ついに明かされるタイトルロゴの謎(増補改訂版)
いがぐり頭に丸眼鏡、手には軍刀。絵に描いたような帝国軍人の姿である。しかし身体には鎧をまとっているし、右手に持っているのは、どう見ても兜である…。毎日新聞社「一億人の昭和史 日本の戦史2 満州事変」(1979)に掲載された写真である。キャプションには「…”重武装”した金丸中尉 鎧兜は先祖伝来のものか」と書かれている。
「先祖伝来の鎧を持って外征とはスゴイもんだ」と思い、画としてのインパクトだけで「兵器生活」のタイトルロゴに使ってしまっているのだが、写真を初めて見てから20年もたってみると、色々と疑問もわいてくるのである。
疑問1 どうやって鎧を持ち込んだのか?
あの鎧は帝国陸軍正式兵器でもなければ被服でもない。「先祖伝来の鎧」という私物を、戦地に堂々と持ち込むことができた理由があるはずである。
疑問2 この話が歴史に埋もれているのは何故か?
「先祖伝来の鎧を着込んでご奉公」とは、「鉢の木」もビックリな美談としか思えないのだが、私は市中に流通している兵器ファン向け書籍で、金丸中尉の美談を聞いたことがない。
ここまで疑念が出てきて始めて
疑問3 そもそも金丸中尉って誰? と云う最後の疑問が出てくるのである(笑)。
金丸中尉の甲冑姿が撮影されたのは、昭和3年の済南事件の時である。したがって、済南事件について読者諸氏に説明する必要もあるだろう。しかし事件の背景には大日本帝国の対外政策と、辛亥革命〜中華民国の確立と云う政治的事情と、当時の中国軍の性質と云う、ひじょうにややこしい問題が存在しているのである。
教科書流に云えば、中国全土掌握のために、国民党政権が北方に送り込んだ軍隊と、居留民保護のため現地に出兵した日本軍との軍事衝突である。
まあヤクザな大家が、抗争に敗れた末に、雑多な住人をかかえるアパートを手放した、と思ってもらいたい。話の根底がわかるように、住人であるあなたには外国人留学生になってもらおう。抗争に勝ち残って、アパートを手に入れた新しい大家がやってくる間、どさくさまぎれに泥棒が入ってきたりしたので、やむを得ずあなたは腕っ節の強い友人を連れてきて、部屋に住まわせたのである…。(あなたは、元の大家との賃借契約は切れていないのだから、新しい大家に契約を引き継ぎたいと思っている)
しかし新しい管理人(右がかった日本人である)は、外国人がアパートにいること自体が気にくわないため、勝手に他人を連れ込んだあなたに激怒、新しい住人や、仲の悪い隣人と一緒に、自転車のタイヤの空気を抜いたり、カナリアに毒を盛ったりと嫌がらせをしてくるのである。
怒った友人は管理人に殴りかかり、あなたの部屋は大騒動となる。
この時点ではあなたの部屋の中だけの騒ぎであるが、嫌がらせはまだ続くため、友人は管理人に嫌がらせの即時停止を要求、管理人からの明確な回答がないため、友人は管理人を叩き出してしまうのである。
その後、友人の提案もあって念のため、もう一人ケンカの強い友人をアパートに呼び込んだが、幸いにしてこれ以上の騒動は起こらず、友人は引き上げていく…。これが済南事件(済南事変、第二次山東出兵〜第三次山東出兵)とよばれる出来事となる。
蛇足ではあるが、最初にアパートを手放した大家がどうなったかと云えば、故郷に戻る途中、謎の電車事故で死んでしまうのである(笑)。これ満洲某重大事件こと、張作霖爆殺事件である。
日本史の上では、中国への「進出」の一頁として有名であるが、兵器ファンにはなじみが薄い事件なのである。戦車出てこないし。
武力衝突自体は短期間で収まり、その直に北軍の首領である張作霖本人が爆殺されてしまい、歴史の動きがエライ方向に向かってしまったため、済南事件は忘れられてしまう(この事件が一部で有名なのは、中国革命の締めくくりであるのと、日本人居留民が殺害されているからである)。そんな扱いだから、そこにいた1将校の話なんぞ、残りようがないのである。
よってすべての疑問を解明するには、とにかく済南事件当時の資料にあたる以外に方法はない。そこで調査方針を立ててみる。
金丸中尉の甲冑姿が今も毎日新聞社のスクラップブックの中に存在していると云う以上、新聞記事として掲載された可能性は極めて高い。また、帝国軍人、それも将校が甲冑を着込んで戦場に立っていた事が写真になっている以上、良否の別はあれ、軍の記録に残っていてもよいわけである。
調査の方向が見えれば、あとは資料を探し出して目を通し、疑問に対する答えを見いだすだけである。
実際の調査に乗り出す前に、手持ちの資料も詳細に検討してみる必要がある。「金丸中尉」が何者か、と云う事が少しはわかれば、郷土部隊史から情報が得られる可能性もあるからである。まずは例の写真をじっくり観察する。
詰襟になっている軍服をよーく見れば、右襟に数字らしきものがある。これがヒントになる。数字は「47」と読める。師団か旅団か連隊か(以下略)の識別番号ですね。私は以前、「襟の数字は連隊番号」と云う事を聞いているので、これは「47連隊」所属に違いない、とアタリをつけておく。この写真が掲載されていた本には、済南事件には、第六師団が出動した、と書かれているので、これも覚えておく。
総督府にある、「一億人の昭和史 日本陸軍史」を引っぱり出して、「師団と連隊 郷土歩兵60個連隊の戦歴」と云うページを紐解けば、第六師団が熊本にあり、その下に歩兵第四十七連隊が、大分にあることが確認できる。
つまり、「金丸中尉」の甲冑が先祖伝来のものであれば、大分から鎧を持って大陸に行った、と云うことになる。しかし、将校とはいえ、鎧のような嵩張り、かつ重量のあるものを「こっそりと」持ち出したとは考えづらい…。そこでさらなる仮説が生まれる、
1.本籍は九州にあるが、実は山東に家があり、そこから持ち出した。
2.「先祖伝来の鎧であるから」と持ち出し許可を受けた。
その答えはどうなのかは、後のお楽しみである…。
ここまでの情報を持って、まずは九段下の昭和館に出向く。図書室への入場は無料であるし、パソコンを使った検索システムが充実しているし、なによりヘンな雑誌や書籍が多い。
「済南事件」をキーにして書籍を検索すると、「熊本兵団戦史 満州事変以前編」(熊本日日新聞社、昭和40年)と云う本が引っかかったので、取り寄せて読む。歩兵第47連隊が、済南市の西地区の警護にあたっているとの記述を見つける。さらに読み進むと、
在留邦人の救出
自宅に帰っている日本人を、充満する敵中から救出することはもっとも重要なことであった。(略)なかでも普利門に近い地域には多数の邦人が残っていることが判明し、歩兵第四十七連隊の、金丸小隊と菅沢小隊が、救出に急行した。二十六人を救い出したが、帰途をさえぎられ、ついに敵の重囲に陥った。奮戦の末、奇知をもってこれを突破し(略)
と云う記述を見つける。金丸氏の名が戦史に残っていることが確認できた。が、この時甲冑を着ていたのかどうかはわからない。
さらに読み進むと、済南城攻城戦のくだりに以下の文を発見する。
ラク(さんずいに樂)源門の占領
(略)午前二時ごろ、壁上の銃声が急にやんだのを怪しんで、歩四十七第六中隊長木庭大尉(熊本市出身)は、国弘強上等兵以下三人、高橋隆見上等兵以下三人の、二組の斥候を派遣して、城壁上の敵情を偵察させた。斥候は城門南側の城壁にハシゴをかけ、さらにナワをつるして、壁上によじ上った。同じ時刻に機関銃小隊長金丸高秋少尉は単身でラク(さんずいに樂)源門に上った。数人の敵があわてて逃げた。城壁の上には、すでに敵はいなかった。ときに五月十一日午前四時であった。歩兵第四十七連隊は直ちにラク(さんずいに樂)源門およびその両側に連なる城壁を占領し、歩兵第十三連隊は、内城西南角を占領した。
済南城占領の手柄に一役買ったらしいことが読みとれる。「数人の敵があわてて逃げた」と「城壁の上には、すでに敵はいなかった」とは、矛盾した書きようだが、それは不問としよう。フルネームも「金丸高秋」と云うことが判明した。しかし「少尉」と云うのが気になるところである。
日を改め、今度は九段上の偕行文庫をたずねる。こちらはより軍に特化した資料で有名なところだ。「金丸高秋」氏についての情報を得る。
偕行社「保存版 陸軍士官学校」(昭和44年)に、士官学校の歴代の卒業者名簿が掲載されているので、これを探ると 「第35期 歩兵 金丸高秋」の名前があり、1923(大正12)年卒業という事がわかる。ついでに「大分連隊写真集」も調べてみたが、残念ながら写真は無い。しかし金丸「中尉」が機関銃隊に所属していた、と云う情報を得ることができたのである。さきの「熊本兵団戦史」での「金丸高秋少尉」は、やはり「中尉」の誤りらしい…。
引き続き「済南事件外史 刃のほこり」(昭和5年)、「済南事件を中心として」(昭和3年)と云う、事件に関する逸話集をを読んでみる。が、これらの文章の中には、甲冑の話もなければ、金丸中尉の名前もない(手柄を立てているんじゃないのか?)。であれば、事件当時刊行された写真資料に、甲冑姿の金丸中尉の写真があるのではないか、と写真集も並行して調査してみる。
事件の写真集は何種類かあるのだが、発行年、発行者不詳の「山東派遣軍記念写真帖」の中に、甲冑姿の金丸中尉の写真を発見した。キャプションには、
甲冑を着て一番槍の殊勲者 歩兵第四十七連隊第二大隊の金丸中尉
と書いてある。
背景はハメコミ合成です
この写真を良く見てほしい。最初にあげた写真とポーズが違っているのがお分かりであろう。こちらの写真では、足の写り方が異なっている。さらに刀の持ち方も違っているし、左脇に下がっている板(一般的な鎧では<鳩尾の板>と云う一枚板なのだが、この写真では右脇にある<栴檀の板>と呼ばれる小札を威した形態となっている)の見え方が大きい。つまり歩いてくるところを捉えた写真なのである。
ここで私は驚くのである。甲冑写真が一枚あっただけでも大変なのに、同一人物の写真がもう一枚出てきてしまったのだ。
さらに当時の写真集を探す。「山東省動乱記念写真帖」(青島新聞社、昭和3年7月)にも、「山東派遣軍記念写真帖」と同じポーズの写真を発見する。よく見るとメガネがないのだが、顔以外に違いが確認できないので、見栄えの理由で修正がされたものと思われる。
こちらのキャプションはもう少し詳細である。
こっちの方が勇ましい
甲冑に身を固めて一番槍の功名金丸中尉
五月十日夜半から十一日未明に亘る内城攻撃戦の際 第四十七連隊第二大隊の金丸中尉は 東文学校より借入れた鎧兜に身を固め 要害堅固なラク源門(ラクはさんずいに楽)を真先によぢ登って開門し 一番槍の功名を挙げた
と書かれている。
驚く無かれ、あの甲冑は借り物だったのである。
これで金丸中尉の甲冑の出所が判明した。現地での借り物であれば、どうやって日本から持ち出したのか、などと云う疑問は一気に解消してしまう。甲冑=先祖伝来と云う思いこみが、「一億人の昭和史」編集者にはあったようだ。まあ、私もそれを疑わず(多分あの写真をみたことのある読者諸氏のほとんども)そのままにしていたのであった。いずれにせよ美談度は一気に下がり、堅固な城門を真っ先に突破したという、一個の武勇談が残るのみである。
しかし、美談にはならないとは云え、一番槍の功名は功名のはずである。当時の事変談に書き残されていないのは妙な話ではないだろうか?
美談の追求はひとまず置いて、当時の新聞が、この出来事をどう伝えていたかを調べてみる。新聞資料と云えば、国会図書館! と云うわけで国会図書館まで足を伸ばし、マイクロフィルムをたぐってみると、「東京日日新聞」昭和3年5月13日(日)の記事に
済南城占領の先陣は
甲冑をまとえる勇士
猛射を浴びつつ進撃す
(済南12日発 陸軍省着電)
9日夕刻以来済南内城正面において勇敢に戦闘していた小泉大隊と交代したる第六師団の歩兵第四十七連隊第二大隊は大隊長及川少佐の指揮の下に引続き攻撃を続行していたが11日午前3時半同大隊の金丸高秋は身に甲冑を纏い猛射を浴びつつ梯子を利用し勇敢に城壁をよぢ先頭第一に城門を占領した、かれは南軍が北方に退却中なるを見下し直ちに大隊長に報告、及川少佐は大隊を率い場内に進撃午前4時確実にラク(さんずいに樂)源門を占領した。金丸の甲冑姿とその勇敢なる活動振りとは目下陣中における戦争挿話の中心に成っている
「金丸高秋」、「金丸」と書かれているところに注意。同日発行の「大阪毎日新聞」(余談であるが、東京日日新聞は今の毎日新聞東京本社である)の地方版「西部毎日(長崎・佐賀版)」には
猛射を浴びながら 第一に城門を占領
大分第四十七連隊の勇士金丸君
勇敢なる行動陣中の語り草となる
(済南12日発 陸軍省着電)
9日夕刻以来済南内城正面において勇敢に戦闘していた小泉大隊と交代した第六師団の歩兵第四十七連隊第二大隊は、大隊長及川少佐の指揮の下に引続き攻撃を続行していたが、11日午前3時半同大隊の金丸高秋氏(等級不明)は兜を纏い南軍の猛射を浴びながら梯子を利用して勇敢にも城壁を登攀して先頭第一に城門を占領した、彼は南軍が東北方に退却中であることを直に大隊長に報告したので及川大隊長は全大隊を揚げ場内に突進し、午前4時確実にラク(さんずいに樂)源門を占領した、金丸氏の兜姿とその勇敢なる活動ぶりは目下陣中における戦闘挿話の中心となっている
九州男児が頑張っているからなのか、「金丸君」、「金丸高秋氏(等級不明)」、「金丸氏」と敬称がついているのがミソである。記事そのものの内容は、どちらも同一なのだが、「甲冑」が「兜」になっているなど細かい違いがあって面白い。
これが済南城占領の第一報となる。つまり「一番槍」の出所というわけだ。歩兵第四十七連隊地元である「西部毎日(大分・宮崎版)」の記事も同一内容である。
「熊本兵団戦史」では、国弘上等兵らの活躍が書き残されているが、「甲冑」「兜」のインパクトに負けた感がある。
俗に云う「大手三紙」の「朝日新聞」ではどうか? 「大阪朝日新聞」5月13日に
占領直後入城し
激戦の跡を見る
永綏、ラク(さんずいに樂)源二門の占領に
甲冑姿で大殊勲の金丸中尉
(済南森山特派員十一日発)
(略)十日夜半より十一日朝にかけての占領は第四十七連隊の戦功であるが殊に第二大隊金丸高秋中尉の偉勲は特筆すべきもので、同中尉は永綏門占領の際押収した日本の甲冑に身を固めて城内に飛び込み開門したが、更にラク(さんずいに樂)源門の占領には同朝一時ごろより単独で偵察に当り敵兵の退却を逸早く知って及川大隊長に報告したので同大隊は突撃を試みてラク(さんずいに樂)源門の占領となったのである。
と云う記事が掲載されている。ここで注目すべきは、例の甲冑の出所で、これによれば「永綏門占領の際押収した日本の甲冑に身を固めて城内に飛び込み開門したが」とあり、東文学校からの借用説と微妙に対立している。永綏門は、済南城の外城にある門で、ラク(さんずいに樂)源門は、内城の門である。
記事の日本語が意味不明な書き方をしているため、甲冑をつけたのが永綏門占領の際なのか、占領後なのかが判断できないし、またラク(さんずいに樂)源門占領に先立つ偵察時に甲冑を着用していたのかも読みとることができないのである。両方の説をとって、「永綏門占領の際、東文学校にあった甲冑を押収した」と云うのが落とし所なのかもしれない。
甲冑の出所がどこであれ、大阪朝日新聞も、金丸中尉の手柄を記事にしていることが確認できたのである。読売新聞が何を書いたのかまでは調査していないが、「甲冑将校」の存在が天下に知れ渡った事だけは確かなようである。
金丸中尉の人となりがわかる記事はないか、と引き続きマイクロフィルムを手繰っていると、
偉勲を立てた
金丸中尉
と云う顔写真入りの記事を発見した。「西部毎日(大分・宮崎版)」昭和3年5月15日
新聞にものすごく小さくでていた顔写真
(大分)済南城占領に際し鎧甲のいでたちで一番槍の偉勲をたて戦闘挿話を残した大分第四十七連隊機関銃隊付金丸高秋中尉は福岡県出身で、今年二十八才、頭脳明晰にして機知に富み、頭の人として大分連隊内でも評判の将校、今度の変わったいでたちとその偉勲は留守隊でも話の的となっている
金丸中尉は、当時28才だったのだ。「頭の人」という言葉が使われているが、のらくろ中尉みたいな人だったのだろうか?
一方「大阪朝日新聞付録 九州朝日(B)」昭和3年5月13日記事では
金丸中尉は 当意即妙の男
小林少佐は語る
(大分)偉勲をたてた大分連隊の機関銃隊付金丸高秋中尉は福岡県の人で本年二十八歳いまだ独身であるが右につき留守隊の小林少佐は語る
金丸君は頭脳頗る明晰で菅沼少尉は腕の人、金丸中尉は頭の人として連隊内の名物将校である中尉は全く当意即妙の男だから早速甲冑を纏って敵弾を避け強行偵察を敢行したものであろう
とある。 「大阪朝日新聞附録 九州朝日」の(B)は、発行地域を表しているようだが、どれがどれなのかは不明。最初にあげた十一日森山特派員報告は、九州朝日の(B)(C)(D)に同文が掲載されているが、小林少佐の談話は(B)にしか掲載されていないので、(B)=大分地区、と推測できる。
小林少佐の談話からも、「アイツだったらそれくらいはやりかねんな」と云う空気が感じられる。ちなみに、「腕の人」と称された菅沼少尉については不明である。いずれにせよ有能な将校と云う評価があったに違いない。
毎日・朝日ともに同一人物の評判記事であるが、それぞれ記事の書き方が違っているのが面白い。記事の分量と掲載日付から推測すると、朝日の記事が掲載されたのを見て、毎日側があわてて追随したように思われる。大分連隊に対するパイプの太さが違うのだろうか?
「九州朝日(B)」昭和3年5月15日に掲載された礼装姿
済南城が占領されてしまうと、一応城内外の治安状況は好転する。そうなると新聞は書くことがなくなる。大阪毎日新聞が沈黙する間、「大阪朝日新聞附録 九州朝日(B)」(昭和3年5月16日)はこのような記事を掲載する。
初年兵は喜んで戦った
「留守隊の貧乏籤同情仕候」と
戦地から初の便り
(大分)十五日戦地の新山連隊長や斎藤副官、貴島三大隊長、済南陥落に甲冑をまとうと一番の殊勲者金丸高秋中尉ら将士の面々から済南到着以来はじめての手紙(八日付)が届いた、いづれも陣中の走り書、慌ただしい戦場の有様がまざまざと文面に現れている(略)
また金丸中尉は戦禍に見舞われた済南市全景の絵葉書に
戦闘面白くツクヅク留守部隊の貧乏くぢなる事を御同情致居申候、一同元気に罷在候間御休心被下度候
と鉛筆の走書に中尉の面目が躍如している
金丸中尉の手紙は、中学校レベルの古文が読めれば、誰でもわかります(笑)。
当然のことながら、この記事は「九州朝日(B)」にしか掲載されていない。(B)=大分説の所以である。
そして、ようやく新聞紙上に金丸中尉の甲冑姿が掲載される。「東京日日新聞」昭和3年5月20日の夕刊(市内版)に「済南画報」と題された写真3点のうちの一つである。
ラク(さんずいに樂)源門の一番乗りをした甲冑姿の金丸中尉
重厚な趣を持つ写真である
毎日新聞社のフォト・アーカイブに金丸中尉の写真がある以上、必ず本紙に掲載されているはずだ、という予測はしていたのだが、この写真がなんと<歩きバージョン>なのである! これはまったくビックリであった。写真の背景にトラックが見えることから、「一億人の昭和史」の写真と同じ場所で撮影されたと推察されるのだが、それは二枚撮影されたと云うことである。当時のカメラの構造−云うまでもないが、フィルムは高価であり、連写性能も低い−を思うと意外の感がある。
新聞に掲載された写真が<歩きバージョン>であることから、先に発見した「山東派遣軍記念写真帖」等の写真も、同じものが(おそらく複写の上)使用されたものと思われる。
朝日新聞にも済南からの写真はいくつも掲載されているのだが、甲冑写真は無い。大阪毎日新聞社(および東京日日新聞社)の特ダネだったようである。
ちなみに、大阪毎日新聞社は、写真班と映画撮影班を現地に派遣しており、日本各地で映画上映会を開催している。「西部毎日(大分・宮崎版)」5月25日に、大分第四十七連隊集会所で、留守隊向けに上映を行ったとの記事が掲載されている。この記事によると、そこには甲冑姿の金丸中尉も映っているとのことである…。
おそらくは本邦初の金丸中尉の勇姿揃い踏み。とても同一人物には見えない(笑)。
さて、金丸中尉の甲冑写真が二種類存在すること
甲冑は借り物であったこと
連隊内でも有名人
済南城占領一番乗り
と云うことを延々と書きつづってきたわけなのだが、最後に残ったのが、金丸中尉の甲冑姿が忘れられた事実である。
金丸中尉の紹介記事が掲載された5月15日の「西部毎日(大分・宮崎版)」で、「済南城の大手柄は我が大分連隊」と、留守隊の伊藤中佐は喜んでいる。しかし、「西部毎日(熊本・鹿児島版)」すなわち第六師団本部の地元版では、同じく済南に出兵した歩兵第十三連隊(熊本)、安藤連隊長の「出征日記」が連載されており、5月30日の記事には「大分連隊は抵抗を受けずこの朝ラク(さんずいに樂)樂源門を占領した」と、暗に、「大手柄ゆうてもタナボタやんけ」と、さきの伊藤中佐の談話を否定している。
ところが困ったことに「西部毎日(大分・宮崎版)」には同時期、大分連隊の大江大尉が「陣中日誌」を寄稿しており、こちらの5月30日では「一番乗の誉は大分連隊に」という見出しが書かれているのである(笑)。
金丸中尉の甲冑姿が忘れられた遠因として、出征部隊同士の論功をめぐる何かがあった、と思うのは下司の勘ぐりと云うものなのだろうか…。
同じ九州同士で対立している「陣中日記」と「出征日記」であるが、ともに5月30日で完結している。戦闘が収束してしまったために、マスコミの興味は山東半島から急速に失われていくのである。
ところが!「九州朝日(B)」は続々と金丸中尉記事を掲載しているのだ。昭和3年6月3日、「金丸中尉が陣中の歌を留守隊へ」と云う記事が掲載された。以下にあるカッコ付きの数字は、こちらで付けたものであることをお断りしておく。
金丸中尉が
陣中の歌を
留守隊へ
(大分)済南陥落に甲冑をまとうて一番乗りの殊勲をたてた大分連隊の金丸高秋中尉から陣中のつれづれに物した次の様な歌を二日留守隊に送ってきた
支那の土地句作もできぬ荒涼さ(1)
戦場のそこここに見る屍の 敵にしあらばなほ痛ましき(2)
こ宵こそ昨夜の月に照されて 石を枕と幾度か思ひし(3)
御仏の教の逆をふは中華の民の勇気なりけり(4)
一輪車きしる音きけば心より亡国の民の哀れ覚ゆる(5)
戦より疱瘡恐し支那の土地(6)
詩才にとぼしい私が云うのもなんであるが、芸術性が高いとは云えない、句であり歌である。その分、当時の日本人が見た、中国と云うものを素直に表している((1)(4)(5))。(6)に関しては、現地で天然痘にかかる兵士が続出したことをふまえたものである(現在では、そのようなことはないものと思う)。
(5)の一輪車は、革命前の中国を取り上げた書籍に、必ずといって良いほど紹介される荷車のことで、正方形の帆をかけて利用されたりもしていた。
支那名物一輪車(帆付き)
さて、歩兵第四十七連隊を含む第六師団は、昭和3年9月に帰国・凱旋したのであるが、その時期の新聞記事に、金丸中尉の話が出ているのかが、気になってくる。
「大阪朝日新聞附録 九州朝日 大分宮崎版」(6月より○○版の表記開始)の9月5日に
第一の殊勲を立て
故郷に錦を飾る
似島検疫所で検疫を済ませて
四十七連隊大分に向う
の見出し以下、四十七連隊関連の記事が掲載されている。
(広島電話)済南へ満四ヶ月駐屯して我居留民の生命財産の保護に任じ済南城攻撃には甲冑に身を固め城門に攀登り一番槍の功名たてた機関中隊付金丸中尉が武装解除の殊勲をたてた七中隊長佐久間大尉やその他赫々たる武勲をたてて帰国した大分歩兵第四十七連隊の将卒約一千名は四日午後五時御用船ボンベイ丸で似島出発懐しの郷里大分に向かったが連隊長新山福治大佐は検疫所で語る
(略)甲冑で有名な金丸中尉などは敵地に乗り込み邦人二十五名を救ったなどの功名話もある(略)
金丸中尉の済南城攻撃の記述が、毎日新聞同様、「甲冑に身を固め城門に攀登り一番槍の功名たてた」となっている事に注意したい。
同日の「九州朝日」(熊本鹿児島沖縄版)は、当然このスペースを、歩兵第十三連隊凱旋にあてている事は云うまでもないだろう。
以下9月6日の「九州朝日 大分宮崎版」では
家族や知己が
兵舎に殺到
互いに無事を祝い合う
大いに賑った大分連隊
と云う記事の一部に
(略)この日連隊本部の廊下では甲冑姿で済南城に討入った金丸鬼中尉や菅澤少尉らの鮫づかの軍刀組が留守隊付の青年士官と握手を交すやら戦功を語り合うなど凱旋兵の土産の支那煙草を燻らしながら歓談するところ凱旋気分が溢れていた(略)
と、凱旋直後の様子を記した中に、「金丸鬼中尉」と云う文字が見える。事件が一段落してしまったため、「甲冑姿で済南城に討ち入った」と、「甲冑将校金丸中尉」と云う紋切り型に近い表現になってしまった。そうでなければ「金丸鬼中尉」と云う書き方は出来ないはずである。
そして「凱旋グラフ」と題して、四十七連隊幹部の写真が掲載された。
「九州朝日 大分宮崎版」昭和3年9月3日掲載の写真
前列右より清水連隊副官、斎藤大隊長、新山連隊長、及川大隊長、野崎中尉、堤大尉、鎌賀少尉、金丸中尉…と新聞には説明があるのだが、御覧の通り、金丸中尉の顔はまったく判別出来ない。
(同じ写真が「西部毎日(大分・宮崎版)」9月5日付にも掲載されているが、こちらも人相の判別が出来ないのである…)
さて、大阪朝日新聞に水を開けられた感のある毎日新聞であるが、9月6日の「西部毎日(大分・宮崎版)」の大分連隊凱旋記事の中に、
あの場合
他に術がなかった
甲冑で一番乗りの
金丸中尉謙遜して語る
(大分)また済南城攻撃の際甲冑に身をまとい一番乗りの殊勲をたてた金丸中尉に祝詞を述ぶると
あまり大きく宣伝されたので全く赤面にたえません、敵味方を驚かそう−そんな考えでやったのではありません、あの場合あんなものでも身につけて乗りこむより外に術がなかったのです、どうしてもいかないので焦燥苦心していた際でしたから咄嗟の考えからあんなものを引出したのです、その間の事情はよく話さないとわかりませんが、もうそのことは許して下さい
と武勇の人とも思えないほどはずかしそうに記者の追求をさけた
正直なところ、本人の談話まで突き当たるとは思ってもいなかった。「戦闘面白く」、「留守部隊の貧乏くぢ」などと云うハガキを書いた本人とは思えない弁である。「事情はよく話さないとわかりませんが」などと云わず、よく話しておいて欲しかった、書き残しておいて欲しかった、と惜しむのは私だけではあるまい。軍隊と云う組織にあって、注目されてしまったがゆえに、上官から余計な事を云うな、と口止めをされていたのであろうが、本人も自分が「甲冑将校」として有名人になってしまったとは思ってもいなかったのだ。「もうそのことは許して下さい」と云う最後の言葉が「鬼中尉」と対照的である。
済南事件について、参謀本部は、出兵が完了した昭和5年になって、「昭和三年支那事変出兵史本編」と云う名称で、豪華な造本の戦史を刊行している。軍そのものが刊行する戦史は、大日本帝国の正式な歴史を構成するものであり、ここに書かれている事が、「歴史的事実」として第一に扱われなければならない。
ところが、金丸中尉が、ラク(さんずいに樂)源門を開門したと云う出来事が、この本には記述されていないのである。金丸小隊が邦人救出に出動して苦戦した事や、金丸中尉が装甲自動車を指揮した事は書かれているのに、である。
以下に済南城占領のくだりを掲載する。本文は漢字カタカナ混じり、濁点句読点ナシと云う、すこぶる読みづらいものであるので、平仮名化、句読点その他の付加をほどこし、読みやすくしてある。カッコ内は、もともと小文字で書かれていた部分である。(昭和館所蔵本による)
歩兵第四十七連隊ノ内城占領(第四章 第十節 済南城ノ攻略より)
歩兵第四十七連隊は、十一日午前一時発旅団命令に基き、連隊長は中尾中隊(本部付大尉 中尾哲士を長とし、第五、第九、第十中隊の各一小隊より成る)を済南警備部隊長(小泉中佐)の指揮下に入れ、第九中隊(一小隊欠)を旅団予備とし、第三大隊(第九中隊第一小隊及第十中隊第三小隊を欠き機関銃第三小隊を付す)を右第一線として内城西南角附近、第二大隊(第五中隊を欠き機関銃第一小隊を付す)を左第一線としてラク(さんずいに樂)源門付近に対し、攻撃を準備せしめ、第五中隊(第三小隊欠)及機関銃隊(機関銃二小隊欠)を連隊予備として丁字街に位置せしむべく部署せり。両大隊は十一日午前二時頃第一線を概ね城壁西側水流の線に達し、攻撃準備に従事せしが、第二大隊長は午前三時五十分将校斥候の報告に依りラク(さんずいに樂)源門付近に敵兵なきを知りて、第一線に前進を命じ、敵の抵抗を受くることなく午前五時二十分ラク(さんずいに樂)源門付近を占領し、第三大隊は第二大隊のラク(さんずいに樂)源門占領を知りて前進を起し、午前六時二十分頃歴山門を占領せり。
「一番槍」に相当する記述は、「将校斥候の報告に依りラク(さんずいに樂)源門付近に敵兵なきを知りて」、と云う金丸の「か」も、甲冑の「か」の字も無い、ごくあっさりとしたものであった。
すなわち、金丸中尉の一番槍の手柄は、戦史から抹消されてしまったのである。しかし、戦後刊行された「熊本兵団戦史」や「兵旅の賦 昭和編」(北部九州郷土部隊史 史料保存会、S53)には、新聞や写真帖の記事をもとにして、金丸中尉のラク(さんずいに樂)源門単身登攀の事が記載されているのだ。郷土部隊の偉業を残したい、と云う九州人の郷土愛をもってしても、「甲冑将校」と云う、アナクロの極みである存在だけは封印したかったものと見える。
当時の戦史から消えたことよりも、戦後の資料にも収録されなかった事の方が不思議である。
中世以来の鎧武者を打ち破って成立した帝国陸軍の将校が、うち捨てたはずの甲冑を身に纏い、城壁をよじ登ったと云う逸話は、まさに歴史の皮肉である。しかし、帝国陸軍がボディアーマーを実用化して上海事変等で使用していることを思えば、金丸中尉の思いつきは彼の機知を物語るだけで、別段武人にあるまじき卑劣な行為、とは思えないのである…。
郷土に凱旋したはずの金丸中尉は、自分の晴れ姿をどう眺めていたのだろうか…。