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日本
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Schump 画伯 (2009/1/1)
- #富士T-7初等練習機(2002)
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老朽化が進み、予備エンジンや燃料の入手困難が目立つようになったT-3レシプロ初等練習機の後継として、2000年9月に競合機ピラタス
PC-7を退けて採用された機体。基本設計はT-3の原型であるビーチT-34メンター依頼の枯れたものであるが、ターボプロップエンジン搭載に
ともなう機首延長と速度・高度性能の向上に対応した尾翼の再設計、空調・電子機器の近代化などによって面目を一新した。
PC-7との比較審査においては、運動性能以外の飛行性能と機体の単価ではやや劣ったが、低出力エンジンゆえの低燃費や国内企業ゆえの
運用支援経費の安さによって、総合評価では逆転採用を勝ち取っている。実機の納入は2002年9月に開始され、2008年9月までに49機を完
納した。
アイコンは、量産最終号機の完成時。
Schump(2003/8/16更新)- セヴァスキー2PA複座戦闘機「汐風(J-BAAN)」(1937)
- 米陸軍初の全金属製単葉引込脚戦闘機P-35をベースに、複座多用途機X-BTを経て開発された輸出用長距離戦闘機。陸上機型と水上機型が試作され、南米への売込ツアーやソ連への輸出商談も行われたが、日本海軍に20機、ソ連経由でスペイン共和国軍に2機、スウェーデンに軽爆として52機(大戦勃発による輸出制限により2機で納入中止)を売っただけに終わった。
日本海軍では本機を長距離護衛戦闘機として採用したが、格闘戦性能の不足により長距離偵察機(高速で航続性能と安定性に優れたのでパイロットには好まれたらしい)や地上教材に転用されたり、民間に払い下げられたり(朝日新聞に2機、東京日日新聞に1機)している。
アイコンは、朝日新聞社機のうち、敗戦まで稼動状態を維持していたという「汐風(J-BAAN)」。
Schump(2003/6/18更新)- 三菱雁型通信連絡機(1936)
- 陸軍航空技術研究所の藤田大尉(当時)らが提唱した高速戦略偵察機の構想に基づいて開発された機体。薄翼を採用したため、強度や翼内燃料タンク容量との兼合いから引込脚化こそ断念したものの、当時としては世界最高水準の空力的洗練を誇り、480km/hの高速と2400kmの航続力を叩き出した。
試作機の高性能に目をつけた朝日新聞航空部長の河内一彦は陸軍と交渉して2号機(アイコンの機体)を購入、販促と国威発揚のための訪欧大飛行を企画、「神風」と名付けられた機体は、1937年4月6〜10日に飯沼正明・塚越賢爾両名の手により94時間17分56秒の東京−ロンドン間連絡飛行記録を樹立した。
この飛行で性能を実証されたこともあり、本機は97式司令部偵察機として陸軍に制式採用されたほか、民間機としても報道各社に11機(異説あり)が販売された。
Schump(2005/10/27更新)- グラマンG-73 マラード(1946) [日東航空]
- グラマン創業以来の水陸両用機の経験を基に、戦後の民間航空需要増を見込んで開発された旅客飛行艇。機首と胴体両側面に引込み式の降着装置を持ち、都市部の大空港と周辺の港湾・離島とを直接結ぶ路線への就航を狙ったが、中小都市・離島の空港整備が進んだことや、航空需要の伸びが予想を超えてしまい、また、本機の巡航速度・航続性能・座席数では追いつかなくなったことなどから1951年までにわずか59機で生産終了となった。現在ではターボプロップエンジンに換装した機体がマイアミ基点の観光路線で運航されるのみである。
日本では日東航空(後に日本国内航空、JAS等を経て現JALグループ)が、1959年から1965年にかけて大阪空港を拠点に串本、南紀白浜、徳島、高知、別府等への路線に本機を運航し、機材を一部引き継いだ長崎航空が1966年から67年まで大村空港を拠点に壱岐・対馬への路線に就航させていた。
アイコンは日東航空の機体だが、就航期間中に改修や再塗装を繰り返したため、塗り分けパターンやアンテナ類の状態は一定していない。
Schump(2004/3/5更新)- 三菱 MU-2 朝日新聞社「早風」
- F-86とS-55のライセンス生産によって航空機事業復活への手応えを掴んだ三菱重工が、世界市場進出を目標に開発したビジネス機。室内容積の割に小型軽量な機体、このクラスとしては世界に先がけてのターボプロップ化、高翼面荷重ながらフルスパンフラップとフライトスポイラーを装備した主翼によるSTOL性・速度性能・運動性の兼備等、非常に個性的な機体である。エンジン、内装、燃料タンク等に改良を加えながら短胴型6種と長胴型4種が生産(民間型として)されたが、市場では特に500km/hを越える高速巡航性能、航続力、悪天下でも良好な操縦・安定性等が好評で、1976年にはFAAの型式証明も取得、1966年から1985年までの量産期間中に27か国向けに計762機を販売した。海外向け商品名は、短胴型がSolitaire、長胴型がMarquise。アイコンは初期長胴型の MU-2G。
Schump(2005/1/3更新)- 三菱 MU-300(1978)
- 技術的にも商業的にも成功を修めたMU-2に続いて、より上のクラスの市場に進出するために開発された国産初のビジネスジェット機。MU-2と同様、高翼面荷重にフルスパンフラップとスポイラーを組み合わせた高速志向の機体であり、800km/hを超える当時の同級機中最速の巡航速度を得た。また、キャビン断面を楕円断面として意識的に内部容積を大きくし、風防に視界の歪みが少ない円柱断面曲面を用いる等、意欲的な設計が各所に見られる。
航空機としては性能・実用性ともに高水準だったが、開発時期が米連邦航空局の耐空性基準の厳格化にぶつかって型式証明取得のための改設計が長引いたり、販売の立上げがビジネス機市場の縮小期にぶつかったりしたため、三菱の独力では十分な販路を確保できなかった。結局、1986年から1989年にかけて販売・サービス・製造の権利を業務提携先であったビーチ社に順次移管、現在は米国機ビーチジェット400となっている。
アイコンは、名古屋に本拠を置くダイアモンド・エア・サービス社で微小重力飛行サービスを行っている機体。
Schump(2005/3/30更新)- 三菱 MH-2000(1996)
- 民間ヘリコプター製造への進出を目指した三菱が、MG5エンジン(OH-1用TS-1の民間型)まで含めて全てを自社開発した機体。事実上、高速巡航による旅客輸送に特化した設計であり、胴体はテイルブームまで一体化した流線型にされ、メインローターは小直径高回転型のものを採用、アンチトルクは比較的小型のダクテッドファンと大型の垂直安定板の組合せによることとした。また、複合材の使用を避けて金属中心の構造とし、丸頭鋲を多用することで製造費の節減を図っている。
運輸省航空局(当時)の型式証明審査では、内装の貧弱さ、居住性の悪さ、整備用足場の強度不足、場周飛行時の視界不良等を指摘されたが、1997年6月には旅客輸送用の型式証明を取得(1999年9月には片発運航制限等を緩和)した。量産は開始されたものの、貨客分離搭載としたキャビン・ドア配置のために多用途性、特にストレッチャー等の長尺貨物の荷役能力が低いこと、低速・ホバリング時の操縦性に難があること、場外離着陸時のFODに弱いアンチトルクファン装備位置等が問題視されたこと等から、遊覧飛行用と試験用に数機が販売されたにとどまり、事実上の生産停止状態にある。
アイコンは、エクセル航空に販売された量産2号機。2000年のアエロバティックスもてぎ大会には、岩城滉一氏の操縦で会場に飛来している。
舞沙P(2006/09/05更新)- 本田技研工業 HondaJet
- 幅12.2m 長12.5m 全高4.1m ───
Schump(2006/11/27更新)- 川崎/MBB BK117(1979)
- 川崎重工がKH4(ベル47改)からのステップアップを目指して計画していたKH7と西独メッサーシュミット・ベルコウ・ブロームがBo105の拡大型として計画していたBo107とがほぼ同級機であったことから、両社共同で開発・生産されることとなった中型ヘリコプター。
Bo105譲りのヒンジレスローターシステムがもたらす高運動性と、川崎製のコンパクトなトランスミッションと強固な胴体構造がもたらす余裕ある内部空間とを売りに、人員輸送、対テロ作戦、国境警備などに用途を広げ、殊に後部大型クラムシェルドアからの迅速な登載能力を活かした救急輸送用機として好評を博している。1982年の型式照明取得後も搭載量の増大やエンジン換装によって順調に性能向上を続けており、ベル212系やアグスタA109、ユーロコプターAS365系等と激しく競合しながらも、2006年までに約500機を販売し、なおも生産が続けられている。最新型は1999年に初飛行したC-2型だが、エンジンの強化、胴体の拡大、ローターを中心とした空力の見直し、計器システムの更新等によって面目を一新し、原型機とは全く異なる21世紀型の中型双発ヘリコプターに生まれ変わっている。
アイコンは、岐阜県の防災ヘリコプターとして活躍中のBK117B「若鮎I」。
Schump(2006/11/27更新)- GEN H-4(1998)
- 長野県の精密加工機械・医療機器メーカー(株)エンジニアリング・システムが、エンジンからローター、操縦システムまで全てを独力で開発・生産した一人乗り超小型ヘリコプター。2004年4月には開発体制を強化するため航空機事業部をGEN Corporationとして独立させ、組立キットの発売も開始している。ただし、現在のところ、日本国内では速度5ノット以下・地面効果内での試験飛行しか許可されていない。
ローターはドラッギングヒンジのみの「セミ無関節式」と称するもので、ピッチ変更機構を持たないため、上昇・下降はスロットル操作、左右旋回は電動式差動トランスミッションによる上下ローターの回転数操作で行う。また、前後左右への進行はジンバル上に取り付けられた動力部を丸ごと傾けることで制御される。エンジンは自社製水平対向2気筒125ccが4基で、1発停止時にも軟着陸が可能。機構上安全なオートローテーションができないため、軟着陸用パラシュート展開装置の装備が研究されている。
HIGU(2003/11/12更新)- アエロスパシアルSA315B「ラマ」[東邦航空]
- インド陸軍の要求により、AS315アルウェットIIに高地、高温でも運航できるよう、パワーに余裕のあったAS316のエンジンと空力周りを移植して出来ました。
その結果高々度性能に優れ、山岳救難用としても使われています。
現在では、騒音規制等により徐々に数を減らしていますが、シンプルな機体に大出力エンジンの組み合わせのこの機体は重宝されているようです。
HIGU(2003/8/17更新)- カマンK-max
- 2重交差反転式ローターを持つため、テールローターを省略できています。UH-1/AH-1と同じT-53系エンジンを搭載していますが、よって独特のプロペラ構造によりかなり静かです。(あくまでも比較ですが。)
ハの字にローターを配置することにより、プロペラ同士がぶつかり合うことはありません。見ていてハラハラしてしまうの私だけでしょうか?(笑)
吊り下げ運搬に特化した機体で吊り下げ容量は2.5tもあります。(おおむね双発機並み)
HIGU(2003/8/17更新)- カマンK-max「PCDS」装着仕様
- アカギヘリコプターHPを見て感化されてしまいまして、このようなバージョンを作成しました。
因みに1人乗りです。吊り下げに特化していますので(笑)
しかし、整備員等を同行する際にPCDS(人員輸送装置)を機体左右に取り付ければ、2人まで輸送?できます。
最大136kg、130km/hまでOKとか…。2人分で考えるとビミョーな体重制限です。
上記HPに拠ると、まだこの速度を体験した日本人はいないそうです。(笑)
Schump(2004/11/28更新)- ミルMi-8PA(1980)
- 朝日ヘリコプター(現:朝日航洋)が成田空港・東京都心間の旅客輸送を実施するあたって唯一採算が見込める機材として輸入した機体。本国での量産型に先駆けてエンジンを強化型のTV2-117に換装、VIP輸送型と同等の空調設備を整え、Mi-8M/-17系列相当の左舷側テイルローターを備える等した特別仕様である。サブタイプの「PA」は"Passenger Asahi"の略。
西側基準からするとシステムの冗長性不足や客室からの脱出経路の不備があるため、航空局から旅客輸送用としての運行許可が下りず、材木の吊り下げ輸送や電線敷設に転用されることとなった。始めのころは、本来5人常務のものを1〜2名で運用する際の操作性の悪さや高温時の出力低下などに悩まされたが、製造元が出力制限を緩和してからは最大4トンの吊下げ能力が重宝され、1990年に部品補給の不足で引退するまで活躍を続けた。
アイコンは、エアコン等の旅客用装備を外し、機首に吊下げ荷物監視用のミラーを装備した状態。
ささき(2005/4/8更新)- マグダネルダグラス MD520N
- MD520N は MD500E に「ノーター(NOTAR)」システムと呼ばれる空気噴出式の反トルク機構(エンジンシャフト直結で駆動されるタービンによって生成される圧搾空気流を中空のテイルブーム尾端から噴出させ、メインローター気流を偏向することにより反トルクを実現する)を搭載し、テイルローターを省略したモデルである。これによって騒音レベルが大幅に低下し、横風による LTE(不意自転)現象は原理的に排除され、何よりもテイルローター衝突の危険が無くなったことによる狭い場所での取り回し易さが向上していると言う。
ロールスロイス 250-C20R 450shp ターボシャフトエンジン x 1、最高速度 245Km/h(高度 1500m)、航続距離 412Km または滞空時間 2.4h、乗員 2 名+乗客 3 名または貨物最大 1072Kg。アイコンはデモ用として日本に一機だけ輸入された JA6121 号機。
HIGU(2003/8/4更新)- サーブ340B [日本エアコミューター新塗装]
- JA8649がJAL-JAS統合(吸収合併?)の新カラーになりました。意外と似合うのではないかと思います。
JACのイメージキャラクター「ルーリー」が描かれなくなったことは淋しい限りです。
JAノLマークが隠れてしまいました。
Schump(2003/8/15更新)- フェアチャイルド・メトロ(1965)
- スウェリンジェン社のビジネス機「マーリン」の胴体を5.2mストレッチしてコミューター旅客機化したもの。71年に会社がフェアチャイルド社に吸収されてからも窓の大型化、主翼の延長等の改修を経て現在まで商品展開を続けている。
このクラスとしては最速(542km/h)の巡航性能とキャビン与圧能力の高さを売りにしてきたが、胴体直径の小ささによる居住性の悪さが徒となり、90年代中盤以降はシェアを落としている。
アイコンは、2003年6月から函館・帯広間に就航するエアァシェンペクス社のメトロII型(JA22PT)。
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米国
舞沙P(2002/10/13更新)- Sikorsky S-38
- 全幅21.9m 全長12.3m 全高4.1m 自重3107kg 全備重量4754kg 最大速度201km/h 乗員8名
巣田@うぐぅ(2003/2/12更新)- Cessna Model337 Skymaster 民間機仕様
- 1964 年から市販が開始されたタンデム双発四人乗りの小型機。少数生産された Model336 の発展型で、エンジンがコンチネンタル O-300 175hp から O-360 200hp に強化され、引き込み脚となった他各所が改良されている。1980 年に生産中止となるまで各型あわせ 1815 機が生産された。最高速度 280Km/h、航続距離 1700Km。
ささき(2005/2/17更新)- マグダネルダグラス MD500E
- OH-6 系は「500 シリーズ」の商品名で民間市場にも販売され、ヒューズ→マグダネルダグラス→ボーイング→MD ヘリコプターと企業がコロコロ変わりながらも製造販売が継続されるベストセラーとなった。E 型は胴体形状を変更し空気抵抗の低下と居住性の向上を狙ったモデルで、D 型以前のモデルに対し機首先端が尖っているのが特徴。アイコンはアリゾナ州メサ警察署の N503MP 号機。
ささき(2003/8/31更新)- ダグラス DC-2 スカイライナー(Skyliner) [TWA]
- 1932 年にユナイテッド航空が導入した新鋭旅客機ボーイング B-247 に対抗すべく TWA(Transcontinental and Western Air…のちの Trans World Airlines) がダグラス社に発注した機体。ダグラスは B-247 より一回り大きい 14 席の双発機 DC-1 でこの要求に応え、1933 年 7 月に初飛行した機体は画期的な高性能で関係者を魅了、小改良を加えた DC-2 として量産に入った。すぐに TWA 以外の旅客会社からも注文が殺到し「より多く・より速く・より遠く」という民間航空の爆発的な成長を促したが、ダグラスは即座に一回り大型の DC-3 を開発してこの要求に応えたため DC-2 の生産数は比較的少ない 198(うち海外ライセンス生産 44)機にとどまった。DC-3 とは垂直尾翼の形が大きく異なるほか、胴体が角張った縦長断面となっている点で見分けが付く。全長 18.9m、全幅 25.9m、ライト R-1820 サイクロン 875hp x 2、最高速度 338Km/h、巡航速度 319Km/h、航続距離 1610Km、乗客 14 名または貨物 1.5t。アイコンは 1934 年頃の TWA 大陸横断便。TWA は当時チャールズ・リンドバーグを顧問に雇って「ザ・リンドバーグ・ライン」の名で宣伝に努めており、機体にもそのロゴが誇らしげに記されている。
ささき(2004/5/31更新)- ダグラス DC-3[イースタン]
- DC-2 の発展型として 1935 年 12 月に初飛行した機体。胴体は延長され直径の大きな円筒形となり、通路両側 1 席 x 7 列 14 名(+乗員 2 名)だった DC-2 に対し最大通路両側 2 席 x 7 列 28 名(+乗員 3 名)と旅客輸送量は一気に倍増、1930 年代を代表する傑作旅客/輸送機として各型合わせ 31000 機以上が生産された。最高速度 368Km/h、航続距離 2400Km、乗客 28 名または貨物 4.5t。アイコンはライト R-1820 サイクロンを搭載した初期型(後期型は R-1830 を搭載し、DC-3A とも呼ばれる)で、塗装はスミソニアン航空宇宙博物館に展示されているイースタン航空機。
ささき(2004/5/31更新)- ダグラス DC-3[ユナイテッド]
- ボーイング社と深い関係のあったユナイテッド航空も時流には逆らえず DC-3 を発注した。ただし B-247 と仕様を合わせて搭乗口を右側に移動、エンジンは同系列資本 P&W 社の R-1830 に換装した特注仕様となっている。ベッド兼用の豪華シートを 14 席備えた DST(Douglas Sleeper Transport)と呼ばれる大陸横断夜行便は、当時の航空業界に一大センセーションを巻き起こしたという。
ささき(2003/8/18更新)- ダグラス DC-35「スーパー DC-3」
- DC-3 の近代化型として設計された機体で、DC-3S とも呼ばれる。胴体は前後に約 1m 延長され、最大席数は 38 席に増加。重心位置を補正するため主翼後縁に 4 度の後退角が与えられ、翼端は角型となって翼幅は約 1.5m 短縮された。垂直尾翼はドーサルフィンを持つ背の高い角型に再設計され、水平尾翼も角型となっている。また抵抗削減のため沈頭鋲を採用し DC-3 名物の「おろし金リベット」が無くなった。エンジンは 1475hp の 9 気筒 R-1820-80 に換装、ナセル形状が変更され主輪は完全引き込み式となり、尾輪も半引き込み式に変更されている。最高速度は 402Km/h に向上したが、オリジナル DC-3 との部品互換性は 25% にとどまった。
試作機は 1949 年 6 月 23 日に初飛行、さっそくワシントン D.C をハブ空港とするキャピタル・エアラインから3機の発注があり前途洋々と思われたものの、その後の注文はぱったり途絶えてしまった。そもそも、この頃にはコンベア 240 やマーチン 4-0-4 などの同クラスの新鋭機が就航しており、わざわざ DC-3 の新品を買おうという物好きは居なかったのである。試作1号機は空軍に転売され C-129(のち C-47F) の型番を与えられたが、これにも注文はなく「スーパー DC-3」は意気込みに反して総生産数4機という散々な結果になってしまった。
アイコンは試作1号機(民間登録コード N30000)の初飛行時塗装。
Schump(2003/8/16更新)- テイラー・エアロカー・モデルI (1949・アメリカ)
- 元海軍パイロットのモールトン=テイラーが、モータリゼーションの空への発展を見込んで作り上げた飛行機自動車。自動車モードでは主翼とテイルブームを分解して牽引し、5〜10分で飛行機形態へと転換できる。乗員は2名。エンジンは座席後部に積まれた125から160馬力のもので、テイルブーム内の延長軸を介して尾端のプロペラを駆動する。着陸用の強力なサスペンションを備える後輪には駆動系を接続できないため、自動車形態では前輪を駆動する。
試作機5機が製造され、1956年に型式証明を取得し、発展型のモデルIIIも製作されたが、ヴォートやフォードによる量産化計画も不調に終わり、2人乗りという経済効率に劣る規格と軽量構造のために衝突時の安全性が確保できないことから、商品化されることなく終わった。
ささき(2003/9/22更新)- ボーイング 247b[N.A.T]
- 1932 年、旧式化しつつあるボーイング 80A やフォード・トライモーターを置換する近代的旅客機として華々しいデビューを飾った機体。しかし郵便機と旅客機の過渡的な機体のため客席数が少ないうえ室内が狭く、またボーイングが属するユナイテッド・グループ経営陣が自社系列でない航空会社への販売を渋ったこともあってライバル DC-2 の登場を促してしまい、総生産数 59 機(247a および b)にとどまった。P&W ワスプ S1D1 空冷 9 気筒 550hp(247a は三翅固定、274b は二翅可変ピッチプロペラ) x 2、最高速度 293Km/h、巡航速度 275Km/h、航続距離 1207Km、乗客 10 名。アイコンはユナイテッド航空の前身 N.A.T(National Air Transport)の塗装。
ささき(2003/9/22更新)- ボーイング 247D[ユナイテッド]
- 247 登場から早くも一年後に初飛行したダグラス DC-1 は全ての性能で上回り、ボーイング/ユナイテッド経営陣に一大ショックを与えた。次世代機モデル 280 の開発が急がれると同時に、既存機の延命を計った改良型が 247D である。エンジンは減速ギヤと三翅可変ピッチプロペラを備えたワスプ S1H1-G となり、カウリングも新しい NACA 型に換装、前傾していた操縦席前面ガラスは後傾に改められたほか、機体各部に空力的改良が施された。247D はユナイテッド航空の DC-2 購入を阻止したが、のちに登場した DC-3 には太刀打ちできず 15 機が生産されたに過ぎなかった。なお生産済みの旧型 247 も多くは 247D 相当のアップグレードを受けている。P&W ワスプ S1H1-G 550hp x 2、最高速度 322Km/h、巡航速度 304Km/h、航続距離 1207Km、乗客 10 名。アイコンはユナイテッド航空の塗装。
ささき(2006/12/27更新)- ロッキード L-049 コンステレーション(Constellation) [TWA]
- 1939 年に TWA から発注され 1943 年 1 月に初飛行した四発旅客機で、与圧式キャビンを持ち高度 25,000ft(7620m) を 300mph(483Km/h)で巡航できる高性能を誇った。外見上の特徴は3枚の垂直尾翼で、これは単尾翼にすると地上全高が大きくなりすぎ既存格納庫が使えなくなることの対策と言われるが、流麗な曲線を描く胴体と相まって優美な印象を醸し出し、「コニー(Connie)」の愛称で親しまれた。
戦時中は C-69 輸送機として徴用され高官輸送に従事し、民間航空への就役は戦後までずれ込んだ。就役当初は R-3350 エンジンの不調に祟られ事故も頻発したが、快適な乗り心地と高性能の両立は高く評価され合計 88 機が生産された。
ライト R-3350-35 空冷星型 18 気筒 2200hp x 4、最高速度 531Km/h、巡航速度 483Km/h、航続距離 3862Km、乗客 81 名または貨物 7.5t。
ささき(2007/7/1更新)- ロッキード L-1049G スーパー・コンステレーション(Super Constellation) [TWA]
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旅客輸送量と航続距離を増大するため、L-049 に大幅な改良を施した発展型が L-1049 である。主要な改良点は 5.6m 延長された胴体だが、各部構造も強化されており、設計的には殆ど別の飛行機になっている。G 型は排気タービン出力をクランク軸に戻してパワーブーストを行う「ターボコンパウンド」エンジンを搭載、更なる航続力延長のため主翼端にウイングチップ・タンクの装備を可能にしたモデルで、シリーズ中最多生産数(99 機)を誇る。
機首レドームや翼端タンクの後付け装備は、他機種であったならば得てして無様なツギハギの様相を呈するものだが、コンステレーションに関してはこれら後付け装備品もスラリと伸びた胴体形状と絶妙にマッチして気品さえ感じさせ、「空の女王」と呼ばれ最後のレシプロ旅客機として有終の美を飾った。
ライト R-3350-972TC 空冷 18 気筒 3400hp x 4、最高速度 610Km/h、巡航速度 570Km/h、航続距離 8700Km、乗客最大 109 名または貨物 8.3t。
中村(2005/1/3更新)- ボーイング B-377 ストラトクルーザー(Stratocruiser) [パンナム]
- 1947 年に初飛行した旅客機で、主翼や尾翼は B-29(B-50)爆撃機の設計が応用されている。大型貨物を運ぶ輸送機 B-367(C-97) と設計を共通化したため大直径の与圧区画を採用し、独特なダルマ断面の胴体形状となった。この空間を活かして客室の一部を二階建てとし、バー・ラウンジを設けた設計は「空飛ぶ豪華客船」と言われ評判になった。
パンナムは B-377 最初のユーザーで 20 機を購入し、ジェット旅客機 B-707 が登場するまで同社のフラッグシップとして君臨した。しかし機体価格の高さに加え、爆撃機譲りの複雑なエンジンまわりの整備コストも嫌われ他の航空会社は導入を躊躇し、旅客機仕様の B-377 は総生産数 56 機にとどまり、ライバル DC-7 や L-1049 には遠く及ばない結果となった。
P&W R-4360-B6 空冷星型 28 気筒排気タービン付き 3500hp x 4, 最高速度 603Km/h, 巡航速度 483Km/h、航続距離 6760Km。乗客最大 100 名。
ささき(2004/8/31更新)- ロッキード L-188 エレクトラ(Electra) [イースタン]
- 1954 年にアメリカン・エアライン社の「75〜100 人乗り中距離旅客機」という要求によって開発され、1957 年に初飛行した機体。アメリカ初のターボプロップ旅客機ということで多いに注目を集めたが、高性能を求めたあまり設計に無理があり、就航直後わずか2年半の間に6回もの事故(うち3回は全員死亡の惨事)を起こしてしまった。ロッキードはすぐに原因を突きとめ改修を施したが、旅客機として致命的な悪印象は拭い切れず、170 機で生産は打ち切られた。なお、本機は P-3C 対潜哨戒機の母体となり、こちらは傑作機として長寿を誇っている。
アリソン 501 ターボプロップ 3750shp x 4、巡航速度 602Km/h、航続距離 3450Km、乗客最大 104 名または貨物 12t。
にわとり(2006/09/05更新)- P-3A Aerial Firefighter
- Aero Union社が 森林火災の多発するカリフォルニアで運用する 空中消火機(民間機)お腹に11356リットル(3000ガロン)の消火用タンクを備えており、空中散布します。タンク形状は2種類あります。P-3A、P-3Bから計10機改造され 2機が墜落しています。
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英国
RN 2009/9/3
- ブリストル Type167 ブラバゾン1(Brabazon1)
- 第二次大戦中の1942年、英航空生産省は戦後英国が必要とする民間輸送機の機種選定をおこなうブラバゾン卿を長とする「ブラバゾン委員会」を設置しました
委員会は翌2月5種の航空機が必要である旨政府に勧告、5月には具体的な生産機種を選定するメーカー、航空会社の代表による「第二次ブラバゾン委員会」が発足、そのタイプT、最大機種として製作されたのがブリストル Type167 ブラバゾンです。
ブリストル社内ではタイプ167の開発名称を与えられたこの機体は空気抵抗減少のため8基のブリストル センタウルス20 2.500hpエンジンを主翼内に搭載、それぞれ2基のエンジンで4組の直径4.88mの同軸反転プロペラを回すツインエンジン方式を採用、胴体は直径5.1mの円形断面、主翼は2桁構造で、後のジャンボジェットを上回る全幅70.1mの主翼は中央翼と左右翼の3分割、中央翼は胴体と一体で組み立てられています。操舵方式は油圧の動力操縦式とされ各動翼には大型のマスバランスを取り付けることとしました。
設計は順調に進み1945年4月に最初の図面ができ、10月には各部品の製作が始まりました。しかしこの試作のためには新たなハンガー、滑走路の建設が必要で、近隣住民との折衝に時間を要し新工場の完成は1947年末となりました。1947年10月未完成の工場に胴体主翼を持ち込み組み立てを開始、その名も「ブラバゾン」と名づけられた本機は1年余りの組み立て期間の後1948年末工場をロールアウト、地上試験の後、1949年9月4日初飛行にこぎつけました
(すでにこのとき本計画には変更が加えられ1号機はテストのみに供され、エンジンをターボプロップとした2号機Mk2が生産型となることが決定していましたが)
1号機は試験基材とともに30名分の座席とバーラウンジを持ち、乗客の同乗飛行の際にはその乗り心地が高く賞賛されました。一時は製作が進まない2号機への繋ぎとして短期間商業運行への試用も検討されましたが、プロペラマウント周囲の疲労破壊が多発し、正規の滞空証明が発行されず断念、そして1953年7月、ブラバゾン計画の中止が発表されました
実のところ組み立てが始まった1947年末には採算が不安視されはじめ、1949年末にBOACは(比較的)安価なボーイング ストラトクルーザーを導入、650万ポンドの開発費と200万ポンドの工場拡張費を費やした本機は、164回382時間15分の試験飛行の記録を残し未完成の2号機とともに解体廃棄とされました
主な要目
エンジン ブリストル センタウルス20 空冷星型18気筒2.500hp*8
翼巾70.1m 全長53.95m 全高15.24m 自重65.730kg
最大離陸重量131.370kg 最大速度482km(推定)航続距離8.800km 乗員12名 乗客100名
中村(2003/12/22更新)- ハンドレ・ページ HP.42(Handley Page HP42E HANNIBAL)
- 1928年にインペリアル航空がハンドレ・ページ社に発注した世界初の4発旅客機。初飛行は1930年11月、生産数はアジア圏で使用された航続距離が長めのHP42E(Eastern)が4機に、欧州圏で使用された乗客数が多め(38 席)のHP42W(Western)が4機でした(これらは1931年中に全機納品されました)。
後のB29に匹敵するほどの巨体でありながらエンジンの出力は4分の1しか無く、当時のマスコミから「パリがこんなに遠いとは思わなかった」と皮肉られるほどの鈍足(巡航 160Km/h)な飛行機でした。しかし、ロンドン〜パリの往復料金がお手ごろな6ポンド15シリングだった事と、冷暖房の調った客室で気立ての良いスッチーがふるまう食事が世のエリートビジネスマンのハートをがっちりキャッチ、32年には同航路でシェアの58%を締める大成功を収めました。
機体は設備の整ってないアジアでの運用も考慮されていたので頑丈に作られており、離着陸距離も短くなるようにスラットを採用していました。また、エンジン停止時の推力の不均衡よる衡操縦困難を緩和するためにエンジンを出来るだけ推力線に近づける設計がなされており、これらの配慮がWW2が始まるまでの8年間にわたる運輸業務において大小さまざまな事故を起こしながらも死者を一人も出さなかった実績につながっています。
ブリストル・ジュピター XI 空冷 9 気筒 500hp x 4、最高速度 193Km/h、航続距離 800Km、乗員 4 名+乗客 24 名。
中村(2003/5/13更新)- デハビランド DH-98 モスキート(De Havilland DH-98 Mosquito) G-AGFV
- 英国海外航空所属
中立国スウェーデンからボールベアリングを輸送する民間機な“モッシー”
中村(2003/5/13更新)- デハビランド DH-98 モスキート(De Havilland DH-98 Mosquito) G-AGGF
- 英国海外航空所属
英軍の分類では“Mosquito FB.MkY”になりますが、民間機なので機銃が付いてません。
中村(2004/3/10更新)- ハンドレ・ページ HP.70 ホールトン(Handley Page HP70 Halton)
- 第二次世界大戦終結にともない余剰となったハリファックスを民間輸送機として再生産した機体。再生産と言ってもトイレの個室化と調理室を設置したぐらいで、基本的には原型となったハリファックスの輸送機型C.MkVIIIと変らず、その特徴的な脱着式貨物庫もそのまま受け継いでいる。しかし、生産数が増えためC.MkVIIIだけでは足りなくなり爆撃機型からも改造それるようになった、そのため細部の異なる機体が多数存在する。1946年に英国海外航空がブラバゾン委員会ご推薦の新型機が登場するまでの繋ぎとして採用したのを皮切りに、戦後勃興した航空会社が次々と発注、英国国内のみならず海外にも輸出され、最盛期には21社が運用し生産数は94機に達した。
ちなみにアイコンは、ベルリン空輸参加時の英国海外航空所属機。この空前絶後の大空輸作戦に、7社41機のホールトンが参戦。戦後生まれの新型輸送機の中に混じりながら、約8300ソーティをこなし民間機が運んだ量の三分の一に当たる約53,000トンの救援物資をベルリンへ贈り届けた。しかし、この過酷な任務が老朽化した機体にこたえたようで、これを機に大半の機体が引退することとなった。
ランカスターには知名度で一歩譲るものの、多種多様な任務をこなし祖国に貢献したハリファックスは、戦後、民間航空復興の基礎を築き、冷戦の幕開けを見届けひっそりと引退していったのでありました。
中村(2005/1/3更新)- ボーイング B-377 ストラトクルーザー(Stratocruiser) [BOAC]
- イギリスの BOAC は合計 17 機のストラトクルーザーを所有し、大西洋横断を始めとする長距離航路に就役させた。迫力ある威容と豪華な内装はロンドンっ子を驚かせたという。
中村(2004/2/26更新)- デハビランド DH106 コメット1(De Havilland DH106 Comet1)[英国海外航空]
1949 年に世界初の商用ジェット旅客機として華々しくデビューした機体。後退角を持つ主翼付け根にターボジェットエンジン4基を埋め込み、空力的に洗練された優美なフォルムを持つ。最初の量産型コメット 1 は 1952 年から商業運行を開始したが、謎の空中分解事故が続出しわずか3年で全機運行停止されてしまった。調査の結果、高々度巡航のための客席与圧によって胴体が金属疲労を起こし、四角く切り抜かれた客席窓の角から亀裂が発生していた事が確認された。これらの点を含め徹底的な改良を加えたコメット 4 が 1958 年に登場したが、既にアメリカの B-707 や DC-8 が市場を席捲しつつあり、また「事故続出機」の悪評が長く尾を引いたため、商業的成功は得られずに終わってしまった。
デハビランド・ゴースト Mk.50(推力 2274Kg) x 4、最高速度 725Km/h、航続距離 2415Km、乗客 36 名 + 乗員 4 名。
中村(2003/2/6更新)- フェアリー・ロートダイン
- 両翼ナセル搭載のターボプロップで推進する、混合推進ヘリコプター。
離着陸時は両翼のエンジンでコンプレッサーを駆動し、それで得られる圧縮空気をローターブレード先端から噴出することでローターを駆動する。
最大速力307km/h。ペイロードは乗客40名または貨物5t。
騒音、運用コスト、開発資金などの問題で開発は打ち切られた。
舞沙P(2006/09/05更新)- Britten-Norman Trislander
- 幅16.15m 長15.01m 全高4.32m ───
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独逸
群馬帝国空軍工廠(2002/12/15更新)- Fw200 Condor [ルフトハンザ]
- Fw200爆撃機の元となった長距離旅客機です。
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伊太利亜
ささき(2003/2/6更新)- ピアッジオ P.180 アヴァンティ
- 1990 年に初飛行したイタリア生まれのお洒落なビジネス機。先尾翼と通常型の中間的な形態を持ち、五翅の推進式プロペラを持つ P&W PT-6 ターボプロップ 850hp 二基を備え、高度 8500m において 最高速度 740Km/h・巡航速度 600Km/h の高性能を誇る。ゆったりした室内、ジェットより低燃費で、推進式のため室内騒音が少ないことが自慢。全長 14.2m、全高 3.9m、全幅 13.8m、自重 3130Kg、最大重量 4767Kg、航続距離 2780Km、上昇限度 12500m。
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仏蘭西
舞沙P(2006/09/05更新)- Breguet 763 Deux Pont/Provence
- 幅43.0m 長28.9m 全高9.9m 自重─kg 搭載量─kg 全備重量─kg 最大速度225knots
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西班牙
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蘇&露
Schump(2005/11/21更新)- アントノフAn-2(1947)
- 1940年、ヤコブレフ設計局でFi156シュトルヒの転換生産責任者をしていたオレグ=アントノフは、同機やLIG-1多用途機をヒントに、より大型のSTOL軽輸送機「航空機4番」を提案したが、独ソ戦の勃発、そして大戦末期以降の技術革新の中で複葉機の新規開発・生産はなかなか認められなかった。戦後、航空工業副大臣になったヤコブレフ、そして黒土地帯への農業機の導入を切望していた当時のウクライナ共産党書記長ニキータ=フルシチョフ(後にアントノフ設計局を誘致)の支持を得て、1946年5月に正式に開発開始、1949年には量産に至った。
アスペクト比7.2を超える主翼には上翼前縁全幅にわたるスラットと上下翼後縁全幅にわたるフラップ/エルロンフラップを備え、Fi156譲りの主脚緩衝機構と大型舵面を持つ徹底したSTOL設計により、最低操縦速度50km/h、離着陸滑走距離90〜150mを誇る。
最大搭載量が2トンに達し、擬似ヘリコプター的運用が可能なことから、民間機としては農薬散布、ローカル線輸送、消火、患者輸送、測量、資源探査、気象観測、スカイダイビング母機等に、軍用機としては偵察、操縦訓練、要人輸送、潜入工作員の送迎、化学戦、通信中継、対ゲリラ戦等にと、まさに万能機として活躍している。
ソ連国内での生産は1962年までの約3600機で終了したが、ポーランドのPZLミーレクでは2002年までに約12000機を生産、さらに中国ではY-5として1000機以上が生産され、現在も生産が続いている。
アイコンは、アエロフロートで運行されたポーランド製旅客型An-2P。
Schump(2005/11/21更新)- アントノフAn-6(1951)
- 1946年の航空工業省要求に基づく高高度気象観測機としてAn-2を改造した機体。1948年に初飛行した「製品K」は垂直尾翼基部に観測室を追加しただけだったが、さらに機首右舷に排気タービン過給器、左舷に中間冷却機を追加して上昇限度11000m級としたのが本機である。この仕様での生産数は2機。当初はAn-2ZAと称した。
観測室は操縦席同様に非与圧式で、しかも胴体上面からスライド式キャノピーを通して出入りするため、胴体内との行き来はできない。機載センサーによる計測や観測室からの上方全天視界を活かした目視観測のほか、観測室脇に取り付けた翼型模型を用いての着氷実験を行うこともできる。民間籍の機体ではあるが、ミサイル発射実験の目視追跡に動員されたこともあるという。
Schump(2005/11/21更新)- アントノフAn-3(1979)
- An-2の性能を向上させ、かつ航空ガソリンの入手困難に対応するため、TVD-20ターボプロップエンジンに換装した機体。軽量のエンジンで重心位置を保つために機首を延長したついでに左舷に操縦室専用ドアを新設し、胴体内に農薬タンク等を積んだ際の出入りを風防側面から行わずにすむようになっている。エンジンの吸気口を機首上面に設けて不整地運用の際の異物吸入を防いでおり、フリータービン式のエンジンには独立したプロペラブレーキを備えてエンジンを止めずに安全に再登載作業を行えるため、農薬散布等における再発進準備の大幅な短縮を実現し、さらに西側の安全性・騒音基準にも適合するなど、実用面での改良も施されている。
完成が東側経済の退潮期に重なり、続いてソ連崩壊後の混乱があったため開発・生産は遅々として進まず、1997年になってようやくオムスクにおいて既存のAn-2の改造というかたちで低率生産が開始された。
アイコンは、トゥーラ航空所属の旅客型An-3T。方向舵が大型化されているのはターボプロップ化に伴うものではなく、改造元が後期型An-2Mであるため。
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コロンビア
ささき(2003/9/9更新)- バスラー・ターボ BT-67
- 1980 年代を過ぎるとさしもの名機 DC-3 にも旧式化が目立つようになり、なかんずく生産停止久しい R-1830 エンジンの維持費が嵩むようになってきた。維持費・燃料代も安上がりなうえ小型軽量・高出力のターボプロップに換装するキットは複数のメーカーから発表されているが、BT-67 はウィスコンシン州オシコシに本拠を構えるバスラー・ターボ・コンバージョン社(Basler Turbo Conversion)が 1989 年に完成させた機体。エンジンはプラット&ホィットニー PT6A-67R 1280hp + ハーツェル 5 翅プロペラ、前部胴体が約 1m 延長され客席は 8 列となり、主翼端も約 10cm づつ延長され角型に整形されたほか、各舵面の外皮は羽布張から金属に変更されている。メーカーの宣伝によれば速度は 1.2 倍、燃費は 2 倍に向上しているとか。また BT-67 のターボプロップ排気口はナセル上面からぼ真上に開口しているが、これは紛争地帯での運用を考慮し赤外線による被発見率を下げるためらしい。要するに米国内でエンジン寿命の尽きかけた DC-3 を安値で買い叩き、改造を施して発展途上国に売りさばくという商売を目論んでいるらしい…。
塗装はコロンビア警察(Policia Nacional Colombia) PNC-211 号。客室窓が丸型に変更されているが、BT-67 に与圧キャビンのオプションがあるかどうかは不明。
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大型機
Schump 2011/9/27 - ツポレフTu-114(1957)
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戦後の経済復興とスターリン後の自由化を受けた国内外の旅客航空の急増に応えるために開発された
当時世界最大の旅客機。胴体以外はほとんど戦略爆撃機Tu-95からの流用としたことで、計画開始から2年半後の1957年11月15日には初飛行に成功した。その後の試験飛行でも、フルシチョフの国連総会出席を含む超長距離飛行などでTu-95譲りの経済性と高性能を実証したが、操縦性の改善、着氷条件下での安全性の向上などに手間取り、定期運航の開始は1961年4月24日となった。
就航当時は旅客機として世界最長の航続距離を誇り、国内線ではモスクワから極東地域への無着陸旅行を、国際線では東京―モスクワ線やモスクワ―ハバナ直行便を実現するなど、アエロフロートの花形機材として活躍した。また、全機総運航時間30万2千時間で死亡事故は離陸操縦ミスによる1件のみと、安全性の面でも好成績を残している。1960年代末に高速のIl-62が出現すると、しだいに国内線と超長距離路線に活躍の場を限定されていき、スペアエンジンの供給不足や機体のクラック発生もあって、1976年5月11日までに全機が引退した。
生産機数は試作機・静強度試験機を含めて33機。基本型は3クラス170席だが、ハバナ直行便用の超長距離型Tu-114D(52〜60席)、国際線専用型Tu-114-116(116席)、国内線専用型(モノクラス200〜220席)に改造された機体もあり、就航中に航法装置の更新や燃料タンクの増設も行われている。また、本機は早期警戒機Tu-126のベースにもなっている。
アイコンは、1967年から1970年まで日本航空との共同運行で東京―モスクワ間に就航していたTu-114-116。主翼前方の胴体の色の濃い部分は、着氷したプロペラからはがれた氷による損傷を防ぐために外皮をステンレスとした区画。
sky 2011/5/31 - B-747
- シンガポール航空のB-747です。
Schump(2004/4/1更新)- ツポレフTu-154(1968)
- 1000〜5000km区間の中距離国内・国際線用の機材として開発された3発機。同級(130〜180席)のボーイング727に比べて翼面積、エンジン出力ともに約3割増となっているのは一見無駄なようだが、高温・高地・不整地という悪条件の空港からできるだけ短い滑走で離着陸し、巡航効率の良い高度へ上昇するというソ連圏・途上国特有の運用条件に最適化された設定である。また、異物吸入の危険が少ないリアエンジン方式や、未舗装滑走路でもスタックしない多輪降着装置を収めるための主翼後縁ポッドといった設計でも評価が高い。
アイコンは、ロシア極東航空(ダリアヴィア)の東アジア−ハバロフスク線に就航し、新潟・青森両空港にもしばしば飛来するTu-154M。
Schump(2004/4/1更新)- ツポレフTu-154[高麗航空]
- 北朝鮮の高麗航空はTu-154を4機保有しており、ハバロフスク、北京、マカオ等への路線に投入している。新潟や名古屋にもチャーター便として飛来することがあり、往路では空席にマツタケや朝鮮人参を積んでくるという。
経済状況が悪いため、最新型のM型を導入する余裕はなく、エンジン換装前のB型のままである。
Schump(2004/11/14更新)- ドルニエDoX飛行艇 (1929)
- 大西洋路線における空飛ぶ豪華客船として建造された当時世界最大の固定翼機。完成直後の1929年10月21日に樹立した搭乗人員169人の記録は、その後20年間破られなかった。当初はジーメンス・ジュピター(525馬力)装備だったが、完成翌年にはカーチス・コンカラー(640馬力)に換装されている。
1930年11月5日から、環大西洋デモフライトを敢行したが、12発ものエンジンと巨体ゆえの複雑な機体システムは各地で大掛かりな整備と修理を必要としたため、ベルリン帰還は1932年5月24日になってしまい、当時の技術では手に余る存在であることを露呈してしまった。
この間、イタリア向けに量産機2機(フィアットA.22R(610馬力)装備)も作られたが、やはり定時運航が確保できないことから、正規に路線運航されることなく、1935年までに1号機も含め全て引退している。
アイコンは、環大西洋デモ時の状態。ただし、道中で窓の数やアンテナ配置などが何度も変わっているので、各時点の状態が混在している可能性あり。プロペラが二重に描かれているのは、タンデム式6組のエンジンナセルがひとつおきに前後にずらされているため。
Schump(2004/9/17更新)- ロッキード L-1011 トライスター[全日空]
- 1966年3月にアメリカン航空が発表した「SSTの速度が活用できるほど長距離ではないが大量輸送需要が見込まれる大都市間連絡用旅客機」の要求仕様を契機として開発された3発旅客機。同様の仕様に基づくダグラスDC-10と熾烈な販売合戦を繰り広げたが、ロッキード社の経営不振による開発遅延、特に長距離型の完成の遅れと、エンジンメーカーである英ロールスロイスの経営破綻によるエンジン調達の不調が響き、初期型のエアラインへ納入で9ヵ月、長距離型の就航にいたっては6年半もの遅れを生じてしまった。このため、生産機数はDC-10系の446機に対して250機にとどまり、前作L-188エレクトラの失敗を取り戻すどころかロッキード社の赤字を増やしてしまい、同社を民間航空機事業から撤退させることとなった。
技術的には直径6mのワイドボディに薄壁を組み合わせて8列配置とした胴体や地方空港の短い滑走路への着陸操縦を楽にする直接揚力制御、静粛性に留意したエンジン擬装方等の先進的な特徴を備えているが、胴体の空力的洗練と方向舵面積の確保を狙った第2エンジンの胴体内部埋込装着方式はRB211以外のエンジンへの換装を不可能にしてしまい、開発や販売面での柔軟性を損なったことは否めない。
アイコンは、全日空が1973年から導入したL1011-1型。静粛性と逆噴射性能を強化した後期型のエンジンナセルを装着している。
Schump(2004/11/14更新)- ダグラス DC-10[JAL]
- ロッキードL-1011と同時に大陸内中長距離路線用大型旅客機として開発された機体。当初は双発機として計画されたが、安全性や長距離型等への発展性、地方空港での短距離離着陸性能を考慮してやや大型の三発機となったのもL-1011と同じである。しかし、中央エンジンを胴体の外、垂直尾翼下部に納めたためにエンジン換装の融通性があり、事実上ロースルロイスRB211専用機だったL-1011のようにエンジン開発の遅れに足を引っ張られることもなく、また、ユーザーの選択肢も広いことから販売面でも有利だった。L-1011に比べて狭い方向舵面積を補うため、内舷寄りの左右エンジン、上半角付き水平尾翼、方向舵の二重ヒンジ化等の処置がとられている。エンジン強化型、長距離型、貨物型等の派生型も順調に展開し、1990年までに空中給油輸送機型KC-10(60機)を含め446機を生産した。
アイコンは、日本航空のDC-10-40。1976年から導入が始まり、最盛期には20機を数えたが、老朽化に加え、ボーイング767・777両双発機がETOPSの拡大によってDC-10が就航してきた路線に進出してきたことから減勢が進み、2005年には同社から引退する予定である。
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巨人機
舞沙P(2002/10/14更新)- Avro Canada CF-105 Arrow
AIRBUS A300-600ST Beluga - グッピーの後継として、A300-600Rをベースに大型の貨物室を載せ、積載時等の関係から機首が垂れ下がる格好となった。
貨物室には同社のA300〜A340系の胴体が収まる他、ヘリやボートを収納できる。
全幅44.84m 全長56.16m 全高17.24m 全備重量155,000kg 最大巡航速度780km/h 航続距離1,670km(4632km/load26t) 積載量47t
巣田@うぐぅ(2002/11/4更新)- 超音速旅客機コンコルド
- 英仏により共同開発。
1969年初飛行、1976年就役。
現在就役中では、唯一の民間超音速機です。
舞沙P(2002/10/23更新)- Boeing B-747 FedEx
- B-747輸送機型、FederalExpress社仕様機。
全幅59.6m 全長70.6m 全高19.4m 最大速度M0.85
舞沙P画伯-
Boeing B-747 ポケモンジェット
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