いちファンとして

無産政党の躍進を祈念する、文字ばっかりの47万おまけ


 「ファン」「マニア」「おたく」…愛好家をしめす言葉は色々あるが、自分で名乗るなら「ファン」がいい。
 「マニア」は独善的な臭いがあり、「マニア」同志の議論は、「誤りあれば切腹する、なければ君切腹せよ」と殺伐としたものが感じられてイヤだ。「コレクター」と名乗れるほどモノは持っておらず、競合他者の自滅を喜ぶところも因業だ。「おたく」は自分で名乗る言葉ではなく、「愛好家」も同様なのである。

 と云うわけで、こんな本を見つけると嬉しくて、ついサイフの紐が緩む。


無産党ファンの会編
「無産政党早わかり」

 『無産党ファンの会編』である! これを買わずにおられようか。

 「無産党」、今では殆ど目にしない言葉であるが、無産階級のための政党(構成員が無産階級に限られるわけではない)のこと。無産階級とは、これも流行らない言葉になって久しい、プロレタリアのことで、それに対立するのがブルジョアである。
 手許にある「キング」(大日本雄弁会講談社)昭和9年新年号附録「新語新知識付常識辞典」をひもとくと

 【問】 ブルジョア、プロレタリヤ、この二つの言葉の本当の意味を教えて下さい
 【答】 ブルジョアは、フランスで都邑に住む公民を、ブルジョアと呼んだ事から始まります。
(略) 当時の中産階級、商工階級でありましたが、近代産業界の革命的変遷につれ、此等の人々の中から所謂資本家が出たところから、最近ではブルジョアといえば、多く資本家階級又は有産階級を呼ぶようになりました。
 プチ・ブルジョアといえば小市民、ブルジョアとプロレタリヤの間にある中間階級即ち自作農、小商人、棒給生活者、官吏、教員その他を云い、ブルジョアという時は、之等の階級をも含めていう事になっています。
 プロレタリヤ元はラテン語。プロレスというのは子供の意味で、資産のない者は子供を産む外、国家に尽くすべき何ものもないという事から出ました。ローマで政治上の権利のない無産者をプロレタリヤと呼んだのが始まりです。直接肉体の労働を資本家階級に売って、その賃銀で生きて居る社会集団、つまり無産階級です。わが国では、年収千二百円以下の無産階級が、全人口の九三.一パーセントになっているといいます。

※原文にはブルジョア、プチ・ブルジョア、プロレタリヤの語の後に、カッコ書きで原語の綴りが書かれているが、省略した

 このような説明が書かれている。
 資本家=ブル、労働者・小作人=プロ、サラリーマン・公務員=プチ・ブルと云うのが、大衆雑誌「キング」読者に対する答えである。ただし、以下に紹介していく無産政党代表者の文章では、この解説で云う「プチ・ブル」の半分までも無産階級の範疇に含めているようである。
 講談社現代新書に、「『月給百円』サラリーマン」(岩瀬 彰)と云う、たいへん面白い本がある。タイトルの「月給百円」を12ヶ月分すると千二百円となり、「キング」の云う「年収千二百円」と一致を見せているのがわかる。この本では「大正末期から昭和十年代まで、識者の発言にも新聞雑誌の記事にも、ひんぱんに登場する収入の目安がこれだ」ともある。
 岩瀬氏によれば、「月給百円・年収千二百円」は、額面を二千倍した月収二十万・年収二百四十万に相当する。現代の感覚では、低いようにも感じられるが、大学まで進む人が少なく教育費がかからないのと、家賃が安かったので、この金額で問題なかったとされている。

 「一億総中流化」なる言葉があったくらい、日本人の生活レベルが均質化しているため、「無産政党」と云われても、若い読者にはピンと来ないかもしれない。
 これを労働者・農民のための(と自称する)政党と見なせば、「大企業・財界の横暴な支配の打破」が必要とされる、とする日本共産党や、「働く人々や弱い立場に置かれた人々とともにありたい。」社会民主党(社民党)などと同じ、と云う事に気がつくだろう。ただし、帝国日本において、共産党は「国体ヲ変革スルコトヲ目的」「私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的」(治安維持法)とする非合法組織であり、当時の「無産政党」の中には含めないので注意が必要だ。選挙のたびに負けると分かっていても共産党に投票する自分が云うのもおかしな話だが、当時は「過激派」、「テロリスト」の位置付けで、弾圧される存在であった。

 つまり、「無産党ファン」とは、「社民党ファン」(正しくは野党第一党時代の社会党、民社党ファン)であると見てよい。表紙には、刊行当時(昭和5年)の主要無産政党である『社会民衆党』、『日本大衆党』、『労農党』、そして『地方無産党』(特定政党を示すものではない)の名があげられ、代表者の言葉と各党の『主張と党勢』、『無産運動闘士略歴』『同立候補者一覧』が掲載されている。

 表紙を開くと

「無産党ファンの会」趣旨(序に代えて)
既製政党乃至は既製社会の現状に絶望して、無産政党の進出に純真なる希望を託する大衆諸君の、懇親並に研究の機関として「無産党ファンの会」を組織致しました。我等は、無産政党の力強き発展を期望し、未組織大衆の連携に努力を捧げんとするものであります。
  ブルジョア政党に投票するな!
 無産党への散票を集めろ!


 と云う力強い言葉がある。この冊子の刊行は昭和5年2月である。ちょうど第二回目の普通選挙(とは云うものの、有権者は男性のみである)が行われた時にあたる。つまり、これは無産政党のマニフェスト集だったのである。
 各党党首の言葉を見てみる。みな同じ『無産政党』であるが、個性が出ていて面白い。

国民生活の安定を目ざして
社会民衆党 安部 磯雄

 私共の眼前に横たわっている最も大きい問題は、国民の生活不安である。私共はどうあっても此問題を解決すべく最上の努力を捧げねばならぬ。渡邊法相は検事局で三円の弁当を食べて緊縮の範を示されたと云う(大阪朝日)。三円は米八升である。貧しい農家の人々は、家族五人で二十五回に八升の米を食べている。濱口首相は「全国民に訴う」と題して台所の節約を説かれた。粥を啜り沢庵をかじる細民がこれ以上節約しようとすれば、食わずにいるの外はない。
 社会民衆党は、其の全能全力をあげて、この生活問題解決の為に闘って来ているのである。我々は軍備の縮少を主張する。少くとも陸軍を半減して其の費用を国民生活安定の資金に充てよと云うのである。我々は税制の整理を唱える。富者に重く貧者に軽い税制を定めよと云うのである。我々は労働組合法及び小作法の制定を要求する。労働者、農民が自力によって位地を向上せしめ得る道を開けと云うのである。否、我々は更に進んで、農民には低利資金を与え、一般棒給生活者にも団結権を有たしめよと云う。
 当今の大問題である失業問題についても(現在の社会組織の下に其根本解決を図ることは不可能であるけれども)、少なくとも政府並に公共団体が、もっと真剣に之を考え、富者より金を出さしめて応急策を講じなければならぬ−これが我々の主張である。
 要するに私共は、強きを挫いて弱きを助ける侠客の心持を以て政治を行うことを理想としている。高い丘を削って低地を埋めなければ理想的都市は建設出来ない。富者より奪って貧者に与えるのでなければ、真の社会改造は行われない。然し暴力を以て此改造を行うことには少なからぬ無理があるから、私共は、私共の意志を議会に反映させることによって其希望を達したいと考えている。而して、国民の総意を正しく議会に反映さす為めには、出来るだけ選挙権を拡張する外はない。私共は、満二十歳以上のすべての男女に選挙権を与うべきであると切言するものである。


 安部磯雄は、本冊子の『無産運動闘士略歴』によれば、「我国社会主義運動の父として高潔なる人格を尊敬さる」人。
 元早稲田大学教授で、早大野球部部長としてチームの米国遠征、『日本SFの祖』押川春浪とともに、『野球害毒論』への反駁など、野球の普及に功績のあった人としても知られている。
 ブルジョア政治家が「緊縮の範」を示すために食べる弁当一つが、5人家族の25回分の米代になると云う社会的矛盾の指摘、「現在の社会組織の下に其根本的解決を図ることは不可能」としながらも「暴力を以て此改造を行うことは少なからぬ無理がある」とする態度、穏健な姿勢である。文章も平易でわかりやすい。

労農党の本質
大山 郁夫


 労農党は労働者と農民の戦闘的同盟である
(原文傍点)。我々は旧労働農民党以来、終始一貫して、わが国の資本主義発達の現段階に於ける労働者と農民の戦闘的同盟の必然性および重要性を、意識的に力説強調し、我々の全活動をその確立の上に向けて来た。
 労働者農民の戦闘的同盟としてのわが労農党は、無論一朝一夕に樹立されたものではない。昭和三年四月十日に旧労働農民党が田中反動内閣の凶刃に倒れたとき、我々は直ちに新党準備会を結成して戦った。そして、それが再び解散されたとき、我々は更に政治的自由獲得労農同盟を結成して戦って来た。そして今やまた我々は、それを更に一進展せしめて、新たに労農党を結成して戦っているのである。
 我々の陣営の名は数変した。だが我々の陣営の本質は、終始一貫、労働者農民の戦闘的同盟である。


 ああ「左翼だなあ」と思う文である。
 「田中内閣の凶刃」云々は、田中義一内閣時代に行われた弾圧をさす。
 昭和3年3月15日の共産党関係者への一斉弾圧−小林多喜二が『一九二八年三月十五日』として描いた事件−で、同党からも共産党関係者とされた逮捕者多数を出したため、結社禁止となったことを指す。
 これとあわせて田中内閣は治安維持法の改正を勅令(議会の承認による法改正ではなく、天皇の命令として)にて実施した。「日本政党暗躍史」(来間 恭、天人社、昭和6年)の記述を借りれば「思想対策が常軌を逸して乱暴を極め、これがため却って思想を悪化せしめた」との由。


 労働者農民の戦闘的同盟としてのわが労農党の性質は、その綱領、規約、政策、組織方針、および運動方針の上に明瞭に示されている。今それらの諸項目のすべてに亘って、一々詳細なる解説を加える余裕を持たないが、その全体に通ずる根本精神だけは是非開して置きたいと思う。
 わが党の根本精神は、その綱領に極めて簡明に要約されている。それは、第一にわが党が労働者農民無産市民その他被圧迫民衆の日常利益の擁護伸張のために闘うことを言い、第二にわが党が労働組合農民組合の拡大強化のために戦うことを言い、第三にわが党が無産階級戦線の統一の実現を期していることを言い、第四にわが党が全被圧迫民衆の政治的自由獲得のために闘うことを言って全体の結語としているものである。



 右のうち労働組合農民組合の拡大強化に関する項目は、労働者農民の同盟として立つわが党の内部の闘争力充実のための方針を特説したものである。我々の陣営が再三の大打撃の後に不屈にも再建の日を見るに至ったことは、たしかに我が戦闘的労働者農民の闘争力の強大さを物語るものであるが、しかし我々は同時に、我々の陣営が今尚お右の徹底的大打撃の創痕を多分に保有していることを率直に認め、一刻も早くそれから全的に恢復するために努力すべきことの必要を意識している。それ故に我々は、わが党の拡大強化と同時に、それと関連して、労働組合・農民組合を拡大強化することを我党の最も重要なる任務の一つとして、党の綱領に掲げているのである。



 更に我党は、全被圧迫大衆の日常利益の擁護伸張のための闘争と、その政治的自由獲得のための闘争とを綱領として掲げているが、今それらの闘争の意義に就いて一言しよう。
 我々の陣営はこれ迄一切の闘争を、政治的自由獲得闘争に合流集中せしめてきた。吾が労農党の面目は、そこに最もよく発揮されている。現在の金融資本寡頭政治の下に、如何に民衆の実生活の有らゆる方面の自由が一つ一つと蹂躙しつくされているかは、誰もの日常経験に於て切実に感じられていることである。即ち、現在では単に労働者及び農民及び無産市民の日常生活上の諸要求に根ざす諸運動が、強烈なる弾圧下におかれているだけではなく、学術、思想、言論、芸術、演芸等々の上にまで益々たえ難き干渉の手が下される様になってきている。かかる事態の下に於て、自由の要求は、もはや一片の政治理想の表明ではなくなってきている。否現在では、自由を要求することは生活を要求することだ。吾が労農党が一切の闘争を政治的自由獲得闘争に合流集中せしめているのは、決っして偶然ではない。それは金融資本の専制的支配に向って敢然として抗闘する労働者、農民の戦闘的同盟としての吾が党が、当然その眼前に見据えなければならない闘争目標なのである。



 更に吾が労農党は、戦闘的労働者農民の同盟としての諸任務の遂行に際して、そのプロレタリアート的立場を寸毫も隠蔽することなく、赤裸々に標榜している。今日一般大衆を窮迫のどん底に迄おいつめている金融資本の支配に対して、熱火の如き闘争を最後の勝利迄執拗に戦い抜く意志と力とをを持つ者はプロレタリアートをおいてないのだ。大衆の本能は聡明にもそれを知り抜いている。某々党の如きは『勤労階級本意の政治』と言った様な不得要領のカムフラージュをやっているが、吾が党は飽く迄赤裸々にそのプロレタリアート的立場を標榜して立っているのである。


 社会民衆党の数倍の分量でありながら、威勢の良さは伝わるものの、具体的に何を求めているのかまったく伝わってこない文章である。無産階級の生活の前に、まず政治的自由が必要だ、と云う主張をすることで、自分のところが無産運動の本流だと云いたいだけにしか見えない。
 「某々党」とは、社会民衆党のことである。
 大山郁夫は「大正十二年早大事件以来大学擁護学園自由の先鋒となり活躍し、昭和二年労働農民党党首に推され大学を去る」云々と紹介されている。「早大事件」は、この頃大学となった、早稲田大学における軍事教育の導入をめぐる混乱をさす。
金融資本家の走狗濱口内閣
日本大衆党 麻生 久


 民政党内閣は言論を尊重すると言って居る
。乍併(引用者註:しかしながら)民政党内閣は果たして言論を尊重するであろう(か)
 自ら言論は尊重すべきものなりとの自覚により、言論の尊重を説くのであるか、彼等の誠意を吾々は疑わざるを得ない。即ち今日に於て民衆の力が圧倒的に言論を尊重しなければならぬように致したに過ぎないのである。
 故に吾々は今回の総選挙に於ても安達内相の態度が外面女菩薩、内心女夜叉であるか否かを大衆は充分に監視せねばならぬ。
 過去二年有半に亘って政権を握った田中反動内閣の遣り方は、全く無茶苦茶政策であったという一言に盡きる。森恪君−政友会の幹事長の森君は『大将を馬に乗せて対支積極政策をやるんだ』と豪語した。其の対支政策は、不必要なる出兵を敢てし、多額の金を打棄って、国軍は何時返って来たか分からぬように、こそこそ帰って来ざるを得ず、而も巨額の国帑を費し、軍隊を殺して得たものは排日問題という極めて迷惑なる釣銭として返上された。全く我国に取ってはサイナン事件であった。而して更に此の滅茶政策が満洲に迄発展して、トウトウ暗礁に乗上げて御駄仏になった。内政亦然りである。
 

 「民政党」は、「政友会」とならぶ当時の保守政党で、この二党こそが、「既成政党」「ブルジョア政党」である。
 政友会内閣で総理大臣をつとめた田中義一は、陸軍大将の地位を捨て政界入りするにあたり、神戸の富豪乾新兵衛(昭和四年度の推定所得が百十五万円、全国第十一位)から提供された三百万円を持参金に政友会総裁にのし上がった。シベリア出兵時に反革命軍の所持する金塊をネコババした、陸軍の機密費を自分の政治資金に流用した、などカネの噂が絶えなかった人。
 ちなみに「民政党」は、政友本党(政友会から離反した勢力)、憲政会が田中内閣発足時に合併して出来た政党で、『立憲民政党』が正式名称。
 「サイナン事件」は、甲冑将校金丸中尉が活躍したことで「兵器生活」読者も御存知の「済南事件」の事。「済南」と「災難」をかけている。
 「満洲に迄発展」云々は、張作霖爆殺(満洲某重大事件)を指す。事件当初より軍部の関与が疑われ、田中首相自身も当初は厳格な処置を約束していたが、政友会・陸軍の猛反対で腰砕けとなったため、昭和天皇より辞表を出すよう促され辞職した。結果民政党濱口内閣の誕生を見る。


 私が曾て秋田へ行った時に純朴な農民が『政友会の政策は鰊政策だ』と言った。東北地方は雪が多い、荷物を運ぶ為め犬に橇を引かせる、犬もただでは走らないから背中から一本棒を突出して、鼻ッ先三寸位の所ににしんを一匹ぶら下げておく、犬はにしんの臭いをかぎかぎ二里も三里も荷物を運んで行く、着いて了うと、にしんは取り上げられて麦飯の上へ味噌汁をかけて喰わせる。選挙の度毎に地租委譲だ、農村振興だ、肥料の公平なる分配だと、甘そうなにしんを一匹所か何十匹も民衆の前にブラ下げて、投票をさらって行くが、選挙が済めば、影も形も見えず、農民は年毎に貧乏になって来たのである。
 政友会の積極政策とは一体何であったか、対支政策が滅茶であった如く、経済政策は無茶な借金政策で、国民の背中に余計な借金を負わせた以外何物もないのである。産業道路だ鉄道だと役にも立たない積極政策で国民に借金の重荷を負わせて、実の所は政友会の乾分の請負師に金を儲けさせた外何ものもないのである。
 万悪を累ねたる政友会であっただけ、民政党内閣は多少好感を以て迎えられた。濱口さんは謹厳な人、正直な人と称せられて居る、併し乍ら、議会に於ける濱口、犬養両氏の問答を見よ濱口氏が真に正直な人ならばアンナ御座なりの答弁が出来るものでは断じてない。正直も結構、謹厳も結構、民衆の生活に対して本当に正直であってれるならば、吾々は濱口氏の正直を讃美する。併しその正直が少数金融資本閥の利益を擁護するの正直であるならば、此の正直は民衆の怨嗟の的とならざるを得ないであろう。吾々が過ぐる大会に於て濱口内閣不信任を決議したのは何故であるかと言えば、政友会内閣が反動政治の権化であれば、濱口内閣の政策は露骨なる資本主義擁護の政策を実行するものである。金解禁は、財界の安定だという、財界が安定しても民衆の生活を不安定にした事実はどうだ。
 金解禁は結構である。併し金解禁の緊縮政策によって犠牲を強いられたるものは誰か。農村はいよいよ困って来た、米を作る農民は一番米が食えない階級ではないか。全国の農村を観るに、農民が白い御飯を食べるのは、正月か、盆か祭か病人か御産かでさもなければ白い御飯は食べない。此の間も栃木県のある小学校で生徒の顔がみんな黄色くなって了った、先生がビックリして、原因を調べると食べる米がないので、南京かぼちゃ許りで数日過して来たからであった。


 「濱口さん」は、『ライオン宰相』と呼ばれた濱口雄幸のこと。テロに遭いいったんは命は取り留めるものの、病状悪化して死亡する。「濱口、犬養両氏の問答」は、第57議会における政友会総裁犬養毅(田中義一急死により総裁就任)との、ロンドン軍縮会議などを巡る応酬のこと。ここで衆議院解散となり、無産党ファンお待ちかねの総選挙に至るわけである。


 金解禁に依って果して国民生活は安定したであろうか。労働者は賃銀を減らされ首を斬られた、小売商人ぱ悲鳴を挙げて居る、銀行は合併され、大きい銀行はますます大きくなった、小売商人は三菱銀行の大理石の前に行った所で、百円の金でも貸して呉れない、三越や松屋は繁昌し大きい奴はドンドン発展し大資本のデパートが、魔物のように拡って行く其の下に、ペシャンコになった小売商人の苦は一体、たれがそうしたのだ。
 伸びんが為めに縮めというが、一体何時頃になったら緊縮政策に依って打撃を蒙むる所の労働者農民安月給取小売商人を伸ばされるのであるか。濱口氏も井上氏も一向其の時期を明示して居ないが、金融資本家が金解禁によってもうかったうるおいが民衆の方へまわって来るのは五年の後か十年の後か−この苦しい多くの無産者は五年十年果して待ち切れるであろうか?吾々は緊縮に依って濱口内閣が生み出した一億円位の金は金解禁に依ってもうからず、其の犠牲の苦に泣いて居る無産者の救済費に充ててくれるよう、首を長くして待った、所が其の一億円の金は公債値段の釣上げに使われて、僅か半年の間に銀行家は一億五千万円からの利益を挙げたのである。
 吾々が斯くの如く露骨に正直に少数金融資本家の利益を擁する濱口内閣を信任せざる、豈に所以なしとせんやである。


 「金解禁」は歴史教科書で名前を御存知の方が多いはずなので説明はしません。これにより国内経済は低迷した。のちに推進者の井上準之助、金解禁の中、ドル買いで利益をあげた三井の團琢磨は血盟団事件で暗殺されたので、結果ロクなものでなかったこととして名を残す。


 疑獄事件の発生は、金を土台に立って居る資本家、民政党、政友会の存在より必然的に起こるのである。故に根治策は、此の政友会民政党をなくする以外にない。政友民政といかに表面で喧嘩をして居ても、一度利権問題になれば暗の中では恋人の如く握手して居る。松島事件も東京市疑獄事件も之れを証明して居る。
 今日の問題となって居る鉄道疑獄は大分政友会の旗色が悪い。併し問題が進展すると民政党の方にも大分怪我人が出て来たではないか。小川に小橋何とよい対照ではないか。


 「松島事件」は、大阪松島遊郭の移転を巡り、不動産業者から政友会、憲政会、政友本党の政治家に金が渡ったとされる事件。取調が進むにつれ、移転にあたり業者に有利なよう働くとして収賄した話が、そもそも移転の予定など無かっにもかかわらず業者を騙して金を取った詐欺話にスリ替わり、元首相の若槻禮次郎が偽証で告訴される事態にまで至るが、結局ウヤムヤに終わる。
 「東京市疑獄事件」は、築地への魚市場移転の補償をめぐる贈収賄、京成鉄道浅草乗り入れをめぐる贈収賄で、市議の逮捕が相次いだもの(東京市の事業をめぐっては、これ以外に事件が多すぎ、ネタの補足に使えるものではない)。
 ここで云う「鉄道疑獄」は『五私鉄疑獄事件』と云う、北海道鉄道、伊勢電気鉄道、東大阪電気鉄道、奈良電気鉄道、博多港湾鉄道汽船への認可・買収に際する贈収賄事件と、それ以前にあった越後鉄道買収に関する疑獄事件の二つを合わせたもの。前者では田中内閣当時の鉄道大臣小川平吉が逮捕、のち有罪となり政治家生命を断たれ、後者では濱口内閣の現職小橋一太文部大臣が捕まる「よい対照」となる。
 ※疑獄関係についてはウィキペディア日本語版の記事を参照して文章をまとめ、「実録 日本汚職史」(室伏 哲郎、ちくま文庫)を参考に書き直した。


 総選挙は眼前に差迫った、戦は正に白熱化して居る、吾々は廿余名の候補者を挙げて必勝を期して戦って居る。私は再び党の決議に依り足尾に送られた。これは何故であるか?吾党は階級的立場を守ると宣言して居る。吾々の同志吉田賢一君は、過ぐる頃兵庫県第三区の農民運動で下獄し数年の懲役刑を課せられ当選の見込はない、断じてない。併し乍ら一度戦った兵庫の三区を吉田君は棄てない、吾党も棄てない、当選しなければならない。当選したい、けれども無産党の当選は断じて闘取らねばならぬ、安易な当選であってはならぬ。
 吾々は総選挙の嵐を前に吾々の血肉を踊らせ全身の勇を振って、全国同志を動員し闘い勝ってとるが為に全力を傾倒する。


 既製政党は汚職と勢力争いに明け暮れ、不景気で無産階級の生活は楽にならない。無産政党にとっては、勢力伸張のチャンス到来なのであるが、既成大政党はビクともしない。麻生久としても「当選しなければならない、当選したい」と力むのも無理はない。
 麻生久は「親分肌な大まかな豪腹の男であるが、一面、細心緻密な正直者である」と評されている。後、戦前の無産政党のトップにまで登り詰める。

無産党の意義と其の統一
中国無産党 高津 正道

 自分は一般の未組織大衆を聴衆とする演説会で、既成政党と無産政党の区別に就て、いつもこう説いている。
 政友、民政等の既成政党は上から出来、無産政党は下から出来ている。彼等にあっては、勲一等功一級公爵桂太郎、大勲位従一位公爵伊藤博文が創立者即ち製造人であり、我等にあっては、いつ首を馘られるかもしれない棒給生活者、いつ土地を奪われるかもしれない小作人、いつ機械に喰われるかもしれない工場労働者、高利・重税・大資本の圧迫下に苦しむ小商人−これ等無産大衆の生活不安、それが生みの親である。
 第二に、既成政党は代議士一人の選挙運動費が六万円(三土前蔵相談)と云われるのでも解る通り、選挙の時に金を撒く。が、無産政党は、零細な金を出し合って候補者を立てる。党員からは党費を徴集し、演説会では入場料を取る。

 『中国無産党』は、中国地方を活動範囲としている無産政党である。交通、通信が現代ほど発達していない時代なので、まだ地方政党が活動する余地があったのだ。地方政党ゆえに、東京で出版される冊子で自党の宣伝をしたところで益は少ないと見たのか、先の三党とは違った語り口になっている。
 「代議士一人の選挙運動費が六万円」と記されているが、前回昭和三年の総選挙で政友会は、「公認候補者に対する党本部の補助は大体一万円見当」「候補者全部が使った金は(略)平均五万円」(『日本政党暗躍史』)とあるから、個人で4〜5万もの莫大なものである。党からの資金の出所は、企業からの献金(無産大衆を搾取して得られたカネ)と云うことになるが、残りは所属派閥の親玉、候補者個人の支援者、それでも足らなければ自分の財産を切り売りするしか無いわけで、政治活動の結果、井戸と塀しか財産が残らないと云う『井戸塀政治家』なる言葉も存在した。
 無産党の「演説会では入場料を取る」わけだが、不穏とされる文章は伏せ字、多ければ発禁となる時代である。演説会には警官が目付として入り込み、弁士が開口一番「諸君!」と云ったとたん「中止!」と制止することもあったと云う。入場料が払い戻しされたのかについては、何故か記述を見ない。

 第三に、一方は少数財閥の利害を代表する政党であり、他方は生産労働に従事している労働大衆の利害を代表する政党である。
 第四には、彼は次第に細くなって行く政党、我は次第に大きくなって行く政党である。
 このように考えて見ると、既成政党と無産政党は、どの点から云っても根本的に相違している。更に一歩進めて云えば、日本の国民の九割から或は九割五分の大多数の利害を代表するものが無産政党なのである。


 然るに、その無産政党の勢力が、議員数から云っても何から云っても、意外なほど小さいのは、どう云うわけか。勿論種々な理由もあるが、一つには無産政党が一般から理解されていない為めであって、我々はモットモット我等無産党の精神を民衆の間に浸透させて行かなければならぬと思う。宣伝と教育と組織、我等の前には実に大なる問題があることを考えねばならぬ。
 同時に、従来ちらばっている無産党の力を一つの強い力に纏め上げて、有効なる運動を行わねばならぬ。以下、我々所謂「地方無産党」が一つの主たる旗幟として掲げている「戦線統一」の問題に就いて、一言して見ようと思う。
 無産党を論ずる人は、口を開けば、何故無産党はあんなに沢山あるのかと問う。勿論、これは変則な現象であって、早晩もっともっと整理され統一されることは、分かり切ったことであるけれど、少なくとも現在に関しては、全くあまりに多すぎる。
 試に、これを吟味して見ると、(一)社民と(二)社民を左に修正して出来た全国民衆党と(三)日本大衆党と(四)それを左へ修正して出来た東京無産党(及び最近大阪に出来た無産大衆党等)と、(五)旧労働農民党を少しく右に修正して出来た無産政党戦線統一協議会派(労農大衆党、大和統一無産党・千葉労農党・岩手労農党・宮城大衆党・中国無産党)と、(六)同じく旧労働農民党を最近に至て右に修正して出来た労農党と−少なくとも以上六種の政党を数え上げる事が出来る。
 何故こう分かれたかと云えば、指導者中に合同を喜ばぬ人があると云うことも。一つの原因を為すかもしれぬ。又、当局が無産党の力を弱める為に分裂させる政策を取ることも、原因であるかもしれない。然し、無産党の有っている精神はあらゆる物に対する批判である。個人でも団体でも、その進退動作はすべて理論の裏付けをもっていなければ承認しない。−この、理屈の多すぎると云うことからも、分裂が来ているようである。そしてこれは、既成政党の妥協苟合に比べれば、むしろ誇るべきであると思う。
 とは云え、強大なる敵を前にして味方の陣営が四分五裂の状態にあることは、何と云っても甚だしい損失で、一日も早く此状態を清算して戦線を統一することは、無産大衆の要求であり、無産者運動の戦略と戦術の第一命令である。
 自党帝国主義(我党万能主義)で、他党は悉くゼロでありマイナスであると規定する態度は苟も統一を口にする限り、決して正当な態度ではない。此態度を捨てねば合同は出来ない。例えばA党はB党をブルジョア第三政党と規定するが、それでは合同は全然問題ではなくなって来る。或る一日の行動、或る場合の行動に就て云えば、時として其の団体は階級的立場から見てよくないと思う場合があっても、相当の期間其の団体を見て、それが反資本主義的勢力であるならば、其等の勢力とも合同することを考えねばならぬ。仮りにA党としてB党との合同が当面に不可能であるならば、其の他の政党との合同を可能として考えなければならぬ。
 疑獄問題、失業問題、ガス問題、電車問題、或は被告拷問の問題、此種の問題に就て、現在の諸党が独自に運動を起こすのでは、タカのしれたものであるが、若し其等が合同して、一つの纏った力として、中央で運動を起こすならば、その運動は、如何に大なる威力を発揮し得るか測り知ることは出来ないのである。苟も無産階級の利害を念とするものは、誰一人として如上の場合に想到しないものはないであろう。
 選挙協定によって当選者が多く出ることも、勿論大きな問題ではあるが、それよりも、今述べたことが、もっともっと大きい問題である。中国無産党は、他の地方無産党と共に、この意味に於ける全無産党の戦線統一に、たえず努力しているのである。


 無産党と既成政党の違いを述べ、無産政党が強く、大きくなっていくべきものであるとしたところで、そうはなっていない実態を分析している。一つは無産党の存在が認知されていない、そもそも合法的に社会主義を実現しようとする、合法的政党である、各種無産政党と、騒擾を作り出し、一挙に政権を覆そうとする、非合法(当時)な共産党とが混同される状態−それは今も続いている−事、もう一つは無産党同志が足を引っ張り合う状況の存在である(今でもありますね)。「既製政党の妥協苟合に比べれば、むしろ誇るべき」とは負け惜しみが過ぎる。毎回落選議員に投票する有権者の身にもなってもらいたいものだ。
 と云うわけで、最後は無産政党の大同団結の可能性で結んでいる。

 高津正道は「出身広島県の坊主(略)大正九年日本社会主義同盟が組織されるやその発起人、(略)爾来左翼運動の人として前後三回入獄、大正十二年の検挙の際には佐野学、近藤栄蔵と共にロシア亡命、今は地方政党たる中国無産党の顧問として中国地方には抜き難い勢力を持っている」とある。

 「我党万能主義」と云うと、どうしても日本共産党が思い浮かんできて困ってしまう。それはさておき、「他党は悉くゼロでありマイナスである」が行き着くと、1960年代以降の「内ゲバ」のように、民心は離れ当局は喜び革命の日は遠ざかる事態になってしまう。
 「無産党早わかり」と一緒に、こんな本も買ってきた。 


「ダラ幹罪悪史」表紙

 「兵器生活」開設当初に作ったネタで、「この壮絶なセンスが全てを物語る」と、表紙を絶賛した「ダラ幹罪悪史」(北村 巌/滋野 鉄夫、紅玉堂書店)である。広告が載っていた雑誌を川越の古本屋で百円で買ってから、20年にもなるが、まさか現物が古本屋の店頭にあるのを見るとは、我が手に入るとは思ってもいなかった。

 実のところを云うと、「ダラ幹罪悪史」を先に本屋で見つけ、「これは次のネタに使える」と確保、とは云うものの戦前無産政党や、労働組合の知識なんぞ逆さにしても出てこないので、隣りにあった「無産党早わかり」も合わせて買った、と云うのが真相。もう一つ白状してしまうと、さらに隣りには北村巌の「七花八裂の無産政党史」と云う本も並んでいたのだが、値が張って手が出せなかったのである。本稿を書き始めて、これもあると重宝だな、と改めて本屋に出向いたものの、すでに売り切れ、『古本に次は無い』と云う言葉をかみしめている(笑)。かわりに「日本社会運動の現勢」、「日本政党暗躍史」、「特高必携」なんて本を本稿のために買ってしまった。こんな有様なので月一回の更新がギリギリなのである。

 「ダラ幹」と云う言葉も近頃目にしなくなって久しいものだが、「新語新知識」には

 【問】ダラ幹というのは何ですか
 【答】堕落した幹部ということです。モトモト労働運動から出た言葉で、だらけた幹部のことを指したものですが(一説には当時幹部が外国から金
(ダラーのルビ)をとってその一部を私消したことからいう)今はもっと広く用いられています。『あいつはダラ幹だから気をつけろ』などと言えば、『あいつはだらしのない奴で、友達でも仲間でも平気で売るから気をつけろ』と言うことです。

 と書いてある。単純に「ダラけた幹部」と「堕落幹部」ではニュアンスが相当違う。もう一つ、「プロレタリア科学辞典」(山洞書院、昭和6年)を引くと

 ダラ幹(−カン)
 堕落幹部の略。ブルジョアの犬となっている幹部、運動を喰い物にする奴、プロレタリアの裏切者等をいう。


 とある。単なる「行動しない幹部」などではなく、むしろ「梯子をはずす」「背後から切りつける」、より悪い意味が込められているわけだ。
 この「ダラ幹罪悪史」、発行が昭和5年5月と、「無産党早わかり」とほぼ同時期の本だったりする。その中には、『社会民衆党の巻』、『日本大衆党の巻』なんて項目が堂々存在しているが、『労農党』は無い。その意味と意図は?
 ある意味ここからが「ネタ本体」になるが、「ダラ幹罪悪史」の記述すべてを紹介するほど主筆に時間的精神的余裕はない。よって、「これは」と云うところだけを抜き出しておくので、読者諸氏はご諒解召されよ(これ以上文字ばかり読みたくもないでしょ?)。
 この本、労働運動、無産党運動に関する「バクロ本」なので、伏字が多い。多分こう云う言葉があったのだろう、と解読した箇所には、カッコ書きで補足してある(面倒なところはそのままだ)。「×」が足らない箇所があるかも知れぬが、これはまあご愛敬と云うことで。

一、社会民衆党の巻
※「A、年中行事とその本家」「B、金五万円也の野田争議」、「D、野党同盟と百円紙幣の雨」、「階級的良心の規準」は略す
C、青天白日旗の靡くところ
(略)気の早い各国政府の首脳部は、「蒋介石」とは「レーニン」の生まれ替わりではないかと心配しだした。
 が、幸か不幸か、「蒋介石」はやっぱりただの「蒋介石」であった。と言うのは、まさに山東省が北伐軍の掌中に握られようとする僅かな時日に先立って、わが蒋介石は広東、上海、その他の主要都市に於て、実に数千人の戦闘的労働者農民を××
(虐殺)して天晴れ帝国主義列強のお手先ぶりを忠実に果したからである。
 こんなわけで、今日では、蒋介石とは何者であるか、晴天白日旗とはどんな目的と内容をもつものか、従って中国国民党とはどんな連中が、なにをやらかそうとする政党か、と言うことは判りすぎるほど判った。即ち労働者農民の敵である。
 だから夢にも、現在の中国国民党を支持したり賛めたりすること、それはとりもなおさず労農大衆の××
(屠殺?)人並に帝国主義者共に内通する者と見なされてもやむ得ない筈だ。
 それにも拘わらず、この中国国民党を遙々と訪れて、蒋介石の手を握り、また握り返されてホクホクしている者があるとしたらどうだろうか。


 昭和二年四月十五日の社会民衆党定例中央執行委員会は、この労働者農民××(虐殺)の労をねぎらうための特使として、松×駒×と宮×龍×(松岡駒吉と宮崎龍介)の二人を任命した。
 松×駒×は喜んで出掛けた。なぜなら大枚二千五百円の手当を貰ったからである。が、二人の旅を見送った赤×克×(赤松克麿)と鉄道従業員組合執行委員長の松×某とは 以上の喜びかたで赤い舌をべろりと出した。と言うのは、二人とも東京でにぎり×丸(睾丸:キンタマ)のまま、一千五百円づつせしめたからである。が、いくら金儲けにかけては無産党随一の称がある社民党の幹部といえども、上海くんだりまでの旅費を五千円も出す筈がないし、かりに社民の金庫から出されたのなら、赤×や松×某が赤い舌をべろりとやるすき(原文『すき』に傍点)もないわけだ。
 そこで、赤×が腕の冴えを見せた。

 松岡駒吉(ナゼか伏字でない)一行の出発数日以前に、赤×、松×の両人が、人もあろうに現内×大×安×謙×(内務大臣安達謙蔵)と某所でこそこそと打ち合わせをやった。その結果、中国国民党訪問費として一金五千円也が、でるもでたり××(民政?)本部は森脇××の手を通じて渡されたのである。
 これは本当だろうか、資本家地主の××(手先?)たる××党(民政党)がかりにも無産政党の看板を掲げている社会民衆党に、金をやる(傍点)なんて、…
 ここが支配階級のうまい(傍点)ところで、たとえば××会(政友会)のやれる所までは××一点張りで押し通し、その政策がいい結果を生まぬとなると別な面つきの××党(民政党)を表面に立てて、まえの××会は駄目だが××党ならば、と、のさばらすことと同じように××党が余り出しゃばりすぎて国際問題を惹き起してもいけないとばかりに、僚友(表面だけは対立抗争しているかに見える)社民党のダラ幹諸君を使者に立てたのである。

 惜しいことにはこの使者の口上を筆者が聞き落としたため、松×駒×、宮×龍×が、蒋介石にむかって、
 −戦闘的労働者農民並に左翼諸団体をぶったぎった貴下の手腕に万腔の敬意を表します。…と言い、これに答えて蒋が、

 −貴下もはるばる上海まで来られたからには、貴国へのよき土産として、私の労働者農民骨抜き法並に××(共産)主義者絶滅法をお授けしよう。…
 と、ぬかしたであろうことを紹介できないのは残念である。


 この機密は、宮×龍×が、うまうまと松×駒×、赤×克×にせしめられた口惜しさから洩らしたのだ。だからと言って、現全×民×(全国民衆)党執行委員長×崎×介(宮崎龍介)が潔ぺきだと言うことにならぬことは勿論。

 「バクロ本」であるから、格調もへったくれも無い文なのは仕方が無い。読むだけなら「しょーむない本だなあ」と笑ってすませていられるが、書き写すのは面白いと思う自分の性根を振り返ってしまうので、実に不愉快なものだ。だいたい、伏字とそうでない表記をあえて使っているところが悪質でいけない。この部分も含め、悪事を働くところは伏字にし、そうでないところには名前を出すと云うのは、書かれた本人が文句をつけてきた時、伏字をタテに逃れようと云う、ケチ臭い性根が見え見えではないか。おまけに伏字を解明するために、別な本を開いたり閉じたりしなければならない。

 著者の二人は歴史上埋没してしまっている人なので想像するしか無いのだが、今回紹介している部分を書いた北村巌は、労農党に近いところの人と思われる。それは、「社会民衆党」、「日本大衆党」のダラ幹を取り上げているにもかかわらず、労農党については何も書いていないこと、「無産党早わかり」の労農党代表(役職は『中央執行委員長』)大山郁夫の文章にある「戦闘的労働者農民」の語が頻出しているところから読みとれる。
 「資本家地主の手先ダラ幹の正体暴露」の先がどこにあるのかはさておき、無産政党である社会民衆党の幹部が、こともあろうか、敵側政治家(現内務大臣、とあるが、昭和二年当時は野党憲政会−のち民政党−であるから、当時は違う)から海外渡航資金を得ているスキャンダル。安達謙蔵は選挙に際して「この道の神」(『日本政党暗躍史』)と云われた人。

 「晴天白日旗」は、中華民国(現台湾)の国旗。蒋介石は革命の同志であった、共産党支持者を排除して勢力の確立を得たわけだが、後台湾に逃れる原因を作ったとも云える。「レーニンの生まれ変わり」云々は、頭髪のことなのだろう。

 ここの主要登場人物が「無産運動闘士略歴」で、どう評されているかを見てみよう。
 松岡駒吉「日本労働総同盟主事兼会計社会民衆党中央執行委員(略)総同盟発展と共に今日に至る争議に関係すること大小百件 昭和四年第十二回国際労働会議代表(松岡の総同盟と云われる程総同盟最高の権威者にして又辣腕家たる事周知の事実)となる」
 日本労働総同盟は、大正元年「友愛会」と云う労資協調の組合として成立したが、大正八年に「日本労働総同盟友愛会」と改称、労資対立路線に転換、大正十四年第一次分裂、十五年第二次分裂、昭和四年第三次分裂を見ているが、最大の組合連合体である。「辣腕家」と書かれるくらいだから暴露話のネタにはこと欠かないわけである。

 宮崎龍介「諸種の社会委員に奔走特に対支問題に尽痒数度渡支国民革命のため貢献す、(略)社民党結成に努力し中央執行委員国際部長たりしが、昭和四年末清党運動を起し脱党、全国民衆党を創立し其の執行委員となる」
 蒋介石訪問裏話を暴露した張本人。「全国民衆党」は、昭和五年一月十五日設立、同年七月二十日、「全国大衆党」になる。

 赤松克麿「東洋経済新報の記者を経て日本労働総同盟に入り政治部長となる主として総同盟の理論代表としての任務に当たる我国の無産政党運動にして同氏の関係せざるものはなく社民党結成に際して活躍」
 と云う人なのだが、「昭和六年九月満洲事変の発生後、愛国熱の異常な昂揚に刺激せられ、再び勇敢に日本的社会主義の採用、随ってマルクス主義の抛棄を声明」(『特高必携』昭和8年版、緋田 工、新光閣)して、国家社会主義(天皇制の下、上から社会主義の成立を目指すもの)に走ってしまうのである。
二、日本大衆党の巻
 つづいて「日本大衆党」のダラ幹の所行を紹介する。この項のネタの出所は福田狂二が作成した「清党」と題したビラとの由。※「A、七党合同直後」、「B、われらの山宣苦笑せん」、「D、高畠素之呆然たらん」、「E、特種特種に非ず」、「F、ヒーサンとアーサンの待合行回数」、「G、主義主張なんて昔のこと」、「H、ダラ幹掃蕩へ!」は略す。
(ママ) 、蛇の道は蛇に
 昭和三年九月上旬、幸の湖(栃木県中禅寺湖)に古河鉱業会社が発電所を設置せんとするや、麻×久(麻生久)等は反対運動を組織せり、幸の湖とは、明治天皇の命名せられし中禅寺湖の別名也、反対理由の中には発電所を作るとは不敬也との理由も見られたり。然るに九月二十日銀座尾張町丸見屋食堂二階において、麻×久、河×密(河野密)、田×輝×(田所輝明)の三名が余を招じて(余とは福田狂二を指す…筆者)、幸の湖事件を古河鉱業会社に五万円にて売り込み呉れと懇願せり。吾人は事重大事件なれば考慮の上回答すべき事を約したり。然るに、十月二日麻×久は古河鉱業株式会社常務取締役兼足尾鉱業所長、佐々木敏綱に面会しその後二回に亘って佐々木を訪問するに至って同社々員の間に、麻生(伏字ナシ)は古河より買収さるに至ったと噂さされるに至れり。よって、吾人は(吾人とは福田狂二を指す。)知人をして古河の受付を調査せしめたところ、十月二日は午前十時であった事判明したり。古河は麻生(ここも伏字なしです)の最悪の敵にはあらざりしか。
 以上が第二の事実である。(註:第一の事実は、『B、われらの山宣苦笑せん』に記載された、昭和三年に内閣総理大臣田中義一に対し、無産政党の議会協力と引き替えに金一万一千円を受け取ったとするもの)

 福田狂二が一応相談をうけ「吾人は事重大事件なれば考慮の上回答すべき事を約したり。」とは、どんな意味をもつものか、「事重大」とは誰にとっての事重大なのか、真実に労働者農民のためを思うものならば、言下にこの「懇願」をはねつけ(る)べきではなかろうか、
 が、麻×久、河×密、田×輝×の所謂日本大衆党の御歴々が、わざわざ福田狂二に相談を持ちかけたことの理由は、その道にかけては福×狂×がなかなかの凄腕をもっている男だからである。読者諸君のなかに古河とか三井とか三菱とかの大会社の秘書役にお知り合いの人達があれば、それぞれの秘書役の手帖を一度見せてもらえば、麻×久の訪問した日時はしばらくおき、この事件とは別に福×狂×の訪問した日時並びに用件もはっきりするであろう。福×狂×が先輩か麻×久が後輩かも、その手帖が解決を与えよう。蛇の道は蛇に、の言葉がこの間のゆきさつを巧みに抉ぐっているではないか。すなわち、摘発された麻生も麻生(伏字なし)だが摘発した福田(伏字なし)もまたすね(傍点)に一物もつ男である。

 この結果は、まえの田×義×(田中義一)との交渉のようにうまく行かなかったらしい。がこんな種(『ネタ』とルビ)ひとつで、五万円の相場とは驚き入ってしまう。
 しかも、××(天皇)の名をかりて、金儲けの手段にするに至っては、まさに×××××(帝国主義者)と同じ戦術ではないか。これが現日本××(大衆)党々首麻×久のやったことであるとは、

登場人物紹介
 麻生久は、ここでの主役なのだが、「無産運動闘士略歴」の記述はすでに書いたので略す。

 河野密「日本大衆党書記長(略)無産運動の経験は浅いが、大衆党内に於ける有数なる理論的指導者であり、純真なる熱情家である、親愛なる麻生委員長の女房役として活躍して居る」

 田所輝明「早稲田予科特待生中、ストライキ応援で検束され禁錮六ヶ月の刑を受く(略)共産党運動に属して前後三ヶ年入獄、日労党(註:日本労農党の略、日本大衆党の前身。大山郁夫の『労農党』とは別団体)結成後(略)大いに活躍す、現今党内に於ける優秀なる戦略家である」

 福田狂二「日本漁民組合評議会顧問 雑誌『進め』代表者(略)同(明治)四十年兵役に服し軍隊で暴れ上海に亡命後中国革命党に入り活動中日本政府に捕まる、(略)不敬罪軍隊逃亡罪上官抗命罪煽動罪其他新聞紙法違反等体刑通算七ヶ年十一ヶ月罰金科料等無数(略)著書『大衆と共に進め』外数種あるも皆禁止の厄に会う」
 『無産運動闘士略歴』の中で一、二を争う文章が面白い略歴。この略歴は誰が書いているのだろう?
 赤松克麿が国家社会主義に転じたように、福田狂二も右に転向、最後はここまで行き過ぎる(創刊者の所を見よ)。…面白い、と云うモノを調べていくとキリが無い…。

 閑話休題。「幸の湖に古河鉱業会社が発電所云々」は不明。発電所の増設・拡大の計画があったのかもしれない。
 麻生久は、鉱夫総連合会のメンバーとして足尾銅山争議に加わっていた経緯があり、先に紹介した彼の文にも「私は再び党の決議に依り足尾に送られた。」とある。暴露された「五万円にて売り込み」とは、騒がれたくなかったら五万円出せと云っているのに等しく、現代であれば立派な恐喝だ。
 今回のネタにはやたらと万円、千円と出てくるので、気分転換にちょっと整理してみよう。
 本稿のはじめに「月給百円・年収千二百円」は月収二十万・年収二百四十万に相当する、と書いたわけだが、このレートを使って政友会公認候補が一回の選挙に使うお金を計算してみると、百円=二十万円だから一万円=二千万円となる。党から二千万、自腹の五万はなんと一億円である!
 「無産党早わかり」の舞台となるべき昭和五年二月二十日の総選挙には840名の立候補者が出た(『日本政党暗躍史』)。840名全員が「六万円」の資金を使うとも思われないので、前回の選挙で政友会が獲得した議席219と五万円=一億円を掛け合わせてみれば、驚くなかれの1095万円=219億円である!
 時代は先のことだが、零戦(エンジン、武装等は除く)一機は五万七千円(『零戦パーフェクトガイド』学研)と云う価格がある。選挙費用で計算すると、192機も買えてしまう。エンジンの値段がわからないから、機体と同額で見ても百機近い戦闘機が買えるお金(もちろん出所は無産大衆の労働の成果だ)が、非生産的理由で消費されているわけで、政党政治が嫌われるのも無理はない。

 「無産政党の力強き発展を期望」すべき、第二回目の普通選挙の結果は、民政党273、政友会174、国民同志会6、革新党3、政界革新同盟1、中立4(『日本政党暗躍史』)となり、民政党の圧勝で終わった。
 われらが無産政党の結果はどうだったのか?
 悪名高い特高警察に配属される人のために書かれた「特高必携」(昭和8年版 緋田 工、新光閣)によると、

 その成績は自他共に意外としたほどの惨敗振りで、無産政党の間には失望の色が漂った。(略)労農党は十四名を立候補せしめて僅かに一名「大山郁夫(東京第五区)」日本大衆党は二十三名を立候補せしめて僅かに二名「松谷與二郎(東京第六区)浅原健三(福岡第二区)」、社会民衆党は三十四名を立候補せしめて僅かに二名「西尾末廣(大阪第三区)片山哲(神奈川第二区)」を当選せしめたのみであった。

 と、敵側から哀れみをもって記されている。整理すると、
 社会民衆党 2
 日本大衆党 2
 労農党    1
 と云う、解散前の社会民衆党4、日本大衆党2、京都労農大衆党1の7名(解散時の所属、選挙自体では無産政党から8名の当選を見たが、山本宣治が暗殺されたためマイナス1である)から、むしろ減少してしまったのである。
 無産党ファンを落胆と失望に陥れた原因に、中国無産党の高津正道が指摘した、無産政党が統一途上にあることが存在することは疑いがない。結局これらの無産政党は、内部対立のあげく、労農党と日本大衆党改め全国大衆党と一つになり昭和6年「全国労農大衆党」となり、社会民衆党も合同して、昭和7年「社会大衆党」として、念願の無産党一本化を果たすのである。
 「社会大衆党」は既成政党と対立しながら勢力を拡大していくが、その過程で陸軍「統制派」がめざす「高度国防国家」の思想に共鳴していく。その後の無産政党と既製政党の動きについては、ちくま新書「昭和史の決定的瞬間」(坂野 潤治)と云う非常に面白い本があるので、一読をお奨めしておく。

 既成政党の側から見た、無産政党敗北の原因も見ておこう。「日本政党暗躍史」ではこうある。

 (略)それはその道の神といわれる安達内相が選挙の采配を振ったことで、(略)まず全国の警察部長を集めて秘策を授けるといっても、決していわゆる附きの秘策なんかは授けない。寧ろ念入りに取締りの公平を説いて聞かせる。それとはいわないまでで、きき目はこれで充分なのだ。次に選挙運動がはじまる。反対党の有力な候補者は出す、無力な候補者は落とすという方針である。これなら労少なくして得るところは多い。然も落ちた者が喚いても弱者の悲鳴で取り合う者もない。(略)山本(註:『政友会の領袖山本悌二朗』)の落選の如きは安達が予言していたほどで、その地盤を仔細に点検する時は僅かに金力で維持されていたというに過ぎず、ここにおいてはじめて金の取締に一寸手加減を加えたのである。
 安達はまた言論の取締についても努めて寛大の方針をとった。従来の選挙応援演説取締といえば、反対党の口をどこまで塞ぎ得るかが苦心の存するところだった。弁士と臨監の警官との衝突が呼び物となって聴衆の血を沸き立たせ、選挙気分を高揚さしたものだったのに、この衝突が減っては大多数の聴衆にとって頼りないこと夥しい。無論、安達はこの逆効果を予期し、主として無産党に対する新戦術としてこの方針をとったものであろうが、作戦見事図星に当り、如何わしい弁士などは『諸君!』といったなり二の句がづけぬという醜態を暴露した。『諸君!』といえば『中止!』と来ると思っていた、田中内閣の時は正にそうだったのである。かくて安達はくすぐったいような顔をしながら、遠慮なく世間から言論尊重の賛辞を頂戴し、併せて無産論陣を或る程度まで去勢することに成功した。

 「安達内相」は、先にあげた「ダラ幹罪悪史」で、社会民衆党メンバーの、中国国民党訪問費五千円を提供した人物として登場している。無産党を封じるための「むしろ勝手にしゃべらせる」戦術はまったくお見事だ。
 しゃべり慣れない市民活動家が、駅前で絶叫しているのを今も見るが、詰まらぬ辻演説を聞かされるより、「ご通行中の皆さん!」と云った瞬間に、警官に制止されるのを見る方が、見世物としては面白く、心情的に応援したくなるだろう。中身があっても稚拙な演説は聞くに堪えず、立て板に水だが反対党の弁舌は腹の中で反発してしまうものなのである。
 「無産党早わかり」の巻末には、『無産党ファンの歌』が掲載されている。これをご紹介して本稿を終わりにする。
 ※原文で繰り返しになっている箇所は、文字に置き換えてある

 無産党ファンの歌(童謡「證城寺」の譜)

 無、無、無産者  無産者の友よ
 普、普、普選だ  みんな出て来い来い来い
 おいらの相手は  ブルブルブル政党
 負けるな負けるな  資本家に負けるな
 来い来い来い来い来い
 みんな出て来い来い来い

 …これが一番良くなかった、と私は思う。