「隣組防空気球線」で43万5千おまけ
「自己責任」と云う言葉が喧伝されて久しいが、たまたま町中で刃物を振り回す人に出会してエライ目を見たあげく、そんな所にいたアンタが悪い、と云われたらたまったものでない。
だからといって、気にくわないヤツの家に乗り込み火を放つ、電車の中で足が当たったとぶん殴る所行に出るのは、どう贔屓目に見ても文明人のする事ではない。にもかかわらず相手が国家だ民族だと云うと、軽々と一線を越えてしまうのだから人間始末が悪い。
「防空」と云う言葉には、「積極的」「消極的」の区別があった時がある。「積極的防空」とは、相手に爆弾を落とされる前に、先手をうってしまおうと云う物騒なものであり、「消極的防空」は、やってきた爆撃機を撃ち落としたり、爆弾の被害(人的・物的問わず)増大を食い止めようと云うもので、一般に「防空」と云われるのは、当然こちらである。
また「防空」には、「軍防空」「民防空」と云う区分けもある。これは活動の主体によって分けたもので、敵機の侵入を警戒し、迎撃機を飛ばして撃退するのは軍の仕事とし、家屋の改修や、消火・救護活動は民間の仕事と役割分担したものである。民間にやらせた方が競争原理がはたらき安上がりで、きめ細かなサービスが期待できるからではなく(笑)、軍は軍の施設を護るのに手一杯と云う、身も蓋もない理由である。もちろん、国が何もやらないわけではない(警察・消防は『軍』ではない)。
こう云う考え方のもと、日本の都市は焼き払われ、多くの人が亡くなったのである。
道で暴漢に出くわしたり、家に強盗が押し入った際、警察やご近所に助けを求めるのが普通であるが、のっぴきならぬ時は、「自己責任」で相手に挑むこともありうるわけで、護身用品がそれなりに売れている事は、誤った使われ方をされた事例が犯罪としてニュースになることで、それとわかる。
自分に危害を加えるのが敵ならば、暴漢強盗も頭上を脅かす爆撃機も同じであるから、個人が敵機を撃墜しても良いことにはならないだろうか?
と云う発想で?考案されたのが、以下にご紹介する「隣組防空気球線」である。
隣組防空気球線
消耗戦に必要!!
今や決戦体制下に入り航空戦の熾烈なることはロンドン、ベルリン、ローマ、等新聞の報ずる如く悲惨なる現況が我が国土にも立至らんとして居ることは軍首脳部の日夜の報導を以ても明かなり。故に此際軍のみに依存して居る時にあらず。民間も防空に立ち上らなければ相成らぬ。官民共に国土防衛に蹴起せよ。が然し科学戦の今日無手や精神力では飛行機は落せぬ。故に民間に適当にして簡単なる武器を提唱するものなり。費用も差して莫大を要せず官民負担にすればよし。資材も国産にて用を達せり但し統制の今日にては当局の活眼なくんば実現不可能なり。我国土防衛のため是非出現を望む僅か数十円の武器にて数万円の飛行機を補う何んと快ならんやである。
戦法の一 硬骨の相手には軟骨の手を選べ
東京都豊島区西巣鴨二ノ二七三五 電大塚六九三〇
提唱者 日比工業所 日比辰三郎
希望者に説明書を贈呈す
この広告が掲載されたのは「科学朝日」昭和19(1944)年3月号である。この時期、毎日新聞に掲載された記事(2月23日)が東條首相の怒りを買ったことで知られる「竹槍事件」がある。「竹槍では間に合わぬ」と書かれた、当時に横行した精神主義を批判したものとして名高く、東條が後世悪く云われる原因の一つにもなった。この広告の「無手や精神力では飛行機は落せぬ」にも、それに通じるものがある(ただし広告掲載誌の印刷納本日付は2月25日になっており、新聞記事に直接影響されたものかどうかは判断できない)。
同年6月になると米軍は中国国内の基地からB29で九州を爆撃、サイパン島に上陸、7月には占領し日本本土爆撃の拠点とする。まだ本格的な本土空襲前である。
広告の表題だけを見ると、時局に便乗した詐欺広告ではないか、と思われるが、文章を読むと、素人の思いつき「新兵器」のスポンサー募集広告と見せかけた、軍当局への批判とも受け取れる。「此際軍のみに依存している時にあらず」と云うフレーズ、「硬骨の相手には軟骨の手を選べ」と云う言葉も意味深長だ。
軍がアテにならないとして、勝手に対空兵器をこしらえて使うことが許されるか、について考えてみる。古典的国際戦争法規である、「陸戦の法規慣例に関する規則」(ウェヴに何種類か公開されているが、ここでは『戦史研究所』のものを使用した)、第一条で、交戦者の資格が「戰争ノ法規及權利義務ハ、單ニ之ヲ軍ニ適用スルノミナラス、左ノ條件ヲ具備スル民兵及義勇兵團ニモ亦之ヲ適用ス」とした上で、戦争の担い手を
(1)部下ノ爲ニ責任ヲ負フ者其ノ頭ニ在ルコト
(2)遠方ヨリ認識シ得ヘキ固著ノ特殊徽章ヲ有スルコト
(3)公然兵器ヲ携帯スルコト
(4)其ノ動作ニ付戰争ノ法規慣例ヲ遵守スルコト
と定めている。これを読む限り戦争への個人参加は認めていないようだが、第二条では
「占領セラレサル地方ノ人民ニシテ、敵ノ接近スルニ當リ、第一條ニ依リテ編成ヲ爲スノ遑ナク、侵入軍隊ニ抗敵スル爲自ラ兵器ヲ操ル者カ公然兵器ヲ携帯シ、且戰争ノ法規慣例ヲ遵守スルトキハ、之ヲ交戰者ト認ム」
として、自発的な戦争参加への道を開いている。
とは云うものの、国内法で縛られていては意味がない。とりあえず「防空法」(「中野文庫」より)を見ると、そこで定義される防空とは、
第一条 本法ニ於テ防空ト称スルハ戦時又ハ事変ニ際シ航空機ノ来襲ニ因リ生ズベキ危害ヲ防止シ又ハ之ニ因ル被害ヲ軽減スル為陸海軍ノ行フ防衛ニ則応シテ陸海軍以外ノ者ノ行フ灯火管制、消防、防毒、避難及救護並ニ此等ニ関シ必要ナル監視、通信及警報ヲ、防空計画ト称スルハ防空ノ実施及之ニ関シ必要ナル設備又ハ資材ノ整備ニ関スル計画ヲ謂フ
と云うもので「民防空」のみ、当然敵機の邀撃など想定されていない。ところが、「隣組防空気球線」を操作する時は、まさに消防、避難並救護の最中でもあるから、任務の放棄と見なされてもやむを得ない。さらに云えばこの「気球線」で敵機が墜せるなら味方も危ないわけで、そんなものを無闇に打ち上げられても困る。
と云うわけで、「統制の今日にては当局の活眼なくんば実現不可能なり」と云う認識は正しく、この兵器は、軍の容認があって、初めて製造・実戦投入されるべきものであると結論づけられる。戦後60年たってこんな「兵器」が使われた、などと云う話も聞かない以上、当局の眼は見向きもしなかったのだろう。
「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律 抄」(『e−Gov』内、法令データ提供システムより)では「第百七十三条 国民は、この法律の規定により緊急対処保護措置の実施に関し協力を要請されたときは、必要な協力をするよう努めるものとする。」とあり、国民が敵機(敵艦・敵戦車・敵兵でも同じである)に立ち向かうよう要請される可能性が否定されていないようだが、日常生活の中で、個人の生命・財産あるいは尊厳が犯される際、犯罪者に抵抗する権利があるならば、素手では対抗出来ない相手に武器を用いる権利があっても良い。「個の確立」が提唱されている中、いずれこの問題に直面する時が来るものと思う。
話を本題に戻す。
この「兵器」の詳細は不明だが、広告の画から想像するに、気球から下げた線に、敵機をひっかけるもののようである。常時浮かべておくのか、イザと云う時あげるのかはわからない。常時浮かべておくものとしては「阻塞気球」の存在が知られており、打上式障害物は、英国がPAC(パラシュートアンドケーブル:ケーブルの両端にパラシュートを付けたものをロケット弾の弾頭として打上げ、敵機がケーブルに引っかかると取り付けてある爆薬が機体にぶつかる、と云うもの)として実戦配備されているから、思いつきとしては悪くない。もっとも相手が気球の上を行けばそれまでだし、打ち上げたものが当たる保証もないため、今日では忘れられた兵器となっている(本稿で参考にした『歴史群像アーカイブ1 知られざる特殊兵器』では『トンデモ対空兵器』として紹介されている)。
(おまけのおまけ)
「航空の危険を生じさせる行為等の処罰に関する法律」(『e−Gov』内、法令データ提供システムより)には以下の記述がある
第二条 航行中の航空機(そのすべての乗降口が乗機の後に閉ざされた時からこれらの乗降口のうちいずれかが降機のため開かれる時までの間の航空機をいう。以下同じ。)を墜落させ、転覆させ、若しくは覆没させ、又は破壊した者は、無期又は三年以上の懲役に処する。
2 前条の罪を犯し、よつて航行中の航空機を墜落させ、転覆させ、若しくは覆没させ、又は破壊した者についても、前項と同様とする。
3 前二項の罪を犯し、よつて人を死亡させた者は、死刑又は無期若しくは七年以上の懲役に処する。
第五条 第一条、第二条第一項、第三条第一項及び前条の未遂罪は、これを罰する。
興味本位の行動で、犯罪者になるような事はやめましょう。