描いてもらう・描かせていただく

絵描きはちゃんと選ぶべきだと思う36万おまけ


 いわゆる「自虐史観」見直しの過程で、再評価されている「らしい」東條英機については、以前とりあげたことがある。その後、以下に紹介する本を入手するに至ったので、今度は違った視点からネタにしてみる次第である。


「聖戦画帖 戦う東條首相」

 昭和18年4月に刊行された「聖戦画帖 戦う東條首相」と云う本である。著者は小田俊與、発行は当用日記で有名だが、かつては一大出版王国を築いていたことで文学史・大衆文化史に名高い博文館である。定価2円80銭。
 首相兼陸軍大臣の東條サンは、こんなに立派な方です、一億国民こぞって聖戦完遂に邁進しましょうと云うツマラヌ本である。そんな本なので5万冊も刷られている(公称)。

 どれくらい詰まらない本であるかと云えば、東條サンのバックに描かれた大編隊を拡大すると

  日の丸の上に双発機、軍艦旗の上には単発機を描き分けたものの、先導機の方向が違うがゆえに、陸海軍綺麗に分かれて飛行しているなァと見えてしまうくらい、政治的=詰まらぬ本なのだ。この画を描いたのは芸術院会員の有島生馬、白樺派で有名な有島武郎の弟である。弟は小説家の里見ク。有名な人達です。
 主題である人物の背景に航空機の大群を配しているあたりが、航空決戦の掛け声勇ましい世相を反映している。この構図に戦車軍艦が入り込む余地はない。
 目次には、
 監修:陸軍少将 石井 虎雄閣下
 題字:外務大臣情報局総裁 谷 正之閣下
 題字:国務大臣翼賛会副総裁 安藤 紀三郎閣下
 とある。どう云う意図の下で企画されたモノなのか、なんとなく見えてくるものだ。

 この本の末尾に「生きた戦陣訓」と題された、著者小田俊與の文章がある。

 皇国肇って以来、未だ曾てない大難局、元寇の国難にも遙かにました大規模の大国難、文字どおり日本帝国ののるかそるかの超非常時、この時 畏くも大命を拝し、一億の与望を担って、この大戦に陣頭指揮の采配を揮う東條首相の現在の心境に思いをはせる度に、私たち国民は何かしら目頭の熱くなって来るのを覚えます。
 「東條首相は大死を賭して戦っているのだ」
 東條首相の悲壮且凄絶な決意の程が、たとえ新聞の写真などで、ニコニコと笑っていられる姿を見る時にでも、私達はその心の底に漲るものを読みとることが出来るような気がするのです。
 「勝ち抜かないでは、どうして
 御聖旨に奉答出来ようぞ。
 勝ち抜かないでは、どうして靖国の英霊に、遺族に、一線の将兵に、銃後の敢闘をつづける一億国民に申し開きが出来ようぞ。
 子々孫々の幸福と惨苦の岐路を決するものの使命が果し得られようぞ」
 この鴻大な大責任感が、首相の心身を鋼鉄のように強くさせているのだと信じます。

 起床四時半、登庁七時半、それから首相官邸へ、陸軍省へ、一人数役のめまぐるしい活動、七時の夕食後更に十一時迄、政務軍務に精励する、まことに前線将兵に劣らぬ、戦陣訓を自らが垂範する一日一日の連続です。
 毀誉も褒貶も一切を顧慮せぬ鉄の信念に、加えるのこの超人的活動振りに、アゴで指図するルーズベルトやチャーチルが、どうして太刀打ち出来ましょうか。
 私は大東亜戦争に、このような純忠無比、鉄石不動の信念に燃ゆる英傑を首相に、陸相に戴き、陣頭に立てて進軍する昭和一億の国民が、物量の豊富に驕る米英を一蹴し去るの日は、決して夢想ではないことを断じて信じています。でも戦いはこれからです。長期戦を遂行する国民は、これからますます大困難に遭逢します。それをよく克服して、以て祖国の燦然たる歴史を守護し、それを次代国民へ引継ぎすることの、大任務を遂行していくのは、われら昭和一億の国民の絶大な栄誉です。
 その為には、軍、官、民が、一億の火の玉となり、渾然融和して、相共に翼賛の誠を致すことが、何よりも大切の事と存じます。


 「大」ばかりの文章である。7時30分出勤で、23時まで仕事して翌日4時半起床、睡眠時間5時間半は短い。首相陸相兼任は激務だと思うのだが、やがて参謀総長まで兼任してしまうのだから、責任感の強さよりも、他人に仕事を任せられない、あるいは日々バタバタと肉体的に疲労することで、「俺って良く働いているなァ」と思ってしまう人のようだ。


 この本を、東條英機の権勢の強さを物語る実例として紹介する向きもあるが(※1)、昭和18年元旦の朝日新聞では、有名な中野正剛の「戦時宰相論」が掲載され、それが東條首相を暗に誹謗するものとして(※2)発禁騒ぎとなり、中野の自殺の遠因とされている。昭和17年後半では大東亜省設置を巡り外務省との軋轢が発生して東郷茂徳外相更迭(適任者を得られず、谷情報局総裁が外相となった)、戦局は思わしくなくガダルカナル撤退決定(撤収は2月)と、緒戦の威勢の良さが消え、東條内閣に暗雲垂れ込めはじめた時期にあたる。そういう時に、東條礼賛で固めたこの本が出ているのだ。

 「聖戦画帖」と云うだけあって、この本の大部分は画で占められている。全部紹介するわけにもいかないので、面白そうなものを掲載する。、


池部良のお父さんが描きました

 池部釣描く東條首相。息子の書いた「そよ風時にはつむじ風」によって、変わり者の父親として知られている。文展の審査員である。


日本美術界の大物です

 のち日本洋画の重鎮となる小磯良平描く東條首相。この「聖戦の大詔を拝し奉りて」と云う画を載せることで、国民に12月8日の感激を、喚起させようと云う意図が感じられる。サインにある「2602」は昭和17(1942)年を表す。
 以下、東條サンがいかに国民を思いやっているか、と云う画と小文が続くのだが、次にあげる画を見てもらいたい。


東條さんだけ描き直したわけでは無い(と思う)

 「深山の万歳」と題された詩といっしょに掲載されている、西原比呂志氏描く画である。西原氏は、「神州一味噌」パッケージの女の子(み子ちゃんと云う名前だそうな)を描いた人でもある。そう云う目で見れば画面左の炭焼き小屋前のこども達の目もと顔つき良く似ている。そういうほのぼのとしたこども達と、顎下のシワまで描きこんだ東條サン一人のために、画の世界が完全に崩壊してしまっている。

 画を描く側から見れば、内閣総理大臣とはいえ、画の中に入る以上は童画タッチで表現したいところだろう。描き直しを要求されたのか、最初から「総理ハ写実的ニ描クモノトスル」と要請されていたのかは定かではない。西原氏は昭和18年に応召され、フィリピンに派遣されている。首相自身も5月にフィリピンを訪問しているから、悪名高い懲罰人事というよりは、画を描いたごほうびなのかもしれない。(もっとも、西原氏の帰国は敗戦後となった)。


繊細な色遣いの画である

 これは、脇田和氏描く「盟邦の子供」と云う画。

 憎い米英のため、大切なお父さんを印度に抑留されている盟邦ドイツの可憐な子供を、東條首相はねんごろに慰めました。

 と書かれている(わざわざ連れてきたのは誰だ?)。

 脇田氏は、小磯良平らとともに新制作派協会を結成した人で、この人もフィリピンに報道班員として出た経歴を持っている。
 この画も西原氏のものと同様、東條サンと他の人物との描写の違いが著しいものがある。画家の個性と発注者の意図がきわどいバランスを保とうとして極めて危険な状態にある画、と云っておこう。
 盟邦ドイツにあっては、「退廃芸術」と云うことで抽象画など「シロートにはウマイ、と見えない絵」が排斥されたことが知られているわけだが、帝国日本ではそうでも無かった事がうかがえる。
 東條サンのお顔は、仏様のような慈愛に満ちあふれていて、ネタにしている自分が云うのも何であるが、良い。


 西原、脇田両氏の画を見ると、先に指摘したように東條サンと他の人物(含む背景)との違和感が目立つ。この違和感をもう少し卑近な例えを使って表現すれば、特撮による恐竜・メカにセルアニメで描かれた人物を組み合わせたTV番組、『恐竜探検隊ボンフリー』を初めて見た時の違和感と同じもので、日常暮らしている世界と、まったく別な世界を同じ次元で重ねることで起こる。この「ボンフリー効果」は、「萌えキャラと3DCGのメカが同居したイラスト」や、「顔が肌色一色で塗りつぶされたフィギュアを載せた戦闘機のプラモ」など、一部の読者諸氏の身近なところでも見ることができるはずだ(笑)。
 さて、内閣総理大臣と云えば、帝国憲法下にあっては主権者たる天皇の補弼の任を担う、国政の実質的な責任者なのだが、手許にあるこの本で、その職務にあたっている姿が描かれているのは、小磯描くマイク前の姿と、今村俊夫描く「世界にとどろく大獅子吼」と題された帝国議会の議事場を捉えたもの、石井伯亭の「鉄壁たり東條内閣」という内閣発足時の写真を元にした画、内田武夫の「観兵式陪観」(後ろ姿)、田邊至描く「日々是戦争」と云う執務中の姿だけであって、あとは首相就任前の「東條兵団」(内田武夫)、初代航空総監時代の「荒鷲の育て親」(石川寅治)を別とすれば、視察中か歓迎を受けている姿ばかりである。
 その一つ、「春の会話」と題されたページ(画:多々羅義雄、文:美川きよ)の文章をご紹介すると、

 土手の柔い草を踏んで来た黒い乗馬靴が、手籠の前で止りました。
 手籠の主の老婆はびっくりして見上げました。
 「ホウ沢山摘めましたね」「ハイ」
 「それは何ですか、おばあさん」
 「餅草でございますよ」
 「お家で草餅がつくれるとはいいですね、御馳走になりたいものですな」
 オヤ、何処かで聞き覚えのあるお声
 ハテ、何処かで見たことのあるお顔
 と首をかしげてしばらく…
 新聞やラジオでおなじみの、東條首相と気がついた時には、もう颯爽と愛馬に跨って、ポカポカと陽炎の道を進んで行かれました。


 と、どこで戦争をやっているのやら、と云うのどかさが漂い、「オヤ」と「ハテ」の対句が良い味を出している。
 美川きよは、この本の目次カットを描いた鳥海青児の妻でもある。戦中から戦後まで活動した人で、「日本の原爆文学」(ほるぷ出版)に短編が収められている人でもある(こう云う種類の本は読みたくないので未見)。

 総理大臣としての職務も、世情にふれるおしのび(これは銃後の様子を調べる目的でもあった)も、同じ熱意でやってしまうところが東條サンの、庶民から見ればエライとこ、為政者から見れば困ったところで、「東條英機と天皇の時代」(保阪正康、ちくま文庫版)に云わせると「あらゆる事象が同じ次元で視野に入っていた」ことになる。それはそれでかまわないようにも思えるが、「国民は灰色である。指導者は一歩前に出て白といえば白となり、黒といえば黒となるものだ」と日頃洩らしていた(同書)とあるから、そう有り難がってもいられない。

 東條英機を語る時、避けて通れないのは戦争責任者としてどう評価するか、である。前回ネタにした時は知らないのを良いことに何も書かなかったのだが、それから何年もたっているので今回は逃げられそうもない。

 戦時期に限らず総理大臣が、どんな事を考え、どんな仕事を具体的にやっているかなど、社長の仕事も知らないサラリーマンにわかるわけも無いのだが、経営者はもとより、営業部長も総務課長もヒラ社員も会社の業績は気になるものだ(自分の給料の源泉である)。営業部長は来期の営業計画を立てるし、営業統括役員は、中期計画の一つも作らせて社長に報告くらいはするだろう。社長は社長なりに会社の将来像を考えてはいるだろうと云うことは、ペケ社員でもわかる。会社を国家に置き換えれば、社長は経営者、国民は株主(旧憲法下では天皇陛下か? 統治もするから社長でもあるのだな)で、東條サンは帝国日本の行く道を考え、示す必要があったことになる。

 ところが、この人が舵取りを始める前から、日本の行く道は「堅忍自重」か「対外進出南か北か」をウロウロしているばかりで、対米英戦争自体、支那事変の始末に手こずったあげくの自爆(『支那事変』ふくめて『大東亜戦争』である)にすぎない。
 総力戦を戦えるだけの国力を持たせ、時至らばそれを行使すると云う、昭和はじめにあった陸軍の願望から前進していないのである。実現させるための手は既に満洲事変で打ち、あとは実りを待つだけであった。そこに立つと、昭和3年(済南事件、張作霖爆殺の年)を起点とする東京裁判そのものの視点は、米英が裁く必然性があるのは別として、悪くはない(笑)。

 東條英機の歴史的使命は、大日本帝国のケガレを流す人形(ヒトガタ)であると云える。であるからこそ、戦犯となった人が多数存在した中で、東條だけが稀代の悪人として語られ続けているのだ。
 キリスト教では、イエスが人間の一切の罪を背負って十字架にかけられたと説いているが、その後も人は罪を犯し続けている事を否定するものはいないだろう。東條英機はキリストでは無いから、戦前日本の「罪」(※3)の償いは出来ても、無かったことには出来ないし、未来永劫日本が平和国家であることを保証するものでもない。
 「戦う東條首相」に掲載された「生きた戦陣訓」の「戦陣訓」と云えば、「生キテ虜囚ノ辱ヲ受ケズ」のところだけが有名になっているが、東條サンがそれに反して戦犯容疑者として拘束されたことで、敗戦後の国民の怒りを増幅させたことは否めない。米軍に身柄を拘束される際、拳銃での自決に失敗してしまったことは、天の采配があったのではないか、とすら思う。「隣家の医師をたずね、心臓の位置を確かめて、そこで墨で○印をつけた。そしてそれを、風呂にはいるたびに書きかえた」(『東條英機と天皇の時代』)ほど準備万端だったはずなのだが…。
 そこで「こめかみなり、口に銜えて撃てば良かったのだ」と口の悪い人は云うわけだが、「大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書」(東條由布子編、渡部昇一解説、WAC)の解説では、「こめかみを撃てば頭部に多大な損傷がでてしまう。それを写真に撮られでもしたら、後世に恥ずかしい」と考えていたと、東條の弁護人をつとめた人の話が紹介されている。戦地で斃れ、空襲で亡くなられた方が聞いたら大いに落胆しそうな話である。 

※1.「探書遍歴」(櫻本富雄、新評論)では「徹頭徹尾、東條首相を讃美する内容の画帳である」と評し、ここに画をよせた画家達のお追従ぶりを批判している。

※2.中野正剛の「戦時宰相論」について、保阪氏は「読みようによっては東條を激励していると受けとめられる。彼の政治経歴からはそのほうがふさわしい」と中野に同情的である。検閲を通過して新聞に掲載されたわけであるから、検閲官も同様の解釈をしていたのだろう。

※3.それが「罪」なのかについては異論があると思われるが、夫婦親子間の暴力も犯罪になりうるご時世を思えば、自国民、他国民に対する「罪」と云って良い。「自存自衛」の戦争であったとの見解についても「過剰防衛」で罪に問われることもあるわけで、「罪を憎んで人を憎まず」なのであります。

参考:
 「東條英機と天皇の時代」(保阪正康、ちくま文庫)入手しやすい評伝である。東條サンがどのように戦争指導者となり、巣鴨の刑場に消えたのかを追い掛けることが出来る。東條サンには冷たい。

 「大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書」(東條由布子編、渡部昇一解説、WAC)東京裁判での供述書を復刻したもの。『再評価本』の一つ。解説では「当時の日本国の最高責任者であり、誰よりも情報を把握している人が包み隠さず述べたものである」と書かれているが、裁判のために書かれたものである、と云う事実は押さえておくべきだろう。天皇免責がその落としどころであるのは云うまでもない。

 「※1」で述べた通り、櫻本氏の「探書遍歴」で「とりあげられている。なお前半部分は櫻本氏の「空席通信」にある「学生諸君へ」(バッナンバー第22回」)でも読むことができる(直接ジャンプできないので注意)。
 櫻本氏は、戦時中に戦争協力した文化人が、戦後口をつぐんでいる事への異議申し立てをする著作が多数ある。

 西原比呂志氏略歴は(展転社http://tendensha.co.jp/index.htmlより)
http://tendensha.co.jp/daitoa/dai92.html を参照されたい

 脇田和氏略歴は(脇田美術館http://www.wakita-museum.com/index_02.htmlより)
http://www.wakita-museum.com/manila/profile.html を参照

 その他いくつかの事項についても、ネット上のページを参照しているが、記載は省略する


 帝国陸軍がどのようなビジョンを形成していったのかについては「帝国陸軍の<改革と抵抗>」(黒野耐、講談社現代新書)を、昭和期のそれをもう少し掘り下げてみたい人は「二・二六事件とその時代」(筒井清忠、ちくま学芸文庫)もあわせて読むと面白い。「二・二六事件とその時代」では軍だけでなく、官・民についても言及されている。読みやすい本ではないが、「戦前」文化の裏側を考えるのに役立つ

 日本が敗戦への道を回避する手だては無かったのか? と疑問に思う人は「『たら』『れば』で読み直す日本近代史」(黒野耐、講談社)を読むと、東條英機が首相になったところで、ほとんど手遅れなのが理解できる。