたことで八八艦隊の後続艦が建造中止になったため、同型艦「陸奥」と共に世界最強戦艦「ビッグ7」の一艦に数えられ、大和型が登場するまで日本最強の戦艦として君臨しました。

1921年に排煙が逆流して艦橋に悪影響を与える1番煙突に煙よけが取り付けられましたが効果が無く、3年後に煙突を後方に大きく歪曲させる改造が施されています。そして昭和9年4月1日より呉工廠にて大改装が開始され、昭和11年5月2日に完成しました。

アイコン 上は完成時、下は誘導煙突装備時の長門(1930年頃)を表現しています。

(2002/9/30更新)
(2003/5/3更新)
(2003/5/12更新)
(2003/6/6更新)
(2003/6/20更新)
(2003/7/26更新)

(2006/4/3更新)
戦艦「長門」開戦時(1941)
昭和9年から呉工廠で大改装が開始された長門は、昭和11年5月により強力な戦艦として完成しました。
この大改装では、主砲塔を加賀型用のもの(転用ではなく、今回の改装用に新造したもの)に装甲増厚、仰角増大の改良を施して換装。主罐をすべて重油専燃罐に変更。垂直、水平、水中防御の大幅強化と艦尾延長による推進抵抗減少が図られるなどの工事が行われました。しかし完成時からギアード・タービンを搭載していたので機関の換装は行われず、速力は25ノットに低下しています。

なお、同型艦「陸奥」も横須賀工廠で昭和9年〜11年に改装が行われ、長門とほぼ同様の状態となりました。

この後は両艦とも機銃の増備、航空設備の改良など小改装が行われ、昭和16年の出師準備では砲塔、バーベットに装甲を追加、バルジ内に水密鋼管の充填を行いました。

この状態で長門型2隻は開戦を迎え、「長門」は連合艦隊司令長官山本五十六大将の旗艦となっています。

(2002/9/30更新)
(2003/5/3更新)
(2003/5/12更新)
(2003/6/6更新)
(2003/6/20更新)
(2003/7/26更新)

(2006/4/3更新)
戦艦「長門」比島沖海戦時(1944)
開戦直後に「大和」が完成したため連合艦隊司令長官旗艦から外れた「長門」は、その後「陸奥」と共に第一艦隊に所属していましたが、トラック島に進出するなどしたものの戦場に出る機会には恵まれませんでした。その間、昭和18年6月9日に「陸奥」が柱島で第三砲塔火薬庫の爆発により沈没してしまいます。

昭和19年6月のマリアナ沖海戦で、長門は初めて戦場に出撃しました。しかしこのときは働きどころがなく、10月の比島沖海戦でも第二艦隊第一戦隊に所属して出撃したものの、今度も確たる戦果を挙げることは出来ませんでした。
以後は本土に帰還したものの燃料が無いまま動くことが出来ず、横須賀に係留されたまま敗戦となり、日本戦艦12隻中唯一行動可能のまま生き残った艦となりました。

その後、米軍に接収された本艦は昭和21年7月にビキニ環礁で行われた原爆実験に軽巡「酒匂」と共に供され、二度の爆発に耐えるという強靭さを示したものの次第に浸水が増大、29日夜半に波間に没しました。

アイコンは昭和19年10月頃の「長門」を表現しています。

戦艦「陸奥」(1934)
(2003/5/12更新)
(2003/6/20更新)
(2003/8/31更新)

(2006/4/3更新)

戦艦「陸奥」(1941)
(2003/8/3更新)
(2003/8/31更新)

(2006/4/3更新)
戦艦「陸奥」誘導煙突装備時 (1934) / 戦艦「陸奥」開戦時 (1941)
長門型戦艦の2番艦である「陸奥」は大正7年6月1日に横須賀海軍工廠で起工しました。
「長門」より1年近く起工が遅かったこともあり、主砲の増加や集中防御方式の強化などを行った別艦を建造することも考えられていましたが、完成時期が遅れるため見送られています。
大正10年10月24日に竣工しましたが、ワシントン軍縮会議直前で完成が急がれたため、砲関係の装備などで未装備のものが多くありました。そのため軍縮会議で本艦を完成と見なすか否かで紛糾し、結局米英が16インチ砲戦艦をそれぞれ2隻建造することで保有が認められました。

大正12年に前部煙突を歪曲される工事が行われましたが、長門型の誘導煙突は本艦に装備されたものが初めてで、この実績に基づいて「長門」にも同様の工事が行われています。この特徴ある煙突は新鋭艦のシンボルとして広く国民に親しまれていました。

その後、昭和9年〜11年にかけて「長門」と同様の大改装が施され、太平洋戦争に参戦しました。
しかしミッドウェイ、第二次ソロモン海戦以外は戦闘に参加する機会も無く、昭和18年6月9日、柱島泊地に停泊中第三砲塔火薬庫の爆発により沈没してしまいました。

アイコン上は昭和9年の大改装直前、誘導煙突装備時代の「陸奥」、下は開戦時の陸奥(1941年)を表現しています。

(2002/9/30更新)
(2003/1/30更新)
(2003/4/30更新)
(2003/6/19更新)
(2003/8/31更新)

(2004/4/30更新)
戦艦「大和」(1941)
ご存知、日本海軍最後の戦艦にして、世界最大、最強の戦艦です。

ワシントン、ロンドン両軍縮条約が失効した後、日本海軍は仮想敵国アメリカの量的優位に質で対抗すべく、世界最大の46センチ砲を搭載する戦艦を計画しました。アメリカ戦艦はパナマ運河通過のため全幅が33メートルに制限されていたため、後のアイオワ級と同等の性能を持つ戦艦の数値を試算して、大和型の設計を行いました。

大和型の建造にあたっては、主機にディーゼルとタービンを併用する、主砲を前部に集中して配置するなど多くの案がありましたが(利根型重巡の主砲配置や水上機母艦「瑞穂」のディーゼル機関はこの案の実験と言われます)、結局46センチ3連装砲塔3基、タービン4軸、速力は27ノットとされました。基準排水量6万4千トンに達する巨艦ですが、建造にあたっては船体の小型化に意が注がれ、その兵装、防御力に比して非常に小型に作られていました。

1番艦「大和」は呉工廠で建造され、太平洋戦争開戦直後の昭和16年12月16日に完成、2番艦「武蔵」は三菱長崎造船所にて昭和17年8月5日に完成しました。

(2002/9/30更新)
(2003/1/30更新)
(2003/4/30更新)
(2003/6/19更新)
(2003/8/31更新)

(2004/4/30更新)
戦艦「大和」(1944)
昭和16年12月に完成した大和は、その後2年ほどは電探の装備、機銃の追加などの小改装を行ったのみで、専らトラック島で訓練を行っていました。しかし昭和18年12月、トラック島北方で米潜水艦の雷撃を受け、3番砲塔付近の右舷側に魚雷1本が命中しました。

この損害は軽微で、年明けに大和は呉に帰還、損傷修理と同時に、対空兵装の強化工事を行うことになりました。この際、舷側に装備された15.5センチ副砲2基が撤去され、12.7センチ高角砲が24門に倍増されました。また25ミリ3連装、単装機銃も追加装備されています。

この状態で、大和はマリアナ沖海戦、比島沖海戦に出撃しました。

(2002/9/30更新)
(2003/1/1更新)
(2003/4/30更新)
(2003/6/19更新)
(2003/8/31更新)
(2004/4/10更新)

(2004/4/30更新)
戦艦「大和」(1945)
比島沖海戦から帰還した大和は、11月24日から呉で損傷修理を開始し、それと同時に再び対空兵装の強化を行いました。第2、第3主砲塔上や中央部高角砲群の前方などに25ミリ3連装機銃を増設、機銃の総数はおよそ150挺にまで強化されました。同時に主砲の爆風に耐えられないとして単装機銃の大半を撤去しましたが、これは3連装機銃の数が揃ったからという面もあったようです。

これらの改装により個艦としての防空能力は強化されましたが、もはや日本には大和を護衛する艦も、またそれらを動かす燃料もほとんど残っていませんでした。

この状態で、大和は3月の呉空襲に遭遇、そして4月6日、沖縄水上特攻作戦に出撃します。

この作戦の詳細は省かせていただきますが、4月7日、大和は米艦載機群の攻撃により魚雷11本以上、爆弾7発以上を受け、沈没しました。

そうなった経緯などに関する是非は置きますが、左舷に集中して10本以上の魚雷(右舷に1本)を受けるまで沈まなかったその強固さは列国戦艦の中でも傑出しており、46センチ砲の強大な威力と共に、日本戦艦史の掉尾を飾るにふさわしい戦艦であったことだけは確かなように思います。

(2002/9/30更新)
(2003/1/30更新)
(2003/4/30更新)
(2003/6/19更新)
(2003/8/31更新)

(2004/4/30更新)
戦艦「武蔵」(1944)
大和型戦艦の2番艦である「武蔵」は昭和18年1月にトラック島に進出、大和に変わって連合艦隊の旗艦となりました。これは本艦を建造した三菱長崎造船所が多くの客船を建造した経験があり、内装が海軍工廠で建造された大和より豪華だったからだそうです。

その後は主にトラック方面で活動していましたが、昭和19年3月に米潜水艦の攻撃を受け小破。
そして修理と同時に、大和に準じた対空兵装の強化工事が行われました。ただ、12.7センチ高角砲の手配が間に合わなかったため、副砲を撤去した跡の高角砲台には25ミリ3連装機銃が搭載されています。比島沖海戦時の武蔵の搭載機銃は約130挺でした。

この状態で武蔵はマリアナ沖海戦、比島沖海戦に出撃。比島沖海戦ではシブヤン海で敵機の集中攻撃を受け、実に魚雷20本、爆弾17発の命中により沈没しました。なお、これだけの損害を受けながらも主要防御区画は破られず、沈没の原因は非防御区画への浸水の増大でした。

武蔵がこれほどの耐久力を示したため、アメリカ軍は大和への攻撃の際、片舷に魚雷攻撃を集中させるようにしたとのことです。

巡洋艦で見る帝國海軍史 (プチ魚雷は大人になってから1)解説SUDO氏 掲示板投稿文より抜粋(大淀、八十島の解説サバニ氏)

(2002/9/27更新)
二等巡洋艦「浪速」
明治19年竣工、明治45年座礁沈没。日清日露の両戦役に参加、日清戦争の東郷艦長の行動は有名です。
二番艦の高千穂は明治19年竣工、第一次大戦で敷設艦として青島攻略戦に参加しドイツ軍の雷撃から搭載機雷に誘爆し轟沈しました。
強行敷設というのがどれほどリスキーか良くわかりますね。
ちなみに世界的にも初期の防護巡洋艦で、速射砲の魔力を知らない世代の艦らしく、主砲は26サンチを前後に1門ずつとかなりというか馬鹿な重武装でした。

(2002/9/27更新)
二等巡洋艦「千代田」
浪速と同時の明治16年度計画ではフランスにも発注してました。日本へ回航する途中で行方不明になってしまった事で有名な畝傍ですね。
 その保険金でイギリスに発注されたのが、この千代田です。
明治24年竣工で、なんか見かけが古そうですが、主要砲が全て12サンチ速射砲に統一されてます。舷側にも装甲を持つなど、中々意欲的な設計で、速度もこの世代として優秀な19ノット。
日清戦争の黄海海戦勝利の立役者とも言われてます(無茶苦茶な手数を放った)色んな意味で従来の艦とは一線を画する凶悪艦だったわけです。
日露戦争、第一次大戦にも参加し、大正11年除籍、昭和2年射撃標的として処分だそうです。

(2002/9/27更新)

(2002/11/23更新)
二等巡洋艦「厳島」/二等巡洋艦「松島」
この艦は所謂三景艦と呼ばれる、松島、厳島、橋立の三隻のグループに属します。清の装甲艦「定遠」級に対抗して、非常錦に巨大な32糎砲を搭載しています。
これはこの時期の日本の戦闘艦艇の多くに見られる傾向で、600トンの砲艦に24糎砲を乗せようとし、マトモな巡洋艦の浪速も26糎砲を搭載しています(準同型とも言える米国チャールストンは20糎砲)この極端な大火力主義の行き着く先が、この三景艦だったとも言えます。
三景艦はフランスから招聘したエミール・ベルタン氏(後の仏海軍造船総監で19世紀末〜20世紀初頭の仏主要艦艇の設計に携わった)の設計です。この艦は極端な大口径砲を無理やり載せるという根底が問題である事を別にすると、実に良く出来たデザインであり、ベルタン氏のセンスの良さを感じますね。
さて、この大砲ですが、フランス製なのは良いとして、採用時にも運用コストの高さに懸念の声もあり、就役後も十分な訓練が出来なかったようです。この大砲の採用が明治21年。翌年英アームストロング社の速射砲も採用されます。三景艦はこの12糎速射砲も副砲として搭載し、そっちが実戦では役立ちました。
ちなみに、黄海海戦で鎮遠は220発、定遠は159発を被弾しましたが、実戦力には特に影響は無かったようです、速射の威力と限界の双方が明らかになり、そういう観点では、日本がこのような装甲をぶち抜く大砲も備えようとしたのは正しいのですが・・・。
この大砲、三隻三門で発射はたったの13発、命中はありませんでした。故障・射撃速度等の不具合は本来は海戦前に入念なトラブル洗い出しをしておくべき事柄で、決して三景艦だけが悪いのではないのですが、当時の日本には、この手の大口径を使いこなすだけの国力も無かったんですね。
この艦の実用性の低さは建造当初から判っていたわけで、日本は四隻目の建造を諦め、独自に普通な艦を建造しちゃいます。これがプライドの高いフランス人であるベルタン氏を怒らせ、彼は帰国しちゃいました。気持ちは判ります。無理な注文をしてきたのは日本軍で、それに対して一つの解決案を提示したら、それを十分に使いこなす事も出来ずに「こんなん駄目じゃん」って貶されたら気分は良くないでしょう。
この三景艦は明治24、25年にフランスで厳島と松島が、27年にパーツを輸入して横須賀で橋立が竣工しました(ベルタン氏は橋立の建造にあたって指導するという役割もしてる訳です)
厳島は大正八年に除籍。松島は明治41年に火薬庫の爆発事故で喪失。橋立は大正十一年に除籍されました。

(2002/9/28更新)
三等巡洋艦「秋津洲」
三景艦とセットのはずだったのに、あんな「す的」な艦を提案した「おフランス」に嫌気が差して英国式で独自設計で作ってしまったのが、この「秋津洲」です。

(2002/9/29更新)
二等巡洋艦「吉野」
英アームストロングで建造された、当時世界で一番速い巡洋艦で、23ノットを発揮しました。
竣工は明治26年。日清戦争では最精鋭艦で、第一遊撃隊旗艦をしました。
日露戦争にも参加しましたが、明治37年、苛烈な旅順攻囲戦で、一等巡洋艦春日に衝突され、春日の艦首衝角の餌食となり、わずか10年の生涯を閉じました。

(2002/9/28更新)
三等巡洋艦「和泉」
和泉は世界で最初の防護巡洋艦であるチリの「エスメラルダ」でした(ちなみに、二番目が「浪速」になるわけです)
日清戦争勃発直前にチリから購入しました(この時で艦齢は11年)日本到着が明治28年で、既に戦争は山場を越えてしまっており活躍の機会はありませんでした。
日露戦争時には20年を超える老齢であり、当然活躍の機会は・・・・あったんですな。
日本海海戦において、信濃丸の「敵艦隊ミユ」の通報に真っ先に応じ急行したのが、近くで哨戒中だった「和泉」だったのです。たぶん両軍の中で最も旧式弱体な巡洋艦だったと思うのですが、彼女はバルチック艦隊に張り付き、射撃を受けながら主力部隊にあらゆる情報を送りつづけ、海戦序盤の日本側の有利な位置取りを生み出し、まさに偵察巡洋艦の面目躍如たる行動でした。あの勝利の立役者は多数存在しますが、敢えて一隻を選ぶとするなら、私はこの「和泉」を推します。
明治17年竣工 27年購入 41年除籍。

(2002/9/29更新)
三等巡洋艦「須磨」
秋津洲に続いて国産された小型巡洋艦で、これといった特色も無い、良く出来た平凡艦でしたが、この艦の国産化は後の巡洋艦大量整備の礎となるのです。
須磨は明治29年、二番艦明石は明治32年に竣工し、北清事変、日露戦争、第一次大戦に参加。明石は第二特務艦隊旗艦として地中海に赴くなど、堅実に働き、須磨は大正12年に除籍、明石は昭和3年に除籍、昭和5年に爆撃標的として処分されました。

(2002/10/7更新)
一等巡洋艦「浅間」
元々アームストロング社のストックボートだったのが本級で、日清戦争後に日本に売り込みがありったんですな。
当時日本は、対ロシア用に戦力を整えようと 第一期、第二期拡張計画で、それぞれ2隻ずつの4隻の装甲巡洋艦を各国に発注してましたが、追加でこの二隻も購入が決まり、日本向けに仕様を改めて完成しました。元々建造に着手してた訳で、埼に発注した4隻よりも早く、明治32年に浅間と常盤として完成した訳です。
両艦は日露戦争、第一次大戦に参加し、大正10年に海防艦籍に移りましたが、常盤は翌11年に敷設艦籍に入り、終戦直前まで活動しました。なお浅間は航行不能に近い状態で終戦後に解体されました。

(2002/9/29更新)
二等巡洋艦「笠置」
建造は、吉野達と違って米国のクランプ社に、二番艦「千歳」はユニオン鉄工所に発注されました。これは移民問題で拗れていた日米関係修復という都合もあったようです。クランプでは笠置の次にロシア巡洋艦ワリヤーグを、また平行して戦艦レトウィザンを建造していた訳で、まあ中々米国もやってくれます(笑)
ちなみに笠置の武装は英国に回航して装備され、千歳は日本到着後です、よって戦力として実効力を発揮するのは竣工よりちょっと遅くなります。
笠置が日本に到着したのは(途中で事故もあり)明治32年5月(竣工は明治31年10月)、千歳は(竣工は32年3月で武装が未だだけど)32年4月でした。北清事変、日露戦争、第一次大戦に参加し、笠置は大正5年座礁事故で喪失。千歳は昭和3年に除籍され6年に爆撃標的として処分されました。

(2002/9/29更新)
二等巡洋艦「高砂」
高砂は吉野の準同型艦で、日清戦争後の対ロシアを睨んだ第一期拡張計画で発注されました。
吉野が152mmx4+120mmx8の武装だったのに対し、203mmx2+120mmx10へと武装が変更されてます(他に小口径砲も強化されてます)
明治31年竣工、日露戦争の旅準港外で機雷に触雷し僅か6年半で喪われました。吉野と高砂は一級の高速艦でしたから、この両艦の喪失は、日本海海戦での追撃戦に大きな影響を与えたのではないかと想像します。

(2002/10/7更新)
一等巡洋艦「八雲」
対ロシア戦備の装甲巡洋艦整備計画の第1艦として、ドイツのフルカン造船所に発注されました。
技術取得や政治バランスを考えて、この整備計画では英国以外にドイツ、フランスにも発注している訳です(当時の独仏が反日的なスタンスであった事も重要ですね)
明治33年竣工、日露戦争、第一次大戦等に参加し、後に練習艦として遠洋航海に従事、昭和20年の終戦時でもまだ行動可能で、なんと復員輸送に従事した後に解体されました。よく貢献した艦だったんですな。

(2002/10/7更新)
一等巡洋艦「吾妻」
第一期拡張計画でフランスに発注された装甲巡洋艦です。この時期のフランス艦は強烈なタンブルホームと妙に大きな衝角、長い全長、短い船首といったあたりが特色なのですが、吾妻は無茶苦茶長い事を別にすると、それほど極端な感じでは有りませんね。実はこの後にフランスが建造する装甲巡洋艦は吾妻にも少し似た感じになるんですな。どういう関連があるのでしょうかね(ちなみにその世代の設計は、松島・厳島を設計したエミール・ベルタン)
この日本の装甲巡洋艦発注は、基本スペックだけを要求し、武装を英国式に統一しただけで、細部は描く造船所に一任したので、同一仕様とは思えないほど姿形が違ったりします。
明治33年 フランス、ロワール社サン・ナゼール工場で竣工、日露戦争、第一次大戦等に参加、練習艦任務を経て、昭和19年除籍されて解体されました。

(2002/10/7更新)
一等巡洋艦「出雲」
装甲巡洋艦の塗色は明治34年秋から黒に変更されます。この出雲と二番艦磐手の竣工は33年9月と34年3月ですので完成時はこういう色だったと・・・。(だったら黒で塗れよとか思ったり)
さて、出雲型は第二期拡張計画で英アームストロングに発注されたもので、浅間型の略同型と言えます。少しだけ小さく、また馬力も落ちてますが、ほぼ同等の戦力を持った、つまり当時世界で一番強力な装甲巡洋艦の一つです。
意外に思えるでしょうが、当時の装甲巡洋艦というのは、このような準戦艦的なのは例外で、二等巡洋艦に毛が生えたようなものが主流で、このような準戦艦は戦艦を多数取得出来ない国が持つプアマンズ戦艦であり、戦艦取得が可能になった瞬間に忘れ去られる存在でした。ですが、日本は敢えて、この準戦艦を6隻も取得したのです。単純に考えても、並みの戦艦が3〜4隻は取得できる金額です。内外からの批判は大きかったのではないでしょうか・・・。
結果的に日本のギャンブルは成功しま、この高速似非戦艦というニッチジャンルは巡洋戦艦へと発展し、最終的には戦艦というジャンルすらも飲み込んでいく事になります。
出雲は日露戦争で第二艦隊旗艦を務め、数多の海戦で活躍し、昭和に入っても第三艦隊旗艦として大陸にコミットし、最前線に立ちつづけ、昭和19年に帰国、20年7月24日、呉空襲で、その戦いに明け暮れた長い歴史を閉じました。二番艦磐手も練習艦として遠洋航海に従事し、出雲と共に呉空襲で果てました。
この出雲型巡洋艦は、迷走と闘争に明け暮れた帝國海軍を象徴する存在だったのかも知れません。

(2002/10/1更新)
三等海防艦「高雄」
骨組みこそ鋼鉄ですが、外皮は木製という極めて初期の世代の艦で、明治22年に横須賀で竣工しました。
当時としてはかなり先端的な船だったようですが、こうした小型軍艦は、日清日露戦役では戦力的に厳しく、華々しい活躍機会を得られず二線任務に従事し明治44年に除籍されました。

(2002/10/7更新)
三等巡洋艦「新高」
日露戦争目前の第二期拡張計画で国産された小型巡洋艦です。
系統的には従来の国産巡洋艦の延長なんですが、見てのように吉野型の影響を感じさせるデザインですな。
尤も、吉野型と違い馬力が小さく、見かけほどの性能では有りません(最大速度は20ノットで装甲巡洋艦と同等)日本の巡洋艦は20糎か15糎を主砲として、副砲に15糎か12糎というのが普通でしたが、この新高では全て15糎に統一しているのが目新しいところでしょう。
同型艦の対馬と共に明治37年初旬に竣工し日露さ戦争、第一次大戦で活躍しました。
大正11年に新高がカムチャッカで座礁して喪失しましたが、対馬は練習艦として活動し、昭和14年に除籍、19年に水中爆破標的として処分されました。

(2002/10/7更新)
三等巡洋艦「音羽」
新高型の建造を開始した第二次拡張計画ですが、当然ですがもっと沢山の艦が欲しい訳です。でも・・・予算が無い(そりゃ、あんだけ世界中から軍艦集めりゃなぁ・・・)
そういう訳で、第二次拡張計画の国産小型巡洋艦の三隻目は艦型を少し縮小した物になりました。それが、この「音羽」です。新高から武装を少し削減し、少し馬力を上げて21ノットの艦になってます。国産巡洋艦の系譜で見ると、明治27年の秋津洲が19ノット、29年の須磨型、37年の新高型が20ノットですから、まあ少しずつ進歩しているんですが、世間の流れからは置いていかれつつあるような気がしますね。尤もコレは世界的にもそんな感じでして、軽量ハイパワー機関の無かった時代、このような小型巡洋艦は馬力が十分に確保できず。開き直って小型化した駆逐艦においてかれ、大馬力エンジンを乗せられる大型艦に追いつかれつつあった訳です。この事が1900年前後の中小型巡洋艦の元気の無さに繋がっていると個人的には考えます(もう一つの理由は速射砲の登場と、それに対する防御の問題ですね)
音羽は明治37年秋に竣工し、旅順攻囲戦から日露戦争に参加し、第一次大戦でも青島攻略等に参加しましたが、大正6年に座礁事故で失われました。

(2002/10/7更新)
一等巡洋艦「春日」
元々はイタリアのジョセッペ・ガリバルディ級装甲巡洋艦の一隻で、イタリアは自国向けよりも輸出優先なノリでこの級をほいほいと結構な数作って売り飛ばしてます(言い方が悪い)
日露開戦必至となった状況下、英国の斡旋でアンサルド社で建造中だったチリ向けのリバダビアとモレノを購入したものです。完成後はロシア艦艇の追尾を受けながら日本に向かい、戦艦2隻を喪失した第一艦隊に組み込まれ、後の活躍は言うまでも無いでしょう。
このジョセッペ・ガリバルディ級は、つまり中小海軍に愛される似非戦艦的な巡洋艦だったわけですが、良く出来た設計で日本が同時期に抱え込んだ装甲巡洋艦よりも小柄ながら、そう劣らない攻防力を持っており、特色ある缶配置等防御にも気を使っており、まず優秀と言い切ってよい艦でした(だからセールスも好調だった訳です)
日本の大型装甲巡洋艦と比較して、航続力や装甲厚で劣るのが、まあ痛いところですが、この春日は特殊でして、前主砲は25糎単装砲になってます。これが仰角が稼げる大砲でして(当たらないけど)旅順攻囲戦では岬の向こうから港内に盲撃ちしたり、黄海海戦でも逃げる敵艦を延々と撃ちまくったりと、結構重宝してます。
大正末期からは他の装甲巡洋艦と同様に練習艦となり、昭和20年7月18日、横須賀空襲で大破着底しました。

(2002/10/7更新)
一等巡洋艦「日進」
春日の姉妹艦として、同時に建造され、同時に竣工しました。姉と違って、主砲は前後とも20糎連装です。
日露戦争では、最終的に、第一艦隊第一戦隊の殿を務めることになり、日本海海戦では三笠と並んでボロクソに撃たれました。日本が投入した12隻のマトモな装甲戦闘艦の中で最も弱体な日進でしたが、その打撃に耐え切ったのは高く評価されるべきでしょう(良く出来た船だったんですね)
第一次大戦でもよく働き、各所への警備哨戒に任ずるのみならず、フランス注文の駆逐艦の回航随伴艦を務めて欧州に渡り地中海で船団護衛に従事し、戦利ドイツ潜水艦の日本回航の随伴をして帰国しました。
意外と早く昭和10年に除籍されるのですが、ボイラーが駄目だったんでしょうかね(残存装甲巡洋艦群でも実際上外洋航行能力を喪失していたのが多かったのも事実です>だから終戦後も走った八雲は凄いっす)

(2002/10/7更新)
二等巡洋艦「宗谷」
元はロシア巡洋艦ワリヤーグで、建造は米クランプ社で、笠置に続けて建造されました。見てのように長くて大きな船体(細長い)に15糎砲を適当に乗せた艦で23ノットと当時としては相当な高速と大きな航続距離、優れた航洋性を持った「巡洋艦」で、通商破壊や哨戒に適した艦です。
殴りこみを前提にした日本巡洋艦との対比が興味深いですね。日露戦争開始時には仁川におり、開戦と同時に我が分遣隊と交戦敗北して自沈しましたが、日本軍の手によって浮揚修復され、艦籍に入りました。
ちなみに仁川でワリヤーグを襲ったのは、一等巡洋艦「浅間」二等巡洋艦「浪速」「高千穂」三等巡洋艦「千代田」「新高」というメンツでして、浅間が居る以上勝ち目は完全にゼロだった訳です・・・。
日本艦籍に入った「宗谷」は明治40年まで修理と日本軍仕様への改造を受けでこのような姿になりましたが、大正5年、ロシアに譲渡変換され、旧名のワリヤーグに戻り、革命騒ぎで英国によって武装解除されたそうです。

(2002/10/7更新)
二等巡洋艦「津軽」
元はロシア巡洋艦「パルラダ」で、旅順で雪隠詰になった挙句、我が陸軍の砲撃で着底し捕獲されました。
見てのように長船首楼形式の航洋性に優れた艦で、武装よりも外洋航行性能を重視した設計ですね。排水量が4000トン内外の日本巡洋艦群と同レベルの武装ながら常備で6500トン近い図体をしてます。
明治34年にロシアのペテルスブルク工廠で竣工、明治38年日本籍に入りました。
基本的に日本の従来型とは趣を異にする艦なので独航や練習航海に多用された挙句、大正7年に機雷敷設機能を与えられ、実質的に敷設巡洋艦となります(敷設艦籍に入るのは大正9年)大きな図体が機雷搭載に適していたからでしょうね。
ですが、他の巡洋艦よりマシとはいえ、そう大きな敷設能力があるわけでもなく、大正11年には除籍されちゃい、爆撃標的として処分されちゃいました。

(2002/10/7更新)
一等巡洋艦「阿蘇」
一応、これでも装甲巡洋艦なんですが、日本のそれと比べると得意な感じであるのが判ると思います。
阿蘇は元はロシア巡洋艦「バヤーン」でしたが、旅順で陸上砲撃を受けて捕獲されちゃった一隻です。
日本の装甲巡洋艦と比べて武装が弱体で、排水量も、連中が1万トン弱なのに対して7800トンと少なめですが、この煙突からも判るように馬力が大きく22ノットを発揮します。護衛もろとも食ってしまうことができる通商破壊艦としての性格が強い訳ですね(つまり帆船時代の大型フリゲートの思想です)
元設計がフランスのデュプレックス級装甲巡洋艦と思われますが、建造時期からすると、デュプレックスの姉妹というか、その前のジャンヌ・ダルクの小型版でしょうね(実はデュプレックスもジャンヌの小型版なので、枝分かれした従姉妹に相当するかな)
明治36年、フランスのラ・セーヌ造船所で竣工し、38年に日本艦籍に入りました。やっぱり同系統の艦が居ない事で戦隊構成に困り、大正9年に敷設艦になりました。津軽と同様に敷設艦としての能力も大して無く、主に練習艦として係留されたままとなり、昭和6年に除籍され、翌年、聯合艦隊の実弾射撃標的として処分されました。

(2002/10/7更新)
一等巡洋艦「筑波」
日露戦争の臨時軍事費で超特急で自国建造された大型戦闘艦です。
戦艦の主砲を装甲巡洋艦に載せた代物ですが、実はそれだけじゃないんです。この筑波って副砲が15糎X12に12糎X12となってまして、これは戦艦や装甲巡洋艦の副砲の15糎X12〜14と比較して(ちなみにこの数値も列強水準を超えて重武装ですが)増えてる訳です。
大口径砲威力のみならず、副砲によるジャブも強烈になってる訳です。ホント何を考えてるんだかって思うほどの重武装艦で、当時の日本が如何に必死だったのかが想像できます。
この筑波は巡洋戦艦のハシリとも言われてますが、英国が考えたような「超巡洋艦」というよりは、超高速戦艦という意識が非常に強い艦で、そういう意味では英国の巡戦インヴィンシブルよりも更に先を行った艦だと言えるかもしれません。
ちなみに、艦首の衝角はありません。何しろ事故起こすたびに味方艦艇を「撃沈」しちゃうだけですんで(笑)
ちなみに装甲巡洋艦達が平甲板型なのに対して長船首楼形式ですが、これは波浪で前方主砲が使えない事態を避けるためだったそうです(だったら副砲配置も考えろよ・・・)
 筑波は明治40年1月14日に竣工しましたが、起工から2年かからなかった訳で頑張ったんですが、当然ですが日露戦争には間に合いませんでした。第一次大戦に参戦しましたが大正6年1月14日、奇しくも竣工10周年記念の日に主砲弾薬庫の爆発事故で喪われました。

(2002/10/7更新)
一等巡洋艦「生駒」
筑波型の二番艦です。筑波型は気合で副砲を山積みした結果、波浪に叩かれて中甲板装備の大砲が実用不能と気が付き、配置変更と撤去が為されました(これは恐らく日本海海戦の戦訓でしょう)15糎X10に12糎X8へと減らされたわけです(つまり、並みの火力になった)
この絵では、その改正後の姿にしてみました。
生駒は明治41年に竣工し第一次大戦に参加し、大正12年に軍縮条約で除籍解体されました。

(2002/10/7更新)
一等巡洋艦「伊吹」
日露戦争を睨んだ第三期拡張計画の艦だったんですが、計画の二転三転の結果、鞍馬型二番艦として建造されました。
ですが、当時建造予定だった戦艦安芸が姉妹である薩摩と異なり、日本初のタービン機関搭載戦艦とする為の先行試験として、伊吹はタービン搭載艦として建造される事になったのです。試験目的もあって建造は急ピッチで進められ、鞍馬よりも先に完成しました。
予想通りタービンは高出力を発揮しましたが、そのセッティングに手間取り、当初は全力運転に支障があったようです。初期トラブルを克服した後は、22.5ノットというかなりの高速を発揮し、日本独自の似非戦艦群の最後を飾りました。
第一次大戦時には既に巡洋戦艦が登場した事で戦力的価値を減じましたが、伊吹はアンザック船団の護衛という形で、あのエムデン追撃戦にも関わってます。
竣工は明治42年、大正12年に軍縮条約で処分されました。

(2002/10/7更新)
一等巡洋艦「鞍馬」
この鞍馬型巡洋艦は、筑波型の拡大改良型で、前級でも顕著だった副砲火力を更に拡大強化したものです。
副砲というか中間砲として、装甲巡洋艦が搭載する20糎砲を載せており、これに加えて副砲として12糎砲を14門搭載しました。
戦艦が30糎砲x4、装甲巡洋艦が20糎砲x4ですから、鞍馬の火力は、戦艦と巡洋艦を合わせた規模に相当する訳です(実際には射撃効率や副砲火力も加わるので単純に考えるのは危険です)
筑波では急遽建造という条件もあって、新造巡洋艦としては多少不満な20ノットの速度に甘んじましたが、鞍馬は馬力を1割上げて21.3ノットに向上させています。
コンセプトも含めて極めて意欲的な艦でしたが、英国がさっさと巡洋戦艦を建造してしまった事、高速な弩級戦艦が登場した事等で、このような中途半端な速度の準弩級戦闘艦は、イマイチ陰が薄い存在となってしまうのです。
鞍馬にとって可哀想なのは、二番艦伊吹はタービン機関を搭載することで更なる高速性能を得ており、しかも伊吹の方が先に完成してしまったことで、鞍馬型が旧式なだけでなく、鞍馬型の中でも旧式と、二重の意味で立場が弱くなってしまった訳です。
明治44年に竣工し、第一次大戦では南洋諸島等の占領に従事し大正12年の軍縮で除籍されました。

(2002/11/11更新)
二等巡洋艦「利根」
日露戦争の臨時軍事費で建造された巡洋艦で、戦訓を反映して艦首衝角を廃止し、クリッパー型の艦首を持たせています。
この利根は見栄えをかなり意識した船だったみたいで、英国王室ヨットをモチーフにしていたそうです。
当時の日本の限界を示すように、高速性能を意識し標榜しながらも、最高速度は23ノットでしかありません。
結局明治26年の吉野から速度が向上していないわけです(当時は出来なかった吉野級の性能を国産で得られるようになったのは注目すべき点ですが)
武装も含めて、見かけほど凄い船ではなく、従来の二等三等巡洋艦の延長線上にしかない船だった訳です。
明治43年竣工、昭和6年除籍、8年爆撃標的として処分。

(2002/10/7更新)
二等巡洋艦「筑摩」
利根までの中小型巡洋艦は防護巡洋艦に属する艦でしたが、この筑摩は「軽巡洋艦」に分類すべき艦艇といえます。
軽巡洋艦をどういう種類の艦艇とみなすかは異論もあるでしょうが、基本的には、極めて高速であり、舷側に装甲を持つ二等以下の巡洋艦全般と見てよいと思います。
筑摩は水線部に装甲を貧弱ながらも持ち、また機関をタービンとすることで26ノットと従来型より一割以上も速い速度を確保したのです。これは軽巡洋艦の代表でもある英国C級の27ノットと比較してもそう劣るものではなく、主要武装を15糎砲に統一していた事等も合わせて考えると、中々優秀な巡洋艦だったと言っても良いでしょう。
筑摩型の高速性能は、伊吹や安芸といった大型艦で搭載が始まったタービンを採用した事から来るのですが、まだ黎明期であったので、筑摩はカーチスタービン、平戸はカーチスタービンながら蒸気を飽和温度に、そして矢萩ではパーソンズタービンと全て異なる形式にして比較試験を行っています。
結局のところ、より高出力・高速性能へ注力している主力艦部隊の存在が筑摩型の価値を減じてしまったと言えるでしょう。この少しあとに建造された巡洋戦艦金剛型は、この筑摩型よりも速いんです。
巡洋艦は少ないスペースに苦しみながらも、更なる高速性能を求める事になるのです。

(2002/10/7更新)
二等巡洋艦「天龍」
天龍は、当時発達著しい駆逐艦部隊の指揮等を狙った艦で、思想や発想面では英国言うところの水雷巡洋艦の延長や、同様に英国が着手した嚮導駆逐艦の一変形とも言えるかもしれません。
天龍型はそれまでの巡洋艦が、砲主体の兵装だったのに対して、船体中心線に魚雷発射管を置き、雷撃を重視した艦となっています。これらは日本海海戦で魚雷が効力を発揮した事の影響ではないかと思われます。
また本級はギヤード・タービンを三軸で搭載して、なんと5万1千馬力を発揮させました(それまでが1万馬力前後で筑波型でも22500馬力)この猛烈なハイパワーで33ノットをたたき出したのです。この速度は当時としては破格の速度であり。天龍が狙ったのは凄まじい速度で懐に突っ込んで雷撃しようという、後の水雷戦隊戦術の基礎とも言える思想だったのです。
また、天龍は3連装魚雷発射管や14糎砲といった、日露戦争世代とは明らかに異なる日本仕様の武装に統一されており、そういう意味からも、その後の日本巡洋艦の母体と言えるでしょう。
戦歴等は有名なので割愛しますが、あの「第一次ソロモン海戦」にも参加している事を忘れないように、既に旧式弱体化はしていても、牙は最後までちゃんと研がれていたんです。

(2002/10/7更新)
二等巡洋艦「球磨」新造時の状態
天龍型で新境地である、水雷戦隊嚮導艦としての道に入りだした日本海軍ですが、当時は軽巡洋艦時代を迎え、従来型の巡洋艦は戦艦や駆逐艦も含めた高速化の流れの中で取り残され旧式化していました。
つまり、使い道は兎も角として、とにかく巡洋艦の数量を何とかしないといけなかったわけです。
こうした流れの中、例の八八艦隊計画の中核をなす中型巡洋艦群として建造されたのが、所謂「5500トン型」巡洋艦であり、その最初のグループが、この球磨型です。
5500トン型は信じられないほどの速度を与えられた、バケモノ高速巡洋艦群で、その最大速度は36ノットとされています(それに到達しない艦も少なくなかったのですが)10年前の筑摩が画期的高速で26ノットだったんですから、この間の造機技術の進歩は凄まじいモノが有ります。
天龍型に比べると、雷装は片舷投射数では減少しており、砲数は大幅に強化されていることからも、天龍程の突撃オンリー艦ではありませんが、諸外国の同種同規模艦と比較すると、やっぱり突撃前提の水雷戦隊旗艦任務が相応しいと言えるでしょう。

この球磨は大正9年に5500トン型14隻の一番手として竣工し、あの太平洋戦争では主に要地攻略や前線輸送に従事し、昭和19年に英潜水艦タリ・ホーに食われました。

(2002/10/7更新)
二等巡洋艦「多摩」1935年頃の状態
5500トン型の問題の一つに、航空艤装の無い事が上げられるでしょう。
これは汎用巡洋艦として用いる場合に多少問題となります(偵察云々は最後まで特に重視していません。航空策敵は空母の仕事なんでしょう)
日本軍は軽巡洋艦に航空機を搭載し、水雷戦隊では夜間触接や照明弾投下という重要任務を、その他に配属された艦では、対地攻撃や空襲迎撃に搭載機を用いました。日課事変での水上機の活躍は有名ですが、多くの5500トン型が大陸沿岸に進出して、搭載機を地上作戦の支援に投入していました。

この多摩は大正10年に球磨型の二番艦として竣工し、太平洋戦争では球磨と同様の任務についていましたが、戦力枯渇も著しい大戦末期、あのレイテ沖海戦の小沢艦隊の一隻として苛烈極まりない最前線に投入されます。
空襲で被雷して脱落し、その後米潜水艦に再雷撃されて沈みました。

(2002/10/9更新)
二等巡洋艦「大井」1941年末の状態
大井は球磨型の四番艦です。
球磨型は技本式タービン機関だったんですが、この大井はブラウン・カーチス式を試してます。そして、どうもこれが思わしくなく、姉妹と比べて行動がいまいち目立ちません。
そういう状況からか、開戦目前に大井は姉妹の北上と共に「重雷装艦」へと改装されました。
もっとも、その無茶苦茶な雷装を活用する機会は無かったのですが、これも架空戦記みたいに前線に出してれば・・・とか思うのは間違いです。
この重雷装艦は、遠距離隠密発射を前提とした艦でして、接近戦闘をするつもりは無かったのです。そして、日本軍が期待をかけていた酸素魚雷による遠距離隠密発射は昭和16年の演習で大々的に行われ、水雷学校の所見で「成算なし」と書かれる程の大問題を引き起こしました。それは何か・・・。魚雷の音を聞かれて回避されてしまうと言う事で、大量発射ですから聞こえやすいでしょうし、日本軍の聴音機で聞こえるのですから、他の国の聴音機でも判るでしょうね・・・。つまり隠密発射は成立しないと、そういう結果になってしまったのです。
大井と北上が改装を終えたとき、太平洋戦争は始まりましたが、その戦争の中で、これらの重雷装艦は既に「駄目だろうな」と見切りをつけられていたのです。大井は各地の輸送作戦等に従事し、昭和19年に米潜水艦に食われました。

(2002/10/9更新)
二等巡洋艦「北上」1945年頃の状態
大井と共に重雷装艦に改装された北上ですが、その雷装を活用する機会は無く、結局のところ段階的に発射管を下ろして、そのスペースを貨物運搬スペースへと活用する方向に向かいました。
それだけなら良かったのですが、戦況がどうしようもなくなった大戦末期、ついに特攻が様々な形で用いられるようになり、当時数少ない残存大型高速艦である北上は回天搭載艦へと改造されました。
これは当時、北上が被雷損傷してドック入りが必要だったから、そのついでに行ったという側面もあるのでしょう。
幸い、北上の改造が終わった時、出撃が出来るほどの燃料は無く、瀬戸内海で回天の攻撃訓練に従事し、空襲に晒されながら8/15を迎えます。
5500トン型唯一の生き残りでした。

(2002/10/8更新)
二等巡洋艦「木曽」1930年頃の状態
球磨型の最後は木曽です。
この大正時代は航空機の発展著しい時代でもありました。球磨型最終艦である木曽では、この航空機を運用してみようと工夫しています。
姉妹と比べて艦橋が大きいのが特徴ですが、この中に滑走台と飛行機を入れてました(ちなみに搭載機は陸上機です)
他の国でもそうなんですが、艦首に小さな飛行甲板をつけて飛行機を発進させようとしていたんですね。
陸上機であることから、回収はせず、搭載機は陸上基地へ戻る事になる訳で運用面での制限が多く、成功策とは言い切れませんでした。
ですが、こうした航空機運用の努力はその後も続き、最終的にはカタパルトと水上機という形で収まるのですが、方法論も含めて、第二次大戦時の運用の一局面だけが正解で正当であると考えるのは必ずしも正しい訳ではないのです。
結局、木曽はこの航空機運用能力を撤去しましたが、代わりの航空設備を搭載しなかったのにも注意が必要でしょう。
球磨型では、木曽、北上、大井の三隻は結局カタパルトを載せませんでした(だからこの三隻が重雷装艦へと改造予定にされたのかもしれません)
木曽は大正10年に竣工し、太平洋戦争序盤ではアリューシャン方面で活動し、末期には南方に移動、19年11月マニラ湾で爆撃に晒されてボコボコになって喪われました。

(2002/10/9更新)
二等巡洋艦「長良」
長良型は5500t型の中期グループに相当し、球磨型の木曽で試した航空機滑走台を取り入れたことと、当時最新の61センチ魚雷を搭載した事が球磨型との相違点です。
これらの巡洋艦大量建造計画は国内の造船所を総動員して進められましたが、何しろこれだけ大きい(長い)艦ですから軍艦建造に慣れてないところでは苦労も多かったのではないかと想像します。
強力な61センチ魚雷を備えていた事から、長良型の各艦は太平洋戦争においても前線任務もこなし、苦闘を続けます。
この長良は大正11年に竣工し、日華事変・仏印進駐等に参加した後、太平洋戦争の苛烈な前線を転戦しました。南方攻略に従事した後、あの「第十戦隊」の旗艦任務につき、ミッドウェイ海戦や南太平洋海戦に空母の直援として、第三次ソロモン海戦で夜戦を行い、後に第四水雷戦隊の旗艦につきます。そしてガダルカナル撤収等、地獄のようなソロモン戦後半を戦い抜き、昭和19年潜水艦によって撃沈されました。

(2002/10/9更新)
(2003/12/12更新)
二等巡洋艦「五十鈴」1944年の状態
五十鈴は長良型二番艦です。
太平洋戦争でも、輸送から前線の巡洋艦が減ると最前線へと馬車馬の如く駆け回り、昭和18年、爆撃を受けて中破し、その損傷復帰工事のついでに防空巡洋艦へと改装されました。
充実した電探装備と水測装備、爆雷や魚雷も強化されており、5500t型としては最も太平洋戦争に適合した姿になったとも言えるでしょう(そして、このような改装を各艦にしてやる戦力の余裕が日本には無かったのです)
改装なった五十鈴はレイテ沖海戦に空母の直援として参加し、旧式ゆえに短い航続力に苦しみながらも防空戦を戦い抜きます。この点、彼女の改装は一定の成果を納めたといっても良いでしょう。
この海戦は比島攻防戦の序章でしか有りませんでした。生き残った五十鈴は比島への陸兵輸送任務に従事し、マニラ沖で大破しました。そして翌昭和20年4月、米潜水艦二隻によって撃沈されました。

(2002/10/9更新)
二等巡洋艦「名取」1944年の状態
長良型の各艦はそうそう改装の機会は得られませんでした。戦前にも何度か小規模な改造は受けているのですが、五十鈴や大井のような別の艦になってしまうような抜本的な改装は受けられなかったのです。
そして戦争中には戦力が凄まじく不足していましたから、旧式化が明らかであっても、改装する余裕が無かった訳です。
そんな5500t型ですが、大戦末期まで生き残った艦はそれなりの工事が為されています。この名取の事例が一般例だと言えますが、主砲の一部を下ろして高角砲を積み、電探を装備しています。
名取は大正11年に竣工し、他の軽巡と同様に活動し、太平洋戦争勃発時には第五水雷戦隊の旗艦でした。南方攻略やバダビア沖海戦に参加し、以降も主に南方各地の警備と輸送に従事してましたが、大戦末期になると、彼女もより危険な地域への進出を余儀なくされ、昭和19年8月サマール島沖で米潜水艦によって撃沈されました。乗員はカッターに便乗し1/3の人員がミンダナオ島に奇跡的に生還しました(艦長は艦に殉じました)

(2002/10/9更新)
二等巡洋艦「由良」1934年頃の状態
長良型は当初は艦橋から陸上機を発進させるという、非常に使い勝手の悪い航空艤装だったのですが、昭和10年前後に各艦はカタパルトを備え、水上機を普通に使えるようになります。
所属部隊の任務によって搭載機は変わりますが、大抵は90式2号水偵を用いていたようです。
この絵では、そういった時期の姿を描いて見ました。
この由良は南方攻略で活躍した後、ガダルカナル戦に投入されます。昭和17年10月、ツラギ沖で空襲を受け大破炎上し、味方駆逐艦によって自沈処分されました。5500t型で最初の戦没艦でした。

(2002/10/9更新)
二等巡洋艦「鬼怒」1931年頃の状態
長良型の艦橋発進の問題は陸上機を用いる事(回収が出来ない)、発進が飛行機の自力であるので性能サイズに制限があることでした。
そこで解決策としてカタパルトで水上機を打ち出すという方向に進むのですが、まあ、何と言うか・・・。
つまり艦橋からカタパルトを出して打ち出そうとしたのですね。今までの設備にカタパルトを加えるだけですから簡単と言えば簡単なんですが・・・。
そういう「恥ずかしい試験」に使われたのが、この鬼怒です。
勿論、ここまでやるなら、普通にカタパルト乗せても良いわけで、これは過渡的なチャレンジで終わりました。
鬼怒も姉妹達と同様に各地の輸送作戦に従事しま、昭和19年10月、レイテ沖で殴り合いをやってる裏でレイテ島に陸兵輸送を行い、今度はマニラに向かうという大車輪で駆け回り、爆撃を受けて沈みました。
レイテ沖海戦だけが目立ちますが、捷号作戦は比島攻防戦であり、鬼怒は空母や戦艦と同等以上に重要な任務に従事していたのです。

(2002/10/10更新)
二等巡洋艦「阿武隅」1941年12月
長良型最終艦の阿武隅です。彼女は衝突事故を契機に艦首をダブルカーヴェチュアー型に改装されてるのが特徴です。
一線級水雷戦隊の旗艦任務に従事していたこともあって、太平洋戦争開戦前に発射管の改正工事等も受けており、姉妹艦の中では最も戦力が充実していた艦でした。
阿武隅は第一水雷戦隊の旗艦として真珠湾攻撃に参加しました。以降、南雲機動部隊の一艦として各地を転戦した後、アリューシャン方面へと配属されます。アッツ攻略、アッツ沖海戦、キスカ撤収等の厳しい作戦をこなした後、再び大艦隊の一員として正面へと投入されます。レイテ沖海戦です。
阿武隅はこのレイテ沖海戦ではスリガオ海峡部隊に組み込まれ、米魚雷艇と交戦被雷し脱落、離脱を決意しますが、B-24の爆撃を受けてミンダナオ海の藻屑と消えました。

(2002/10/9更新)
二等巡洋艦「川内」
5500t型の最終グループが、この川内型です。
燃料問題から石炭混焼缶を増やした結果、煙突が四本になってるのが外見上の特徴ですが、他にも発射管位置や主砲配列も変更されており、初期の艦の実績が組み込まれている訳です。
最新の5500t型であったので、川内型は最強水雷戦隊の旗艦任務等に従事することが多かったのも特徴でしょう。
川内は大正13年に竣工し、戦前から揚子江警備、中国沿岸作戦、華南警備等のきな臭い任務をこなした後、第三水雷戦隊旗艦として太平洋戦争に突入します。南方攻略、インド洋作戦等で荒らしまわった挙句、毎度おなじみのソロモン攻防戦に参加し、第三ソロモン海戦等で活躍した後、昭和18年ブーゲンビル島沖海戦で撃沈されました。
珍しく殴り合いで散った艦です。

(2002/10/9更新)
二等巡洋艦「神通」1940年頃の状態
言わずと知れた二水戦旗艦です。
この絵では、頑張って九八夜偵を載せた姿を描いてみました。
水雷戦隊旗艦の搭載機は夜戦における触接・味方誘導・照明弾投下といった困難で特色ある任務を与えられていました。九八式水上偵察機はそういった水雷戦隊旗艦用の特殊水偵で、生産数も少なければ搭載した艦も少数でした。
さて、神通は完成後に美保ケ関事件を起こしています。
この事件は、夜間襲撃運動中、神通が水雷艇「蕨」にぶつかり、これを撃沈してしまったというものでした。これを契機により一層の強烈凶悪な夜間襲撃運動訓練が進められてしまうのですが、それはさておき。
この事件で神通の艦首は見事に抉れてしまいまして、新しくダブルカーヴェチュアーの艦首を装着しました。外見上の特徴はこんなトコでしょうかね。
太平洋戦争では、南方攻略、スラバヤ沖海戦、ミッドウェイ攻略部隊直援、ガダルカナル攻防戦に参加し、昭和18年コロンバンガラ沖夜戦にて4隻の巡洋艦を相手にボコボコにされながら、味方雷撃を成功させるという水雷戦隊旗艦らしい行動をして沈みました。

(2002/10/10更新)
二等巡洋艦「那珂」1943年の状態
川内型の最終艦ですが、この那珂は建造中に関東大震災の被害を受け、船体が全焼・全損してしまい、もういちど新たに作り直して完成しました。よって完成は姉妹達よりも遅く大正14年にずれこんでいます。
船体作り直しになったこともあり、那珂は新造時からダブルカーヴェチュアー艦首になっています。
太平洋戦争勃発時には二水戦と並ぶ精鋭部隊である第四水雷戦隊旗艦でした。
南方各地の攻略戦の最中雷撃を受けて大破し、昭和18年半ばまで前線には戻ってきませんでした(つまりソロモン戦には参加せず)
この損傷復帰を契機に電探や高角砲の装備といった改正を受けています。この工事が後の残存5500t型の戦時応急改装の基礎となったといえるでしょう。
復帰後はトラックに進出し、各地への輸送任務に従事しましたが、昭和19年トラック空襲で沈みました。

(2002/10/10更新)
二等巡洋艦「夕張」
5500t型は中々良い巡洋艦だったのですが、武装の割に船体が大きく、効率のよいフネとは言えませんでした。
これを受けて、天龍型と同規模ながら5500t型と同等の戦力を持った軽巡洋艦として実験的に建造されたのが、この夕張です。
後の重巡洋艦に繋がる無理やりデザインがよく判りますね。
夕張はかなり無茶をした設計だったのか、設計図面通りの建造が非常に難しく、また小さい船体にいろいろ詰め込んだので使い勝手も誉められたものでは有りませんでした。
5500t型の各艦が戦況や要望に応じて装備の追加強化改善を行えたのに対して、そういった事をする余裕もなかったわけで、戦力として考えた場合は完全な失敗作でしょう。
ですが、その設計が後の重巡建造に大きく寄与しているのもまた事実なんですよねー・・・・。

夕張は5500t型建造と平行して大正12年に竣工しました。
細かい不具合対策を何度も受けながら戦前を過ごし、太平洋戦争では、ウェーキ、ラバウル等の結構ヤバイところの攻略に従事したのち、ソロモン方面で輸送をおこない、第一次ソロモン海戦に参加します。
以降も各所で輸送作戦に従事した後、昭和19年、潜水艦の雷撃で沈みました。

(2002/10/17更新)
一等巡洋艦「古鷹」
古鷹は、第一次大戦で強烈な効果を発揮した「軽巡洋艦」に対する一つの回答でした。
軽巡洋艦は、既存の巡洋艦を圧倒する速度を持っていました。これによって艦隊のワークホースとしての価値を不動のものとするのですが、つまり軽巡洋艦の質と量がその国の艦隊の「本当の行動力」であった訳です。
これは敵の軽巡洋艦を始末すれば、間接的に敵艦隊の行動能力を大きく制限する事に繋がります。

古鷹は「軽巡キラー」として生み出されました。その20糎主砲と一級軽巡洋艦と対等以上の防御力、そして高速性能。これは既存の軽巡洋艦を完全に圧倒するものだったのです。
これと似たような方向性の艦は既に英国が生み出してますし、仏は19.4糎砲巡洋艦の計画を立て、米国も8インチ砲巡洋艦による軽巡完封を考えていましたので、そう突飛な物ではありません。
突飛だったのは、局限まで贅肉を削ったそのデザインにありました。夕張で挑戦したものの発展型といっても良いでしょう。

古鷹型は八八艦隊計画による「大巡」だったのですが、条約によって戦艦の建造停止、巡洋艦性能の上限策定によって、多少価値を減じてしまいましたが、数度の改装を受けながら重巡戦力の一角を保持しつづけ、太平洋戦争を迎えます。
あのガダルカナル戦に参加し、第一次ソロモン海戦で活躍した後、サヴォ島沖夜戦で、米軍の電探と凄まじい投射量の前に撃沈されました。

(2002/10/17更新)
一等巡洋艦「加古」1937年頃の状態
加古は古鷹型の二番艦です、まあ建造枠というか議会に対する建造権ですな、その都合で本来は二等巡洋艦用である河川名になってます。
古鷹は建造当初から航空機運用の工夫をしていましたが、最終的には、軽巡でそうだったようにカタパルトを載せることで解決します。他に、建造当初の固定式魚雷発射管を四連装発射管へと交換、また主砲も単装砲6基から連装砲3基へと交換されました。まあ殆ど別物です(笑)
この古鷹型から搭載が開始された固定式発射管ですが、この発射管は船内に組み込むことで、大規模な次発装填装置を組み込むことが可能になっていました。つまり強力な雷撃力を期待したのです。ですが固定しているので照準に不都合があり、複雑な次発装填の都合で重量は凄まじく大きく、また荒天下での実用性が低いと・・・まあ、判りやすく言うと失敗作です。
実は重巡洋艦の魚雷兵装は世代ごとに色々工夫が為されており、日本海軍がこの重巡の雷装に大きな期待をかけていたことがわかります。

加古は古鷹と同様に第一次ソロモン海戦に参加し、その帰路、潜水艦によって撃沈されました。

(2002/10/17更新)
一等巡洋艦「青葉」新造時の状態
青葉は古鷹型の準同型艦で、古鷹が後に改装で行う連装砲塔装備を最初から行っているのが外見上の特徴です。
このことから、青葉は極端に大規模な改装を行うことなく大戦に突入した事になってますが、まあ実際はかなり色々と細かいところを改正しています。古鷹と同様にカタパルトを装備し、発射管を改正したりと、中々しっかりとやってるわけです。
青葉は第六戦隊旗艦として第一次ソロモン海戦、サヴォ島沖夜戦に参加しました。そしてサヴォでミスを犯し、艦橋を直撃弾で砕かれ司令部を失い、大破しました。ですが、沈まずに帰還し、大戦末期においても目立ちませんが損傷を受けながらも戦い抜き、20年7月の呉空襲で果てました。

(2002/10/17更新)
一等巡洋艦「衣笠」1940頃の状態
青葉の姉妹艦で、この絵では改装後の姿を描いてみました。新造時の青葉と比較してみると、結構変ってるのが判ると思います。
日本の重巡の多くは、こうした改装を受けており、装備設備の新型化、新型魚雷の運用能力、そしてバルジの装着による浮力と水中防御能力の改善が為されているのです。
衣笠の戦歴は青葉や古鷹と同様なのですが、サヴォ島沖で古鷹と青葉が吹っ飛ばされたその瞬間、衣笠は独断で隊列から離れ、単艦で、艦隊を相手に戦争を初めました。自らよりも強力な敵巡洋艦二隻を撃破して、傷ついた青葉を逃がしたのです。ちなみに米軍はこの衣笠の戦術行動に十分な対処が出来ず、大きな反省材料になってます。
姉妹達が海底とドックに横たわった後も衣笠のソロモン戦は終わりませんでした。以降もガダルカナル戦に関与しつづけ、第三次ソロモン海戦で空襲にて力尽きます。第三次ソロモン海戦の失敗が日本軍のガダルカナル撤退の決め手となった事を思うと、衣笠とガダルカナルの因縁は非常に深かったと言えるでしょうね。

(2002/10/17更新)
一等巡洋艦「妙高」新造時の状態
ワシントン条約で定まった補助艦艇の性能上限、つまり基準排水量一万トンで8インチ主砲に合致した制限ギリギリの巡洋艦として建造されたのが、この妙高型巡洋艦です。
今までの古鷹・青葉型が、20糎砲と相応の防御を備えた最小艦という方向だったのに対して、1万トンにどれだけ詰め込めるかという方向で設計された訳です。

混乱しないように、この時代の時系列を眺めてみましょう。

古鷹型の源流は大正6年の7200トン巡洋艦と言われます
計画は八四〜八八艦隊計画の流れで何度か流転した後、古鷹の建造に繋がるのですが、大正11年2月にワシントン条約が締結されます。
この瞬間に古鷹の有効性は減じられてしまう訳です。一方で戦艦の建造中止がありますので、この大型巡洋艦の存在意義は非常に大きなものがある訳です。っていうか古鷹の計画時では、そこまで強烈な主力的な位置付けではなかったのです。あくまでも強力な戦艦に依存した八八艦隊計画の中の偵察巡洋艦という位置付けだったんですね。
日本では、古鷹の改正型である青葉型を大正13年1月と2月に起工させますが、これは恐らくピンチヒッターだったんでしょう。同13年10月から妙高型4隻が起工されるのです。このワシントン条約では、巡洋艦の保有量に制限はありませんでした。となると制限ギリギリの性能の艦を多数建造するのが、艦隊戦力を最大限に高める方策になります。この時点で青葉型の建造はそれほど意味があることではないのですが、妙高型の設計が完了して建造されて、更には初期トラブルを洗い出してとやってたら戦力化は結構遅くなります。よって古鷹型改正型で、早期に戦力化できる青葉型をとりあえず建造するというのは悪くない方法だった訳です。

こうして妙高型は、古鷹型の主砲6門、高角砲4門に対して、主砲10門、高角砲6門という強烈な重武装を、古鷹の3インチより厚い4インチ装甲を纏った船体に付与し、速度は34.5ノットから35.5ノットへと更に高速化した非常識に強力な巡洋艦として完成します。
この性能は、他国よりも早期に、夕張や古鷹で詰め込み設計を始めていた事が有利に作用した結果だといえるでしょう。以降の日本軍は、この重巡洋艦戦力を、漸減作戦の切り札である夜襲部隊の中核打撃戦力として整備していく事になる訳です。

妙高型二度の改装を経て太平洋戦争に突入しました。
この一番艦である妙高は多くの著名な海戦に参加した後、レイテ沖海戦で進撃中に被雷損傷して脱落し、シンガポールで修理した後帰国の途につきましたが、潜水艦によって被雷し、遂に故国に帰りつけませんでした。損傷した妙高は再度シンガポールに入り、そこで終戦を迎え、戦後英軍によって海没処分にされました。

(2002/10/19更新)
一等巡洋艦「那智」1940年の状態(第二次改装後)
第一次改装で山のように装備を改善した結果、妙高型の排水量は凄まじく肥大化しました。結果として凌波性能や復元性にも問題が生じます、これを改正するために、バルジを装着したのが、この姿です。
公試状態で、新造時から凡そ2000トン増えてます(ちなみに新造時は基準排水量11300トンで、既に条約違反)
浮力増大と水中防御の強化が為されたのは良い事なのですが、重たく太った船体故に速度は33〜34ノットへと落ちてしまってます。

那智は南方攻略に参加し、北方に転じてアッツ、キスカ戦に参加、レイテ沖海戦に参加し、その直後の昭和19年11月、マニラ湾で猛烈な空襲を受け殆どバラバラになって沈みました。

(2002/10/17更新)
一等巡洋艦「足柄」1937年訪欧時(第一次改装後)
妙高型は船体設計こそ新規でしたが、装備等は基本的に古鷹・青葉型の物と変らず、単に数量が増えただけでした。
当時は様々な装備品が新世代へと置き換わりつつある時期でしたので、妙高型の各種装備は急速に陳腐化していったわけです。また条約の制限は8インチ、つまり203mmで、妙高が搭載する200mm砲は僅かとはいえ小さく、戦力増強に勤しむ日本軍は、この3mmの違いを改正すべく、主砲を削りなおして203mm砲へと改造する事もされました。実際には3mmの変更だけではなく、砲弾も大重量砲弾へと改正されています。この新型大重量砲弾は空力も改善され、更には水中弾効果ももった強力な代物だったわけです。これで妙高の主砲火力は強化されました。
そして問題の非常に多かった12式発射管は新型の94式4連装発射管へと変更されます。この94式発射管は軽量でありながら実用的な次発装填装置が組み合わされ、妙高型に恐るべき雷撃能力を与えています。そして、高角砲も従来の手動装填の12糎砲から半自動装填装置付きの12.7糎へと換装され、カタパルトは両舷に備えられ、作業甲板も新設と、まあ、非常に多岐にわたった装備強化を施されていた訳です。
これらの改装をした状態を通常は第一次改装後と呼びます。
足柄は妙高型の3番艦でしたが、この第一次改装を終えた状況で、英国ジョージ6世即位の観艦式に参加すべく欧州へと派遣されました。機密漏洩を避けるため一部の装備を外したり隠したりした状態の写真が多数残されていますね。何でも、この足柄を見て「餓えた狼」と称したとか何とか・・・。世間知らずですね。もっととんでもないのが日本国内には何隻も居たんですが・・・(マテ

足柄は南方攻略各戦に参加した後、北方警備へと回され、レイテ沖海戦までアリューシャン方面にありました。レイテ戦ではスリガオ海峡部隊に組み込まれ、帰還後は各所への輸送作戦に従事し、昭和20年6月、潜水艦によって撃沈されました。

(2002/10/17更新)
一等巡洋艦「羽黒」1944年の状態
妙高型の問題点の一つに、主砲散布界の広さが言われてます。
これは実に多くのパラメータが関わるので簡単には結論を下せないのですが、恐らく主砲に問題の根が有ったのではないかと個人的には考えます。
何しろ有名な発砲遅延装置を使ったデータでも悪いやつはかなり悪い結果でして、決して連装による隣の砲弾からの干渉だけが原因ではないと思えるのです。

さて、この重巡洋艦に搭載された20糎砲は、実は日本では初めての本格的自緊法で作られた砲でした。また砲弾も従来のものと異なり、高初速でありながら大重量となっています。
つまり色々な意味で、従来からの流れとは少し異なった、新世代の主砲だった訳です。これが結果的に射撃精度に影響を与えてしまったのではないかと考えるのですがどうでしょうか?

日本軍は重巡洋艦をあらゆる任務に使いまわすツモリでした。その任務の中には、当然ですが敵主力艦部隊への攻撃もあったわけです。さて、ではここで問題になるのは、20糎砲の存在意義です。魚雷はともかく戦艦に20糎のそれも徹甲弾を撃って効果はあるのでしょうか?
当時からそれが疑問視されていたという話もあります。徹甲弾ではなく通常弾を用いる事も検討されていたようです。ただ、海を挟んだ向こう側の米国には20糎徹甲弾で撃つには適当な相手である巡洋艦群が多数存在しました。中々難しい事では有ります。軍備とは絶対的な物ではなく相対的なものですから、敵の何かに有効であるならそれで良いというのもまた事実ですしね・・・。
幸い、太平洋戦争での重巡の交戦相手は、敵の重巡クラスが多く、20糎徹甲弾はそういう意味では適切な武装だったのかも知れません・・・・。昭和19年の10月末まではね。

羽黒は南方攻略の後にソロモン方面に展開し、多くの海戦に参加活躍しました。そしてあのレイテ沖海戦では最もレイテ湾に肉薄した艦で、ボロボロになりながらも栗田艦隊最後のマトモな戦力を残した巡洋艦として最後まで艦隊に付随しました。
残念ながら帰国の機会は得られず(最後の機会は相棒の妙高が被雷し、それをシンガポールまで引っ張っていく事で喪われました)寸断された戦線への補給活動に従事し、20年5月ペナンで英軍艦隊と交戦し沈没しました。

(2002/10/17更新)
一等巡洋艦「高雄」1941年の状態(改装後)
高雄型巡洋艦は、妙高型の改正型として計画されました。建造費圧縮や防御改善、更には散布界縮小と言った目論見で前後主砲群の間隔を圧縮し、排水量を縮小しようと画策した艦です。

前後間隔を縮小するために艦橋を煙路の真上に持ってきた結果、艦橋が非常に巨大な風に見える形になってます。
この艦橋は幅も大きく、外見的には非常に大きな構造物ですが、その中に煙路が通ってるという事を良く理解して下さい。内部容積的には決して大きい訳では有りません。
この高雄型では、圧縮したバイタルパートに妙高以上の重装甲(一部は5インチ)を施していますが、前後主砲群間を圧縮した結果、高角砲の数が減っています。これを補う意味も有って主砲は70度もの仰角がかけられる対空射撃を狙ったものにされてますが、これは同時期の駆逐艦にも見られる傾向で、艦隊の防空意識の高まりを反映したものとも言えるでしょう(反対に言うと、この程度で対処出来ると思っていたわけです)

高雄型は新型の89式連装魚雷発射管を装備していました。これは妙高までの12式が重量過大で実用性が低かった事から新たに作られた魚雷発射管で、急速次発装填装置を備えていたのです。
片舷4門ながら、次発装填で8門相当の雷撃力を発揮できるというのが、この89式発射管の優れたところでした。
動力式の次発装填装置の開発が、この性能に繋がったのですが、この次発装填装置が非常に重量を喰いました。
89式発射管の重量は14.5トンにも達し、これは軽巡洋艦の8年式連装発射管が8.5トンである事からも重たいのが判るでしょう。しかも8年式は動力旋回ですが、これは人力旋回なんです。何がこんなに喰ってるかと言うと次発装填装置な訳でして、駆逐艦の12年式3連装発射管は15.5トンですから、それならコッチを載せたほうが雷撃力あるんじゃないかと突っ込み入れたくなる出来ですね。
次発装填装置というか予備魚雷は整然と並べてる訳ですから場所も食います。この時点では急速次発装填装置と多連装発射管ではどっちが有利なのか判断が難しいとも言えたでしょう。
さて89式が重たい理由は次発装填装置がかなり重構造だったからです。こうした問題点は後の発射管では改正される事になり、以降の艦艇は基本的に急速次発装填装置を装備する事になります。

高雄型も航空装備の改正や、魚雷発射管の新型化、そして高角砲の新型化といった改正工事を受け、更にはバルジも装着した状態で戦争に参加しました。
ただし、改装を受けたのは高雄と愛宕の二隻だけです。予算と戦力のローテーションの都合もあり、残る二隻は改装を受ける機会が得られなかった訳ですね。

高雄は南方攻略、ソロモン戦、そして末期のマリアナ、レイテ戦等に参加し、終戦直前に英軍潜航艇の仕掛けた爆雷で損傷し、シンガポールで行動不能状態で終戦を迎え、戦後海没処分にされました。

(2002/10/17更新)
一等巡洋艦「愛宕」1944年の状態
昭和二桁。高雄型で構成された第四戦隊は、第二艦隊の旗艦戦隊を務めていました。この任務は大規模襲撃において死ぬ気で突進して隷下部隊の為に突破口を開くというのが基本です。
そして、この旗艦用として存在したのが、この愛宕です。

高雄型は水雷夜襲部隊の中核であり、あの酸素魚雷を最初に受領したのもこの戦隊です。
改装を受けた高雄と愛宕では、発射管を他改装重巡と同様に94式四連装発射管へと変更しています。94式は旋回動力を持ち、その動力を利用して次発装填をするという構造になっており、また装填魚雷を引っ張り込むのに89式ではチェーンブロックだったのをワイヤーにするなどの改正が為されており、連装数が倍になりながら重量は89式とほぼ同じという強力な代物でした(これは後の駆逐艦等にも搭載される事になります)
こうした雷撃力の強化は重巡に対する期待の大きさとも言えるでしょうね。

愛宕は高雄と共に改装を受け充実した装備で太平洋戦争に突入し、戦歴も概ね高雄と同様でした。
大戦末期には機銃増設や電探装備が為されていますが、同時期の米軍艦艇と比べると水上戦闘力に重点が置かれたままであるのも事実でしょう。
愛宕は昭和19年、レイテ沖海戦に栗田艦隊の旗艦として参加、パラワン水道で潜水艦によって撃沈されました。

(2002/10/17更新)
一等巡洋艦「鳥海」新造時の状態
高雄型巡洋艦は、妙高型とは異なり、最初から20.3センチの主砲を搭載しています。所謂3年式20糎二号ですね。この砲に使われた91式徹甲弾は125kgの重量が有り、従来の110kgより重たく、そして初速は少し落ちてます。
実はこのベースとなった20糎砲は、制定時から将来においてはより大重量の砲弾や高初速砲弾を用いる可能性を考慮されており、必要量より薬室を大きめにしてあったのです。つまり、この従来より10〜20%重たい砲弾は最初から想定されていた武器でもあった訳です。概ね存勢で5%、貫徹力で2〜3%有利になるというのが日本軍の見立てでした。
ただし、興味深い事にこの砲弾の炸薬量は戦艦の徹甲弾よりも率が大きく、つまり弾体が薄く弱い事が想像されます。また有名な水中弾対応の被帽も20糎と戦艦用では構造が異なり、同じ91式の名を持ちながら、かなり異なる弾丸と言えました。
単純に言うと、貫徹力が弱く(弾体が薄く、被帽構造が異なる)炸裂威力が大きめという感じでして、重巡洋艦の主砲が何を撃つものなのか、それに対する迷いを感じさせます。やはり20糎という口径は多少中途半端だったのかもしれませんね。

さて鳥海は改装を受けられなかったグループに属しますので、戦没時まで、この絵とあまり変らない状態でした。高雄型は改装時に頑張って艦橋を小型化しているのですが、その前はこんなにでかかった訳です(笑)
鳥海は改装をしなかったんですが、旗艦機能を持っていた事もあり、南方攻略時は南遣艦隊旗艦を務め、後に第八艦隊旗艦になり、ソロモン戦を迎えます。あの第一ソロモン海戦で殴りこみ部隊の旗艦を務めたのも、この鳥海です。以降もソロモン方面で奮戦した後、第四戦隊に復帰し、マリアナ、レイテに参加しました。
レイテ沖海戦では僚艦が脱落する中、唯一健在な高雄型として突進し、恐らく・・・第一戦隊の電探誤射によって大破脱落し、喪失しました。脱落した鳥海を救援・処分に赴いた駆逐艦野分も後に沈んだので、鳥海の最期は今もって不明です。

(2002/10/17更新)
一等巡洋艦「摩耶」1944年の状態
日本軍の主要艦艇で問題になったのは、制空権喪失に伴う防空火力の不足でした。大戦末期には砲の一部を降ろして機銃や高角砲の増設に力を入れる事になります。
摩耶は改装を受けられなかった高雄型巡洋艦でしたが、爆撃損傷からの復帰時に主砲塔を一基撤去して、高角砲を増備し、更に魚雷発射管を94式に換装し、バルジの装着をしました。あの巨大な艦橋は改正していません。
艦橋の前に大規模な機銃台を設置したので、非常に上部構造物が巨大に見えますね。

面白いのは、主砲は減らしても魚雷は強化されていることで、これは大戦末期の日本軍艦艇の対空火器増強の一般的な事例です。駆逐艦や軽巡洋艦でも主砲は減っても魚雷はそのままという例が多く、場合によっては増強すらしました。これは砲による水上戦闘の重要性の低下と同時に、水上戦闘そのものを放棄した訳ではないという事です。実際にもそうでしたが水上戦闘は小規模なものが各所で起きており、決して重要性は低下していない訳です。そして日本軍の水上戦闘の戦果の多くは雷撃によるものであり、雷撃の重要性は些かも低下していなかった訳ですね。
結局、艦に装備できるものは限られており、その配分において、重要性の増した対空火器と重要性の低下した主砲が取引されたという事なのでしょう。

摩耶は南方攻略の後、ソロモン、アリューシャンと北から南まで駆け回りアッツ等で活躍をし、ラバウルで爆撃を受けて、前述した改装を受けてこの姿になりました、この状態でマリアナ、そしてレイテに参加し、愛宕と同時にパラワン水道で潜水艦に攻撃されて沈みました。

(2002/10/19更新)
二等巡洋艦「最上」1944年の状態
最上型巡洋艦はロンドン条約の巡洋艦保有量制限から生み出された艦艇です。日本はこの条約で許された甲型(8インチ砲搭載)巡洋艦の保有量制限を高雄型で使い切ってしまいました。そこで乙型巡洋艦(6.1インチ砲搭載)保有枠5万トンちょっとを活用することを考えた訳です。
条約の制限サイズは1万トンですから、単純に計算すると5隻の1万トンという方向も有りますが、日本は8500トンを6隻建造し、既存の12隻の重巡と共に用いる事を狙ったわけです。
それだけだったら良いのですが、この新型巡洋艦は攻防性能で1万トン巡洋艦を凌駕することも狙っていた訳です。
はい、ここで問題があります。
問題1:6インチ級の砲は、当然だが8インチ砲より弱い。
解決策:新型の長射程6.1インチ砲の開発と、それを15門も搭載することで投射量で勝ることでいい勝負になることを狙う。
問題2:8500トンに1万トン級以上の戦力が入るのか?
解決策:徹底的なデザインの見直しと、技術の進歩による各種装備の軽量化、そして電気溶接と軽合金の使用で大幅軽量化を狙う。

かなり無茶苦茶言ってますが、こうして8500トンで設計されたのが最上型巡洋艦でした。
まあ、ぶっちゃけた話、8500トンに入るはずも無く、最終的には12000トンを超えました・・・。はい、重巡と同じ戦力は、重巡と同じ図体に入る訳です。

さて、最上型は条約の期限が切れた事によって、主砲を重巡と同じ8インチに載せ換えます。元々交換が容易だったというのは大嘘で、かなり徹底的な工事が必要だったようです。
最上は僚艦三隈と共に開戦時には南方攻略に参加し、バダビア沖海戦で米豪の巡洋艦をその主砲で叩き潰し、魚雷で味方輸送船を撃沈するという、戦果なんだかなんだかよく判らない暴れ方をし、インド洋の通商破壊に参加し多くの商船を狩り、そして運命のミッドウェイ海戦に参加します。
このミッドウェイ海戦で最上は三隈と衝突事故を起こし艦首を潰し速度が出せなくなります。三隈が護衛して離脱を図ったのですが空襲を受けて艦後部に大きな損傷を受け、この損傷復帰を利用して後部砲塔を撤去して水上機運用能力を増大させるという改造を受けます。
この航空艤装は水上爆撃機を多数搭載して、空母と共に攻撃隊を吐き出そうという戦前からある思想の発展でもありました。ですが最上はその絶大な航空攻撃機能を活用する機会は得られませんでした。

最上は復帰後はソロモン、マリアナと転戦し、レイテ沖海戦ではスリガオ海峡部隊に組み込まれ、多数の戦艦・巡洋艦・駆逐艦・魚雷艇が待つ中に突入し、多大なダメージを受けながらも、この地獄から何とか脱出を果たします(恐ろしく頑丈なフネだ)しかし火災は消えず、実質的に航行機能を喪失した状態で空襲を連続的に受け、遂に自沈処分になりました。

(2002/10/19更新)
二等巡洋艦「三隈」新造時の状態
最上型は水雷艇友鶴の転覆事件の結果として、船体の重量軽減処置をかなり広範囲に取り入れていました。これによって、復元性は十分なものとなったのですが、言うまでも無く構造的にはかなり軟いものになってしまってました。また溶接の不備もあって公試時に船体各所にクラックが生じるなど、かなりヤバイ船だったのです。
とりあえず、最上と三隈は応急的に対処した状態で竣工し、直後に大演習に参加します。そして、その演習で所謂第四艦隊事件が起きました。台風に突入した最新鋭艦の群が船体や構造物が壊れるというアレです。

最上と三隈も船体各所にクラックを生じるなどの問題を露呈してしまいます。これは無理な軽量化と溶接の不備の相乗効果だったのですが、日本ではこの反省から艦艇への溶接導入に消極的になります。
まあ、それはさておき、最上と三隈には徹底的な改正が行われました。つまりは船体強度が不足していたのがいけないわけです。極端としか言い様が無いのですが、甲板や外板の厚みが大幅に増し、要所にDS鋼板が追加されてます。船体強度部材なので「装甲」ではありませんが、25〜50mmの甲板装甲が追加されたようなものともいえます。
こうして船体重量は大幅に増加してしまったので、大型のバルジを追加する事で復元性能や浮力を補填し、ついでに水中防御も強化しました。
なんと言うか、建造直後からこう頻繁に改正工事をしなくちゃいけないというのも哀しいのですが、結果的にこうした改正処置が後に生きてくる訳です。

最上型は戦力としては従来の重巡洋艦と同じところにあるのですが、設計的にはかなり異なり、完全新世代艦だったわけで、それがトラブルの遠因になったとも言えるでしょう。
この絵では、ほんの一時期でしかなかった姿である新造時の姿を描いて見ました。

三隈は後に主砲を換装して太平洋戦争に参加し、ミッドウェイ海戦で爆撃を受け、搭載していた予備魚雷の誘爆で機関が止まってしまい総員退艦となりました。

日本軍の艦艇は魚雷を多数搭載する都合上、誘爆対策も熱心だったのですが(例えば他の重巡では予備魚雷は搬入口兼用の大きな開口部のある場所で爆発しても船内への被害を局限している)重量とスペースの都合上、最上型は予備魚雷置き場に苦しみ、更には発射管の上の甲板も強度対策で厚くされてしまい、誘爆時のエネルギーが船内にも向かう構造になってしまっていたようで、これが三隈の命取りになったと思われます。
そういう意味では駄目ジャンな船なんですが、襲撃した米軍では三隈がボコボコになってもまだ浮いていた事から「沈み難い」と評価していたようです。評価なんて当てにならないというか、同じモノを見ても感じるものは違うという事なのでしょう。

(2002/10/19更新)
二等巡洋艦「鈴谷」新造時の状態
最上型の後期建造艦の二隻は、前期建造艦が建造中にやったような復元性能対策を設計時に盛り込んでおり、また強度問題も建造中に対処されています。
この後期型を鈴谷型と呼ぶ事もあるのは、それだけ内容が異なるところがあるからですね。
鈴谷では、進歩した機関技術で缶の数が減っているのですが、これに加えて、船体上部の幅を少し減らして、また船体高さも少し減らされてます。つまり少しダイエットしているわけです。これに加えて当初から大きなバルジをつけることで復元性をしっかりと確保しています(勿論甲板や外板の強化も行われました)
初期の二隻が無茶苦茶にトラブルを出したおかげも有って、後期建造艦ではそういったトラブルもなく、運用実績は良好でした。

最上型では防御構造が従来のそれとは大きく異なっています。言うならば高雄型までの重巡洋艦は八八艦隊計画の戦艦の軽量版であったのに対して、敢えて言うなら最上型は大和型戦艦の先駆けとも言える構造でした。
何が違うというかと言うと、まずは舷側装甲です。
従来の戦艦・重巡は水線少し下までにしか装甲は無く、艦腹部は柔らかいままで、少し奥まったところに水雷防御縦壁を備えるという構造でした。これは魚雷に対しては有効ですが、水中弾に対しては決して安全とは言えません。魚雷の威力を(後にはバルジも追加)隔壁と船体外板間の距離で吸収するという構造だったからです。この構造の場合、隔壁は大して強力ではなくても、外板までの距離さえあれば十分な防御ができます。多くの艦で追加したバルジも隔壁までの距離を拡大するのに役立っています。
しかし水中弾はつまりは砲弾なので、このような空き空間は役に立ちません。最終的には隔壁の頑丈さで防ぐしかないのです。こうした事も有って最上では舷側装甲を下部に行くと薄くなるテーパーにし、20度と大きな傾斜角度で取り付け、このままだと舷側装甲高さが不足するので、甲板装甲を往時の防護巡洋艦のように傾斜させて舷側装甲上部に繋げています。
このデザインで判るのは、最上型の防御は結構近距離の射撃戦闘を考慮したものであったという事です(水中弾発生率、傾斜甲板の有用性は、共に落角の小さい砲弾に顕著)
どちらかと言うと6インチ砲巡洋艦をアウトレンジして遠距離で制圧する事を考えていた初期の重巡と異なり、自らよりも火力のある8インチ重巡に喰らいついて中距離砲戦に持ち込もうという考え方の相違を感じたりもしますね(言い換えると、これと同様の思想を持った防御の大和型戦艦はアウトレンジではなく中距離砲戦で勝つ積もりの戦艦だったとも想像出来る訳です)

後期最上型はこうして、優れた武装と、従来重巡よりも強化された防御を持った巡洋艦として完成しました。
この絵では、最上型の当初の完成形ともいえる新造時にしてみました。

鈴谷は南方攻略、インド洋、ミッドウェイ、ソロモン、マリアナ等に転戦し、レイテ沖海戦にて栗田艦隊の一員としてサマール沖で米護衛空母群と交戦しました。水上戦と防空線を併用するのは非常に難しく、鈴谷は至近弾から搭載魚雷の誘爆を起こしてしまったのです。ミッドウェイの三隈と同様に・・・。

(2002/10/19更新)
二等巡洋艦「熊野」1944年の状態
最上型は新型の90式発射管を装備していました。この新型3連装発射管は、89式発射管が重量過大であったことの反省から、動力の使い方から構造の見直しまで抜本的に行ったことで完成したもので、大幅な軽量化と急速次発装填機能を併せ持った優秀な発射管でした。
運用制限のある12式発射管搭載重巡が6射線、高雄型は次発装填はあるけど4射線なのに対して、最上型では6射線でしかも次発装填ですから、飛躍的に雷撃力は強化されました。不足する主砲火力を魚雷で補っている訳です。

そして不足気味の主砲火力ですが、とりあえず15門あるので投射量では中々のレベルになるのですが、15門あっても10門の1.5倍の命中弾は出ません、そして6インチ砲級の射程距離は8インチ級よりも短く、これは例えば雷撃するツモリで突進したりされたりという事を考えれば、雷撃前にどれだけの射撃を行えるかという点で問題になります。距離20kmから射撃開始で5kmまで突っ込む・突っ込まれるのと、15kmから射撃開始では、射撃時間は15:10でつまり3:2になってしまいます。1.5倍の砲数があっても、打つ総弾数は同じになってしまうわけです。また射撃速度は実戦ではカタログ値程の差が出ません(各発砲の合間にどうしてもタイミング合わせが入るので)
つまり、同じぐらいの大きさ重量の艦の場合、6インチ級では8インチ級に勝てないのです。
これに対して、米国では射撃速度を無茶苦茶引き上げるという方向で対処しましたが、日本では(元々射撃速度に依存し難い射撃スタイルだったのもある)射程を思い切り引き伸ばした60口径という長砲身砲を開発して搭載したのです。高初速の大重量砲弾を放つので威力も大きくなります。これでイッパツの威力では見劣りするけど、射撃時間を最大限に確保し、投射時間X門数X射撃速度X弾丸重量の積を最大にしようと考えた訳です。
この新型砲は自緊法で作られましたが、射撃精度も高く、優秀な性能を発揮し、最上型の武装コンセプトは結果的に正解だったようにも思われますが、前述したように8インチ砲に交換されてしまいます。
これは、日本軍が重視する夜戦での威力に原因があるのでは無いかと想像します。夜戦では交戦距離が短くなり、8インチ砲ならば重巡級以下の艦に十分な貫徹力が期待できますが6インチ級ではどうしても不十分です。米軍のように猛烈な射撃速度があるなら兎も角、日本の6.1インチは手数はそれほどではないので、つまり貫徹力が無いだけの損になり、夜間1万m前後での戦力としては8インチ砲に見劣りしてしまう訳です。
重巡と戦う事を宿命付けられている最上型は、敵重巡の装甲を夜戦で撃ちぬけないことは避けたかったのですね(魚雷で始末するなら、このような効果で大型の巡洋艦は要りません、駆逐艦で十分でしょう)
この6インチ級のパンチ力の問題は太平洋戦争で実際に米軍が経験しており、日本軍が傑作とまで言われる15.5糎砲を諦めたのは、ある意味英断だったのかも知れません。

この熊野の絵では、度重なった改設計と改装の果てにたどり着いた最終形態を描いてみました。

熊野は第七戦隊の旗艦として、各地を鈴谷と同様の戦歴を経て、サマール沖で米駆逐艦の魚雷で艦首を吹っ飛ばされ、脱落します。
以降、空襲で機関が止まりながらも、マニラに到着して応急修理を受け。帰国中に潜水艦の雷撃を受けて大破して、それでも沈まずにサンタクルーズ港で自力修理で航行能力を回復中に空襲を受け、レイテ沖海戦から一ヵ月後、遂に力尽きました。

(2002/10/19更新)
二等巡洋艦「利根」新造時の状態

(2002/10/11更新)
二等巡洋艦「阿賀野」

(2003/7/23更新)
二等巡洋艦「大淀」竣工時
従来、潜水戦隊の旗艦は5500トン型軽巡があてられてきましたが、老朽化と能力面の限界が著しくなったため、1939年のマル四計画で建造されたのがこの大淀型です。
前線での強行偵察のため、高速水偵紫雲6機を搭載。連続射出が可能な新開発の二式一号射出機10型を装備し、武装も最上型の主砲換装にともなって下ろされた15.5センチ三連装砲塔を2基、高角砲も秋月型の主砲である長10センチ砲二連装4基を備えるという充実したものでした。
また、配下の潜水艦を指揮するために備えられた通信施設もきわめて強力で、そのことがのちに連合艦隊旗艦に抜擢される理由のひとつにもなります。
しかし、大淀が就役した1943年に至ると、潜水艦の用兵も計画した当初とは異なり、潜水戦隊旗艦がはるか洋上に進出して指揮を執るという機会もなくなってしまっていました。また、搭載予定だった紫雲の開発も大幅に遅れて結局量産が見送られたため、本艦の計画通りの活躍の可能性はもはやなくなり、南方への緊急輸送に奔走するありさまでした。

(2003/8/3更新)
二等巡洋艦「大淀」連合艦隊旗艦時 (1944)
従来、連合艦隊はその時点で最強の戦艦に司令部を置くのが慣例となっていました。しかし、複雑化、高度化する近代戦の局面には対応能力の限界も見えてきたため、陸上に移ることも検討される一方、やはり司令部は海上にあるべしという意見も根強いものがありました。その折衷案として、充実した指揮・通信能力を持ち、格納庫という広大な空きスペースをもった大淀に白羽の矢が立ったのです。改装にあたって、当初は前部の主砲塔も撤去する案もありましたが、格納庫内に司令部施設と要員居住区を造り、射出機も従来型の呉式二号五型に換装、作業甲板を設置し、瑞雲二機を搭載するという形に落ち着きました。
こうしてマリアナ沖開戦時は本艦から号令が出されるという栄誉ある立場を経験したものの、のちにやはり連合艦隊司令部は陸上に移すことになったので、大淀が史上最後の連合艦隊旗艦を務めたことになります。
その後、比島沖海戦では小澤部隊に属してハルゼー機動部隊の猛攻をしのぎきり、さらにこの年暮れの礼号作戦では、ミンドロ島に上陸してきた米軍に対して重巡足柄らとともに果敢に夜襲をかけ、日本海軍で「成功した最後の作戦」のなかで重要な役割を果たします。明けて45年2月、北号作戦で戦艦伊勢・日向とともに南方の物資を満載して内地への強行輸送を決行。3月の呉空襲で被害を受けたのちは江田島の湾内奥深くにひそんでいましたが、7月24日と28日の空襲でついに大破横転してその生涯を終えました。

(2002/9/27更新)
練習巡洋艦「香取」(1940)

(2003/8/3更新)
二等巡洋艦「八十島」
中華民国が海軍近代化の一環で建造した軽巡で、上海の江南造船所で進水したのち播磨造船所で艤装をおこない、平海(Ping-hai)として1936年に竣工しました〔ちなみに姉妹艦寧海(Ning-hai)は播磨造船所で建造され、1932年竣工〕。しかし翌年日中戦争が勃発すると、日本軍の航空攻撃を受け寧海とともに揚子江で擱座してしまいます。
翌年両艦とも浮揚後日本に回航され、平海は佐世保で兵営として使われていましたが、太平洋戦争の戦局悪化により護衛艦艇の不足に悩まされていた海軍が目をつけ、寧海とともに海防艦兼航空基地移動用輸送艦として整備されることになりました。44年1月に工事を開始し、旧来の兵装をすべて撤去、艦橋や煙突などの上構も小型化が図られます。新たな兵装としては、12センチ単装高角砲×2のほか機銃、爆雷などが整備されました。同年6月に改装を終え、八十島と改名されたのちは、小笠原や硫黄島への護送任務に従事し、同方面の防備強化に少なからぬ貢献をしています。
一方、米軍の反攻が本格化する中で、軍令部は前線への緊急輸送をおこなう輸送戦隊を一等・二等輸送艦により二個群編成することを同年9月に決定します。その旗艦として目をつけられたのが八十島と、寧海から改装された五百島(いおしま)でした。そこで両艦を二等巡洋艦に格上げすることが決まりますが、五百島の方は類別変更予定日の直前に米潜に撃沈されてしまい、喪失後に軍艦籍に入るという奇妙なことになっています。
11月に入り、戦隊旗艦としての整備を終えた八十島は、二等輸送艦3隻を従え、自走砲大隊を輸送する任務を受けてマニラへ向かいます。しかしすでに制空権を失い、米機動部隊が跋扈する下での運命は決まっていたも同然でした。11月25日、ルソン島西岸のサンタクルス湾沖を南下中に空母タイコンデロガらの艦載機による攻撃を受け、輸送艦とともに葬られてしまいます。再就役から半年足らずの短い命でした。