【企画展】アイコンで見る日本海軍12戦艦史

金剛 1913
(完成時)
金剛 1924
(煙突延長後)
金剛 1928
(第一次改装前)
金剛 1931
(第一次改装後)
  金剛 1941
(開戦時)
    金剛 1944
(比島沖海戦時)
 
比叡 1914
(完成時)
  比叡 1928
(第一次改装前)
  比叡 1936
(練習戦艦時)
比叡 1941
(開戦時)
       
榛名 1915
(完成時)
  榛名 1928
(第一次改装後)
榛名 1934
(第二次改装後)
  榛名 1941
(開戦時)
    榛名 1944
(比島沖海戦時)
 
霧島 1915
(完成時)
霧島 1925
(大正14年時)
  霧島 1934
(第一次改装後)
  霧島 1941
(開戦時)
       
扶桑 1915
(完成時)
  扶桑 1928
(昭和3年時)
扶桑 1933
(大改装後、艦尾延長前)
扶桑 1938
(艦尾延長後、昭和13年)
扶桑 1941
(開戦時)
    扶桑 1944
(比島沖海戦時)
 
山城 1917
(完成時)
  山城 1929
(昭和4年時)
    山城 1941
(開戦時)
    山城 1944
(比島沖海戦時)
 
伊勢 1917
(完成時)
    伊勢 1934
(昭和9年時)
  伊勢 1941
(開戦時)
  伊勢 1943
(航空戦艦改装後)
伊勢 1944
(比島沖海戦時)
 
日向 1918
(完成時)
    日向 1931
(昭和6年時)
  日向 1941
(開戦時)
日向 1942
(ミッドウェイ海戦時)
日向 1943
(航空戦艦改装後)
日向 1944
(比島沖海戦時)
 
長門 1920
(完成時)
長門 1927
(誘導煙突装備時)
    長門 1941
(開戦時)
    長門 1944
(比島沖海戦時)
 
陸奥 1921
(完成時)
  陸奥 1933
(誘導煙突装備時)
  陸奥 1941
(開戦時)
       
アイコンで見る日本海軍12戦艦史 大和 1941
(完成時)
    大和 1944
(比島沖海戦時)
大和 1945
(天一号作戦時)
武蔵 1942
(完成時)
  武蔵 1944
(比島沖海戦時)
 
※製作中 アイコンで見る日本海軍12戦艦史
このコンテンツはA140さんの全面協力により構成されています

巡洋戦艦「金剛」完成時(1913)
巡洋戦艦「金剛」完成時(1913)
本艦は初の超弩級巡洋戦艦として、明治44年(1911年)1月17日に英国のヴィッカース社バロー・イン・ファーネス工場にて起工、大正2年8月16日に竣工しました。
は明治40年以降、先に建造された装甲巡洋艦「鞍馬」を拡大した12インチ砲と10インチ砲を混載する艦を建造する予定でしたが、英国から巡洋戦艦「インヴィンシブル」の情報がもたらされたため、これに伍した性能を持つ単一巨砲搭載型の装甲巡洋艦(巡洋戦艦)が計画されることになりました。 当初は12インチ(30.5cm)砲8門を搭載する艦を国内で建造することも考慮されましたが、既存の日本艦に比べ遥かに大型かつ高速な艦をを自国で設計、建造することには障害が多く存在し不可能に近いことが明らかとなったため、同盟国である英国からの技術導入が図られることになりました。
ちょうどこの時期、ヴィッカース社がに対して新型装甲巡洋艦を売り込みに来ていました。この過程で12インチ50口径三連装砲塔を搭載する設計案が浮上し、いったんはその案が採用されかけます。しかし、が領収した12インチ50口径砲に不具合が見つかったこと、そして英国駐在武官の報告によりこの砲の散布界過大、砲身命数の短さ、加えて当時英国の主力艦が採用していた13.5インチ(34.3cm)砲に比べて威力で劣る点が問題視され、その結果、ヴィッカース社が輸出用の艦砲として開発していた14インチ(35.6cm)砲が採用されることとなりました。 明治43年10月、この新型巡洋戦艦の最終設計案がまとめられ、の承認を得るところとなります。そしてこの設計案に関する全ての技術を日本へ移転するという条件の下、一番艦である「金剛」がヴィッカース社に発注されました。
本艦は、日本が外国に発注した最後の戦艦となりました。そしてこの「金剛」建造によって得た技術は当初の意図の通り、後に建造された日本戦艦の設計などに多くの影響を与えてその礎となっています。
アイコンは竣工時の「金剛」を表現しました。この翌年、第一煙突両側にあった探照灯台が撤去され、第一、第二煙突間の1基に集約されています。 ページのトップへ戻る
巡洋戦艦「比叡」完成時(1914)
巡洋戦艦「比叡」完成時(1914)
金剛型巡洋戦艦の2番艦である本艦は、明治44年(1911年)11月4日に横須賀海軍工廠で起工され、大正3年8月4日に竣工しました。日本国内で初めて建造された超弩級巡洋戦艦です。
金剛型巡洋戦艦の設計案は「472C案」と呼ばれ、ヴィッカース社が輸出用として設計していた戦艦(後にトルコ戦艦「レシャド5世」→英戦艦「エリン」となったもの)を、巡洋戦艦として必要な高速力を発揮させるため船体延長と機関スペースの拡大が図られたものでした。このため構造物の配置や内部構造は、後日建造された「エリン」のX砲塔(4番砲塔)を撤去し、空いたスペースを機関部の拡大に利用するような形となっています。
本艦が建造に用いた資材は全てヴィッカース社から提供されたものでしたが、主砲に四一式36cm砲(金剛は毘式14インチ砲)、主缶は国産のイ号艦本式缶を搭載し、また砲塔上の3インチ(76.2mm)砲が装備されないなど「金剛」と異なる部分がありました。そして排煙の逆流を防ぐために1番煙突を延長し後方へ移設されており、公試後にこれを更に延長しました。アイコンでは公試後の姿を再現しています。
なお、本艦は就役後、機関部などに小規模な不具合が多発していたようで、そのため艦隊から「(金剛型4隻の中で)一番出来が悪い」と評されていたようです ページのトップへ戻る
巡洋戦艦「榛名」完成時(1915)
巡洋戦艦「榛名」完成時(1915)
本艦は金剛型巡洋戦艦の3番艦で、明治45年(1912年)3月16日に神戸川崎造船所にて起工、大正4年4月19日に竣工しました。
この「榛名」と続く「霧島」は日本の戦艦として始めて民間の造船所に発注された艦で、起工は本艦のほうが1日早かったもののほぼ同じ工程を進み、進水は造船所の潮位の関係で「霧島」のほうが2週間早くなりました。 そうしたこともあり、神戸川崎造船所と「霧島」を担当した三菱長崎造船所の建造競争は激化し、その結果、本艦の機関の係留試験が予定より遅れた際、神戸川崎造船所の造機担当最高責任者が責を負って自殺するという不幸な事件も起こっています。
「榛名」は就役後第1戦隊、ついで第3戦隊に配属されて行動していましたが、大正9年9月21日、射撃訓練中に1番砲塔の爆発事故を起こしています。その直後に予備艦に編入され、修理時に主砲仰角の増大(20度→30度)が行われましたが、程なく金剛型巡洋戦艦のトップを切って第一次改装に着手することになり、大正12年11月28日より工事が開始されました。 ページのトップへ戻る
巡洋戦艦「霧島」完成時(1915)
巡洋戦艦「霧島」完成時(1915)
金剛型巡洋戦艦の最終艦(4番艦)である本艦は、明治45年(1912年)3月17日に三菱長崎造船所で起工され、大正4年4月19日に竣工しました。「榛名」と竣工日(海軍に領収された日)が同じとなったのは、海軍が三菱長崎造船所と「榛名」を担当した神戸川崎造船所の間に繰り広げられた激しい建造競争に配慮した結果と考えられています。
本艦の完成によって整備が完了した金剛型巡洋戦艦4隻は、それまで弩級艦といえば僅かに「河内」「摂津」の両艦を保有するのみだったに一大戦力を加えることになりました。この世界でも最新鋭の巡洋戦艦戦隊は各国からも注目され、第一次世界大戦中、独海軍と対峙していた英海軍から本型4隻の借用が申し込まれたといいます。
本艦と「榛名」は「比叡」建造時と異なり、その部材の多くが国内で調達されています(「榛名」が使用したヴィッカース社から供給された部材は約31パーセント)。それに伴い先に建造された「金剛」「比叡」の設計を一部変更した部分があり、そのためか海軍の書類において「榛名」「霧島」を分けて扱うことがあったようです。
「霧島」と「榛名」の完成時は顕著な外見の差がないと言われますが、写真を見ると前部マストの黒色塗装の範囲が異なることが見受けられますので、アイコンではそれを再現しています。 ページのトップへ戻る
巡洋戦艦「金剛」(煙突延長後)
巡洋戦艦「金剛」煙突延長後(1924)
完成から11年が経過した「金剛」の状態です。第一煙突の延長は1915年に行われており、他に完成時より、砲塔上の3インチ砲の撤去、探照灯の高所への移設、方位盤と8cm高角砲の搭載などの変化があります。 ページのトップへ戻る
巡洋戦艦「霧島」大正14年時(1925)
巡洋戦艦「霧島」大正14年時(1925)
完成後ちょうど10年が経過した頃の「霧島」です。完成時に比べて前部マストトップに副砲指揮所、測的および測距所、照射指揮所などが設けられたため、前部艦橋周辺はだいぶ印象が変化しています。
元設計が英国式ですから当然とも言えるでしょうが、この時期の状態をこうして再現してみて、やはり英戦艦の趣きがあると感じるのは作者だけでしょうか。 ページのトップへ戻る
巡洋戦艦 「金剛」昭和3年の状態(1928) 巡洋戦艦 「比叡」昭和3年の状態(1928)
巡洋戦艦「金剛」「比叡」昭和3年の状態(1928)
  ページのトップへ戻る
巡洋戦艦 「榛名」(第一次改装後) 巡洋戦艦 「金剛」(第一次改装後) 巡洋戦艦 「霧島」(第一次改装後)
戦艦「榛名」(1928) 「金剛」(1931) 「霧島」(1934) 第一次改装後
  ページのトップへ戻る
戦艦「榛名」第二次改装完成時(1934)
戦艦「榛名」第二次改装完成時(1934)
  ページのトップへ戻る
戦艦「比叡」練習戦艦時(1932)
戦艦「比叡」練習戦艦時(1936)
  ページのトップへ戻る
戦艦「金剛」開戦時(1941)
戦艦「金剛」開戦時(1941)
  ページのトップへ戻る
戦艦「比叡」開戦時(1941)
戦艦「比叡」開戦時(1941)
  ページのトップへ戻る
戦艦「榛名」開戦時(1941)
戦艦「榛名」開戦時(1941)
  ページのトップへ戻る
戦艦「霧島」開戦時(1941)
戦艦「霧島」開戦時(1941)
  ページのトップへ戻る
戦艦「金剛」比島沖海戦時(1944)
戦艦「金剛」比島沖海戦時(1944)
戦艦「金剛」比島沖海戦時の改修版です。 ページのトップへ戻る
戦艦「榛名」比島沖海戦時(1944)
戦艦「榛名」比島沖海戦時(1944)
  ページのトップへ戻る
戦艦「扶桑」完成時(1915)
戦艦「扶桑」完成時(1915)
本艦は最初の超弩級戦艦として、明治45年(1912年)3月11日に呉海軍工廠で起工され、大正4年11月8日に完成しました。
明治42年に英国で「オライオン」級超弩級戦艦の起工が伝えられたため、日本もこれに対応する超弩級戦艦の計画を開始します。設計が本 格化したのは「金剛」型巡洋戦艦に14インチ(35.6cm)砲が搭載されることが決定してからですが、計画案として連装砲塔5基や連装砲塔と 3連装砲塔の混載案、更に3連装砲塔4基や4連装砲塔3基を搭載する案など、35種類もの試案が検討されています。
最終的には14インチ連装砲塔6基を搭載、速力22.5ノットを発揮する艦として設計がまとまりましたが、この時点では「金剛」型の 図面をまだ入手していなかったため、船体構造は国内で設計された「河内」型戦艦を拡大したような形となっています。
本艦の主砲塔6基は全て中心線上に配置され、艦首と艦尾に背負い式に2基ずつ、艦中央の機関室を挟んで2砲塔が配置されました。しかしこ の配置は機関室を弾薬庫で挟むという防御上の問題点を生み、また艦全体に満遍なく砲を配置したため、全主砲を斉射するとその爆風が全 艦を覆い、上部構造物や搭載する機器に大きな影響を与えることが問題視されました。
このため、大正2年に再び新型戦艦3隻の建造が決まりますが、最後の2隻は設計を改めた艦として建造されることになりました。
なお、本艦は艦尾のスタンウォークを装備していませんが、これは公試時に強度不足が判明し撤去されたためです。アイコンはその状態を 再現しています。 ページのトップへ戻る
戦艦「山城」完成時(1917)
戦艦「山城」完成時(1917)
扶桑型戦艦の2番艦である本艦は、大正2年(1913年)11月20日に横須賀海軍工廠で起工、大正6年3月31日に完成しました。
本艦の建造が「扶桑」に比べて2年近く後になったのは予算成立の遅れのためで、このため基本設計は同じながら各所に改良された部分があります。完成時の外見からは方位盤照準装置と8cm高角砲の有無、下部艦橋甲板部と司令塔の拡大、補強が施された艦尾スタンウォークの存在などから「扶桑」と識別することができます。
扶桑型戦艦は世界で始めて常備排水量が3万トンを超えた戦艦で、計画速度の22.5ノットは同時期の米英の超弩級戦艦よりも優速でした。しかし、実際に運用した際の速力は20〜21ノット程度にとどまっていたようで、また高速時に大角度で舵を切ると速度が著しく減速するなど、航行性能に問題を抱えていました。
この他にも様々な不具合があったのか、「扶桑」「山城」の両艦は完成後ほどなくから昭和の大改装に至るまでの期間に何度も予備艦に編入され時には改装を行っており、そのため「艦隊に配備されている期間のほうが短い」という状態が長く続くことになります。 ページのトップへ戻る
戦艦「扶桑」(昭和3年時) 戦艦「山城」(昭和4年時)
戦艦「扶桑」昭和3年の状態(1928) 「山城」昭和4年の状態(1929)
  ページのトップへ戻る
戦艦「扶桑」大改装後、艦尾延長前 戦艦「扶桑」艦尾延長後、昭和13年
戦艦「扶桑」大改装後(1933) 艦尾延長後(1938)
  ページのトップへ戻る
戦艦「扶桑」開戦時 戦艦「扶桑」比島沖海戦時
戦艦「扶桑」開戦時(1941) 比島沖海戦時(1944)
  ページのトップへ戻る
戦艦「山城」開戦時 戦艦「山城」比島沖海戦時
戦艦「山城」開戦時(1941) 比島沖海戦時(1944)
  ページのトップへ戻る
戦艦「伊勢」完成時(1917)
戦艦「伊勢」完成時(1917)
本艦は大正4年(1915年)5月10日に神戸川崎造船所で起工、大正6年12月15日に完成した伊勢型戦艦の一番艦です。
大正2年に新規建造が決まった戦艦3隻のうち、まず「山城」が着工されたものの、残りの2隻は予算が確保できず起工が1年半ほど遅れることになりました。そしてこの空白期間を利用し、扶桑型戦艦で問題となった箇所の改善と、大正3年に始まった第一次大戦の初期の戦訓を取り入れた改設計を行うことが決定されました。
この改設計では艦中央部の主砲が三、四番砲塔を背負い式に配置する形で集約され、扶桑型で問題になった主砲発砲時の爆風対策と弾薬庫防御が大きく改善し、機関部の容積が増大するという利点も生じています。また舷側の装甲配置は扶桑型を基礎としつつ、金剛型と同じく下甲板の水平装甲両端を折り曲げる形に変更され、近距離における防御性能も向上しました。
他にも機関出力の増大により速力を0.5ノット向上させ、副砲を軽巡洋艦の主砲として採用されていた14cm砲に変更するなどの改正が行われ、全般的に扶桑型より能力の高い戦艦として完成しています。 ページのトップへ戻る
戦艦「日向」完成時(1918)
戦艦「日向」完成時(1918)
伊勢型戦艦の二番艦である本艦は、大正4年(1915年)5月6日に三菱長崎造船所にて起工、大正7年4月30日に完成しました。
改設計によって扶桑型戦艦の不具合の多くが改善された伊勢型戦艦でしたが、主砲配置の変更によって船首楼甲板が短縮されたことで副砲の配置が窮屈になり、また兵員居住区もこれに伴って圧迫されたため、居住性は日本海軍戦艦の中でも最悪と評されることになりました。
他にも通常時に発揮可能な速度と大角度で舵を切った際の運動性は扶桑型より良好なものの、加速性能と全般的な運動性能に問題があり、更に針路保針が困難であるため通常航行中に予定針路の外へ飛び出すことも起こり得たため、後続の艦は注意が必要との指摘があったようです。
「日向」は同型艦「伊勢」との差異が極めて少なく、この時期は羅針艦橋下部の形状が僅かに違うことと(アイコンでは非常にわかりにくい箇所です)、第一煙突背後のキセル型通風筒の高さが「日向」のほうが低い点が識別点になっています。 ページのトップへ戻る
戦艦「伊勢」昭和6年時 戦艦「日向」昭和9年時
戦艦「伊勢」昭和6年の状態(1934) 「日向」昭和9年の状態(1937)
  ページのトップへ戻る
戦艦「伊勢」開戦時 戦艦「日向」開戦時 戦艦「日向」ミッドウェイ海戦時
戦艦「伊勢」 「日向」開戦時(1941) 「日向」ミッドウェイ海戦時(1942)
  ページのトップへ戻る
戦艦「伊勢」航空戦艦改装完成時 戦艦「日向」航空戦艦改装完成時
戦艦「伊勢」 「日向」航空戦艦改装完成時(1943)
  ページのトップへ戻る
戦艦「伊勢」比島沖海戦時 戦艦「日向」比島沖海戦時
戦艦「伊勢」 「日向」比島沖海戦時(1944)
  ページのトップへ戻る
日本海軍戦艦「長門」完成時
A-140 2009/2/27
日本海軍戦艦「長門」完成時(1920)
本艦は長門型戦艦の一番艦として大正6年(1918年)8月28日に呉海軍工廠にて起工、大正9年11月25日に完成しました。
大正4年、いわゆる「八四艦隊」計画が議会に承認されたことにより、日本海軍は新たな戦艦建造を計画します。当初は14インチ(35.6cm)砲12門を搭載した「伊勢」の発展型となる予定でしたが、英国で15インチ(38.1cm)砲を搭載したクイーン・エリザベス級戦艦が就役していたこともあり、これを上回る16インチ(40.6cm砲)が採用されました。
当初は英国から提供されたクイーン・エリザベス級戦艦の設計図をを参考にした艦を建造する予定でしたが、製造訓令が発せられた直後にユトランド沖海戦が勃発し、この海戦でもたらされた戦訓を取り入れた改設計が施されることになりました。
この改設計により原設計に比して甲板部および砲塔の装甲防御が強化され、速力も当初計画より更に増大しました。また、これらの重量を捻出するために副砲砲郭などの装甲を撤去する改正も行われ、これまでの戦艦で採用されていた英国式の防御方式とは異なる、日本式の集中防御と呼ぶべき新しい防御配置となっています。
こうして「長門」は、当時世界最大の艦砲であった41cm砲8門と充実した防御、そして巡洋戦艦並みの速力を持つ高速戦艦として完成しました。そして本艦は、日本海軍にとって宿願である「八八艦隊」計画の一番手となっています ページのトップへ戻る
アイコン
A-140 2009/3/30
「陸奥」完成時(1920)
長門型戦艦の二番艦である本艦は、大正7年(1918年)6月1日に横須賀海軍工廠で起工され、大正10年10月24日に竣工しています。
本艦は予算の都合から「長門」より建造期間が1年ほど開くことになったため、41cm三連装、連装砲を混載し10門搭載する「陸奥変体」と呼ばれる別艦とすることも考えられました。しかし三連装砲塔の開発を行う時間がなかったことと、戦隊を構成するには「長門」と同型であることが好ましいと判断されたことから、最終的には長門型戦艦の二番艦として建造されることになりました。
本艦の建造中、列強各国は第一次大戦による疲弊などから海軍兵力の軍縮を検討し始めたため「陸奥」の建造は急がれました。そして大正10年7月に米国から軍縮会議の打診があったこともあり、本艦は10月24日にひとまず「竣工した」旨を内外に公表し、その後もひそかに工事を続けました。「陸奥」が実質的に竣工したのはワシントン軍縮会議が開催された後の11月25日とされます。
しかし、ワシントン会議において「陸奥」の扱いに関する議論は紛糾、最終的に「陸奥」の保有は認められ、列国との戦力均衡を保つため英米にも16インチ(40.6cm)砲搭載戦艦を2隻ずつ建造することで決着を見ました。
こうして2隻が就役した長門型戦艦ですが、当時の列国の戦艦に比して飛び抜けた高速と、日本海軍戦艦中最良とされた運動性能、そして既存艦に比べて良好な居住性から、艦隊側からも高く評価されています。 そして、軍縮条約により「八八艦隊」の後続艦が建造中止になったこともあり、長門型戦艦は日本海軍の象徴的な戦艦として、そして世界に7隻しかない16インチ級艦砲を搭載した戦艦、いわゆる「ビッグ7」の一翼として知られることになります。。ページのトップへ戻る
戦艦「長門」誘導煙突装備時(1936)
戦艦「長門」誘導煙突装備時(1927)
  ページのトップへ戻る
戦艦「陸奥」誘導煙突装備時(1936)
戦艦「陸奥」誘導煙突装備時(1933)
  ページのトップへ戻る
戦艦「長門」開戦時(1941)
戦艦「長門」開戦時(1941)
  ページのトップへ戻る
戦艦「陸奥」開戦時(1941)
戦艦「陸奥」開戦時(1941)
  ページのトップへ戻る
戦艦「長門」比島沖海戦時(1943)
戦艦「長門」比島沖海戦時(1944)
  ページのトップへ戻る
戦艦「大和」完成時(1941)
戦艦「大和」完成時(1941)
  ページのトップへ戻る
戦艦「大和」比島沖海戦時(1943)
戦艦「大和」比島沖海戦時(1943)
  ページのトップへ戻る
戦艦「武蔵」完成時 戦艦「武蔵」比島沖海戦時
戦艦「武蔵」完成時(1942) 比島沖海戦時(1944)
  ページのトップへ戻る
戦艦「大和」天一号作戦時
戦艦「大和」天一号作戦時(1945)
  ページのトップへ戻る