6頓戦車いんあくしょん!
兵器発達史におけるインパクトと、模型業界における人気度が、整合をおおいに欠いている事は、云うまでもない。
「航研機」や「クリステイー高速戦車」のように、兵器(あるいは機械)の歴史には必ず登場するものに限って、誰でも作れるキットが無い、と云う困った状況が歴然と存在し、これからも存在し続けるであろう。
ヴィカース6トン戦車も、歴史上は有名でありながら、模型界においては、パチモンの「T−26の原型」と云う不本意な地位に甘んじているものの一つである。
幸か不幸かこの戦車、何故かキットがある。しかし売れ行き好調と云う話は寡聞にして無く、「毎度模型屋で顔をあわせるだけキット」として、全国の模型屋のオヤジ、アンチャン、オバチャンの嘆きを聞くだけの日々を送っているのである。
そもそもこのキットそのものが、原型の6トン戦車の模型と云うよりも、ポーランド軍戦車をリリースしようと思ったら、ついでに出来てしまいました、と云うシロモノに思えてならない。
閑話休題(それはさておき)。今回は模型屋で、家の押入で(ウチのことか!)死蔵されたままになっている、不幸な名戦車にムギ球程度の光を当てよう、と云う企画である。
日本人民として、6トン戦車の活躍と云えば、やはり第二次上海事変における活躍である。しかし、正直なところ、どう活躍したのかはまったく分からない。主筆に出来うる事と云えば、せいぜい残された写真を掲載するだけのことでしかない…。
今回の写真は、すべて「カメラの戦士 濱野嘉夫」(私家版)から持ってきた。
敵の戦車に向け攻撃中の我が海軍陸戦隊 (昭和12年)8月22日・揚柳浦鄭脱路にて
「揚柳浦」は上海の工業地帯の地名、日本系紡績工場などがあった所として有名である。キャプションは「攻撃中」とあるが、画面左のバリケードが道を塞いでいない点や、カメラ位置が戦車の真正面にあるなど、不審な点も存在する。
(キャプション) 分捕った敵のタンクを陣地へ引っぱる陸戦隊 8月22日・揚柳浦鄭脱路にて
一枚目の続きと思われる写真。土嚢をどけるは、戦車は引っ張るわと隊員さんは忙しい。板をのけている兵士は、地下足袋を履いている。
戦車の損傷箇所は、銃身部分と、砲塔後部である。乗員の写真がまったく無いのがかえって不気味である。当時、捕虜の写真の公開は禁止されていた。
後送された戦車。ハチマキ姿の隊員が興味深そうに眺めている。砲左の覘視孔部分にも銃弾による穴が穿たれている。この一発(あるいは複数)が、砲塔内部乗員を殺傷し、車輌の放棄と結びついた可能性は高い。
戦車を曳いてきたワイヤーロープのそばにモーゼル拳銃の弾薬入れが置かれているのに注意。
(キャプション) 8月21日の夜、安田部隊は上海公平路付近で3台のタンクを生捕りにし22日に陸戦隊員によって我が陣地に曳行した。それに乗っての記念撮影。
一枚目の<22日の戦闘>はやはりヤラセか?
上海戦に於いて、中国軍は戦車を用いて攻撃を行ったものの、成功はしなかったようである。キャプションを信用する限り、3台の戦車が捕獲されたことになり、うち一台が「虎」と書かれたものになると云える。
当時の写真には、砲撃?で破壊され、砲塔が無くなった車輌が残されている。
写真で見ると強そうな車輌なのであるが、模型で見るとパッとしない戦車でもある。T−26のようにちゃんとした資料本が出ることを期待したい。でも作らないんだろうなあ…。