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路面電車の看板娘  by sinn

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にわとり(2003/4/30更新)
東武伊香保軌道線の電車 (シングルルーフ)
かつて 群馬県渋川市を中心に 大路面電車網がありました。明治時代から大正時代にかけて開通した それら各軌道会社は、東京電灯に合併され、さらに 昭和2年(1927年)に 東武鉄道の経営になりました。
 戦後の時点で残っていたのは、前橋〜渋川間の前橋線、高崎〜渋川間の高崎線、渋川〜伊香保間の伊香保線です。
 これら3路線は まとめて「東武鉄道伊香保軌道線」と呼ばれ、「伊香保の登山電車」の愛称で親しまれていましたが、設備の老朽化と バスの発達には勝てず、最後まで残った伊香保線の廃止(昭和31年(1956年))により姿を消しました。ページのトップへ戻る
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にわとり(2003/4/30更新
東武伊香保軌道線の電車 (ダブルルーフ)
伊香保軌道線の電車は 細かく見てくと 一輌毎にどこかしら差異があるのですが、以上の二つが 伊香保軌道線の代表的な形です。
 安全網が片側にしかないのは 終点で車掌が付け替えるので 問題ナシです。ページのトップへ戻る
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海野車体工業海鳴工場(2002/12/9更新)
広島電鉄650型652号車『被爆電車』 木南車輌
営業運転をしている電車の中では,世界で唯一の「原爆に喧嘩売られて勝った車」です。昭和17年に建造され(同型5輌),昭和20年8月6日に全車被爆しました。
 爆心に近かった655号(全焼)は復旧に手間がかかり,昭和23年11月の復旧となりましたが,割と市の外れの方に居た他の4輌はそれなりに(あくまで”それなりに”)損害も軽く(651号・半焼,652号・小破,653号&654号・大破),昭和21年3月までには全車復旧しました。
 中でも,宇品終点で被爆し小破した652号は,昭和20年8月中にはもう復旧し,被爆直後の市内を懸命に駆け回り,市民に勇気を与えました(……よくもまぁ壊滅状態の市内で電車走らせたものである)。
 651号から654号の4輌は丁寧に保守が続けられ,冷房まで搭載されつつ,とうとう一つ世紀を越してしまいました(笑)。。しかし,苦労して復旧した655号は,昭和42年に事故に遭い(広電名物「トレーラーアタック」,よくぶつけられるのだこれが),廃車されてしまいました,嗚呼。
 ただ,残る4輌は655号の運を吸い取ってしまったのか,建造から60年が経った今でも(ほぼ)毎日,元気に市内を駆けずり回っています。
 実は651号と652号のモータが何回巻き直してもダメだったり(平坦路のフルスピードで30km/h出るか出ないか,坂道に差し掛かったら力一杯減速,もし坂道で連接車に電気を吸われようものならもう自転車の方が絶対速い)するのですが,この2輌を含めて,恐らく「広電が潰れても生き残る」でしょう。ページのトップへ戻る
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海野車体工業海鳴工場(2002/12/9更新)
広島電鉄800型 801号 ナニワ工機 
広島電鉄が昭和26年に新造した、戦後初の新車です。全部で10輌製造されましたが、これは原爆で全損、廃車になった車の補充という意味合いがあったと思われます。
 同時期に建造された京都市電の800型(後に1800型に改造)や伊予鉄道のモハ50型の初期車(51〜55号)とほぼ同じ構造を持っており、この時期のボギー路面電車の標準型とも言うべき車でした。
 地味にソツなくまとめられた車体スタイルは、後の500型以降2500型まで、広電オリジナル車輌の基本として引き継がれていきます。
 戦中派の600型・650型は前・中・後の3扉が特徴でしたが、この800型では中扉が省略されて前後扉の車となりました。そのため、ワンマン化の際に扉位置がネックとなり、他形式に比べ早々にリタイアする事になります。
 806〜810号の5輌が昭和47年には早くも廃車、801・802・804・805の4輌も昭和51年に廃車されてしまいます。ページのトップへ戻る
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海野車体工業海鳴工場(2002/12/9更新)
広島電鉄800型 801号(旧803号) ナニワ工機
扉構造が災いし、ワンマン化されることなく大半が廃車された800型ですが、昭和51年に803号だけ中扉増設・後扉封鎖工事を行い、901号に改番した上で再就役を行いました。
 しかし、古い電車のために使い勝手が悪かったりすぐ制御が飛んだり、結構無理矢理な改造だったりとであまり乗務員の評判はよろしくなく、56年頃から荒手車庫に留置され始め、58年9月15日をもって廃車になってしまいました。
 今は、車庫の片隅で800型の子孫とも言うべき存在の2001号とともに、雨曝しとなって保管…というよりは、倉庫にされています。
 一応台車等はそのまま残されていますが、もうボロボロで、到底自走できる状態ではありません。明日かもしれないし、50年後かもしれない解体の時を、風雨に晒されながら今日も待っているのです。ページのトップへ戻る
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海野車体工業海鳴工場(2002/12/9更新)
広島電鉄500型 501号 ナニワ工機
昭和28年に、800型に引き続いて5輌が生産されました。
 外観は800型のものの踏襲ですが、扉配置が前中扉になり、窓上部がHゴム固定となっています。しかし、台車は鋳鋼のブリル77E型からプレス鋼のKS7型へと進化し、内容の点では800型から幾分の進化を遂げていました。
 昭和49年にワンマンカーとしての改造を受け、正面の通風窓の一つをワンマン表示幕に変えるなどの改造が施されました。昭和59年には三菱MDA方式で冷房改造が行われ、市内線電車のレベルアップに貢献しました。
 800型とは異なり設計に無理もなく、乗務員からの評判もそこそこだったこの500型ですが、流石に寄る年波には勝てず、平成12年に502号が廃車になり、翌年には解体されてしまいました。年式が古いとはいえ、他都市からの中古車ではなく自社発注のプロパー車が配車されたことには、「その筋」の人々の間にに衝撃が走りました。
 その後も、501・503・504号が立て続けに休車となり、平成14年5月には最後の505号まで休車となってしまいました。これにより、500型は5輌全てが廃車乃至休車という事になり、営業運転を行う車が消滅してしまいました。
 休車の4輌は江波車庫に保管されていますが、ただでさえ休車の保管で車庫から営業運転車が追い出される事が問題となっている広島電鉄、いつ解体されてもおかしくはありません。
 補足。
 休車されていた4輌は、平成14年3月に解体されてしまいました。合掌…ページのトップへ戻る
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海野車体工業海鳴工場(2002/12/9更新)
広島電鉄550型 551号 ナニワ工機
昭和30年に建造された、広島電鉄としては初の全金属製車輌です。正面窓が若干大型化され、パンタグラフも建造当初から装備されていました。
 5輌生産されましたが、その中でも551号だけはカルダン駆動・間接制御・電空併用ブレーキで30kwモータ4基装備という重装備を施されていました。他の4輌が釣り掛け駆動、直接制御、38kwモータ2基という事を考えると、破格の重装備でした。これは,宮島線(鉄道線)直通乗り入れを視野に入れたものでした。
 しかし,その新機軸が仇となって、就役したはいいもののトラブル続き,結局暫くして台車を旧型のブリルに履き替えて,直接制御の車になってしまいました(台車が旧型という事を考えると、却って低性能に)。
 とはいいつつ、昭和33年に初めて宮島線直通を果たした車はこの551号であり、その点はしっかりと記憶しておかねばなりません。
 昭和49年にワンマン化が行われ、方向幕の設置などが行われました。しかし、552号は翌50年の千田車庫火災で全焼し,廃車になってしまいました。
 残る4輌はその後も活躍を続け、昭和58年に冷房化が行われました。551号の台車もこのとき他の車と揃えられ、漸く「同じ車」になりました。
 しかし、流石に550型も寄る年波には勝てず、平成13年に555号が、平成14年に551号が休車となってしまいました。500型とは異なってまだ2輌が営業運転を続けていますが、それもいつまで持つかは不透明な状況です。ページのトップへ戻る
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海野車体工業海鳴工場(2002/12/9更新)
広島電鉄850型 851号 ナニワ工機 
将来の宮島線直通を睨んで、昭和33年に建造された車です。3輌が建造されました。
 間接非自動制御が採用され、モータも50kw2基と、市内線標準の38kw2基に比べて随分とパワーアップしていました。
 就役当初は市内線色の緑とクリームのツートンでしたが、昭和37年の直通運転開始時にはオリエントピーチの「直通車色」にオールペンされました。
 とはいえ、より本格的な直通車である2000型や2500型に比べると中途半端な感は否めず、2000型や2500型の増備が進むと市内線限定運用に戻されて、塗装も元の緑塗装に戻されてしまいました。ページのトップへ戻る
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海野車体工業海鳴工場(2002/12/9更新)
広島電鉄350型 351号 ナニワ工機 
市内線限定運用に戻された850型ですが、それを受けて昭和46年に350型に改番されました。
 とはいえ、装備はそのままなので市内線車輌としては高性能車。そのため、乗務員からは「この車はよぉ駆ける」として好評判でした。ワンマン化は昭和50年に行われ、同時に方向幕の大型化・電動化も行われました。
 広電の市内線車は、最近の車を除いてスピードメータが装備されていません。しかし、この車だけは別で、教習車としても用いるために運転台にスピードメータが装備されています。
昭和59年には冷房化も行われ、以後も廃車の兆候すらなく元気に走っています。800型から続いた広電標準車体車の一つの完成形が、この350型なのです。この車の成功が、本格的直通車の2000型・2500型の成功に繋がったのです。ページのトップへ戻る
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海野車体工業海鳴工場(2004/4/24更新)
広島電鉄1900型 1908号(改造竣工直後) ナニワ工機
広電1900型は、昭和52〜53年にかけて京都市交通局より移籍した車です。京都市交通局時代も、広電時代と同じ1900型を名乗っていました。
 京都市交通局1900型は、900型の内昭和32年製の車を、昭和45年にワンマン改造したものです。この改造で、元々前後扉だった車が前中扉に改造され、後扉は簡単に埋められました。1916号から1931号の16両が存在しましたが、内昭和48年に廃車になった1922号を除いた15両が広島電鉄に移籍しています。
 広電には、まず昭和52年に最初の2輌が到着しました。その2輌の内、一番初めに改造が終わったのが1908号、旧番1921号車でした。
 広電に移籍した1900型ですが、移籍後更に改造が行われています。
 京都市電時代にワンマン化改造が行われていましたが、広電ではラッシュ時間帯にツーメン運行を行っているために(通常時間帯は広電でもワンマン運行を行っている)、車掌台の設置や車掌窓の新設が行われました。
 車掌窓の設置ですが、乗務員には自社プロパー車には無い特徴として、喜んで迎えられました。この車掌窓の設置は、実用上の利点以上に京都市時代の「やっつけ改造」で損なわれた外観のバランスを回復してしまうという思わぬ副産物も齎しました。
 なお、これ以降改造された車においては、京都市時代に埋められた後扉部分も上下二段窓に改造されましたが、この1908号だけは京都市時代のやっつけ改造のままになっています。理由は不明ですが、恐らく最初の移籍車という事で、京都時代の面影を残したのではないでしょうか。
 1900型の中で一番初めに竣工した1908号ですが、当初は現在用いられている塗装―京都市時代の塗装のアレンジとはかなり印象の違う塗装が施されていました。
 京都市時代はワンマンカーの証としてオレンジ色のラインが入っていましたが、1908号車の最初の塗装は、この部分が何故か黄色になっていたのです。しかも、ラインが引かれていたのは正面のみで、側面のラインは省略されていました。胴体下半分の緑色の部分も京都市時代とは随分風合いの異なる「広電色」で、塗装を見る限りでは京都市電の面影は随分と消えてしまいました。
 しかし、そこで大人しくしているほど、広電は大人しい会社ではありませんでした。
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海野車体工業海鳴工場(2004/4/24更新
広島電鉄1900型 1908号(冷房車改造後) 
京都時代と随分印象の違う塗装で竣工した広電1908号ですが、その塗装はじきに変えられる事になりました。
 ラインは黄色から京都時代のイメージに近いオレンジ色に、緑も広電の色とはイメージの違うものに変更されました。
 なお、京都時代には扉はクリーム一色となっていましたが、広電では扉も車体と同じように色が塗り分けられています。この塗装アレンジも京都時代より自然で、利用者からも好評でした。
 1900型は広電に移籍する事によって完成した―とはよく言われることですが、塗装といい車体といい、その評はあながち間違っていないと言えるでしょう。在籍期間も、京都時代が昭和32年から昭和52〜53年の20〜21年なのに対し、広電に移籍してから優に25年以上経過しています。最早、名実ともに「ひろでんの電車」と言って差し支えないかと思います。
 その1900型が「ひろでんの電車」になる過程において、外せない特記事項が昭和55年より始まった冷房化改造です。1900型の冷房化改造は広電の中でも一番早く行われたもので、1901号と1913号の2輌が改造の対象になりました。
 1908号も57年に改造が行われ、最も標準的な路面電車用冷房と言われる三菱MDA方式の冷房が施されました。
 1900型は全車冷房化改造が行われ、そして今なお全車が活躍を続けています。
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海野車体工業海鳴工場(2004/4/24更新)
広島電鉄1900型 1913号(第一次冷房改造後)
1900型は広電の車輌の中でも一番初めに冷房改造が行われた型式ですが、その中でも1901(元京都市電1916号)号と1913(同1929号)号は特に早く改造が実施されました。昭和55年の事です。
 この2輌は、後の車とは異なり富士機器の直流分散式冷房を装備していました。エバポレータはバスの冷房改造用クーラの物を流用しており、機器は全て室内若しくは床下に納まっています。よって、この2輌は冷房改造車にも関わらず外観は非冷房車と変わっていません。
 この富士機器の直流分散式冷房ですが、冷房用の補助電源が必要ないということで手軽に装備できるという利点はあったというものの、現場の評判は余り良くありませんでした。直流モータ故のメンテナンスの手間、バス用流用という事に起因する冷房の容量不足など、実用性には疑問のあるものでした。
 よって、翌年以降に冷房改造された他の1900型は、別の方式へと変更される事になりました。
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2004/4/24更新)
広島電鉄1900型 1913号(第二次冷房改造後)
広電で最初に冷房化工事が行われた1901号と1913号ですが、装備した直流分散式冷房の評判は芳しいものではありませんでした。そのため、他の1900型に施された三菱の直流交流変換駆動方式への換装が途中で行われました。
 屋根上に集中式のユニットクーラが設置してあるところは他の1902〜1904号以外の1900型と変わりませんが、1901号と1903号の場合はユニットクーラの反対側に空調制御装置が設置してあります。他の集中式ユニットクーラを装備した1900型は中央床下に空調制御装置を装備しているので、この点が特徴となっています。
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海野車体工業海鳴工場(2004/4/24更新) 
広島電鉄1900型 1904号(冷房改造後) ナニワ工機
昭和55年から冷房改造が始まった1900型ですが、翌年に行われた改造では評判の悪かった冷房の方式が変更されました。
 56年度の改造対象は、1902(元1917号)号・1903(元1918号)号・1904(元1923号)号です。この改造で、初めて三菱電機の直流交流変換駆動方式(通称「MDA方式」)が採用されました。この方式は効き・整備性共々良好で、以後日本の路面電車用冷房の標準形式となりました。
 この3輌では、小容量のユニットクーラを前後に二つ振り分けて搭載しています。これは、56年度改造の1900型だけの特徴で、広電の中でも異彩を放つ外観を持っています。空調制御装置は中央床下に設置されました。
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海野車体工業海鳴工場(2004/4/24更新)
広島電鉄1900型 1909号(冷房改造後) ナニワ工機
昭和56年度の1900型冷房改造で冷改の基礎を築いた広電は、翌57年度に残る10輌全ての冷房改造を実施しました。
 1902〜1904号と変わらないMDA方式が採用されましたが、57年度改造の冷房ではユニットクーラが1基になり、屋根上がすっきりとした印象になりました。空調制御装置は変わらず床下装備でしたが、これは台車間距離に余裕のある他の移籍車にも適用されました。
 因みに、広電のプロパー車は移籍車よりも台車間距離が短いために床下に空調制御装置を装備する事が出来ず、屋根上に設置する方式をとっています。
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広島電鉄1900型 1906号(冷房改造後) ナニワ工機 
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海野車体工業海鳴工場(2004/4/24更新)
 
広電1900型を見分ける上で最も特徴的な点は屋根上の冷房装置ですが、この他にも中扉で識別できる時期がありました。
 元々、京都時代から1900型の中扉にはタテ桟2本入りの木製扉が使われていました。しかし、中にはそれと異なる車も存在しており、元1920号車の1906号車は木製扉でもタテ桟無しのものを使用していました。1906号車の他車との差異はこれだけで、冷房は1ユニットのMDA方式(冷房制御装置床下設置)という、最も1900型の中で標準的な形態になっていました。
 現在では、全車軽合金製の扉に替えてあり、木製の扉は1900型からは姿を消してしまいました。但し、その取り外した木製扉自体は、電車まつりの時に展示される自動扉の構造紹介用模型に活用されています。
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海野車体工業海鳴工場(2002/12/9更新)
広島電鉄2000型2001号 
広島電鉄2000型 2001号 ナニワ工機 海野車体工業海鳴工場(2004〜2009は広島電鉄内製)
 広電市内線と宮島線とを直通するために建造された2番目の型式で、昭和35年から運用が始まりました。
 車体の基本レイアウトはこの2000型の前に導入された850型(現350型)を踏襲していますが、中身は更に進歩し、間接自動加速制御(850は間接非自動制御、いきなりマスコンを一杯にまわすと制御が落ちます。トヨタが昔作っていた流体トルコン手動変速機「トヨグライド」と同じようなモンと考えればいいのです)、トーションバー式台車(日本では珍しい)、30kwモータ4基装備(市内線では38kw×2が標準装備だった市内線の事を考えると「当社比」で凄い)と、路面電車ながらも鉄道線車輌並みの走行性能を誇っているのが特徴でした。
 2001号から2003号までは昭和35年にナニワ工機で生産されました。前述の通り、車体は850型の踏襲でしたが,中扉後の車掌台窓が引き違い式に変更され、前照灯が埋め込み式から大型の取り付け式へと変わりました、2004号から2009号までは、昭和37年に広電の工場で内製されました。幾ら小型車とはいえ、1年に6輌生産するあたりは、広電の技術力の高さを窺い知る事が出来ます。
 昭和42年から前照灯輌脇に直通表示灯が追加され、市内線内でも市内線車との区別が容易につきやすいようにしています。…もっとも、緑主体の市内線車(当時は全面広告車も居ましたが)のなかでこの2000型をはじめとするピンク塗装は、「宮島線のピンク電車」ということで表示灯がなくても利用者からは一目瞭然でしたが…
 この2000型ですが、流石に12m級の単コロでは輸送力が不足してきたので、昭和49年から永久連結化工事が行われました。
 しかし、作られたのは全部で9輌、2輌連結にすると1輌余ってしまいます。なので、初号車である2001号だけが連結化されずに元の姿のまま残り、検査車が出た場合の代行や、レール輸送や千田車庫で検査される高床車の控えなどの事業用車として使用されていました。ですが、台車に亀裂が入っているのを発見されて以来、モータを半分取り外されて、休車状態に陥っています。
 荒手車庫の片隅でボロボロになりながらもなかなか廃車されずに早何年。貴重な「現存唯一の素の2000型」という肩書きを張りながら、何れ来るかもしれないれども当分来そうにない廃車の時を、車庫の片隅にある「廃車留置コーナー」で静かに待っているのです。
 でも、広電の書類的には「休車扱い」にすらなってないので、実はいまだ「現役車」だったりするのです。ページのトップへ戻る
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海野車体工業海鳴工場(2002/10/25更新)
(伊予鉄道2100型 )
伊予鉄道2100型 2101号 アルナ車輌
 アルナ車輌の超低床路面電車シリーズ「リトルダンサー」の第二弾、いわゆる「Sタイプ」と呼ばれる車です。
 日本で初めて狭軌単車で実現した、超低床電車です。台車を極力車体の端に持って行き、その間をノンステップとした設計です。
 日本で一番期待されていた単車の超低床電車ですが、その設計の性質上、台車間距離を長くせざるを得ず、どうしても車体の内方偏移が大きくなってしまいます。そのため、車体幅を多く取る事が出来ず、収容力が若干の問題になっています。
 ただ、この方式が日本の事業者にとって一番導入しやすい形態である事には違いがなく、加えて、この方式は在来車の台車を流用して車体更新をするという形での導入をする事が出来るため、短期的には一番期待の持てる形式ともいえます。ページのトップへ戻る
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海野車体工業海鳴工場(2002/10/21更新)
ユートラム
鹿児島市交通局1000型「ユートラム」1011号 アルナ車輌
 熊本・広島と続けて納入された超低床路面電車でしたが、その何れも高額(広島のグリーンムーバーで3億4千万)な輸入車でした。しかも、欧州のLRT車輌をほぼそのまま持ち込んだ車輌なので、日本の”路面電車”として使用するには連接車の図体を持て余してしまうという欠点がありました。このため、規模の大きい熊本市と広電以外では導入しようにも出来なかったのです。
 日本の路面電車の殆どは、1輌のボギー車をワンマンで運行するというスタイルが殆どです。その運行スタイルでもちゃんと使え、そして導入・維持管理とも楽な純国産の小型超低床路面電車として開発されたのが、アルナ工機(企画途中に「アルナ車体」へと社名が変わってしまいましたが)の純国産車、「リトルダンサー」です。
 国内の路面電車シェアの80%以上を占め,現在の日本では事実上唯一の「路面電車メーカ」となったアルナ工機が、長年路面電車の部品を製造していたメーカ(台車の住友金属、電子機器の東洋電機製造・東芝、ブレーキのナブコ)と組み、開発を行いました。基本コンセプトは「既存の技術で超低床電車」です。
 熊本と広電の電車は,台車に独立車輪を使用しましたが,日本では開発費が嵩むので開発できません。そこで、従来通りの車軸付き車輪の台車を使用して、超低床電車に取り組む事にしました。
 リトルダンサーには大きく3つのタイプが設定され、それぞれA(Articuleted)タイプ、L(Long)タイプ、S(Short)タイプと名付けられています。
 リトルダンサーシリーズの中でも一番最初に導入されたのが、鹿児島市交通局の1000型「ユートラム」でした。鹿児島市では、A3タイプを採用しました。このタイプは、単車並みの14mの延長を3輌に分け前後の短い車輌に運転台と台車を装備、客車である中間車を長くとって、その部分は台車を設けずにフローティング車体としました。これにより台車間距離の長い単車で発生する内方偏移を抑える事に成功したのです。但し、前後の車輌には客席は無く、客席部分が8mと短かいために、収容力という面では若干の不安を抱えています。しかし、内方偏移が少なくなった分だけ全幅を広げる事が出来、幅広の使いやすい室内空間を確保しています。ただ、フローティング部分に重量をかけることが出来ないために超低床電車特有の「屋根上電子機器」の配置には苦労したらしく、なるべく輌端の車輌に荷重がかかるようにするための設計が施されています(相当苦労したらしい)。
 2002年1月に1号車である1011号が運用を開始し、続いて1012号と1013号が建造され、運用開始を待っている状況です。
 1輌あたりの価格は1億7800万円と単車にしては高価となっていますが、それでも広電車の価格を考えると随分と現実的な価格になりました。
 なお、一応3輌編成の同車ですが、鹿児島市では3つ併せて1輌という扱いをしています。ページのトップへ戻る
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海野車体工業海鳴工場(2002/11/8更新)
広島電鉄2500型 
広島電鉄2500型 2501+2502 ナニワ工機(2505〜2510は広島電鉄内製)
 今でこそ、路電区間である市内線と鉄道区間である宮島線が同じ車輌で直通されている広島電鉄ですが、その昔の広島電鉄では、宮島線は完全に市内線から独立した存在で、車輌も路電タイプではなく普通の高床車がメインでした。宮島線と市内線は己斐(西広島)で乗換えが出来ましたが、それでも乗換えがある分利便性は幾分スポイルされます。
 という事で、更に利便性を高めようと、昭和30年代に入り、宮島線〜市内線の直通化が計画されました。昭和33年には初の相互乗り入れ運用が行われ(団体貸切)、広島駅〜廿日市間のラッシュ時運用が始まりました。
 当初は高性能単車の850型(現在は350型に改番)がこれに充当され、35年にはそれを更にパワーアップさせた単車である2000型が建造されました。
 しかし,これらは何れも12m級の車で、15〜16m級の車が主力だった宮島線では、いかにも輸送力不足でした。それに対応するために、より大型の車輌が建造される事になりました。
 とはいっても、Rの小さいカーブがある市内線で台車間距離の長い車は使えません。という事で、全長を延ばす為に連接車が建造されることになりました。これが、2500型です。
 2輌編成で,広島駅寄りの車が奇数番号,宮島寄りの車が偶数番号を振られています。昭和36年に建造された初期車が2501+2502,2503+2504の4輌2編成です。建造はナニワ工機で行われました。基本構造は2000型のものを踏襲していますが,台車は改良型のSIGNS508Aとなりました。
 昭和39年には、2505〜2510の6輌3編成が増備されました。製造は広島電鉄の社内工場で行われました。ヘッドライトは、一灯式からシールドビームの二灯式に変更されました。台車は輌端がSIGNS508C、中間がSIGNS508Dとなりましたが,外見上は殆ど変わりません。
 他にも2511〜2514の4輌が建造されましたが、これは大阪市電より購入した中古車1601型を改造した車で、広電オリジナルの2500型とは全く異なります。
 こうして5編成(改造車を含めると7編成)が製造された2500型は、広電直通車の主力車となりました。しかし、宮島線内高床車の2輌連結化、西鉄の福岡市内電車を改造した3輌編成の直通車3000型(全長26mクラス)8編成の就役、2000型の2輌連結改造(全長24m)、3500型・3700型といった新造車の就役と周囲の車が大量輸送に対応していく中で、全長18m級の2500型は中途半端な輸送力が災いし、昭和50年代後半にはかなり中途半端な存在となっていました。
 冷房化もされず、段々と車庫の端で昼寝をする日が増えていき、このまま廃車・解体されるのではないかと噂されるようにさえなりました。
 ところが、その噂は大きく外れて、廃車どころか3輌編成に改造されることになるのです。ページのトップへ戻る
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海野車体工業海鳴工場(2002/10/25更新)
熊本市交通局9700
熊本市交通局超低床電車9700型 9702AB 新潟鐵工所/ABB・Daimler-Benz Transportation(ADトランツ)
 熊本市交通局が1997年8月より運行を開始した超低床路面電車です。日本国内では初の超低床電車として話題を集めました。
 モータや制御器等の電装品はドイツのADトランツ(アドトランツ)から輸入した物を使用し、車体製作と儀装は日本の鉄道メーカである新潟鐵工所が担当しました。
 低床化のために、日本では初の試みである「左右独立車輪」を採用し、モータも台車ではなく車体に搭載しました。車体あたりそれぞれ1個ずつモータ(100kw)を搭載し、駆動軸を通じて車体中央よりの車輪を駆動します。モータの部分が室内に突出していますが、その部分には座席が設けられ、空間効率を高めています。
 画像の車は,第二期納入車の9702AB。パンタを装備してある方がA車、そうでない方がB車です。第二期納入車では更に室内の改善が進み、モータや台車部の突起が更に小型化されています。
 合計4編成が納入され、今日も熊本の町を走っています。
 追記、モータについて。
 広電のも熊本市のも,モータはVVVF制御の交流モータを使用していますが、熊本市の9700は100kwモータが2基で合計200kwの出力でした。この数値は、重量21tの路面電車としてはまぁ普通の(若干高出力気味ですが)数値です。他の都市の新型低床車も、まぁこんなものです。
 しかし、広電の5000は100kwモータを前後の台車に2個づつ装備(車輪前後間にモータを縦置き)して、合計400kwという高出力を誇っています。まぁ、この車が他都市の物に比べて大型だという理由はあるのですが、それでも重量は31.7t。この重量辺りの出力は、一般鉄道の通勤車のそれを上回っています。小型車輪であることとあわせて、その加速は強烈。最高速も路面電車としては日本最速の65km/h(設計速度80km/h)を記録しています。
 …実際の速度は、もう「あははーっ」です。ページのトップへ戻る
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海野車体工業海鳴工場(2002/10/25更新)
ハートラム 
土佐電気鉄道100型「ハートラム」101ACB アルナ車輌
 鹿児島・愛媛に続いて高知の土佐電気鉄道に納入された(今のところ)最後のリトルダンサーシリーズが、この「Lタイプ」です。高知では100型「ハートラム」として運用されています。
 車体は、"Long"なだけあって,他のリトルダンサーに比べて長い17.5mで、3連接3台車構造を採用しています。車体一つに台車一つという構成をとっており、その何れもが車軸式台車を採用しています。
 モータは60kwのものが3基搭載されています。車体輌端の台車に搭載され,中間台車のものは付随台車となっています。A車には1基,B車には2基搭載という変則的搭載方法が取られています。
 車体輌端のA車とB車の台車は、揺枕にコイルバネとオイルダンパを備えた所謂普通の路面電車用台車となっています。車輪径も660mmとなっています。この台車部分の上は通常の路面電車と同じくらいの床高となっており、この部分に運転台と座席の一部が装備されています。
 中央の台車はコイルバネのボルスタレス台車が採用されました。車軸式台車という点は変わりませんが、車輪径を610mmと小型化することによって車軸高を低くする事に成功し,床高が480mmとなっています。A車とB車のノンステップ部分が床高350mmなのでその差は130mm、その差はスロープにすることによって解決しています。
 このC車は、軌間1067mmの狭軌車輌ながらもスロープ部分810mmの幅を確保しており、交通バリアフリー法の定める800mm以上の通路幅という条件をクリアーしています。
 連接車ということで運用に制限が出易いのが難点ですが、収容力とノンステップエリア確保の輌立という点では、リトルダンサー三方式のなかでも一番優れているのではないでしょうか。
 なお、リトルダンサーという名称は、「小さな子供の舞が喜びと優しさをもたらすように、軽やかに走る低床車が人々に優しい気持ちを,街に活気を与える様子(広報原文ママ)」を表したものですが、まぁ当然のように「小さな段差」という意味が含まれています。ページのトップへ戻る
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海野車体工業海鳴工場(2002/10/25更新)
東京急行電鉄デハ80型 
東京急行電鉄デハ80型 81・82 日立製作所
 昭和25年に,日立製作所と東急横浜製作所で製作された電車です。張り上げ屋根と大きな窓が特徴でした。
 この車が好評だったために、従来の木造車もこれに準じた車体更新を受ける事になり、更新と同時に80型に編入され、80型は108号までの大世帯になりました。
 昭和44年の玉電廃止で大量に廃車が行われましたが(一部は江ノ電に譲渡)、世田谷線に6輌が残りました。
 ビューゲルをパンタグラフに換装したのが31年、2輌連結化が43年に行われました。81+82号と83+84号は片方の運転台を撤去して永久連結化されましたが、85+86号は輌運転台のまま連結され、他の車輌が定期点検に出た際には連結を解き、他の車と連結して運用できるようになっていました。ページのトップへ戻る
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海野車体工業海鳴工場(2002/12/9更新)
広島電鉄2000型2002+2003 
広島電鉄2000型 2002+2003
 昭和49年から永久連結工事が行われた2000型ですが、その工事は結構本格的なものでした。連結面からは運転台が取り除かれ、その部分には貫通路が置かれました。
 車輌は、広島駅方に偶数車,宮島方に奇数車と配置し、2002+2003,2004+2005,2006+2007,2008+2009といった具合に4編成となりました。これにより、編成長は24mを越え、文句無しの大型車となりました。
 更に、昭和56年からは三菱MDA方式での冷房化も行われ始め、昭和59年夏には全ての冷房化が完了しました。昭和60年には大型方向幕の設置と窓上前照灯の窓下2連シールドビーム化が行われ、最早元の面影はなくなってしまいました。
 こうして、改造を受けまくった2000型ですが、新車が大量に導入された近年では、足の遅さと3輌連接車には劣ってしまう輸送力が災いし(特に足の遅さは深刻で、朝ラッシュの時にやけに電車が遅れてるなぁと思って待っていたら、向こうからモータの音も高らかに2000型がのっそのっそと、でも当人(当車?)は必死になって走ってきているという光景が…この2000型をはじめとするピンク電車が使われる運用の事を、広電社内では「イモダイヤ」と通称しているらしいです。色といい走りっぷりといい、絶妙な(でも可哀想な)ネーミング…)、朝ラッシュか夕方の広電車庫折り返し、若しくは競艇貸切にしか使われなくなってきつつあります。
 それでも、車輌自体はまだまだ矍鑠としたもので、廃車になる気配は全く無し…ページのトップへ戻る
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海野車体工業海鳴工場(2003/1/15更新)
東京急行電鉄デハ150 151・152号 
東京急行電鉄デハ150型 151・152号 東急車輛製造
 昭和39年に新造された車です。80型までと異なり、東急車輛製造で内製ました。4輌製造されています。
 車体は東急車輛らしく革新的な設計を用いており、車体には高張力鋼を用い窓をバランサ付きの1段窓を採用、かなりスマートな外見となりました。側面のコルゲーションも、同車の外見的特徴を際立たせています。室内も大幅に近代化され,室内の木造部分も金属に変更されました。車輪径も小型化されて710mmとなり、低床化が図られています。
 当初は輌運転台構造でしたが、昭和42年には連結運転がスタートしています。そして、昭和58年の車体更新時に、運転台の片方を撤去する作業が行われました。
 なお、側面のコルゲーションは製造当初は鋼鉄製だったのですが、この昭和58年の更新時に無塗装ステンレスの物へと交換されています。この時の改造で、撤去した運転席の横の側面窓が埋められています。
 東急世田谷線のエースとしてその後も走りつづけましたが、車齢が中途半端に古かったため、カルダン駆動化されることはありませんでした。原型をそれなりに止めたまま、平成13年に超低床車300型に後を譲り引退しました。ページのトップへ戻る
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海野車体工業海鳴工場(2002/11/8更新)
広島電鉄3100型 
広島電鉄3100型 3101acb 大阪車輌工業
 いまいち中途半端な存在となってしまっていた2500型でしたが、昭和60〜61年に3輌連接化改造が行われました。
 2500型時代は車体毎に番号が振られていましたが、この3100型では3000型以来使われるようになった、車体毎にA・C・Bという記号を割り振った命名方式を採用しました。
 改造は、10個の車体を切った貼ったして3輌連接の車を3編成作るという手法で行われました。3101号から3103号の種車を分けると、次のようになります。
  3101A+3101C+3101B:2501+2502+2505
  3102A+3102C+3102B:2503+2504+2507
  3103A+3103C+3103B:2508+2509+2510
 余りの2506は、長い間江波車庫に部品取り車として保存されていましたが、98年に車庫のスペース確保のために解体されてしまいました。
 改造は,基本的に上の編成表通りに切った貼ったしたと考えればいいですが、中間車にあたるC車(元2502・2504・2509)は、そのまま切って繋げただけでは長さが若干足りないので(そのままだと5800mm)、車体の片側を1m位延長しています。そのため、C車は車体の左右でドア配置が異なります(この絵で言うと、追加分は扉の右の窓の1枚。反対側だと扉が窓1枚分右にずれて、扉左の窓が4枚になる)。
 主だった改造は3輌連接化ですが,前面方向幕が大型化され,2500型では途中で埋められてしまった先頭車の中扉後の側面方向幕が復活し、更に冷房が装備されました。前面灯も、「おでこライト」から窓下へと移設され、2500型とは顔つきがかなり変わりました。
 随分とイメージが変わった同車ですが、塗装はオリエントピーチに赤帯のものが踏襲され、そのイメージだけは2500型を引き継いでいました。ページのトップへ戻る
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海野車体工業海鳴工場(2002/10/30更新)
広島電鉄3500型(ぐりーんらいなー) 
広島電鉄3500型「ぐりーんらいなー」3501acb 川崎重工/アルナ工機
 日本の路面電車は、昭和30年代から段々と凋落していく傾向にありました。自家用車の増加による定時性の低下・進化しない運行システムにより利用者は現象を続け、各地で路面電車が廃止されていきました。
 この動きに歯止めをかけようと、路面電車を近代的な公共交通機関として再生する事を目指し、1978年に運輸省・学識経験者・鉄軌道事業者、そしてメーカの代表で構成される委員会が発足しました。それによる研究・検討により開発されたのが、快適性や省エネルギー性に優れた新世代の路面電車、「軽快電車」でした。
 この軽快電車は2種類が計画されました。ひとつは単車、そしてもうひとつは中量輸送機関としての立場をより一層強めるための、2輌連接車でした。前者は長崎電軌2000型として、後者は広島電鉄3500型として計画されました。車輌の製造は、川崎重工とアルナ工機が共同で行うことになりました。
 この2輌の車には,電機子チョッパや回生ブレーキ、1台車1モータの直角カルダン駆動、エアサス台車,輌手ハンドル(一軸で連動)のブレーキ−力行制御マスコン、セミクロスシート、冷暖房可能のヒートポンプ式空調装備などの、今まで路面電車には取り入れられなかった新技術が採用されました。車体スタイルも、東京都交通局7000型をきっかけに導入され始めたキュービックスタイルを更に洗練して採用し、路面電車のイメージ刷新を狙いました。
 日本鉄道技術協会としての本命は、どちらかというと連接の広電車であり、長崎の単車はどちらかというと「おまけ的扱い」でした。
 しかし、「2輌連接」という設計が、広電で運用するにあたって問題となってしまいます。1車体が9.9mなので、編成全体では約20mとなるこの車ですが、これでは輸送力が小さいと広電側からクレームがついたのです。
 当時、広電の鉄道線である宮島線では、軌道線である市内線との相互乗り入れ化を進めつつあり、それによる利便性の向上によって沿線人口が大幅に増えつつあったのです。この需要増加に対応するために、広電では従来の12m級単車の連結に加え、廃止になる西鉄福岡市内線から2輌連接車を大量に買い入れ、切った貼ったの大改造を加えて26m級の3輌連接車に組替えるという、大幅な輸送力増強計画を打ち出していました。その動きの中で、本車の20mという全長は,余りにも中途半端だったのです。
 そのため、急遽もう1輌編成に組み込むという計画の変更を行い、広電版軽快電車は「26.5m級大型電車」として就役しました。1980年のことです。
 しかし、その就役は途中でゴタゴタした所為か、長崎の車よりも若干遅れて登場することになりました。しかも、設計が殆ど纏まった段階での車輌増結だったために、中間車輌分の重量増加に対して出力を上げる事が出来ず(輌端の台車に120kwのモータが1基ずつ)、当初計画されていた高加速度が発揮できなくなってしまいました(計画時には,180%増加時で3.6km/h/s、完成時には2.65km/h/s。市内線の走行だけの長崎車で3.0km/h/sということを考えると、鉄道線を走行する広電でこれは明らかに性能不足)。
 納入が遅れたばかりか、性格的にも中途半端な物になってしまったこの広電3500型は、本来は軽快電車の本命だった筈がその年のローレル賞(優れた電車に授けられる賞、特急車を顕彰するためのブルーリボン賞に対し、此方は通勤車…の筈が、賞設立後じきにネタ切れとなってしまい、用途に関わらず電車全体が顕彰の対象となっている)を長崎電軌2000型に取られてしまうという事になってしまいました。
 運用についてからも、様々な問題が発生しています。本車の目玉だったセミクロスシートですが、ラッシュ時の収容力の問題により乗客・乗務員双方から不評を食らい、1983年には運転席後のクロスシート部分をロングシートに換装する改造が行われる事になりました。操作方法が従来の物とは全く違い、その違和感も乗務員の評判を落とす原因となりました(その後の3700型以降の新車もぱっと見の操作法は3500型のものの踏襲となっていましたが、実際は断然使いやすくなっており、3500型にとってはこれもある意味致命傷になってしまいました)。
 更に悪い事に、新機軸をてんこもりにした結果、運用における故障が頻発。制御がすぐ飛んだりするために、乗務員の評判はこれでもかというくらいに悪化してしまいました。
 そのため、その後3700型や3800型といった新車が大量導入されるにあたって、この3500型は滅多に動かなくなってしまい、ずっと荒手車庫の片隅で寝る日々を送る事になってしまいました(時々事故代車運用や検査代車運用で動く事もありましたが、それでも走行は宮島線内限定が殆どで、市内には顔を出さず)。
 市内線の輸送力増強にこの車を活用しようと、市内線の運転士による慣熟運転訓練も行われたようなのですが…それも結局実を結ばず。グリーンムーバーに追い出された他の連接車が、大量に市内に廻る事になりました。それでも、あんまり動かさなかったら「モッタイナイオバケ」が出ると思われた所為か、此処2年は平日の朝に宮島線内を数往復する運用が行われています。が、評判の程は相変わらず…
 こんな具合に、決して幸運とはいえない車生を送っている3500型ですが、その後の3700、3800、3900、3950、700、800各型にはその技術が立派に生きており、その挑戦は決して無駄にはなりませんでした。この3500型が就役した際に公募によって名付けられた「ぐりーんらいなー」という愛称も、その後の連接車に受け継がれ、3950型の「グリーンライナー」を経て、5000型の「グリーンムーバー」に引き継がれ、「ひろでんのでんしゃ」として広く市民に親しまれています。広電だけでなく、日本各地の路面電車近代化に繋がったという点でも、この車の功績は大きかったと言えるでしょう。
 決して「成功作」とはいえない本車ですが、その挑戦は無駄にはならなかったのです。
 おまけ。
 終始トラブルが付き纏った広電3500型ですが、長崎2000型ではそのような事はありませんでした。
 途中で行った無理な設計変更が祟ったのか、はたまた「受賞確実」と目されていたローレル賞を長崎に奪われた事が悔しかったのか…
 それでも、その血統を引き継いだ5000型で漸くローレル賞を勝ち取った訳ですから…まぁ、幾分は報われたのではないでしょうか。ページのトップへ戻る
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海野車体工業海鳴工場(2002/11/8更新)
広島電鉄3100型(ぐりーんらいなー) 
広島電鉄3100型「ぐりーんらいなー」 3101acb 大阪車輌工業
 3輌連接化に伴い、イメージを大きく変えた3100型ですが、塗装だけは従来のものを踏襲し、相変わらず「ピンク電車」と呼ばれていました。
 既にこの当時、宮島線には着々と新型電車「ぐりーんらいなー」が登場しており(3500型・3700型・3800型)、折角の大改造なのに3100型は登場当初から存在感の薄い、古臭いイメージの電車となっていました。
 そのため、イメージチェンジのために、3100型を「ぐりーんらいなー」に準じた塗装に変更するという事が行われました。昭和63年の事です。
 3101号と3202号は、デビュー当初からこの「ぐりーんらいなー塗装」になっていましたが、3103号は西ドイツの画家、ジョー・ブロッケルホフ氏が描いたスプレー画が車体にペイントされ、63年の原爆祈念日に「ピースバーン号」としてデビューしました。平成4年の検査時に窓下部分を残してこれまた「ぐりーんらいなー塗装」へと変更されていますが、平成7年には完全に塗装が「ぐりーんらいなー」へと変わってしまいました。
 塗装こそ「ぐりーんらいなー」ですが、吊り掛け駆動に丸い古いデザインの車体。いい加減に性能面での不利が目立ってきました。「塗装だけぐりーんらいなー」な本型式は、朝ラッシュや夕方の広電本社前折り返し、競艇貸切くらいにしか運用されなくなっています。
 …吊り掛け駆動に常時電制の独特な原則時の唸り音、個人的には好きなのですが…
 因みに、ピースバーン号は余りにも「アート」すぎて、アイコン化できませんでした。ごめんなさい。ページのトップへ戻る
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海野車体工業海鳴工場(2002/10/20更新)
広島電鉄5000型グリーンムーバー 
広島電鉄5000型「グリーンムーバー」5001acedb ジーメンス/アルナ工機
 路面電車の事業者としては日本で一番の規模をもつ広島電鉄が、99年6月から運行を開始した路面電車です。熊本に次ぎ、日本で二番目に納入された「100%超低床車」、即ち「ノンステップ路面電車」です。
 本来ならば日本のメーカーに設計を発注するところだったのですが、日本の車輌メーカーは100%超低床電車についてのノウハウを持っておらず(というよりは,設けが薄い上に数が出ない路面電車に多額の開発資金を投入したくなかった車輌メーカーの都合が大きい)、やむを得ず海外のから輸入する事となりました。
 欧州には既に様々な超低床路面電車(LRT)が就役していましたが、その中でも広電は電車製作の老舗、ドイツのジーメンス社に連接車輌を発注する事にしました。同社のLRTは「コンビーノ」と呼ばれるシリーズで,モジュール構造を採用する事により大きな仕様自由度を持ったモデルです。
 しかし、広電の仕様(というよりも日本の路面電車の仕様)は欧州の「常識」の中でも随分と特殊な所が多く、設計にはそれなりの苦労が発生しました。この独自設計部分の多さが、就役直後の故障頻発を招く事になります。
 思わぬ苦労があったせいか建造は遅れ、当初予定していた納期に間に合わなくなる可能性が出てきました。普通、電車の輸送は船舶を使用するのですが、これでは到底間に合わない…ということで,1号車はドイツから航空機を使用して運搬するという強行手段がとられました。
 路面電車といえども、連接車なだけあって全長は30.54mに達しています。これを輸送できる航空機となると、そうはありません。…ということで、借り出された飛行機が露西亜の巨人機、アントノフAn124ルスラン。この巨人機の胴体に路面電車をそのまま突っ込んで運ぶという、まぁ豪快といえば豪快な(でも,やっぱり「言い出しっぺ出て来い!」と言わずにはいられない)輸送作戦が実行されました。
 #関係者自身も,An124が「よく落ちるヒコーキ」だって事で、広島空港に無事到着するまで生きた心地がしなかったとか。
 ##マスコミも「空飛ぶ路面電車」ってコトで騒いでたなぁ。
 無事、99年3月13日に広島空港に到着した第1編成は、営業運転開始の6月を目指して、最終的な儀装と調整、乗務員の慣熟訓練が急ピッチで行われました。なお、日本での儀装・調整は、広電が長年車輌を発注してきたアルナ工機(現アルナ車輌)が行っています。
 そして99年6月9日、5000型5001号は運用を開始されました。最初の営業運転の前には盛大なセレモニーが行われ、関係者の期待の大きさが窺い知れました。
 …が,先にも述べたように運用開始直後は独特の機器や設計による問題、運用の不慣れ等が重なり故障が頻発、特に運行初日にして故障を起こしてダイヤを大幅に乱した事は、関係者を大慌てさせ,乗客からは総スカンを喰らう事になりました。
 しかし、それもじきに収まり、ステップ無しで乗り降りできる乗降の容易さに利用者の評価は着実に高くなりました。洗練されたインテリア・エクステリアのデザインも高評価につながり、増備への期待が強まりました。
 その期待に応えてその後も着実に増備が続けられ、02年現在で合計9編成が営業運転に使用され、更に03年までにもう4編成の増備が予定されています(2004/04/23補足:現在無事5012acedb編成まで就役中)。
 因みに、この広電用超低床電車に関わる事によって超低床電車のノウハウを得たアルナ工機は、日本初の純国産超低床電車シリーズ「リトルダンサー」シリーズを開発、鹿児島・高知・愛媛の三都市に納入しました。ページのトップへ戻る