「発禁」書籍の一例で19万おまけ
「週刊文春」2004年3月25号が、東京地方裁判所の命により、販売差し止め処分を受けた事は、読者諸氏の記憶に新しいことであるが、出版物が店頭に並ぶ前に差し止められる、と云う異例の事態にマスコミ・個人が、「表現の自由」「出版の自由」を制限する「検閲制度」の復活だとして、異議申し立てをしていることも、ご承知の事と思う。
しかし、マスコミ・出版関係者、右傾化に反対する政治・市民団体にとっては切実な問題であっても、言論活動をしない一般国民にとっては「問題の記事って何が書いてあったの?」と云うレベルでしかない(また、「週刊文春」4月1日号に寄せられた各界からの寄稿文を読む限り、差し止めになった号を買う気にもならない)。
と云うわけで、出版検閲を制度化する動きが、本格的に始まれば、大した騒動もなしに法令・制度は整備され、数十年のちの人々に、われらは小馬鹿にされることであろう(笑)。
「検閲」と、それに伴う「発禁」に対して、なぜに読者となるべき世間が関心を寄せないか? それは対象となるモノが政治とエロ限定されている(ように見えている)からに他ならない。世間が政治に対して無関心である以上、政治に関する言論がいかに圧殺されようと、知ったことではないし、「善良な市民」の仮面を被っている限り、たとえ必要を認めていても、エロを擁護する発言は出来ない。そして世間は声高に何かを主張する団体を嫌うものだ。よって政府が本腰を入れれば、検閲制度は容易に復活・成立するのである。
検閲反対論者は何故かキチンと説明してくれないのだが、検閲制度の成立がヤバイのは、それによって日本が右傾化することではない。制度が確立したあと、検閲担当官諸氏が「仕事を増やす」と云う、本来賞賛されるべき職務態度により、結果一般国民が不利益を見る可能性が高い、と云うことなのである。つまり、検閲する側が対象範囲を次々に拡大し、職務に対する充実感と優越感を見いだすようになってしまい、「役人が威張り、企業と市民はペコペコする」と云う、おなじみの役所批判のタネが新たに撒かれるにもかかわらず、この問題を「問題」として提示する事すら出来なってしまうところが困ったところなのである。
政治的な不利益を無視してみても、モノカキは自由な執筆活動が出来なくなり、出版業者は「発禁」に伴う金銭的(当然罰金が徴収されるであろう)、社会的損失があり、書籍販売店は商品の撤去などの手間がかかり、本来無関係なはずの読者側にあっても、「面白い本が読めない」と云う困った事態を招くのである。出版が規制されれば、テレビもラジオもウェヴも同じように規制されるであろうし、そうあるべきだ、と云う声はまっさきに出版側が上げるはずである。
「検閲問題を大袈裟に考え過ぎている」と云う批判もある。「役人を愚弄するのか」と云う御意見もあろう。「教育上良くない本が無くなれば結構ではないか」と、歓迎する声があっても良いのは確かである。しかし、一度確立した制度が疲弊・腐敗した時、いかに後世の物笑いのタネになるのかの実例を見てからでも遅くはない。
と云うわけで(笑)本題に入る。発禁関係の研究書、読み物は多く、また学校教育でも取り上げられているから、検閲制度や発禁についての説明は書かないが、発禁処分になる理由として「安寧」と「風俗」と云う、二つの理由があった事は覚えておこう。もちろん、それらを乱す、と云うことで禁止出版物になるのである。
出版物の統制に関する記述はネット上にも存在しているのだが、検閲基準がどう云うモノであったのかを、きちんと書いたウェヴサイトは少ないのと、「兵器生活」読者の便宜をはかる意味で、「単行本処分日誌 出版警察概況(昭和7年)」(湖北社の復刻版による)に記載された「検閲基準」を紹介する。本文はタテ書きであるが、ヨコ書きに改め、文字・仮名遣いを一部改めてある。
(A)安寧紊乱出版物の検閲基準
(甲)一般的基準
一般的基準として左記各項は安寧秩序を紊乱するものと認めて居る。
(1)皇室の尊厳を冒涜する事項
(2)君主制を否認する事項
(3)共産主義、無政府主義等の理論乃至戦略、戦術を宣伝し、若は其の運動実行を煽動し、又は此の種の革命団体を支持する事項
(4)法律、裁判所等国家権力作用の階級性を高調し、其他甚しく之を曲説する事項
(5)テロ、直接行動、大衆暴動等を煽動する事項
(6)殖民地の独立運動を煽動する事項
(7)非合法的に議会制度を否認する事項
(8)国軍存立の基礎を動揺せしむる事項
(9)外国の君主、大統領、又は帝国に派遣せられたる外国使節の名誉を毀損し、之が為国交上重大なる支障を来す事項
(10)軍事外交上重大なる支障を来す可き機密事項
(11)犯罪を煽動、若は曲庇し、又は犯罪人、若は刑事被告人を賞恤救護する事項
(12)重大犯人の捜査上甚大なる支障を生じ其の不検挙に依り社会の不安を惹起するが如き事項(特に日本共産党残党員検挙事件に此の例あり)
(13)財界を攪乱し、其の他著しく社会の不安を惹起する事項
(乙)特殊的標準
特殊標準として考慮して居る主要なるものは概ね左の如くである。
(1)出版物の目的
(2)読者の範囲
(3)出版物の発行部数及社会的勢力
(4)発行当時の社会事情
(5)頒布地域
(6)不穏箇所の分量
上記の如く禁止処分に際しては一般的標準と特殊的標準とに鑑みて、当該出版物の安寧秩序に影響する点を慎重考慮して決定するものであるから全く同一内容の記事を掲げながら、甲の出版物は禁止せられたるに拘らず乙の出版物は例えば発行部数極めて僅少であって社会的勢力微弱なる等の特殊的標準に因り不問に付せらるる事例もある。
これが普通のマスコミや政党・市民団体が反発するところの「検閲」基準の半分である。今回の「週刊文春」で問題となった「個人のプライバシー保護」と云う概念は、かつての検閲制度にはまったく無い。この法的根拠である出版法・新聞紙法の趣旨は、反政府的言論の封殺にあったとされているが、昭和7年の時点では、赤色革命を封殺する事を意識していることが、(1)〜(4)、(7)と、(12)の付記を読むことでわかる。
(4)の「国家権力作用の(略)、其他甚しく之を曲説する事項」と云うのは、政府のやり方を批判的に取り上げるとマズイよ、と暗に云っているわけである。
文の最後に「全く同一内容の記事を掲げながら、甲の出版物は禁止せられたるに拘らず乙の出版物は(略)特殊的標準に因り不問に付せらるる事例もある。」と、取り締まる側のサジ加減一つで発禁の可否を決めている、と述べているのも、注目に値する。現代においても当時の検閲制度が悪鬼のように忌み嫌われるのも無理は無い。
※検閲行為そのものが、非公開のまま決定されることも批判の対象になっているのだが、ここではふれない。
(本稿では余談になってしまうのだが、戦場における自軍戦死者の写真が出ない理由は、どうやら「(8)国軍存立の基礎を動揺せしむる事項」として「安寧禁止」措置をとることが出来るようだ)
続いてエロ派が噛みつく「風俗禁止」の部分である。
(B)風俗紊乱出版物検閲標準
(甲)一般的標準
一般的標準として左記各項は風俗を害するものと認めて居る。
(1)猥褻なる事項
(イ)春画淫本
(ロ)性、性欲又は性愛等に関係する記述にして淫猥、羞恥の情を起さしめ社会の風教を害する事項
(ハ)陰部を露出せる写真、絵画、絵葉書の類
(ニ)陰部を露出せざるも醜悪、挑発的に表現せられたる裸体写真、絵画、絵葉書の類
(ホ)男女抱擁、接吻(児童を除く)の写真、絵画、絵葉書の類
(2)乱倫なる事項(但し乱倫なる事項を記述するも措辞平淡にして更に煽情的、若は淫卑、卑猥なる文字の使用なきものは未だ風俗を害するものと認めず)
(3)堕胎の方法等を紹介する事項
(4)残忍なる事項
(5)遊里、魔窟等の紹介にして煽情的に亘り又は好奇心を挑発する事項
(乙)特殊標準
特殊標準として考慮するものは安寧禁止の場合に於けると大同小異である。
書物愛好家の間での「発禁本」とは、風俗禁止の本と同義だったりするのだが(もちろん主筆の偏見だ)、エロ本・官能小説の類が原則として禁止されうるモノであることがわかる。「××をグッと××に×して」と云う表記は、(2)の「但し」以降の標準を逆手に取っているのだな、と読みとることが出来る。
「淫猥、羞恥の情を起さしめ」とあるから、お父さんが持ち帰ったスポーツ新聞(駅売り)のある面を見て「お父さんってフケツ!」と怒る娘を想像する向きもあろうが、内務省警保局がそういうモノを見せられる女性を保護するために、このような文言を定めたかどうかはわからない(笑)。
「男女抱擁」はダメ、となるとたいていの漫画も打撃を蒙ることになるわけだ。
こちらの「特殊標準」とは、俗な表現を使えば「エログロはダメ、ゲージツならOKよ」と云うことになる。取り締まる側の考え一つなのは、「安寧」と変わるものではない。
今紹介したものは、あくまでも昭和7年に刊行された資料での標準であるから、この制度が消滅するまでの変化はわからない。しかし、実際に禁止出版物となったモノを見てみると、「ちょっとヘンじゃないのか?」と思われる事例も存在するのである。
「発禁本」に関するまとまった読み物としては、「別冊太陽 発禁本」シリーズが入手しやすいのだが、そこには出てこない本を「禁止単行本目録」(湖北社)より紹介しよう。
これには、書名、著者、発行所、発行日、禁止日とその理由が記載されている。内部資料を復刻したものであるから、禁止理由の部分は、カタカナありひらがなあり、句読点の付け方もバラバラなのであるが、縦書きを横書きにして、漢字と仮名遣いを直した他は、元の表記を生かしてある。
経済運営の基本的検討
赤坂区溜池町三〇 東方問題研究所発行
三月三十一日発行 五月十九日禁止
本書は戦時下に於ける経済問題を中心に述べたるものなるが文中利潤の制限は生産増強を妨ぐるものにして増産を妨ぐるは実は官吏の利潤制限に依るとなし現今の統制経済の背後にマルクス思想ありとなすは全般に官吏に対し不信の念を生ぜしめ統制経済を誤解せしむるものにして安寧上悪影響あるに因り禁止。
「安寧禁止」の例。「現今の統制経済の背後にマルクス思想ありとなす」部分と「全般に官吏に対し不信の念を生ぜし」むるところが、読者に<官僚批判→政府批判>の意識を植え付け、反政府運動の温床となる危険性が予測されるので「安寧紊乱の虞あるにつき禁止」と云う判定を受けたものである。
戦時中の経済統制が、社会主義国家の計画経済の影響を受けている、と云う話は、現在では定説になりつつあるように見えるのだが…。
検閲の原則1:「マルクス思想」絶対禁止
心の襷かけ
河上則光著
(註:発行所住所は著者住所のため略)河上則光発行
昭和十七年十二月二十日発行 昭和十八年一月二十八日禁止
本書ハ時局ニ処スル覚悟ヲ記述シタルモノナルガ、闇問題、遊郭問題、物資資源問題等ヲ取扱フニ当リ、言辞過激ニ亘リ不穏当ニ付キ禁止。
社会粛正の緊急問題は先づ第一に芸岐、私娼の撲滅を計れ、その反面独身者の為に公娼区域、即ち遊郭を拡大し市営又は区営とし楼主に官吏の古手を当てて搾取を防ぎ、衛生思想と設備を徹底して花柳病を根絶し、一面遊郭通ひの資格者は成年以上四十五才未満の独身者に限定統制し、その年齢に応じて回数券即ち女郎買切符を交番又は隣組長から交付すればよい。」
「酒が伴ふ遊興を奨励しその税に主力を注ぎ、或は闇商売を見越しての税務当局の課税態度と経済警察の方針とが相反する如き感を今日の国民が嘆いて居る事は寒心に堪へざる次第である。」
これも「安寧禁止」の例になるのだろう。「遊郭を拡大し」「年齢に応じて女郎買切符を交付」と云う凄い記述である。交番や隣組組長は他人の性行為の回数まで管理してしまうのだ(笑)。切符の闇市場が乱立するのは必定である。
検閲の原則2:時局便乗本であっても、過激な表現は禁止。
地獄極楽絵本説明入 西院(註:『サイ』とルビ)の河原
(註:発行者個人名のため発行所住所は略)
本絵本ハ、内容荒唐無稽ナルノミナラズ、其ノ絵画、説明表現、色彩ト共ニ全面的ニ陰惨、醜悪、卑俗ニシテ少国民ニ対スル風教上有害ナリト認メタルニ依ル。
「地獄絵」を「内容荒唐無稽」にされるとお寺は困ると思う。「陰惨、醜悪、卑俗」でない地獄絵図、あったら見てみたいものだ(笑)。こちらは「風俗禁止」の例。
検閲の原則3:陰惨、醜悪、卑俗は、教化目的であっても禁止
昭和十七年度カレンダー賀正(四種)
古椀嘉三郎著
大阪市東成区深江西六の七四古椀堂商舗発行
十月五日発行 十月九日禁止
本カレンダーハ日ノ善悪又ハ吉凶ヲ示ス日ヲ掲載セルニ因リ禁止。
カレンダーまで発禁になるとは思わなかった。「日ノ善悪又ハ吉凶ヲ示ス日」とは、「大安」「仏滅」など日めくり、カレンダーに書かれているモノをさすらしい。「安寧」なのか「風俗」なのか判断に苦しむところだが…
検閲の原則4:迷信禁止
高島奥伝 開運術
三月十日付 西田呑象著
静岡県磐田郡三川村山田高島易断所勅神館本部発行
七月二十九日禁止
本書ハ年月日時等ノ如何ヲ問ハズ吉凶禍福運勢等ヲ知ル法ヲ掲ゲタル万年暦ノ一種ナルニ因リ禁止。
これも暦が禁止された例にあたる。高島易断所と云えば、本屋の片隅に必ず平積みされている暦の発行元であるが、民間の暦を禁止する一方で、四方拝、天長節、明治節などの皇室由来の記念日を祝ったり、神社への祈願は奨励されているわけである。これも「安寧」か「風俗」か良くわからない例。強いて云えば「非科学的」。
今すぐ役立つ
幸運姓名の付け方
根本圓通著
東京市本郷区金助町五九 正名閣本部発行
十五年十月二十五日第七版発行 十八年六月十六日禁止
本書ハ姓名ノ付ケ方ヲ説明シタルモノナルガ、十九頁ニ於ケル「畏こき天皇陛下」ト題スル記事ハ、両陛下ノ御称号ヲ姓名学的ニ解釈シ不敬ニ亙ル虞アリ、又、三二・三三頁ニ於ケル「命名上の注意事項」ト題スル記事中ニ於テ 天皇陛下・大正天皇ノ御諱ヲ使用スルコトニ依リ凶運ニ見舞ハレルトシテ例示シ不謹慎極マルモノニ付、安寧禁止。
最後はやはり「皇室の尊厳を冒涜する事項」で締めたい。昭和15年の第七版を、18年に禁止しているところに注意されたい。これは検閲の基準が、時代によって変動している事を意味しており、刊行当時は大丈夫だったモノでも、後日取り締まられる可能性がある事に他ならない。
「両陛下ノ御称号ヲ姓名学的ニ解釈」と云っても、悪口になっているとはとても思えないし、「御諱ヲ使用スルコトニ依リ凶運ニ見舞ハレル」のは名前を付けられた方で、まさか大正天皇は凶運の人であった、と書いているわけでもあるまい(笑)。
「非科学的」であっても、姓名判断は容認されているようである。
昭和15年に出た本を18年になって禁止している、と云うのは、昭和18年に新刊書籍が少なくなったため、昔の本を再度検閲することで、自分達の仕事を維持確保しようとしていたのではないか? と云う「官吏に対し不信の念を生ぜしめ」かねない事象であると云える。
検閲の原則5:皇室冒涜何が何でも絶対禁止
検閲の原則6:制度がある以上、過去の本でも摘発せよ
言論統制、検閲制度に関する論議はさかんであるが、その目的が崇高なものであったとしても、運用にあたるのは、主筆や読者と同じ人間である。制度は社会生活を円滑、あるいは公平にするべく制定施行されるのが本意なのだが、必ずしもそうはなっていない事を、生活者は皆感じている。
ここに紹介した事例は、今となってはナンセンスに思われるものがほとんどなのだが、それを摘発し、処分した官吏達は、納本された書籍を毎日毎日読まされ、それらに対する処置を真面目に(中にはテキトーに)決定していた事を忘れてはいけない。本を「読まされる」ことがどれほどの苦痛であったのかを忘れてしまった人は、学校の教科書や、資格試験の参考書・問題集をいやいや読んでいた時を思い出すことをお勧めする。
誰が決めたのかわからない価値観に従って、本読んでもつまんねーだろ?
と云うのが私の意見である。
(本稿ハ国家ト官吏ニ対スル不信感ヲ醸成セシメ、且ツ皇室ヲ愚弄セルガ如キ表現アルニ付、安寧禁止。)