広島、あの夏の朝



午前8時12分、IP(進入点)通過。
進路264(真西より6度南)。
機外気温マイナス22℃。
高度3万1060フィート(9470メートル)。
港に船舶8隻を認める。


午前8時現在・・・気温26.7℃
湿度80%
北の風0.8
うす曇り
雲量10
日照1.00

雲量が10だが日照も100%・・・これの意味するところは、薄雲が全天に広がっていたが日差しは十分な強さだったという、 気象台職員の判断である。
太陽光線が焦点を結び、帯状の記録紙を焼き抜いていく仕組みの日照計の記録でも この日は午前5時50分頃から焦げ目がつき始め、午前8時にかけて記録しはきれいに線状に焼け抜けている。 やはり日差しの強い夏の朝であったことはまちがいない。

小倉豊文氏の著した「絶後の記録」の冒頭近くを引用する。
「実によく晴れ渡って、広島特有の風のないむし暑い朝だったね。空いっぱいに真夏の朝の光線があふれるように流れて、 少しもやもやしている紺碧の深い虚空は、チカチカ目に痛いほどだった。」
このとき小倉氏は、広島市の中心から東に4キロ余りの大洲橋(おおずばし)のたもとを、広島市内に向けて歩いていた。

広島は南に瀬戸の内海といくつもの島々、北側は冬の季節風を和らげてくれる中国山地に抱かれた箱庭のような 美しい街である。 中国山地に発する太田川(おおたがわ)が瀬戸内海に注ぐところで手の平を広げるように分流し、 その発達したデルタ(三角州)に広がる水の都だ。 市の中央を東西に横切ろうとすると、最大6本の川を渡らなければならない

1945年(昭和20年)当時
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広島に詳しい人なら気づくかも知れないが、 これは1945年(昭和20年)当時の三角州の姿を 再現している。
現在は、埋め立てで南(左手)にさらに市域が広がり、 一番奥の山手川と福島川も、太田川放水路に改掘 されている。  

小倉氏が額の汗をぬぐいつつ歩を進めていたころ、東に25キロほどの賀茂郡西条(現・東広島市)の上空を、 3機の米軍B29爆撃機が数マイルの間隔をとりながらV字編隊で西へ向けて飛んでいた。
編隊は午前8時6分に福山の松永監視哨によって報告され、午前8時12分には西条の監視哨も3機のB29を目視し直ちに報告。 中国軍管区司令部は警戒情報を各所に発した。
その内容は「午前8時13分、中国軍管区情報。 敵大型機三機が西条上空を西進しつつあり、厳重な警戒を要す」。

地上で緊張がはしり出した頃、マリアナ諸島のテニアン島から6時間半をかけて飛行してきた隊長機「ENOLA GAY」は、 その恐るべき重大ミッションのまさに秒を争う局面を迎えていた。西条の監視哨が気づいた午前8時12分に、 ENOLA GAYはあらかじめ設定されていた進入点を時刻・高度・速度ともに予定通りに通過した。

ENOLA GAY

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ENOLA GAYのクルーたちの目に 広島はどのように映ったのだろうか・・・ ページのトップへ戻る
ENOLA GAY

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使命を帯びた彼らに照準器を通して目標は見えても、 残念ながら6マイル下の人々の つましい生活や営みは見えなかった。

気温マイナス22℃の高空に使命を果たそうとする男たち。
その9000メートル下では、朝から汗ばむ陽気の中、戦況の著しい悪化に直面しながらも 活発な一日の営みをはじめた広島の人、人、人・・・。

そしてわずかに3分。
真夏の青空にマグネシウムフラッシュを焚いたような、鋭く巨大な閃光がはしった。 ページのトップへ戻る
閃光

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すべては100万分の1秒の世界で発した 閃光からはじまった。
巨大な閃光は大気分子をも輝かせ、 白昼にもかかわらず 100キロの遠方でも感じられたという

閃光・・・
暗黒・・・
不意の静寂・・・
呆然自失・・・
あるいは死んでしまったか・・・

明るい広島の朝は突然、名状し難い暗黒のスクリーンに包まれた。
やがて暗黒の中に炎が上がりだす・・・
静寂の中にうめきや叫び声が広がりだす・・・

瞬時に命を奪われなかった人たちが我に返ったそのときから、果てしのない苦難が待ち受けていた。

原爆が、静かに暮らしていた広島の人たちにもたらしたものは、真っ黒い死や単なる苦痛だけではない。
家族や恋人、社会・・・それらを引き裂き崩壊させるという、語りつくせぬ無数の悲劇である。 ページのトップへ戻る
天候が許す限り速やかに

太平洋戦争中の米軍の機密文書の一部の原文から見ていただこう。

25 July 1945
TO: General Carl Spaatz
Commanding General
United States Army Strategic Air Forces

1. The 509 Composite Group, 20th Air Force will deliver its first special bomb as soon as weather will permit visual bombing after about 3 August 1945 on one of the targets: Hiroshima, Kokura, Niigata and Nagasaki・・・

1945年7月25日
宛先:合衆国陸軍戦略空軍総司令官
カール・スパーツ将軍

1.第20空軍第509爆撃隊は、1945年8月3日ごろ以降、天候が目視による爆撃を許す限り、できるだけ速やかに、 最初の特殊爆弾を次の目標のひとつに投下せよ。 目標:広島、小倉、新潟、および長崎・・・

 この、当時の最高機密指令でわかるように、広島への原爆投下ははじめから8月6日に決まっていたのではない。 「天候が目視爆撃を許す限り」だったのである。 目視爆撃というのは、爆撃士が照準器を使って、あらかじめ選定しておいた 地上の照準点(建物や橋などの構造物)へ機体を誘導し、高度や速度などを勘案しつつ自ら爆弾投下スイッチを入れるもの。 目視ではないものに「レーダー爆撃」があったが、当時の技術水準では甚だ頼りなく、20億ドルという大金を投じて開発した 原子爆弾という究極の新兵器を、信頼に欠けるレーダー爆撃に委ねるのは「禁止」だったのである。 加えて、後の核戦略に活かすための被害調査を行う性質上、原爆を極力、選定目標の上空で爆発させることが米軍としては 重要だったのだ。 ページのトップへ戻る
1945年8月3日午前6時(日本時間)の天気図

(気象庁蔵の原図から作成=masaruk)
1945年8月3日 午前6時(日本時間)の天気図

さて、史上初の核攻撃の許可ゾーンに入った1945年(昭和20年)8月3日以降、日本の天気はどうだったのだろうか?

8月3日午前6時の天気図によると、東シナ海北部、済州島の南に台風がある。
これは7月16日に発生した 昭和20年の台風8号である。
3日の原図には中心気圧として730ミリと記されている。 この水銀柱気圧をヘクトパスカルに換算すると約970hPaになる。
そして1000hPa等圧線の半径は 東京〜大阪に匹敵する大きさで、ひと昔前の台風の大きさ尺度で言えば「大型で並み」の台風ということになる。
(台風の大きさは、1991年以降、風速15mの強風半径の大きさで決めている)
この台風の東を回る南からの湿った気流に加え日本海にも低気圧が認められるため、中国・四国・九州では 南側を中心に落ち着きのない天気だったことが予想される。 記録によると8月3日、4日と広島では雨の降り易い天気だったようだ。
台風8号は朝鮮半島の西岸をかすめて北上。3日のうちには大陸に上陸して衰弱。
4日の午後6時の観測で、旧満州付近の温帯低気圧に姿を変えている。
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8月5日午前6時

(気象庁蔵の原図から作成=masaruk)
1945年8月5日 午前6時(日本時間)の天気図

台風が日本の西を大回りして北上したときに、その航跡を埋めていくように、太平洋の高気圧が勢力を伸張させることは 珍しいことではない。
このときも、5日の天気図から太平洋高気圧の西側が勢力を広げ、「サブ高気圧」的な振る舞いをしている。
西のほうで高気圧が北に跳ね上がり「鯨の尾」型と呼ばれる暑い夏型の天気図となっている。
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8月6日午前6時

(気象庁蔵の原図から作成=masaruk)
1945年8月6日 午前6時(日本時間)の天気図

日本時間の8月6日午前1時45分にテニアン島を離陸した B29 ENOLA GAYは、日本への空路では 天候の心配はなかった。気象観測の先発機が広島や小倉に向かって数時間前に飛んでいたが、 洋上の天候には何の問題も報告されていなかったからである。
肝心なのは目標都市の天気である。

東の空に低く光る有明の月や星の光も薄らいで広島の空が青と茜色のグラデーションを描いていた頃、 ENOLA GAYは硫黄島付近を北上していた。
飛行経過は極めて順調。
硫黄島に待機していた予備機の TOP SECRETはお役御免となった。
日本まで1時間に接近するまではENOLA GAYと2機の僚機(No.91と GREAT ARTIST)は高度9200フィート(2800メートル)で巡航飛行をした。

8月6日朝の天気図。
この日の天気が広島への原爆攻撃の最大の条件であった目視爆撃の障害となり得ないのは 一目瞭然である。
広島の上に、前日は記載が見送られた高気圧が描かれているのが皮肉に思えてしまう。 各地からの入電をもとに、東京の中央気象台職員が午前6時の天気図を描き終えた頃には、 既に広島は炎の渦巻くこの世の地獄を現出していたであろう。
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広島に投下された原子爆弾「リトルボーイ」 
航空戦略と気象

原子爆弾の開発が具体的に前進しだしたのは、1942年12月2日にシカゴ大学に設置した原子炉での 初の核分裂連鎖反応の成功からである。それは真珠湾から1年後のこと。
資金、物資、そして頭脳を惜しまず投入した米国は、 人類がはじめて手なずけた「原子の火」を、わずか2年8か月後には広島の上空で炸裂させてしまう。

太平洋はもちろんヨーロッパの戦線での戦いを展開をしながら、国内では「超」がつく巨大プロジェクトを推進する凄さは、 あの戦争の最中には最大限に発揮されていたのだ。
そうした中で特筆すべきは、敵との戦いという究極の目的意識のもと、 非常に広範囲な分野で体制づくりと実りを挙げていることだ。
そのひとつが「気象観測」「分析」、結果としての「価値ある情報」である。 日本が優秀な航空機を製造するノウハウを身につけながらも、巨艦巨砲主義という選択が足かせになって 傷口を広げたのに対して、米国は航空戦略の可能性を早くから見抜き、戦争の主導権を握った。
飛行機を飛ばすには当然のことながら気象のことをよく知らなければならない。
一般に考えられているよりずっと重要だ。 それは気象予報士のうち、気象庁や民間気象会社に次いで、航空自衛官の気象予報士が多く、 また航空会社も社員気象予報士を多く抱えていることからも伺えよう。
アメリカは専門家を動員して、戦地の気象情報の収集、解析に並々ならぬ努力を傾注したのである。 日本上空の強いジェット気流に一度は面食らうことはあっても、直ちに観測、分析にかかり、そうした条件を織り込んだ 航空戦略を練り上げてしまう。
航空隊や空軍に気象観測部隊は必須チームである。
アメリカはそれを大切にし活用した。

話を広島への原爆攻撃に戻そう。 制空権を手中にしたアメリカはデータと専門家を投入して、日本の天候が安定するのは8月のはじめとはじきだしていた。 それを念頭に原爆の開発、実験、輸送、投下作戦のスケジューリングもしたようである。  冒頭に記したように8月3日以降に作戦発動の文書は7月25日付で打電されている。 グアム島の司令部では台風が九州の西にあった8月2日の段階で、気象解析のスタッフの意見を取り入れて、 初の原爆攻撃の作戦最終命令を出している。

攻撃日:8月6日
攻撃目標:広島市中心部および工業地域
予備第二目標:小倉造兵廠と同市中心部
予備第三目標:長崎市中心部
特別指令:目視投下に限る
投下高度:2万8000フィート〜3万フィート (8540メートル〜9150メートル)
飛行速度:時速200マイル

ここに8月6日という「運命の日付」が確固とした形で登場するわけである。
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閃光

米軍資料写真
テニアン島を含め、マリアナ諸島の基地から日本への爆撃空路を、アメリカ兵は「ヒロヒトハイウェイ」と呼んでいた。 そのハイウェイをエンジン音をごうごう轟かせながら飛ぶENOLA GAYに、午前7時25分に暗号が入電する。 発信元は先行した気象観測機STRAIGHT FLUSH。
暗号は伝える・・・

「雲量、全高度を通じて10分の3以下。 第一目標爆撃を奨める」

そして ENOLA GAY機長のP.W.ティベッツはインターコムを通じて乗員に伝える

「…広島だ」

もし・・・
あえて歴史にifを持ち込んでみたい。
戦争の進行とマンハッタンプロジェクトによる原爆開発が1か月早く進んでいたら・・・
中国地方は梅雨の只中。目視投下が絶対条件の原爆投下作戦が一週間、10日と天候の悪条件に阻まれ 作戦実施に踏み切る機会を得ないまま終戦・・・。
こんなシナリオは描けないだろうか。 広島同様、この時期には小倉や長崎も、梅雨前線に伴う雲のヴェールに包まれるだろう。 もうひとつの目標、新潟は梅雨前線の影響から抜け出している可能性は、西日本の目標に比べて高い。 しかしながら新潟は、もともとマリアナの基地から4トンもある原爆を搭載して往復するには遠く、 作戦指令部側の関心はあまり高くなかったようである。

戦後(1973年)返還された米軍資料写真の中に、広島市の南東40キロ付近の瀬戸内海上空から空撮した、 原爆投下から50分ほど後の午前9時過ぎのキノコ雲の写真がある。 内陸側にやや雲の多い地域も見受けられるが、瀬戸内沿岸部にところどころ夏の積雲(わた雲)が浮かんでいるほかは、 全般に透明度も良く、好天だったことが伺える。 それは白黒写真だが、黒々と抜けた空のコントラストは、 あの日の空の深さを想像させるに十分である。 ページのトップへ戻る

【企画展】 広島 あの夏の朝は私の親友が執筆(2002年2月)したものです。
その記憶が風化しつつある昨今、氏の快諾を得て、この場を借りて再編集いたしました。