日本陸軍機アイコン
解説協力:T216さん              .
     アンサラーさん          .
     和来名春さん           .
     舞沙Pさん             .
     群馬帝国空軍工廠さん    .
       Schumpさん           .
     HIGUさん             .

(2004/1/31更新)
中島 九一式戦闘機 T型(前期生産型)
1927(昭和2年)に陸軍は甲式4型戦闘機に代わる新型戦闘機の製作を中島、三菱、川崎の三社に指令。中島はフランス・ニューポール社から招聘したマリー技師に小山悌技師を補佐に当て、パラソル単葉の NC 機でこれに望んだ。1回目の審査では全機不合格に終わったが、中島は試作機を徹底的に改良した結果 1931(昭和6)年、6号試作機に至ってようやく基準型が完成、91式戦闘機として正式採用された。軽快な運動性を持つ91戦はカーチス・ホークやブリストル・ブルドッグなど列国の戦闘機と比べてもかなり優秀であり、昭和9年までに約 450 機が作られ、上海事変の頃まで第一線で活躍した。発動機:中島「ジュピター」7空冷式星形9気筒 500hp、最高速度 300Km/h、航続時間 2 時間、武装 7.7mm 機銃x2、実用上昇限度 9000m。

(2004/11/10更新)
中島 九一式戦闘機 T型(後期生産型)
主翼の強度を増加するため左右の支柱に補助支柱を追加して張線を廃止し、胴体後方上部に編隊灯が追加された機体。生産過程の後半から切り替わったようだが、各型の生産数ははっきりしない。

(2004/1/31更新)
川崎 九二式戦闘機 T型
1930(昭和5)年 7 月、フォークト博士の指導の元に完成。試験飛行では 335 km/hの高速と高度1万mという成績を記録、数回の改良をへて昭和6年11月に正式採用が決定された。91式戦闘機に比べ防空能力に優れており、同年に勃発した満州事変での活躍が期待されたが、稼働率の悪さが災いしさしたる実戦を経験せぬまま95式戦へと移行していった。昭和8年までに 385 機が生産された。発動機:川崎「ベ式」(BMW-6改)水冷式V型12気筒 500 馬力、最高速度 320Km/h、武装 7.7mm 機銃x2、実用上昇限度 9500m。

(2003/8/14更新)
中島 九四式偵察機 (キ4)
92式偵察機の後継機として昭和8(1933)年に発注、早くも翌 9 年に完成し制式採用された機体。偵察のみならず空戦、爆撃など多用途性が求められ、空戦性能向上のため92偵より一歩後退した一葉半の複葉となった。しかし高い旋回性の反面スピン特性が悪く、地上でグランドループに入りやすい癖を持っていたという。中島ハ-8 空冷星型 9 気筒 640hp、最高速度 300Km/h、武装 7.7mm 固定 x 2 + 7.7mm 連装旋回銃、爆弾 50Kg、航続距離は1200km(6時間)。

(2003/8/14更新)
九四式偵察機改水上機(双浮舟型)
九四式偵察機にフロートを取り付けて水上機に改造した実験機。

(2005/10/27更新)
中島 キ11 試作戦闘機(1935)
 陸軍九二式戦闘機の後継として、川崎キ10(九五式戦闘機)と競作された機体。川崎キ5や三菱キ8が片持式単葉としながらも主に材料の限界から極度の厚翼となって性能が伸び悩んでいたこともあり、米ボーイングP-26に範をとった張線支持の薄翼を持つ固定脚単葉機とされた。しかし、主翼は木金混成骨組・合板羽布張りの高アスペクト比のものであり、また、尾翼の形状や動翼の配置、吸排気管の取回しといったところに後の九七戦や一式戦試作機と共通する手法が見られる等、実質的にオリジナルの設計といってよい。むろん、P-26から3年後の設計だけあって、NACAカウリングや胴体と一体整形された大型の主翼フィレット、密閉風防(4号機のみ)といった新機軸が採用されており、同級のエンジンを積みながらP-26を最高速度で約40km/h上回る等、性能面でも世界水準を追うにふさわしいものであった。
 陸軍の審査においては、近代的な構造と速度性能が高く評価されたが、旋回・上昇性能でキ10に劣り、速度性能の優位もそれをカバーできるほどではなかったことから、制式採用には至らなかった。しかし、次の九七戦に続く習作として大きな意義のある機体であったといえる。
 アイコンは、試作4号機。後に朝日新聞社に払い下げられ、原稿・写真輸送に活躍したほか、エンジンが同型で飛行特性も似ている「神風」の慣熟用機材としても活用された。

(2003/11/20更新)
中島 九七式戦闘機甲 (キ27甲)
昭和10年末から九五式戦(キ10)の後継として中島で開発が始まった陸軍初の全金属製低翼単葉戦闘機。
陸軍からの発注以前に中島独自に開発していたPE実験機の成果を試作機に取り入れるという方針の元に小山悌技師を主務者として開発が行われ、三菱のキ18(海軍の九六式艦戦に陸軍仕様を施した機体)を参考に主翼の捩り下げや軽量化の手法を取り入れつつ、主翼と胴体前部を一体構造として一層の軽量化を図る他、翼端失速し難い前縁が機体中心線と直角で後縁のみ前進角のついた主翼、スプリット式フラップ、カウルフラップ、完全密閉式風防といった新機構が取り入れられていた。
昭和11年7月に完成した試作一号機は自重わずか970s(量産型は1,110s)であり、最高速度475q/h(量産型は468q/h/4,000m)、上昇力5,000mまで5分22秒、そして後に「軽戦の極致」とまで評される運動性能を併せ持つことから、昭和12年12月に川崎キ28との競作に打ち勝って制式採用されている。
採用された九七式戦は折から生起した日華事変に投入されているが、最も活躍したのは昭和14年5月に生起したノモンハン事件の航空戦であり、I-15、I-153、I-16等と激しい空戦を繰り広げている。

(2003/11/20更新)
中島 九七式戦闘機乙 (キ27乙)
九七式戦(キ27)の後期生産型。
後方視界を改善するため風防の後端を金属製から全面ガラス張りとし、内部艤装が変更された他、一部の機体には風防内部にバックミラーが取り付けられていた。
九七式戦は後継であるキ43(後の一式戦)の開発がもたついたこともあって、機数の上では太平洋戦争開戦時においても陸軍航空隊の主力で、かなりの機数がフィリピン・マレーシア方面に投入されたが、米英の新型機の前に苦戦を強いられている。
派生/性能向上型として、更なる軽量化を施して性能向上を狙った機体や胴体後方に固定式増加燃料タンクを増設した実験機もが試作された他、第一線を退いた機体を練習機とした九七式練習戦闘機(キ27練習機)とは別にエンジンをハ13甲に換装して機首を延長、風防を開放式といった改修を施した純然たる単座練習機型の二式高等練習機甲(キ79甲)が作られ、続いて操縦装置付きの後席を設けた複座型の二式高等練習機乙(キ79乙)が満州飛行機で生産されている。

(2002/11/12更新)
(2003/4/25更新)
中島 一式戦闘機一型丙 隼 (キ43-T丙)
昭和12年から九七戦(キ27)の後継機として中島で開発が始まった戦闘機。
エンジンはハ25(海軍の栄12型に相当)、主翼は翼端失速し難いNNシリーズを採用、機体構造は基本的に九七戦を踏襲したもので、陸軍戦闘機初の引き込み式主脚を採用していた。
昭和13年12月に初飛行し、キ44(後の二式単戦「鍾馗」)用に開発された蝶型フラップの装備といった改修が行われたにも関わらず、要求された運動性能が得られなかったため、一時不採用になりかけたが、縦の運動性や航続距離を買われて昭和16年春に制式採用された。
開戦後、飛行第64戦隊などの所属機が南方作戦に投入されているが、すぐに火力不足が指摘され、一型甲(キ43-T甲)の7.7o機関銃2挺の内、機首左側の7.7o機関銃を12.7o機関砲に変更した一型乙(キ43-T乙)、更に12.7o機関砲2門とした一型丙(キ43-T丙)が作られた。

(2003/5/3更新)
中島 一式戦闘機一型丙 隼 (キ43-T丙)加藤少将機

(2002/11/10更新)
(2003/4/30更新)
中島 一式戦闘機二型 隼 (キ43-U)
キ43のエンジンを二速過給機付きのハ115(海軍の栄21型に相当)に換装した性能向上型。
エンジン換装に伴って機首が再設計され、プロペラも一型の二翅から三翅に変更された他、翼端が30pずつ短縮、風防、照準器が変更、防弾も強化されており、最高速度515q/h、上昇力5,000mまで5分49秒という性能を発揮できた。
二型は昭和17年6月に制式採用されたが、生産中に次々と機首周りに改修が加えられており、一型同様エンジンカウル内に環状滑油冷却器を装備した型、環状滑油冷却器を撤去して機首下面に大型の冷却器を設けた型、先端を絞ったエンジンカウルに変更した型、先端を絞ったエンジンカウルと推力式集合排気管または推力式単排気管を組み合わせた型が存在する。
中島の他に立川でも転換生産が行われ、大戦中期の陸軍主力戦闘機として各地で活躍した。

(2003/3/24更新)
(2003/4/20更新)
中島 一式戦闘機二型 隼 (キ43-U) 飛行第50戦隊 第三中隊 穴吹軍曹機

(2002/12/16更新)
(2003/12/1更新)
中島 一式戦闘機三型甲 隼 (キ43-V甲)
エンジンを水メタノール噴射装置付きのハ115-U(海軍の栄32型に相当)に換装した一式戦の最終生産型。
エンジン換装の他に、推力式単排気管(排気管数や位置が二型と異なる)が標準装備となり、主脚のタイヤや照準器が変更されているが、武装は二型と同じく12.7o機関砲2門だった。
これにより最大速度は二型より45q/h向上して560q/h(555q/hとする資料もある)に、5,000mまでの上昇力は30秒短縮して5分19秒となっている。
昭和19年12月の制式採用より先行して生産が始まっているが、中島は四式戦の生産で手一杯だったため、生産は立川のみで行われている。
この三型甲を装備した飛行第64戦隊は四式戦を装備する飛行第50戦隊と共に、終戦間際までビルマで米英軍機と激戦を繰り広げている。
性能向上型として武装を20o機関砲2門に強化、フラップを蝶型からスプリット式に変更した三型乙(キ43-V乙)があるが、性能不足のため不採用となり、2機しか生産されなかった。

(2002/11/23更新)
(2003/12/1更新)
中島 一式戦闘機三型甲 隼 (キ43-V甲) 飛行第20戦隊所属機

(2002/9/19更新)
中島 二式単座戦闘機二型丙 鍾馗 (キ44-U丙)
昭和14年から中島で速度、火力を重視して開発に着手された陸軍最初の重戦闘機。
キ44は当時存在していなかったコンパクトな高出力エンジンの代わりに選定されたハ41は本来爆撃機用エンジンであり、高出力だが外径が大きいため機首が太くなり、また主翼面積を15uとしたためこれまでにない高翼面荷重機となったが、一式戦「隼」(キ43)と同じ蝶型フラップのおかげで運動性能は良好であった。
最初の量産型である一型の制式採用は昭和17年2月だが、それ以前に試作機・増加試作機を装備した独立飛行47中隊が当時の最前線であるサイゴンなどで実戦参加している。
二型丙はエンジンをより高出力のハ109に換装、防弾装備を強化した二型の武装を胴体、主翼内とも12.7o機関砲各2門に強化した後期主力生産型で、最大速度605q/h、上昇力5,000mまで4分26秒という性能を持ち、B-29迎撃などに活躍している。

(2003/5/16更新)
川崎 二式複座戦闘機甲 屠龍 (キ45改甲)
昭和12年から川崎で開発に着手されたものの、要求性能に届かなかったキ45を全面改良した双発複座戦闘機。
井町技師から主務者を交代した土井武夫技師は、キ45改の設計に当たって前作のキ48(後の九九式双軽)の経験を取り入れることとし、旋回機銃を除く主翼や胴体の構造や形状をキ48と同様なものに変更(主翼の翼型も楕円テーパー翼から直線テーパー翼に変更)、エンジンもより強力かつコンパクトなハ102(海軍の瑞星21型に相当)に換装、それに合わせてエンジンナセルも再設計している。
甲型は昭和17年2月に制式採用された最初の量産型で、機首12.7o機関砲2門、胴体右下面20o機関砲1門、後方7.92o旋回機関銃1挺という当時の陸軍機の中で随一の重武装と最高速度547q/hという高速を併せ持っており、本来の開発目的であった長距離援護戦闘機として使用されることはなかったが、大型爆撃機の迎撃や対地攻撃で活躍している。
派生型として、胴体上面に12.7oまたは20o上向き砲2門を追加した夜戦型の甲型丁装備機、既存の武装を全廃して機首にタキ2を装備した戊型(計画では40o砲1門装備だが、実際に作られた応急改造型は20o上向き砲2門装備)がある。
また、胴体右下面の20o機関砲を戦車砲改造の37o機関砲に換装し、主翼付け根部分に200L増槽/250s爆弾用の搭載架を追加した武装強化型の二式複戦乙(キ45改乙)が昭和18年に既存の甲型を改造して作られている。

(2003/5/23更新)
川崎 二式複座戦闘機丙 屠龍 機首延長型 (キ45改丙)
応急改造ではなく最初から川崎で生産された丙型。
航空工廠製の丙型とは異なり、機首を延長して先端が尖った形状に整形された結果、37o砲の砲身が完全に覆われているのが外見的な特徴。
後期生産型では排気管が集合式から推力式単排気管に変更され、昭和18年12月には航空工廠で胴体上面に20o上向き砲2門を追加装備した丙型丁装備機が試作され、テストの結果有効と判断された丁装備は既存の丙型にも追加されている。
丙型は戦闘機部隊の他に旧式化した九九双軽などの後継として襲撃機部隊にも配備されており、現地部隊では「二式複座戦闘機改」もしくは「二式双発襲撃機」と呼ばれた。
特に飛行第45戦隊では丙型に後方旋回機銃の12.7oへの換装、爆弾架強化やフラップ改造といった現地改修を施して艦艇攻撃などに投入している。

(2002/11/3更新)
(2003/2/9更新)
川崎 九九式双発軽爆撃機二型乙 (キ48-U乙)
九三式双軽(キ2)の後継機として昭和12年から川崎で開発が始まり、昭和15年5月に制式採用された九九式双軽一型(キ48-T)の性能向上型。
エンジンをハ25(海軍の栄12型に相当)から二速過給機付きのハ115(海軍の栄21型に相当)に換装、これに伴いエンジンカウルが変更された他、機体が強化されて60°程度の急降下爆撃が可能になり、最高速度は25q/h向上して505q/hになっている。
二型の初期生産型である二型甲(キ48-U甲)には無かった「スノコ」型の急降下制動板(キ66用のものを流用)をエンジン外側の主翼下面に取り付け、500s爆弾を搭載可能にしたのが二型乙(キ48-U乙)で、昭和18年8月に制式採用されている。
二型乙の一部の機体は後上方銃を12.7o旋回機関砲に変更、防弾強化が行われた他、二型乙の機首側面に7.92o旋回機関銃を追加した二型丙(キ48-U丙)も作られたがテストのみで終わっている。
変わったところでは、二型はイ号一型乙無線誘導弾のテスト時の母機やネ-0パルスジェットの空中実験機にも使用されている。

(2002/11/6更新)
中島 百式重爆撃機 呑龍 (キ49)
昭和13年に陸軍が戦闘機の随伴出来ない長距離爆撃任務での被害減少を図るべく中島に開発を命じた高速重武装爆撃機。
翌年に試作機が完成するが速度や爆弾搭載量の面で陸軍を満足させる事は出来なかった。
しかし、武装は九七式重爆よりも格段に優れていたために百式重爆『呑龍』として採用された。
採用後は昭和18年のポートダーウィン爆撃で初陣を飾り、南方やフィリピンで活躍した。
T〜V型の他に20mm機関砲5門と12.7mm機銃3挺を装備したキ-53も3機試作されている。
全長:16.5m 全幅:20.4m 全高:4.25m 自重:6.54t 全備:10.68t 乗員:8名 最大速度:492km/h(高度5,000m) 航続距離:3000km 発動機:中島二式 ハ-119(1,500馬力)×2 武装:20mm×1、7.7mm×5 爆弾:750kg×1 or 250kg×3 (最大1,000kg) 生産数:796機

(2003/1/27更新)
三菱 九九式襲撃機(キ51) "Sonia"
昭和12年に三菱で開発が始まった陸軍初の地上攻撃機で、新機種名「襲撃機」が与えられている。
要求内容が類似していた九七軽爆(キ30)をベースに、九七司偵(キ15)や九七軽爆の経験を充分活かして開発され、開発開始から僅かに16ヶ月後の昭和14年6月に初飛行、更に初飛行から6ヶ月後の昭和14年12月に制式採用されている。
エンジンはハ26U(海軍の瑞星15型に相当)を採用、機体の構造や艤装は簡素化され主脚も固定式であったが、操縦席やエンジン、胴体下面に防弾装甲が装備されている。
最高速度は424q/h、爆弾を250s搭載でき、稼働率、運動性能が良好であったため、終戦まで各地で使用されている。
昭和18年11月以後に生産された機は主翼の7.7o固定機関銃2挺を12.7o機関砲2門に、後方旋回機銃を7.7oから7.92oそして12.7oに強化された他、風防の改修、燃料タンクのゴム防弾、前縁燃料タンク追加、滑油冷却器及びプロペラスピナーの大型化、250s爆弾の搭載可能化などが行われている。

(2003/1/27更新)
三菱 九九式軍偵察機(キ51) "Sonia"
キ51の開発方針がほぼ確定した昭和13年12月に陸軍から三菱に開発が命じられた九九式襲撃機の軍偵察機型。
基本的に襲撃機型と同じ機体で、襲撃機型から装甲板と後席の操縦装置を取り外す代わりに偵察カメラを搭載し、爆弾搭載量が半分になっている。
偵察カメラの搭載に伴って設けられた胴体の撮影用窓が襲撃機型との外見上の識別点。
襲撃機型と同じ昭和14年12月に制式採用され、襲撃機型同様終戦まで各地で使用されている。
なお、襲撃機型同様に昭和18年11月から主翼の7.7o固定機関銃2挺が12.7o機関砲2門に、後方旋回機関銃が7.7oから7.92oに、更に12.7oへ強化されている。

(2003/1/14更新)
川崎 一式貨物輸送機(キ56) "Tharia"
ロ式輸送機の離着陸時の安定性不良を改良し、搭載量の増大を図ったもの。
幅19.965m 長14.9m 全高3.6m 自重4,895kg 搭載量3,130kg 全備重量8,025kg 最大速度400km/h 行動半径805〜1,140km 乗員3〜4名 兵員14名

(2003/1/14更新)
日本国際 一式輸送機(キ59)
日本航空輸送で使用中だったフォッカーユニバーサル/エアスピードエンボイに替わる中型双発輸送機として開発された。
しかし、自重過大・搭載量不足で不採用になった、後に陸軍がこの機体に目をつけ、発動機換装などで搭載量を増大し、手ごろな輸送機として汎用した。
幅:17.0m 長:13.4m 自重:2,880kg 搭載量:1,520kg 最大重量:4,400kg 最大速度:307km/h 巡航速度:231km/h 航続距離:800km

(2004/3/28更新)
(2004/4/1更新)
川崎 三式戦闘機一型 飛燕 I 型丙 (キ61-I丙)
昭和15(1940)年、DB601 を国産化したハ-40 エンジンを搭載する機体としてキ-60 と共に試作発注された機体。主任設計者の土井武夫は武装と防御力・速度と運動性のバランスを追求し、昭和16年暮れに完成したキ-61 試作機は前作キ-60 を全ての性能で上回ったばかりか、模擬空戦では参考輸入品の Bf109E を圧倒する高性能を示し直ちに量産発注された。
昭和 17 年 8 月からロールアウトした I 型の量産機はニューギニア方面に送られ実戦を経験したが、不慣れな液冷エンジンの故障頻発に加えて火力(甲型 7.7mm x 2 + 12.7mm x 2 または乙型 12.7mm x 4)の不足が報告された。そこで急遽ドイツから輸入したモーゼル MG151/20(通称マウザー砲)を主翼装備した火力強化型が I 型丙である。マウザー砲の弾道性能と威力は好評だったが、銃・弾薬とも輸入品(本体 800 挺、弾薬 40 万発)のため国産 20mm ホ-5 を機首装備した I 型丁までの中継ぎ的な位置づけとなり、生産数は 388 機にとどまった。
連合軍は本機に「トニー(Tony)」のコードネームを与えていたが、これは当初シルエットの良く似たマッキ MC.202 の派生型と想像されていたことに由来する(「トニー」には「イタリア野郎」のニュアンスがある)。「大抵の日本戦闘機は急降下で振り切れるが、トニーだけは別だ」と警戒されていたという。
川崎ハ-40 液冷倒立 12 気筒 1075hp、最高速度 590Km/h、航続距離 1800Km(最大)、武装ホ-103 12.7mm 機銃 x 2 + MG151/20 20mm 機銃 x 2。アイコンは「帝都防空つばくろ部隊」として親しまれた飛行第 244 戦隊の戦隊長、小林照彦大尉(当時)の 3295 号機。

(2002/9/3更新)
川崎 三式戦闘機二型 飛燕 後期生産型 (キ61-U改)
昭和15年に川崎で開発が着手された国産型DB601であるハ40を装備した三式戦一型の性能向上型。
エンジンを水メタノール噴射装置付きのハ140に換装、主翼、水平・垂直尾翼の増積といった改良を施したものの、性能向上が思わしくないため開発が打ち切られてしまったキ61-Uの代替として開発されたのがキ61-U改である。
キ61-U改は基本的に一型丁のエンジンをハ140に換装したもので、最大速度610q/h、上昇力5,000mまで6分30秒という性能を発揮でき、川崎の片岡戴三郎操縦士は実弾を装備した試作機でB-29を迎撃、撃破している。
エンジン換装に伴い機首が延長された他、前期生産型の風防は一型と同じファストバック式だが形状が変更されており、後期生産型では後方視界の良い水滴型に変更されている。
昭和19年4月に試作機が完成したキ61-U改は同年9月に三式戦二型として制式採用され、その高性能を期待されたが、余りにも稼働率が低いため生産は僅か99機で打ち切られており、水滴型風防を持つ後期生産型は更にその一部であるため生産機数は非常に少なく、僅かに飛行第55及び56戦隊などが運用しただけである。

(2002/9/13更新)
川崎 キ64 試作高速戦闘機
DB601を国産化したハ40を串型配置にしたハ201で二重反転プロペラを駆動し、最大速度700q/hを目指した試作戦闘機。
開発は昭和15年10月から川崎で開始され、水冷エンジンを串型配置にすることで前面面積を最小にし、操縦席の前後にエンジンを配置することで重量バランスを解決、更に空気抵抗の少ない翼面蒸気冷却装置や層流翼が採用されている。
武装として20o機関砲を2〜4門装備し、最大速度690q/h、上昇力5,000mまで5分30秒という性能を発揮する予定だった。
試作一号機は昭和18年12月に完成したが、戦局の悪化からテスト途中で開発が中止された。

(2003/12/3更新)
川崎 キ66 試作急降下爆撃機
昭和16(1941)年9月に発注された双発急降下爆撃機。試作機は昭和17(1942)年11月に完成したが、同じエンジンを搭載し急降下爆撃能力も持つキ48-II 九九双軽二型と大差ない性能だったため量産は見送られ、試作3機にとどまった。ハ-115 空冷星型14気筒 1100hp x 2、最高速度 535Km/h、航続距離 2000Km、武装 12.7mm 機銃 x 2 + 7.7mm機銃 x 2、爆弾最大 500Kg。

(2002/11/23更新)
三菱 四式重爆撃機一型甲 飛龍 (キ67-T甲)
昭和14年から百式重爆(キ49)の後継機として三菱で開発が始まった機体。
エンジンは三菱のハ104(統合名称「ハ42-11型」)を搭載、機体はこれまで三菱が開発した爆撃機の経験が活かされており、完成度が高く生産性に優れたものだった。
最大速度537q/h、爆弾搭載量500s(常備)〜750s(特別)という性能を持ち、特に操縦性と運動性に優れ、爆弾を搭載しなければ宙返りすら可能だったという。
昭和17年12月に試作一号機が完成、審査の後、昭和19年8月(12月という説もある)に制式採用されているが、昭和19年初めから生産されており、昭和19年11月の台湾沖航空戦を皮切りにマリアナ、フィリピン、沖縄などの戦いに投入されている。
派生型として、尾部旋回機関砲を20o単装から連装に強化した一型乙(キ67-T乙)、雷撃機型、特殊航続距離延長型、特殊防空戦闘機型(キ109)、イ号一型甲誘導弾搭載型、更に特攻用の「ト」号機、桜弾装備機などがある。
エンジンを排気タービン過給器付きのハ104に換装、武装を強化したキ67T改、同じくハ214に換装したキ67U、全木製化したキ112は計画のみで終わっている。

(2002/11/28更新)
三菱 四式重爆撃機一型甲 飛龍 雷撃機型 (キ67-T甲)
四式重爆の雷撃機型。
キ67の実用審査中の昭和18年12月にキ67に魚雷を装備する指示が三菱にあり、昭和19年4月から海軍横須賀航空隊で増加試作17、18号機を用いて行われた雷撃実験の結果、500q/h超で雷撃すると魚雷の進路が安定しなかったが、魚雷を1.5度下向きに装備することで解決、夜間雷撃を容易にするためにタキ1-U電波警戒機やタキ13電波高度計を追加、800sまたは1,070s魚雷を搭載できるよう改修した雷撃機型のキ67が100機生産されることになった。
雷撃機型のキ67を装備し、パイロットの訓練や魚雷の供給の面で海軍の協力を得て編成された「陸軍雷撃隊」は台湾沖航空戦に投入されている。

(2002/11/23更新)
三菱 四式重爆撃機一型甲 飛龍 イ号一型甲誘導弾懸吊母機型 (キ67-T甲)
四式重爆のイ号一型甲誘導弾懸吊母機型。
イ号一型甲誘導弾は四式重爆の爆弾倉に懸吊され、距離約4q、高度700〜1000mで投下、目標まで母機の四式重爆から無線誘導を行う仕組みだったが、テストの結果、誘導弾自体の完成度の低さに加え、目視による無線誘導が困難であること、誘導弾の投下から命中の直前まで母機が直線飛行しなければならないことなどが問題視され、開発は中止、実戦に用いられることはなかった。

(2003/8/25更新)
キ67 体当たり攻撃仕様「ト号機」

(2003/8/25更新)
立川 キ70

(2002/10/31更新)
(2004/3/5更新)
立川 キ74 試作遠距離偵察爆撃機
遠距離司令部偵察機として昭和14年頃に計画がスタート。
陸軍の仮想敵国ソ連の奥地偵察を目的とし行動半径5,000kmを狙っていたが太平洋戦争の勃発に伴い米本土爆撃が可能な長距離爆撃機に変更された。
開発中に長距離機には高高度巡航が適しているとして気密室を装備したものの居住性や視界などの評判が悪かった。
第1号機は昭和19年3月に完成。しかし第1〜3号機に搭載されたハ-211ル発動機の不調により4号機以降をハ-104ルとしたが実用審査段階で終戦を迎えた。
全長:17.65m 全幅:27m 全高:6.80m 自重:10.2t 全備重量:19.4t 乗員:5名 最大速度:570km/h(高度8,500m) 航続距離:7,200km 発動機:ハ104ル(1,900馬力)×2 武装:12.7mm×1 爆弾:500kg×1 or 250kg×4 or 100kg×9 生産数:14〜16機

(2002/10/21更新)
国際 三式指揮連絡機 (キ76)
全幅15.0m 全長9.56m 全高3.60m 自重1,110kg 全備重量1,430kg(1,530kg・1,620kg)
最大速度178〜200km/h 最小速度40km/h 航続距離420km・750km
離陸距離68・49m 着陸距離61m・45m 7.7mm旋回銃*1 爆雷〜100kg*1

(2003/5/16更新)
立川 キ77 長距離研究機(1942)
朝日新聞社が紀元2600年記念企画の東京−ニューヨーク無着陸飛行用に開発していた機体を、開戦後に陸軍が引きついで完成させたもの。東京帝大航空研究所の手になる空力設計には、航研B系列半層流翼型、純粋紡錘形の胴体、翼根失速を防止する特殊形状のナセル等、当時の理論の粋が結集された。ハ115(栄)特エンジンも、巡航効率の高い大直径プロペラに対応した大減速比ギアと、極端な希薄燃焼に備えた特製の点火時期調整装置を備える。
2機製作されたうちの2号機は日独連絡飛行の途上で行方不明になり、「神風号」の塚越機関士を含む8名が殉職している。一方、1号機は1944年7月に新京・白城子・ハルピンの周回コースにて非公認ながら16,435kmの航続距離世界記録を樹立したが、戦後米軍が接収して本国に持ち帰る途中、暴風雨に巻き込まれた空母から事故防止のために投棄されてしまった。

(2002/9/2更新)
(2003/4/29更新)
三菱 キ83 試作遠距離戦闘機
当初、爆撃機の護衛機として三菱で開発されていた試作遠距離戦闘機。
開戦直前の昭和16年5月から開発が始まったが、要求自体が定まっておらず、昭和17年4月の実大模型審査で機体の小型化を始めとする修正の要求が出されたため、昭和18年7月に計画自体が見直され、敵戦闘機撃墜のための最高速度重視という明快なコンセプトで開発されることになった。
排気タービン過給機付きのハ43-11型(旧称ハ211)を装備、層流翼、30o及び20o機関砲各2門という強力な武装と充実した防弾装備、長距離飛行を可能とする自動操縦装置と強力な無線及び航法装置を備えていた。
昭和19年10月に初飛行し、テスト中に最大速度686q/h、高度10,000mまで10分30秒という性能を発揮している。
また、遠距離戦闘機型の他にも司令部偵察機型や戦闘爆撃機型が作られる計画だった。
4機の試作機が作られたが、二号機以降は事故や空襲で失われ、唯一生き残った試作一号機は米軍に接収、後に行われたテストで最大速度762q/hを記録した。

(2002/9/17更新)
中島 四式戦闘機甲 疾風 (キ84甲)
「大東亜決戦機」と呼ばれ、陸軍航空隊の期待を一身に集めた大戦末期の陸軍主力戦闘機。
エンジンはハ45-11/21型(海軍の誉11/21型に相当)を搭載しており、主翼は翼端失速し難いNNシリーズに蝶型フラップを装備、強度と軽量化を図りつつ生産や整備を容易に行えるよう考慮した機体構造を持ち、充実した火力と防弾装備を備えていた。
開戦間もない昭和16年12月から開発が始まり、昭和18年3月に試作機が初飛行、昭和19年4月に制式採用されているが、作られた増加試作機は実に100機を超える。
キ84甲は最初の量産型で、武装として胴体に12.7o機関砲2門、主翼に20o機関砲2門を備えた対戦闘機仕様で、最高速度624q/h、上昇力5,000mまで6分26秒という性能を発揮できた。
その他に胴体武装を20o機関砲2門に強化した対爆撃機仕様のキ84乙、武装を胴体の20o機関砲2門のみとしたキ84丙などが作られ、操縦席後方に20o上向き砲1門を追加した夜戦仕様のキ84丁、エンジンを排気タービン過給機付きのハ45-ルに換装したキ84-V、三速過給機付きハ45-44型に換装したキ84R、ハ44-13型に換装し主翼を増積したキ84P、信頼性の高いハ115-Uに換装したキ116、木製機のキ106、鋼製機のキ113などが計画された。
疾風は試作機時代からエンジンの不調に悩まされたが、飛行第47戦隊のように高稼働率を維持した部隊もある。
キ84乙の試作機は最大速度660q/hを記録したといわれ、戦後に行われた米軍のテストでは最大速度689q/h、上昇力6,000mまで5分14秒を記録している。

(2002/9/1更新)
中島 キ87 試作高高度戦闘機
昭和17年11月から中島で開発に着手された試作高高度戦闘機。
キ87の最大の特徴は機首で、高空性能を確保するために機首右側面に装備された排気タービン過給器や中間冷却器、滑油冷却器を納めるために大型となった機首を先端で絞り込む代わりに強制冷却ファンが装備されている。
排気タービン過給器付きハ44-12型を全長13.4m、全幅11.8m、全備重量6.1tという大型の機体に装備し、武装として30o及び20o機関砲を各2門を装備、最高速度698q/h、上昇力10,000mまで14分10秒という性能を発揮する予定だった。
試作一号機は昭和20年2月に完成したが、エンジン関連や回転後方引き込み式の主脚などの不調のため、実用化は困難と判断され、開発は中止された。

(2002/10/31更新)
航技研 キ93 地上襲撃機
キ-93試作地上襲撃機は、57mm機関砲×1、20mm機関砲×2、12.7mm機銃×1を装備し(爆弾250kg×2も装備可能)キ-51(九九式襲撃機)の後継機種として陸軍航空本部技術部で開発されていた機体であります。

(2002/9/4更新)
立川 キ94-U 試作高高度戦闘機
昭和18年6月、近い将来に出現することが確実視されていた長距離高高度爆撃機、即ちB-29を迎撃するために立川で開発が始まった試作高高度戦闘機。
当初開発されていたキ94-Tは操縦席の前後にエンジンを取り付け、主翼から尾翼を支えるビームを持つ特異な形状をしていたが、後部のプロペラが脱出時に危険なことから木型審査の時点で廃案となっている。
そこで、昭和19年5月から改めて単発単座の戦闘機として開発が再開され、エンジンは排気タービン過給器付きハ44-12型に6翅プロペラを装備、主翼付け根直後の胴体下面に排気タービンを取り付け、全幅14m、全長12mという大型の機体に与圧操縦席と層流翼を備え、主翼に30o及び20o機関砲2門という強力な武装を持ち、最大速度712q/h、上昇力13,000mまで21分3秒、実用上昇限度14,800mという性能を発揮する予定であった。
試作一号機は昭和20年7月に完成、翌月に初飛行を行う予定だったが、終戦のため中止されている。

(2002/11/4更新)
川崎 五式戦闘機一型甲 (キ100-T甲)
搭載エンジンのハ140の不調から生産が停滞して、大量に発生した首無しキ61-U改にハ112-Uを装備した機体。
幅840oの胴体に直径1218oのハ112-Uを装備することでできるエンジンナセルの段差で発生する空気の流れの乱れに対処するために、胴体側面に大型のフィレットが取り付けられ、更にFw190Aを参考にして段差部分に推力式単排気管が埋め込まれた。
エンジン換装の結果、空気抵抗が増加したため最高速度は30q/h低下して580q/hとなったが、全体で重量が約330s軽くなったため、上昇力は5,000mまで6分と三式戦二型より30秒短縮、運動性能も向上した他に整備性も良くなった。
キ100は設計開始から僅か3ヶ月後の昭和20年2月に初飛行すると、直ちに制式採用され、飛行第5、59、244、111戦隊などに配備されると、短期間であるが米軍機と熾烈な戦いを演じた。

(2002/11/3更新)
川崎 五式戦闘機一型乙 (キ100-T乙)
ファストバック式風防の一型甲が首無しキ61-U改を改造した機体であるのに対し、最初からキ100として作られた水滴風防を持つ後期生産型。
五式戦の武装は一型甲、乙とも原型となった三式戦二型と同じく20o機関砲および12.7o機関砲各2門ずつである。
これは四式戦甲とも同じであるが、四式戦甲が胴体に12.7o機関砲2挺、主翼に20o機関砲2門を装備しているのに対し、主翼の構造上、20o機関砲装備が難しい三式戦二型と五式戦は胴体に20o機関砲2門、主翼に12.7o機関砲2門を装備している。
ただ、一型乙の中には重量軽減のために主翼の12.7o機関砲2門を降ろした機体もあった。
性能向上型として排気タービン過給機付きハ112-Uに換装した二型(キ100-U)が存在する。

(2002/10/28更新)
川崎 キ102甲 試作高高度戦闘機
陸軍は二式複戦「屠龍」の後継機としてキ-96を川崎に試作させましたが、諸々の事情で実用化は中止。
昭和18年末、そのキ-96をベースに改めて使用目的別に開発を命じた双発機が、このキ-102でした。
甲型は高高度戦闘機として完成したばかりの新エンジン、ハ-112U型ルを装備し高度10,000mで580km/hという性能を発揮する予定だったものの、排気タービンの不調により実力を出し切れずに終わりました。
全長:11.45m 全幅:15.75m 全高:3.7m 自重:5.15t 全備重量:7.15t 乗員:2名、最大速度:580km/10,000m 航続距離:2,000km 発動機:ハ112-Uル(1500馬力)×2、武装:37mm×1 20mm×2 生産数:26機

(2002/10/28更新)
川崎 キ102乙 試作襲撃機
排気タービンなしのハ-112U型エンジン、大口径57mm砲(ホ401)を装備した襲撃機型。
九九式双軽の後継機として制式採用されていないにも関わらず215機が生産されましたが、大口径砲を搭載する飛行機の宿命か57mm砲の命中精度や機体強度などに問題を残していました。
五式複座戦闘機とも呼ばれていた。
全長:11.45m 全幅:15.75m 全高:3.7m 自重:4.95t 全備重量:7.3t 乗員:2名、最大速度:580km/6,000m 航続距離:2,000km 発動機:ハ112-U(1350馬力)×2、武装:57mm×1 20mm×2 12.7mm×1 爆弾最大500kg 生産数:215機

(2002/10/28更新)
川崎 キ108 試作高高度戦闘機 (キ102八号機改造繭型気密室実験機)
キ-108用の繭型気密室をキ-102甲に搭載した実験機。
気密室の性能はまずまずでパイロットは高度10,000mでも酸素マスクをつけることなく行動できたそうです。

(2002/10/23更新)
(2003/7/5更新)
川崎 キ108改 試作高高度戦闘機
キ102八号機を改造した実験機的存在であったキ108の高々度性能と実用性を向上させた機体。
土井武夫技師の指導の元に清田堅吉技師が設計を担当し、昭和19年8月から設計を開始し翌年1月に終了、同年3月に試作一号機が、5月に二号機が新造されている。
エンジンと武装はキ102甲やキ108と同じく排気タービン付きハ112-Uと37o機関砲1門及び20o機関砲2門で、キ108と同じ繭型気密室を装備していたが、高々度性能と安定性を改善するためにキ102丙と同様に主翼と尾翼はキ102甲/乙より大型化され(どちらもキ48と同一のもの)、胴体も1.3mほど延長されている。
この改造の結果、最高速度と実用上昇限度はそれぞれ580q/h、13,500mとキ102甲やキ108と同じだが、上昇力は5,000mまで7分に、航続距離は2,200qに向上する予定だった。
しかし、研究機的性格が抜けきれず、キ102の重点生産が決定されたこともあってテスト中に開発中止となり、しかも昭和20年6月のB-29の空襲によって試作機は2機とも破壊されている。

(2002/11/23更新)
三菱 キ109 試作特殊防空戦闘機
防御火網の射程外から大口径砲でB-29を撃墜することを目的に三菱で開発されていた試作迎撃機。
昭和19年1月に試作指示が出され、当時完成したばかりだったキ67(後の四式重爆 飛龍)から機首銃座と爆撃倉を撤去する代わりに75o高射砲を取り付け、機体の補強が施された。
原型のキ67より軽量となったため、飛行性能全般は僅かに向上したが、高空性能が不足気味だったため、試作一号機には特呂ロケットを、試作二号機には排気タービン過給器が装備されたが、目立った性能向上が得られず、艦船攻撃機に転用され、終戦まで本土決戦用として温存されていた。
生産機数は22機で、試作一号機及び二号機が飛行中のB-29に対して実戦テストを行っているが戦果は不明である。

(2002/11/9更新)
中島 特殊攻撃機 剣 (キ115)
剣 は一応は生還を前提としての運用を考えてはいるものの事実上「特攻機」の機体であった。

(2002/10/23更新)
三菱 イ号一型甲空対地誘導弾 (キ147)
昭和19年に三菱で開発された誘導弾。
母機から高度700〜1000mで投下され無線操縦により目標まで誘導する仕組み。射程は4000mほど。
昭和19年10月に試作一号機が完成、年内に10基が完成し翌年も数基が製作されますが、ジャイロや無線機器の調整が難航し実用レベルに至りませんでした。
全長:5.77m、全幅:3.60m、全高:1.55m、全備重量:1,400kg、最大速度:550km/h、特呂一号三型液体ロケット(推力240kg)×1、燃焼時間75秒、炸薬:800kg

(2002/10/30更新)
川崎 イ号一型乙空対地誘導弾 (キ148)
イ号一型甲と平行して開発された誘導弾で、ほぼ同時期に試作機が完成。
実射テストでは熱海温泉の旅館の女風呂に飛び込んで「エロ爆弾」と冷やかされたりもしましたが、命中率は75パーセントという高精度を得ることに成功しました。
しかし、戦局の悪化からイ号一型甲とともに生産が打ち切れられてしまいました。
全長:4.09m、全幅:2.60m、全高:0.90m、自重:550kg、総重量:680kg、動力:特呂一号二型液体ロケット(推力150kg)×1、燃焼時間80秒、炸薬:夕弾300kg

(2002/9/18更新)
(2003/1/6更新)
前田 二式小型滑空機 (ク1)
本格的な滑空機の運用により、新設されたク番号を与えられた、第一号。中央胴体には乗員1名の他兵員6〜8名を収容することが出来る。
幅:17.0m 長:9.56m 自重:420kg 搭載量:600kg 最大重量:1300kg
最大曳航速度:180km/h 着陸速度:69km/h

(2002/10/21更新)
萱場 カ号一型観測機
ローター長12.2m 胴体長6.95m 自重750kg 全備重量1,170kg 最大速度165km/h 航続距離360km 航続時間3.0h

(2002/12/19更新)
石川島 小型患者輸送機
コンパクトで使い勝手がよく、地味な患者輸送に従事していた。
キ番号も紀元年号も冠していないが、立派な陸軍機である。
幅:10.0m 長:7.9m 自重:560kg 搭載量:417kg 最大重量:977kg 最大速度:180km/h 着陸速度:80km/h 航続距離620km

(2003/1/14更新)
日本国際 四式特殊輸送機 (ク8U)
一式輸送機をベースに改造して、ク8を製作しテストの後、本格的な輸送用滑空機ク8Uとして要求された。
兵員20〜24名あるいは兵器資材1.8〜2t収容できた、機首はコクピット後方で操縦席ごと右側に90度折れ曲がる。
一部の方面で輸送に使用された他、海軍でも少数しようされた。
幅:23.2m 長:13.31m 自重:1,630kg 搭載量:1,870kg 最大重量:3,500kg 最大許容速度:240km/h 着陸速度:120km/h

(2003/1/14更新)
Lockheed/立川/川崎 ロ式輸送機(Lockheed 14 Super Electra)
ロッキードのエレクトラ高速旅客機を輸入・国産化したもの。
始め立川が輸入、発動機換装等施した物を生産、後に川崎も加わった。
陸軍の他、中華航空・大日本航空に納入された。
幅19.965m 長13.42m 全高3.49m 自重4,947kg〜5,152kg 搭載量2,053kg〜1,948kg 全備重量7,100kg 最大速度422km/h 巡航速度385km/h 航続距離3,330km 乗員4名 乗客10名 貨物1,270kg

(2003/1/27更新)
神戸製鋼 テ号観測機
試作のみに終わった、陸軍砲兵のためのSTOL段着観測機。
陸軍航空本部の計画では無いためキ番号は与えられていない。
キ76と似ているが、こちらは弾着観測のみに目的を限定している。
昭和17年開発、試作機がテスト中に墜落したため不採用。
全長9.5m 全幅13m 全備重量1.13t 最大速度180km/h(目標)