ヒットラーユーゲント訪日と26000おまけ
「南蛮」が「西洋」に変わったあたりに根源があるのだろうが、日本人は白人が大好きである。「大好き」が不都合であれば、「気になる」と改めても良い。
「天狗のやうだ」と云われた鼻は「気高い」ものとなり、肌の白さを重宝することは、夏場以外の化粧品の広告でもおなじみである。
昭和13年、日独友好すなわち両国転落の過程として、ヒットラーユーゲントの代表団が日本を訪れる事となった。それと呼応する形で、日本からも「大日本青少年独逸派遣団」が編制され、ドイツに向かっている。
「画報躍進之日本」昭和13年9月号に掲載された、ベルリンに到着した青年団一行の写真である。なかなか立派な服装である。
山中 恒「ボクラ少国民」(角川文庫版)の中に、こんな記述がある。
(註:「大日本青少年団史」の引用部分)
(前略)服装は戦闘帽と団服に巻脚絆にリュックサックをかつぐという、わが国青少年団運動では最も通常で最も活動的なスタイルであった。しかしこの服装でベルリンに入ると、在留邦人達の目には日本を代表した青年団のもつ、外交的な意義からいって貧弱でみじめなもの、日独防共協定をとり行った東亜の盟主日本の代表青年団の名を汚すものとして、ヒトラー・ユーゲントの制服をまねて新しい服装を作ってくれた。
上の写真にある、凛々しい制服は、「日本人として恥ずかしい」と云う在留邦人の援助で作られたものだったのである。
こちらは「写真週報」昭和13年8月31日号に掲載された、富士山登山を敢行するヒットラーユーゲントである。キャプションにいわく
(前略)わが少年団代表60名が先頭をきり、ヒットラー・ユーゲントがこれにつづき、最期が青年団代表200名。シュルツェ団長以下菅笠に着ゴザ、金剛杖の純日本式のいでたち。日本人の二倍もあろう大コンパスで、「ハイル・ハイル」ととなえながら登って行く。
本当に「ハイル・ハイル」と云いながら登ったのか?と云うツッコミはさておき、写真左に写っている腕章を付けた青年のスタイルが、どうやら在留邦人が「恥ずかしい」と思った青年団の通常スタイルのようである。
どっちもどっちである…。
しかし、祖国を愛する日本青少年である読者諸賢には「日本人の二倍もあろう大コンパス」と云う一語に注目せねばならない。
ドイツ人は日本人の二倍も足が長いのか、コリャ!
つまり日本人はドイツ人の半分しか足の長さが無い、胴長短足の劣等民族である、と内閣情報部は内外の同胞に向かって宣言して憚らないわけだ、ふうん。亜細亜の盟主は、欧州の盟主の半分と云うわけなのだな…。
と当時の読者が憤慨したかどうかまでは、私は知らない。
とりあえず、外人に「日本の習俗を知ってもらう」名目で、大部分の日本人が着もしない服装をさせて喜ぶと云う、不思議な慣習がこのころから存在していた事だけは確かである。
あれは、西洋人に和装をさせると滑稽に見える事を知っていて、「やっぱ日本人で良かった」と思わせるミミッチイ謀略であるとしか考えられない…。
とは云え、ヒットラーユーゲント諸君が、帝国婦女子にモテモテだった事は想像に難くないのである。
マトモな彼等の写真も載せておかないと、ネオナチの刺客に襲われないとも限らないので、一枚。「写真週報」昭和13年10月5日号より、
交通規則に対する明瞭な知識を持つことは文明人の誇りであり、殊に、自動車自動自転車の操縦者に取っては義務でなければならない。
文明人、してますか?