身だしなみの善し悪しで23万5千おまけ
「朝日新聞訪欧大飛行」(前間 孝則、講談社、2004)は、大正14(1925)年7月25日から10月27日にかけて行われた、日本人初の訪欧飛行に関する読み物である。
朝日新聞社が主催した航空機による長距離飛行は、昭和12(1937)年4月〜5月の「神風号」のものが今日では知られているが、アルコック&ブラウンによる初の大西洋無着陸横断(1919年)からわずか6年後、リンドバーグのニューヨーク〜パリ間飛行(1927年)に先立つこと2年と云う、日本航空界揺籃期にこのような大飛行が企画・実行され、かつ成功したことが、国内外にどれほどの反響をもたらしたか、と云う視点に立つと、この飛行の凄さがわかる(いうまでもなく『朝日新聞訪欧大飛行』はそう云う主旨で書かれた本であり、これを書いている『兵器生活』主筆は、その影響をモロに受けているわけだ)。
これを読み終えた直後、古本屋で当時の写真を見つけたのである。これはもう、古本の神様が「ネタにせよ」と云っているようなものである。
※以下にある訪欧飛行に関する記述は「朝日新聞訪欧大飛行」の記述を参考にしている(なんで朝日新聞社の刊行じゃあないんだろう?)。
ブレゲー19A2型「初風」(J−KIKU)、「東風」(J−KIRI)
向かって左が「初風」(右の機体の標識が『J−KIRI』と推測できるため)
ブレゲー19A2型機と訪欧飛行士(向かって左から篠原機関士、安辺操縦士、河内操縦士、片桐機関士)
四人の飛行士は、リーダー・「初風」操縦士に安辺 浩(陸軍航空部から航空局)、「東風」操縦士に河内 一彦(朝日新聞)、「初風」機関士に篠原 春一郎(陸軍航空部検査官付)、「東風」機関士に片桐 庄平(陸軍航空部検査官付)である。
飛行士の服装と、胸に勲章が付けられているところから、訪欧飛行後のイベント時に撮影されたものと推測される。本題はこれからである。
篠原機関士を除く三人が、同じ上着と帽子を着用してることは、すぐにお気づきになられると思うが、写真を良く見ると、篠原機関士の帽子も他の三人と同じである。と、云うことは、篠原機関士の上着も、みなとお揃いのものでなければならない(朝日新聞社が用意したのだろう)。
よーく上着のポケットを見れば、どれもフラップとひだ付きになっていることがわかる。
拡大してみると、上着のボタンが胸ポケットの下辺に一つと、まん中の高さのところに一つあるのがわかる。厳密に云うと、安辺操縦士と片桐機関士も上ボタンはほぼ中央だが、河内操縦士と篠原機関士のものは、フラップの下くらいの高さになっている。これは二人の仕立屋が仕事をしたためではないだろうか。
現在の三ボタン仕立て上着の、上二つの位置にボタンが付いているような感じである。
同じ上着なのに四者四様の違いは何なのだろうか?
安辺 浩(訪欧飛行時34歳)
篠原 春一郎(当時35歳)
飛び抜けて異質な篠原機関士と、他を代表して(飛行士の代表でもある)安辺操縦士とを比べてみると、襟の折り方が全く違っているのがわかる。安辺氏らのものが、本来のスタイルなのだろう。篠原氏は、それを変型させて着用している、不良である(笑)。
左が本来のカタチ、右が篠原式変型。色は例の出鱈目である。
改めて四人全体を見渡してみると、篠原氏だけが複雑な表情をしているように見える。安辺氏は、「頑固一徹は並でなく、子息敏典が、物心ついてから、父とはほとんどまともに会話を交わしたことがない」(『朝日新聞訪欧大飛行』)と云うようには見えず、一仕事終えたあと(手も持っている紙は、挨拶の原稿であろう)のホッとした表情が見え、当時24歳の河内一彦操縦士は「いいかげん早く帰りたいなあ…」といいたげで、31歳にはとても見えない片桐庄平機関士は、とにかく良い顔をしております。
片桐氏の上着がシワくちゃなところに「無口で黙々と仕事に向かう」(同書)性格が表れているようである。
航空局募集の陸軍依託操縦士第一期としてパイロット人生をスタートさせた河内氏は別として、安辺氏と片桐氏はフランスへ、篠原氏はイタリアに出張していた時期がある。上着の着こなしの違いが、イタリアとフランスと云う、派遣先に起因するかどうかは断言は出来ないが、何かしらの影響はあったと私は思う。
ちなみにこの年は、後に東京初空襲の指揮をとったドーリットルの操縦するカーチスR3C(映画「紅の豚」で、悪漢カーチス君が乗っていた飛行機のモデルですね)が、シュナイダー・カップ(水上飛行機の極めて有名なレース)で優勝している。
洒落者の篠原機関士ではあるが、上着をよーく見直して見ると、
油シミがぁぁぁ!
彼の表情が複雑なのは、上着にシミを付けてしまったことが、80年後に明らかにされることを予測していたからに違いない!
イベント中にあっても、飛行機の事が気にかかる篠原氏は、やっぱり優秀な機関士であると思う。