ドイツ機アイコン
解説協力:zonoさん      .
     巣田@うぐぅさん  .
     えりゅさん     .
    怪人37型さん   .
  群馬帝国空軍工廠さん.
    J1N1-Saさん    .
     Vergeltungさん  .
    ガッハ商会さん    .
    山本留吉さん    .

(2002/10/24更新)
アラド Ar234 ブリッツ (Arado Ar234 Blitz)
1940年から開発がはじまったジェット高高度偵察機で1943年7月に初飛行。
ジェット機だけあってレシプロ機では事実上追尾不可能な高速を誇るが、もしもの時のためにコックピット上部のRF2Cペリスコープから照準する20mm機関砲を機体後部に備えている。
初期の機体の降着装置には台車とソリを使用していたが後にタイヤ式に改められた。
偵察機型B-1に続いて爆撃機型B-2も開発され1944年秋から実戦投入されるも時既に遅し。
B-2型は爆弾の外部搭載による速度低下が著しいためエンジンを四発化したC型も開発されたが20機弱の生産で終わっている。
全長:12.64m 全幅:14.1m 全高:4.3m 自重:5.2t 全備:9.85t 乗員:1名
最大速度735km/h 航続距離:1,630km 発動機:ユンカース Jumo004B (推力900kg)×2
武装:20mm×2 爆弾:1,500kg 生産数:250機前後

(2002/10/5更新)
バッフェム Ba349a ナッター
爆撃機迎撃用の垂直発射式ロケット迎撃機。
ロケットで急速上昇し、敵爆撃機を捕捉、機首に搭載した多連装ロケットで攻撃をする予定でしたが、マトモな操縦が困難であるなら、事実上の有人ミサイル!?

(2002/11/12更新)
BV141 爆撃機
双発機並の視界と射界を持つ単発機としてリヒャルト・フォークト博士が設計。

(2004/8/25更新)
Bf108 タイフン
 M20軽輸送機等の連続事故以来業務停止に陥っていたバイエルン航空機製造(後のメッサーシュミット社)は、ドイツ航空省に対して次期主力戦闘機の開発能力があることを立証するため、開発中だったルーマニア軍用練習機の設計を転用したM37(Bf108A)を1934年の国際競技会に出場させた。このレースがハンディキャップレースだったために上位入賞こそ逃したものの、Me109の習作ともいえる先進的な設計と戦後の軽飛行機にも劣らない高性能は内外の注目を集め、翌年には4座の軽輸送機として再設計された型が量産化されるにいたった。
 生産型は軍民両分野にわたってドイツ国内のみならずヨーロッパ各国に販売されたほか、米軍がXC-44として1機を試用、日本でも読売新聞社が購入する等のヒット作となった。また、戦中・戦後にかけて鹵獲機・生存機やフランスでの転換生産機が使用され続け、1970年代には米国で改良再生産も計画されるほど時代を抜いた存在であった。
 アイコンは、第二次大戦開戦直前に在英ドイツ大使館が使用していた機体。本機は英空軍に接収されて1946年まで就役後、スイスの民間人に払い下げられ、1955年にドイツ籍に復帰している。

(2002/10/4更新)
Bf109E-4
このE型は、実質的にBf109の初期主力量産型である。
B型もスペイン内戦で実戦に投入されたものの、試験的運用の色合いが強かった。
よって、DB601にエンジンを換装し、武装を強化、さらには空力的洗練を図ったこの型が、ポーランド戦以降の戦場において主力を務めることになったのである。
E型は、比較的強力な火力(初期のE-1型は7.92mm4丁、E-4型は7.92mm2丁と20mm2丁)、十分以上の速度性能、かなり癖が強いものの高い運動性能を持っており、E-1型はポーランド機を、そしてこのE-4型はフランス・イギリス機を一蹴した。
ところが1940年中旬のバトル・オブ・ブリテンで躓いた。ドーバー海峡近くの基地から出撃してすらロンドン上空に20分しか滞在できないという航続距離の短さはともかくとして(ある程度までは運用でカバーできたはずだから)、英主力機のスピットファイアに対しては、機体特性の差もあったが不利な戦いを強いられたのである。
結局航続能力は増槽タンクを搭載できるE-7型などの出現により改善されたが、その他の性能は機体が改善の限界に至っていたので小手先の改良では如何ともしがたく、機体を完全にリファインしたF型へと生産は移行していった。
塗装はJG26所属のアドルフ・ガーランド機(フランス戦時)である。

(2002/10/4更新)
(2003/7/10更新)
Bf109F-4
このF型は、E型とは事実上別機と言えるほどの改良を施した機体である。
具体的には、胴体と尾翼の一部を除く機体全体の再設計、エンジンの更なる強化、モーターカノン搭載、ラジエータ搭載方法の見直し(E型でもすでに行われていたが)である。
F型で生産されたタイプとしてはF-1、F-2型もあるが、主力生産型はこのF-4型で、ここでBf109の基本性格は完成に至ったといっていい。
1941年前期に機体は完成し、その後バルバロッサ作戦やアフリカ戦線に投入されている。
7.92mm2丁、20mmモーターカノン1丁と比較的弱武装ではあったが、あらゆる意味で極限まで洗練された機体のため非常に高い運動性能を持っており、G型の完成までの期間、各戦線で活躍している。
塗装は「緑の心臓」の部隊マークを持つJG54所属の機体。

(2002/10/4更新)
Bf109F-4 (冬季迷彩)
1942年2月、東部戦線における塗装。JG54所属。

(2002/10/4更新)
Bf109F-4Trop
F-4型に、熱帯対応装備(インテーク用防塵フィルターなど)を追加した機体。
当然性能はF-4型に準じる。
特に「アフリカの星」ハンス・ヨアヒム・フォン・マルセイユの乗機である「黄の14」の活躍が有名である。
アイコンはその「黄の14」の塗装。

(2002/10/4更新)
Bf109G-2
G型は、F型をベースにエンジンの強化(DB601系からDB605系に換装)、機体装甲の強化などを行った型である。G-2型はその初期生産型。(別に先行量産型としてG-0型というものもある)
武装自体はまだF型のままである。
確かにこの改良で機体能力は上がったのだが、同時にこの型以降、改良ごとに運動性はどんどん悪化していったという。
機体はこれもJG54所属機。

(2002/10/7更新)
Bf109G-4
G-2型の無線装置を改良した型らしい。

(2002/10/7更新)
Bf109G-6
Bf109系列の最多生産型。この型だけでなんと12000機以上も生産されたという。
G-2型との相違点は機首機銃を7.92mm2丁から13mm2丁に強化したことで、そのためこの型以降の生産型の機首には、以前より大きな弾倉を入れるために「こぶ」ができている。
また、この型以降生産性の向上に力が注がれており、例えばG-6型の後期生産型以降では、キャノピー形状がそれまでと若干変わっている。
アイコンの機体はどの部隊の塗装かは不明だが、色合いからすると東部戦線所属であろう。

(2003/6/28更新)
Bf109G-6/R6/Trop
型番のうち、R6は現地改造キットの6種類目(主翼への願ポッド追加)、Tropは熱帯仕様(外形的にはインテークへの防塵フィルタの追加が特徴)という意味です。
今回、この塗装の機体は、どうもイタリア戦線で活躍したようなのですが、詳細は不明です…

(2003/7/6更新)
Bf109G-10
Bf109Gシリーズの最終生産型。
サブタイプの番号は計画順なので、面白いことに後に計画されたG-14の方が先に生産されている。
この型はG-6からエンジン強化などの改良を行ったもので、G系列というよりはK系列へのつなぎという面が強い機体でもある。
カラーリングはJG27所属の機体。

(2002/10/4更新)
(2003/6/20更新)
Bf109G-14
この機体は、Bf109G系列の後期主力生産型。カラーリングは『黒いチューリップ』として知られる、独逸空軍エースのハルトマン機のものである

(2002/10/4更新)
(2003/6/20更新)
Bf109K-4
この機体は、Bf109系列の最終量産型である。迎撃機に特化した感のある機体で、機首に30mmモーターカノンを搭載、また強化されたエンジンにより時速700km超の速力を出すことも可能で、これはスペック上ではP-51にも匹敵し、Bf109系列の最後を飾るにふさわしい機体となった。
Bf109系列は、最初のB型から考えれば(特にF型以降だが)、相当に無理を重ねていたとはいえ良くここまで発展させたものである。

(2002/10/21更新)
Bf109T-1 艦上機型
空母「グラーフ・ツェッペリン」のための艦載機として予定されていたBf109の艦上型。
結局機体は十分な数が完成したものの、肝心の空母のほうが完成しなかったので、最終的にノルウェー方面で陸上機として使われた。
長い主翼による離着陸性能・高高度性能の良さは重宝されたという。

(2003/7/15更新)
Bf110C-4
1935年に再建なったドイツ空軍は、とりあえずの主力となる軽戦闘機(Bf109シリーズなど)の開発と平行して、重武装かつ高速の「駆逐機」といわれる双発戦闘機の製作にかかっていた。
この「双発重戦闘機が将来の戦争には有効」という思想は当時の世界的な趨勢であり、各国がこの考えに基づく機体を製作していたが、そのなかのドイツ代表がこの機体、Bf110シリーズである。
今回上げたC型は、Bf110の中で実戦に耐えうる装備を施すことが出来た初めての型で、この機体の実戦配備はポーランド戦に間にあった。ここでは、開発当初に構想されたように、高速力・重武装・大航続力を生かし暴れまわることができたのである。
しかし…1940年のバトル・オブ・ブリテンの頃には、双発が故の劣悪な運動性が災いしてスピットファイアに返り討ちになるようになり、終いには「死のサークル」と称して互いの背後をぐるぐる回る機動を強いられたり、Bf109に「護衛」されたり(!)、と散々な目に遭うことになり、この種の双発戦闘機が当初考えられたほどの役には立たないことを世界に知らしめることとなった。
(ただし、これにはドイツ側がBf110の特徴を殺すような戦術を取ってしまったことにも原因がある)
だが、まだこの機体は使い道があった。C-4型以降の機体は主翼下に爆弾を吊ることが出来、また20mm1門、7.7mm4丁の正面火力(後方防御に7.7mm1丁を持つ)は地上掃射には有効で、とりあえず戦闘爆撃機としては十分に役に立ったのである。
塗装は1942年、東部戦線におけるC-4型(あるいはC-4/B型)のものである。

(2003/8/17更新)
Bf110D-1 夜戦型
1939年に第二次世界大戦が勃発、さらに翌年になって独逸側の軍事行動が活発化し始めると、英軍はそれに対抗すべく夜間爆撃隊を繰り出し、独逸各地に空襲を行った。独空軍は、当初機体及び練度の不足から、これに抗する手段を(高射砲以外)ほとんど持っていなかったが、やがていくつかの実戦経験から、Bf110のような複座機によってこの夜間爆撃機を迎撃しようという案が生まれ、やがて夜間飛行戦闘団というものが誕生した。

といっても最初のうちは夜間迎撃は手探り状態で、聴音機で敵の概略位置を調べ、その空域にサーチライトを照らし、敵機が見つかったら戦闘機が襲い掛かる…と、きわめて非効率な感のある機体運用を強いられたが、やがてレーダー網の発達などにより、若干ではあるが状態は緩和された。しかし決定的な転機が訪れるには機載レーダーの開発を待たねばならなかった。

アイコンの機体は、第3夜間飛行戦闘団所属のBf110D-1で、ロンメル軍団への支援のために、一時的に地中海方面で作戦行動を行っていた機体らしい。

(2003/7/15更新)
Bf110D-3
このD型は、C型に比べてエンジンを強化し、また両翼下に900lづつの増槽を積めるようになった、長距離侵攻戦闘機型である。
しかしこの型が登場した頃(1940年後半)には、戦局の推移、および双発戦闘機自体に対する考え方の変化もあり、多くの機体が戦闘爆撃機、あるいは初期の夜間戦闘機に転用されていった。
もっとも、機体の速力はもともと速いほうであることから、長距離強行偵察機としては多用され、あるいは(当初の目的どおり)重戦闘機として活躍した機体もあったと思われる。

この塗装は、1940年後半、ZG2(第2駆逐戦闘団)所属機のもの(らしい)。

(2003/7/15更新)
Bf110E-2
バトル・オブ・ブリテンの戦訓によって駆逐機としての存在意義を失ったBf110は、これ以降双発によってもたらされる搭載量の余裕を活用した戦闘爆撃機に発展していく。
(夜間戦闘機の方への発展についてはF型以降の解説で述べる)。
このE型は、C型の後期バージョン(500kg爆弾を搭載可能)をベースに、エンジンを換装し、50kg爆弾架を追加して対地攻撃力を強化したものである。
塗装機の所属部隊などは不明だが、おそらくはアフリカ戦線で活躍した機体。

(2003/7/29更新)
Bf110F-2
1941年も後半になると、Bf110シリーズは戦闘機としてはともかく、戦闘爆撃機としても非力な部類になりつつあった。未だにその重火力は魅力だったものの、対抗するべき機体に対し速力が見劣りするようになってきたのだ。このF型は、E型から一層のエンジン強化を行ったほか、胴体部の防御を強化して生残性を高めることを狙った。
基本火力はそれまでの型と大きな変化はないが、一部の機体はWGr.21空対空ロケット4発を搭載可能で、単機あたりでは単発戦闘機を格段に凌ぐ火力を生かして、連合軍の長距離爆撃隊をしばしば迎え撃った。
この型からBf110には本格的な夜戦型が登場し始めるが、アイコンの塗装はノルウェーにいたJG5所属の機体で、昼間戦闘機型である。

(2003/8/11更新)
(2003/8/13更新)
Bf110G-4b
1942年にもなると、Bf110はもはや昼間戦闘機としては非常に使いづらい機体となってきた。そんな中、この機体の最終量産型であるG型が登場する。G型は、エンジンをDB605に、20mm機関砲をMG151/20に強化するなどの改良を施したが、この程度の改良では前線の要求に応えられるものではなかった。
(これにはMe210の失敗という痛い事情もあるのだが)

一方で、その双発であるが故の余剰搭載量を生かした夜間戦闘機としては、まだまだBf110でも活躍の余地があった。
このG-4系列は、G型をベースに夜間戦闘に特化した仕様をもたせた機体で、乗員を増やして3人乗りにした(増えた一人はレーダー担当)他、機首へのリヒテンシュタインレーダーの追加、消炎排気管の採用などを行い、夜間での運用が本格的にできる機体に仕立て上げたものである。
一方で、この各種装備のために最高速力が低下し、下手をすると目標のはずの英国重爆より速度が劣る、さらには(大戦末期には)敵夜戦である「モスキート」から逃げられない、という悲惨な機体になってしまった。
それでも数多くの夜戦エースがこの機体を駆り、Ju88の夜戦型と共に、大戦後半…いや、ほぼ最後の時まで、ドイツの夜間防空を支えたのである。

塗装は、夜戦エースであるヘルムート・レント少佐(戦死後大佐)機のNJG1(第一夜間戦闘団)時のもの。

(2003/8/11更新)
Bf110G-4d
一般にこの時代の夜間戦闘機は、同時代の昼間戦闘機に比べて強力な火力を有していることが多い。これは、一回の攻撃可能な時間が極めて短く、数発の命中弾で勝負を決める必要があることからである。

さて、戦闘機が爆撃機の後方目掛けてまともに突っ込むことは難しく、また爆撃機側の防御砲火にさらされる時間も長い。
そういうわけで、比較的防御砲火が薄くまた見張りも難しいと考えられる、敵爆撃機の腹側に戦闘機が潜りこみ、すれ違いざまに銃撃を行い、これによって爆撃機を撃破しようという工夫が生じた。攻撃タイミングが限定されるのは同じだが、爆撃機から視認されにくい分、チャンスは増加する。
いわゆる「斜め銃」の発想である。
ドイツではこれを「シュレーゲ・ムジーク」(直訳だと「斜めの音楽」だが、「ジャズ」の意味もある)と呼称し、大戦後期には主力夜間戦闘機の多くにこれを装備した。
日本にも同種の装備を行った機体があるが、実は両国はこのアイデアを独立に考え付いており、別に一方がもう一方の影響を受けたわけではない。

このBf110G-4dは、コクピット後部(良く見るとキャノピーを銃身が…)に、20mm斜め銃を連装で装備している。
また機首にも20mm2丁と30mm2丁を装備しており、よって正面火力も十分に強力である。
塗装は、第5夜間戦闘団所属、エグモンド・プリンツ・ツー・リッペ=ヴィッセンファルド少佐の乗機。

(2003/9/10更新)
DFS194
Me163コメートの原型ともいうべき機体。
リピッシュ博士が製作したDFS39をベースにヴァルターHWK-RIロケットエンジンを搭載しロケット機のテストを行いたいと彼自身が空軍省に1938年に申し出て完成した機体。
胴体は金属製。主翼は木製。1939年夏完成。
推力わずか400kgで最終的には550km/hの速度をだした。

全幅:9.3m   全長:5.3m

(2003/6/28更新)
Dornier Do.17E
He111と同様もとは旅客機として開発された機体。高速化を狙って細長くした胴体の外観から“空飛ぶ鉛筆”の綽名で呼ばれるが、お陰で居住性が悪く旅客機としては今二つ。早々に高速爆撃機に転用される…つか、最初からそのつもりだったんでは。お約束の“戦闘機より早い爆撃機”として颯爽とデビューするや、その真価をアピールすべくスペイン内戦に投入される。しかし待っていたのはポリカルポフI-16という名の現実だった。バリエーションとして写真偵察型のF型がある。
最高速度:355km/h、航続距離:1,590km、主機:BMW VI (740HP)、武装:7.92mm機銃×2、爆装750kg

(2003/6/28更新)
Dornier Do.17M
E型の形状はほぼそのままで、エンジンを空冷900HPのブラモ323Aに換装した型。苦闘するE型に替わってスペイン内戦にも投入されたが、早々に生産ラインがZ型に移行したこともあって、生産は少数に留まった。バリエーションとして写真偵察型のP型がある。

(2003/6/28更新)
Dornier Do.17Z
もはや“戦闘機より早い爆撃機”でも何でもない存在を露呈したDo.17。それならばと狭い頭部を拡張して武装を強化したのがZ型。どうしてサブタイプがZなのかは判らないけど、「これ以上こいつをいじくっても、どうせロクなものにはなりゃしませんよ。」という意思表示だったり。Z-1はM型と同じブラモ323Aであったため重量・投影面積増を補うために搭載量を500kgに制限したが、主機をブラモ323Pに換装したZ-2で1,000kgに戻された。第二次大戦勃発時には一線のDo.17の殆どがこの型であったがやはり設計の古さは覆い難く、Battle of Britainでは頑丈さや低高度の運動性を買われて(He111やJu87よりは)昼間爆撃の第一線に長く留まったりもしたものの、1940年内には生産を終了している。
最高速度:410km/h、航続距離:1,160km、主機:Bramo 323P (1,000HP)、武装:7.92mm機銃×6、爆装1,000kg

(2003/6/28更新)
Dornier Do.17Z-10 Kauz
英空軍の夜間爆撃に対抗して少数が改造された夜間戦闘機。グラスノーズを潰して7.92mm×2挺、20mm×1挺を機首に集中装備し、赤外線探査機を搭載したZ-6の試作に続き、7.92mm×4挺、20mm×2挺に増強したZ-10が作られ、Ju88A-1を改造したC-2と共に一個戦隊を構成した。赤外線探査は役立たずであったが、地上のサーチライトや電探と共同してそれなりに戦果を上げたりもしたとのこと。爆装能力も(500kgながら)残されており、英軍重爆隊を追尾しての飛行場襲撃なども行っている

(2002/8/31更新)
Do335

(2005/2/11更新)
Do335A-12
ドルニエDo335A-12複座練習機タイプ。一段高い位置にあるのが教官用座席で合計8機の改修が予定されましたが終戦までに改修されたのは2〜3機といわれ、そのうち機体番号240112は戦後イギリスに運ばれ飛行試験が行われたそうです。練習機の一番の目的は離着陸時にプロペラや尾翼が地面に接触することを防ぐ飛行技術の習得だったようです。

(2002/9/29更新)
Fi103(V-1)

(2005/1/25更新)
Focke Wulf Fw61
 世界初の実用ヘリコプター。ローターが二つ横に並んでいて、それぞれが反対方向に回転し、トルクを打ち消し合う。ナセル正面についているのは推進用のプロペラではなく、エンジン冷却用のフィン。初飛行は1936年6月26日、翌1937年5月10日には高度400mからのオートローテーション着陸を世界ではじめて成功させている。また6月25日には滞空時間1時間20分49秒の記録を達成した。
 アイコンの塗装は1938年2月にベルリンの体育館内でのデモ飛行が行われた時のもの(駐機状態)、機体側面に、Deutschland と書かれている。その際女性パイロットのハンナ・ライチェ(Hanna Reitsch)が操縦していた。
エンジン:Sh14A(160hp)x 1 ローター径:7.5m 乾燥自重:818Kg 全装自重:950Kg 記録最高速度:123Km/h 記録航続距離:230Km 記録上昇高度:3427m 武装:無し 乗員:1

(2002/9/25更新)
Focke Wulf Fw190A-8

(2003/5/8更新)
Focke Wulf Fw190D-9 Dora

(2002/11/12更新)
Heinkel He111
元々はルフトハンザの民間機
高速性能が売りだったがバトルオブブリテンでは多くの損害を出した。

(2003/8/17更新)
Heinkel He162 (Salamander)
1944年9月10日、空軍省はMe262の大量生産に取り掛かる一方で、操縦が容易で少ない資材で大量生産出来る国民戦闘機の要求仕様書を各メーカーに発布した。
応募された機体の中で審査の結果採用されたのがハインケルの案P.1073で、He162と命名された。
開発は超特急で進められ11月5日に図面完成、翌月6日には原型1号機が初飛行に成功し翌年1月には量産が開始された。
敗戦までにおよそ240機が完成し、800機以上が生産途上にあったという。
本機は離着陸こそ難しかったものの操縦そのものはレシプロ機よりは容易でホーカー・タイフーンを含む2機の撃墜が報告されている。
また敗戦までの僅かの期間にエンジンをHeS011やJumo004に換装したタイプや後退翼・前進翼とした型などが計画されていた。

全長:9.05m 全幅:7.2m 全高:2.6m 自重:2.338t 全備重量:2.805t 乗員1名
最大速度:838km/h 航続距離:620km 発動機:BMW003E (推力800kg)×1
武装:30mm MG151/20×2 (データはHe162A-2のもの)

(2002/8/31更新)
Heinkel He219

(2003/8/17更新)
Heinkel He280V2
ジェット実験機 He178 の経験を踏まえ、当初から実用軍用機として設計された機体。1940 年 9 月 22 日に無動力グライダーとして初飛行したがエンジンの開発に手間取り、ハインケル HeS8A 遠心式ターボジェット(推力 720Kg)を搭載しての自力飛行は 41 年 4 月 2 日となった。He280 は翼面積 21.5m^2、全備重量 4.3t と軽い機体で(Me262 は 21.7m^2 / 6.8t)最高速度は約 800Km/h、前縁直線のテーパー主翼によって Fw190A に優る運動性を示した。しかし航続距離は最大 650Km に過ぎず、武装は 20mm 機銃x3 と比較的軽武装のうえ爆撃能力もなく、更にエンジンが推力・信頼性とも不足のうえ寿命も短かいとあっては空軍に「使い道がない」と結論づけられても仕方なかった。He280 は結局実験機として9機が製作されたにとどまり、BMW003 や Jumo004 など各種エンジンのテストベッドとして使われた。

(2003/2/24更新)
Heinkel He343
Ar234を基に開発された四発ジェット爆撃機。社内番号はP.1068。
1944年初頭に計画がスタートし同年7月には早くも実機の製作が開始されている。
試作1号機は搭載予定エンジンの完成が遅れたためにJumo004Bに変え翌年2月に完成した。
そして3月下旬に悪天候の中初飛行を行うが墜落、大破してしまいそのまま終戦となった。
本機は爆撃機、偵察機、駆逐機の3タイプが計画されていて、爆撃型はフリッツXの搭載も可能となっていた。
全長:16.5m 全幅:18m 全高:5.37m 自重:9.598t 全備:18.475t 乗員:2名
最大速度:890km/h 航続距離:1,620km 発動機:HeS011A (推力1300kp)×4
武装:20mm MG151/20×2 爆弾:2,000kg 生産数:1機

(2003/2/6更新)
Henschel Hs129B-2/R-2
1937年から開発のはじまったドイツ空軍の対戦車攻撃/近接支援機。
機体は極力小型にまとめられ、コックピットは6〜12mmの装甲板と75mmの防弾ガラスに守られていた。
1939年にアルグスAs410A-1(465馬力)を装備した原型機が完成したが、馬力不足や視界不良などの問題を抱えていてエンジン換装などの改修を受けたB型が1942年中ごろから各戦線に投入された。
本機は主に東部戦線に集中配備されクルスク戦以後各地で活躍したがノーム・ローンエンジンが埃や砂に弱かったために稼働率は高くはなかった。
全長:9.8m 全幅:14.2m 全高:3.3m 自重:3.81t 全備:5.25t 乗員:1名
最大速度:320km/h 航続距離:560km 発動機:ノーム・ローン 14M4/5(700馬力)×2
武装:7.9mm MG17×2、20mm MG151/20×2 30mm MK101(Mk103)×1 爆弾:50kg SC50×4 他 生産数:約870機

(2003/2/6更新)
Henschel Hs129B-3/Wa
Hs129の胴体下部に強力な75mmPak40Lを搭載したタイプ。37mmBK3.7や75mmPak40を搭載したB-2/Waなどもある。

(2004/1/9更新)
(2004/3/22更新)
Junkers Ju87A-1
スツーカの最初に配備された型。見た目においては足が細いスパッツ型ではなく太いズボン型になっているところ、アンテナが二本斜めに出ているところなどあげられる。最大爆弾搭載量は 500Kg だが、このときは1人乗りにする必要があったため、実際には 250Kg 搭載として運用された。第二次大戦が始まった時には多くの機体は B 型に変わり、A 型は少数が出撃しただけである。Jumo210Da 液冷 12 気筒 680hp、最高速度 320Km/h、航続距離 1000Km、武装 爆弾最大 250Kg、7.92mm 機銃前方1挺(右主翼)+後方旋回1挺。

(2004/1/9更新)
(2004/3/22更新)
Junkers Ju87A-1(ヨランテ小隊)
スペイン内戦に派遣されたコンドル飛行機部隊で用いられた機体。脚のカバーに描かれた仔豚の名前からヨランテ小隊と呼ばれるようになった。またカバーの一部が切り落とされているのも、整備されていない飛行場での離着陸に不都合があったためである。この内戦で多くのスツーカパイロットが急降下爆撃の経験を得た。

(2004/1/2更新)
(2004/4/13更新)
Junkers Ju87B-2
WWIIドイツを代表する急降下爆撃機、そのシリーズは大戦を通して使用された。B 型はエンジンを 1000hp 級の Jumo211 にパワーアップした型で、B-2 は大戦はじめの電激戦で多いに活躍した。しかし速度が遅かったためイギリスを侵攻するころには充分戦果をあげることができなくなり、今度は北アフリカで使われるようになった。Jumo211Da 液冷 12 気筒 1200hp、最高速度 383Km/h、航続距離 790Km、武装 爆弾最大 500Kg、7.92mm 機銃前方2挺、後方旋回1挺。

(2004/4/26更新)
(2004/8/13更新)
Junkers Ju87R-2
ドイツがノルウェー侵攻するとき用いられた長距離型、RはReichweite(長距離型)の略。主翼内に燃料漕を追加し、主翼下にも増漕を取りつけた。航続距離は増大したが、爆弾搭載は胴体下に制限された(Bでは胴体下に250kg×1、主翼下に50kg×4の組み合わせで搭載できた)。Jumo211Da 液冷 12 気筒 1200hp、最高速度 370Km/h、航続距離 1250Km、武装 爆弾最大 500Kg、7.92mm 機銃前方2挺、後方旋回1挺。

(2004/8/14更新)
Junkers Ju87R-2(ペルツ少尉機)
北アフリカ戦線で活躍したフーベルト・ペルツ(Hubert Polz)少尉の乗機。側面に白と赤で描かれた蛇の塗装はWW2の飛行機で最も派手なもののひとつである。ペルツ少尉はのちに東部戦線にて大きな戦果を挙げ、柏葉騎士十字章を受章、最終階級は大尉でWW2を最後まで戦いつづけた。

(2003/8/11更新)
Junkers Ju88A-1
1935年に再建なった独逸空軍は、その主力打撃戦力として、爆撃機の整備に力を入れることとした。そのために既存の旅客機や高速郵便機を次々と爆撃機に改造した(Do17やHe111はこの種の機体)わけだが、一方で完全な新設計の機体が望まれていた。これに基づいて高速爆撃機の競作が行われ、最終的に正式採用されたのがこのJu88である。
この機体は爆撃機としてはもちろんだが、同時に高い汎用性を求められており、その高い運動性と機体の割に大きな搭載能力から数々のサブタイプを生み出した結果、最終的に「軍用機がこなすべきあらゆる任務を同系列の機体でこなした」優秀機として歴史に名を残すこととなった。実際シリーズ全体では15000機弱の生産数であり、爆撃機型だけでも9000機で、これは独逸爆撃機の中では最多を誇る。
このA-1型は初期生産型で、エンジンはJumo211B(1200hp)の双発である。
1940年前半までにはまとまった数が完成し、早速対フランス戦に出撃、その速度性能を生かし活躍した。しかし航続力がやや短いこと、搭載量が少ないことから、改良型のA-5型、さらにはA-4型に早期に取って代わられた。

アイコンの塗装は、1940年、対フランス戦におけるKG51所属の機体のもの。

(2003/8/17更新)
Junkers Ju88A-4
Ju88と言えば、代表すべき型を一つ挙げるとこの型といっていいだろう。
事実、Ju88の各種派生型の多くは、A-4型の改良から開発されている。
またこの機体は、日本に1機が輸出され、「銀河」「東海」などの設計に影響を与えたことでも知られている。

Ju88が独逸空軍の主力爆撃機として愛用された理由として、性能もさる事ながら、その特徴的な乗員配置が一因とも考えられる。
機体の防御機銃4丁はすべて機首ゴンドラに集められている。当然操縦士も機首にいる。つまりこの機体、4名の乗員は全部機首にいるのだ(なお、爆撃手・操縦士も状況によっては銃を取る)。これだと機銃の死角が多くなるが、反面乗員全員のコミュニケーションが取りやすくなり、各人に孤独感がないため、飛行中の士気を比較的高く保てたと考えられるのである。特に長時間飛行になるとこの効果は大きい。

エンジンはJumo211J(1410hp)に強化され、最大3000kgの爆弾を搭載し、最高速度は高度5000mで470km/h、航続距離は最大2700kmを誇った(注:欧州圏内で運用する機体ということを考えれば、これでも十分以上)。しかも、この大きさで高速緩降下爆撃をもこなせる機動性を持っていた。
1941年後半から1944年前半ごろまで、He111とほぼ平行に主力双発爆撃機として大量生産された。

アイコンの塗装は、1941年〜42年の東部戦線におけるKG3所属の機体のもの。

(2003/8/11更新)
Junkers Ju88A-5
1940年後半までには、Ju88A-1が抱えていたいくつかの問題を改善するために、主翼の延長を行って航続力を増し、またエンジンを換装し、さらには搭載量を増やしたA-4型の生産に移行し始めた。…はずのだが、「バトル・オブ・ブリテン」の航空攻勢に伴い爆撃機の数は必要になったのに、このA-4型に搭載するべき新型エンジンであるJumo211Jが、早期に完成しなかったのである。
やむおえず、この機体に既存のJumo211Bを装着した機体がこのA-5型である。
しかし機体の性能はA-4型にほぼ準じ、結果的に防御機銃が4丁に、爆弾搭載量が3000kgにそれぞれ増加している。A-4型生産までのつなぎとして活躍した。

アイコンの塗装は、1941年、東部戦線におけるKG30所属の機体。

(2003/8/17更新)
Junkers Ju88A-14
Ju88A-4をベースに、対地攻撃能力の強化を行った型。機首機銃のうち1丁をMG/FF20mm砲に換装している。他には大きな変更点はないが、元からの2000kgを超える爆装能力は、直協支援には有用だった「はず」である。

(2003/8/17更新)
Junkers Ju88C-6
Ju88は、その運動性の良さを買われて、かなり早い段階で駆逐機への転用が図られることとなった。駆逐機=重戦闘機だから爆撃関係の装備は撤廃され、その場所に多数の機関銃・砲が搭載されることとなった(ただ、ある程度の爆撃能力は残されていた)。この改良を行った機体がJu88C型系列である。
そのうち、A-4型をベースにして改良を行ったのがこのC-6型である。C型の中では最も多く生産された(他の代表的な型にはC-2、C-4型などがある)。
武装は機首に20mm1丁と7.92mm3丁、機体下面ガンポッドに20mm2丁、後方防御機銃2丁で、Bf110より火力がやや大きい。なお、これらの武装は(元の爆撃関係装備の位置の都合から)ほとんどが機体右よりに装備されているので、アイコンでは対正面武装の銃身が見えない。

そしてこの機体の運命もまたBf110と同様であった。結局昼間戦闘機としてはあまり役に立たなかったが、改良型は夜間戦闘機として名を挙げたのである。

ただ紛らわしいことに、アイコンの機体はC-6の初期型で昼間戦闘機型だが、同じ型番でも後期生産型(厳密にはサブタイプのC-6b以降)は、武装を増強しレーダーまで積んだ有力な夜間戦闘機である。

アイコンの塗装は、地中海方面で活動したZG26所属の機体。

(2004/1/2更新)
Junkers Ju88C-6b
Ju88C-6型はもともと昼間重戦闘機として開発された。だがいくらJu88が双発機にしては運動性が良いとはいえ、単発機と真っ向から戦える機体ではなかった。またこの機体が前線に配備されるころには、英軍の夜間爆撃機の跳梁が激しくなっていた。 よって、この機体に夜間装備を施し、即席の夜間戦闘機に仕立て上げた機体が製作されたのである。昼間型との目立つ相違点は、機首にあるリヒテンシュタインレーダー、エンジンの消炎排気管である。Ju88の場合、後に最初から夜戦として設計された改良型も生産されたが、このC-6b型、およびC-6c型も独逸夜間戦闘機隊の主力として活躍した。 アイコンの機体は夜戦トップエース、ヘルムート・レント搭乗機の塗装。撃墜マークによると、この時点で彼は連合軍機46機を葬っている。なお彼は、後に戦死するまでに110機の連合軍機を撃墜した。

(2003/8/17更新)
Junkers Ju88S-1
Ju88という機体は、汎用性のほか、生産性にも気を使った設計である。例えば主翼の平面形は、一見曲線に見えて実は直線の折れ線を巧みに組み合わせており、工作が容易である。また、エンジンナセルは液冷エンジン+環状ラジエータに適合する形状に見えるが、実は多少の改造だけで空冷星型エンジンへの換装が可能なように最初から設計されていたのである。

1943年ごろには、連合軍側戦闘機の性能向上のため。Ju88A-4はもはや「快速」な機体とは言いがたくなっていた。
そこで、Ju88の前線へのカムバックを果たすべく、機体を極端に洗練したものへと改造することにした。具体的には、機首を流線型の新しいものとし、防御機銃を後上方防御用を残して全部下ろし、乗員も3名とし、最後に爆弾倉すら省略して機体を極端に軽量化したのである。
また、エンジンは…出力向上を果たすべく、なんと空冷のBMW801系に換装したのだ。出力は1700hp、また緊急加速にGM1ブースターを使うことができる。それにもかかわらず、エンジンナセルの形状がA-4型とそれほど変わっていない点に注意してほしい。

最終的に改良の甲斐があり、800kgのペイロードでは時速600km/hの速度を出すことが出来た。まあ「モスキート」ほどではないにしろ、これだけの速度が出せれば当時の戦闘機による捕捉は難しい。爆弾は主翼内側に2発、最大で2000kgを搭載できた。
もっとも、この機体が完成した頃には、戦況は高速爆撃機による「盗みうち」程度では抑えきれないところまで来ていた。独逸空軍の爆撃機勢力は、S型出現以降から急速に縮小していったのである。

なお、アイコンの機体の所属部隊などは不明。

(2003/1/6更新)
Junkers Ju287V-1
1943年初頭から開発のはじまったジェット爆撃機。
前進翼を採用した世にも珍しい機体で原型機Ju287V-1が1944年8月16日に初飛行。
このV-1は飛行特性のテストが目的であったため、胴体はHe177、脚は墜落したB-17などのものを流用するというツギハギ機だった。
翌年本機で得たデータを元にして実用型試作機V-2(エンジンはBMW003A-1×6)の製作が始まるも、完成直前でソ連軍の侵攻を受けて接収されてしまった。
全長:18.3m 全幅:20.1m 全高:5.1m 自重:12.51t 全備:20t 乗員:2名
最大速度:650km/h 航続距離:1,500km 発動機:ユンカース Jumo004B (推力900kg)×4
武装:なし 爆弾:4,000kg 生産数:1

(2004/01/31更新)
Messerschmitt Me163B Komet
世界初にして唯一の実用ロケット戦闘機。高度 10000m まで 3 分で到達する上昇力と急降下時に 1000Km/h を超える高速を持ち、1944 年 8 月の実戦参加直後には B-17 三機撃墜などの戦果挙げて連合軍の度肝を抜いた。しかしエンジンの稼動時間はわずか 8 分で、降下着陸時にはただのグライダーになってしまい、特殊な燃料やエンジンを扱える限られた基地でなければ運用できないため、爆撃隊が Me163 の発進基地を避けて飛ぶようになると殆ど成果は上がらなくなった。それでも補給途絶によって作戦不能となる 45 年 2 月頃まで活動したが、撃墜数は合計は 10 機程度と言われ、戦果よりも多発した爆発や不時着事故による自軍への被害のほうが大きいかも知れない。ワルター HWK509 液体ロケット(推力 1700Kg)x1、武装 MG151/20 20mm 機銃または MK108 30mm 機銃x2、最高速度 960Km/h、航続距離約 80Km、生産数 237。

(2002/10/31更新)
Messerschmitt Me209V-5
Me209V-5(採用されればMe209A-1になる予定だった)です。
この機体は機体番号のMe209は競速機と同じなのですが、見て分かるようにまったくの新規計画です。
機体の基本パーツはBf109Gのものを60%流用でき、またBf109系列のいくつかの弱点(外方引き込み脚など)を全面的に改めた機体でした。また、機首に環状ラジエータを持っていました。
性能的には最高速度670km/hを出すなど、実戦に使うには十分なものがあったのですが、同時に製作されたFw190の改良型(つまりFw190D型)がより高い性能と生産性を示したために、Me209の実戦機仕様は製作されませんでした。
これは一応試験まで漕ぎ着けている機体です。

(2004/01/31更新)
(2004/03/11更新)
Messerschmitt Me262A-1 Schwalbe
世界初の実用ジェット戦闘機で、1941 年 4 月にレシプロエンジンによる初飛行、42 年 7 月にジェットエンジンによる初飛行を行った。エンジントラブルを始めとする技術的困難によって量産は 43 年暮れまで遅れ、しかも総統命令によって 44 年暮れに到るまでは主に戦闘爆撃機として使用された。ヒトラーの命令には批判も多いが、いくら重爆を墜としてもしょせん陸戦に勝てなければ戦争には負けてしまうのだから、「革命的超高速機」を対地攻撃に使うという判断はある意味合理的だったとも言えるだろう。ユンカース Jumo004 軸流ターボジェット(推力 900Kg)x2、最高速度 868Km/h、航続距離 850Km、武装 MK108 30mm 機銃x4、250Kg 爆弾x2(戦闘爆撃機型)または R4M 対空ロケット弾x24(迎撃機型)、生産数 1433。

(2004/01/31更新)
Messerschmitt Me262B-1
Me262A をベースに複座化し武装を撤廃した練習機型だが、約 20 機程度が完成したに過ぎないと言われる。

(2004/01/31更新)
Messerschmitt Me262C-1 Heimatschutzer I
Me262 は高速だがエンジン推力不足で加速・上昇力が悪く、迎撃機としては使いにくい点があった。そこで運転時間は短いが推力の大きなロケットエンジンを離陸・上昇ブースターとして組み合わせる「祖国防衛戦闘機(ハイマトシュッツァー)」構想が生まれ、Me262A の尾部を改造し Me163 用のワルターエンジンを装備した Me262C-1 実験機(V-186)が作られた。1945 年にはハインツ・ベール中佐の操縦で実戦参加したとも言われる。祖国防衛戦闘機の量産型 Me262C-2 はジェット/ロケット混合エンジンである BMW003R を搭載する予定だったが、実機完成に到っていない。ユンカース Jumo004 軸流ターボジェット(推力 900Kg)x2 + ワルター HWK509 液体ロケット(推力 1700Kg)x1、生産数 1。

(2003/2/24更新)
Messerschmitt Me410 Hornisse
失敗作となったMe210に替わって開発された双発駆逐機。愛称はホルニッセ(雀蜂)。
1942年にMe210Aを改造した原型機6機が完成し、性能向上が認められ1943年から量産が開始された。
最初の量産型A-1は7.9mm MG17を2挺と20mm MG151/20を2門固定装備とし、Me210から引き継いだ胴体側面可動ターレットに13mm MG131を左右に2挺備えていた。
本機はA型とB型を基に夜間戦闘機、写真偵察機や50mm砲を搭載した対重爆迎撃機など様々な派生型が開発された。
全長:12.48m 全幅:16.35m 全高:4.28m 自重:6.15t 全備:10.66t 乗員:2名
最大速度:624km/h 航続距離:2,300km 発動機:DB602A (液冷1,750馬力)×2
武装:20mm Mg151/20×6、13mm MG131×4 爆弾:2,000kg 生産数:約1160機(データはMe410B-2/U2のもの)

(2002/10/14更新)
BLOHM UND VOSS Bv222 Wiking
実用化されたものでは大戦中最大の飛行艇。 全長37m

(2003/8/17更新)
Me321「ギガント」グライダー
独逸空軍が大戦中期に実用化した、第二次世界大戦で最大のグライダー、いや、有翼飛行物体。
通常で完全装備の兵員数十人を輸送できることになっているが、最大搭載量は実に30t近くにもなるため、複数台の装甲車や飛行機、さらにはIV号戦車一台(約25t)をまるまる輸送できるというとんでもない代物であった。
あまりにも巨大なため、初期には曳航にBf110が3機必要、という恐ろしい機体だったが、後にHe111Zという特殊仕様の機体を開発することで、1機でこれを曳航することが可能になった。
しかし、やはりグライダーなので、飛ばすためだけに飛行機が必要という不便さがあるため、後にこれにエンジンを取り付け、自力である程度の飛行が出来るようにしたMe323という機体が開発された。

このMe321は、もともとは英国への強襲空挺上陸用に開発されたが、英国侵攻作戦自体が実現しなかったので、実用化後は東部戦線やアフリカ戦線で、急を要する輸送の際に使われたという。

(2003/8/17更新)
(2003/8/25更新)
「ミステル1」特殊攻撃機
『ミステル』とは、ドイツ語では「宿木」を意味する。
つまりは親子式の飛行機であるが、この場合親機は上部の単発機、子機はその下の双発機である。
子機には機首に大威力の弾頭が装備されており、いわば超大型の無誘導ミサイルである。

この機体の基本的なコンセプトは、航続距離が短い機体でも遠隔地に大威力の爆弾を運べるようにする工夫といえる。
基地から3発機の状態で出撃した「ミステル」は、子機の燃料を主に使用して目標地点まで飛行し、攻撃時には両機を繋ぐステーを切り離して子機自体を目標に落下させ、親機はそのまま基地に帰還する、というわけである。子機自体が増槽と補助エンジンと爆弾の3つを兼ねているわけである。
また、親機から子機を直接操縦できるよう機構が工夫されていたが、子機側は改造時に一部の機構を簡略化したため、離陸のやり直しが利かない等の問題点が生じたという。
想定された攻撃目標は艦船や要塞などの重防御をもつもので、そのため弾頭重量は実に1700kgにも達している。その威力は、成形炸薬弾頭を使用した場合「厚さ20mのコンクリートを貫通可能」と言われている。

グライダーなどによる多くの試験を経て、1944年前半には複数の実戦仕様の機体が完成しており、仮にノルマンディ上陸作戦がなければ、同年後半にはこの機体によるスカパ・フロー泊地の襲撃が計画されていたという。

しかし、1944年6月に連合軍がノルマンディに上陸を果たすと、もはやスカパ・フロー襲撃どころではなく、猛進撃をかける連合軍を阻止すべくこの機体が前線に投入された。
初出撃は同月24日で、夜間にノルマンディ周辺の臨時港を襲撃し、フリゲート1隻と(防波堤として着底していた)旧式戦艦「クールベ」に損害を与えている。また後には数箇所の橋梁攻撃にも成功しており、これによって短時間だが連合軍の進撃を止めたこともある。
しかし、この兵器の投入も、他の独逸の「新兵器」と同様、結局戦局に影響を与えるには至らなかった。

なおJu88系列が子機のベースになった理由は、改造時には機体自体がやや旧式化していたこと、それ以前に戦局自体が爆撃機をまともに運用できる状況ではなかったこと、その上Ju88自体は『余るほど』大量に生産されており、改造の母体には事欠かなかったことが挙げられる。

アイコンの機体は「ミステル1」で、親機はBf109F-4、子機(Ju88A-4ベース)は機首に「ベートーベン」と称される成形炸薬弾頭を装備している。

この種の機体には、他にもFw190+Ju88G-1の組み合わせである「ミステル2」が存在している。また、大戦末期には、親機をMe262・He162などのジェット戦闘機、子機を専用設計の機体とした「ミステル5」が計画されていた。

(2002/12/10更新)
フォッケウルフ Fw200 コンドル (Focke Wolf Fw200 Condor)
元々は大西洋を横断可能な長距離旅客機だったのをドイツ空軍が改造の後爆撃機として採用。
船団護衛、洋上哨戒などに投入され、就役当初は大量の連合国艦船を沈め「大西洋の疫病神」とチャーチルを嘆かせた。
しかし連合国の護衛戦力が充実するにつれて損害が増していったので次第に他機種と交代していった。
輸送機型やHs293母機に改造された機体もあり日本海軍も本機を輸入しようとしたが大戦勃発でご破算となった。
全長:23.5m 全幅:32.9m 全高:6.3m 自重:17.01t 全備:24.52t 乗員:7名
最大速度360km/h 航続距離:3,600km 発動機:BMW ブラモ323R-2 (1,200馬力)×4
武装:13mm×3、20mm×1 爆弾:2,100kg 生産数:約280機

飛行船(主力艦スケール)
 

(2005/02/11更新)
LZ-127 グラーフ・ツェッペリン(Graf Zeppelin)
グラーフ ツェッペリン級飛行船機体番号LZ-127。グラーフは独逸語で伯爵を意味している為、日本ではツエツペリン伯級(号)と呼ばれた。
ドイツ・ツェッペリン社が誇る巨大飛行船で、昭和4年に世界初の航空機世界一周飛行を成功させた。此の途中の8月19日夕刻、東京上空を飛行し、東京市民は之を感激と驚嘆を持って迎えた。其の後霞ヶ浦海軍基地に移動して繋留、世界大戦で得た戦利品の押収(欧州)格納庫に格納され、其の後8月23日に旅立ち、太平洋横断に向かった。

種別 硬式飛行船
全長 約236.6m
乗員 65名
発動機 マイバッハ・ディーゼル 550hp x 5 基
最高速度 時速約130km
巡航速度 時速約100km

(2005/02/11更新)
LZ-127 グラーフ・ツェッペリン(1936 伯林五輪仕様)
伯林(ベルリン)五輪の際はLZ-129ヒンデンブルグと同様の国籍標識が描かれたそうです。

(2005/02/11更新)
LZ-127 グラーフ・ツェッペリン(1929 世界一周日本来航仕様)
世界一周の際に日本の霞ヶ浦に来たときの国籍標識。ドット数と位置不明の為ハーケンクロイツは省略。

(2005/02/11更新)
LZ-127 グラーフ・ツェッペリン(NT歓迎式典パンフレット掲載図)
此の間のZeppelin NT歓迎式典の際に配布されたパンフレットに描かれていた白黒の小さな図には、この様な国籍標識がありました。色は想像ですが、他の標識から考えても恐らく赤で間違いないと思います。

然し之が何なのかは不明なので、掲載についてはお任せします。