「私家版」

市井の先輩に敬意を表して33万おまけ


 「私家版」とは、「わかる人」「親しい人」に向けて作られた本、と云うふうに理解している。「自費出版」・「個人誌」と何が違うのか、と訊ねられると困ってしまうのだが、豪奢な装幀、美麗な挿し絵、本文は象徴詩、古本価格は見てビックリ、というものか、いわゆる「饅頭本」(葬儀の際に配布される、故人の文集)なんていう貧相なイメージしか持ち合わせていない。芸術家の手がけたものは珍重され、名士のものであっても、もらった人は当惑し、庶民のものであれば古本屋も跨ぎかねない。内容よりも物体として存在することが優先されるもの、それが「私家版」と云うものである。

 今回紹介するのは、趣がチト異なる。


「潜水艦の発達」山田順彦著

 ひたむきさと実力が、不幸にして乖離したレタリングの、シロウト臭い装幀である。ページをめくってみると


中身の一例

 色あせたインクで書かれた文字に、エンピツで描かれた図。図の上には ( 月  日) と日付欄がある。どうやら市販の日記帳を使っているようである。それを「本」と呼んでしまっていいのか、私家版なんてタイトルにして大丈夫なのか、と不安になる。しかし現物が総督府にあり、本のカタチをしている以上、これは本である。主筆が古本市に並んだ書籍の中から発見し、4ケタのお金を出して買ってきたのである。

 なぜ、こんな本を買ってしまったのか、理由は以下の序文を読めばご理解いただけるはずである。例によってタテをヨコに、仮名遣いと漢字を直し、誤記は(ママ)としてある。著者は原稿用紙使用のルールを無視しているので、段落での一字サゲだけは修正した。


 今度社会科のレポートで何でもよいから進歩発達したものを書けと云われて、何を書こうかと考えていたら、先生が潜水艦等も交通機関の発達の一つと云えるといわれたので僕は喜んだ。何故かといえば、幸い僕は軍艦が好きで、その方面なら資料もあるからである。予定を立てて書き始めたのが十二月の末、しかし、体の具合を悪くして中絶し、今月中旬から再開した。以来、毎日と言うわけにはいかないが、都合のつく限り頑張った。それにもかかわらず大分おそくなってしまい、時間が足りないので挿図も最初計画した半分にも満たず 又記述も不備な点が多く、残念でならない。これらの欠点を補う別冊を作りたいが、学年末なのでできそうもない。
 このレポートの資料には、十数冊のの(ママ)本から選んだ数冊を直接参考とし、残りのものを間接的に参考とした。又、新聞の切抜きも重要資料として参考にした。次に主なる参考図書をあげて、この序を終る。

 参考図書
 単行本
 潜水艦             福田一郎
 海軍要覧(昭和十九年版) 海軍有終会
 写真英国海軍         海と空社
 米国海軍艦型図輯      深谷甫
 潜水艦見学          清閑寺健
 海軍辞典            山内・内田
 海軍読本            平田晋策

 月刊雑誌
 海と空(多数)          海と空社

 昭和二十二年一月三十一日


 敗戦間もない時期に書かれた、潜水艦の本なのだ! 日本人の誰もが、「もう戦争はこりごりだ」と思っているはずの時期に、軍艦ファンは健在で、しかも学校の宿題で、これ幸いとばかり趣味に走っているのである。これが面白くなくては主筆失格だし、こうして「兵器生活」コンテンツの一つになりつつあるのだから、モトは取った。後は読者諸氏がお楽しみいただければ、冥利と云うものである。

 参考文献が挙げられているところは立派だが、所詮は中等の学生である。これでは参考文献リストとしては使えない。書肆名が記載されていないと、何かと不都合である。手許にある本、無い本さまざまだが、ネットで書名と著者を入れて検索すれば、たちどころに古本屋、図書館のデータが出てくるのだから便利になったものだ。出版社その他の情報を入れてやると、

 潜水艦  福田一郎(河出書房、昭和18年刊、参考には出ていないが、『続潜水艦』もある)
 海軍要覧(昭和十九年版) 海軍有終会
 写真英国海軍 海と空社(昭和17年刊)
 米国海軍艦型図輯 深谷甫(海と空社、昭和17年刊、著者は当時の雑誌に諸外国艦艇記事を連載していた)
 潜水艦見学 清閑寺健(小学館、昭和17年刊、戦後は子供向け偉人伝も書いている人)
 海軍辞典 山内・内田(山内大蔵・内田丈一郎、弘道館、昭和17年刊、これに昭和19年の増補を加えたものが、『今日の話題社』から昭和60年に復刊されている)
 海軍読本 平田晋策(日本評論社、昭和7年刊、著者は『昭和遊撃隊』、『新戦艦高千穂』の著者として有名)

 となる。
 新聞の切り抜きは、


切り抜きの一部

 このような、敗戦直後に出た潜水艦関係の記事である。これは

敗残海軍の末路
佐世保沖で残存潜水艦24隻爆沈

展望鏡に餞けの桜花
(朝日新聞昭和21年4月6日朝刊)

と云う、帝国海軍の潜水艦が、米海軍によって処分されたことを伝える記事で、インディアナポリスを撃沈した伊58、「海底空母」伊402もこの時処分されている。見出しにある「餞けの桜花」は、曳航船乗員が、これら潜水艦の潜望鏡に、たむけとして、桜の花を飾っていたことから来ている。

 切り抜きは全部7枚挟み込まれているが、散逸している可能性が高い。さきにあげた以外の記事は、「のっそりと現れた”海底空母”の正体」(朝日新聞・昭和20年10月16日)、「鯨と見間違う特殊潜航艇」(朝日新聞・昭和20年11月7日)、「ズラリと並ぶ特殊潜航艇」(掲載紙・年月不明)、「海底空母(上)(下)」(毎日新聞・昭和20年11月、掲載日不明)、「潜水艦秘話(下)」(朝日新聞・掲載年月日不明)と云う内容で、朝日と毎日の二紙が確認出来る。

 ここに上げた切り抜き左上に「和歌山」とあるから、彼がこのあたりの住人で、ローカル紙でない新聞が二紙、「海軍要覧」「海軍辞典」まで持っているところを見ると、裕福な家庭に育っていたこともわかるし、「軍艦博士」として学校では知られた存在であったことも、想像に難くない。敗戦によって世間の価値観ガラリと変わり、彼はミリタリー趣味の天国(今ではまったく想像することが出来ないが)と地獄を経験したことになる。これが「潜水艦の発達」と云う、異常な作文を書かせた原動力になったのである。

 学校の宿題で序文まで入れてしまった山田少年であるから、目次もちゃんとある(このあたりは主筆も見習わないとイケナイ)。

第一編 初期の潜水艦の発達
 第一章 日本に於ける潜水艦の始祖
 第二章 外国に於ける潜水艦の発達

第二編 現代潜水艦の基礎となった型式
 第一章 ホーランド型
 第二章 レーキ型
 第三章 ローブーフ型
 第四章 ゲルマニア型
 第五章 ローレンチ型
 第六章 イギリス型


第三編 今次大戦に致(ママ)る迄の各国潜水艦について
 第一章 日本
 第二章 ドイツ
 第三章 アメリカ
 第四章 イギリス


第四編 今次大戦中の特筆すべき発達について
 第一章 小型潜水艦
 第二章 大型潜水艦
 第三章 終りに


附録(総督府註:欠)
※本文の記述に、年度ごとの「帝国海軍潜水艦一覧表」と云う記述があることから、主要潜水艦の一覧表が付いていたものと推測される。

 本文について云えば、先に挙げられている参考図書の記事と図版の引き写しであるから、あえて再録するまでもないし、そもそも主筆は艦船に不得手なのだ。しかし、「第四編」についてだけは、参考図書刊行以降に公表された情報に基づいて書かれており、「第三章 終りに」は、敗戦後日本人の心情を語る貴重な証言であるから、全文掲載する。
第四編 今次大戦中の特筆すべき発達について
 さて、今迄長々と潜水艦の発達について述べて来たが、このレポートの終わりにあたり、現代潜水艦の極致とも云うべき大、小両型の日本潜水艦について知れる所をのべてみよう。ここで、非常に面白いのは、大型、小型共に、それぞれの型の極致に近いものを生み出したのが、科学の最も遅れているといわれている日本である事である。


第一章 小型潜水艦
【特殊潜航艇の始祖】
 特殊潜水艦の始祖は、今更くどくど言う迄もなく、真珠湾攻撃に用いられたものである事は、日本国民誰一人として知らぬものはない。この特殊潜航艇は二人乗り、その構造、要目は厳秘に附せられていたので不明である。しかし、魚雷を二本程搭載していた事が推測されている。


【その後の発達原因】
 昭和十九年、「ア号作戦」に奮起した潜水部隊の一部、十数隻のうち、帰還したのは僅かに一隻であった。この様に艦船の損耗は甚だしく、加うるに戦局我にますます不利で、艦隊は殆ど行動不能となり、ここに人間魚雷とも云うべき回天の出撃が、強く要望される事となったのである。

【回天】
 回天は、特殊潜航艇というよりは、むしろ人間魚雷というべきものであって、一基
(ママ)に一人の人間が搭乗して母艦(イ号潜水艦)から発射され、それからは自分で舵をとって燃料の続く限り敵艦を追い、これに自爆するものであった。これは殆ど百%の命中率を示し、しかも何ら母艦たる潜水艦が危険を蒙らないので、当時全く行き詰まっていた我が潜水艦作戦に一転機を与え、続々改良増産されたのであった。この回天の活躍は終戦時まで続き、僅かに潜水艦隊のみが連合艦隊の面目を保持していたのである。その航続距離が長いと思われているのは、昭和二十年五月二日、イ号四七の発射せる回天が、五十一分三十五秒の長きにわたって米駆逐艦を追跡し、遂にこれを撃沈した事実より判断されている。

【蛟龍】
 米軍の本土上陸に備えて、特殊潜航艇に大改造を加え、単独行動をとれる様にしたものに蛟龍がある。これは五人乗で終戦時に百余隻が建造中であった。


【潜小】
 これ又、本土上陸作戦に備えて作られたもので、排水量三七〇噸、二十六人乗の小型潜水艦であり、終戦時既に十数隻が竣工していた。これは、水中速力十六節を出し、潜航所要時間三十秒、また水中充電装置を備えた高性能艦であった。


 真珠湾攻撃における特殊潜航艇の活躍が、「日本国民誰一人として知らぬものはない」と云う記述は、歴史的である。回天の「何ら母艦たる潜水艦が危険を蒙らない」は、新聞記事にある記述そのままなのだが、今日そのように発言しようものなら、たちどころに否定されてしまうだろう。
第二章 大型潜水艦
 終戦時各国人を唖然とさせたものの一つに、この海底空母がある。これは、アメリカ側に接収され、詳細は公表されていない。

【建造の原因】
 これ迄、潜水艦搭載飛行機をもって米本土を偵察又は、爆撃する事により、神経戦に多少の効果をあげていたが、僅か一機しか搭載してなかったので、艦をうんと大きくして二・三機積めるものを、五・六隻建造し、大規模に米本土を空襲せんとしたのが本型建造の大原因である。この目的にそう様に造られたのが海底空母でこれには二つの型がある。

【イ号四〇〇型】
 この型は四〇〇、四〇一、四〇二の三隻よりなっている。建造所は、佐世保工廠及び川崎造船所で、四〇〇は十九年七月、四〇一は二十年一月、更に四〇二は同年六月に、それぞれ竣工した。この艦の要目は排水量五七〇〇噸、速力(水上)十二節、(水中)三節 航続距離八万粁、武装は、十五糎砲一、二五粍機銃四、発射管八、飛行機三機搭載である。

【イ号一三型】
 この型は一三、一四、一五の三隻で、建造所は前型に同じ。一三は、十九年七月、一四は二十年三月に竣工し、一五は、建造中に終戦になってしまった。要目は、排水量三七〇〇噸、航続力五万粁、武装十三粍機銃三、発射管六、飛行機二機搭載であった。

【両型の特長】
 外見は、司令塔が甲板の円い格納庫の上にあり、格納庫の前から
舳先(註:原文は舟ヘンに首)へ向かってカタパルトがそり上がり、一見巡洋艦とも見える怪物だった。最もその特長とするところは、飛行機は勿論として除けば、水中充電ができる事である。従来潜水艦は二次電池充電の為必ず夜間浮上せねばならなかったが、本艦完成以来、その欠点は消滅したのである。従って日本から米本土までの四往復半の間、一回も浮上する必要がなかったのである。又、構造上の特長は、三重船殻になっている事で、これは大きい図体の耐圧の為にとられた手段である。その他発射管全部を前部に装置した事、優秀なる電探を搭載した事、飛行機は、特別設計の「晴風(ママ)」である事等があげられる。

【本型潜水艦の活躍】
 パナマ襲撃の猛訓練の始まったのが二十年五月であった。実行を八月の満月の夜ときめて準備中であった ところが、戦局はますます不利となり、一時中止のやむなきに致
(ママ)ったのである。そうして、一三、一四の両艦は、海軍新鋭偵察機彩雲を、トラックへ輸送する任務につき、四〇〇型はウルシー攻撃の任務をもって出発したのであった。(一四は、此時喪失)しかし、最初の望みがかなえられて、任務完了次第シンガポールに集結し、計画を実行する予定だった。しかるにその寸前、終戦となったのである。

【本型の末路】
 各艦共に自沈を称えたが、艦長よく中央の命令に従い、本国へ向かった。八月二十四日、大湊東方二百五十浬の地点で米国駆逐艦十数隻に拿捕され、相模湾に回航されたのである。かくして海底空母は、その威力を発揮せずに終り、本艦隊の司令は責任をとって自決した。後、四〇二号は、二十一年四月一日に佐世保沖二十浬の地点で他の潜水艦と共にアメリカ海軍によって撃沈された。今はただ相模湾で一万五千噸の米潜水母艦とならんだ所、殆ど同じ大きさであったというエピソードが残っているのみである。


 帝国海軍の秘密兵器筆頭とも云える、伊400型(と特殊攻撃機『晴嵐』)と、弟分の伊13型の記事である。山田氏は「活躍」と書いているが、冷静に見れば活躍以前である。先生から「活躍の意味を取り違えていませんか?」と指摘される姿が脳裏に浮かぶが、それでも彼は「活躍」と云いきらねばならない。それこそが、今に至る「あれが間に合っていれば」、「日本にもこんなスゴイものがあった」と云う記述を求める心情なのである。一個人の心情が、当時の日本人すべてに共通していた、と云うつもりは無いが、同時多発的に発生してはいたであろう。昭和30年代初めの「戦記ブーム」が訪れる下地はここにある。
 なお、山田氏が参照した新聞記事のうち、「潜水艦秘話(下)」には、「日本潜水艦の隘路は多種多様で急速生産間に合わず」との批判的記述が存在しているのだが、このような視点は「潜水艦の発達」には無い。
 個々の兵器に関する解説は、市販書籍、Webサイトを参照していただくとするが、「大型潜水艦」登場の背景に書かれた、「大規模に米本土を空襲」と云う記述も、敗戦直後の気分が現れているところである。今なら「より効果的に」あたりの差し障りのない表現にするところだ。

 「今次大戦中の特筆すべき発達」とくれば、当然盟邦ドイツ潜水艦についても記述があるべきなのだが、情報が入手出来なかったためか、まったくふれられていない。山田氏が、諸外国での発達に関する記事を読んでいたら「 極致に近いものを生み出したのが、科学の最も遅れているといわれている日本である事である。 」と云う記述は書き換えられるはずなのだが、小型潜水艦の極致、イタリアの「人間魚雷」は無視されて、「今度はイタリア抜きでやろう」と云う、有名なジョークへの道がここでも開かれような気がしてならない。 
 「先生が潜水艦等も交通機関の発達の一つと云えるといわれた」のを良いことに、152頁の大作をわずか二ヶ月弱で書きあげてしまった山田氏であるが、その結びは、「これから潜水艦は、海洋開発など、世界平和のために使われるようになるでせう」などと云う、夢のある、そして先生の喜びそうな言葉ではなかった。
※カッコ内は著者による挿入をあらわしている。本文ママと紛らわしくなってしまったが、山田氏が書き足したところであるから、その意志を尊重した次第である。

第三章 終りに
 以上述べて来た様に、潜水艦は外国に於て創始され、発達したものであるが、我が日本に於て、これを模倣する事のみにとどめず、独自のものを造り出し、それが世界最優秀のものであったという事は注目に値する。日本人は、戦争中は、日本がどの国よりも偉いと教えられて信じ込み、終戦と共に、日本はどの国よりも悪いと云われて、自分達をやたらに卑下している。このままの状態では、日本の再建は不可能である。民族が、その民族自体の誇りを持たないで、何の再建があろうか。日本人にも欠点はある、しかし、努力次第によっては、世界一のものを生み出すだけの力をもっているではないか。他民族を尊敬する事は良いが、その為に自分自身をやたらに卑下する事は、日本を破滅に導く基
(ママ)である。近頃(極端なる)欧米崇拝思想が強く流れ込んで来た。しかし、(その思想に溺れないで)日本人は日本人としての誇りを持て! そして努力せよ! それが道義(心)を再興させ、日本を再建する道だと僕は信ずる。  完

 「模倣」→「独自化」→「世界最優秀」に至った(と信じている)潜水艦を造った日本人が、いつまでも敗戦に打ちひしがれていいのか! と獅子吼するのである(最近の『日本よ元気を出せ』式発言と、同じようなものですね)。山田少年の心が高揚してくる様子がありありと伺えるところである。
 先に、山田氏が新聞記事にあった批判的記述を無視したと書いたが、このような態度は、彼から見れば「卑下」の最たるものに見えるのだろう。戦後の日本軍ダメ論と日本兵器優秀論の分裂は、真摯な反省を卑下と否定するところから出ているように思われるのである。

 山田氏をはじめとする当時の少年達が、見事日本再建をなしとげた事実は揺るがず、その上に自分の生活が存在している事を否定するつもりは毛頭ない。もっとも、その「再建」が望ましいものであったのか、については思うところもあり、その後またもや「日本がどの国よりも偉い」と信じ込んで、現代日本の低迷を生みだしたのも、山田氏の世代なんじゃあないか、とカゲで云ってみたくなるのである…。

 この「レポート」で何点もらえたのか、残念ながら不明である。誤字に朱が入っているから、読んでいることは確かなのだが、いきなりこのようなモノを提出された先生も困惑したことであろう。
 原稿用紙の使い方はまったくなっていないし、誤字もあるから減点は多いのだが、わずかな期間で180字詰用紙150枚以上を書きあげた気力は見習わねばならぬし、昭和20年代初めの軍艦ファンの意識を書き残してある功績は、「大変よくできました」と云って良いのではないだろうか?